六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「一億総懺悔」が流行ってる!

2007-06-27 16:35:23 | 社会評論
 「一億総懺悔」に似た状況が流行りつつあるようです。
 あっちゃでも、こっちゃでも、それに似た行為が行われようとしています。

 まず本家本元を辿ってみましょう。
 これは、私がまだみめ麗しき少年の頃(今なお、その面影を宿していることはいうまでもないのですが)、リアルタイムで経験したことなのです。

   

 1945年、敗戦後間もなくして、急に回りの大人たちが、今回の戦争につき「一億総懺悔する必要がある」などといいだしました。
 なるほど、私のような小国民をも含めて、みんなが戦意高揚に酔いしれていた挙げ句の果てのこの惨状、国民が等しく懺悔する必要があるだろうと素直に思ったものです。

 しかし、この一億総懺悔、あとで知ったところによると、どうもそうした国民の謙虚な自己批判から生まれたものではないらしいのです。

 敗戦後二週間の間、誰もがこの戦争についての責任に言及しませんでした。軍部と文民、官僚、企業などが一丸となって、ひたすら、証拠文書の廃棄作業に忙しかったからです。
 しかし、やがて、なぜこんな悲惨が生じたのかの糾明の声が挙がりはじめました。 

 当時、敗戦処理内閣として登場した皇族内閣の首相・東久邇宮は、敗戦二週間後に至って、はじめてその件について口を開きました。
 「・・・この際、私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し、懺悔しなければならぬと思ふ、全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる」(1945〔昭和20〕年8月30日付「朝日新聞」)

 これを受けて、当の「朝日新聞」をはじめ、各マスコミが一斉に「一億総懺悔」を唱え、それが私のような少年の耳に達するほどの流行語となったのでした。
 そうなのです、この言葉は、上から発せられ、マスコミによって広く流布されたものなのです。

   
       敗戦処理のための東久邇宮皇族内閣 

 
 しかし、おかしくはないでしょうか。国民が謙虚に、戦争政策にのせられここまで来てしまったことを自己批判するのは分かるとしても、この戦争を先導し、反対勢力への暴虐や処刑をもって国民を黙らせ、各種の戦争政策を強引におこなってきたお上が、いまさらのように「お前らみんな、等しく責任をとれ」というのですから。

 さらにそれを得々と流布したマスコミもマスコミです。
 彼等は、連日、「敵軍に与えた損害は甚大なり。なお、当方の損害は軽微」という嘘の情報を垂れ流し、戦陣での美談をねつ造し、国民を戦争へと駆り立ていたのですから。

 おかげで、今となっては信じられないことですが、国民の大半は、戦況は厳しくなっているとは思ってはいたものの、八月一五日の当日までは、敗けるなどとは思ってもいなかったのです。
 一部、聡明な人たちはそれを予感していたのですが、公の席で、「負けるかもしれない」などとつぶやこうものなら、たちまち特攻警察が飛んできて、逮捕され、半殺しの目に遭わされる、あるいは命すら危ういという時代だったのです。

 これらを考え合わせると、お上やマスコミと同様に、国民等しく「一億総懺悔せよ」はどう考えてもおかしいといわざるを得ません。

     

 果たせるかな、新聞の投書などに、
 「今度の戦争は私たち農民の一向知らない間に始まり、勝っていると信じている間に負けてしまった。私たちのあずかり知らないことに、私たちは懺悔する必要はありますまい。国民を欺いていた背信の人々にこそ、懺悔は必要です」
 「戦争当局者が、責任を国民に分配するつもりでの一億総懺悔なら、それは卑怯だと思う」
 などの意見が相継いだのでした。

 しかし、大筋としては、この一億総懺悔はうやむやの内に承認された形となりました。その結果は、日本人自身の手による戦争責任の追及が皆無であったという事実となって現れたのです。
 戦争責任の追及は、すべて連合国や占領軍によって行われたのでした。

 こうして、一億総懺悔論は、戦争の責任を国民全体に分配し、真のその在りかを完膚無きまでに隠蔽するという所期の成果を見事に果たしたのでした。
 これが、元祖「一億総懺悔」の実状でした。


 
 
 最初に、今、それが流行りつつあると書きました。
 そのひとつは、「ミート・ホープ」の全員馘首宣言です。この会社の従業員たちは、いきなりクビを言い渡されました。中には、再就職もままならない人たちもいるようです。
 こんな会社だから、不正に蓄財したものを従業員に分配するとは思えません。もっとも、経営者の奥さんは、8,000万円の退職金をもらって既に退社されているそうですが・・。
 つまるところ、経営者のみ、それらを密かに蓄え、多少の刑罰や科料のあと、のうのうと暮らして行けることになるのでしょう。
 これもまた、「一億総懺悔」的責任の分配ではないでしょうか。

     

 もうひとつは、社保庁職員の賞与のカットです。
 国民が等しく社保庁に不信を持ち、その改革を、あるいは解体を望んでいることは事実です。
 しかし、そこで望まれていることは、自分たちの年金への信頼感の回復と同時に、1)社保庁が従来の欠陥システムを放置し、それをチェックしてこなかったこと、2)年金の積み立て分を全く無駄な箱物の建造にあて、結果としてゴミ同然に処分しなけれがならなくなったこと、3)それに群がった議員共への黒い金の環流、などなどの事実を明らかにし、その責任の所在を明確にするとともに、その責任者への処分失われたものの取り返しなのです。
 ですから、社保庁の職員全員おしなべて、一億総懺悔させればよいというものではありません。

