六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

岐阜の夜景 JR岐阜駅のイルミネーション

2024-12-05 00:33:47 | 写真とおしゃべり

 岐阜に住んでいながら岐阜の夜景を見る機会は少ない。岐阜駅南方の住宅街(数年前までは半ば田園地帯ともいえたのだが)に住んでいるが、年齢とともに夜間の外出を控えているせいもある。
 また、学生時代や働いていた頃はず~っと名古屋だったので、いまでも名古屋のほうが人脈が多く、夜に至る会合などはほとんど名古屋だからである。その意味では、名古屋の夜景を見る機会のほうが多いといえる。
 
 昨日は、久々に岐阜の中心部近くで会合があり(名古屋からの出席者も)、限られた範囲とはいえ、岐阜の夜景に接する機会があった。
 それらを以下に羅列する。

          

 会合が行われたのは岐阜のメインストリート。地名は神田町。で、歩道上にこの垂れ幕。

       

    神田町通り(今の名称は長良橋通り)金宝町付近から名鉄岐阜駅方面を

 以下はJR岐阜駅大階段のイルミネーション

          
      
      
      
         
           
          イルミネーションを見下ろしてる黄金の信長公立像
   
        
        JR岐阜駅北広場 休日にはさまざまなイベントが行われる
   
            
           岐阜バス4番乗り場 ここからバスに乗って帰宅

            
                  バス前方の夜景
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夏休みの宿題提出 思い出の絵日記から

2024-08-31 16:48:52 | 写真とおしゃべり
 居座った台風のなか、夏が終わろうとしています。
 夏休みの宿題提出ですが、今年の夏のいちばんの思い出は10日間にわたるヨーロッパ(ベルリン・ライプチヒ・ワルシャワ)への旅です。
 その折撮った何百枚かの写真の中から、自薦の何枚かを掲載してこの夏の絵日記といたします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これのみ説明を入れます。自転車が差し掛かったのはかつて東西ベルリンを隔てていた壁の跡です。三十数年前なら、銃撃されていたかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
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ベルリン到着・ホテル周辺 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-07-28 02:25:16 | 写真とおしゃべり
 最初の目的地はベルリンで到着は昼過ぎだった。もちろん始めての地だ。しかし、全く不安はなかった。 というのは、全くありがたいことに、後日訪問することになっているライプチヒ在住のK氏がわざわざ2時間以上かけて私を空港で出迎えてくれたからである。
     
 氏の 案内でベルリン中央駅方面への郊外電車に乗る。私のホテルに近い駅は、中央駅から4つ手前の駅である。そこで降りる。 やや早いが、重い荷物を持ってウロウロするのもと思い、 そこから10分ほど歩いたところのホテルにまずチェックインをする。

       

 そこからまた駅の方へ戻り、駅周辺の小公園を取り巻くようにしてあるレストランの一軒に入る。K氏はかつてこの辺に縁があって土地勘があるようで 、その周辺では老舗せといわれたレストランである。

       

 そこで、 前菜盛り合わせとペペロンチーノなどをほおばりながら、K氏から明日からの2日間、回るべきベルリンの各地についてのレクチャーを受ける。
 それにしてもベルリンは大都市、要点を押さえるのも容易ではない。 でもこうして来た以上、できるだけこれといったところを見ておきたい。不安の中にも期待は広がる。
         

 ライプツィヒへ帰るK氏と別れて、ホテルへとって返す。ホテル周辺の地理やありようを掌握しておきたい。K 私にいわせれば、かつては銀座通りに続くような繁華街だったということだが、確かに大きな通りにはそんな雰囲気があるが 、少し離れると同時に場末っぽい雰囲気もあるというちょっと面白い街だ。

      
 
 駅からホテルまでの10分ほどの間に、本屋が三軒もあり、それぞれがちゃんと生きているというのはとても好ましく思われた。

     
 いよいよ明日からがまさに一人旅の始まりである。ホテル周辺を散歩した後、明日行くべきベルリンの街の概要について下調べをする。
 
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東側への興味とK氏のお力添えで 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-07-26 16:55:25 | 写真とおしゃべり

 7月上旬から10日間ほど、ヨーロッパを旅してきた。85歳にしてツアーでもない一人旅、しかもその語学力たるや中学生にも及ばないカタコトの英語、無理な試みであることは自分にもわかっていた。しかし逆に、今なら行けるかも知れないし、今行かなければもう行けないとの思いもあった。

