六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

棟方志功展 付・田んぼの見回り

2011-07-30 16:58:47 | アート
 過日、疎開先の大垣の小学校の同級生だった懐かしい友人(女性)から、折から名古屋で開かれている「棟方志功 祈りと旅」展のチケットをいただきました。
 余談ですが、最近女性の方から、こうした粋なプレゼントを頂く機会が多いのです。うれしい限りです。

               

 で、早速、混雑するであろう週末を避けて金曜日にいってきました。
 実は棟方志功展、以前にももう少し小さい会場で観たことがあるのですが、今回のものはその出品点数や作品の多彩さでそれをはるかに凌駕するものでした。
 とりわけ、その作品には何十メートルに及ぶ壁画などの大作があるのですが、それらは距離を置いて観ることができるロケーションが要求されます。
 それらを愛知県美術館はほぼ満たしていたと思います。
 もちろん、壁画などは本来これらが置かれている場所とは違ってそのアウラが失われているといえばそれまでですが、まあ、それはないものねだりで、その場へ行く機会も体力もない身には、それらが一堂で観ることができるというのはとても有難いことです。

 そうした大作の荘厳ともいえるものがあるかと思うと、一方、ほっとさせるようにまろやかで優しい女人像があったり、岡本かの子や草野心平の詩集につけたモダニズムと土着が融合したような作品があったり、あるいは故郷青森の「ねぶた運行絵巻」のように、名誉市民になった自分自身もそこに描かれているユーモラスな人間鳥獣戯画風(ただし、こちらは極彩色)の長~い絵巻物があったり、その芸業(彼自身の言葉です。芸術とは称さなかったようです)の多彩さにはただただ驚嘆するばかりです。

            

 とくにその彩色ものの色彩は、後半に進むにつれ、郷土青森のねぶたや凧絵の感覚に深く根ざしていることがよくわかります。ゴッホに触発され「わだばゴッホになる!」と郷里を飛び出した彼ですが、その後の柳宗悦や河井寛次郎などの民芸運動との出会いによるものでしょうか、どこかで郷土色を独特にアレンジしながらその芸業に活かしていったようです。

 正直にいいますと、これまで私は棟方作品のひとつひとつの個別の作品にはどこかいまひとつ馴染めないものを感じていました。しかし、これだけの芸業の集積には完全に圧倒されました。そしてそれらの作品の海の中から、「ああ、これはいいなぁ」という何点かの作品を見出すことができました。
 その意味で私の棟方観を塗り替えるきっかけとなったかもしれません。
 ようするに、彼の作品を素直に見ることができるようになったということです。

              

 この歳になった私に、なおかつ新しい出会いや視点変換の機会を与えてくれた小学校の同級生、Sさんに感謝することしきりです。
 
この美術展から帰ってTVを見たら、新潟や福島での豪雨災害を報じていました。
 早々と梅雨明け宣言をしておいてぐずついた天候が続くと「戻り梅雨」などと名付ける人間の身勝手さはともかく、その災害のひどさには身震いします。
 こうした際、いつも、田んぼを見回りに行った老人が行方不明になったり水死したりするケースがあります。今回もそうです。
 なにもそんな日に田んぼなど見にゆかなくともと、都会の人たちは思うかもしれません。しかし少年の日々を田園地帯で過ごした私には、そうした「米作る民」の思いがわかるだけにとても切ないのです。
 まだカッパなどという洒落たものがなかった頃、田舎の祖父が雨風の激しい中、蓑笠をつけて田んぼの見回りに出かけた記憶がよみがえるのです。

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ギルティ? or ノット・ギルティ?

2011-07-29 01:27:20 | よしなしごと
 電話を通じてだが、既知のある女性から思わぬ形でなじられることとなった。
 近親者の事情が絡むので詳細は書かないが、なぜ私が?という不快感と後味の悪さは今もなおねっとりと身にまとわりついている。

 そんなことがらには私は全く関わり合いがないという思いが強いが、そしてまた、じゃぁ私はどうしたらよかったのかがまったく思い浮かばないという理不尽感は残るが、しかし、彼女の私をなじる気持ちはよく理解できる。

 としたら私はその事態の圏外者でありながら同時に当事者という微妙な位置にいることとなる。
 ようするに当面している出来事には私は関与していないが、私の長年の立ち位置やその都度の言動がそうした事態の発生に関わっているかもしれないという漠然とした責任感はある。