 ここにもまた、真の責任の隠蔽があるようです。
 しかもそれに加えて、ここにはさらに真っ黒な企みがあります。要するに、国民の社保庁批判に乗っかったこうしたパフォーマンスで現政権への批判をかわし、あわよくば参院選で票を上乗せしようという姑息な手段であることが見え見えなのです。

 結論です。一億総懺悔的発想は、いつの場合でも、真の責任所在を不明確にし、無辜の民にまでその責任を分配しようとするあざとい方法なのです。



笑えるオマケ
 文部科学省は、昨年、ミート・ホープの田中社長に対して、「創意工夫功労者賞」を授与していて、今回の事態で、慌ててその取り消しをしようとしているようなのです。
 しかし、田中社長がいかに「創意工夫」をこらしたかは、今や私達が広く知るところですし、文部科学省は、その「先見の明」を誇るべきで、取り消しなどすることなく、お役所仕事の典型例として後々まで残すべきではないでしょうか。
 

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岐阜散策と六の時事川柳 07.6.24

2007-06-25 02:17:46 | フォトエッセイ
 梅雨の晴れ間の一日、あるグループで、JR岐阜駅を起点に長良橋近辺まで散策しました。
 直線距離にすれば4Kmぐらいですが、途中、あっちに寄ったりこっちに寄ったりで、結局6Kmぐらい歩きました。

 以下はその折りの写真です。

 

  出発点のJR岐阜駅付近、加納の清水川です。
  子どもの頃、魚を追いかけた懐かしいところです。

    

    岐阜の象徴、金華山と山頂の岐阜城です。

 

 長良川近くの川原町筋では、町並み保存が行われ、風情のある町屋が軒を連ねています。
 そのうち、ふだんは閉まっている丁字屋さんが公開しているというので立ち寄りました。
 後ろ姿が、丁字屋の当主。ポストのあるところは、町屋をそのまま活用したカフェ川原町屋

 

    丁子屋さんの内部にあるおくどさん

 

    これは先に見た川原町屋の裏側

 

   岐阜といえば鵜飼。鵜飼提灯が町屋の軒を飾る。

 

  夜のとばりが下りるのを待つ鵜飼観覧舟の舟だまり



<今週の川柳もどき> 07.6.24

 2回続けて休みましたから、今週は多作です。
 最も、多ければいいというものではありませんが・・。

 参院を盲腸なみにする首相
 扇さん引退前にチクリ刺す
 (ご都合主義に身内からも批判)

 美しい国沖縄を邪魔にする
 教科書を歴史の墓所にするつもり
 (沖縄の自決問題削除)

 米中の頭ごなしを思い出す
 骨のない外交やはり蚊帳の外
 (米と北の直接交渉)
 
 インチキコストダウンと言いくるめ
 豚やとり水まで入れる周到さ
 何を食わされているのか分からない
 (食肉偽装)

 源泉は都下にあっても地獄谷 
 無理矢理に引きずり出せば湯も怒る
 (渋谷で爆発)

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平和ボケ? 誰が?

2007-06-23 18:08:09 | 社会評論
 この「平和ボケ」という言葉、つい最近まで、軍備強化を主張する人や近隣諸国へもっと強権をもって臨むべきだという人々が、それに反対する、いわゆる「平和主義者」に向かって発する言葉だと了解していた。
 いわば、平和な状況に飼い慣らされて、戦時への備えを忘れているというわけである。

 しかし、最近どうもそうでもないように思えるようになってきた。逆に、「平和ボケ」という言葉を使う人たちの方が、本当に戦争の実態を知らず、「平和ボケ」しているように思われるのだ。

 

 よく論争になる問題として、南京虐殺や従軍慰安婦問題、そして最近では、沖縄においての軍による強制自決などがあるが、これらの問題がなかった証拠として、常に引き合いに出されるのが、そうした事実を示す「公式文書」はないということである。

 最後に述べた沖縄自決問題にしても、中学校の歴史教科書から抹消されることになった理由が、この、「公式文書にない」という理由であった。
 これに対し、現にそれを経験した沖縄県人から激しい抗議が噴出し、沖縄県議会が自民・公明を含む全会一致で文部科学省への抗議の決議を行ったのは耳新しいことである。
 自民党員である県会議長は、自らの経験を添えて自決抹殺に反論している。

 この、「公式文書にない」という言い分こそ、実は「平和ボケ」の言説そのものではないだろうか?
 というのは、敗戦国が、戦争責任や、ましてや戦争犯罪に関する「公式文書」を後生大事にとっておいて、占領軍に、「ハイ、私はこれこれのことを致しました」と差し出すことはありえないからだ。
 年金の基礎資料すら、どこかへやってしまうような国においてである(これはミスや怠慢であるが)。

 それらの文書は、意図的に焼却され、処分されたのだ。
 敗戦確定の8月15日に先立つ12日に、既にして内務省は「新情勢二対応スル言論出版取締基準」を制定し、「所謂(いわゆる)戦争責任を追及する如きもの、之を示唆暗示するもの」への言及を禁止し、それらの文書の破棄をも示唆している。

 
 
 事実、その方針に添って、各部署で膨大な資料が焼却された
 当時の情報局に勤務して職員は、「情報局・敗戦前夜」という文書で、以下のように述べている。
 「情報局は内務省の建物の5階にあった。階段を上がり下がりするのは大変だというので、空襲時の非常持ち出し用の袋に書類を詰めるだけ詰めて、窓から内庭にいくつも投げ落とした。
 下を見れば燃え続ける文書の山、内務省はこちらより大量に焼却するものがあるようで、内庭の中央部はまさしく紅蓮地獄であった」

