私自身は、第五福竜丸乗員の久保山愛吉さんが1954年のビキニ環礁の米軍の水爆実験で被爆し死亡したことをリアルタイムで知っていたし、そればかりか、1959年には、まだ分裂する前の原水爆禁止日本協議会の焼津大会に参加し第五福竜丸とも逢っている。
その折、同船は、焼津港近くの大きな木造の小屋に収納されていた。大きいとはいえ、板目もはっきりみえる木造船で、こんな船で南太平洋までマグロを獲りに行くのだと感心した。
船は無造作に置かれてたので、久保山さんらの乗組員のことを思って、船体を撫で回した。
しばらくして、「あの船には残留放射能はまだあって・・・・」という報道に接し、オイオイ、そんなことはもっと早くいってくれよ、こっちはすっかり船体と触れ合ったじゃないかと思った。
今日に至るも、私の言動がおかしいとしたら、それは残留放射能のせいである。
ところで、この件に関して、「朝日」にはこんな報道もある。
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それにもまして、NHKが健闘してるように思った。
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もう一週間過ぎてしまったが、この14日、校下のサークルの人たちと舞鶴を訪れた。
舞鶴といえば私には特別の思い入れがある。1944年に満州はハルビン郊外へ兵士として出征してそこで敗戦を迎え、ソ連軍によってシベリアへ抑留され、そのまま生死すら不明だった父が、1948年、引揚船で帰ってきたのがこの舞鶴だった。
それが父だった。父は、私たちの疎開先が駅の西方だったので、早く帰りたいあまり改札口のある東とは反対の方へ進み、ホームが途切れているのに気づき引き返してきたのだった。
停電が日常的にあった電気事情の悪い中、夜の駅のホームもまた暗いなかでの出来事だった。
舞鶴に話を戻そう。父が引き上げてきたその桟橋へ行きたかった。
しかしそこは、現在の舞鶴港や、海上自衛隊の基地となっている軍港からも随分離れた場所で、往時の桟橋ももうない(復旧版はあるみたい)ようなので、私一人のわがままでサークルの人全体を動かすのもと思って諦めた。
写真はその他いろいろ、舞鶴近辺で撮ったものである。
(承前)
叔母の再婚相手が在日の人であることを知ったのは、私が40歳過ぎて実姉に再会したあとのことである。
私と姉は、叔母に会い、その家を訪れた。叔母の連れ合い、在日の彼、つまり私の義理の叔父にも会った。彼は亜炭鉱の炭住でも権威をもっていたように、親分肌の豪快な人物だった。ただしその折は、いまの私より少し若いぐらいの年齢で、もう現役を引退した好々爺風であった。
姉と私の訪問をとても喜んでくれた彼だったが、とりわけ私が、「あなたは総連系、あるいは民団系どちらだったのですか?」尋ねたときには、「お前、そんなことを知っているのか。もっとこっちへ来い」と、私を抱きかかえるほどの近くへ招き、酒肴を勧め、その経歴を話してくれた。
彼はいろんな軋轢の末、民団を選び、引退まではこの地域の幹部を務めていたようだ。私と同じ年代の人で左翼を自称する人たちの間では、総連は左翼、民団は右翼という一般論が支配的だったが、スターリニズム批判を経過した私にはそんな評価は無縁であった。
日本敗戦後、在日の人たちはただただ勝ち誇ったようだったと語る人たちがいるが、そんな単純なものではない。日本の敗戦は同時に朝鮮半島の動乱の始まりでもあった。新たな朝鮮の出発を期して希望を胸に帰った在日の人たちが、チェジュ事件など思いがけぬ惨事に逢い、日本へ再入国したり、戦後、新たに日本へ亡命同然にたどりついた朝鮮の人たちも多い。
私は一応それらの事実を知っていた。それらが彼との間に共感を生んだのだろう。現役時代には、きびしい表情で過ごしたであろう彼が、私に対しては破格の笑顔で対応してくれたのをいまも思い出す。
姉と2回ほど彼と叔母の元を訪れたであろうか。やはり歓待してくれた。彼の訃報は家族主体の葬儀を済ませたあとに届いた。姉と私は、その四十九日に相当する日に彼の霊前に赴き、叔母や義弟、義妹の力になってくれたことを改めて感謝した。