 そこまで行くと私のこの世でのあり方への倫理的な審判ということになり、私自身被告席でその論告求刑を待つしかないのだが、人が生きるということは、何がしか他者の領分を掠め取ったりすり抜けたりし、その都度、意識するしないにかかわらず相手を傷つけているとしたら、私はギルティであるに違いない。

 しかし、それが私の意識的無意識的生き様そのものであるとしたら、私は予め定められたギルティ(原罪)を生きてゆくほかはない。
 私にできる僅かなことは、私の理性が理不尽だと判別したその女性のののしりに近い批判を、黙って赦すことでしかないだろう。
 実際のところ、彼女のののしりの対象は直接には私ではないのだけれど、私を標的にしなければならない事情が解っているだけに私がそれを受け止めるほかはないのだろうと思う。

 今もなお、受話器が耳に押し付けられているような不快な感触が残るのだが、それを甘受するのが私の償いだと、ともすれば湧き立つような怒りを抑えている。
 
 自分の過去を携えながら生きてゆくことはそれほど容易ではない。

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夏の幻想曲 「蝉たちと私」

2011-07-27 04:09:29 | 想い出を掘り起こす
 数日前から蝉が鳴き始めました。
 今年は全国的に遅いらしいのですが、そんな記録などつけていませんからこの辺でのそれが早いか遅いかはわかりません。

 敗戦後の何もない疎開先の田舎で、よく蝉と遊びました。
 というか遊んでもらいました。
 その田舎で知っていた蝉は、いまからいうとアブラゼミとニイニイゼミ、そしてツクツクボウシと少し上流でなくヒグラシでした。

            

 幼い私は、アブラゼミとニイニイゼミがいわゆる蝉で、大きいアブラゼミが雄で小さいニイニイゼミが雌だと思っていました。
 ツクツクボウシはというと、蝉によく似たほかの虫だと思っていました。
 だって、あんなに鳴き声が違って、しかも羽が透明だったからです。
 ヒグラシも羽が透明なのですが、当時はその声は聞いても姿を見たことはありませんでした。
 どうしてかというと、ヒグラシが鳴き始める時刻は夕方で、よいこの私がお家へ帰る時間だったのです。
 ですからそのもの哀しい鳴き声は耳に残っているものの、姿を見たことがありません。従って蝉の仲間だということも知りませんでした。
 ヒグラシとカジカは同じように夕方のもの悲しさを奏でる共演者でしたから、同じ種類の仲間かとも思っていたようです。

 ようするに昆虫の分類などとは無縁のところで彼らと戯れ、その鳴き声を耳に焼きつけていたのでした。

 蝉がなぜ思い出に残る昆虫かといううと、それは幼い私にも容易に捕らえることができたからです。低いところにいるものは素手で捕らえることができました。もちろん失敗してオシッコだけかけられてアバヨというのが多かったのですが。
 ちょっと高いところのものは魚用の手網で捕らえました。昆虫採集用の網などは見たこともない時代と地方でした。
 それでもたくさんの蝉がとれました。それほどいっぱいいたのです。

         
      昨夜網戸で 羽化したばかりだが2cm位と小さいのでニイニイゼミか
 
 小学生低学年のある日、近くの溜池の周りの桜並木へ蝉捕りに出かけました。いるわいるわ、ミンミンジージーうるさいばかりです。
 どんどん捕らえました。20匹ほど捉えたでしょうか、その時私の頭に意地悪な問いが浮かびました。
 こうやって蝉たちは木にすがって暮らしているのだが、木のないところではどうするのだろうかということです。

 これは実地に試してみるほかはありません。私は捕らえた蝉たちとともに、そこから2、300メートルほど離れた田んぼへ行きました。周りには木などは全くありません。そしてそこで一斉に蝉を放ったのです。

 彼らはてんでんばらばらに羽ばたいて遠ざかって行きました。
 あるものたちは高く飛び、木のある方角へ向かったようです。
 あるものたちは近くにあった土手に向かい姿を消しました。
 そしてあるものたちはあえなく近くの田圃へ墜落しました。
 きっと捕らえるとき、私が多少乱暴に扱ったものたちでしょう。

 少年の日の私がそれを見てなにを感じていたのかは全く覚えていません。
 ただ、あちこちへ黒い点になって飛び去った彼ら、そしてそれをなし得ず田んぼの水面でくるくる回っているような墜落組の彼ら、そのイメージしかありません。

