毎日息詰まるようなニュースばかりですが、随分新聞やテレビはこの緊急時だというのに
ウソニュースを流していたり、それを信じたどこぞの副知事がそれをネット拡散したとか
信憑性を受け取る側が判断しないといけないと感じることばかりです。
先日私も参加したネットのサークルはコーヒー好きな人の集まりというので、かつての
掲示板のような情報交換の場になるのかと思って参加しましたが、それに回ってくる投稿を
みると唖然としてしまうようなことばかりで戸惑うばかりです。
コーヒー好きという人だから味にもうるさいのかと思えば、スタバのハウスブレンドを
飲んでいるとかそれにコメントした人は自分はどこぞの量販店で一年分を買ってくると
なんとも大雑把な豆の買い方なのです。
中にはドリップコーヒーを始めましたと得意にその様子を動画でupしているひとなどもいて
それをみると沸かしたポットからその熱いままのお湯をドバドバと注ぐというものなのです。
しかもそのポットはドリップポットではなく注ぎ口は急須のような太いものというものでそれ
でも何かをなしたかのような達成感でそのプロジェクトを制覇したかのような動画にただ
あきれるばかりというそんなものが結構はびこっているのがネットでのグループのようで
かつての掲示板で文字だけで深い交流のあった頃が懐かしくなりました。
あれこれとコメントのやり取りも長くなると管理人からそれはチャットでやれとか会にそぐわない
と注意が入ったりしてとかく議論やお互いの研鑽の情報のやり取りの場ではなく、ただいいねを
付け合うそんな人たちの映像をスマホで撮ってやりとりするだけという薄い交流の場のような
感じです。
何かを語るということだとかつての掲示板の交流がなつかしいパソコン通信の時代の話ですから
現代のスマホ時代とは話が通じないのは当然かもしれません。
議論を戦わせるよりも画像を見てクスッとなるようなそんな交わり方を求められるというのも
反面怖いことなのかもと思ってしまいます。
そんなことを思ってもかつての掲示板のような交流がなくなっている事実に変わりはなく、
どうなるものでもありません。これと似たこととして最近感じることはNHKドラマの『レミゼラブル』
です。昔の教科書にはこの男が銀の燭台を盗むも神父のそれはあげたものだという寛大な処置に
心を砕き真の善人になるという道徳の授業の題材とか人のあるべき姿だとかを学ばされた
ものです。
自由、平等、博愛と世界の最先端を行き自らの手で戦い勝ち得た権利と自由の物語が根底で
描かれるドラマは最初からそれが当たり前で与えられたものの世代からみたらやはりなぜか
おかしく感じる物語であり、それと同時に子供だましのようになんでもかんたんにして
崇高な物語をおためごかしのような話にしてしまう幼児文学の愚かさも感じるのです。
ああ無常として知られるレミゼラブルも日本人は超訳でナポレオンから王政復古、さらに
真の市民革命へと続く大変革期に起きたことであり、それを抜きに語られたああ無常では
まるで世界観が異なり、最後の結末まで語られないという不完全なストーリーであり、それを
更に幼児向けに簡略化したものを読まされ学校の授業では燭台を盗んでも許されるという
キリスト教的な教義を押し付けられるというのはその前に貧しさゆえに一斤のパンを盗んで
19年投獄されるという過酷な運命が語られないと本当に押し付けの道徳授業で正しいことや
後に自身の判断で政治決着とか道を選ばなければならない場面に影響するのではないかと
さえ思えます。
というのはこの間安倍首相が動画を公開したら何様だという批判が上がり、それと同時に
ルイ16世という言葉が同列に上がっていたのです。レミゼラブルはそれより時代はずっと後
市民革命で混乱した世の中に自ら皇帝を名乗る強権政治を敷いたナポレオンが駆逐され
貧富の差と混乱が占めるパリであり、そういう中で人間愛とか女性への愛とか真の正義を
歌い上げたのがレミゼラブルなのですが、そういう意味で見れば今貧富の差が激しくなり
自国ファーストの風潮とか温暖化で災害が増え、さらに疫病が襲う現在に見るにはぴったり
な物語なのです。
しかし、スマホ世代の現代人にその時代背景と今の現代の共通性など問うてもただコスプレ
のような当時の服装とかテーマがかみ合わず話をしてもなかなか自由、平等、博愛には
届かないのです。
それでも繰り返しドラマとして作られ、作られるたびにヒット作となる大ドラマなのに
日本だけ主題から置いてけぼりにされているように感じるのは私だけでしょうか。