フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月10日(火) 晴れ

2008-06-11 01:17:24 | Weblog
  梅雨の晴れ間の一日。大学からの帰り、蒲田の一つ手前の大森で途中下車して、「キネカ大森」で三谷幸喜脚本・監督の『ザ・マジックアワー』を観た。三谷の映画を観るのは、『ラヂオの時間』『みんなのいえ』『THE有頂天ホテル』に続いて4本目だ(『笑いの大学』は脚本は三谷だが監督は違うので、「三谷の映画」には含めない)。ここ一ヶ月ほど、三谷(と主演の佐藤浩市)をテレビで見ない日はないと言っていいほど、彼はこの映画の宣伝のためにあちこちの番組に出ずっぱりであった。過労でダウンして点滴を打ってもらったこともあった(これまた映画の宣伝用に期間限定で開設された三谷のブログにそう書いてある)。似たようなことは『相棒』の水谷豊にもいえるが、水谷の場合は自身がタレントであるから、メディアへの露出度が高まることはタレントとして望むところだろう。三谷の場合は「この映画を大ヒットさせなければ」という悲壮な責任感がいつものポーカーフェースから染み出ている。どうしてそこまでと思っていたが、今日、映画を観て理解できた。セットにものすごくお金をかけているのだ。架空の港町守加護(すかご)の一画をスタジオ内に作っているのだが、これが禁酒法時代のシカゴを思わせる大規模かつディテールにこだわったセットで、制作費は一体いくらなのか考えずにはいられない。こんなものを作らせてしまった以上、大ヒットさせない訳にはいかないだろう。豪華なのはセットだけではない。ところどころ、短いシーンで登場する主役級の俳優たち。順不同で思い出して書くと、市川亀次郎、中井貴一、鈴木京香、天海祐希、唐沢寿明・・・、それから故市川昆監督も監督役で出演していた。豪華なセットとキャストがこの映画の一番の見どころかもしれない。で、肝心の中身なのだが、率直に言って、期待外れだった。普通の出来である。いや、面白くはあるんですよ。でも、これほど鳴り物入りで宣伝されているわりには、普通のドタバタ映画である。第一作の『ラヂオの時間』の面白さにははるかに及ばない。『みんなのいえ』よりは面白かったが、『THE有頂天ホテル』を凌ぐことはできなかった。つまり三谷映画4本のうちの第3位というのが私の判定である。「ノンストップコメディー」と宣伝文句にあるが、テンポは決して速くはない。ノンストップなのかもしれないが、スローなのだ。2時間ちょっとの上映時間が長く感じられた。いい映画のときはいい映画を観た記念にプログラムを(映画館を出るときに)購入するのを習慣にしているが、今回は購入しなかった。ものすごくお金をかけて作った普通のドタバタ映画である。

6月9日(月) 曇り

2008-06-10 03:19:50 | Weblog
  9時、起床。朝食は炒飯。午後、授業の準備を1つ済ませてから、散歩に出る。「鈴文」で昼食(とんかつ定食)をとり、有隣堂で『将棋世界』7月号と『群像』7月号を購入してから、「ルノアール」へ食後の珈琲を飲みに行く(読書主体のときは「ルノアール」、珈琲主体のときは「テラス・ドルチェ」というのが最近のパターンだ)。『将棋世界』は「百年に一度の大逆転」と騒がれた名人戦第三局の観戦記(橋本崇載七段)を真っ先に読んだ。

  「21時を回った。8五玉と上がった局面で、ずっと覇気のない表情だった羽生が、突然「んん?!」と大きな声を上げた。何かに気付いたようだ。そして先手玉の周りを厳しい表情で睨み、口を真一文字に結んで8二歩と打った。力のこもった手つきだった。森内、同桂成。成桂を進める手つきがかすかに震えた。」

  「森内は苦悶の表情を浮かべている。59秒まで読まれて、盤上で手が泳ぐように7六金と上がった。そして、指してすぐに窓の方を向き、どこか一点をキッと睨みつけた。普段の温和な森内からは想像もできない。それはまさに、鬼の形相といった感じだった。鳥肌が立った。」