これが、私と姉を外に出すことにより、継続した「家」の物語の顛末である。これはまた、実父の戦死などを含め、先の戦争が影を落とす物語でもあった。
再会して以降はできるだけ交流を保つようにした姉も亡くなり、いま、その末裔で私が連絡を取れるのは姉の娘たち(姪二人)と実父と叔母の間にできた義妹だけである。
毎年、5月の八十八夜、その年の新茶を贈ってくれるのが静岡県に住む姉の習いであった。それをいま、その娘、つまり姪が引き継いでいてくれる。
【これまで】家を守るため入り婿に入った実父は実母との間に姉と私を設けたが、その実母が私の生誕後亡くなったため、女学校を出たばかりの実母の妹(つまり私の叔母)と再婚しました。これも家を守るためでした。
しかし、叔母はあまりにも若く乳飲み子と幼子を養育することはできず、姉と私はそれぞれ別のところへ養子として出されました。
実父と叔母はその後、私の義弟、義妹にあたる二人の子を設けたのですが、折から激しくなる戦争に取られ、1944年インパールで戦死してしまいました。二人の幼い子を抱えた叔母は、戦後のドサクサで苦労を重ね、当時、愛知の三河や岐阜の東濃にあった亜炭鉱山の女坑夫として働きました。
そんな母に同情し、良くしてくれた男性がいて、二人の子持ちを承知で叔母と結婚しました。これはこれで新しい「家」が誕生したわけで、うまく収まったかに見えましたが、これまで「家」を守るを信条にしてきた叔母の親戚一党はこの結果を歓迎せず、隠然とした差別のようなものが生まれたのでした。
なぜか?それがこれまででした。
なお、これは先般瀬戸を訪れた際の私の回顧録で、それらは瀬戸と関連の深い地での出来事だったのです。
写真は以下も含め、すべて瀬戸蔵ミュージアムの展示です。
【それ以降の続き】
なぜそうなったかの結論をいいましょう。
叔母が結婚したのは在日の人だったのです。
「家を守る」に固執する親戚筋の人たちには驚愕の事実だったようです。
あからさまな陰口や隠然とした差別があり、中には事実上の付き合いを絶った人たちもいたようです。
でもこれって変な話ですね。家を守るというのが血縁の繋がりを中心に考えることだとすると、女系家族のところへ実父が婿養子に入り、妻に先立たれたらその妹と再婚してその流れを守り、その婿養子をなくした妹、つまり私の叔母が新たな連れ合いと結ばれたということですから、その新たな連れ合いとの間にできた子にも、血縁は継承されるはずです。
にもかかわらず、「家を守る」といっていた人たちが叔母と在日の人との結婚を歓迎しなかったのはなぜでしょうか。これまで、「家を守る」を「血縁の継承」という点から見てきたわけですが、それ自身を考え直す必要がありそうですね。
人間のみならず、生物は遺伝子の継承をもって繁殖を継続します。とりわけそれが、動物の場合ですと血縁の継承となり、人間の場合ですと親子にとどまらず、孫やひ孫の代までの継承関係が親戚だとか親族一門を形成します。これは血縁の自然的側面ですね。もっとも、人間の「孫子の代まで」になると、定住生活に伴う土地や住居などの財貨の継承を含みますから、歴史的社会的に形成されてきたものといえそうです。
さらに人間の場合ですと、この「血縁」は身分や階層を保つという意味でのある種の序列や秩序を前提にしていることが見えとれます。日本でいうならばかつての士農工商、インドでいうならばカースト制度の継承です。
こうなればもう血縁は自然的な面を離れて、完全に歴史的、時代的に秩序構成的なものになります。
現今の日本では、あからさまな身分制度はありませんが、それでも、家の釣り合い、学歴の釣り合い、などなど無言の制約は皆無ではないでしょう。
ましてや私の幼少時の戦前、戦中は、まだ身分制度の名残りはあり、私の生家が「家」にこだわったのは家康公時代からの三河武士の流れという変なプライドに固執したからでしょう。
