六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

落ち葉へのオマージュ・またはラプソディ

2012-11-30 17:48:14 | 写真とおしゃべり
 今日で霜月も終わりです。
 買い物に出た折に、近所の鎮守様の前を通りかかったら、何やら地面が賑やかです。
 そうです。落ち葉があちこちに群れているのです。

 幸いにも(?)、無人の社とあって、近所の人がボランティアで掃除をする以外、自然のまま放置されています。
 それにこの時期、掃いても、掃いても、すべてが落葉するまではキリがない状態です。
 きっと年末に、まとめて掃除という段取りになっているのでしょう。

 

 さして広くない境内ですが、花を愛で、若葉で目を癒し、紅葉を楽しんだあと、そのしんがりともいうべき落ち葉まで鑑賞できるのですから、こうした場所は大切にしたいものです。

 もっとも、落ち葉まで鑑賞の対象にするのが普遍的なものかどうかはいささか疑問ではあります。
 昨日出た親しい人たちとの会合でも、ある文化圏に属する人にとっては妙なる虫の声も雑音にしか過ぎないことが語られていましたが、そうした美的判断の分節化(何を美しいと感じ、何をそうでないと思うか)の違いは多分にあるでしょうね。

          

 もともと美的判断というのは、カントがいうようにある公理があって、そこからの演繹によって導き出されるものではなく、その共同体の成員の「共通感覚」のようなものとして事後的に形成されるものですから、ある人びとにとっては美しくとも、他の人びとにとってはそうでない場合はもちろんあるわけです。

 しかし、これを固定して考えることは大きな間違いでしょう。
 たとえば四季折々の微妙な変化を捉えうるのは日本人のみだといったような馬鹿げた独自性の主張です。極端な人は、それは日本人のDNA(?)に刻み込まれたものだと語りますが、これはある種のオカルティズムでしかなく、しかも、民族や、果ては人種までをも固定して規定する極めて危険な考えにまで行き着きます。

 
 

 先の述べたカントのいう「共通感覚」が共同体のなかで「形成される」可能性を主張するものだとしたら、それはある時期、ある場所で、ある一定の人々によって生み出されるもので、それが時代や場所によって変動しうることをこそ示唆しているのです。
 実際のところ、「日本人」とひとくくりにされる人びとの中でも、今や、虫の音を雑音と感じたり、落ち葉をゴミとしてしか感じない人が多数派を占めているのではないかとさえ思われるのです。

 そんななか、私が落ち葉に親和性を感じる理由ははっきりしています。
 いまや、私自身が落ち葉でしかないからです。
 しかし、地に落ちてもなお、なにがしかの主張や表現が可能なものでありたいと思ってはいるのですが、やはり無造作に踏まれたり、ゴミとして片付けられるのがおちでしょうね。
 あ、箒とちり取りが迫ってきた!
 







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延30万回のご来訪、ありがとうございます。

2012-11-28 22:00:54 | ラブレター
 

 お陰様で拙ブログの来訪者を示すカウンターが30万を超えました
 むろん、ちょっと覗いて「な~んだ」と去っていった人もいるでしょうが、「お気に入り」に入れて熱心にお読みいただく方もいらっしゃいます。
 内容やタイトルによって、その日のカウンターが跳ね上がるところを見ても、やはりこのディスプレイの向こうにいる多くの人たちを意識せざるを得ません。

 10年以上前、あまりポピュラーではないが知る人ぞ知るある音楽学者のページを覗いたら、そのカウンターが10万を超えているので驚いたことがあります。当時はその先生も私も、今のブログと違ってホームページで、私のカウンターはというと、わずか数千のところで停滞していました。
 しかし、その折のその先生のカウンターの数字は、ネットを介しての個人の情報発信、ならびにその受容の可能性を知らせてくれるいい刺激となりました。
 
 このブログはそれからさらに数年して、何の挨拶もなく、また、コンセプトの説明もなく唐突に始まっています。
 タイトルは「あかいもの同士」で、真っ赤な名鉄電車と、並行して走る道路のやはり真っ赤な郵便車のコラボの写真を載せています。加えて、若干の川柳を。
 この「あかいもの同士」は、頭に「W」をくっつければ「若いもの同士」になりますからダジャレのようなものですね。

 それから数年、さして力みもせず、日常茶飯の報告から、少旅行の見聞、映画や読書の感想などを淡々と語ってきたつもりです。
 加えて、私の年齢からくる戦争体験や戦後体験などもかなり書いてきました。

 いずれにしてもそれらが積もり積もって、延30万人の方々のご来訪を見ることとなりました。
 お越しいただいたすべての方にあらためて深く感謝いたします。

 これを機に、何かをどうしようという取り立ててのことなどないのですが、事情が許す限り続けてまいりたいと思います。
 年齢からくる情報の質の低下を恐れる気持ちはいくぶんあるのですが、そんなことで引っ込み思案になってはならないと自分に言い聞かせています。
 むしろ、このブログへの記載があるからこそ、よく見、よく聞き、よく学ぶことができるのだとポジティブに考えてゆこう思っています。

 ほんとうにありがとございました。
 これからもよろしくお願い致します。


   28日午後10時現在のカウンターは 300138 を示しています。
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初冬の身辺雑記