         
            かなしやななつのおわりのセミコロン

 ところで、この回想のなかでどうしても思い起こせないのが、20匹近い蝉たちをどうやって田んぼの真中まで運んだかということです。ようするにそれをなにに入れて運んだのかということがすっぽり抜け落ちているのです。

 虫かごなどという洒落たものが手に入る時代ではなかったことは先ほど述べた昆虫採取の網など見たこともなかったのと同様です。
 蛍を入れる籠を麦わらで編むのを教えてもらったのは覚えています。しかし、その籠には蝉を20匹近くも入れることができないだろうと思うのです。

 そうすると、あの夏の日、突き抜けるような青空に向かって飛び立った蝉の残像そのものが私の幻想にすぎないのでしょうか。こんなにもくっきりと思い出せるのに、そしてこの冗漫な一文のきっかけがその折の羽ばたく蝉たちのイメージであったのに。

 もう60年以上前の出来事で、あったかどうかすら定かでない思い出ですが、私の中では飛び立つ蝉の羽ばたきがその音とともに生きているのです。
 「てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡って行った」が安西冬衛の「春」のイメージだとしたら、「蝉たちが田んぼのうえを飛翔した」というのは私の「夏」のイメージなのです(ちょっとかっこよすぎるまとめだなぁ)。

 




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フェルメール・トヨタ・そして訃報

2011-07-24 00:20:36 | ひとを弔う
 過日、敬愛する先達や仲間と豊田市美術館で開催されている「フェルメール《地理学者》とシュテーデル美術館所蔵 オランダ・フランドル絵画展 」に行ってきました。
 フェルメールというと日本人には人気が高いようで、それだけで人を呼ぶのですが、行ってみたら彼の作品は一点しかなかったというネットでの記載を見かけました。

 しかし、彼は著名な割に残っている作品は三十数点と少なく、生涯でその一点にお目にかかるだけでも僥倖というべきかもしれません。私など、映画にもなった「真珠の首飾りの少女」にお目にかかりたいのですが、この歳ではもう無理ですね。

        

 ところでこの美術展、「豊田市政60周年事業」となっていますがこれは部分的には不正確かもしれません。
 私がはじめてここを訪れた半世紀以上前、ここは「挙母市」という小さな地方都市でした。やがて、この市に本拠を置くトヨタにその地名を譲り、豊田市になったのは1959年です。
 従って「市政60周年」というのは前身の挙母市(1951年に市制へ)をも含めた数字なのです。

        

 しかし、その後、この市は世界のトヨタと連動し、どんどんその周辺の町村を合併し、今やその面積は愛知県の六分の一を占め、岐阜県や長野県と接するまでに至りました。

 そんなうんちくはともかく、絵を観て、親しい仲間とのお喋りの時間を過ごし、珍しくノン・アルコールで帰宅した私を一枚のはがきが待っていました。
 それは高校時代の同窓生六~七名で年二回、定期的に行っていた学習会仲間の一人の訃報でした。彼は私より一学年下でしたが、その学習会の仲間であると同時に川柳の句友でもありました。

        

 私自身がこの春先、彼と電話で話した折の状況から、ひょっとしたらとふと思っては打ち消していた当たらなくともよい悪い予感が的中してしまったのです。
 以下は、生前彼が私に送ってよこした句を探しだしたものです。
 その温かい人柄がお分かりいただけると思います。

      脇役で生きております爪楊枝
      花時計童話を詰めて正午指す
      左遷先知った地酒の温かさ
      景色より告白を待つ観覧車
      酔いしれて家路が点と線になる
      温暖化みんなが背負う深い罪      征児


 定年まで実業界で労務という難しい部署にいながら、世界や人間への深い関心を失わず、堅実で実証的な意見を持ち続けた人でした。
 そして、一年下とはいえ、戦時中のあの空爆の下を逃げ惑い、戦後の厳しい食糧難に耐え、金偏景気に便乗しくず鉄や折れ釘を集めてキャラメルやアイスキャンデーを買うなどの経験を共有した同世代人でした。
 私の戦中戦後経験がまた少し削り取られたように思います。
 
 征児君 安らかにあれ。                 合掌

   彼の名前が戦中生まれであることを雄弁に物語っていてまた哀しい。

 

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六おじさんの夏の工作、大公表!

