過去を懐かしんだり、過去の思い出に浸りこんだりするのは危険な兆候で
良くないと度々このブログでも書いていますが、最近思ったのはいくら検索しても
なかなか個人のページがヒットしなくなって今では逆に思い出せなくなる前に
今につながるものは書いておかなくてはならないのではないかという事です。
どうしてそんなことを思ったかというと令和を迎えるにあたり国文学者が美しい日本に暮らすほこりと
自身を美しくしようという事をアピールしているニュースを見たからです。これは前にもも書きましたが、
万葉集に集められた歌に防人の歌や囚人の歌があり、それらは身分の差なく当時を採取した結果だといわれます。
それが日本に暮らす美しい日本という言葉につながるのでしょうが、前にも言ったように防人とは死の任務に旅立つ
人の遺言に違いなく、罪人ももしかしたら謀反人としてではなく時の権力者になっていたかもしれないことを考えると
巧みな情報操作のようにも感じられるのです。それには当時日本がなぜ防人を置かなくてはならないことも考えなくては
なりませんし、ただ、令和と発表されて浮かれて万葉集を読み出したり、大宰府に行かれるのもいいですが、秩父にも
防人の歌の碑があるので来てみてなぜこんな山の中の人が九州くんだりまで出かけていったのか考えてみるといいのでは
ないでしょうか。
さて、コロンビアが砂糖なしで飲める紅茶のような味わいだという説明で今朝から来店者は皆これを買い求めこれは
瞬く間になくなりました。また焙煎しなくてはなりません。
三時休みにいつものアマゾンビデオを見ますが、ここのところのお気に入りは『The expanse』です。これは何を差し置いても
見入ってしまう物語で、主役のトーマスジェーンが最高の演技です。かつてのhungとかミストなんかに出てた頃より格段に
味と演技を増しており、今一番のお気に入りになっています。
ストーリーがガニメテとかエロスとかが舞台になっており、これが私の20年前の記憶をぶすぶすと引きずり出してそれが
色々なものと軋轢を伴いいろんなことを思い出してしまうことになっています。まず、困ったのはガニメテとかエウロパと
いうとすぐ思い出すのはガリレオの観測を元に日本の測量をした伊能忠敬のことです。これがきっかけで日本は国際社会の中でも
否応なく近代化の明治以降の国際社会の中に取り込まれて行く運命に至るのです。
日本国の建国と国際化の中で建国の精神と自然とともに八百万の神とともにその恵みを享受するという独自の自然と宗教観も
なにかと利用され軋轢の中無残な歴史になり、完全に戦後それを修正し平和国家となったと過去を見ようとしない人達には
バブル崩壊とその後のデフレ経済と世界に負け続ける縮小化とが戦後でも戦前の日本の状況と似てるとか無能で無策な当時の
政府の考え方とか何も変わってないと思わないでしょうか。
それとエウロパ、ガニメテというと20年前やったゼウスというゲームを思い出させます。『The expanse』は舞台は国連が統治する地球と
軍事政府による独立国の火星と他民族国家の小惑星帯に住むベルターという低重力下で生まれた人類がいて企業体やテロ組織やら
複雑な力関係の中、その平和を崩そうとするものと守ろうとするものの戦いが繰り広げられます。
こういう宇宙ものの鼻白む要素として科学的視点の無さが映像にも表れて、バカらしくて物語に入り込めないのが
普通ですが、通信的遅れや宇宙船内の無重力状態など今までのSFではない是正がなされています。ただ、致死量の放射線を
浴びても簡単に治療できてしまったり、がん細胞もパッチを張るだけで退治出来たりという飛んでも要素は依然あり、
低重力下で生まれたベルターという種族も普通の地球人と見分けがつかないとか工夫の無さと原作をより視覚化する
努力が欠けている部分も感じるのですが、軍事力と科学の可能性と正義など考えさせられる物語でつい目が離せないのです。
最初は氷運搬船の乗組員が陰謀に巻き込まれ平和の生き証人としてその謎を追い宇宙を駆け巡るというスタイルなのですが、
その宇宙戦艦にコーヒーメイカーが備わっていてそれがクルーの癒しと自慢になっているシーンがあります。これなども
無重力ではドリップコーヒーは抽出できないのにコンビニにあるようなボタンを押すとコーヒーが出てくるシーンや
木目の食器棚を開けると豆の入った袋が沢山備わっていたりするシーンは科学的にありえなくも精神的にはあり得るなと
思えます。
そして、20年前の記憶が蘇るのはゼウスというゲームソフトがガニメテとかエウロパが舞台であることやインターネット対戦など
ユーザー間で情報交換し、プログラムの情報を交換したりというソフトの出来の悪さと融通の無さをユーザー側が飛び越えて
手を結んだ結果、より楽しみとただの答え合わせ以上に自身でさらに取り組み物語を想像できた点が当時、時間がないのに
風邪で寝込んで一日ゲームした記憶とか徹夜で組み込みのプログラムを考えた事とかハードの進歩やさらに昔PCゲームをやる
きっかけになったソフトの事など色々な思い出や記憶が噴出してくるのでした。
戦後の日本を生きた知識人たちは教育や思想ががらりと変わりその日本人の思想資質を振り返るために歴史を振り返り戦国時代や
律令政治がいかにしてできたかを研究しました。一見種がなくなった直木賞作家が行きつくところが戦国時代劇を書くという観念が
一時ありましたが、司馬遼太郎にしろ吉川英治にしろみんな日本人の心を書こうとして結果、信長とか秀吉とか信玄とか上杉のことを
書くことになったという現実に注目しないわけにはいきません。
記憶を辿るとランドマーク以上に経過した諸々の物を感じたり、今現在感じる当時の真実と今の真実とはどうかとか思わずにはいられず
つい珈琲を何杯も飲んでしまうのでした。