2012-11-28 03:46:32 | よしなしごと
 感心しながら読み耽る書があって、ここ2、3日、ほとんど外出していません。
 その結果、体重が2キロほど増えました。
 しかしもともと、少し痩せ過ぎぐらいでしたからこれでいい加減です。
 そこそこタッパがあっての60キロ行ったり来たりですもの、いいのじゃないでしょうか。

 
        赤かぶの千枚漬けです しっかり赤くなって、食卓が明るくなりました

 外出しないもう一つの結果は、ここに書くべき新しいこと、いわゆるNEWSに遭遇しないということです。
 ですから、別に無理して書くことはないのですが、なんとなく自分でも淋しいのです。
 おそらく、ブログ中毒ですね。

        
      これは乾しているところ これを漬け込んで3日目 そろそろ水が上がってくる頃

 そこで身辺雑記でお茶を濁します。

 赤かぶの千枚漬けを作ったり、白菜を漬け込んだり、疲れると窓辺の桑の木を眺めるなど本当にまったりした日常です。
 
 世の中、選挙がらみで色めき立っていますが、そして他のところではそれなりにコミットしたものを書いていますが、自分のブログにはあえて書きません。
 政治的中立を装おうなどとしているわけではありません。
 下手をすれば、戦後最悪の状況になるかも知れないというある種の危機感を持っています。

 
  あるところで桑の紅葉はさして綺麗じゃないと書いたら、反発したのかまあまあ見られるように

 あのおっちょこちょいと暴走じいさんが手を組んだ結果、キャスティング・ボードなど握って、それが新しく総裁に選ばれたひとと連立という事態になったらなどとつい考えてしまいます。
 しかし、あえてそれは書きません(ってほとんど書いてるじゃん)。

 そんなこと考えていると不愉快ですから、できるだけ綺麗なものを見て過ごしたいと思うのです。



当初、「お腹の調子の治ったひと」と書いた部分を、「新しく総裁に選ばれたひと」に書き換えました。
 理由は、下記コメントにありますように、「九条護。」さんから、 A氏の難病を揶揄するものではないかというご指摘があったからです。
 A氏の個人的な事情には一切関心がなかったため、その病気の詳細などについても知るところがなかったのであのように書いたのですが、それが、A氏、並びに同様の病気に苦しむひとを傷つけたとしたら、素直にお詫びいたします。

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私の「忠節橋物語」 少年は長良川を渡った。

2012-11-26 00:38:34 | 想い出を掘り起こす
 ある人のお見舞いに長良川の向こうにある病院に行った際、忠節橋という橋を渡りました。
 軍人勅諭の「一(ひとつ)軍人は忠節を尽すを本分とすべし」を思い起こさせる名前ですが、地元の人は慣れてしまっているようです。
 
 ちなみに岐阜駅からまっすぐ北へ向かう道は、戦前、「凱旋通り」と呼ばれていましたが、さすがにそれではと敗戦後、「平和通り」になりました。
 ところが近年の無機的な機能本意のネーミングの煽りで、その通りは「金華橋通り」に変えられてしまいました。ようするに、この道を行くと長良川にかかるどの橋に至るかということなのですが、なんかおせっかいな名付けですね。
 結果として市内を走る大きな三本の道は、長良橋通り、金華橋通り、忠節橋通りになったというわけです。

      

 で、冒頭に戻りますと、私はこのうちの忠節橋通りを北上したことになります。
 この忠節橋にはいろいろ思い出があります。
 1948年、まだまだ物資不足の折から、敗戦後、国内では最初に架けられた鋼鉄製の橋だとして、華々しいお披露目の行事が行われました。そのなかに、戦前から途絶えていた花火大会があったのです。

 当時、まだ大垣の郊外へ疎開していた小学4年生の私も、大人たちに連れられてそれを観に行きました。戦時中はもちろん花火大会などは行われませんでしたから、物心ついてから私が観た初めての花火でした。

 それから時は飛んで高校生になった折、この橋をわたって自転車通学をすることになりました。春も夏も、そして秋も雨降り以外は長良川の川面を見下ろしながらの快適な通学でした。
 しかし冬は大変です。川下に見える伊吹山の方角から吹きつけるいわゆる伊吹おろしは、容赦なく自転車を押し戻すのでした。
 あの折り、歯を食いしばって自転車を漕ぎ続けていた少年は、いったいどこへ向かおうとしていたのでしょう。
 いま考えると、幾分のナルシシズムをも交えてなんだかいとおしくなります。
 彼の行く末が現在の私だと知ったら、さぞかしがっかりすることでしょうね。

 やはり高校生の頃、この橋の袂で同級生の女性とデイトをしたことがあります。
 しかし、ただ黙って歩くのみでどうして良いのかわかりません。
 青臭いことを書いた手紙も一、二度交わしたかも知れません。
 あるとき、彼女が、その頃強かった野球部の選手と肩を並べて歩いているのを見かけ、私は身を引きました。というより、しっかり振られたわけです。

 20年ほど前、その女性から突然電話がありました。
 少し胸がときめきましたが、ようするに証券ウーマンになっていた彼女からの出資のお誘いでした。
 運用するほどのお金もありませんし、それに、そもそも投資といったことに関心がありませんのでと、丁重にお断りしました。