2011-07-22 02:22:18 | よしなしごと
 よいこのみんなはもう夏休みだねぇ。 
 夏休み・・・楽しいことがいっぱいあるけど、宿題もあるよなぁ。
 それでなんやかんやいってるうちに休みがおしまいに近づいて・・・。

   夏休みあくまが時間を早くする    後藤洋平くん(小4)

 という川柳に出会って、うまいこと詠むなあと感心したのはずいぶん前だから、この洋平くん、もうすっかり大きくなっているだろうな。

 夏の工作なんて宿題もあるんじゃないかな。
 六のおじさんも、みんなに負けないように工作をやったよ。
 写真の箱がそれだけど、これはね、回覧板や大型の郵便物を受け取るための箱なんだ。
 前にも似たものがあったんだけど、汚っぽくなったので作り直したんだ。

          

 箱の表に「配達していただく方へのお願い 左上の郵便受け新聞受けに入らないもののみここへお入れください」って書いてあるだろう。
 どうしてかっていうと、別の写真で見てもらうとわかるように、六おじさんのうちには他にちゃんとした郵便受けや新聞受けがあって、そこへ入れてもらうといちいち外へ出なくとも直接家の中に届くようになっているんだよ。

 だから、「そこへ入らないもののみ」というわけなんだ。
 でも、守らないひとも結構いるんだよ。
 郵便やさんや新聞配達さん、宅配メール便のひとなどはちゃんと守ってくれるのだけど、チラシ配りのアルバイトのひとなんか一枚いくらで急いでいるせいか、こうやって書いておいてもここへ入れてくんだ。
 それを見るたび、「あ、ここからは買わないでおこう」と思うんだけどね。こういうのって逆効果っていうんだっけ。

          

 え、なあに?
 もとの箱からぜ~んぶ六おじさんが作ったのかって?
 それを聞かれると弱いなぁ。
 でも正直言っちゃおう。
 この箱はね、もともとはフランスのボルドーというところでとれる美味しい赤ワインが3本入っていた箱なんだ。
 ほら、箱の横に「3×75 cl」ってあるだろう。
 つまり750mlのビンが3本入ってたってことさ。

          

 それでもぶきっちょな六おじさんがここまでするには大変だったのだよ。
 とくに取り付けがさぁ、夕方だったせいで蚊にいっぱい刺されてそれでも頑張ったんだよ。
 よいこのみんなも、夏休みの宿題頑張ろうね。
 「なせばなる、なしてもならぬ、じっと手を見る」って知ってる?
 知らないよね。今、六おじさんが考えた戯れ言だもんね。

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夏はやっぱし風呂だなぁ

2011-07-20 11:04:23 | 想い出を掘り起こす
 これって名古屋市内で見つけたもの、というかもうかなり前から知っている建物なのだが、なに屋さんか、あるいはなに屋さんであったかはわかりますよね。
 もっとも、いいところのお生まれで、一生ご自分の家を離れたことがない方にはこんな所のお世話になったこともないので、わからないという人もいるかも知れない。

        
        往年の典型的な造りにのように思える 名古屋市千種区にて

 戦後、疎開先から岐阜のうちに戻った折、内風呂はあったのだがもったいないからといって毎日焚くこはなかったので、その焚かなかった日に汚れや汗がひどかった際には時折お世話になった。

 うちを出てからの約十年余りは、やはりこの商売のお世話になった。
 学生時代はたまり場であった学生会館から一五分ぐらい、たいてい仲間と一緒にがやがやお喋りをしながら歩いて「柳原温泉」へ通った。
 この「柳原温泉」、そういう名前だったのか、柳原通りというところにあったので私たちがふざけてそう呼んでいたのかは、今となってはもうわからない。
 ただし、昨年確かめたところでは半世紀後の今でもちゃんと営業していたが、やはり「柳原温泉」とは書いてなかった。

          
                かつての「柳原温泉」 
 
 卒業後、二度ほど転居したが、いずれも目と鼻の先に銭湯があった。
 一度などはアパートからただ道を横切るだけだったので、夏などは下着のままで駆け込んだりした。もっとも、越中ふんどし一丁の爺さんがうちわ片手に縁台で涼んでいた時代だから、さして恥ずかしいことではなかった。

