フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

7月16日(月) 晴れのち曇り

2007-07-17 02:53:57 | Weblog
  朝、台風一過の青空が広がったが、しだいに曇ってくる。まだ梅雨の最中なのだ。卒業生のTさんのブログで彼女のお父様が亡くなったことを知った。この数ヶ月のTさんのブログには、ときおり、凝縮された祈りのような溜息のような表現が見られ、それが具体的に何に由来するものなのかわからなかったが、そういうことだったのかと、今朝、わかった。Tさんのブログを私は二人の視点で読んだ。第一は、父親を亡くしたTさんの視点。私も去年の5月に父親を亡くしたので、Tさんの心情のある部分は身にしみてよくわかる。第二は、亡くなられたお父様の視点。私の方が年下であろうが、そんなに大きくは違わないはずである(Tさんは社会人1年生で私の娘は大学4年生)。人生の途上で、家族を残して死んでいかねばならなかった人の無念さを思う。ご冥福をお祈りいたします。合掌。
  昼、川越から妹夫婦が来る。夕方までいて、われわれと一緒にお盆の送り火をした。

           

  娘の出演する芝居「カンブリアン・ムーン」のチラシとチケットが刷り上った。いつもの大学の演劇研究会ではなく、儚組(はかなぐみ)という早稲田町に事務所を持つ社会人が中心の劇団の公演に参加するのだ。9月6日(木)~9日(日)に「アイビット目白」で。小劇場としては比較的大きなところを借りたようで、そのためか、チケット販売にノルマ(30枚)があるのだという。わが家全員が観に行くとして4枚。娘の交友関係で20枚近くはいくのではないかと皮算用をしている。そうか、ということで、私が8枚ほど預かる。しかし、2500円はちょっと高いね。ご関心のある方、どうぞ私にご一報を。伊東屋オリジナルのイートンペンシルを2本付けましょう。 

7月15日(日) 雨のち曇り

2007-07-16 02:39:47 | Weblog
  午前中は夜来の強い雨が降りつづいていて、やっぱり合宿は中止にして正解だったと思っていたら、昼頃、雨が止んだ。あらま、これなら決行してもよかったなと思ったが、こういうのは結果論だから大して意味がない。ただ、妻がときどき書斎に顔を出しては、「雨、止んじゃったわね」と嬉しそうに言うのが、ケシカラン。昼食(冷やし中華)を食べ、少しばかり昼寝をしてから、散歩に出る。川崎の丸善へ行って買い物をし、蒲田に戻って、TSUTAYAで竹内まりやのアルバム『DENIM』と、エルマノ・オノミ、アッバス・キアロスタミ、ケン・ローチの共同監督作品『明日へのチケット』(2005年)のDVDをレンタルしてから、シャノアールで内田弘編『三木清 東亜協同体論集』(こぶし文庫)を読む。いま、この瞬間、三木清の東亜協同体論に関する文章を読んでいる人間が、一体全国に何人いるだろ。私一人ということはないとしても、五人はいないんじゃないだろうか。
  夜、「N響アワー」を視聴してから、『明日へのチケット』を観る。なにしろカンヌ映画祭のパルムドール(最高賞)を受賞したことのある3人の巨匠の共同監督作品であるから、見所満載で、満載過ぎるところがもしかしたら欠点ではないかと思えるような作品である。舞台はローマ往きの国際列車。オーストリアへの出張から帰るところの老教授が、食堂車のテーブルで、列車の切符の手配をしてくれた企業の秘書へお礼の手紙を書こうとして、彼女に初恋の少女の面影を見る(オノミ監督のパート)。兵役義務の一つとしてわがままな将軍の未亡人の身の回りの世話をする青年が、昔の自分を知っている同郷の少女と車内で遭遇し、昔の自分を取り戻す(キアロスタミ監督のパート)。スコットランドからサッカーの試合を見に来た3人の青年たちが、アルバニア難民の家族と関わり合いを持ち、自分たちが無賃乗車で警察に引き渡されることを覚悟で、自分たちの切符の1枚を彼らにプレゼントする(ローチ監督のパート)。3つの物語はほぼ独立で、雰囲気も異にするが、同じ列車の乗客であるから、それぞれの登場人物たちは車内ですれ違い、あるいは一期一会のふれあいをもつ。後味のいい作品だが、一つ気になるのは、終点で列車を降りた乗客たちの中に大学教授の姿が見えなかったことだ。あの秘書にもう一度会うためにオーストリアに引き返したのだろうか?

