六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

琵琶を獲ることはできたのですが《釈然としない収穫》

2011-06-29 04:11:50 | よしなしごと
 うちの猫の額ほどに庭には果実がなる木が三本ります。
 桜ん坊と琵琶と桑の実です。
 桑の実は豊作で数回にわたって娘の勤める学童保育のおやつに供給しました。
 桜ん坊はほぼ全滅でした。来年の様子によっては新しい木との代替わりも考えねばなりません。
 琵琶は例年の2割ほどしか実を結びませんでした。
 それでもなんとか多少は収穫しました。
 まだまだ採れるのでしょうが、いずれも木の高い枝で、枇杷の実と心中覚悟で木に登らねばなりません。

        

 そこで、落っこちても軽傷ぐらいで済みそうなところで獲ったのがこれらです。
 今年はこれが最初で最後です。

 かつて、樹全体が黄色く見えるほど鈴なりになったのですが今年は寂しい限りです。
 桜ん坊も同様です。

 木の老齢化でしょうか。
 山土の埋立地ゆえの栄養不足でしょうか。
 もう一年様子を見てみます。

        

 ただし、感じる点は、ミツバチなどの虫媒をする昆虫が目に見えて減ったことです。かつて、桜ん坊の花が咲き、それを写真に撮っているとうるさいほどのミツバチがやってきました。
 彼らは、カメラを構える私の頭や手にまで止まりました。
 私は子供の頃からミツバチやアシナガバチとは仲良しですから彼らも決して私を刺しません。

 その彼らがいないのです。
 そればかりではありません。
 アリもいないのです。
 地面をちょっと掘るとどこにもいたオケラやダンゴムシもいません。
 ミミズもいません。
 ゲジゲジもいません。

        

 どうなってしまったのでしょうか?
 我が家では、肥料はともかく、農薬風のものを撒いたこともありません。

 ここへ来た頃は、部屋にちょっと甘いものやりんごの食べかすがあったるすると、いつの間にかアリさんの長い行列ができたものです。
 
 こうした小動物が居なくなるのはなんだか不気味です。
 それらと果実の実りとの相関関係はないのでしょうか。

            

 私たちが余計ものと考えているようなものが(ゴキブリを含めて)、私たちの自然な生の条件をなしているのではないかと考えてしまうのです。

 来年は学童へどんな果実を届けてやれるのでしょう。

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入道雲の季節到来 そして60年前の思い出

2011-06-27 02:15:23 | 想い出を掘り起こす
 まだ6月だというのに積乱雲がわがもの顔に空を支配している。やがてそれらは上空を覆い夕立となって雨を叩きつける。30度を超える気温でぐったりしている植物には恵みの雨だ。

        

 夕立は馬の背を分けるという。ここで激しくとも、ちょっと離れると「え?降ったの?そういえばそちらで黒い雲が広がっていたような」といった次第である。

        

 子供の頃、祖父母や母などは夕立が来ると蚊帳を吊った。そしてそのなかで雷が通り過ぎるのを待った。蚊帳は通電性がないので雷対策としては一理があるようだ。

        

 小学三年生の時(1948年)、夏休みの自由研究に「雲の観察」を選んだ。毎日、印象に残った雲をB4の画用紙に描くのである。朝から晩まで雲の様子はむろん変わるので、観察というほど科学的なものではなかった。

        

 それを夏休みの日数分、三十数枚揃えて提出した。学校はそれを当時疎開していた大垣市の夏の研究発表大会に推挙してくれた。
 市長賞(最高位)には入らなかったが次点のなんとか賞に入った。
 9月になり、それが展示されている大垣市の寺院に母と一緒に観に行った。
 なぜ寺院かというと、いわゆる公のホールのようなものはすべて爆撃で灰塵と化していたから、比較的広いスペースというのは焼け残った寺院しかなかったのである。

        
 
 会場へいって目を見張った。
 市長賞は本堂の中央になにやらノートと資料のようなものが地味に据えられていたのだが、次席の私の三十数枚の絵は、本堂の壁や障子を占拠してぐるりと貼られていたのである。
 そのスペースからいうと、まるで私の作品の個展の傍らにほかものも展示されているといった有様なのだ。B4三十数点の展示は圧巻であった。
 最高賞がとれず次点にとどまったのは残念だったが、その展示には大いに満足した。