  「歴史的大逆転を目の前にして、控え室ではみな興奮状態である。さっきまで森内勝ちの原稿を用意していた新聞記者も、事態の急変に困惑している。誰かが、はっきりした口調で言った。「間違いありません。100年に一度の大逆転です。羽生勝ちです。」」

  勝負事(賭け事ではなく)の醍醐味は、自分の決断する一手一手が勝負に直結するところにある。やり直しはきかない。言い訳もきかない。日常生活のあいまいさとはまるで違う別の世界がそこにある。それはある意味、とても充実した、しびれるような、生の瞬間である。私は将棋を指すことはもちろん好きだが、少年時代から夢見ていることは、名人戦の観戦記を書くことである。昔は名人戦の観戦記は作家に依頼していた。それが観戦記者(新聞社の社員)が書くようになり、いまは、今回の観戦記がそうであるように、プロ棋士が書くことが多くなった。同じプロ棋士が書く方が技術的なこともよくわかるし、棋士の心理もわかるということなのであろう。たしかにそう思うが、文章がものたりない。目に見えること(指し手や仕草や表情)が中心で、それを追って書いているだけのような気がするのだ。たしかに緊迫感は漂っているが、描写が紋切り型なのだ。無声映画の弁士の語りを聞いているような気がする。調子はいいが、深みに乏しい。弁士はそれでもかまわないが、観戦記、それも棋界の頂点を決める名人戦の観戦記は、もっと上質の文章で味わいたい。棋士でそうした文章が書けるのは、島朗九段と先崎学八段の二人だけだ。

  「ルノアール」を出て、ジムへ。1時間のウォーキング&ランニングでオムライス一皿分のカロリー(500数十キロカロリー)を消費。ジムの後、ちょうどいい気候だったので、アロマスケアビルの前の公園のベンチで『群像』を読む。今日は区民ホールで氷川きよしのショーがあったようで、公園には中高年の女性たちの姿が目立った。『群像』7月号を購入したのは、大澤真幸と松浦寿輝の対談「他者なき時代の自由」を読みたかったからなのだが、目次を見たら、大江健三郎と岡田利規の対談「あらゆる場所に目があるように書く」が載っていたので、まずそちらから読むことにした。昨夜、岡田の「三月の5日間」をDVDで観たばかりだが、大江が岡田の最新作「フリータイム」を観た感想を述べているのを読んで、これはそのまま「三月の5日間」を観た自分の感想と一緒だと思った。

  「私は初めてあなたの芝居を見て、本当に面白く楽しみ、かつ感銘しました。最初は、私が考えてきた演劇のある定型、方向性がどんどん壊されていって、観客も自由になっていくし、俳優さんたちも自由になっていく。なかほどで「ここで第一部が終わります」と俳優さんがいわれて、やはり同じ仕方で第二部が始まる。そのあたりから、こういう自由な舞台と、自由な観客としての自分を初めて経験しているという気持ちで、すっかり新しい気持ちになってしまいました。」(156頁)

  大江健三郎に先に言われてしまうと、後から感想を語りにくいじゃないか。また別の機会にしよう。

         

6月8日(日) 曇り

2008-06-09 03:27:58 | Weblog
  10時、起床。ベーコン&エッグ(レタスを添える)、トースト、紅茶の朝食。「甘味あらい」でもらった季節のアイスクリームの無料券(開店5周年記念)を忘れないうちに使ってしまおうと、午後、池上方面に散歩に出る。途中で、これはこの散歩コースを辿るときの習慣なのだが、童謡「サッちゃん」の替え歌を口ずさむ。

         
            ♪みっちゃんはね、ハバナが大好き、ほんとだよ。

  街を歩いているときに季節を一番感じるのは草木である。いまの季節は紫陽花だ。

         

         

         

         
                スーパーの店先では季節がわからない。

  街には文字があふれている。看板やポスターだ。それらはわれわれに向かって何かをせよ、何かをするな、と呼びかけているものが多い。私は散歩は一人ですることがほとんどなので、そうした呼びかけにできるだけ答える(ツッコミを入れる)ようにしている。散歩は街との対話なのだ。

