フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2月26日(金) 晴れ

2016-02-27 10:54:22 | Weblog

明け方、怖い夢を見て目が覚める。

私は男手一つで二人の子供を育てていた。長男に食事を食べさせながら(就学前なのだ)、ふと、自分にはもう一人子供がいたことを思います。すっかり忘れていたのだ。あわてて、雪崩に埋もれた人間を救出するように、本に埋もれていた次男を救出する。次男は生きていたが、栄養失調のようになっていた。『蛍の墓』の節子のようなうつろな表情をしていた。水の入ったコップを口元にもっていくと、ごくごくと飲んだ。早く医者に連れていかなければ・・・。

ここで目が覚めた。背筋が寒かった。喉も少し痛かった。風邪を引いたのかもしれない。

夢は現実のストレートな反映ではなく変型であるとすれば、この夢の意味することは何か。二人の子供は私の仕事あるいは責務の暗喩であろう。本に埋もれていた次男は、私が放置している仕事、課題、責務である。手遅れになる前に着手しなければならないと。思い当たることはいくつかある。

私はもう一度眠りに就いた。

8時半、起床。背筋の寒気や喉の痛みは消えていた。

「朝の静物」(スクエアー)

「朝の静物」(ライン)

トースト、ベーコン&エッグ、サラダ(トマト、ベビーリーフ)。

午後3時ごろ、散歩に出る。

遅い昼食を「そば新」で食べる。

ししゃもと茄子の天ぷらうどん(420円)+生卵(50円)。ここは汁が旨い。マイルドなのだ。駅前にある有名な立ち食いそば屋は汁の味が尖がっていて私は好みではない。ししゃもの天ぷらはこのマイルドな汁とたしかに相性がいい。汁に溶けだした生卵がさらに両者を包み込んで至福の味わい。

大井町のヤマダ電機に行く。

いま、首から下げるタイプのカメラ、つまり散歩や旅行に携帯するカメラは12月に購入したばかりのLUMIX(パナソニック)のDMC-LX100を使っているが、普段、ポケットに入れて持ち歩くタイプのカメラとして使っていたLUMIXのDMC-LF1がシステムエラー(ズーム)を起こしようになり、ほかに破損個所もあり、保証期間を過ぎていることもあるので、新しい小型カメラを買うことにした。

条件は小型軽量であることとレンズがいいことである。店員さんからアドバイスをいただいて、Cybershot(ソニー)のDSC-RX100を購入した。

今日からこの2本柱でいく。

買物を終えて、「pottery」に寄って一服していくことにしする。

線路沿いの土手道の「pottery」の前の桜が満開である。

マダムに「桜が咲きましたね」と言うと、「はい。少し葉桜になり始めてますね」とのこと。そうか、ピークはもう少し前だったのか。前回、「pottery」に来たのは2月5日だったからな。3週間のブランクは大きかった。

ブレンドコーヒーを注文。

しばらく書きものをして過ごす。

 6時ごろ店を出る。日は沈んだが、空はまだ明るさを残している。

大井町駅東口そばの飲み屋街はこれから客たちで混んでくることだろう。

 夕食はチキン(モモ)の照り焼き。

ご飯のお替りをして辛子明太子の茶漬けで〆る。

坂口恭平『現実脱出論』(講談社現代新書、2014)は面白い本である。一口でいえば、シュールレアリズム的日常生活論である。

「現実と呼ばれている世界に、僕はずっと興味が持てず、直視できなかった。/一方、僕の両親は、現実と向かい合い、現実の中で暮らしていると言い張る。そして、僕にも現実を見なさいと促してくる。/避けられない時もあるので、僕だってちらりと垣間見たことはある。しかし、全く面白みを感じることができない。楽しくないのに、どうしてそんな世界にいられるのかと尋ねると二人は決まってこう答えた。/「それが現実だから」/僕にはその意味がわからなかった。そこが居心地の悪い場所なら、自分が気持ち良さを感じることができる場所へ行けばいいだけである。しかし、両親はそれはできないと言った。なぜなら現実は一つしかないからだ、と。/岐路に立たされた時、僕のところにはいつも現実からの招待状が届く。/その招待状を見た両親や周囲の人たちは喜び、一緒に行こうと誘ってくる。/中身を読むと、これから僕がやるべきことが畏(かしこ)まった文章で書かれていた。/しかし、僕にはその意味を理解することができない。両親に質問してみると、実は彼らも完全には分かっているわけではなかった。もしこれが何かのパーティーの招待状だとしたら、怪しすぎてとてもじゃないが参加したくない。一人でぽつんと留守番しているほうがマシだ。/気乗りしないので躊躇していると、「現実を見ろ」と叱咤されるようになってきた。しかし、どんなに目を凝らしてもハリボテのようにしか見えない。次第に僕は、現実とは自由参加に見せかけた強制的な催し物なのではないか、と疑うようになった。」(14-15頁)

われわらの「実生活」や「実人生」というものを「自由参加に見せかけた強制的な催し物」とはよくぞ言ったものである。ここから社会学へはあと一歩であるけれど、坂口はサイエンスではなくアート的方法で脱現実へと向かう。現実の相対化を図り、現実を多元的な現実の一つの現実に過ぎないものとして見直す方向へと向かうのである。春学期の講義「現代人のライフスタイル」の参考文献として指定しようと思う。