 これが敗戦前後の情報抹殺の実状である。まさか、8月の中頃に、暖をとるために焚き火をしていたとは強弁できないだろう。
 こうした戦争というものの実状を何ら理解することなく、「公式文書がない」などとシレ~ッとしていえるのは、まさに「平和ボケ」ではないかと思うのだ。

 こうした資料の抹消に、各種報道機関、とりわけ新聞社も右へ習えをした。
 当時の新聞社勤務の人たちの証言によれば、中国など戦地での日本軍の実状を撮した写真の内、内務省の検閲により紙面には公開されなかった多くのものが保管されていたのだが、それらもすべて焼却処分された。

 かくして、わが国の公式文書や報道機関の資料の中から、戦争責任や戦争犯罪に関するほとんどの証拠が失われるところとなった。
 これこそが戦争の実状なのだ。既に述べたように、自らの不利益になる「公式文書」を敗戦時にも保管する戦争などはどこにも存在しないのだ。

 従って、そうした公式文書はちゃんと保管されているはずで、それがないからそうした事実もなかったという主張こそ、まさに「平和ボケ」と言わざるを得ないのだ。

 

 確かに公式文書はない。しかし、それを体験した人々の記憶の中に、それらは深く刻み込まれている。
 私自身、南京虐殺に加わり、中国人の首をはねたという体験談を、その本人から聞いている
 彼は(当然、私より年上だが)、こう語った。
 「縛り上げておいて、順番に首を切るのだが、人間の首はそんなに簡単に切れないから、結構手間がかかる。そうすると、順番待ちのチャンコロたちはだらしないもんで、泣きわめいたり、中にはションベンを漏らす奴もいた」

 酒が入っていたせいもあろう、彼はそれを得々として語っていたが、私の顔色が変わっているのに怯んで、幾分トーンダウンした。
 私は、
 「もし、あなたが首を切られる方だったら泰然としていられますか?」
 と、尋ねた。
 彼は、何か曖昧なことを行ってそそくさとして席を立った。
 私は、もっと何かをいうべきだったのだろう。だが、あまりの無神経な得意話に、正直なところ、言葉を失っていた。

 これは、敗戦から何十年も経ってからの話だが、敗戦直後、戦地から引き揚げてきた兵隊の口から、これと似た話が全国で話されていた(利口な人は口をつぐんでいたが)ことはゴマンとある事実なのである。

 

 日本軍の残虐行為を否定する人たちは、我が同胞はそんなおぞましいことをするはずがないという思いこみが前提としてある。実のところ、私もそう思いたい
 しかし、そこにもある種の「平和ボケ」がある。

 戦争というものは、生と死が無媒介に隣り合う状況である。いわば、パニック状態の大量生産なのである。
 検証不能な情報が飛び交い、人々を煽り、恐怖へのカウンターとしての過剰な行動が日常茶飯事となる。
 ここにはもはや、理性の介入する余地はない。平常ならば狂気でしかないような反応こそが生存を支えるよすがのように思われる。そして、そうした狂気は集団という支えの中で増殖され、実現される。
 ナチのユダヤ狩りを筆頭に、あらゆる戦地で多かれ少なかれ、こうした狂気が残虐行為を現実のものとする。
 新しくは、イラク戦線での、米軍による残虐行為を想起すれば充分だろう。
 
 戦時におけるこの集団狂気を見ようとしない者、そこから目を背ける者こそ、「平和ボケ」した人たちというほかない
 先に引いた例に戻ろるならば、中国人の首切りを私に得意げに話した彼は、市民としては仔犬や仔猫をこよなく愛するペットショップの経営者であった。何が彼を残虐行為に駆り立てたのか、戦争という事態は、「平和ボケ」した人たちの想像力を越えているとしか言いようがない。

    


 確かにもう、60年以上前のことである。それ以後生まれた人たちに責任がないといえばない。
 ただし、そうした前史を背負って今日があること、そして、それが示すように、戦争は日常とは異なった状況の中で、人に狂気をももたらすことは重々、知っておくべきだろう。
 再び、三度、その過ちを繰り返さないためにも・・。
 善良なあなたが、残虐行為の主人公にならないためにも・・。

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絵に描いた果物と戦争

2007-06-21 17:26:23 | よしなしごと
 わが家の枇杷を、既に数度にわたって収穫した。
 その都度、娘の勤める学童保育のおやつや、私の老母のおやつに供してきた。

 今の子供たちは、枇杷を結構珍しがるようである。
 むろん、スーパーには売っているが、それが子供のおやつとして供される機会が少ないのだろう。

 
       枇杷の花.こんなに綺麗なのですよ。

 私にとっては、枇杷は懐かしい果物である。
 と言うより、戦時中の私にとっては、口に出来る果物と言えば、イチジクと柿と栗と枇杷しかなかったからである。これらは、それぞれ、私が疎開していた母の実家の敷地内にあったもので、それらが熟す時期は、私達子供にとっては天国であった。

 しかし、それ以外の果物については、全く疎遠であった。  
 戦時中の食糧難の中にあって、果物などは全くの贅沢品であり、今なら最もポピュラーなリンゴやミカンすら入手困難であった。
 それらの果樹園は伐採され、もっと基本的な食料生産のために畑などに転用されたからだ。

 だから、私達の口に出来た果物と言えば、前に述べたようなものに限定されたのだが、それらはいずれも、農家の庭先で獲れるものであった。

 ところがである、私達よりやや上の世代は、私達が口に出来ない果物を食していたのである。

 それはまだ、日本が列強によって追いつめられ、戦況が悪化する前のことである。
 台湾からは美味いバナナが入ってきた。その他、東南アジアの占領地からはマンゴー、パパイヤ、パイナップルなどが入ってきていた。