        

 母も大いに満足したようで、帰りに当時は貴重であった甘い菓子などを買ってくれた。
 その「雲の観察」も母の協力の賜であった。私が絵を書くのを忘れていると、それをチェックしてくれたのも母だったし、どんな雲が出ていたかもろくすっぽ観なくて遊び呆けていた私に、今日はこんな雲だったよと教えてくれたのも母だった。

        
 
 その母が他界してこの8月には三回忌を迎える。
 その日にはどんな雲が出るのだろうか。

 


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雨の花街と少女 金沢東山地区を往く

2011-06-25 00:31:06 | 写真とおしゃべり
        
 
 金沢は東山地区の花街である。
 卯辰山から下った辺り、情緒あふれる町並みがよく保存されている。
 休日などには観光客であふれるのであろうが、平日でしかも雨模様、往く人もまばらでかえって風情を味わうことができた。

        

 木造家屋と石畳のコラボレーションは鉄とコンクリートとは違った安堵感を与える。
 そういえば、「コンクリートから人へ」というキャッチフレーズをどこかで聞いたような気もするが、この際は無粋なまつりごとの話はよすことにしよう。
 名古屋市中区の錦地域では木造家屋の新築は禁止されていると聞いたのは何年前だったろうか。そのうちの一軒、名古屋コーチンを出す料理屋の女将が、「もう、うちの他には一軒しかありません」と寂しげに話していたのを思い出した。

        
 
 それにしてもこの一角、一軒一軒の佇まいが抑制された中にも適度の華やぎを秘めていて素敵である。けばけばしい看板がないのと、電柱がそびえたり電線がのたうったりしていないのがいい。

        

 下校時間にしては少し遅いようだがランドセルを背負った少女が通りかかる。
 花街とまだあどけない少女、しかしそれが絵になる。
 もう少し写真が巧ければもっといい絵になったのにと思う。

        

 かつての芸妓さんの検番であろうか、少し開いた二階の窓から三味線の爪弾きが聞こえる。
 淡路島 通う千鳥の 恋の辻占・・・
 辻占売りの呼声が入った歌だろうか。花街には似合いすぎる。

        

 花街の灯りが夕暮れと共に一段と鮮やかになり、料亭の前にはたすきがけの中居さんが出て手桶の水を撒こうとしたが、折からの雨、柄杓で一掬いだけ撒いてやめてしまった。
 おかげで絶好のシャッターチャンスを逃してしまった。

        

 雨が上がった。
 今宵あたりは浅野川から川霧が立ちのぼるのではないだろうか。

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菖蒲と燃えるような猩々。 そしてヘリコプターから!!

2011-06-22 16:49:06 | よしなしごと
 いろいろな方がネットで「菖蒲」について書いていらっしゃいます。時期ですものね。そこで、「勝負々々」というわけではありませんが、「私も行ってきたよ~ん」という軽いノリで載せてみました。
 さほど規模の大きくない北陸路の菖蒲園でしたが、ぼぼ四方を山に囲まれ、菖蒲の周りを紫陽花が取り巻くというなかなか風情のあるロケーションでした。

       
         この若いひと、残念ながら私たち一行とはまったく関係がないひとです。

 同じ菖蒲でも開花時期が微妙に違うようで、惜しむらくは、もう盛りを過ぎたもの、これから開花するものとがまちまちで、密集感がやや希薄だったことです。しかしよく見るとまだまだ蕾のものが多く、もう少ししたら足元いっぱいの菖蒲が色めき立つのだろうと思いました。

          

 おりからの小雨が一層風情を引き立ててくれましたが、紫陽花もまだ花が若いようで、やはりここが北陸路だということが実感されました。

       
             左の写真のつぼみが咲き揃うと壮観だと思います。

 それにしても偶然撮れたアキアカネのその赤いこと・・・で、ン?と疑問が湧くのでした。
 この時期、いくらなんでもアキアカネがこんなに赤くなるでしょうか?
 そこで「お調べ、お調べ」。
 果たせるかな、赤いトンボはアキアカネという私の先入観を見事覆すデータが・・・。