 帰途、最後に乗るはずの飛行機が遅れ、一日遅れの遠回りというアクシデントがあったが、なんとか無事戻れた。
 
 戻った途端に事前に予定されていた連日の予定(そのうちのひとつは反ガザ虐殺の抗議デモ)などもあり、それらをタフにこなしているとひとにも言われ、自分でも調子に乗っていたが、さらに自宅のエアコンがぶっ壊れるなどの騒ぎがあり、それらと対応しているうちにやはり疲れがドッと押し寄せ、ここ一両日、ぐったりしていた。

     

 しかし、せっかくの旅、自分でも記録しておきたいし、知己の方々へもお知らせもしたい。にもかかわらず、グズグズしていると記憶はどんどん曖昧になり、その折の感慨も薄れてしまう。だから、そろそろ書き始めることとする。

 二つの動機があった。その一つは私の少年期後半から青年期に興味をもったロシア革命とソヴィエト連盟の成立、そして1945年第二次大戦後の東欧圏を統合したいわゆる東側の成立、さらには、1980年代後半に始まるその崩壊の歴史、その後の変遷を見届けることにあった。とはいえ、別に専門家風の突っ込んだ「研究」とは無縁な「見物」にすぎない。
 
 その意味では過去、2005年のハンガリー、スロベニア、そして2019年のサンクトペテルブルグを経験済みである。

         

 今回のベルリン、ライプチヒ、ワルシャワもそれと関連する。ベルリンはまさに象徴的な境界線の都市だったし、ライプチヒとワルシャワは東側の都市であった。

 しかし、私のそんな個人的な思いを上回って、この旅を実現させてくれたのは、わが畏友K氏の存在だった。彼は私と同郷の岐阜県人だが、知り合ったのは名古屋で私が居酒屋を営んでいた折であった。
 彼は当時、河合塾の講師をしていたが、同時に哲学や精神病理学の研究に邁進し、それらの成果が評価され、1984年にはベルリン自由大学客員研究員として渡独した。それ以後の彼の活躍ぶりは以下を参照されたい。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%95%8F%E6%98%8E

     

 ようするにその彼が、最終的にはライプチヒ大学の東アジア研究所日本学科教授を務め、退官後もライプチヒに定住しているのであるが、何かの拍子に帰郷した折など、旧知の友人たちが集い、彼を中心に会をもつのがしきたりとなり、私も何度かそこで彼との旧交を温めた。

 2010年代の後半のそんな機会、私は東欧圏へのそんな興味を話したところ、「それなら案内するからおいでよ」と彼がいってくれて、俄然それが現実味を帯びてきた。私は即座にそれを決意し、彼との間にその実現を煮詰めてゆくこととなった。

     

 ところがである、ちょうどその頃からあの憎っくきCOVID-19が、地球規模でのさばり始めたのである。せっかくの私の旅はこうして数年の遅延を余儀なくされた。
 しかもその数年、80歳から85歳の数年は、私の足腰の機能を劣化させるに十分な期間であった。

 しかし、そんな私がなんとかそのハンディを押し切って、ほぼ予定通りにこの旅を実現し得たのは、繰り返すが計画段階からのK氏の身を呈しての援助の賜である。
 彼の住む、ライプチヒでの歓待は無論のこと、初日のベルリン空港までの出迎えと私が泊まるベルリンのホテルまでの案内、ベルリンでの私の行き先についてのレクチャーなどなどを始め、旅行中は終始、彼とのLINEを通じてのTV電話のやり取りなどが、私の水先案内を努めてくれたのであった。

     

 そんなわけで、彼なくしてはこの度の旅は語れないのだが、それに痛く感謝しつつ、以下それらの内容を紹介してゆきたい。
 また、このK氏との具体的な交流も述べてゆきたい。

写真はいずれもセントレア空港からヘルシンキ空港経由で行ったため、その途中ヘルシンキ空港でのもの。

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尾張瀬戸へ行く・最終回 ん〜、飲めなかった!

2024-07-03 17:40:56 | 写真とおしゃべり

 瀬戸についていろいろ書いてきましたが、肝心の街そのものについてはほとんど触れて来ませんでした。
 瀬戸と言えば陶磁器類一般が「瀬戸物」と言われるほど、いわゆる陶器の街として著名ですが、最近それを凌ぐ勢いで瀬戸の街の名前を広めたのに、この町出身の藤井聡太棋士の快挙があります。 私が出かけたのは彼がそのタイトルのひとつを失う前でまだ八冠を保持していましたので、街のあちこちにはそれを誇らしげに告げるポスターや展示がありましたそれらは街角と言わず商店街と言わず公の場所といわず、あちこちで目にしました。

                