         
                ハンドボールは禁止じゃないんだな。

         
           「犬の大」が迷惑って意味か? うん、字が似てるな。

         
                 私のことは放っておいてくれ。

  「甘味あらい」では最初に磯辺巻を注文した。小腹が空いていたこともあるが(朝食が遅かったので昼食はとっていなかったのだ)、無料券だけを使うというのが私にはできない。磯部巻はお皿に3個出てきた。よい餅を使っている。醤油と海苔が香ばしい。磯部巻は冷めたら硬くなるので、本当は、鮨をカウンターで一貫ずつ注文するように、一個ずつ焼いたそばからもってきてもらい、はふはふしながら食べたいところだが、そんなわがままはいえないから、3個を瞬く間に平らげる。しかるのにち季節のアイスクリームを注文する。運ばれてきたのは桜ん坊のアイスクリームであった。初めて食べたが、甘さと酸味のバランスがすこぶるよく、後味がサッパリしている。

         

  帰りは池上線に乗った。ホームの掲示板に駅係員募集のポスターが張ってあった。左下隅に小さく印字されている注意書きに思わずクスリとする。座布団一枚! 栄松堂で丸谷才一『月とメロン』を購入。家族への土産に大判焼き、草餅、ドーナツを買って帰る。

         

         

  夜、チェルフィッチュという劇団の『三月の5日間』という芝居を娘のDVDを借りて観た。去年の基礎演習のクラスにこの芝居を素材にしたレポートを書いた学生がいて、そのときから興味をもっていたのだが、灯台下暗し、娘がそのDVDを持っているとは知らなかった。実は昨日購入した岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(新潮社)には『三月の5日間』の小説版が収められていて、それが読みたくて購入したのだが、今日、娘にその本を見せたら、DVDを持っているよと言われて、びっくりしたのである。さっそく視聴。期待通りのユニークで面白い芝居だった(第49回岸田國士戯曲賞を受賞)。でも、今夜はもう遅いから、その感想はまた別の機会に。

6月7日(土) 薄曇り

2008-06-08 02:56:39 | Weblog
  「おわかれ致します。あなたは、嘘ばかりついていました。私にも、いけない所が、あるのかもしれません。けれども、私は、私のどこがいけないのか、わからないの。私も、もう二十四です。このとしになっては、どこがいけないと言われても、私には、もう直す事が出来ません。いちど死んで、キリスト様のように復活でもしない事には、なおりません。自分から死ぬという事は、一ばんの罪悪のような気も致しますから、私は、あなたと、おわかれして私の正しいと思う生きかたで、しばらく生きて努めてみたいと思います。」(7頁)

  太宰治が昭和15年に『新潮』11月号に発表した小説「きりぎりす」の書き出しである(引用はちくま文庫版「太宰治全集4」から)。基礎演習で『我輩は猫である』と「きりぎりす」を関連させた(一方は「猫」の視点、他方は「女」の視点、どちらも虚構としての「私」を視点としている)プレゼンを行なった学生がいて、入学してまだ2ヶ月というのになかなかやるなと思った。そんなことがあって、今日、朝食の後で「きりぎりす」を読んでみようという気になった。
  妻から夫への別れの手紙という形式の短編小説(文庫本で18頁)である。小説としては短編だが手紙としては長文である。まず、別れる理由ではなく、5年前に戻って、男の妻となることを決めた理由から手紙は始まる。当時、女には2つばかり縁談があって、両親は大いに乗り気であったのだが、本人はいっこうにその気になれずにいた。そんなときに父親の会社に絵を売りに来た但馬という骨董屋が、この絵の画家は将来有望だから娘さんにどうかと唐突に話を切り出したのである。両親は不機嫌であったが、女はその話に興味を持ち、父親の会社の応接間にある絵を見にいく。

  「あの日は、とても寒かった。火の気の無い、広い応接室の隅に、ぶるぶる震えながら立って、あなたの画を見ていました。あれは、小さい庭と、日当たりのいい縁側の画でした。縁側には誰も坐っていないで、白い座布団だけが一つ、置かれていました。青と黄色と、白だけの画でした。見ているうちに、私は、もっとひどく、立って居られないくらいに震えて来ました。この画は、私でなければ、わからないものだと思いました。真面目に申し上げているのですから、お笑いになっては、いけません。私は、あの画を見てから、二、三日、夜も昼も、からだが震えてなりませんでした。どうしても、あなたのところへ、お嫁に行かなければ、と思いました。」(10頁)