 しかし、やがて戦争はいっそう激しくなり、制海権や制空権をも連合国側に掌握され、兵員や軍事物資の輸送すらままならぬ状況下にあって、果物どころではなくなっていたのだ。

 

 不幸にして、私がものごころ付いたのはそうした時期であった。だから、前記の海外産の果物の中で、私が戦前口にしたものとしては、乾燥バナナの切れっぱししかない。それは、いわばレーズンのようなもので、口に入れている内に柔らかくなり、かすかにバナナの味覚が広がるのだった。

 しかし、私達にとって残酷だったのは、それらを口に出来ないということもあったが、それ以上に、むしろ知らないならば知らないで済むのに、回りには、やたらそれについての情報が氾濫していたことだ。

 台湾は日本の統治下であり、南洋諸島も日本の占領地であることが絵本や雑誌にはエキゾチックな挿絵と共に、これでもか、これでもかと強調されていて、やがてそれらの場所は、大東亜共栄圏として、わが国がリードするいわば従属国になるのだと記されていた。

 それだけならばよい。それらの雑誌には、必ずそこらで獲れるバナナ、マンゴー、パパイヤ、パイナップル、ドリアンなどの写真や絵、それに、それらがいかに美味であるかの叙述が添えられていたのである。
 また、南洋に領地を得た『冒険ダン吉』という当時のマンガには、「土人」たちが恭順の印に、それら果物を大きな籠一杯に持ってくるというシーンが何度も登場するのだった
 まさに絵に描いた餅ならぬ、絵に描いた果物である

 今の雑誌文化のように、情報が素早く交換される時代ではない。紙や印刷にすら窮している時代であったから、子供たちは、そうした本を繰り返し繰り返し読まされたのだった。
 主食にさえ窮し、芋のつるや彼岸花の球根を毒抜きして食べ、飢えをしのぎながら、山と盛られた美味珍味を見せつけられていたのである。大東亜共栄圏の繁栄の証としてである。

 
 戦後、しだいに食糧事情が緩和され、やがて、果物も出回りはじめるようになった。
 しかし、私の場合、もはや果物には食指が動かなかった。
 なぜなのかはよく分からない。あまり長い間「お預け」をさせられた反動なのかも知れない。

 今の子供たちや若い人は、自由に世界中の果物を口にすることが出来て幸せだと思う。
 しかし、戦争はそれらのすべてを奪う。戦争というのは、前線での壮絶な戦いや、「特攻隊」や「男たちの大和」のようなヒロイズムに満ちたものばかりではない
 その銃後といわれる国民の衣食住にわたる生活そのものをも含め、学問や芸術もむろん、すべてを破壊し尽くすものなのである。戦争は、現実生活から隔離されたゲームではない

 軽率にも、戦争への傾斜を容認する人たちは、こうした面をトータルに見ていない場合が多い。
 子供たちが様々な果物を口に出来ること、そのささやかさの内にも計り知れない価値があるのだ

 枇杷を獲る。これを食べてくれる子供たちのことを考えながら。
 子どもたちは上手に皮をむくだろうか? 種を飲み込んだりしないだろうか。

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山下洋輔 meets S・Q

2007-06-18 04:51:08 | アート
 岐阜はサラマンカホールでのコンサートへ行って来た。
 
 前半は山下洋輔とクラシックのバイオリニスト・松原勝也とのデュオ。
 スタンダードナンバー3曲ほどの演奏のあとは、山下自身の作曲になる「ピアノとバイオリンのための<Chasin' the Phase>」。要するにいわゆるバイオリンソナタであり、「Conversation」「Dance」「Song」「Flight」という4楽章からなる曲であった。

     

 最初のスタンダードナンバーで聴いた「テイク・ファイブ」は、ピアノとバイオリンのバトルのような激しさの中に、インプロビゼーションが行き交い、これまで聴いてきた「テイク・ファイブ」とは全く違う曲のようで、驚きと新鮮さを覚えるものだった。

 「ピアノとバイオリンための・・」は、山下が、このバイオリン奏者、松原の委嘱作品として書いたものだけあって、呼吸もぴったり合っていて、充分楽しめた。
 ジャズの持つ個性的な性格からしても、この同じ曲を他の奏者で聴いたら、おそらく、全く違うだろうと思われる。それほどこのデュオにぴったりフィットした曲でありまた演奏であった。
  
     

 後半は、山下洋輔と、前出の松原勝也が率いるストリング・クァルテット(v1松原、v2鈴木理恵子、viola市坪俊彦、cello山本裕ノ介)とのコラボレーションで、クラシックの編成でいえば、ピアノ五重奏ということになる。
 なお、チェロの山本は、今は亡き山本直純の子息とのことで、その面影は確かにあった。

 曲目は、やはり山下の作曲による、「ピアノとストリング・クァルテットのための<Sudden Fiction>」で、13の小品からなる組曲であった。
 内容は、ジャズの始まりとしてのアフリカを振り出しに、アメリカでの開花、日本への上陸などをイメージしたもので、曲ごとに様々な風貌が導入され、それぞれがとても楽しいものであった。

 最初はやや端正すぎるかなと思われた演奏が、次第に広がりを持った豊かなものに展開する様は、曲自体の持つ内容もさることながら、特に、クラシック側の奏者にあった堅さがほぐれ、彼等自身が大いに乗ってきたことにあるようだった。

     


 特に、「ハプニング」と題された第10曲においては、ストリングスの奏者の一人一人が、インプロビゼーションというか、カディンツァを披露し、それぞれに拍手が湧くほど会場も乗ってきた。