 とにかく銭湯が近いということはいい。冬など湯冷めをすることもない。
 そのかわり「神田川」のような風情もない。なにしろ、石鹸は「カタッ」ぐらいは鳴ったかもしれないが、前奏が始まるかどうかのうちにもう着いてしまうのだから。
 ここも、何年か前通りかかったら、いろいろ多機能化したらしい宣伝とともに今なお健在だった。

 この前、ある飲み屋でみ昔なじみとそんな話が出て、そういえばあそこにもあるよとか、どこそこの銭湯にはちゃんと富士山の絵が描いてあって、TVのロケなどに使うそうだとかいった話が弾んだ。

 風呂の話というのは意外とあっけらかんとしていて陰鬱になることが少ない。
 子供ではなかなか板が沈められない田舎で入った五右衛門風呂、疎開者などが多くなり庭先で入ったドラム缶の風呂、などなど素朴で懐かしい思い出ばかりだ。

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「海なし県」の「海の日」に思う

2011-07-18 03:19:56 | 社会評論
 浮世離れしている私が、この時期なんで三連休かと思っていたら「海の日」だとのことである。この海の日がかつての沖縄海洋博の継続であることは世に疎い私でも知っている。

 しかし、具体的にどんな日なのかはよくわからない。おそらく関連するお役所がそれらしい記念式典やお説教を垂れて終りになるのだろう。

        
             長良川支流の吉田川、郡上八幡の春

 二つばかり思うところを言いたい。

 私の住む岐阜県は海なし県である。しかし海との関わりがないとは全く思わない。むしろその接触が少ないだけに、海との門戸は開いておくべきだと思う。

 しかし、それとは全く逆行する事態が起こっている。岐阜から流れだし伊勢湾に豊かな養分を補給する長良川、そして伊勢湾から遡上する天然鮎、サツキマス、天然うなぎ、ヨシノボリなど淡水海水の往復魚などが全て閉めだされる施設があるのだ。

        
              岐阜長良川 出陣を待つ鵜舟

 その名は長良川河口堰。なんのために作ったのかは未だに判然としない。
 工業用水の取水?周辺自治体のほとんどがそれらが足りているとのことで敬遠している。
 洪水の予防?そんな堰のためにかえって水面上昇が心配されている。

 この河口堰の唯一といっていい成果は、その上下において、これまでその豊かな漁場であった大和しじみを絶滅させたということである。

            
                  長良橋と金華山麓

 かくして長良川河口堰は、海なし県の岐阜をさらに海から遠ざけることとなった。山と川と海との有機的なつながりが決定的に失われたのだ。
 その結果は、数十年にわたり長良川中流域で定点観測を続けてきた私の恩師・後藤宮子さんの研究やデータからも明らかである。
 長良川はやせ細ったのである。たぶんこの結果は海の生態系へも反映されているはずだ。

          
                  夕闇迫る長良橋

 私のいいたいことは日本には多くの海なし県があるが、それらが海とかかわりなく過ごしてきたわけではないということだ。かつての自然は山と川と海との有機的な関連の中で保たれてきたのだと思う。それをズタズタにじたのが土建屋行政であるが、それはまた、原発設置行政と全く同じ構造を持ってる。
 地域の衰退や過疎化につけ込み、助成金をやるから自然を破壊させろだ。

            
              このグロテスクな河口堰が・・・

 海の日にもうひとつ言いたいことがある。
 メディアは全く伝えないが、福島原発の汚染水はどうなったのか?
 一部の識者が心配しているように地下水に溶け込んだり、そのまま海洋に流れだしたのではないのか?そのチェックはちゃんと行われているのか?この疑いは濃厚である。
 「海の日」という耳ざわりの良い日にもかかわらず、私たちは海をいじめ続けている。

 自然は全部繋がっている。海なし県の岐阜でも海の汚染は重大な問題である。







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私の逃避行 山だ! 渓だ!

