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六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

初夏の「初」が抜けて・・・・

2025-04-19 17:14:16 | 写真とおしゃべり

 暑い!岐阜は三〇度。もういいだろうと、通常の洗濯の他に、セーター、ベスト、半纏などの冬物をマニュアルを見ながら洗う。縮ませたりはしたくない。

 


 昼麺も、温かいスープのものはやめてざる蕎麦を作る。左側の器は一応蕎麦湯。蕎麦を手繰ったあと、薬を飲むのに使うなんて、年寄の食事なんてそんなものだ。
 そろそろ、冷や麦を仕入れてこなくっちゃぁ。


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萌える若葉

2025-04-18 02:50:32 | 写真とおしゃべり

 

 すっかり若葉の季節に。

 手前は紫陽花、右上は紅梅、中央は南天、左上は花が終わった連翹。

 木々の向こう側は隣の材木屋さんの土地。

 そういえば文部省唱歌に「萌える萌える若葉が萌える」というのがあった。

 https://www.youtube.com/watch?v=FYOtnMaKtug

 あらら、「かおる かおる」と「そよぐ そよぐ」しかでてこない。私の記憶違いのようだ。まっ、いいか。

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なんでもない日記 ある日名古屋へ

2025-02-25 15:29:27 | 写真とおしゃべり
     
          JR 岐阜駅ウッドデッキから駅舎をみる
      
                          車窓から 岐阜のランドマーク金華山 山頂に岐阜城
 
 先日、名古屋での読書会に出発。
 岐阜からJR,、快速で18分、普通で25分。だいたい普通を選んで乗る。
 普通は岐阜発で楽に座れるし、25分で多少の読書もできるからだ。
 
         
       JR 名古屋駅付近は人で溢れ、さほど安くない飲食店に行列も

      

 名古屋駅から会場に向かう途中の「財布レス」ホテル。無料か、カードや電子マネー以外受付禁止かと思ったらサイプレス(cypress)だった。意味は糸杉、悲しみの象徴だという。だからゴッホの糸杉は満天の夜空にそびえていても淋しいのだろうか。

 名古屋近くのレンタルルームで読書会。
 黙読後の解釈、感想の交換。
 今回読んだ歴史的事件に関する部分は、リアルタイムで経験していたのは私のみ。
 だからといって、事態をもっともよく理解しうるのが私ということでもない。

 3時間があっという間に過ぎる。
 外はもうすっかりたそがれている。

         

     

 懇親会・・・・というと品が良いが、要するに二次会のダベリング。
 しかし、これが私の世代とは異質な問題などが提起されて面白い。

 岐阜での終バスに間に合う時間に帰る。
 腰痛に悩み、やや離れたバス停から歩く冬の夜道はさみしい。

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まだまだ咲かない。

2025-02-20 16:43:40 | 写真とおしゃべり

 今年は本当に寒い。上が昨年の今日の紅梅の鉢植え。下が同じ紅梅の今日。

      

      

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岐阜の夜景 JR岐阜駅のイルミネーション

2024-12-05 00:33:47 | 写真とおしゃべり

 岐阜に住んでいながら岐阜の夜景を見る機会は少ない。岐阜駅南方の住宅街(数年前までは半ば田園地帯ともいえたのだが)に住んでいるが、年齢とともに夜間の外出を控えているせいもある。
 また、学生時代や働いていた頃はず~っと名古屋だったので、いまでも名古屋のほうが人脈が多く、夜に至る会合などはほとんど名古屋だからである。その意味では、名古屋の夜景を見る機会のほうが多いといえる。
 
 昨日は、久々に岐阜の中心部近くで会合があり(名古屋からの出席者も)、限られた範囲とはいえ、岐阜の夜景に接する機会があった。
 それらを以下に羅列する。

          

 会合が行われたのは岐阜のメインストリート。地名は神田町。で、歩道上にこの垂れ幕。

       

    神田町通り(今の名称は長良橋通り)金宝町付近から名鉄岐阜駅方面を

 以下はJR岐阜駅大階段のイルミネーション

          
      
      
      
         
           