  女が恋に落ちる瞬間を描いて見事な文章である。太宰が好きという人は、きっと、こういうところが好きなのだと思う。女が男の画をわかるのは自分しかいないと思うように、「私には太宰がわかる」と思わせてしまうところがある。こうして女は両親の反対を押し切って男と結婚する。

  「淀橋のアパートで暮らした二箇年ほど、私にとって楽しい月日はありませんでした。毎日毎日、あすの計画で胸が一ぱいでした。あなたは、展覧会にも、大家の名前にも、てんで無関心で、勝手な画ばかり描いていました。貧乏になればなるほど、私はぞくぞく、へんに嬉しくて、質屋にも、古本屋にも、遠い思い出の故郷のような懐かしさを感じました。お金が本当に何も無くなった時には、自分のありったけの力を、ためす事が出来て、とても張り合いがありました。だって、お金の無い時の食事ほど楽しくて、おいしいのですもの。つぎつぎに私は、いいお料理を、発明したでしょ? いまは、だめ。なんでも欲しいものを買えると思えば、何の空想も湧いて来ません。市場へ出掛けてみても私は、虚無です。よその叔母さんたちの買うものを、私も同じ様に買って帰るだけです。あなたが急にお偉くなってからは、楽しい事が、なんにもなくなってしまいました。私の、腕の振いどころが無くなりました。あなたは、急にお口もお上手になって、私を一そう大事にして下さいましたが、私は自分が何だか飼い猫のように思われて、いつも困っておりました。」(11-12頁)

  女が男のために尽くしていたのは男の立身出世を願ってのことではない。そういう女ならたくさんいる。男の画をわかるのは自分しかいないというのが肝心な点なのだ。しかし男は有名になっていった。女の手元を離れて、世間のものになっていった。

  「私は、あなたを、この世で立身されるおかたとは思わなかったのです。死ぬまで貧乏で、わがまま勝手な画ばかり描いて、世の中の人みんなに嘲笑せられて、けれども平気で誰にも頭を下げず、たまには好きなお酒を飲んで一生、俗世間に汚されずに過ごして行くお方だとばかり思って居りました。わたしは、ばかだったのでしょうか。でも、ひとりくらいは、この世に、そんな美しい人がいる筈だ、と私は、あの頃も、いまもなお信じて居ります。その人の額の月桂樹の冠は、他の誰にも見えないので、きっと馬鹿扱いを受けるでしょうし、誰もお嫁に行ってあげてお世話しようともしないでしょうから、私が行って一生お仕えしようと思っていました。私は、あなたこそ、その天使だと思っていました。私でなければ、わからないものだと思っていました。それが、まあ、どうでしょう。急に、何だか、お偉くなってしまって。私は、どういうわけだか、恥ずかしくてたまりません。」(12頁)

  「恥の多い生涯を送ってきました」と太宰は自伝的色彩の濃い小説『人間失格』で書いている。「恥」は太宰文学のキーワードである。女が「私は、どういうわけだか、恥ずかしくてたまりません」という気持ちになったのは、本来、男が感じるべき感情(恥ずかしさ)を男が少しも感じていないからである。だから女が男に代わって恥ずかしさを感じているのである。このとき、男は太宰の内部の俗物根性であり、女はそれを認識する太宰自身である。

  「先日あなたは、新浪漫派の時局的意義とやらに就いて、ラジオ放送をなさいました。私が茶の間で夕刊を読んでいたら、不意にあなたのお名前が放送せられ、つづいてあなたのお声が、私には、他人の声のような気が致しました。なんという不潔に濁った声でしょう。いやな、お人だと思いました。はっきり、あなたという男を、遠くから批判出来ました。あなたは、ただのお人です。これからも、ずんずん、うまく、出世をなさるでしょう。くだらない。「私のこんにち在るは、」というお言葉を聞いて、私は、スイッチを切りました。一体、何になったお積りなのでしょう。恥じて下さい。「こんにち在るは、」なんて恐ろしい無智な言葉は、二度と、ふたたび、おっしゃらないで下さい。ああ、あなたは早く躓いたら、いいのだ。私は、あの夜、早く休みました。電気を消して、ひとりで仰向けに寝ていると、背筋の下で、こおろぎが懸命に鳴いていました。縁の下で鳴いているのですけれど、それが、ちょうど私の背筋の真下あたりで鳴いているのです、なんだか私の背筋の中で小さいきりぎりすが鳴いているような気がするのでした。この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きて行こうと思いました。この世では、きっと、あなたが正しくて、私こそ間違っているのだろうとも思いますが、私には、どこが、どんなに間違っているのか、どうしても、わかりません。」(23-24頁)