ですから、叔母が在日の人と再婚したことをもって「家」の終わりであるかのように評価する人たちは、イスラエルの国防相がパレスチナの戦士たちを「動物のような人間」と形容したように、在日の人は血縁を継承する対象たり得ない人であるとするレイシスト的価値観に囚われているともいえます。
それらをまとめてみるに、血縁を中心にした「家」というのは、その自然的側面を土台にしながらも、人間の長い歴史を経て、限られた階層の保持、各階層間の序列の保持などなどの社会構造をなす極めて人為的な秩序や規範として、時には抑圧的に、時には差別、排除的に働く極めて人為的な制度だということです。
こので肝心のことをいわねばなりません。そうした規範を通じて、国民統合を価値づけ、時には逸脱者を排除してきたこの国の中心には、「血縁」を介した「万世一系」の家族が厳然として存在し、人々はそれを崇拝し、「象徴」という名であれ何であれ、その一家の総領を国家元首としていただいているとうことです。
さんざん利用された後に打ち捨てられたその「もの」に対する感情だろうか。それとも、それを利用した人たちへの「来し方行く末」を思う気持ちからだろうか。
ここに載せた廃車は、やはりわが家の近くにあるもので、最初に気づいてからもう10年は経っていると思う。かつての田んぼを埋め立て、埋め立てた山土を均し固めたのみの駐車場の一番端に鎮座しているのだが、廃車を物置として使っているケースともやや異なる。
物置として使用の場合は普通、ナンバープレートは外してあるが、これにはれっきとしてそれが付いたままであるし、ものを出し入れした形跡もない。
ルーフキャリアには作業用はしごを乗せ、中にもやや小さい脚立とホースやコード類がびっしり詰め込まれているので、何かの工事屋の車と思われる。
それがなぜ、長年にわたってここにあるのかは謎だが、今度近くの人に会ったら訊いてみよう。
廃屋、廃車、廃線などに「あはれ」を感じはするが、廃フェチというほどではない。ただ、これらの「廃」を貫いて思い起こすのは「故郷の廃家」という古い文部省唱歌だ。この歌は、最近ではほとんど聞かれないが、私の子供の頃には時折耳にする事があった。
しかし、私が特に感慨深く思うのは、1945年、硫黄島において歌われたそれだ。
この年の2月から3月にかけて、硫黄島に配属された約2万1千名の日本軍は、アメリカ軍に包囲され、連日の艦砲射撃に穴蔵生活で耐え続けた。そしてその中には、およそ数百人の15、6歳の少年兵たちがいた。
彼らは夕刻、米艦の砲撃が止むと穴蔵から出て、北の方角・故郷を見つめながらこの歌を合唱したというのだ。
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https://www.youtube.com/watch?v=zu2rS1-gV0g
この歌の作詞は犬童球渓であり、彼は「ふけゆく秋の夜 旅の空の わびしき思いに ひとり悩む・・・・」の「旅愁」の作詞者でもあるが、「故郷の廃屋」もこの「旅愁」も、曲の方はアメリカ人であり、特に後者は当時存命中のアメリカ人作曲家であった。普通なら敵性音楽として公の場所では歌ったりできないものであったが、文部省選定の「中等教育唱歌集」に収められたものであったせいで生き延びたのであろうか。
なお、硫黄島の少年兵たちがこれを歌ったのも彼らの年齢層が接していた、まさに「中等教育唱歌集」の歌だったからだろう。
その硫黄島であるが、3月に入り、圧倒的な火力の米軍が上陸作戦を強行し、日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」の東條英機の「戦陣訓」に従い、絶望的な玉砕・バンザイ攻撃の中でその9割が戦死した。その割合は、少年兵も同じであったろう。
私は、このくだりをできるだけ淡々と書いてきたが、実際にはこみ上げる寸前の思いをたぎらせて書いている。明日をも知れぬなか、歌い続ける少年兵たち、そんな彼らを微塵の情けもなく消し去ってゆく圧倒的な戦火・・・・。
私は彼らを殺した者たち、戦争をした大人たち、少年兵をそこへと送り込んだ者たち、そのくせ、戦後はのうのうと生き延びてなおかつ人の上に立ち続けた者を憎み続けてきた。