          イルミネーションを見下ろしてる黄金の信長公立像
   
        
        JR岐阜駅北広場 休日にはさまざまなイベントが行われる
   
            
           岐阜バス4番乗り場 ここからバスに乗って帰宅

            
                  バス前方の夜景
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夏休みの宿題提出 思い出の絵日記から

2024-08-31 16:48:52 | 写真とおしゃべり
 居座った台風のなか、夏が終わろうとしています。
 夏休みの宿題提出ですが、今年の夏のいちばんの思い出は10日間にわたるヨーロッパ(ベルリン・ライプチヒ・ワルシャワ)への旅です。
 その折撮った何百枚かの写真の中から、自薦の何枚かを掲載してこの夏の絵日記といたします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これのみ説明を入れます。自転車が差し掛かったのはかつて東西ベルリンを隔てていた壁の跡です。三十数年前なら、銃撃されていたかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
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ベルリン到着・ホテル周辺 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-07-28 02:25:16 | 写真とおしゃべり
 最初の目的地はベルリンで到着は昼過ぎだった。もちろん始めての地だ。しかし、全く不安はなかった。 というのは、全くありがたいことに、後日訪問することになっているライプチヒ在住のK氏がわざわざ2時間以上かけて私を空港で出迎えてくれたからである。
     
 氏の 案内でベルリン中央駅方面への郊外電車に乗る。私のホテルに近い駅は、中央駅から4つ手前の駅である。そこで降りる。 やや早いが、重い荷物を持ってウロウロするのもと思い、 そこから10分ほど歩いたところのホテルにまずチェックインをする。

       

 そこからまた駅の方へ戻り、駅周辺の小公園を取り巻くようにしてあるレストランの一軒に入る。K氏はかつてこの辺に縁があって土地勘があるようで 、その周辺では老舗せといわれたレストランである。

       

 そこで、 前菜盛り合わせとペペロンチーノなどをほおばりながら、K氏から明日からの2日間、回るべきベルリンの各地についてのレクチャーを受ける。
 それにしてもベルリンは大都市、要点を押さえるのも容易ではない。 でもこうして来た以上、できるだけこれといったところを見ておきたい。不安の中にも期待は広がる。
         

 ライプツィヒへ帰るK氏と別れて、ホテルへとって返す。ホテル周辺の地理やありようを掌握しておきたい。K 私にいわせれば、かつては銀座通りに続くような繁華街だったということだが、確かに大きな通りにはそんな雰囲気があるが 、少し離れると同時に場末っぽい雰囲気もあるというちょっと面白い街だ。

      
 
 駅からホテルまでの10分ほどの間に、本屋が三軒もあり、それぞれがちゃんと生きているというのはとても好ましく思われた。

     
 いよいよ明日からがまさに一人旅の始まりである。ホテル周辺を散歩した後、明日行くべきベルリンの街の概要について下調べをする。
 
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東側への興味とK氏のお力添えで 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-07-26 16:55:25 | 写真とおしゃべり

 7月上旬から10日間ほど、ヨーロッパを旅してきた。85歳にしてツアーでもない一人旅、しかもその語学力たるや中学生にも及ばないカタコトの英語、無理な試みであることは自分にもわかっていた。しかし逆に、今なら行けるかも知れないし、今行かなければもう行けないとの思いもあった。

 帰途、最後に乗るはずの飛行機が遅れ、一日遅れの遠回りというアクシデントがあったが、なんとか無事戻れた。
 
 戻った途端に事前に予定されていた連日の予定(そのうちのひとつは反ガザ虐殺の抗議デモ)などもあり、それらをタフにこなしているとひとにも言われ、自分でも調子に乗っていたが、さらに自宅のエアコンがぶっ壊れるなどの騒ぎがあり、それらと対応しているうちにやはり疲れがドッと押し寄せ、ここ一両日、ぐったりしていた。

     

 しかし、せっかくの旅、自分でも記録しておきたいし、知己の方々へもお知らせもしたい。にもかかわらず、グズグズしていると記憶はどんどん曖昧になり、その折の感慨も薄れてしまう。だから、そろそろ書き始めることとする。

 二つの動機があった。その一つは私の少年期後半から青年期に興味をもったロシア革命とソヴィエト連盟の成立、そして1945年第二次大戦後の東欧圏を統合したいわゆる東側の成立、さらには、1980年代後半に始まるその崩壊の歴史、その後の変遷を見届けることにあった。とはいえ、別に専門家風の突っ込んだ「研究」とは無縁な「見物」にすぎない。
 
 その意味では過去、2005年のハンガリー、スロベニア、そして2019年のサンクトペテルブルグを経験済みである。

         