        
 瀬戸蔵ミュージアムを出て、あらかじめ調べておいたアーケード付の2つの商店街を回ってみました。ひとつは末広町商店街と言うところで緩やかにカーブをしたその両側の店は、ああ、お定まりのシャッター街で、 平日の午後ではありましたが、私以外に歩いている人はいませんでした。したがって見るべきところもほとんどありません。
 ただひとつかすかな希望を持ったのは写真で見るように、明らかに店舗改装、ないしは新し 店づくりをしているところが一軒見つかったことです。

         

         

 商店街そのものは途中で諦めましたが、そこからややそれたところに面白いものがありました。それはでっかい涅槃像なのですが(涅槃図というのはご承知のようにお釈迦様が亡くなられるた際、その高弟や一般の人々あるいは絵によっては様々な動物たちが横たわるお釈迦様の取り囲んで嘆き悲しむ図)、それがお釈迦様の涅槃像に模した陶器製の 大きな猫によって作られているのです。
 そこに至って初めて私以外の親子連れと出会いました。その軽装ぶりからして地元の人ではないだろうかと思いました。

          

     
 またその涅槃像の置かれた広場の端には 福猫バスと命名されたボンネット型のバスが展示されていましたが、ナンバープレートなども現存のもので、まだ公道上を走ることがあるのではないかと思います。

     
 
          
   本町商店街近くの神社の鳥居 コンクリート製だが根元あたりは陶器 サスガ

 末広町商店街を離れてもう一つの頃は尾張瀬戸駅直結するもう一つのアーケード商店街 本町通りと向かいました。
こちらの商店街は駅と直結するという利点もあってか回転中の店舗数はいささか多いような気がしましたが、しかしここも閉まっている店の方が圧倒的に多い有様です。
 藤井棋士の対局の折など、よくその故郷瀬戸からの中継と言うことで行われる商店街のシャッターにそれを大きな将棋盤に模して行われている対局の場も見ました。しかし、その周りにやはり人影はありません。
 私の他に1人ないしは2人を見かけたでしょうか。そのうちの1人はおそらくキョロキョロとあたりを見回しているその挙動から推察して外部からやってきた観光客だと思われます。

         
     
 そうこうしているうちに夕刻に近づきました。当初の私のブランでは、駅の近くにあるできるだけ瀬戸らしい雰囲気の居酒屋にでも入って、その風情を楽しんでから電車に乗って帰ろうと言うことでした。
 したがって本町商店街をはじめ。それらしい 居酒屋を見つけるための探索でもありました。にもかかわらずそれらしい店がないのです。カフェ風の店は二、三ありましたが、私のようなジジイがはストローで何かを突っついているいう様は頭に描くだけで御免被りたいものです。
 
 居酒屋・居酒屋・居酒屋・・・・ありません。ここでハードルを低くしました 。瀬戸らしい居酒屋と言う条件は諦めて、もうどんな居酒屋でも良い、全国チェーンの居酒屋でも構わない、とにかく歩きまわった疲れを癒しちょっとしたうまいものを肴に一杯やれれば良いと思って探して歩きました。
 この条件ならばどこの駅へ行ってもその駅の近辺には必ずあるはずなんです。にもかかわらず瀬戸駅の周辺にはそれらしいものが見当たらないのです。瀬戸の人たちはアフターファイブの夕べの楽しみ方を知らないのでしょうか。まるで20世紀初めのアメリカの禁酒法時代の街へ迷い込んだようで、正直いっていささか愕然としました。
     
 すっぱりと諦めて重い足取りで瀬戸駅のホームへ立ち折から発車間近の電車に飛び乗りました。結局、私がそれらにありついたのは終点の栄町駅からさほど遠くない地下街の中にある酒津屋と言う居酒屋でした。ここは時折、顔をのぞかせるのです。
  ここは栄町地下街の中でも一番庶民的で飾り気のない店だと思います。板場と若いオネェさん二人で切り回していて、早い、安いという実質本位の店なのです。

 あいにく私が行った時は満席でした。しかし疲れた足を引きずって他の店を探し回るのも億劫でしたので、オネェさんにしばらく待たせて貰っていいかと訊くと、「ウン、すぐ空くから・・・・」との答え。事実五分後には自分の席へ。
 「何にする」「お酒は『可(べし)』。冷でね。それと赤身と〆鯖」「ハ~イ」
 しばらくしてそれらが来る。お酒のグラスは二つで、一つは普通に注いで、もう一杯は半分。「どうしたのこれ?」と私。「待たせたからサービス」と笑顔のオネェさん。ああ、至福!
 あとは串カツと、土佐の「酔鯨」で幕。う~ん満足。オネェさん、ありがとう!

