フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2月26日(水) 曇り

2014-02-27 12:09:43 | Weblog

      8時半、起床。

      先日、卒業生のFさんからメールをいただいた。2010年の卒業生だが、ゼミとか卒論を指導した学生ではなく、大教室での講義を履修していた学生である。私がFさんのことを覚えていたのは、彼女から彼女のお祖母様の句集をいただいたことがあるからである。なぜ句集をいただいたのか、その理由は覚えていないが、『春の風』というタイトルの句集に収められた次の一句は鮮明に覚えている。

          点滴はいのちのしずく花の雨  芙蓉

      病床という小さな空間が豊かな創造的空間に変容する瞬間に立ち会った気がした。病床で詠まれた句としては正岡子規のものがよく知られているが、どのような限定された空間、不自由な身体であっても、そこに俳句的世界を展開することは可能であるということ。最近、私は俳句の実作を始めたわけだが、いつでも、どこでも、その気にさえなれば(ここが肝心なわけだが)、そこに俳句的世界を展開することが可能なのだということを、改めて実感している。そして芙蓉の句を思い出すことがたびたびあったから、Fさんからメールをいただいときは、その偶然の共振作用に驚いたものである。

      Fさんからのメールには、冒頭、こんなことが書かれていた。

      「先生のブログは「ネット上の同窓空間」のような感覚をわれわれ卒業生に与えるらしく、私の周囲の友人はみな時々思い出したように先生のブログをのぞいては、そうか、いま早稲田はこうなっているのか、ふむふむ、じゃあ明日もがんばるか、という感じでやっているようです。」

      「ネット上の同窓空間」、そうか、そういう感覚なのか。そういう需要があるのであれば、もっとキャンパスの風景や早稲田界隈の写真をアップしなくちゃなと思った。

      で、Fさんのメールの本題は、私のブログが大学時代の友人との再会のきっかけになったという報告だった。今年の1月4日の「フィールドノート」に卒業生からいただいた年賀状への返信についてこんなことを書いた。

     「深夜、年賀状の返信を近所のポストに出しに行く。返信の必要な新たな年賀状は今日あたりが最後だろう。「今年(こそ)はお会いしたいものです」と書かれている年賀状には、「では、会いましょう」と具体的な日程の提案を書いて返信することにしている。「いつか」「そのうち」ではまた一年が経ってしまう。(中略)いつかしたいこと、そのうちしたいことは、本当にしたいなら、いますることです。」

     この記事を読んだFさんの大学時代の友人がFさんに「会おう」というメールをくれたことで、先日、二人は久しぶりの再会を果たしたそうだ。その友人はすでに結婚し、少しばかり遠い場所にいて、小さなお子さんもいる。だから会うためには、Fさんが動かなくてはならない。

     「すごくすごく、うれしかったのです。私はとても出不精で体力もなく、長距離移動には勇気とガッツがいるのですが、そのどちらも、あっという間に出ました。」

     Fさんのエネルギーは友人の「会おう」というメールで一挙に高まったのだ。ネット空間でのコミュニケーションは、いまや総量において、リアルな空間でのコミュニケーションを凌駕するものになっている。ネット空間がなかったら、二度と会うことがなかった人と、いや、一度も会うことのなった人とも、私たちはコミュニケーションをとれるようになった。けれど、私たちの感覚では、依然として、リアル空間でのコミュニケーションの方が、ネット空間でのコミュニケーションよりも、上位に位置している。リアル空間でのコミュニケーションが本来のもので、ネット空間でのコミュニケーションはそれを補完するものという感覚がある。いずれそういう感覚を持たない人類が出現してくるかもしれないが、私たちの感覚はまだそこまでは「進化」していない。リアル空間で会うことは大切だ。ネット空間でのコミュニケーションが気軽にできるようになればなるほど、費用(時間とお金とエネルギー)のかかるリアル空間でのコミュニケーションは貴重なものになってくる。

    「会おう」というメールを送ることは、少しばかり勇気がいる。拒絶される可能性があるからだ。「会う」という行為が実現するためには、自分がそう思うだけではだめで、相手にそれを伝え、相手もそう思ってくれなくてはならない。もし相手がそう思ってくれなかったら・・・そういう危惧が「会おう」というメールを送信することをためらわせる。「会いたい」という気持ちを温存したまま、たぶん相手もそう思っていてくれるだろうと検証されない空想的な世界の中に引きこもることを選択する人の方が圧倒的に多いのは、忙しからではなく、相手に同意してもらえず、自己が傷つくことを恐れるからである。そういう意味では、Fさんと友人の再会における一番のポイントは友人がFさんに「会おう」というメールを送ったことである。私のブログはその後押しをしたに過ぎない。内在的な力がなければ、後押しに意味はない。

     「私たちはこれからも、名はなくとも、無力でも、毎日を一生懸命すごしていくと思います。そして時に先生の言葉を思い出して、具体的に計画をたてて、会うと思います。楽しい一日のきっかけをありがとうございました。」

     朝食はとらず、お昼に家を出て、大学へ。今日は論系の会議と、夕方からこの3月で定年退職される同僚の長田先生の送別会がある。

     蒲田駅で買った崎陽軒のシュウマイ弁当を研究室で食べる。味噌汁は研究室に常備しているフリーズドライのもの。

     1時半から5時過ぎまで現代人間論系の教室会議。いつにもまして長い会議だった。ふぅ。

     6時から、高田馬場の「土風炉」で送別会。料理はコースではなく、メニューをみながらそれぞれが食べたいものを注文して、シェアした。年配の男性ばかりだったせいだろうか、ヘルシーな料理が多い中、私はマグロのレアカツを注文した(写真一番下)。

 

     送別会は、最後に長田先生からのご挨拶の言葉があって、9時を少し回った頃にお開きになった。長田先生には教員生活最後の10年近くを現代人間論系の運営のためにご尽力いただきました。本当にありがとうございました。