7月14日(土) 雨

2007-07-15 02:05:50 | Weblog
  午前、家を出る前に、関係方面と相談して、明日の合宿の中止を決める。もう少し(たとえば夕方あたりまで)様子を見るという手はあったが、それで台風の状況に変化があるとは思えなかったし、教場試験の合間を縫って合宿での発表に向けて最後の準備をしているであろう学生のことを考えたら、早い時点で中止を決めた方がよいと判断したのである。キャンセルしても宿泊費、食費、交通費(貸し切りバス)は請求されないことを確認した上で、中止を決め、幹事のH君を通じて学生に連絡をしてもらう。セミナーハウスの管理人さんには私からお詫びの電話を入れておいた。
  所沢キャンパスで開かれている早稲田社会学会大会へ。自宅からぴったり2時間かかった。理事会が終わってから、シンポジウムに出席。テーマは「時間と空間の中の家族」。報告者は根ヶ山光一(早稲田大学)、嶋崎尚子(早稲田大学)、山田昌弘(東京学芸大学)の三氏。それぞれの報告が終わり、討論者の藤村正之氏(上智大学)がコメントおよび三氏への質問を行なった。根ヶ山先生、嶋崎先生が質問に答え、次は山田先生が答える番になった。ここで「事件」は起こった。山田先生は目の前のハンドマイクを手に取り、開口一番、こう言ったのである。

  「もしもし」

  会場全体が「はっ?」「えっ?」という雰囲気に包まれた。本人もびっくりしたようで、ややあって、「なんで『もしもし』なんて言ってしまったんだろう・・・」と言ったから、一堂爆笑。どうも山田先生、少々お疲れなのか、一瞬、ぼんやりされていたようで、「あなた、藤村先生からお電話ですよ」という奥様の声が聞こえたのかもしれない、それで受話器ならぬハンドマイクを取り上げて「もしもし」と言ってしまったようなのである。弘法も筆の誤りならぬ、昌弘もマイクの誤りである。母さん、これが今日の所沢での出来事です(「北の国から」の純君の口調で)。

7月13日(金) 小雨 

2007-07-14 23:38:48 | Weblog
  午前、自宅を出る前に、玄関前で迎火を焚き、母、私、妻、娘の4人(息子は朝から大学へ出かけた)で先祖の霊を出迎える。わが家はこの種の行事はきちんとやる方で、道行く人が珍しいものを見るような目でわれわれを見ていた。(午後、私が出かけた後に、菩提寺の住職が来て、お経を上げてくれたのだが、奥さんとお子さん同伴だったという。今日一日で何軒もの檀家を回るのだが、場所によっては無人の自動車を路上に放置しておけないところがあって、同伴者が必要なのである。満1歳2ヶ月のお子さんは、住職=お父さんがお経を上げている側で「マーマ!」と連呼していたそうだ)。
  昼食は「五郎八」で。揚げ餅そばを注文して、しばらくしてから手元にあった品書きを見たら、「本日は限定メニューでお願いいたします」とあって(何かの事情であってあれこれのメニューに対応できないことがときどきあるのだ)、そこには私が注文した揚げ餅そばは入っていなかった。い、いかん。私はメニューにないものを注文してしまったのだ。そして、本来であれば、「お客さん、申し訳ありませんが・・・」となるところを、私が常連客であるからだろう、その注文に応じてくれてしまったのだ。素直に指示に従っている他の客からすれば、愉快なことではないであろう。ここは、注意書きに気づかずに、うっかり注文をしてしまった客を演じ通さなくてはならない。無駄口はたたかず、出てきた揚げ餅うどんをそそくさと食べ、店を出た。
  4限の大学院の演習は清水幾太郎「敵としてのアメリカニズム」(『中央公論』昭和18年4月号)を読む。アメリカニズムを批判するというポーズをとりながら、当時、巷に横行していた表層的なアメリカニズム批判の批判を眼目とした評論であるが、言論統制下という特殊な状況で書かれた文章を解読する(表向きのメッセージの裏側に込められたメッセージを読み取ること)は現代の学生にはなかなか難しいようである。
  6限の「現代人の精神構造」は、田島先生の宗教シリーズの最終回の予定であったが、親戚にご不幸があって講義が不可能となったため、安藤先生、大藪先生、私の3人で、これまでの講義のポイントを復習しながら補足的な講義を行なうという、試験を来週に控えた学生たちには大サービスの企画とあいなった。う~ん、サービス過剰だったかもしれない。授業の後、安藤先生、助手のAさんと一緒に焼肉屋「ホドリ」で食事をして帰る。