 昔のほろ苦い思い出に惹かれて、彼女のいうように投資に踏み切っていたら、その後の日本経済の破綻のなかで損害をこうむること必至でした。「ほろ苦い」思い出があわや「ドロドロの」思い出に変わるところでした。
 その野球部の選手とはその後ひょんな事で再会し、それなりに付き合いがあったのですが、先年鬼籍に入ったようです。私の二倍は長生きしても不思議ではないような頑丈な男でしたが。

      
    これのみネットから拝借。路面電車がまだあった頃。後ろの雪をかぶった山は伊吹山

 忠節橋に戻りましょう。
 私は一度、ここで死んだことがあります。
 夏休みの一日、私は友人とともにこの橋の袂へ泳ぎに行きました。
 暑いい日とあってかなりの人たちが泳いでいました。
 家からは数キロ離れていますので、あまり遅くならないうちに引き上げ、それでもなんとなく道草などしながら帰宅すると、父母が出てきて大騒ぎです。母などは涙・涙・涙といった有様です。

 事情を聞くと、私たちが帰ったあと、そこで同じ年頃の少年が溺死し、それを見た他の少年(私と同じ高校の生徒)がその死者を私であると証言したのだそうです。たぶん死者の背格好が私に似ていて、しかも私がその場にいたことを見ていたからでしょう。
 で、担任のところに連絡があり、その担任がつい今しがた、その悲報をもって訪れたというわけです。
 私が知らない間に私はこの世から除籍されそうになっていたのです。

 させてはならじと、私は逆に担任の家へと駆けつけました。
 携帯はおろか、電話もろくすっぽない時代の話です。
 皮肉なことにその担任の家は忠節橋の向こう側でした。ですから私は、自分の死亡現場を通ってそこへと向かったのでした。

 担任の家についたのはもう夕闇が迫る頃でした。
 施錠などしていない玄関の戸をガラガラッと開け、「こんばんは」といって入りました。
 「は~い」と返事があって顔見知りの奥さんが出てきました。
 そして、私の顔を見るなりその場にヘナヘナヘナと崩れ落ちました。
 まあ、黄昏時に死んだはずだよお富さんがいきなり現れたのですから無理もありません。
 今度は私のほうが慌てました。
 「お、お、奥さん、私は生きています」
 と、私。なんというセリフでしょう。
 (後で、奥さんから生涯であれほど驚いたことはないと聞きました)

         

 正気に戻った奥さんから聞いたところ、私の死に伴う緊急の打ち合わせのため、担任は学校へ行っているとのこと。
 私も慌ててすぐ近くの学校へ駆けつけました。
 その頃にはどうやら人違いらしいということが判明したようで、職員室へいってももう誰も驚きませんでした。
 教員たちから「人騒がせなやつだな」といった視線が浴びせかけられたのですが、そんなことは私の知ったことではありません。
 
 担任はボソリと、「お前でなくてよかった」といってくれました。
 その担任は、商売人には学問はいらぬと進学を認めなかった父を説得してくれ、大学への道を開いてくれた人ですが、やはり近年、ひっそりと亡くなられました。
 遺言で人には知らせるなとのことだったようで、私が知ったのもずいぶん後になってからでした。

 いかにも頑丈で無骨ともいう風情のこの橋を久しぶりに通り、そこはかとない思い出が沸き上がってきたので、それを書きとめてみました。
 思えば、この橋ができてから64年間の付き合いですから、いろいろあっても不思議ではありません。
 これが私の忠節橋物語です。


 
 



 
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千々に砕けたものはなんだろうか? リービ英雄を読む。

2012-11-24 01:51:06 | 書評
 リービ英雄『千々にくだけて』に寄せて

 2001年、NYの貿易センターなどを対象としたテロ事件の折、タバコを吸いたいばかりに日本ーアメリカの直行便ではなく、カナダ経由の路線を選んだため、事件の余波でアメリカへ入国できず、バンクーバーで足止めされた男の2、3日間の物語である。

 彼はアメリカ人で、母や妹と逢うためにアメリカに向かったのであった。
 隣国カナダでも、その事件の模様は終日TVを占拠し、男はしばしばそれから逃れようとするのだが、どうしようもなくそれらを観てしまう、というより観ざるを得なくなる。

         

 彼は暇に任せて初めて訪れたそのカナダの都市を徘徊するのだが、公園ではテロルの犠牲者を悼むイベントが行われ、商店のウィンドにはアメリカ国旗が掲げられるなど、否が応でもそれらを目にせざるをえない。
 TVでは5代にわたるアメリカ大統領夫妻が一堂に会する儀式が中継され、報復戦への国民的合意が形成されてゆく。
 TVや、そしてカナダの新聞でも「 IT'S WAR! 」という大文字が氾濫し続ける。

 アナウンサーは言う、「この悲しみを通じて地球はひとつになった」。そしてこの「ひとつになった地球」からはみ出た部分への戦闘が開始される。
 アメリカも、カナダも、そう、そして日本も加わる戦争が。

            