 瀬戸の居酒屋でこんな締めがしたかったのですがそれが叶えわなかったのは残念。

 これでもって7回の瀬戸物語の連載は終わりですが、その最終が瀬戸ではなくて名古屋であった事はちょっと残念です。まぁしかし、瀬戸の商店街のあの衰退を見、そこの人たちが懸命に励んでもでもなおかつ追いつかない状況を見るにつけ、沈んだ気分は避けられませんでした。かつて、商店街活動も経験したことがある私にはとりわけグッと迫るものがありました。
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尾張瀬戸を訪れる・2 姉と弟

2024-06-18 17:00:50 | 写真とおしゃべり

 三〇度を超すかもしれないと予報が告げるなか、名古屋の栄町(地名は「栄」ですが駅名は「栄町」)から名鉄瀬戸線で「尾張瀬戸」へと向かいました。

 途中、矢田川を渡り、守山区(名古屋へ合併する前の守山市)から尾張旭を経て瀬戸へ至る路線は途中で高架化のための工事区間などがありましたが基本的に変化はありません。
 終点、尾張瀬戸駅の ふたつ手前、今は新瀬戸駅(それとクロスする愛知環状鉄道の駅名は瀬戸市駅)となっいてるところはかつては尾張横山駅といわれていました。その駅南の線路に沿うようにしてかなりの面積をもつ製陶所をもっていたのが、前回述べた私の養母の姉妹の嫁ぎ先の親戚でした。多分、私の養子縁組の仲立ちをしたところです。

         

 駅前を通りに挟まれて流れる瀬戸川 私が少年時代に来た頃は、各陶磁器製造所からの排水のため、土色に濁りきって、川岸には粘土がへばりついていた いまは水は清らかで、泳ぎ回る魚影を確認できた ついでながら、当時の各陶磁器の窯は亜炭を炊いていたため、空はその煙で真っ黒だった

 それもあってか、そこへはよく行き、製陶所の器具を眺めたり、仕掛品を見たり、そして時折、すぐ近くを行き交う瀬戸線の電車を見ていたものでした。
 
 その箇所には昔の面影はまったくなく、その面積いっぱいのようなマンションが建っていました。その親戚がオーナーなのか、それともその地を手放してしまったのかはわかりません。親しかった従兄弟は随分前に亡くなり(私より20歳近く上)、その兄弟姉妹とのつながりも途絶えてしまったからです。

         

             駅近くの和風建築 陶磁器屋さんらしい

 終点の尾張瀬戸駅に降り立ちました。
 駅舎を出ると、瀬戸川を挟んで東西に走る通りがあります。この辺の地理的な感じは70年以上前とほとんど変わりありません。
 駅頭に立って、まずは南方の交差点を注視します。ここには、立派な歯科医とその住まいがあり、その面積もかなりのものでした。しかし、もはやそれはありません。多分その跡地だと思うのですが、そこには立派なホテルが建っていました。これはどうもホテルチェーンの一つらしく、かつての歯科医とは関連なさそうです。多分土地を売却したのだろうと思います。

     
 瀬戸蔵ミュージアム(次回にでも紹介)に付帯するタワーから街全体が見渡せるというので登ってみる エレベーターは4階までしかなく、そこから上は階段を登る しかも30度近いのに空調はなしで、ガラス越しの陽射しが容赦なく照りつける

 なぜその歯科医にこだわるかというと、私の2つ上の姉は、そこへ養女として入ったからです。姉と私が再会したのはもう40年ほど前でしたが、その後に姉とともにそこへ挨拶に行ったこともあります。
 瀬戸では一等地の名だたる歯科医でしたから、姉はさぞかし裕福な生活を送っただろうと思われるかもしれませんが実はそうでもなかったのです。

 それは、養子をとる動機と関連します。どういうことかというと、私の場合は開業したての材木商の小商人でしたが、子どもが出来ないために是非と望まれて養子に来たわけです。それに対し、姉が引き取られた歯科医にはすでに姉妹二人がいたのですが、引き取り手がない女の子がいるのなら、可愛そうだし、余裕もあるから引き取ってやろうかというのが動機だったのです。

         
          そのタワーから撮った瀬戸川沿いの写真 次も同様

 籍も入れてくれて、衣食住にも困ることはなかったのですが、すでにいた姉妹とはやはり扱いに歴然とした差異がありました。その待遇は娘というより使用人風だったようです。その扱いの差がもっともはっきりしたのが進学についてでした。上の姉妹は高校はもちろん、大学まで進んだのですが、私の姉は中学卒業時、高校進学は許されず、手に職をつけて嫁に行けるようにと裁縫や縫い物の手習いに出されたそうです。
         