 赤いトンボは他にもいて、例えばもう夏には赤いナツアカネ、そして全身真っ赤な、日本ではいちばん赤いというショウジョウトンボ・・・。
 そう、どうやらこれはそのショウジョウトンボ(猩々蜻蛉)のようです。
 
 池の水面をスイスイ飛び回る真っ赤なトンボを観た喜び、そして、その正体を知った喜び、やはり自然観察は面白いですね。

          

 しかし、これを調べている途中で、「かつてヘリコプターで農薬を散布していたころ、このショウジョウトンボたちも犠牲になり、その死骸があぜ道などに点々としていて、それが赤いだけに一層目立って痛ましかった」という叙述に出くわし、せっかくの気分が削がれてしまいました。
 生涯一農夫だった私の祖父(母方)は、トンボを追い掛け回すガキの私に、「トンボはな、田んぼの害虫を退治してくれるのだから虐めちゃぁいかん」といっていたのを思い出しました。

 あらら、菖蒲の話がとんでもない脱線、私の悪癖ですね。

 
 

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盗まれた青空は返ってきたのだろうか?

2011-06-18 01:00:01 | 映画評論
 映画「青空どろぼう」の試写を観ました。
 名古屋の東海TVが作成した四日市公害の過去と現在に関するドクメンタリー番組をさらに肉付けをし、長編の映画にしたものです。
 
 ドキュメンタリーではありますがドラマティックな要素も十分あります。
 その主人公のひとりは、この日本の四大公害の経緯を半世紀近くにわたって記録し続けた澤井余志郎さん、もう一人は原告団のひとりであった四日市市磯津の漁師・野田之一さんといっていいでしょう。
 なお、映画の場面は四日市コンビナート群と鈴鹿川河口を挟んで向き合う同市の磯津地区にほぼ限定されます。

          

 映画は彼らの回想をもとに当時の様相を伝え、同時にその現況を伝えます。この公害訴訟が、いわゆる四日市ぜんそくや肺気腫に悩まされた患者たち原告のほぼ全面勝利に終わり、これをきっかけに「公害病認定制度」が法的に明らかにされるなどした経由は私もおぼろ気ながら知っていました。

 映画には出てきませんが、この裁判の結審で野田さんが陳述した内容があります。

野田之一(漁師、39歳、気管支ぜんそく、肺気腫)
 「どうも裁判長さん、長い間ご苦労さまでした。? 今まで私らも長い間聞いていますのに、この私らが一体何ゆえにこの病気になったかと…そういうところに疑問持っておられると思いますけれども…私らの故郷が、企業が来る以前からこんな病気があったか、なかったか…一番よくご存じは裁判長さんです。私はそう思ってます。? それに企業の方は、法律の先生方をようけ連れてきて、そうして、うちじゃない、うちじゃない…一体磯津へどこの煙がきたというんです。? 今も聞いていますれば、(原告陳述前に、被告企業6社それぞれの最終陳述があった)、うちんとこじゃない、うちんとこじゃない…と。そうすると、磯津は、地から煙がでてきたんか。あまりにも無責任なやりとりじゃありませんか。? そうして、企業の方、企業主のその方も、そういう先生たちを頼りにして、自分らのしとることをごまかす。またごまかすような気持ちで…。? これで世の中が通っていくと…そんな甘い考えでおるんですか。決して私は、脅迫じゃありませんけれども、あんたらがそんな甘い考えでおるんなら、あんたら企業とさしちがえましょう。? そんな気持ちでおる私らの心が、あんたらに、ちょこっとでもわかってもらえたらと…。無駄な日を費やしたかもしれんけれども、私らの子孫のためと思ってがんばってきた次第でございます。? そして、4年間という月日の間には、9人居った原告のうち、もはや2人という人が亡くなられました。まだこの上、長いこと引き延ばして、やれ高裁や、やれ最高裁やと、しちめんどうくさい法律上のことにかこつけて、この問題を解決しようとせん…この問題が解決したあかつきに、私らが生きておられると、そう思ってますか。そんなねえ、なまやさしいね、甘っちょろい考えで、あんたらよう、ほんでも、生きておるなあ。? 私も、愚痴ばかし並べましたけれども、一刻も早く、私らも病気にかかっとる以上、明日もしれんというさみしい気持ちでおるんです。一日も早く、勇気ある判決をいただいて、そうしてみんな仲良う笑って暮らせるような場を作ろうじゃありませんか。? どうか一つ裁判長さん、よろしくお願いします。」