 アメリカの出自でありながら、今や20年以上にわたって日本に住み、日本語で小説を書き、中国など東アジアと往来している作者と思しき語り手にとっては、それらをさらに異国で宙ぶらりんなままに見聞するということもあって、事態はなにがしか非現実的なグロテスクなものに見える。

 タイトルの「千々にくだけ」たものは何であろうか。
 最初の提示は芭蕉が松島を詠んだ句「島々や千々にくだけて夏の海*」だったのだが、それは文字通り千々に砕けた貿易センターのツインタワーに転じ、それによってあらわにされた世界秩序の「異分子」との戦争へと至り、なおかつ、もはやそれらと無関係でいられないグローバルな状況下で錯綜する私たちそのものの揺らぎとなって波及する。
 私たちは、千々にくだけるものの内にあり、もはやそれを高みに立って見ることはできない。

 作者の出自を超えたトランスナショナルな立場が、そうした事態を冷静に見据え、文学作品として昇華することを可能にしているのだと思う。

        

 なお、作者は、東洋系の人は除き、最初に日本語で小説を書いた西洋人**である。
 「英雄」とあるが、日本人とはまったく関係はなく、本名(Ian Hideo Levy)にたまたまHideoが入っていたのでそれを漢字で表し、ペンネームにしたらしい。

 この小説を私が読んだのは、水村美苗の『日本語が亡びるとき』という刺激的な評論の延長上にあることはいうまでもない。
 それを前提にしても、彼の日本語は、簡潔で美しい。

=====================================================




*私が参照した限りで芭蕉の句は「島々や千々に砕て夏の海」となっていて、「くだて」とは微妙に異なる。ようするに「くだける」の主語に幾分のズレがあるように思うのだが、リービのテキストは「千々にくだける」という状況そのものに依拠しているのでとくに問題はないだろう。
 なお、この句の英訳は以下のようだ。

       All those islands!
       Broken into thousands of pieces,
        The summer sea.

**リービより先にラフカディオ・ハーンがいるだろうという声が聞こえそうだが、彼は小泉八雲という日本名を持ちながらも、ほとんど日本語を解さなかった。
 彼の作品は、その妻、小泉セツが収集した民話などを、「二人の間のみで通じる会話」をもとにハーンが英語で書いたもので、今日私たちが日本語で読むものは、林田清明などの日本語訳によるものである。
 なお余談であるが、この小泉セツは明治元年(1868年)に生まれ、1932年まで存命していて、私がもう六年早く生まれていたら同じ空気を吸うことができるところだった。



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「丸善」というか都市全体を木っ端微塵!

2012-11-22 16:19:21 | よしなしごと
 梶井基次郎というと、私のようなあまり熱心でない読者でも「桜」と「檸檬(レモン)」を思い起こします。なにしろ、彼にいわせると、「櫻の樹の下には屍体が埋まってい」たり、たった一個の檸檬が丸善をふっ飛ばしてしまうのですから。
 この例からすると、丸善はおろか都市全体を木っ端微塵にするようなレモンに出会いました。

 きっかけはこうです。
 親しくしていた友人夫妻からみかん箱入りのプレゼントが届きました。開けてみるとやはりみかんがつやつやと光っています。
 この段階で早速礼状を書きました。
 しかし、騒ぎはそれからでした。

 なにしろ老齢のこと、食べるスピードもゆっくりですから、そのまま上から順に食べていると、底の方へ至った時には幾つかが傷んでいることがあります。
 そうさせてはならじと、ほかの容器に移すことにしました。
 その時です、艶やかなみかんの下に何やらずっしりとしたものが手に触れたのです。しかも二個。

        

 古希を過ぎること四年を迎えたのですが、かようなものに遭遇するとはなんという天のめぐり合わせでしょう。
 そこには、赤ん坊の頭をはるかに超え、重さは一キロ、直径は一五センチもあろうかという黄緑色の塊が鎮座していたのです。
 「オロロキ、モモロキ、サンショロキ」で、しばらくは呆然とその場に佇みました。

 それでもやがて、こんなことに負けてはならない、「世の中は予定調和を破る偶然性に満ちているのだ」と日頃いっていたのは自分ではないか、と気を取り直し、警視庁の爆弾処理班よろしく慎重にその正体を確かめにかかりました。
 形状はラフランスのようですが肌合いは間違いなく柑橘類です。
 そしてそれには青紫の帯が巻いてあって「ジャンボ・レモン」とありました。
 そういえば、みかんの甘い香りとはやや異質な酸味を帯びた香りがします。

 しかし、それだけでは名前が分かったのみでその正体、とりわけ食物だとしたら、どのように食したらいいかわかりません。
 早速ネットの「ジャンボ・レモン」を検索しました。
 しかしです、ネットでのその多数派は、ただただ普通のレモンを大きくしたもの、せいぜい三、四倍ぐらいのもので、したがって用法は普通のレモンと変わりません。
 ただし、一部、私が目撃したものらしい情報があるのですがそれもはっきりしません。

     

 そこで、送ってくれた人に直接、尋ねることにしました。
 もらっておいてそんなことを尋ねるのは失礼千万な話ですが、「訊くは一時の恥、訊かぬは一生の恥」ともいいますし、ましてや老い先の短い身、訊いておけば閻魔様への土産話の一つにでもなろうというものです。