7月12日(木) 小雨

2007-07-13 00:02:27 | Weblog
  2限の社会学演習ⅠBはグループワーク。今度の日曜に鴨川セミナーハウスで研究発表の合宿がある。全員お尻に火がついている。手を放したらそのまま月まで飛んでいってしまいそうである。
  「五郎八」で昼食(揚げ餅うどん)。5限の基礎演習の準備をすませてから、飯田橋ギンレイホールにピーター・ネス監督の『クジラとモーツァルト』(2004年)を観に行く。アスペルガー症候群(知的障害のない自閉症)の男女のラブストーリー。かつて『レインマン』でダスティン・ホフマンが自閉症の青年を演じ、近年ではTVドラマ『僕の生きる道』でも草剛が自閉症の青年を演じた。この2人に比べると、ジョシュ・バーネット演じる青年ドナルドはずいぶんと外向的である。ラダ・ミッチェル演じる美容師イザベラも滅茶苦茶明るく、行動的である。ときにパニック症状が出ることを除いたら、普通の男女のラブストーリーとそれほど変わらないのではなかろうか(誰だって恋に落ちているときは冷静沈着に振る舞えないだろ)。おそらくそれこそがこの映画のメッセージなのだろう。挿入歌が多用されていて、その歌詞の日本語訳が字幕で出るのだが、そのときどきの主人公の気持ちを代弁しずぎているように感じた。あれは余計なのではないかな。ちなみにタイトル(原題も同じ)の意味は、ハロウィンのときに、ドナルドがクジラの仮装をし、イザベラがモーツァルトの仮装をしたことに由来する。クジラとモーツァルト、なんとファンタジックな組み合わせだろう。
  映画館を出て、東西線の飯田橋のホームで電車を待っていたら、道場親信さんとばったり会った。これから大学ですかと聞かれたので、いえ、今日は午前中から大学に出ているのですが、いまは散歩の時間なんですと答えた(映画の時間なんですとは言いにくかった)。いいですねえ、と道場さんは言った。
  5限の基礎演習21は、前期は今日で終わりなので、夏休みの課題(レポート草稿4000字程度)と後期の授業のやり方について説明してから、一人ずつ、現時点で考えているレポートのテーマと、大学1年の最初の3ヵ月の感想を述べてもらった。27名中26名出席で、欠席の1名も、昨日、BBSにレポートのテーマをちゃんと書き込んでいるので、問題はない。わがクラスは一人の脱落者もなく夏休みを迎えることができた。無事これ名馬なり。OK牧場。
  生協戸山店で以下の本を購入し、帰りの電車の中で読む。

  ハリー・ハルトゥーニアン『近代による超克 戦後期日本の歴史・文化・共同体』上下(岩波書店)
  ジグムント・バウマン『アイデンティティ』(日本経済評論社)
  坂井昭裕・柏葉武秀編『現代倫理学』(ナカニシヤ出版)

  ところが蒲田駅で降りるとき、読んでいた『近代による超克』の上巻以外の本を網棚に置き忘れてしまった。すぐに気付いて駅事務所に届け出る。帰宅して妻にそのことを話すと、誰かが持っていって古本屋に売り払ってしまうだろうと言う。私はそれはないだろうと言った。これは妻の性悪説に対して、私が性善説の立場に立っているからではない。私が網棚に置き忘れたのは、書店でくれた巾着タイプの白い(中身の見えない)ビニール袋に入った3冊の専門書である。週刊誌や漫画本が網棚に放置されているのとはわけが違う。前者は忘れ物であり、後者はゴミである。ゴミを持ち去るのは犯罪ではないが、忘れ物を持ち去るのは犯罪である。網棚に放置された週刊誌を回収して古本屋に売り払うのはプロの仕事である。プロは忘れ物を持ち去ったりはしないし、もし彼らが新刊本をいつもの取り引き相手の古本屋に持っていったらかえって怪しまれて今後の取り引きには応じてもらえなくなるであろう。経験的かつ論理的に考えてそうなるはずである。そして案の定、ほどなくして蒲田駅の職員から忘れ物が大船駅で回収されという連絡の電話が入った。大船駅で預かっているから17日までに取りに行ってくれと言う。しかしこの週末は学会やら合宿やらでその時間が取れそうにない。事情を言うと、蒲田駅で手続きをすれば着払いの宅急便で自宅に届けてもらえるという。それはありがたい。蒲田-大船間の往復運賃は1080円である。宅配便の料金とさして違わない。時間をかけて(片道40分ほど)行くことを考えたら、絶対に宅配便の方が得である。明日、出がけに手続きをしよう。