 その後、姉は、瀬戸市内に住む名古屋の繊維問屋へ勤務する男性と結婚し、さらに彼は、静岡県内にチェーン店を数か所もつアパレルショップの経営者にヘッドハンティングされて、複数の店を任されることとなりました。
 
 そんなわけで、私が姉と再会した折、姉もまた静岡県内のショップを一つ任されてキビキビと働いていました。

 ちなみに姉の相方、私の義兄ですが、彼は享栄商業時代、のちのプロ野球の大投手、金田正一と同級生で、一緒に野球をしていたことがあるといっていました。

 今回は、尾張瀬戸の駅頭に立ったところで終わりそうです。
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尾張瀬戸を訪れる・1

2024-06-16 16:40:53 | 写真とおしゃべり

 人の生涯には、様々な転機があります。それは自ら決断したものであったり、自分の意志にかかわらず周りの状況などからそうなってしまったものなどいろいろでしょう。
 私が自分の生涯を振り返ったとき、まだ物心つかない前に、そうした転機を迎えていたことが事後になってわかってきました。

 そのひとつは、私が生まれてまもなく、その母が亡くなってしまったということです。いわゆる産後の肥立ちが悪くというのでしょうが、その意味では私は鬼子というべきかもしれません。

         

      名鉄瀬戸線栄町駅で 地下駅のため水漏れがもたらしたフォルム

 私の実父は、もともと女系の家に婿養子に入ったのですが、 その妻たる私の母の死後、やはりその家系を守るべく、母の妹と再婚をすることになりました。これは 戦前の「家を守る」という不文律の考え方のもとではよくあることでした。

 問題はその母の妹というのが女学校を出たばかりの18歳の若さであったということです。その若い彼女(つまり私の叔母)に、乳飲み子の私と私の2歳上の姉を養育することはとても不可能だったのです。

         

        私が乗る列車が入線してきた 折り返し尾張瀬戸行になる

 「家」をリセットするためには、姉と私は余計者になってしまい、親戚中をたらい回しにされた結果、それぞれ別のところへ養子に出されることになりました。私は岐阜へ、そして姉は愛知県の瀬戸へでした。
 こうして瀬戸は、私の実の姉の住まいではありましたが(これは実は、私が40歳過ぎてから知ったことです)、それのみではなく、私にとってもある意味をもっていたのは、私が岐阜へ養子に入った際、その仲立ちをしたのは瀬戸にいた私の養母の親戚筋だったからですです。

          

                尾張瀬戸駅到着

 ですから瀬戸は、実母を亡くすという第一の転機に次ぐふたつ目の転機の場所、つまり、岐阜の養父母と家族になるということが決められた場所ということになります。
 そんなこともあってか、幼少のみぎり、私はよく養母に連れられて瀬戸へ行ったことがあります。それというのも、養母には10人の兄弟姉妹があって、そのうちの三人の姉妹が瀬戸に嫁いでいて、そのうちの長姉の家が、私の養子縁組を斡旋したらしいからなのです(これも四〇歳過ぎに知ったことです)。

     

               尾張瀬戸駅ホームにて

 養父が戦争に取られ、敗戦時に満州にいたため、ソ連軍によってシベリアへ抑留されたまま消息不明であった時期、養母は心細く思い、私を連れて縁のある瀬戸へ何度も訪れたのでしょう。

 むろんその後も、養母の姉妹の家での冠婚葬祭などに、何度も訪れたことがありますが、私にとっては幼少の頃に訪れた瀬戸は忘れがたいものがあるのです。

     

      尾張瀬戸駅 私が懐かしいのはこの駅ではない 次回にでも紹介

 前置きがダラダラ長くなる悪癖のせいで、まとまりがつかなくなっていますが、これはこの度、改めて瀬戸へ出かけた経緯と関連するのです。つまり、まだ意識も定かでない頃、私の人生がこのように始まったという土地を再確認してみようという思いもあったのですが、同時にこれが見納めというちょっと感傷めいたものもありました。

 以下は、たった半日間の瀬戸体験ですが、とても一回では無理なので、日にちをまたいで三々五々書いてみます。

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近場の風景 意外なものがまだあった!