 この裁判で原告側の言い分が通ったことはすでに述べました。
 その判決の報告の集会で、野田さんは次のように言いました。
 
 「まだありがとうとは言えない。この町に、本当の青空が戻ったとき、お礼を言います」

 この映画を観て、私自身いちばん衝撃的だったことを自戒を込めて書きたいと思います。
 私は上に見たように、この公害裁判では原告側の主張が基本的に認められ、企業側が厳しい規制を受け、幾分の後遺症はあるものの四日市をめぐる件は一応の決着を見たように思っていました。

         
       四日市コンビナートなう     漁師・野田さん 記録者・澤井さん
 
 しかし、それはとんでもない早とちりであることを思い知らされました。
 そのひとつは、コンビナートがくる前は、白砂青松の地であったこの磯津地区の変化です。
 人間を蝕んだ亜硫酸ガスなどを含む有毒な煤煙は、同時に海岸特有の松を始めあらゆる樹々を枯らしてしまい、結果として磯津地区には人家よりも高い樹木は一本も無くなってしまったのです。この地区を舐めるようにして撮す俯瞰図や鳥瞰図の中にもそれらしいものを目撃することはありません。灰色のイラカがただ立ち並ぶのみです。

 もうひとつは海です。かつて、磯津の漁港の目と鼻の先が豊かな漁場でした。しかし、この地区はおろかコンビナートから何キロも離れた海でも、もはや魚影を見ることはありません。海底から採取されたヘドロは、卵が腐ったような鼻持ちならない匂いを放ちます。まさに死の海です。
 いま磯津の漁民たちは、三〇キロ以上離れた他地区の海で漁をします。そして、そこでとれた魚も自分たちの港では水揚げできないのです。「公害の海」とレッテルを貼られたこの漁港の魚は売れません。従って彼らは、他の漁港での水揚げを余儀なくされているのです。

 もうひとつは、その後発病した人たちです。その地に住み続け、四日市ぜんそくや肺気腫とまったく同じ症状を示す患者は、その発症時期が遅かったばかりに何の保証も与えられません。というのは、前に見たこの裁判での成果の一つ「公害病認定制度」が1988年に経済界の圧力により廃止されてしまったからです。

 その後、あの公害裁判の被告企業だった石原産業がダイオキシンなどの不法投棄をしたり(2003年」、三菱化学が排水を海に垂れ流したり(2010年」する事件が起こりました。
 しかし、もはやかつてのように磯津の住民が立ち上がることはありません。以前の漁師町磯津は、今や半数の世帯の誰かがコンビナート関連工場に勤める企業城下町となってしまったからです。たとえ身内にぜんそく患者がいても、それを言い立てにくい雰囲気なのです。
 四日市は、実に後味の悪い「終わり方」を継続したしたままなのです。

 これらの公害が、高度成長下でなりふり構わず突っ走った無理が産み出したものであることは広く知られたところです。ところで、ここに現れている構図、どこかで最近見たことはありませんか。

 そうです、かの「フクシマ」がこれと同じ情況の中でいま暴走を続けているのです。そこで生み出されるものが何なのかもよく分からないまま、周辺の住民をモルモットがわりにした人体実験を継続しながら進行するテクノロジー、これらの存続をを許容することは四日市の悲劇を何万倍にも拡散するものであることを改めて痛感せざるを得ないのです。