「廃」からの繋がりが広がりすぎた感があるが、しかしこれはこじつけではなく、私の中ではごく自然に行き着く流れなのである。
「廃」は哀れ(古語では「あはれ」)を呼ぶと冒頭で述べた。だとすれば、硫黄島での少年兵たちの合唱「故郷の廃家」はまさにその全幅の意味を込めてその対象というべきであろう。
*全く偶然の発見だが、上の記事に引用したボニー・ジャックスの方の「故郷の廃家」の2番の冒頭に出てくる写真、2008年に私が近所で写し、2015年のブログに載せたものの引用です。廃屋の雰囲気をよく出しているとして引用してくれたのでしょうから歓迎です。
なおいまはその地にはこざっぱりとしたアパートが建っていて、かつてこのような情景があったことを覚えている人はもうほとんどいないでしょう。
その写真は以下です。
岩波の『思想』7月号の「E・H・カーと『歴史とは何か』」を特集した号をやっと読了した。
これを読んだ動機は、1962年、清水幾太郎訳の「岩波新書」版でその刊行時に読んだことがあり、加えて最近、教育実践の立場から高校教諭の小川幸知司氏が著した岩波新書の『世界史とは何か』をやはり教育実践の経験者A氏からのご恵贈で読んだことによる。
なお、『思想』の特集号は、私が若い頃読んだ清水幾太郎訳のE・H・カーの『歴史とは何か』に代わる近藤和彦氏の新訳版が昨年刊行され、それが読書子や歴史専門家の興味を引き、ある種の刺激をもたらしたことによる。
E・H・カー
小川幸司氏の著は、いってみればE・H・カーの切り開いた地点を当然前提にしているといえる。それを、E・H・カーのものから引用すれば、「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」(旧訳 第一講から)ということになる。
この一見、当たり前のようにみえる前提は、実は含蓄が深いものを含んでいる。いってみれば、歴史とは、私たちとは独立した対象としての過去として存立しているようなものではないということ、歴史家の解釈、あるいは私たち自身の解釈の介在をもってはじめてその姿を表すものであるということである。
ところで、歴史家も私たちも、まさに歴史がもたらした結果としての一定の立場に立っていて、その立場自体が歴史解釈に影響をもたらすとしたら、それは堂々巡りの相対論に陥ってしまうのではないかという疑念は残る。私たちから離れた確固とした歴史というものがあるということを否定した瞬間から、この疑念は不可避かもしれない。
では、確固とした歴史が存在するとして、それを私たちはどのようにして知りうるのかということになると、今度は神秘的な啓示に頼るかあるいは不可知論に陥ってしまう。結局それは、「相互作用の不断の過程」や「尽きることを知らぬ対話」に頼らざるを得ないことになる。
カーが前世紀の中頃、それを強調せざるを得なかったのは、一方では「確固としてるが不可知の歴史」というものがあるという伝統的な立場と、他方では、人々の個々の営為とは関わりなくその法則によって歴史は進行するとする「唯物史観=史的唯物論」が両立していたからである。
歴史研究家でもあり、外交官として実践的な立場にもあったカーにとって、そのどちらもが不毛であった。ただし、社会的実践家であったカーが、マルクス的なものへの共感を持っていたという事実も指摘されている。
ところで、私がこの書を旧訳で読んだ60年代のはじめ、私はソ連型の正統派マルキストには批判的であったが、その立場はニューレフトとしてのマルキストであった。したがって、「唯物史観=史的唯物論」には依拠していたのだが、一方、このカーの書にはかなりインパクトを覚えたことを記憶している。
この辺のところを自分のなかでどう整合性を保っていたのか、いまとなってはさっぱりわからない。当時の私自身の曖昧さというほかない。
あまり長くなってもと思うので、ここで、新訳の方からカーの歴史観のエッセンスのようなものを引用して、私の中途半端な勉強のアリバイとしたい。
「歴史家の解釈とは別に、歴史的事実のかたい芯が客観的に独立して存在するといった信念は、途方もない誤謬です。ですが、根絶するのがじつに難しい誤謬です。」