2024-06-09 15:04:49 | 写真とおしゃべり
 わが家から数百メートルのの箇所に所要で出かける。あまり来なかったり、来てもしげしげとあたりを見渡したりしない場所がけっこうある。
     

 帰途、多少の回り道をしながら散策。
 この田植えの時期しか配水されない水路に、カルガモが一羽。どうやら母鳥から独立したばかりの若い個体のようだ。なんかドギマギして落ち着きがない。私が接近したせいもあるが。

     

 近くの生け垣に、埋もれるようにして咲いているクチナシを見つけた。
 そういえばかつて、わが家にもクチナシがあった。入手した経緯も覚えている。半世紀以上前のサラリーマン時代、大きな背負い籠(通称:ショイカゴ)を担いだ女性二人が会社のオフィスにやってきた。
 訊けば山口県からやってきた行商だという。ショイカゴから食い物など含めた山口の物産をいろいろ取り出し、買ってくれという。

 たまたまオフィスにいた社員が、好みに応じてさまざまなものを買った。その折、私が買ったのがクチナシの苗であった。二株ほど買ったその苗は、その後、今頃になるとかぐわしさとともに白い花を付け、わが家の庭を賑わしていたが、いつの間にか、他の植物に侵食されたのか、姿を消してしまった。

 会社のオフィスに、地方からの行商の人たちが気軽に立ち寄った古き良き時代を思い出した次第だが、その折気づいたことに、その女性たちが話す山口弁が、「~しやぁ」とか「みやぁ」とか「~だぎゃ」とか、それに「~しんさい」という名古屋弁や岐阜弁にも似ているということであった。
 それをその女性たちに話すと、「この地区ではよくそう言われるんですよ」と言っていた。

     
         

 最寄りの幼稚園を通りかかる。家の子どもたちも行っていたところだ。その横にある駐車場も、幼稚園の雰囲気を備えていて微笑ましい。

     

 近くにある国道21号線の交差点に差し掛かる。ここは、郊外近くを走る国道と、岐阜市内中心部を結ぶ道路の交差点で、けっこう交通量が多い。将来の高架化が計画されているが、その完成時には私はもうこの世には居まい。

    

 広い道路から集落の中に入って進むと、水路の端にイグサの群生を目撃する。これは随分前に見かけたことがあり、この辺の自然環境が激変するなか、「おう、お前無事で生き延びていたか」と声をかけたくなるくらいだ。

 ちなみに、イグサの和名は「い」であり、これに「草」がくっついて「イグサ」なので、和名としては最も短い植物となる。都市でいえば「津」が短いのと同じだ。

     

 次はすぐ近くの洋菓子屋さんの駐車場のエントランス付近のミニ庭園。何となくそれらしい雰囲気が出ている。

     

 帰宅。最後はわが家の紫陽花。今年は赤が例年に増して鮮やかなような気がする。

 これだけ歩いても5,000歩しか稼げなかった。
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人工の建造物、そしてそこから見える風景@岐阜

2024-06-07 13:06:14 | 写真とおしゃべり

 所用で岐阜ふれあい会館にあるオフィスに。
 この中には、岐阜では随一のコンサートホール、サラマンカホールがある。今日は残念ながらコンサートとは無縁の事務的な用事であったが、用件が終わったあと、この先のコンサートの予定のパンフをあさってきたので、日程が合うものは来たいと思う。

       

      

 このフロアの写真を撮っていたら、やや派手っぽい衣装の6,70代ぐらいの女性がつかつかとやってきて、「いま、私の写真を撮ったでしょう」と詰問された。
 「いやいや、あなたが通り過ぎるのを待ってシャッターを押しましたよ」と、このホールで撮ったスマホのすべての写真を再現してみせた。

     

     
 
 「アラ、ほんと。ごめんなさいね、疑ったりして」と彼女。
 あらぬ疑いをかけられたわけだが、不快感はなかった。彼女の抗議の仕方、その引き際がどこかさっぱりしていて、とても自然だったからだ。
 変に矛盾した話だが、そんな彼女の写真を撮っておけばよかったと思ったほどだ。

          

 ここまでの5枚の写真はこのふれあい会館で撮ったもの。

 その後、せっかくここまで来たのだからと、すぐ近くに昨年はじめに出来上がった新しい岐阜県庁舎へ立ち寄る。ここでの見どころは、20階にある360度が見渡せる展望回廊だ。長年県民税を払い続け、それがこの新庁舎の建材の一部になっているかもしれないのだから、それを見ておかない手はない。

          
  
          



 20階へ上がる。平日の午後とあってか ほとんど人影は無い。エレベーターから出た所はほぼ中央部分なので、そこを起点に時計回りで回ることにする。
 かつてこの場所に県庁ができたおり、なぜ田んぼの中との批判もあったが、そのせいで周りには高い建物は全くなく、したがって遮るものがない展望は360度どこまでも広がる。