 四日市は、その現実的問題においてもまだ終わってはいません。
 そして、それを生み出した構造においても、決して終わってはいないのです。

               
  プロデュサー・監督 阿武野氏   共同監督・鈴木氏     ナレーター・宮本信子さん

 地方局ゆえ特別な場合以外、全国で放映されないのは残念ですが、この東海TVは他にも多くの観るべきドキュメンタリーを製作しています。ところによってはこの映画の上映と同時にそれらの特集を組むところもあるようです。
 なお、宮本信子さんのナレーションが映像と融け合って素敵であったことを申し添えます。

以下の館で順次上映予定ですが、その後増え続け、地元三重県でも上映されるようです。

 北海道 シアターキノ 011-231-9355
 東京都 ポレポレ東中野 03-3371-0088 6/18~
 神奈川県 川崎市アートセンター 044-955-0107
 神奈川県 横浜シネマ・ジャック&ベティ 045-243-9800
 愛知県 名古屋シネマテーク 052-733-3959 今夏公開
 大阪府 第七藝術劇場 06-6302-2073 今夏公開
 京都府 京都シネマ 075-353-4723 順次公開
 広島県 横川シネマ 082-231-1001 順次公開
  (その後、増加中とのこと)


    <写真はネットの公式HPなどから借りました>

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JR岐阜駅でしていいこととしてはいけないこと

2011-06-15 03:05:49 | よしなしごと
 かつて「何が禁止されているかでその社会が見えてくる」というコンセプトのもと、「禁止の考現学」というのをネットに連載したことがあります。要するに、ここではこんなことが禁止されているというのを写真入りで連載したのです。

 ですから、禁止マークには結構敏感です。
 そうした禁止マークが、週に一、二回利用するJR岐阜駅でここんところ急増したのです。それらの表示が数多くはられ、出入り口部分に相当するガラス戸などはこれでもかというぐらいそれでびっしりです。

   
 
 それらを改めて写真で列挙します。
 ひとつひとつを見るとなるほどということですが、そのいくつかの部分に「など」という言葉が入り、拡大解釈が可能になっています。
 この解釈は、もちろん利用者側にではなく当局側にあります。

 これらの禁止事項から免れ、何をしてもいいのかは以下のとおりだと思います。

   

 駅構内に入ったら、迷わず切符売り場へ行き、所定の切符で改札口を通り、行き先のホームで来た列車に乗ってしまえということです。駆け乗ってはいけませんよ。粛々整然と乗らなければなりません。
 到着した列車から降りる時もこの逆で、早く駅構内から立ち去らねばなりません。
 これで秩序は保たれました。

 しかし、なんだかさみしいのです。
 こうしたお触れが強化される前を見てみましょう。
 その前には駅の構築物の中ではないにしても、北や南の出入り口付近でストリート・ミュジシャンたちが様々なジャンルの音楽を聴かせてくれました。それはもはやアウトです。

   

 夜遅く帰ると、半ば閉ざされたガラス戸をミラーがわりにして、端っこの方で若きダンサーたちがエクササイズをしていました。駅の機内ではありましたが、この時間敢えて彼らの群れに突入しない限り、何の危険も感じませんでした。
 私なんかは、ヘルメットをかぶった頭を下にしてくるくる回っている若者をつかまえて、「何回まわったらいいの?」と尋ねたことがあります。
 彼の答えがふるっていました。「出来れば永遠に!」。

 それらは全て追っ払われました。駅は本来の、列車に乗り列車から降りる機能本位の場所として管理されることとなりました。

 でもこれってさみしくはありませんか?
 昔の駅はもっともっと豊かな表情を持っていませんでしたか?
 そこは別離と出会いの場所であり人が集い、感情を発散させる場所でした。

  
 
 かつての新婚旅行はほとんど列車でしたから、披露宴の後、新婚旅行を見送るために、披露宴に出た殆どの人が駅頭に集まり入場券を買い、プラットホームで発車のベルと同時にバンザイを叫んで見送ったものでした。
 同じ職場を離れる人も、それが栄転であれ左遷であれ駅頭でバンザイをして見送ったものです。

 見送りだけではありません。出迎えもまた派手でした。その組織に重要な人が来る場合にはできうる限りの人が駅頭に出迎えるのが習慣でした。
 駅はもともと別離と出会いの場であり、だからこそ多くの映画監督が駅頭の場面をその映画の不可欠なシーンとして描きました。

