昨日とは打って変わって薄ら寒い一日だった。午後、傘を差して散歩に出かける。私にとって散歩は生活の一部であり、よほどのことがない限り、天候には左右されない。晴れの日の散歩もあれば、曇りの日の散歩もあれば、雨の日の散歩もある。ただし、雨の日の散歩は喫茶店での滞在時間が長くなる。それでは散歩とは言わないのではないかという人がいるかもしれないが、散歩は運動のために行なっているわけではない(運動ならジムでやっている)。散歩とは気ままな空間の移動であり、独りの時間の捻出である。そしてその効用は気分転換ということである。
栄松堂で以下の本を購入。「ルノアール」で読む。
『NHK知るを楽しむ 私のこだわり人物伝』4・5月号
浅羽通明『昭和三十年代主義』(幻冬社)
高橋克徳ほか『不機嫌な職場』(講談社現代新書)
『HRES』5月号
『私のこだわり人物伝』4・5月号では「カラヤン」と「グールド」という2人の稀代の音楽家が取り上げられていた。「カラヤン」を語るのは天野祐吉、「グールド」を語るのは宮澤淳一。私はカラヤンよりもグールドに圧倒的に関心があるので、迷わず後者から読み始め、そして最後まで読んでしまった。珈琲一杯で最後まで読むことができたのは、宮澤の文章(考察の仕方)が見事だったからである。私は吉田秀和の文章からグールドに接近した人間で、そういう人間はけっこう多いのではないかと思うが、宮澤は吉田の優れたところ(グールドの音楽そのものに深く深く耳を傾けその本質を明晰な文章で表現する)を継承しつつ、そこにフィールドワークを駆使した実証主義的アプローチを導入した。たとえば、グールドのデビュー盤である「ゴールドベルク変奏曲」はスタジオ録音されたものだが、1回のテイクではなく、実に20回ものテイクを行なって、冒頭のアリアはテイク11とテイク3をつなぎ、第一変奏はテイク3、第二変奏はテイク13、第三変奏はテイク3、第4変奏はテイク9・・・といった具合に各部分の最良のテイクを録音技術によって合成してできあがったものである。宮澤は記録として残っているその編集指示書を解析しながら、デビュー盤の1年前にグールドがラジオの生放送で弾いた「ゴールドベルク変奏曲」の録音テープ(グールドの死後に遺品の中から発見された)と聴き比べて、グールドの希求したものが何であったかを明らかにしていこうとする。
「デビュー盤のグールドは、離れたところから演奏を見ている。演奏中にどれほど音楽に同化していても、編集段階ではそれを遠くから見据えている。録音テクノロジーの介在によって、距離(そして時間差)をもって対象を客観視する。各変奏のテイクを入念に選び、編集技術を駆使して、この「減ずる」アプローチで過剰な表現を削ぎ落とし、変奏どうしをつないでいた情緒の脈絡や呼吸に基づく間の取り方や生理的な流れをも寸断し、三十二の中立的なユニットを用意することで全曲を作り直し、新しい流れを生み出しているのです。/グールドは《ゴールドベルク変奏曲》にある種の永遠性を見出し、それを録音テクノロジーで実現しようとしたのかもしれません。」(92頁)
吉田秀和の音楽評論は小林秀雄に比べれば、はるかに実証的であったが、その実証性は楽譜とアウトプットとしての演奏の分析のレベルの話であって、音楽メディアとしてのレコードが製作される工程までは及んでいない。しかし、グールドのようなスタジオ録音を演奏会よりも上位に置くタイプの演奏家に関してはそこまでやる必要があるのである。
夕食は自家製のちらし寿司と天ぷら。遅ればせの私の誕生祝いである。食後、書斎でグレン・グールドのCDをたっぷりと聴いた。
栄松堂で以下の本を購入。「ルノアール」で読む。
『NHK知るを楽しむ 私のこだわり人物伝』4・5月号
浅羽通明『昭和三十年代主義』(幻冬社)
高橋克徳ほか『不機嫌な職場』(講談社現代新書)
『HRES』5月号
『私のこだわり人物伝』4・5月号では「カラヤン」と「グールド」という2人の稀代の音楽家が取り上げられていた。「カラヤン」を語るのは天野祐吉、「グールド」を語るのは宮澤淳一。私はカラヤンよりもグールドに圧倒的に関心があるので、迷わず後者から読み始め、そして最後まで読んでしまった。珈琲一杯で最後まで読むことができたのは、宮澤の文章(考察の仕方)が見事だったからである。私は吉田秀和の文章からグールドに接近した人間で、そういう人間はけっこう多いのではないかと思うが、宮澤は吉田の優れたところ(グールドの音楽そのものに深く深く耳を傾けその本質を明晰な文章で表現する)を継承しつつ、そこにフィールドワークを駆使した実証主義的アプローチを導入した。たとえば、グールドのデビュー盤である「ゴールドベルク変奏曲」はスタジオ録音されたものだが、1回のテイクではなく、実に20回ものテイクを行なって、冒頭のアリアはテイク11とテイク3をつなぎ、第一変奏はテイク3、第二変奏はテイク13、第三変奏はテイク3、第4変奏はテイク9・・・といった具合に各部分の最良のテイクを録音技術によって合成してできあがったものである。宮澤は記録として残っているその編集指示書を解析しながら、デビュー盤の1年前にグールドがラジオの生放送で弾いた「ゴールドベルク変奏曲」の録音テープ(グールドの死後に遺品の中から発見された)と聴き比べて、グールドの希求したものが何であったかを明らかにしていこうとする。
「デビュー盤のグールドは、離れたところから演奏を見ている。演奏中にどれほど音楽に同化していても、編集段階ではそれを遠くから見据えている。録音テクノロジーの介在によって、距離(そして時間差)をもって対象を客観視する。各変奏のテイクを入念に選び、編集技術を駆使して、この「減ずる」アプローチで過剰な表現を削ぎ落とし、変奏どうしをつないでいた情緒の脈絡や呼吸に基づく間の取り方や生理的な流れをも寸断し、三十二の中立的なユニットを用意することで全曲を作り直し、新しい流れを生み出しているのです。/グールドは《ゴールドベルク変奏曲》にある種の永遠性を見出し、それを録音テクノロジーで実現しようとしたのかもしれません。」(92頁)
吉田秀和の音楽評論は小林秀雄に比べれば、はるかに実証的であったが、その実証性は楽譜とアウトプットとしての演奏の分析のレベルの話であって、音楽メディアとしてのレコードが製作される工程までは及んでいない。しかし、グールドのようなスタジオ録音を演奏会よりも上位に置くタイプの演奏家に関してはそこまでやる必要があるのである。
夕食は自家製のちらし寿司と天ぷら。遅ればせの私の誕生祝いである。食後、書斎でグレン・グールドのCDをたっぷりと聴いた。