      
          
 
      
 
 最初は北東部、 岐阜市の中心部で 右側の高いビルのあるあたりがJR岐阜駅である。 そして中央の山が岐阜のランドマークともいえる頂上に岐阜城をいただく金華山である。

      
 
 次は南東方向で、右上に白く見えるのは一宮市のいわゆる138タワーである。 これは一宮(イチのミ・ヤ)との洒落で できた138メートルの展望塔である。 そのすぐ下に広がる緑の帯は木曽川であり、これが岐阜県と愛知県の県境をなしている。

      


 続いては、南南東の名古屋方面を望むもので、中央の白い塔は稲沢市にある三菱の高層エレベーターの実験棟である。そしてその左側が名古屋駅周辺の高層ビル街である。

     

 南西部に目を移すと、長良川があり、その向こうには養老山脈が連なっている。

      
 これは西側。完全な逆光だが、中央の建物はここへ来る前に行ってきたふれあい会館で、その背後に光っているのは長良川である。さらに背景に聳えるのは伊吹山である。

          

 最後は、北側眼下、国道21号線から県庁へのエントランスの並木道である。この道は緑に囲まれゆったりとしていて、私の好きな通りである。

          
 この回廊の床は、まさに「岐阜は木の国」、と言われるようにタイル等ではなく木材が使われている。かつての材木屋の息子としては、 木材についてはやはり好ましい印象を持ってしまうのだ。

      
 4時を回った帰り際、来たときよりもかえって人影が増えていた。

      
 下に降り、駐車場に歩を進めていると、庁舎前を新しい消防車が差し掛かるのに出会った。

 今日は、人工の建造物、ないしはそれから見えるものを味わった半日であった。
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山車のからくり人形が私のために文字を書いてくれた@大垣祭

2024-05-15 16:03:01 | 写真とおしゃべり
 5月12日、校下の人たちと大垣祭りに出かける。
 この祭りは私にとって思い出深いものがある。5歳の折、大垣郊外へ疎開した私にとって、その集落の鎮守の森のお祭りなど、細やかなとはいえ温かみのある祭りは経験していたものの、より規模の大きな、近郷近在から人が集まるような祭りは、この大垣祭りが初めてだったからだ。しかもそこで初めて山車(だし)というものを見た。

 敗戦後、少し落ち着いてだから1946年か47年だったろう。まだ、父はシベリアへ抑留されたまま、その生死すらわからない頃で、母と二人で出かけた。駅前通りに勢揃いした山車は、それぞれのからくりや芸などを披露していた。
 私の印象に残ったのは、瓢箪鯰という出し物のそれで、瓢箪で鯰を捕らえようとするのだが、鯰はのらりくらりと逃げ回るというものだ。だいたい、あの小さな瓢箪の口に鯰が入るわけがない。にも関わらずそれでもって鯰を執拗に追いかけるというそのシュールな滑稽さにすっかり心惹かれた。

          


 この瓢箪鯰、後年、改めて調べたら、その「捕らえようのなさ」から「要領を得ない者」を指すとして、大津絵などでは猿が瓢箪で鯰を抑えるという絵柄で風刺画の題材にされ、浮世絵などでも描かれたという。ここに載せたのは歌川国貞によるものである。

     
      
        
         
     

 肝心の大垣祭りだが、12日は不幸にして天候に恵まれず、雨自体は強くはなかったのだが、横殴りの風を伴うもので、本来なら各町内から巡行で引き回された13基の山車が所定の歩行者天国で勢揃いするはずだったが、その巡行自体が中止になってしまった。
 ただし、各町内の山車蔵での屋内公開はしているという。
 
      
       
      この上下合わせて13基の山車が勢揃いする予定だったが・・・・

 そこで、中心街に近い数カ所の山車蔵を観て歩いた。京都や飛騨高山のそれらに比べると、その絢爛豪華さではかなわないが、そのそれぞれが、戦火などの歴史の苦難を乗り越えて存続してきたという伝統の重みを持っている。
 それら一つ一つを説明していると長くなるので、私自身が面白い体験をしたもの一つを紹介しよう。

     
     
                  

 それは菅原山車、別名天神山車といわれるもので、名前からして菅原道真にちなんだ山車で、この学問の神様にちなんだ山車のからくりは、手に筆を持った人形が、相手が掲げるA4ほどの大きさの額の白紙に、文字を書くというものだが、その文字が決まったものではなく、第三者のリクエストに応えてどんな文字でも、また短い熟語でも書くことができるというのがみそである。