 今回のベルリン、ライプチヒ、ワルシャワもそれと関連する。ベルリンはまさに象徴的な境界線の都市だったし、ライプチヒとワルシャワは東側の都市であった。

 しかし、私のそんな個人的な思いを上回って、この旅を実現させてくれたのは、わが畏友K氏の存在だった。彼は私と同郷の岐阜県人だが、知り合ったのは名古屋で私が居酒屋を営んでいた折であった。
 彼は当時、河合塾の講師をしていたが、同時に哲学や精神病理学の研究に邁進し、それらの成果が評価され、1984年にはベルリン自由大学客員研究員として渡独した。それ以後の彼の活躍ぶりは以下を参照されたい。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%95%8F%E6%98%8E

     

 ようするにその彼が、最終的にはライプチヒ大学の東アジア研究所日本学科教授を務め、退官後もライプチヒに定住しているのであるが、何かの拍子に帰郷した折など、旧知の友人たちが集い、彼を中心に会をもつのがしきたりとなり、私も何度かそこで彼との旧交を温めた。

 2010年代の後半のそんな機会、私は東欧圏へのそんな興味を話したところ、「それなら案内するからおいでよ」と彼がいってくれて、俄然それが現実味を帯びてきた。私は即座にそれを決意し、彼との間にその実現を煮詰めてゆくこととなった。

     

 ところがである、ちょうどその頃からあの憎っくきCOVID-19が、地球規模でのさばり始めたのである。せっかくの私の旅はこうして数年の遅延を余儀なくされた。
 しかもその数年、80歳から85歳の数年は、私の足腰の機能を劣化させるに十分な期間であった。

 しかし、そんな私がなんとかそのハンディを押し切って、ほぼ予定通りにこの旅を実現し得たのは、繰り返すが計画段階からのK氏の身を呈しての援助の賜である。
 彼の住む、ライプチヒでの歓待は無論のこと、初日のベルリン空港までの出迎えと私が泊まるベルリンのホテルまでの案内、ベルリンでの私の行き先についてのレクチャーなどなどを始め、旅行中は終始、彼とのLINEを通じてのTV電話のやり取りなどが、私の水先案内を努めてくれたのであった。

     

 そんなわけで、彼なくしてはこの度の旅は語れないのだが、それに痛く感謝しつつ、以下それらの内容を紹介してゆきたい。
 また、このK氏との具体的な交流も述べてゆきたい。

写真はいずれもセントレア空港からヘルシンキ空港経由で行ったため、その途中ヘルシンキ空港でのもの。

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尾張瀬戸へ行く・最終回 ん〜、飲めなかった!

2024-07-03 17:40:56 | 写真とおしゃべり

 瀬戸についていろいろ書いてきましたが、肝心の街そのものについてはほとんど触れて来ませんでした。
 瀬戸と言えば陶磁器類一般が「瀬戸物」と言われるほど、いわゆる陶器の街として著名ですが、最近それを凌ぐ勢いで瀬戸の街の名前を広めたのに、この町出身の藤井聡太棋士の快挙があります。 私が出かけたのは彼がそのタイトルのひとつを失う前でまだ八冠を保持していましたので、街のあちこちにはそれを誇らしげに告げるポスターや展示がありましたそれらは街角と言わず商店街と言わず公の場所といわず、あちこちで目にしました。

                

        
 瀬戸蔵ミュージアムを出て、あらかじめ調べておいたアーケード付の2つの商店街を回ってみました。ひとつは末広町商店街と言うところで緩やかにカーブをしたその両側の店は、ああ、お定まりのシャッター街で、 平日の午後ではありましたが、私以外に歩いている人はいませんでした。したがって見るべきところもほとんどありません。
 ただひとつかすかな希望を持ったのは写真で見るように、明らかに店舗改装、ないしは新し 店づくりをしているところが一軒見つかったことです。

         

         

 商店街そのものは途中で諦めましたが、そこからややそれたところに面白いものがありました。それはでっかい涅槃像なのですが(涅槃図というのはご承知のようにお釈迦様が亡くなられるた際、その高弟や一般の人々あるいは絵によっては様々な動物たちが横たわるお釈迦様の取り囲んで嘆き悲しむ図)、それがお釈迦様の涅槃像に模した陶器製の 大きな猫によって作られているのです。
 そこに至って初めて私以外の親子連れと出会いました。その軽装ぶりからして地元の人ではないだろうかと思いました。

          