 で、尋ねました。
 「目から鱗」を期待したその結果は、なんと「目が点」に終わったのです。
 「私たちもどうやって食べていいか知らないの。だから、六さんならその調理法を見つけてくれるのではないかと期待しているの」
 エッ、エッ、エッ、なんと私は光栄にも「お毒見役」に選ばれてしまったのです。

 それからまたネットとの格闘が始まりました。
 しかし、そこから得た情報はわずかでした。
 まず、果肉、果汁部分は通常のレモンより酸味の刺激が弱いこと。
 したがって、普通にレモンの絞り汁として、あるいは焼酎とのカクテルに使えること。
 外皮と果肉の間の白い部分が多く(一センチぐらい)その部分も食用にできること。
 とまあ、そんな具合です。

     

 で、いよいよ調理の開始です。
 身を清め、家族とは水盃を交わして、いざ出陣です。

 まず半分に切りました。
 情報どおり、白い部分が目立ちます。
 洋食用のナイフやスプーンを使って果肉をえぐりだしました。
 通常のレモン絞りではとても無理なので、布巾に包んで絞り、果汁をとりました。
 ついで、外皮をむき、白い部分のみを集めました。
 ちょっとかじってみましたが、それ自身はやや渋みがあって単独での賞味は無理なようです。

     

 そこでそれを、細く短冊状に刻み、胡瓜、玉ねぎ、セロリなどとともにオリーブオイル主体のドレッシングで和えて、サニーレタスに盛り合わせました。
 これは正解でした。
 しゃきっとした野菜の間にあって、ソフトな口触りで適度なほろ苦さを添えます。
 いってみれば、私のような成熟した(?)大人の味です。
 ただし、あまりそれが多すぎると苦味が勝りますので、気をつけましょう。
 時節柄、鮭のムニエルなんぞと併せてもいいでしょう。

 え、お酒?
 写真に写っているポルトガルの赤と合わせました。
 日本酒ですか?
 そうですね、もっと細かくして何かの白和えに交えたら合いそうですね。
 ゴーヤの白和えもけっこう美味しのでそんな感じでしょうか。

 といったことで私の冒険譚の前半戦は終わったのですが、まだ後半戦が控えているのです。
 というのは、もう一個がまだ残っているのです。
 お読みになった方で、「こんな使い方もあるよ~ん」という方はぜひともご教示ください。
 煮詰めてジャムやマーマレードというのもありそうですが、根が居酒屋出身だものですから、そうした気長な料理は苦手なのです。

 あ、そうそう、これはだいじですぞ。
 果汁を絞りきった果肉の部分、使わなかった外皮の部分、これは捨ててはなりません。
 細かいメッシュの袋に入れて、風呂に浮かべました。
 湯殿の周りに馥郁としたレモンの香が立ちこめました。







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【小説を読む】水村美苗『本格小説』

2012-11-20 02:09:56 | 書評
 水村美苗の『本格小説』を読み終えた。
 彼女の日本語論(『日本語が亡びるとき』)に刺激を受け、その余勢で『私小説 from left to right』を読み、さらに触手を伸ばしたのがこの小説だった。

        
 
 この小説はいわば三重の入れ子構造をとっている。
 作者と思しき女性へ語る青年の話、そしてその青年に語る土屋冨美子の話、そしてその冨美子が語る上流階級の一族の命運である。
 その諸関連は錯綜とした面もあるが、作者のストーリー・テラーとしての巧みさもあって破綻はない。

 なぜこんな複雑な構造をとらねばならないのだろうかと思いながら読み進んだのだが、最後の最後、それまでもっぱら語り手の側にあった冨美子自身が物語の対象となるに至ってなるほどと思うこととなる。

 この、冨美子の語り手から対象への変化は、同時にこの小説のある種のどんでん返しにもなっているのだが、作者は周到にそれを随所に匂わせている。
 私はそうした状況があったに違いないと、それを嗅ぎ取りながら読み続けていたのだが、むろん、その様相が具体的にどうであったかのイメージはなかった。しかし、そこにいたって、その模様があまりにも俗っぽく描かれていていささかか鼻白んだりもした。

 詳しくは述べないが、内容のの大半は、私より少し上の世代の戦前、戦中、戦後の上流階級の物語で、その栄華と没落の過程は、この小説の中でも語られているがチェーホフを思わせるし、少し状況は異なるが太宰の『斜陽』をも思わせる。
 そうしたなかで、単純に純愛ともいってしまえないようなラブ・ストーリーが展開されるのだが、それに付きそうような冨美子の物語だとだけいっておこう。

             

 あえて付け加えれば、この小説の舞台はすでに述べたように上流階級の生態が主ではあるが、それに対峙する者として、語り手の冨美子と、そしてラブロマンスの一方の人物・太郎を挙げることができる。
 この二人の共通点は、対照的に下層の出身であり、聡明ではあったにもかかわらず中学校という義務教育課程を終えただけだという点である。そして、にもかかわらず、現実的な生活能力は抜群だということだ。
 それを考えると、ラストに明かされる事実はむしろ当然のことなのかも知れない。

