暑い!岐阜は三〇度。もういいだろうと、通常の洗濯の他に、セーター、ベスト、半纏などの冬物をマニュアルを見ながら洗う。縮ませたりはしたくない。
昼麺も、温かいスープのものはやめてざる蕎麦を作る。左側の器は一応蕎麦湯。蕎麦を手繰ったあと、薬を飲むのに使うなんて、年寄の食事なんてそんなものだ。
そろそろ、冷や麦を仕入れてこなくっちゃぁ。
暑い!岐阜は三〇度。もういいだろうと、通常の洗濯の他に、セーター、ベスト、半纏などの冬物をマニュアルを見ながら洗う。縮ませたりはしたくない。
昼麺も、温かいスープのものはやめてざる蕎麦を作る。左側の器は一応蕎麦湯。蕎麦を手繰ったあと、薬を飲むのに使うなんて、年寄の食事なんてそんなものだ。
そろそろ、冷や麦を仕入れてこなくっちゃぁ。
すっかり若葉の季節に。
手前は紫陽花、右上は紅梅、中央は南天、左上は花が終わった連翹。
木々の向こう側は隣の材木屋さんの土地。
そういえば文部省唱歌に「萌える萌える若葉が萌える」というのがあった。
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あらら、「かおる かおる」と「そよぐ そよぐ」しかでてこない。私の記憶違いのようだ。まっ、いいか。
名古屋駅から会場に向かう途中の「財布レス」ホテル。無料か、カードや電子マネー以外受付禁止かと思ったらサイプレス(cypress)だった。意味は糸杉、悲しみの象徴だという。だからゴッホの糸杉は満天の夜空にそびえていても淋しいのだろうか。
名古屋近くのレンタルルームで読書会。
黙読後の解釈、感想の交換。
今回読んだ歴史的事件に関する部分は、リアルタイムで経験していたのは私のみ。
だからといって、事態をもっともよく理解しうるのが私ということでもない。
3時間があっという間に過ぎる。
外はもうすっかりたそがれている。
懇親会・・・・というと品が良いが、要するに二次会のダベリング。
しかし、これが私の世代とは異質な問題などが提起されて面白い。
岐阜での終バスに間に合う時間に帰る。
腰痛に悩み、やや離れたバス停から歩く冬の夜道はさみしい。
岐阜に住んでいながら岐阜の夜景を見る機会は少ない。岐阜駅南方の住宅街(数年前までは半ば田園地帯ともいえたのだが)に住んでいるが、年齢とともに夜間の外出を控えているせいもある。
また、学生時代や働いていた頃はず~っと名古屋だったので、いまでも名古屋のほうが人脈が多く、夜に至る会合などはほとんど名古屋だからである。その意味では、名古屋の夜景を見る機会のほうが多いといえる。
昨日は、久々に岐阜の中心部近くで会合があり(名古屋からの出席者も)、限られた範囲とはいえ、岐阜の夜景に接する機会があった。
それらを以下に羅列する。
会合が行われたのは岐阜のメインストリート。地名は神田町。で、歩道上にこの垂れ幕。
神田町通り(今の名称は長良橋通り)金宝町付近から名鉄岐阜駅方面を
以下はJR岐阜駅大階段のイルミネーション
7月上旬から10日間ほど、ヨーロッパを旅してきた。85歳にしてツアーでもない一人旅、しかもその語学力たるや中学生にも及ばないカタコトの英語、無理な試みであることは自分にもわかっていた。しかし逆に、今なら行けるかも知れないし、今行かなければもう行けないとの思いもあった。
帰途、最後に乗るはずの飛行機が遅れ、一日遅れの遠回りというアクシデントがあったが、なんとか無事戻れた。
戻った途端に事前に予定されていた連日の予定(そのうちのひとつは反ガザ虐殺の抗議デモ)などもあり、それらをタフにこなしているとひとにも言われ、自分でも調子に乗っていたが、さらに自宅のエアコンがぶっ壊れるなどの騒ぎがあり、それらと対応しているうちにやはり疲れがドッと押し寄せ、ここ一両日、ぐったりしていた。
しかし、せっかくの旅、自分でも記録しておきたいし、知己の方々へもお知らせもしたい。にもかかわらず、グズグズしていると記憶はどんどん曖昧になり、その折の感慨も薄れてしまう。だから、そろそろ書き始めることとする。
二つの動機があった。その一つは私の少年期後半から青年期に興味をもったロシア革命とソヴィエト連盟の成立、そして1945年第二次大戦後の東欧圏を統合したいわゆる東側の成立、さらには、1980年代後半に始まるその崩壊の歴史、その後の変遷を見届けることにあった。とはいえ、別に専門家風の突っ込んだ「研究」とは無縁な「見物」にすぎない。
その意味では過去、2005年のハンガリー、スロベニア、そして2019年のサンクトペテルブルグを経験済みである。
今回のベルリン、ライプチヒ、ワルシャワもそれと関連する。ベルリンはまさに象徴的な境界線の都市だったし、ライプチヒとワルシャワは東側の都市であった。
しかし、私のそんな個人的な思いを上回って、この旅を実現させてくれたのは、わが畏友K氏の存在だった。彼は私と同郷の岐阜県人だが、知り合ったのは名古屋で私が居酒屋を営んでいた折であった。
彼は当時、河合塾の講師をしていたが、同時に哲学や精神病理学の研究に邁進し、それらの成果が評価され、1984年にはベルリン自由大学客員研究員として渡独した。それ以後の彼の活躍ぶりは以下を参照されたい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%95%8F%E6%98%8E