 思うにこれは、山下の爆発するような演奏と、彼が発するオーラ
のようなものの効果で、各演奏者の音色が、ひとつの渦巻きのように会場を駆けめぐるという熱気に溢れた様相が実現されたためといえよう。

 いやー、楽しかった。
 久々に命の洗濯が出来た。




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戦争へのお誘い

2007-06-16 03:40:53 | 社会評論
 以下は、あるネット上でのやりとりに対しての私のコメントの再掲です。
 ある人が以下のような報告をしました。

  電通総研が2000年に行った世界60カ国の調査にで、「もし戦争が起きたら国のために戦いますか」という質問に、「戦う」と答えた日本人は15%で最下位だった。その調査のブービーはドイツの33%だった。ちなみに中国89%、韓国74%だった。

  これに対して別の人が以下のようなコメントを付けました。(幾分改行を改変)

 私は 戦います  自分の家族 大切な人のために  もし 命の危険にさらされたら
 相手に対し 対抗する手段も問いません
 でも 子どもにそれを勧められる?  難しいですね
 自分の家族を愛する心=国を愛する心  そう考えたら 戦える
 愛国心 もうすこし 浸透させてほしいですねえ


 

 それを念頭において、私が付けたコメントが以下のものです。
 
 私がもっと若くて壮健であっても、 戦争には行きません
 例え罪に問われても兵役拒否を行います。
 国という抽象的なもののために人を殺したり自分が死んだりするのがイヤだからです
 
 具体的に見た日本という国はどうでしょう。
 政治家が汚い手段で税金を私物化する日本国、平均サラリーマンの年収ほどのなんとか水を飲む大臣のいる日本国、官製談合を主導し利益を上げさせた会社に天下りし、二重三重に退職金を懐にする官僚が仕切る日本国、年金をやるといっておきながら5,000万件という天文学的数字を紛失させ、その後始末にまた巨額の税金を使う日本国、土建屋を儲けさせるためにやたら必要性の少ない箱物やダム、道路などをつくり、その利益を政治資金として環流させるシステムが出来上がっている日本国、この国のために命を捨てることが私には出来ません。
 たとえ、「美しい国」とか、「愛国心」とかいう響きのいい言葉で飾り立てられてもです。

 戦争に対する拒否感が日本がいちばん強く、次いでドイツだという事実は象徴的です
 日本はかつて天皇制の専制国家として、天皇のため、国のため、他国民を殺し、また自らも死ぬことを強要され、挙げ句の果ては原爆の被害に晒されるという歴史を持ち、また、ドイツは、ヒトラー独裁の全体主義国家として、ユダヤ人殲滅という悪行を実施し、自らも深く傷ついた歴史を持つからです。

 

 それからもうひとつ、現代における戦争は、かつてのように、国と国が政治や経済の利害で対立し、その延長上で起こるという形態をとることは極めてまれなのです。
 実際のところ、現在行われている戦争で、そうした国対国のものはほとんどありません。

 ではどのような戦争かというと、いわゆる「テロとの戦い」という戦争で、これは国境を挟んでの戦争というより、宣戦布告もなく、ずるずると国境を越えてゆくもので(アメリカが今巻き込まれているのが象徴的ですが)、その意味では戦場は限定されず、世界中が戦場といえば戦場なのです
 そしてこのテロとの戦いは、現実のアメリカがそうであるように、テロと闘うと称している側自身が、多かれ少なかれ、一般市民を巻き込んだテロルとしてしか戦えないのです。

 どのような名目を付けようが、戦争というのは、暴力で相手をねじ伏せることでしかありません。戦争に付されたあらゆる美談は、結局は暴力の普遍化を招くものです。

 戦争やテロルに加担するのではなく、それらが生じる要因を例え何世紀かかろうが取り除く、それこそが人間の英知であり、そのためには、「愛国」などという無内容な言葉に乗せられてはいけないのです。

 
 マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや (寺山修司)

 Patrioizm is the last refuge of a scoundrel.
     愛国心はゴロツキの最後の隠れ家だ。
      (サミュエル・ジョンソン=18世紀イギリスの文豪)
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「爆弾三勇士」のカラクリ

2007-06-14 14:32:30 | 社会評論
 1945年(昭・20)以前、私は熱烈は軍国少年(幼年?)であった。国民学校(今の小学校)へ入学した折、教師がお定まりの質問をした。
 「大きくなったら何になりたいか?」
 私は、「ハイ、天皇陛下のような偉い人になりたいです」と答えたが、教師は眉をひそめていったのだった。
 「天皇陛下は神様です。私達がどんなに頑張ってもなれません」
 そこで私はランクを下げて、「それでは、東条英機のような立派な大将になりたいと思います」と答えた。
 教師は満足げに頷くのだった。

 幼心に、大将になるのが並大抵ではないことは、どこかで分かっていたが、天皇陛下のために闘って死ぬのだという思いは変わらなかった。
 これは、私の特殊な思いではない。その頃多くの少年たちがそう思っていたはずだし、またそういう方向で強烈な教育が行われていた。
 そしてまた、私達の回りでは続々と戦死者の報が届き、私達と一世代上の若者たちが、神風特攻隊として出撃し散っていった時代であった。

 ただし、子供なりにそれ相当の山っ気があった私は、戦場でただ敵弾に当たってころんと死ぬのはイヤだった。やはり、華々しく闘って、軍神と崇められるような壮烈な死を選びたかった。

 

 その壮烈な死のお手本は、修身の教科書にあり、人口に膾炙されていた二つの英雄譚にあった。
 ひとつは、日清戦争において戦死したラッパ手、木口小平の物語で、彼は敵弾に的り戦死を遂げたのだが、「シンデモラッパヲハナシマセンデシタ」で有名であった。