 しかし、もうそんなセンチメンタリズムは許されないのでしょうね。
 駅はただ列車に乗降する場所に限定されてしまいました。

  

 「あ、そこのあなた、そんなところで立ち止まると販売員か勧誘とみなされますよ。早く改札口の方へ。え?列車に乗りに来たのではない?駅の雰囲気が好きだから来た?怪しいですねえ。ちょっと鉄道公安室まで来てもらえますか。え?その前に捨てたいものがあるからゴミ箱の場所を教えてくれって?ますます怪しいですね。あなた、ゴミ箱に爆弾を仕掛けるつもりでしょう?そういうテロリストのために駅構内からゴミ箱を撤去したのですよ。え?駅の写真を?そ、そ、そのカメラって自爆装置付きのものでは?ま、ま、待ちなさい。直ちに自衛隊を出動させますから」

 これって、国家機能に不規則性を持ち込むとして芸術家をシャットダウンしたプラトンの国家に似ていますね。そしてスターリニズム国家にもナチズムの国家にも、そして何よりも効率化を絶対的価値とする私たちの居住空間に・・・。

 中高生の頃、駅の近くに住み、列車の発着と夜汽車の汽笛に思いを寄せ、駅がどこか他なる場所への接合点だと思っていた私には、今様の駅の佇まいは、もはやどこにも他なる場所などありはしないのだと宣告されたように思えてしまうのです。



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あの日、この時間! 向日葵と子供のさざめきとを・・・

2011-06-11 15:36:32 | ひとを弔う
 今日はあの震災から3ヶ月、これを書いている今から30分ほど前にあの激しい揺れがあり、そしてまさに今頃、各地をあの巨大な波の壁が打ち砕きつつあったのだ。
 それを思うと今もいたたまれない。

        

 その折、TVで津波の来襲をリアルタイムで観ていた。
 「おーい、早く逃げろっ」と声にならない声で叫びながら。
 そして、その叫びも虚しく、車が一台また一台とさらわれていった。
 悪夢、しかし現実に起こりつつあるリアルな悪夢。

        

 梅雨の晴れ間、農協の花売り場には早くも向日葵が並んだ。
 その向こうを、近くの小学校の学童たちがさざめきあいながら通って行った。

        
 
 この花をもって鎮魂の献花としよう。
 子供たちのさざめきをもって奪われた貴方達の未来の接ぎ穂としよう。

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鳥たちと喧嘩をして獲る桑の実 そしてハツシモ

2011-06-10 15:26:49 | よしなしごと
 先日、桑の実が熟し始めたのをお知らせしましたが、今週、もう二回ほど収穫いたしました。今年は豊作です。
 二回とも、娘が勤める学童保育のおやつになりました。
 「まだ食べそうかい?」と尋ねると、「食べるよ」というので、また来週、二回ほど獲るつもりです。

        
 
 去年も書いたかも知れませんが、この実の収穫はムクドリやヒヨドリとの喧嘩になります。
 私がざるを持って出ると、それまで桑をついばんでいた彼らが非難がましく鳴きわめいて飛び立つのです。
 それを聞くと、一体誰がこれを育てたと思うんだ、ある日どこからともなくやって来て庭の隅でひょろっとしていたのをここまで育てたのは誰だ、虫が付きやすい葉なので懸命に防御したのは私ではないか、といまいましく思うのです。

        

 それに、それほど手をかけてきた私の方は、彼らがついばみに来るのを寛大にも追い払うでもなく、むしろ歓迎してやっているのに、その私に対してその非難がましい書き声はなんだ、とつい思ってしまうのです。
 私がとっている間、少し離れていますが、時々様子を見に来て「ギャー」と騒ぎます。「まだ居やがると」いわれているようで心穏やかではありません。

 そんなわけで、私の桑の実摘みは、童謡の「赤とんぼ」のような情緒とはいささか異なってしまうのです。

          
              苗代から運ばれ田植えを待つ

 ちょうどこの時期、このあたりでは田植えがはじまります。
 他ではとっくに終わって、もう、30センチほどにななろうかという時期になってやっとなのです。
 それは、岐阜県産米のハツシモがその名の通り霜が降りだすころ獲れるいわば遅場米だからなのです。