     
 またその涅槃像の置かれた広場の端には 福猫バスと命名されたボンネット型のバスが展示されていましたが、ナンバープレートなども現存のもので、まだ公道上を走ることがあるのではないかと思います。

     
 
          
   本町商店街近くの神社の鳥居 コンクリート製だが根元あたりは陶器 サスガ

 末広町商店街を離れてもう一つの頃は尾張瀬戸駅直結するもう一つのアーケード商店街 本町通りと向かいました。
こちらの商店街は駅と直結するという利点もあってか回転中の店舗数はいささか多いような気がしましたが、しかしここも閉まっている店の方が圧倒的に多い有様です。
 藤井棋士の対局の折など、よくその故郷瀬戸からの中継と言うことで行われる商店街のシャッターにそれを大きな将棋盤に模して行われている対局の場も見ました。しかし、その周りにやはり人影はありません。
 私の他に1人ないしは2人を見かけたでしょうか。そのうちの1人はおそらくキョロキョロとあたりを見回しているその挙動から推察して外部からやってきた観光客だと思われます。

         
     
 そうこうしているうちに夕刻に近づきました。当初の私のブランでは、駅の近くにあるできるだけ瀬戸らしい雰囲気の居酒屋にでも入って、その風情を楽しんでから電車に乗って帰ろうと言うことでした。
 したがって本町商店街をはじめ。それらしい 居酒屋を見つけるための探索でもありました。にもかかわらずそれらしい店がないのです。カフェ風の店は二、三ありましたが、私のようなジジイがはストローで何かを突っついているいう様は頭に描くだけで御免被りたいものです。
 
 居酒屋・居酒屋・居酒屋・・・・ありません。ここでハードルを低くしました 。瀬戸らしい居酒屋と言う条件は諦めて、もうどんな居酒屋でも良い、全国チェーンの居酒屋でも構わない、とにかく歩きまわった疲れを癒しちょっとしたうまいものを肴に一杯やれれば良いと思って探して歩きました。
 この条件ならばどこの駅へ行ってもその駅の近辺には必ずあるはずなんです。にもかかわらず瀬戸駅の周辺にはそれらしいものが見当たらないのです。瀬戸の人たちはアフターファイブの夕べの楽しみ方を知らないのでしょうか。まるで20世紀初めのアメリカの禁酒法時代の街へ迷い込んだようで、正直いっていささか愕然としました。
     
 すっぱりと諦めて重い足取りで瀬戸駅のホームへ立ち折から発車間近の電車に飛び乗りました。結局、私がそれらにありついたのは終点の栄町駅からさほど遠くない地下街の中にある酒津屋と言う居酒屋でした。ここは時折、顔をのぞかせるのです。
  ここは栄町地下街の中でも一番庶民的で飾り気のない店だと思います。板場と若いオネェさん二人で切り回していて、早い、安いという実質本位の店なのです。

 あいにく私が行った時は満席でした。しかし疲れた足を引きずって他の店を探し回るのも億劫でしたので、オネェさんにしばらく待たせて貰っていいかと訊くと、「ウン、すぐ空くから・・・・」との答え。事実五分後には自分の席へ。
 「何にする」「お酒は『可(べし)』。冷でね。それと赤身と〆鯖」「ハ~イ」
 しばらくしてそれらが来る。お酒のグラスは二つで、一つは普通に注いで、もう一杯は半分。「どうしたのこれ?」と私。「待たせたからサービス」と笑顔のオネェさん。ああ、至福!
 あとは串カツと、土佐の「酔鯨」で幕。う~ん満足。オネェさん、ありがとう!

 瀬戸の居酒屋でこんな締めがしたかったのですがそれが叶えわなかったのは残念。

 これでもって7回の瀬戸物語の連載は終わりですが、その最終が瀬戸ではなくて名古屋であった事はちょっと残念です。まぁしかし、瀬戸の商店街のあの衰退を見、そこの人たちが懸命に励んでもでもなおかつ追いつかない状況を見るにつけ、沈んだ気分は避けられませんでした。かつて、商店街活動も経験したことがある私にはとりわけグッと迫るものがありました。
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尾張瀬戸を訪れる・2 姉と弟