 もうひとつのお手本は、1932年のいわゆる上海事件で生まれた国民的英雄「爆弾三勇士」の物語であった。
 これは相手陣地の強固な鉄条網に前進を阻まれていた前線で、三人の勇士が点火した爆弾を抱えてその鉄条網に突進し、自分たちの命共々その鉄条網を破壊し、軍の前進を可能にしたというものであった。
 幼少の頃、ミサイルのような爆弾を三人の兵士が抱えて突進する絵画や銅像を幾度となく見たものである。

 彼等の快挙を讃えるグラビアが巷に溢れ、与謝野鉄幹や山田耕筰が関与した複数の歌も作られた。やがて映画にもなった。

 それらこそ、私にとってのお手本であった。どうせ天皇のために死ぬのならこのくらい華々しくなくっちゃぁと思った。
 しかし、このお手本を実行する前に戦争は終わった。
 私は今も、こうして生き残っている。

 ところで、このお手本の二つの例であるが、戦後、様々な実像が明らかとなった。
 先のラッパ手の話は、実は最初、白神とかいう別のラッパ手の話として伝えられ、それが後に訂正されたりして、事実はどうもあやふやであること、加えて、ラッパを離さなかったのは単なる死後硬直のせいだなどという説も出て、大いにしらけるところとなった。

 さて、もうひとつの方の「爆弾三勇士」の方であるが、これも多分、幾分の誇張や美化はあるだうとは思っていたし、眉唾だと聞いたこともあった。
 それがまた、軍部と新聞がでっち上げとんでもないオーバーなフィクションだったことが改めて確認されるところとなった。

       

 「朝日新聞」は、6月13日付で、シリーズ「戦争と新聞」の特別版として、ほぼ一面を割いて、「肉弾三勇士」物語を特集しているが、それによると、あの作戦自体が何ら自爆を目標としたものではなく、単なる事故に近いもの、あるいはそれに現場の上官の威圧が加わったものにすぎなかったというのだ。

 国立公文書館の内務省警保局保安課によって保管されている目撃者の聴き取り資料は、以下のことを告げている。
 強固な鉄条網に悩まされたことは事実だが、そして、それを破壊するために爆弾を仕掛けようとしたのは事実だが、決して自爆を要するようなものではなかった

 事実はどうだったかというと、爆薬を運び素早く帰ってくる作戦だったのだが、3人の内の一人が、何らかの事情で転倒し、爆発までの時間が足りなくなってしまい、戻ろうとしたのだが、現場にいた上官が「天皇のためだ国のためだ行け!」(前出聴取書による)と怒鳴りつけたので、再び鉄条網に行き、到着するやいなや爆弾が炸裂し、三人が犠牲になったというものである。
 
 要するに、写真でセルフタイマーをセットして慌てて自分の写る場所に戻ろうとしたのだが、途中で転んだかなにかして、シャッターが降りてしまったと同様の事故だったのである。ただし、転んだ兵士たちにさらに前進を強要した上官の行為は許し難いものがある。

 これが、決して自爆の英雄的行為を必要とした作戦ではなかったことの、もうひとつの確たる証拠がある。それは、この作戦に従事したのは、彼等三人だけではなく、もう一組、三人が爆弾を運んだが、彼等は首尾よく爆弾を鉄条網のもとに運び、全員無事陣地へ帰還しているのだ。そしてその爆弾は誰一人傷つけることもなく鉄条網を破壊したというのだ。
 これが実際の作戦だったのである。

 

 当初、この帰還した三人も含め、「六勇士」とすべきではという声もあったようだが、それでは死んだ三人の美談としとの効果や国民への衝撃度が弱まるというので、「三勇士」に絞られたのだという。

 この事実、既に当時においても知る人ぞ知るで、その年の7月には、陸軍工兵隊の小野中佐という人の、『爆弾三勇士の真相と其の観察』という本が出版され、上に述べたような事実がはっきり書かれているそうなのだ。

 こうした「事故」、そして上官の「強要」に基づく事態が、英雄物語にふくれあがる過程には、軍部の忠誠心養成の思惑と、この「朝日新聞」をも含めたマスコミの特ダネ作り、美談作りの競演が重なったものと思われる。
 軍部も、新聞も、上記のような事実を知っていたにもかかわらず、その事実を隠蔽し、三人の英雄的「自爆行為」という虚構に焦点を合わせ、国民を煽り立てるという極めて恣意的な情報操作を行ったのであった。

 それにより、死して天皇のため、国のために尽くせという一大キャンペーンが強化され、私のような小国民にまで、日本人として生まれた以上、天皇のために死すのは当たり前という観念を植え付け、また、実際に多くの若者たちを戦場へと狩り出して無為に死に至らしめたのである。

          

 とりわけ、この「事故」を、「自爆」と言いつのることが、その後の「神風特攻隊」人間魚雷「回天」のほとんど戦略戦術としては効果がない悪あがきに継承され、多くの命を無為に失わせた契機となったことを見逃すわけには行かない。

 どこかのお坊ちゃん首相は、今やお尻に火がついて、「美しい国」や「憲法」に言及するいとまもないようであるが、その「美しさ」や「改憲」の行く手が、上に述べたような醜い事実と繋がるのではないかという疑念を拭い去ることは出来ない

 かつて、若者たちを死に狩り立てた道具として、戦死を美談とする新聞を始めとするマスコミがあり、そして、徹底した皇民化という洗脳教育があった。要するに情報の管理と教育の管理であるが、これが現在、お坊ちゃん首相の目論見として、「最重要課題」などといわれたりしている。
 しかし、まずはこの辺で踏み留まるべきではあるまいか。
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魚を焼いているのですが・・。ウ~ン。