「過去は現在の光に照らされて初めて知覚できるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分に理解できるようになるのです。」
「本気の歴史家であれば、すべての価値観は歴史的に制約されていると認識していますので、自分の価値観が歴史をこえた客観性を有するなどとは申しません。自身の信念、みずからの判断基準といったものは歴史の一部分であり、人間の行動の他の局面と同様に、歴史的研究の対象となりえます。」
「ちょうど無限の事実の大海原からその目的にかなうものを選択するのと同じように、歴史家は数多の因果の連鎖から歴史的に意義あることを、それだけを抽出します。」
「歴史家にとって進歩の終点はいまだ未完成です。それはまだはるかに遠い極にあり、それを指し示す星は、わたしたちが歩を先に進めてようやく視界に入ってくるのです。だからといってその重要性は減じるわけではなく、方位磁石(コンパス)は価値ある、じつに不可欠の道案内です。」
*以上の引用はすべて、新訳刊行に当たっての岩波の内容紹介による。
*E・H・カー(1892~1982年)は英国の歴史家、国際政治家、外交官で、「ロシア革命の歴史」(全14巻)を始めとする幾多の著作があるが、ここでとりあげた『歴史とは何か』はいまもって歴史を語る人々にとって名著とされる。
私は演奏の良し悪しに言及するだけの耳を持ち合わせていない。ただ、媒体を介した音楽鑑賞との違いはわかる。それは音楽の身体性とでもいうべきものだろうか。奏者の身体をもって音が発せられ、それが私という身体で受け止められる。その受け渡しの中にライブの快楽がある。
演奏を堪能したあと、聴衆の中のA氏とI 氏と出会う。両氏はともに私の同人誌を読んでくれている人でもある。A氏はかつて私に、岩波新書の『世界史とはなにか』(小川幸司)を寄贈してくれたりした。
折しも私は、それによる刺激もあって、若い頃読んだ歴史学の古典、E・H・カーの『歴史とは何か』の新訳(近藤和彦:訳)の出版に際し、岩波の『思想(7月号)』で組まれた特集を読んでいたこともあり、ひとしきりその話で盛り上がる。
なお、このA氏と I 氏のご両名、近々、『世界史とは何か』の著者にして長野県の高校教諭である小川幸司に会いに、長野県へお出かけとの由、その強靭な探究心とフットワークにただただ敬服の至り。
もう何度もあちこちに書いたが、1991年8月、私は初めての海外旅行の途上にあった。行く先はモーツァルト没後200年に際しての記念すべき音楽祭に湧くザルツブルグであった。三つのオケと二つのオペラを含むこの夢のような旅は、ボーナスもなにもない自営業の私に、私自身が与えた開業20年ぶりのボーナスであった。
この旅で、私が最初にその足を下ろす異国の地は、当時のソ連、モスクワ空港であった。モスクワに滞在する予定はなかったが、そこで給油のため一時間半か二時間の滞在があるので、空港内へ降り立っての行動は予定されていた。
ノーテンキな私は、その空港内で、上質のウオッカでも入手せんものと手ぐすね引いていた。機は、大小の湖と白樺林が点在するモスクワ郊外の空港へと滑り込んだ。
その時であった。スワと席を立とうとした私に無慈悲な宣告が下された。機内アナウンス曰く、「ソ連当局のお達しにより、乗客の空港内立ち入りは禁止されました。そのまま、お席にて出発をお待ち下さい」
ガ~ン、ソ連の、モスクワの地をこの足下で感じとりたいという私の望みはかくして断たれることとなった。1991年8月22日(日本時間)のことだった。
その要因もほぼ推測できた。いくら世間に疎い私でも、ゴルバチョフのペレストロイカやそれに同調するエリツィンに対し、それに抵抗する旧共産党系の反動派がクーデターを図ったが既に鎮圧されたというニュースは出発前日にキャッチし、それじゃ、モスクワ空港内の散策も・・・・と安心しきっていたのだ。
しかし、結局はソ連が崩壊し、その傘下の国々の独立と同時にその中心であったロシアは新生ロシアとして再出発するという歴史的大事件が、この現地においては、日本の地で新聞やTVで見ていたように、「ハイ終わりです」というわけにはゆかないことは当然だったのだ。
