8時、起床。
夕食の残りの回鍋肉をマフィンではさんで、サラダと冷麦茶の朝食。
午後、散歩に出ようとしたら、妻が「冷やし中華、作ろうと思うんだけど」と言う。頭の中には「喜楽亭」のチキンカツ定食のイメージがあったのだが、体重を2か月で3キロ減らすと昨日決意したばかりなので、どちらが適合的な昼食であるかはら明らかである。「食べるよ」と返事をする。
結局、昼寝をしたり、本を読んだりしていて、散歩に出たのは夕方近くになった。とはいってもまだまだ明るい。
電車に乗って、東京ステーションギャラリーで昨日から始まった「ジャン・フォートリオ展」を見物に行く。電車の中では藤堂志津子『ある女のプロフィール』(集英社文庫)を読んでいた。自宅で読んでも、喫茶店で読んでも、電車の中で読んでも、小説の味わいは変わらないとすれば、電車の中での読書は楽しんでいるうちにもう一つの楽しみのための場所に移動できるという点で優れている。
日本で初のフォートリエの本格的な回顧展である。
フォートリエは日本ではなじみのある画家ではない。もっともフランスでだってそうかもしれない。館内で流されていたドキュメンタリー番組で、ナレーターが、フォートリエが生涯(1898-1964)で世間から注目されたのは三度だけだったと言っていた。三度目が1945年だったから(レジンスタンスの弾圧をモチーフにした「人質」シリーズ)、戦後は一部の批評家が「アンフォルメル」(不定形)の先駆者として注目した以外は不遇であった。
画風の変遷の大きかった人で、初期の人物画はリアリズムというよりもむくんだような顔や体の人物を好んで描き(あるいは人物の顔や体をむくんでいるように描き)、こういう作品を買って自宅の居間に飾ろうとする客はたしかに少ないだろう。やがてそうしたリアリズムは姿を消し、人体はフォルムとして描かれるようになっていった。
「好き画家は数人いるが、名前はいいたくない。大切なのは画家ではなく作品だ。一番好きな作品は自分の絵だ」というようなことをさきほどのドキュメンタリー番組の中で語っている。「彼には師匠はいなかった。弟子は一人いたが、その弟子は『フォートリエといると頭が悪くなる』と言った」とナレーターが語っていた。15分ほどの番組だが、フォートリエは一貫して「変わり者」として描かれていたし、実際、彼自身も「変わり者」を演じていたように思う。一般に変わり者が多いと思われている芸術の世界の中で、「変わり者」として見られるというのは凄いことなんじゃないかと思う。
フォートリエは日本に一度来たことがある。1959年のことで、日本で「アンフォルメル」がブームになったいた頃のことだ。当時の彼の作品は自宅の居間に飾っても違和感のないものになっていた。私もポストカードを何枚か買った。
回顧展は7月13日まで。年間パスポートがあるので、会期中に何度か来ることになるだろう。
東京駅丸の内北口。
7時、帰宅。
夕食はメロの照り焼きと茄子とベーコンの煮物、そしてとろろ芋。
『ある女のプロフィール』読了。交通事故で突然29歳で死んだ諸岡多絵子という女とかかわりのあった6人の男たちが各自の視点から彼女の実像に迫る。男女の心理を描いた小説はたくさんあるし、この小説も広義にはその中に入るのだろうが、諸岡多絵子は徹底的に不可解な女として描かれ、最後に彼女の高校時代の担任だった男の視点から一応の謎解きはなされるのだが、それで「謎はすべて解けた」という感覚を読者はもつことができないだろう。あくまでも提示されのは解の一つで、他にも解がありそうな感じを漂わせたまま物語は終わる。しかし、読後感は消化不良ではない。6人の男たちは「諸岡多絵子とは何者だったのか」を追求する過程で、実は、彼女の実像ではなく、自分自身と向き合うのである。諸岡多絵子とのかかわりの中で一体自分は彼女に何を求めていたのかが明らかになるのである。重要なのはそこである。「諸岡多絵子」という「謎」は、解かれるべきものではなくて、6人の男たちが自分自身と出会うための扉を開く「鍵」であったのだ。