2007-06-13 01:09:53 | よしなしごと
 6月7日以来の日記への復帰です。今後ともよろしく。 

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 実に不快である。しかも二重に・・

 私はカレイとサンマを焼いていた。
 いかに現役を引退したとはいえ、昔取った杵柄である。しかも、道具や装置は30年間使い込んできたものと同じ。仕事に誤りがあろう筈がない。

 確かに少し忙しかった。それぞれ複数尾を同時進行で焼かねばならなかったのだ。しかし、あらかじめ串をうったそれらを焼き上げるのは、私の能力の範囲を越えるほどの仕事量では決してなかった。

 

 だが、それを見かねたのか、私の旧知の男が手を貸してくれた。
 今にして思えば、最初から、「手伝ってくれなくともよい」と言うべきだったのだ。しかし、彼は気のいい男で、しかも善意である。つい、それを言いそびれてしまったのだ。

 それが裏目に出た。彼が「手伝って」くれる事柄がことごとく災いとなるのだ。片面が焼け、私がせっかくかえして置いたものを、彼がまたかえしてしまうのだ。ほどよく焼けるよう、火勢と素材の大きさ、厚さなどで、焼き面の高さを調整して置いたものを、彼がまたいじって変えてしまうのだ。ほぼ焼き上がって脇へ寄せて置いたものを、また火にかけたりもした。

 結果として、片面だけ異様に焼けすぎたもの、焦げ目が付きすぎるもの、などなど、いわゆるお釈迦が続出するのだ。お釈迦とまでは行かなくとも、私の基準からいったら、とても満足できる焼き加減ではないものもある。

       
 
 ここで、うんちくをいっておくと、魚を焼くというのは結構難しいのだ。まず、「強火の遠火」であることが要求される。「表四部に裏六部」といって、十部火を通すとしたら、そのうち表は四、裏から六の火を通したものが綺麗に上がる。
 
 だから焼くときは、まず表になる面を焼く。やや焼きが甘いかなぐらいでかえし、裏からしっかり火を通す。それとて、どんどん火が通ればいいというのではない。真ん中の骨の回りにやや赤みが残るのを少し越えたぐらいで火から降ろす。それぐらいの焼きがいちばん美味いのだ。
 
 ややっこしい書き方をしたが、骨の回りに赤みが現実に残るようでは、やや焼きが甘いことになるし、気味悪がった客からクレームが来る。かといってそれを通り過ぎてどんどん火を入れすぎると、いわゆる焼きすぎで、身はふっくら感を越えて固くなるし、結果として素材の味を損なうことになる。さらには焦げる。

 もちろん、中骨の回りがどのようになっているかは、外からは見えるわけはない。しかし、その辺の加減ちゃんと心得るのが職人の技である。
 30年やって来た私にはほぼそれに近い焼きをする自信がある。
 但し、家庭用の魚焼き器では私といえどもそれは不可能である。手軽で便利すぎて、かえって、上に述べたような緻密な作業が出来ないのだ。

       

 話を戻そう。
 そんな次第だから、彼が変に手伝ってくれるのが極めて迷惑なのである。
 私の折角の技量とは全く違ったものしか上がらないし、その事実にまことにいらいらさせられる。
 しかし、相手は善意、もともと人のいい男である。完全に足手まといとなっているのだが、私は、「もういいから止めてくれ!」と言い出しかねていた。

 しかし、我慢の限界を越えるときがきた。
 私が、焼き上がったものの姿(一応、踊り串がうってあった)を壊さないよう、抜き台の上で、少し串を回し、慎重に仕上げて置いたものを、彼はいきなり壁にたたき付けてしまったのだ。
 せっかく焼き上がったそれは、無惨にも押しひしがれて床に散乱していた。

 「何をするんだ!」と声を荒げる私に、彼はいうのだ。
 「最近読んだエコロジーの本で、こうしたものは捨てろと書いてあった」と。
 何を訳の分からないことをと、ここにいたって私は怒り心頭に発して叫んだ。
 「ばかもん!とっとと失せろっ!」

 

 自分の声に驚いて目覚めた。
 何とも後味の悪い夢であった。ねっとりとした不快感が残った。

 冒頭に、二重に不快だったと書いた。
 それは、私が怒鳴りつけた男は40年ぐらい前からの知己で、しかも今は故人であり、私はその男のための墓碑銘ともいえる小文を書いたことがあったからだ。
 不思議なことに、もはや彼が故人であることに気付いたのは、目覚めてしばらくしてからだった。
 二重の不快感が、私に重く重く、のしかかるのだった。
 
 彼が、あの世から私を呼んでいるのだろうか?
 