しかも、私がモスクワ空港へ着いたその日、クーデター派によってクリミアに幽閉されていたゴルバチョフが、開放され、まさにモスクワ空港経由で帰ってくるその日だったのだ。
航空機の窓から見る空港は、まさに厳戒態勢だった。機関銃を積んだ装甲車が走り回り、完全な戦闘ムードの兵士たちが、あちこちで警備の体制をとっていた。銃を携帯した兵士の一隊が、機体の周りをパトロールする。窓越しにではあるが、下手に目を合わせると狙撃されそうな気分にすらなる。
前置きが長くなった。私が観た映画は、ちょうどその頃、当時のレニングラード(いまのサンクトペテルグルクで何が起こっていたことを映像にしたものである。
日にちや時間などの字幕が入る以外、ほとんどノーナレのモノクロ映像は、この都市の各地での凄まじい数の人々の不安や怒りや訴えを映し出す。それらは、やっと73年にわたるスターリニズムの抑圧体制からテイクオフしようとしているとき、そのネジを逆転させようとしている反動派のクーデターに反対するものだ。
実は私は、コロナ禍が始まる寸前の2019年夏、このサンクトペテルブルクを訪れている。その折は、主として1917年のロシア革命の痕跡を追いかけたのだが、その折見た多くの風景が、この映画では、その17年の革命を否定する場として登場するのは感慨深かった。
ここに載せたモノクロの写真は映画からのものだが、カラーは2019年に私が撮ってきたものだ。
映画は、サンクトペテルブルクの各地で人々が集まり、集会やデモを行うシーンが出てくる。とりわけ、私が何度も行ったエルミタージュ美術館(1917年のロシア革命では、ボルシェビキがケレンスキー一派を最終的に追い出し、政権を樹立した当時の冬宮)前の宮殿広場には、八万人の大観衆が集結する大集会がおこなわれ、人々は口々に要求のスローガンを叫び続けた。
この映像を見て、これだけの人々が集まりながらも、ほとんど流血をみなかったのは、素晴らしいと思う。
その結果が、ソ連の解体となり、連邦内の国々は独立し、新生ロシアが誕生したことは誰もが知っている。そして映画は、そこで終わっている。
この映画には、若き日のプーチンもチラッとだが出てくる。反動派のクーデターに反対する立場からのものである。
私たちにとっての興味は、その後のロシアがどうして今日見られるようなプーチンの専制政治体制になり、ウクライナへ侵攻するなど大ロシア主義の道をたどることになったかである。
あの、サンクトペテルブルクの街を埋め尽くした「自由」への叫びは、どこへ行ってしまったのだろうか、ということでもある。
その解明に役立つのは、ハンナ・アーレントの『革命について』ではないかと思う。これを論じだすと長くなるので端折るが、彼女は、革命の成否はその革命が要求する内容の方向性によるとする。
搾取や強権、抑圧からの解放は革命の要因になりやすい。ただ、その「~からの自由」のみの革命は挫折しやすいという。むしろ、問題は獲得すべきものを明確にすること、つまり、「~からの自由」にとどまらず、「~への自由」が明確にされねばならないとする。
それを適用するならば、1991年のロシアの「革命」は、73年続いたスターリニスト支配「からの自由」を実現したものの、自らの体制をいかなるものとして形成するかの、新しい体制「への自由」という展望を欠いていたがゆえに、新自由主義とのグローバルな世界的競争に投げ出されるなか、今日のような奇怪な体制を余儀なくされているのではないか。
世界には、いま開催されているG7のような一時的安定の中で静態的に不動であるかのような「優等生国家」がある。しかし、それらの国々がいつ炸裂するかわからないマグマを抱え込んでいるのは、アメリカやこの国をみるだけでじゅうぶんわかる。
世界の歴史は、そうした潜勢態にあるものが、ちょっとした変化で、現勢態に転ずることから生じる。
1991年までの20世紀の大半は、米ソの不動の体制下にあり、左翼も右翼も、リベラルも、全てその舞台で踊っていたのだから。