  手紙(小説)はこうして終わる。最後に「こおろぎ」と「きりぎりす」が出てくるが、ここでは両者は同じものである(「きりぎりす」は「こおろぎ」の古称)。しかし、同じものであるならば、太宰がなぜ二つの語を混在させたのかが、私にはわからない。もしかしたら二つの語には微妙な違いがあるのではないか(きりぎりすの方が上位概念=鳴く虫一般であるとか)。
  それはいいとして、私は「きりぎりす」を読んで、女性が語り手である小説を太宰がしばしば書いたのは、太宰が必ずしも女性心理(女心)がわかる作家だったからではないだろうという感想をもった。それは太宰が女性心理をわかっていないということではない。太宰は女性心理をとてもよくわかっている。ただし、それは女性心理一般ではなくて、太宰(のようなタイプの男)を好きになる女性の心理なのではないかということだ。太宰は女性に好かれたかったし、事実、好かれたわけだが、そうした女性の視点から自己を見つめる(語る)というのは、一種のナルシシズムである。そのとき女性心理がわかるというのは、自分の気持ちがわかるというのとほとんど同じである。その意味で太宰は自己分析の名手であった。

  昼食を取りがてら散歩に出る。「やぶ久」でカツ丼とおろし蕎麦のセットを食べ、「シャノアール」で食後の珈琲を飲み、「くまざわ書店」で以下の本を購入。

  岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(新潮社)
  成田龍一『「大菩薩峠」論』(青土社)
  湯浅誠『貧困襲来』(山吹書店)

  夜、衛星放送で黒澤明の『酔いどれ天使』(1948年)を観た。堪能した。これからしばらくの黒澤の作品はどれも素晴らしい。

         

6月6日(金) 晴れ

2008-06-07 02:45:16 | Weblog
  梅雨の晴れ間の蒸し暑い一日だった。蒸し暑くはあっても、青空が広がるとホッとする。3限の授業(日常生活の社会学)の後、TAのI君と「メルシー」で昼食。いつもは「メーヤウ」へ行くことが多いのだが、昨日の夕食と今日の朝食がカレーだったので。「メルシー」ではもやしそばを注文した。ラーメン(400円)に次いで2番目に安い(420円)メニューだ。もやしとコーンが増量され、ゆで卵(ただし丸々1個ではなく半分)が付き、ただしチャーシューは入っていない。軽めに済ませたいときに向いている。郵便局で古本の代金と学会費を振り込んだら、財布の中身が乏しくなったので、銀行へ寄って補充する。残額を確認したところ、ここ数ヶ月、右肩下がりの傾向が続いている。満々たる水をたたえていたダムの水底が見えてきたような気分だ(違うか)。夏のボーナスはいつ出るんだったかな? 生協戸山店で以下の本を購入。発達心理学の本が多いのは、来年度のゼミの参考文献を選ぶためである。

  無藤隆ほか『発達心理学(現代心理学入門2)』(岩波書店)
  前原武子編『発達支援のための生涯発達心理学』(ナカニシヤ書店)
  無藤隆ほか編『よくわかる発達心理学』(ミネルヴァ書房)
  メレディス・B・マクガイア『宗教社会学』(明石書店)
  南田勝也・辻泉編『文化社会学の視座』(ミネルヴァ書房)
  本田由紀『軋む社会』(双風舎)
  斉藤環『母は娘の人生を支配する』(NHKブックス)
  山本まさき・古田雄介『ウィキペディアで何が起こっているのか』(九天社)

  5限の卒論演習は報告予定者3名のうち2名が就職活動と体調不良で休んだため、K君のみの報告となり、1時間で終了。物足りないような、早めに終わって嬉しいような・・・。晴れると6月の日は長い。蒲田に着いて7時。でも、空はまだ明るい。