ようするにその彼が、最終的にはライプチヒ大学の東アジア研究所日本学科教授を務め、退官後もライプチヒに定住しているのであるが、何かの拍子に帰郷した折など、旧知の友人たちが集い、彼を中心に会をもつのがしきたりとなり、私も何度かそこで彼との旧交を温めた。
2010年代の後半のそんな機会、私は東欧圏へのそんな興味を話したところ、「それなら案内するからおいでよ」と彼がいってくれて、俄然それが現実味を帯びてきた。私は即座にそれを決意し、彼との間にその実現を煮詰めてゆくこととなった。
ところがである、ちょうどその頃からあの憎っくきCOVID-19が、地球規模でのさばり始めたのである。せっかくの私の旅はこうして数年の遅延を余儀なくされた。
しかもその数年、80歳から85歳の数年は、私の足腰の機能を劣化させるに十分な期間であった。
しかし、そんな私がなんとかそのハンディを押し切って、ほぼ予定通りにこの旅を実現し得たのは、繰り返すが計画段階からのK氏の身を呈しての援助の賜である。
彼の住む、ライプチヒでの歓待は無論のこと、初日のベルリン空港までの出迎えと私が泊まるベルリンのホテルまでの案内、ベルリンでの私の行き先についてのレクチャーなどなどを始め、旅行中は終始、彼とのLINEを通じてのTV電話のやり取りなどが、私の水先案内を努めてくれたのであった。
そんなわけで、彼なくしてはこの度の旅は語れないのだが、それに痛く感謝しつつ、以下それらの内容を紹介してゆきたい。
また、このK氏との具体的な交流も述べてゆきたい。
*写真はいずれもセントレア空港からヘルシンキ空港経由で行ったため、その途中ヘルシンキ空港でのもの。
瀬戸についていろいろ書いてきましたが、肝心の街そのものについてはほとんど触れて来ませんでした。
瀬戸と言えば陶磁器類一般が「瀬戸物」と言われるほど、いわゆる陶器の街として著名ですが、最近それを凌ぐ勢いで瀬戸の街の名前を広めたのに、この町出身の藤井聡太棋士の快挙があります。 私が出かけたのは彼がそのタイトルのひとつを失う前でまだ八冠を保持していましたので、街のあちこちにはそれを誇らしげに告げるポスターや展示がありましたそれらは街角と言わず商店街と言わず公の場所といわず、あちこちで目にしました。
瀬戸蔵ミュージアムを出て、あらかじめ調べておいたアーケード付の2つの商店街を回ってみました。ひとつは末広町商店街と言うところで緩やかにカーブをしたその両側の店は、ああ、お定まりのシャッター街で、 平日の午後ではありましたが、私以外に歩いている人はいませんでした。したがって見るべきところもほとんどありません。
ただひとつかすかな希望を持ったのは写真で見るように、明らかに店舗改装、ないしは新し 店づくりをしているところが一軒見つかったことです。
商店街そのものは途中で諦めましたが、そこからややそれたところに面白いものがありました。それはでっかい涅槃像なのですが(涅槃図というのはご承知のようにお釈迦様が亡くなられるた際、その高弟や一般の人々あるいは絵によっては様々な動物たちが横たわるお釈迦様の取り囲んで嘆き悲しむ図)、それがお釈迦様の涅槃像に模した陶器製の 大きな猫によって作られているのです。
そこに至って初めて私以外の親子連れと出会いました。その軽装ぶりからして地元の人ではないだろうかと思いました。
三〇度を超すかもしれないと予報が告げるなか、名古屋の栄町(地名は「栄」ですが駅名は「栄町」)から名鉄瀬戸線で「尾張瀬戸」へと向かいました。
途中、矢田川を渡り、守山区(名古屋へ合併する前の守山市)から尾張旭を経て瀬戸へ至る路線は途中で高架化のための工事区間などがありましたが基本的に変化はありません。
終点、尾張瀬戸駅の ふたつ手前、今は新瀬戸駅(それとクロスする愛知環状鉄道の駅名は瀬戸市駅)となっいてるところはかつては尾張横山駅といわれていました。その駅南の線路に沿うようにしてかなりの面積をもつ製陶所をもっていたのが、前回述べた私の養母の姉妹の嫁ぎ先の親戚でした。多分、私の養子縁組の仲立ちをしたところです。
駅前を通りに挟まれて流れる瀬戸川 私が少年時代に来た頃は、各陶磁器製造所からの排水のため、土色に濁りきって、川岸には粘土がへばりついていた いまは水は清らかで、泳ぎ回る魚影を確認できた ついでながら、当時の各陶磁器の窯は亜炭を炊いていたため、空はその煙で真っ黒だった
それもあってか、そこへはよく行き、製陶所の器具を眺めたり、仕掛品を見たり、そして時折、すぐ近くを行き交う瀬戸線の電車を見ていたものでした。
その箇所には昔の面影はまったくなく、その面積いっぱいのようなマンションが建っていました。その親戚がオーナーなのか、それともその地を手放してしまったのかはわかりません。親しかった従兄弟は随分前に亡くなり(私より20歳近く上)、その兄弟姉妹とのつながりも途絶えてしまったからです。
駅近くの和風建築 陶磁器屋さんらしい
終点の尾張瀬戸駅に降り立ちました。
駅舎を出ると、瀬戸川を挟んで東西に走る通りがあります。この辺の地理的な感じは70年以上前とほとんど変わりありません。
駅頭に立って、まずは南方の交差点を注視します。ここには、立派な歯科医とその住まいがあり、その面積もかなりのものでした。しかし、もはやそれはありません。多分その跡地だと思うのですが、そこには立派なホテルが建っていました。これはどうもホテルチェーンの一つらしく、かつての歯科医とは関連なさそうです。多分土地を売却したのだろうと思います。