     
         
      下の二人が書き手と受け手として頭上の人形を操作している
 
 ここまで来ると、歯車やゼンマイを用いた自動人形では不可能で、その人形の所作を操作する人の業がものをいう。しかも、直接人形の腕を持ってするのではなく、人形の下の段(普段は覆いに隠されている)からの紐や棒を使ったリモート操作だから、大変な熟練を要する。
 この山車蔵では、山車に積むその部分を特に降ろして、その操作の過程を公開していた。しかも、その書く文字を観衆からのリクエストに応じるという。私の前の人が、「和」という文字をリクエストしたのに対し、私は意地悪く、画数の多い「愛」を依頼した。

 お囃子のテープをバックにそれらが書かれてゆく。対面する白紙の額を掲げた人形に対面する操作手が、慎重な操作で文字を書く。やがて「和」の文字が墨色鮮やかに書かれる。ただ書かれたというだけではなく、偏と旁のバランスもよく、書かれた文字に味がある。
 続いて、私の「愛」の文字。見守る観衆の中で、私がいちばん緊張し、固唾をのんでそれを見ていたと思う。操作手の慎重で繊細な動きのうちに、人形の持つ筆が意志ある人のそれのように動き、白紙に文字が浮かび上がって来る。

      
          

 何分ぐらいかかったろうか。「愛」の文字がくっきりと浮かび上がったとき、私の肩に入っていた力がフッと薄れた。書かれた文字が、額からツッと離れてひらひら舞う。実はこれは、額を持っている人の方の操作で、この人は文字の書かれる間、額をホールドするとともに、書き終わった際、それを取り外す操作をしているのだ。
 で、そのヒラヒラ舞って落下した「愛」の書かれた紙であるが、それはリクエストした者に与えられるというので、ありがたく頂いてきた。感謝の印に近くの賽銭箱にジャランと硬貨を投げ入れるのを忘れはしなかった。

 写真のように、文字の均整がちゃんととれているところへもってきて、その線が均一ではなく凹凸があることに、操り人形を介して書かれたというなんともいえない味がある。
 たまたまもっていた他の紙に挟み、丸めて皺にならないように持って帰った。色のついた紙をバックにして、部屋に飾ろうと思っている。
 幼かった私が、戦中戦後の苦難の時代を過ごした大垣の祭りのモニュメントとして部屋に掲げておこうと思う。

     

 山車蔵巡りをしているうちに午後になり、風雨がやや激しくなってきた。同行してきた人たちとはかり、帰途につくことにした。
 しかしこのとき、主要部分をビニールで覆った一基の山車が、果敢にも遊歩道へと引き出されてきた。その山車は伝馬町の松竹山車。この山車は見ものが二層に分かれ、上部では弁財天のからくり人形が舞い、変身するという所作を行うのだが、下部の舞台では、着飾った子どもたちの舞踊が披露されるという唯一多用性をもった山車である。

      
     
                   
                   

 早速駆けつけて写真に納める。舞台では着飾った子どもたちが舞踊こそしないものの、ちゃんと乗っている。せっかくこの日を迎えた子どもたちのためにも、無理をして山車を出動させたのだろうか。
 しかし皮肉なことに、その頃から風雨は一層強まった。松竹山車は、後ろを跳ね上げるような独特の仕方で辻を曲がり帰っていった。
 
        

 大垣の街は、天候に恵まれた日に、もう一度訪れたい。最初に祭りの概要を掴むために入った大垣郷土館で買った諸施設の通しの入場券はまだ生きていて、「大垣城」や「奥の細道結びの地記念館」、そして「守屋多々志美術館」への入場が可能なのだ。

 
【おまけ】考えてみたら大垣は 、私の人生経験の早い段階でのエポックメイキングな時を過ごした土地である。戦中の国民学校への入学、襲い来る空襲、 敗戦の玉音放送、その後の混乱、父の消息不明のままの母子家庭、遅いくる貧困と食の問題などなど。
 ただし、正確には飢えはなかった。田舎暮らしで母屋は安定した農家で手伝いの報酬がもらえ、周辺の山野には食用になる野草やきのこ、藪の脇に生える筍、時としては松茸山の柵の外でとれた極上の松茸などもあった。
 川や池で捕れる魚介類も貴重なタンパク源であった。ときには、純天然のうなぎまで口にすることがあった。農薬など使っていない時期、どこで何をとって口に運んでも安全であった。思い出は尽きない。
 
 
コメント (2)
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