 そして、その味はというと、新米の間はコシヒカリなどに譲ることはあっても収穫後どんどん旨くなり、年を越せばたいていの米には負けないといわれています。

        
                  そのワンブロック
  
 ネットで検索したら以下のような記述がありました。
 決して、岐阜のPRページからとったのではありません。

 「ハツシモは、岐阜県の代表品種で、主に岐阜県でしか栽培されていない珍しいお米です。 収穫量が少ないので幻の米ともいわれていて米粒は、お米の中でも1、2を争うほど大きくてあまり粘らないので中京、関西では古くから寿司米としても重宝されています。」

 「ハツシモは国内産お米の中で1、2を争うほど大粒で中飴色を呈し、光沢も良く、収穫後の夏場を迎えても食味の低下が少なく また、ご飯は冷めてもおいしいので お寿司にもピッタリで<匠の米>とも愛称されています。」

        
          このヒョロちゃんが日本で有数の大粒の米を宿すとは・・・

 どうです、なかなかのものでしょう。
 でも、田植えが終わったばかりの苗ってなんか頼りなげですね。
 これからの風雨に耐えて数ヶ月、しっかりがんばれよと声を掛けたくなるほどです。

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「有松絞りまつり」を訪ねて

2011-06-08 16:46:06 | 写真とおしゃべり
        

 前の日曜日、親しいし方たちと、折からこの地の伝統工芸の絞りを中心とした祭りで賑わう有松を訪ねました。
 賑やかなお祭りで人で溢れかえっていました。

        
           絞りの実演 小鈴さんも幸子さんも頑張っています
 
 有松をご存知でない方に簡単に説明しますと、ここは東海道五十三次では知立(池鯉鮒)と鳴海のあいだのいわゆる間宿になります。ただし、広重の描いた鳴海宿はこの有松であるともいわれています。
 当時から有松絞りは有名で、江戸や京でも知られていました。

        

 この地に一番近いTさんに概略の土地勘を教えてもらい、その後はボランティアのおねぇさんのお世話になりました。一行の中に「わしもガイドをやっている」というオッサンがいてやりにくそうでしたが、それでも人ごみの中で懸命に声を張り上げて説明してくれるのには好感が持てました。

        
               まちなかにこんな素敵な小道が

 実はこの街、やってきたのは約半世紀ぶりなのです。
 まつりのメインストリートでホコテンになっていた通りが、まだ当時は現役の国道一号線でした。つまり、江戸時代の東海道そのままだったのです。
 それでも、周辺の家並みはあまり変わっていませんでした。もちろん、町ぐるみの景観保存の努力の賜物でしょうが、木造の豪華な建築物を維持するというのはとても大変なことなのです。

        
                    三層の蔵造り

 もう一つ重要な問題があります。伝統の地場産業としてこの街を支えてきた有松絞りの将来です。
 土地の人との立ち話では、まず、絞りの技術を継承する人が年々減ってきているとのこと、そして着物そのものが、とりわけ気の遠くなるほどの工程を経て作られる絞りの着物がその価格もあって売れなくなってきているとのことです。

 この街が、ただ伝統的な家並みの野外博物館としてのみではなく、その産業そのものが継承されればと願うのですが、先行きは険しいようです。
 駅の前の、黒川紀章氏の設計になる銀行の建物が、入り手のないまま空き家になっているのを見ると、少し暗い気持ちにもなりました。

        
              この下に大棚の立派な庭園が

 あ、折角の物見遊山が現実的になってしまいました。
 街の事情はともあれ、私たちには楽しい一日でした。
 こうしてまつりに参加することが、街の活性化の一助であるとは思います。
 いろいろ根回しをしてくれたTさんありがとう。一緒に楽しく過ごしたSSコンビさんにもお礼をいいたいと思います。

        

エピソード・1
 まちなかの祇園寺にはお釈迦様の足跡が石に刻まれています。
 45センチあります。一三文キックどころではありません。
 その足跡の中に丸い点があったので、これはお釈迦様の魚の目の跡だといったら
Sさんが信じてくれました。
 このひと振り込め詐欺にかかったりしないだろうかと少し心配に・・・。