 なお、脇役ではあるが、作中の人物で魅力的なのは、ラブロマンスの一方の相手、よう子の祖母である。芸者上がりの後妻ということで、日常では遠慮がちでただその優しさが目立つのみなのだが、ここぞという時の決断、そしてその凛とした立ち居振る舞いは快哉と叫びたくなるような小気味よさなのだ。

 この少し奇異ともいえる物語を語るにふさわしい作者の文体に導かれて、その終局にまで誘われるのだが、正直にいって私に訪れたのはある種の虚脱感であった。それはその小説の内容がもたらしたものでもあったが、同時に、作者の日本語論から出発してここに至った私自身の過程が、何やらここで切断されたような気がしたのだ。
 まあ、おそらく私の小説というものへのアプローチの仕方が特殊で、たぶんに道を誤っているからだろう。
 この点についてはもう少し考えてみたい。

 それはともかく、上下二巻の大著だがその展開が待ち遠しく、ページを繰る手がつい早くなる様な面白さではある。

                

 余談だが、作中の主人公格である東太郎には実在のモデルが存在する。
 作者の父が、今や何かと問題のオリンパスのアメリカ駐在所長の折、中卒の組立工としてその部下に採用され、やがて独立して起業し、アメリカで巨万の富を得たとして話題になった人である。
 彼の自伝は『中卒の組立工、NYの億万長者になる。』(2010 角川書店)として出版されていて、そのなかには、ニューヨーク滞在中の水村一家についての実像も語られているようだ。

 もちろん彼がその後半生において、この小説のような数奇な運命をたどったわけではないが、にわかには信じられないような巨額の富を築いたのは小説同様、事実であるようだ。
 

なお、私が興味を持った日本語と日本近代文学、それに「私小説」と「本格小説」の問題については作者自身が上巻の「本格小説が始まる前の長い長い話」の終わりの方、170~176ページにわたって(私の読んだのは文庫版ではなく初版のハードカバー版)一般読者むけというより批評家向けに述べている部分があるが、煩雑になるのであえてそれには触れない。

 

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六の徘徊日記 または道草についての言い訳

2012-11-18 17:52:39 | 写真とおしゃべり
    
                       お茶の花 山茶花を小ぶりにしたよう

 まだ完全に呆けてはいないつもりですから、散歩以外にあてもなくさまようことはないのですが、どこかへ用事があって出かけても、肝心の用件より道草のほうに時間がとられるのはやはり徘徊に近いのかも知れません。
 とりわけ、カメラ付きの携帯を持っていると、絵になりそうなカットが気になり、ついあちこちの横道に逸れ、寄り道が多くなります。

 
                           トキワサンザシの実

 しかし、ブーメランのように、行ったら素直に帰ってくるなんてつまらないじゃぁないですか。
 ちょっと悟ったようなことをいわせてもらえば、道草のほうが実り多いことだっていっぱいあるはずでしょう。

 
        人参の葉っぱは元気         ミント 近づくだけで香る
 
 だいたい、生涯の目標のような顔をして一心不乱にしていることだって、もっと大きな視点から見たら道草にしか過ぎないことだってありますよ。もともと、人間はこれこれをするというために生まれてきたわけではないでしょう。自分でその道を選んだつもりでも、諸般の要因によってたまたまそうなっただけかもしれないじゃぁないですか。
 天命なんていったって、偶然性に晒されるのを恐れるだけの自己暗示かも知れませんよ。

 
    カボチャ 今頃咲いても実らないのに         夕映えの畑
 
 てなこといいながら、30分で済む用事をのたりくたりとその倍以上もかけてしまうのです。
 といって、暇で時間を持て余しているわけではないですよ。
 「ちかいうちに」しなければならない三つの課題を囲え込んでいるのですから、惰性で仕事をしていた頃よりは気持ちとしてはむしろ忙しいくらいなんです。

 
     まだ頑張っているコスモス          これは何の実かな?
 

 
 ちなみに朝起きて、「さて、今日は何しようかな」というような日はないのです。
 にもかかわらず、ついノンベンダラリンとしてしまうのは、ぎりぎりにならないと宿題ができないという子供の頃からの習慣によるのでしょうか。
 この習慣、ある意味では困ったものかも知れませんが、馬車馬のように宿題にのみまっしぐらってのはやはり味気ないじゃぁないですか。それに、時間に追われて宿題をこなすというスリルもまたなかなかのものですよ。

 
         紅葉し始めたもみじといちょうを逆光で撮ってみました
 
 というようなわけで、「どこそこへ出かける」といって出たらなかなか帰って来ません。
 それでも、あまり遅くなると捜査願いが出されそうな年齢なので、まあ、そこそこにしています。
 それにこのごろは夕方になると極端に寒くなりますから、行き倒れの野垂れ死にという事態も危ぶまれますもんね。

  
      山茶花を撮っていたらスズメバチが ほかの蜂は平気だがこれはちょっと怖い
 
 ここに掲げた写真はそうした徘徊の成果(?)です。
 最初の写真(図書館庭園のアメリカハナミズキの実)以外はみんな徒歩10分以内のご近所です。

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【映画二題】「危険なメソッド」&「声をかくす人}

2012-11-15 17:48:47 | 映画評論
 最近では一週間に二度も劇場で映画を観るのは稀なのですが、機会を得て可能になりました。
 評論というよりメモ程度の感想を綴ります。