文中、魚を焼く技術について述べた部分は、私自身の経験に基づく事実です。
 今度、外食された際、焼き魚が出たらよく観察してみてください。
 そこの板場の技量が分かります。

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情報社会と予期せぬ出来事

2007-06-07 14:35:16 | よしなしごと
 世の中には予期できぬ出来事が沢山ある。 
 問題はそれらのほとんどが、私達を悪い結果へと導くことだ。

 いきなり見知らぬ女性からメールが来て、このホームページを見てくれなければ死ぬという。例え見知らぬ人であっても、そう簡単に死なせるわけには行かないからそのページを開く。
 そうすると、裸のねえちゃんがアヘアへという画像が出てくるので、こんなに元気なら死ぬことはあるまいと安心してそのページを閉じる。すると、後日、なんとか視聴の契約第十三項とかに基づくとかいって、ン十万の請求メールがやってくる。

 

 なんとか遺児に愛の手をという募金のおばちゃんがやってくるので、ついほだされて千円ほどカンパしたら、数日してまた、そのおばちゃんがもう一人を伴って現れ、あんたの背中に背後霊がとりついているという。最近肩こりがするのはそのせいかなと思って聞いていると、水晶の印鑑や、なんとか塔とかいうものをン十万とかン百万で買うと、その霊は退散するという。

 百万を投資すると、三年で、三倍になるという結構なお知らせが来る。さして収入のない身、何ともありがたいお知らせである。ならばと所定のところに振り込んで、一週間後に連絡をするともぬけの殻、もはや電話すら通じない。

 

 ネットオークションで、棟方■功の版画が、なんとか鑑定団で保証つきで、ン万円という。これは買い得と競り落としたところ、送られてきたのは●学館特製のレプリカときた。

 通りがかりの「親切な人」が、床下を覗き込んで、あんたんちはシロアリにやられている、あと三年で崩壊すると教えてくれる。格安に駆除するというので依頼すると、これは耐震構造もひどい、震度五までは持たないという。姉歯氏より明るく温厚な笑顔に、つい一切を依託すると、なんとン百万円の請求書

 万一のことに備えて、生命保険や、損害保険に入っていて、それに相当する損害があったと思い、支払いを請求すると、顕微鏡で見なければ判読不能な小さい字で書いてある契約条項で、それは支払い対象外になっているといわれて諦める。しかし、その会社が追いつめられて白状したところによれば、なんのことはないやはり、彼らの支払い義務違反だと判明する。

 
          (つぶれた映画館)

 民間ならまだいい。お上の年金すら、納めたはずのものがそれ相当に支払われない。聞けば、5千万件という天文学的数字の年金が宙に浮いているという。私は、職を三度ほど変わった。しかも私の名前は、音と訓とで両方で通用する。どちらかが宙に浮いている可能性もあるわけだ。しかし、ン十年も前の話、それを証明するものはない。
 領収書?ン十年前の領収書を持っているのはある種、偏執的な性分でなければあり得ない(持ってる人ゴメンネ。尊敬します)。

 問題は、これらがみんな、情報社会といわれる現実の中で急増していることである。
 ということは、情報社会は、私達が素朴に信じているように、どうやら、みんなにいろいろな情報が提供され、様々な事態が透明で明らかになり、暮らしやすくなるということではないらしいということだ。
 一部に情報とやらを持ち、それを管理し、操作する連中がいて、彼らがそれからの上がりをかすめ取っているのであり、情報社会とは彼らのメシの種であり蓄財の手段なのではあるまいか。

    

 極めつけは、「美しい日本」だ。
 この日本のどこが美しくなったのだろうか?
 任命した大臣の何人かは既に不正な金の問題で辞職し、なんとか還元水を年間500万円も飲み、緑化資金を黒色資金にした大臣は、「美しさ」をこよなく愛する総理の執拗で理不尽な庇いたてで、ついにはその命さえ差し出すというこの美しさ。しかもこの美しさは、まだまだ残るその黒い痕跡を、死という尋常ならぬ行為でうやむやにしたのだった。
 
 その前後の合計三人の自殺(?)に彩られた「美しい国・日本」は、また、死臭につきまとわれた国として、私達が知り得ない情報の暗闇の中で、その「黒い美しさ」を拡大再生産しているのではなかろうか。

 

 小泉氏のあっけらかんとした表情とは対照的に、何を考えているのか分からない暗い表情の不気味な男が、私達を深い迷宮へと導こうとしているのではないだろうか。
 
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ジューンブライド、正説・異説

2007-06-05 15:32:39 | フォトエッセイ
 初夏の一日、県立図書館へ本を返しに行った。
 折から、隣のレストランで、ガーデンマリッジ
 承諾を得て写真を撮らせてもらった。

 

 これじゃあ、花婿の横顔のみで花嫁は向こう向き。
 ところで、ジューンブライドが幸せを呼ぶってどうしてだろう?
 ア、花嫁がこっちを向いた

 

 なかなかのもんじゃあない?笑顔が素敵じゃん。
 で、ジューンブライドだけど、一般的には、この時期、季節がいいからといわれている。それもあるだろうな。

 

 ここで花嫁をもう一枚。綺麗な歯並びが印象的だなぁ。
 しかし、ジューンブライドには神話的ないわれもあるとのことで、いろいろ調べたら、六月のジューンはローマ神話の結婚をつかさどる女神であるジューノJuno(ギリシア神話では女神ヘラもしくはヘーラー)からきているため、婚姻と女性の権利を守護するこの女神の月に結婚すれば、 きっと花嫁は幸せになるだろうなどとあった。

 

 こちらは花嫁のお友達
 どんな気持ちで観てるんだろう?
 それはさておき、六の説だが、この頃結婚し、昔のようにすぐ子供が出来るとすると、その誕生は春頃、冬が去って子育てにちょうどいいということではなかろうか。

  


 こちらは、花婿花嫁の両親とであろうか?
 花婿はともかく、花嫁に関しては遺伝子の模写作用がうまくいっていない節もあるが、もちろん、両親と確定したわけではない。

 ところで、六の「ジューンブライド子育て説」だが、それはヨーロッパ、ないしは北半球中心説ではないかといわれればその通り。
 それから、今時、結婚してすぐ子供を作るのはいないだろうというのもおっしゃる通り。

 それにもひとつ、出来ちゃった婚はどうするんだって?
 そんなところまで責任はとれません。わしゃ、知らん。
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