        

エピソード・2
 上にあげてもらった竹田家で(入り口も世が世ならば大名諸侯しか入れない門から入れていただきました)立派な総絞りの着物が並んでいます。そのひと重ねに5万円とあるのでなんという安さだろうと思ってよく見たら「お仕立て代」とありました。
 出来上がったものはおいくらぐらい?と尋ねたところ、200万から300万円とのことで、ちょうど小遣いも余っているところだし、5重ねぐらい買って帰ろうかと思ったのですが、よく考えたらプレゼントする相手がいないのを思い出してやめました。

        

エピソード・3
 折角来たのに何も買わなくてはと、大枚1.000円をはたいて帽子を買いました。
 どこがどう絞ってあるのかよく分からないのですが、これを被ってもっと頭を絞れということではないでしょうか。
 


 
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名は体を表すとしたら、ちょっと・・・

2011-06-04 18:11:24 | 写真とおしゃべり
 名は体を表すのでしょうか。

 名付けというのは茫洋とした物事を分節化して区分し、それでもって私たちは、「あれ、それ、これ」ではなく、そのものを名指すことが出来るようになります。
 一度名付けられてしまうと、それは容易に変わりません。あまりくるくる変わると、それを名指し伝達することができなくなってしまうからです。

 ですから、最初に変な名を付けられてしまうと大変です。
 よく、子供の名前に親の趣味やその折の歴史的なものを付けたりし、その子が成人した折には世の中が一変していて奇妙な名前になってしまうこともあるようです。
 ここではそんな血なまぐさい話はよして、もっぱら花の名前を話題にしたいと思います。

 いま青紫の小さな可愛い花を付けているのにオオイヌノフグリというのがあります。フグリはタマタマちゃんのことですから、犬のそれを表します。その実の形が似ているからだそうですが何も実で表現せずにその花からアゼノコムラサキとか出来なかったのでしょうか。

 ヘクソカズラというのもそのへんでよく見かけますが、たしかにある種の悪臭を放ちますが、それでも蜂や蝶は来ていますから単にニオイカズラでも良かったのではないでしょうか。

        

 ドクダミもそうですね。別に毒があるわけでもなし、むしろ薬用や健康茶に用いられるくらいですから、ヤクダミでもいいくらいです。

        

 ヌスビトハギにいたっては何も盗るわけではなくむしろくれるのですから(それが困るのですが)クッツキハギでいいのではないでしょうか。通り道にあるとズボンの裾などにくっついて確かにとるのが大変ではあります。

 前にも書きましたが、春紫苑のことを通称ドロギクというのもかわいそうです。確かにありふれているかも知れませんが、春先から初夏にかけて野山を飾るきれいな花です。

           
         こんなに可憐なのに 小さなてんとう虫がやってきています

 その他ネットでぐぐってみたら、ハキダメギクというのもありました。戦後、進駐軍とともにやってきた帰化植物で、かの牧野富太郎博士が文字通り掃き溜めで見つけたからだそうです。
 どっかの花壇で見つかったら、ハナゾノギクになったかも知れませんね。

 他にはママコノシリヌグイという変なのがあって、葉や茎に棘が生えているのだそうです。この花、面白いのは、韓国ではヨメノシリヌグイというのだそうです。どちらもドメスティック・バイオレンスのにおいがしますね。

        

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          一番手前、白いガクの間から赤い花見えるでしょう

 変な話が続きましたので、最後にお口直しです。
 今朝、農協の花売り場で見つけた花です。源平木、または源平カズラといいます。
 どうしてか分かりますか?
 源氏の白旗、平家の赤旗が一つの花に共存するからです。
 もともとは西アフリカの原産で、白い部分はガクで赤い部分が花なのだそうです。
 この花の命名は素敵ですね。もっとも源平の旗の色を知っている私のような年寄りが感心するのみかも知れませんが。
 花としてもなかなかシャープで綺麗です。

        

 おまけは亡父の残した八重咲きのサツキです。
 このへんでは一重のものしか見かけませんのでちょっとした自慢です。

 

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