     

「危険なメソッド」 (デヴィッド・クローネンバーグ監督 2011)
 
 精神分析の創始者・フロイトとその高弟にして一時はフロイトの後継者と目されたユング、それにユングの若き女性患者ザビーナをめぐる物語です。
 
 この種の映画は難しいでしょうね。
 精神分析のある種の基礎知識、無意識や対話療法、分析者と被分析者の間に生じる転移などを予めある程度了解しておく必要がありそうなのです。そしてまた、そこがわからないと、フロイトとユングの葛藤、そして決別がよくわからないからです。

 しかしこの映画はまあまあそのへんの所をクリアーしているともいえます。
 ようするに、治療過程で被分析者が抱く分析者への偏愛とどう対峙するのかですが、フロイトが若き日の苦渋に満ちた経験から(ここは映画では語られていません)それに対してあくまでも矜持を保つのに対して、ユングはそれに屈してしまう、その辺がこのドラマのキーポイントであり、それがまた両者の決別にも至るところです。

 ほかに、ユングが幾分オカルティックなものへの傾斜を見せるのに対し、それをフロイトが牽制する場面も出てきます。
 この映画では、どちらかと言うとユングに焦点が合わされているのですが、私としてはフロイトの方に好感を持ちます。
 確かに人間の世界は不可解に満ちているわけですが、それをいささか安易にカルト的とも言える仮説に還元して説明するユングよりも、あくまでも経験原則からの演繹で説明を試みようとするフロイトの方に意義を見出すのです。

 たとえば、快感原則や現実原則では説明がつかない人間のありようを、「死への欲動」という概念を生み出してでも説明を試みようとするその態度についてです。
 もちろん、「リビドー」などの仮説とともに、彼はいささかオーバーランをしているのかも知れません。しかし、そのオーバーの仕方はユングのそれとは異なるように思うのです。

 私のユングへの警戒心は、いささか不純なところもあります。
 それは1960年前後に東大からやってきた新左翼・ブンドのオルガナイザーがその後転向し、今ではゴリゴリの父権論者になっているのですが、彼が学者として名を成した(?)のがユングの研究者としてだったからです。
 思えば、オルグにやってきた頃から、どことなく父権的な感じのするところがありました。

 あ、私の得意な脱線です。
 映画に戻りましょう。
 映画は、そうした学問的葛藤と、ユングとザビーナのラブロマンスのようなものとが二重写しになっていて、上ではその関連と絡み合わせの困難さを「まあまあクリアーしている」と書きましたが、やはり「まあまあ」で終わっていたと思います。
 この種の映画は、それほど困難だということでしょう。
 なお、ザビーナ役のキーラ・ナイトレイの演技を、いささかオーバーアクションではないかと思ったのは私だけでしょうか。

     
     

「声をかくす人」 (ロバート・レッドフォード監督 2011)
 
 リンカーン暗殺の一味を裁く「軍事裁判」で、暗殺者たちのたまり場だった下宿屋の女将であったために、唯一、女性の被告となったひとを弁護する若き弁護士の映画です。
 この女性もまた、暗殺グループの一味とみなされ、死刑に処せられようとしています。
 
 それを弁護する男は、かつて北軍の勇士であったにもかかわらず、南部の連中を弁護するとして裏切り者扱いされ、所属するクラブから除名されさえします。
 この辺りは、日本で、光市親子殺人事件の弁護を行ったために、被告ともども「ひとでなし」扱いされた弁護士、安田好弘氏を追った記録映画「死刑弁護人」を彷彿とさせるところもあります。

 彼の七面六臂の活躍によって事態は次第に好転してゆき、判事たちの多数派(軍事法廷とあって判事も多数いる)を占めるに至るのですが、その評決も覆され、さらには最後の頼みの綱である「人身保護令状」も握りつぶされてしまいます。
 そしてその影には、人権よりも政治的効果を狙った最高権力者たちの陰険な欲望が張りめぐされていたのです。

 こうして映画はなんともいえないやりきれない結末を迎えるのですが、と同時にアメリカという国の光と影を考える機会にもなります。
 この映画にもしばしば登場するのですが、主人公が依拠するのは、建国時に定められた合衆国憲法です。
 これはまた、ハンナ・アーレントが大きく評価したアメリカ独立時の国民相互の約束の集大成としてあるものでした。もっとも、アーレントもその理想が崩れてゆく過程を冷徹に見つめ批判していますが、この映画において描かれているのもそうした葛藤です。

 私たちは、アメリカ建国時の自由や民主主義の精神を時折は垣間見るのですが、それらがリアルポリティックスのなかで歴史の背後に押しやられ、まるで骨董品のようになってしまっていることを思い知らされることがあります。
 
 被告メアリー・サラット役のロビン・ライトの毅然とした佇まいが光っていました。

 

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錦秋の旧徳山村を訪ねて

2012-11-12 15:15:18 | 想い出を掘り起こす
 ある一行とともに錦秋の旧徳山村へ行った。
 もう徳山村は跡形も無い。あるのは徳山ダムとその人造湖のみである。
 にもかかわらず、「徳山ダムへ行った」とは言いたくない。
 ここは私にとっては徳山村なのだ。