2024-06-18 17:00:50 | 写真とおしゃべり

 三〇度を超すかもしれないと予報が告げるなか、名古屋の栄町(地名は「栄」ですが駅名は「栄町」)から名鉄瀬戸線で「尾張瀬戸」へと向かいました。

 途中、矢田川を渡り、守山区(名古屋へ合併する前の守山市)から尾張旭を経て瀬戸へ至る路線は途中で高架化のための工事区間などがありましたが基本的に変化はありません。
 終点、尾張瀬戸駅の ふたつ手前、今は新瀬戸駅(それとクロスする愛知環状鉄道の駅名は瀬戸市駅)となっいてるところはかつては尾張横山駅といわれていました。その駅南の線路に沿うようにしてかなりの面積をもつ製陶所をもっていたのが、前回述べた私の養母の姉妹の嫁ぎ先の親戚でした。多分、私の養子縁組の仲立ちをしたところです。

         

 駅前を通りに挟まれて流れる瀬戸川 私が少年時代に来た頃は、各陶磁器製造所からの排水のため、土色に濁りきって、川岸には粘土がへばりついていた いまは水は清らかで、泳ぎ回る魚影を確認できた ついでながら、当時の各陶磁器の窯は亜炭を炊いていたため、空はその煙で真っ黒だった

 それもあってか、そこへはよく行き、製陶所の器具を眺めたり、仕掛品を見たり、そして時折、すぐ近くを行き交う瀬戸線の電車を見ていたものでした。
 
 その箇所には昔の面影はまったくなく、その面積いっぱいのようなマンションが建っていました。その親戚がオーナーなのか、それともその地を手放してしまったのかはわかりません。親しかった従兄弟は随分前に亡くなり(私より20歳近く上)、その兄弟姉妹とのつながりも途絶えてしまったからです。

         

             駅近くの和風建築 陶磁器屋さんらしい

 終点の尾張瀬戸駅に降り立ちました。
 駅舎を出ると、瀬戸川を挟んで東西に走る通りがあります。この辺の地理的な感じは70年以上前とほとんど変わりありません。
 駅頭に立って、まずは南方の交差点を注視します。ここには、立派な歯科医とその住まいがあり、その面積もかなりのものでした。しかし、もはやそれはありません。多分その跡地だと思うのですが、そこには立派なホテルが建っていました。これはどうもホテルチェーンの一つらしく、かつての歯科医とは関連なさそうです。多分土地を売却したのだろうと思います。

     
 瀬戸蔵ミュージアム(次回にでも紹介)に付帯するタワーから街全体が見渡せるというので登ってみる エレベーターは4階までしかなく、そこから上は階段を登る しかも30度近いのに空調はなしで、ガラス越しの陽射しが容赦なく照りつける

 なぜその歯科医にこだわるかというと、私の2つ上の姉は、そこへ養女として入ったからです。姉と私が再会したのはもう40年ほど前でしたが、その後に姉とともにそこへ挨拶に行ったこともあります。
 瀬戸では一等地の名だたる歯科医でしたから、姉はさぞかし裕福な生活を送っただろうと思われるかもしれませんが実はそうでもなかったのです。

 それは、養子をとる動機と関連します。どういうことかというと、私の場合は開業したての材木商の小商人でしたが、子どもが出来ないために是非と望まれて養子に来たわけです。それに対し、姉が引き取られた歯科医にはすでに姉妹二人がいたのですが、引き取り手がない女の子がいるのなら、可愛そうだし、余裕もあるから引き取ってやろうかというのが動機だったのです。

         
          そのタワーから撮った瀬戸川沿いの写真 次も同様

 籍も入れてくれて、衣食住にも困ることはなかったのですが、すでにいた姉妹とはやはり扱いに歴然とした差異がありました。その待遇は娘というより使用人風だったようです。その扱いの差がもっともはっきりしたのが進学についてでした。上の姉妹は高校はもちろん、大学まで進んだのですが、私の姉は中学卒業時、高校進学は許されず、手に職をつけて嫁に行けるようにと裁縫や縫い物の手習いに出されたそうです。
         
 その後、姉は、瀬戸市内に住む名古屋の繊維問屋へ勤務する男性と結婚し、さらに彼は、静岡県内にチェーン店を数か所もつアパレルショップの経営者にヘッドハンティングされて、複数の店を任されることとなりました。
 
 そんなわけで、私が姉と再会した折、姉もまた静岡県内のショップを一つ任されてキビキビと働いていました。

 ちなみに姉の相方、私の義兄ですが、彼は享栄商業時代、のちのプロ野球の大投手、金田正一と同級生で、一緒に野球をしていたことがあるといっていました。

 今回は、尾張瀬戸の駅頭に立ったところで終わりそうです。
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