 
                               徳山ダム放水口

 徳山村という名がが消滅してから今年で25年になる。
 かつて、本郷・下開田・上開田・山手・漆原・塚・戸入・門入の八つの集落からなっていた徳山村が、今では全村膨大なダム湖の下で眠っている。
 Googleの地図で徳山村と検索するともはやここは出てこない。
 代わりに中華人民共和国四川省の徳山村がヒットするばかりだ。
 それでも私にとってはここが徳山村なのだ。

 

 その理由はいくつかある。
 ひとつは今を去ること四十数年ほど前、徳山村を何度か訪れていたからだ。
 アマゴやイワナを追いかけてではあったが、渓の情報を聞くためにしばしば村人とも会話を交わした。
 その頃は、ダムの話はまだうっすらで、それほど現実味を帯びていなかったのではないだろうか。
 もちろん工事などはまったく行われておらず、村人たちは「ここの」現実のなかで生きていたように思う。

   
 
 今一つは、そのダム建設が私には腑に落ちなかったからだ。
 といっても最初からそうであったわけではない。
 縁あって長良川河口堰に反対する人たちと知り合い、ほんの少しだがそれと関わりをもつなかで、お隣の揖斐川水系のこのダムについても学んだという次第である。

 

 実はこのダムのすぐ下流に1964年に横山ダムが完成していたのだが、それが完成しないうちに、それでは不十分だとして計画されたのが徳山ダムである。
 ときあたかも毎年20%の経済成長が当たり前という、現在の中国のような高度成長期であった。
 しかし、このダムがいよいよ着工しようとする折には、もはや誰が見てもその必要性がなくなっていたにもかかわらず、いろいろ用途を変更したりしながらも、当時の建設省はその意地を通したのだった。

 

 さまざまな紆余曲折を経てこのダムは完成したのだが、3,800億円を要したにもかかわらず、予想通りその用途は今もなおはっきりせず、巨大な水たまりのままである。そして、休日などには「観光放水」という吉本興業もびっくりのショーを展開するに至っている。

   

 それのみではない。この水たまりの「活用」法として、ここにためた水を長良川水系、木曽川水系へ導水しようという計画が持ち上がっているのだ。
 ダムの底の、いわゆる死水といわれる酸素も少ない冷たい水が、現に生きている河川に導かれるとすれば、その河川の生態系に甚大な損害をもたらすであろうことは誰にでもわかる理屈である。
 しかもである、その導水路建設のためにさらに1,000億から2,000億に至る金を使おうというわけである。
 不要なものを作っておいて、その無駄を解消すると称してさらに金をかすめようとするのだから、「泥棒に追い銭」とはまさにこのことである。
 かくて徳山ダムは、土建屋行政の腐敗の実態を示すモニュメントとしてのみ意味をもち、そこに横たわってている。

 

 もうひとつ、徳山村にこだわるのは、ここが、このブログにも時折コメントを付けていただいている私の先達「冠山さん」の故郷であり、村が生きていた時代のお話を聞いたり、その著書に触れたりしているからである。
 それによれば、同じ岐阜県でも極めて独自性のある山村特有の文化や伝統をもっていて、しかもそれが、さして広くない村内にある八つの集落ごとに微妙に違っていたというのだ。
 その民俗学的にも豊かな側面が明らかになり、多くの学者などの注目を集めるようになったのが、まさにこの村が消滅する時期であったというのはなんとも皮肉な話である。

   
                        露呈した旧徳山村の道路や橋

 かくして私が無造作に訪れていた村落が秘めていた深い歴史や文化は、まるまる、しかも無為に水中に没することとなったのである。
 こんなわけで、私にとっては今もここは徳山村なのである。

   

 しかし、この周辺の自然は美しい。「ひとはいざ心も知らず故郷は」である。
 今回は、国道417号線をダムサイトに沿って北上し、「冠山」さんのいた集落、漆原(しつはら)も過ぎて、シタ谷やヒン谷が合流し、ここからさきは林道という地点にまで行った。
 ここまで来るとダムの水も細り、旧村落を結んでいた道や橋などが露呈している箇所もあって、かつての集落などの存在を否が応でも思い起こさせ、人造湖特有の悲哀のようなものを覚えずにはいられない。

   
               冠山 この向こうはもう福井県
 
 山々は錦の綴織を湖面に映しあくまでも艶やかで、その湖面は秋風にさざめく美しい波紋に満ちていた。
 そしてこの辺りからは、そう、「冠山」さんがそのハンドル・ネームをとった本物の冠山がくっきりと見て取れた。
 その山の傍ら、冠峠を越えると向こうは福井県である。
 こちら側は快晴であったが、天気予報でいっていたように日本海側は天気が崩れているらしく、冠山の向こうの空を厚手の雲が覆っていた。

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 そこで引き返したのだが、揖斐川沿いに下り岐阜に至る一帯は富有柿の産地で、ほっこりと明るい柿の実が傾きつつある夕日を浴びてつややかに輝いていた。
 これもまた、美濃路の秋の色彩といえよう。
 日が落ちるのと、岐阜へ着くのはほとんど同時であった。
 

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