2011-07-17 02:50:46 | よしなしごと
 なんで「梅雨明けだ」と気象台がいった途端、「そうですか」って素直に暑くならなきゃぁいけないんだよ。おかげで脳ミソが半分ほど蒸発してしまって、それで頭を振るとカラカラと音がするから残りの半分は干からびてしまったに違いない。

        
 
 そのせいで勉強が一向にはかどらない。一応、書に向かうのだが、今まで知っていたことの再確認ばかりで「目からウロコ・・・」がない。おかげで強力接着剤で貼りつけたコンタクトレンズのようにどんよりとしたウロコ越しの風景しか見えない。

        
 
 唐突だがやはり岐阜は山と渓谷の地だと思う。最近行った板取の山や渓を何かにつけて思い出している。
 30代前半、若い日の夢の挫折の中で自堕落な生活を送っていた20代の後半にけじめをつけて新しい仕事を始めたと同時ぐらいに、渓流釣りの虜になった。
 暇を見つけて谷へ通った。
 夜中の2時に仕事を終えて、それから出発し、朝間詰め(此の時間帯と夕間詰めがよく釣れるのだ。渓流魚のお食事時間なのだろうか)に谷へ着き、ひとしきり釣ってから渓の木陰で昼寝をし、とんで帰って営業時間に間に合わせるという離れ業もよくやった。

           
           これは養殖のアマゴ でも渓流の女王の面影はある

 釣れたときには、「長良川水系吉田川〇〇谷のアマゴ」などと自慢気に書いて塩焼きで売ったこともある。
 もちろん、ガソリン代や労賃からいったら完全な赤字なのだが、釣り人はそんな顕示をしたいものなのだ。

           

 それが20年ぐらい続いたろうか。えさ釣りもルアーもフライもひと通りはやった。それがどうしたはずみか急に、行かなくなった。
 肉体的な限界もあった。渓流釣りは鮒釣りなどと違って同じ場所で粘るわけではない。ほとんど沢登り同様で、行く手を阻む滝などがあると、遠巻きと言ってその周りをよじ登って上流へでなければならない。

        
             この突き当たりの暗いとこところに尺イワナが

 ただでさえそうなのに、何度かのブームがあって渓が荒れ、魚影も少なくなり、林道に車を止めて渓に降りたらそこから釣り始めることが出来る場所などほとんど無くなってしまったのだ。
 車を止めたところからちょとした山を越えて林道も何も無い谷の上流へ出ることもざらだった。それでも釣れるという保証はなかった。

        
<釣りのガイド>まず手前の白い泡と岩の周りの泡の間の流れを丹念に探ります。それから、左上のややよどんだ暗いところを。それから、小さいポイントですが岩のすぐ右上の箇所、ともするとこんなところに大物がいるのです。

 店で売ったり、近所へ配ってあるいたのも夢のまた夢になってしまった。
 しかし、今でも渓を見ると血が騒ぐ。つい、あそこからこう竿を入れたら尺アマゴが・・・などと夢想する。

 山はいい! 渓はいい!
 こんなに暑い日が続くと、私の思いはそこへと逃避する。
 熊よけの鈴を鳴らしながら、けもの道を行く若き日の私が目に浮かぶ。
 

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小さきものたちよ! 見えたもの・見えなかったもの

2011-07-15 03:58:47 | 写真とおしゃべり
 さまざまなものに生命が宿り、それらは四季折々変化する。
 だから面白い。
 より小さなものたちには、私たちは観察者の優位に立つことができる。
 移ろいゆく彼らと不変のわれら。

        
           定点観測をしている美術館前のナンキンハゼの花

 もちろんこれは幻想である。私たちも移ろうものであり、小さきものたちへのまなざしの移ろいに私たちそのものの変化がある。
 普通、そうした変化はよりこまやかになるはずなのに、私のそれは次第に粗雑になる。観察眼が粗くなり見過ごす現象が多くなる。
 老齢のせいもあるが、俳人的細やかさの欠如という個性にもある。

  
        エゴの木の実               ハナミズキの実
 
 今年は例年通り見たものと、見過ごしてしまったもの、新たに発見したものがあってそれは五分々々なのだろう。
 県立図書館、美術館構内のナンキンハゼの花、エゴの木の実、ハナミズキの若い実はちゃんと捉えた。

        
                   わが家のムクゲ

 あたらしく見つけたものは、毎年秋にエメラルドの真珠のような実をつけるリュウノヒゲ(ジャノヒゲ)の花を捉えたことである。

 
          マサキの地味な花             リュウノヒゲの花
 
 悔しくも見逃したものがある。
 何年も前、どこから来たのかシャクナゲが玄関先のムクゲの陰に生えているのを発見した。初年度、申し訳程度に小さな白い花をつけたがその後は全く花を付ける様子がない。たぶん山土を盛って作ったこの土地が痩せているせいだろうと思ってそれ以降花は諦めたが、しかし来るものは拒まずでそのままにしておいた。玄関先のエコカーテンにでもなればという気持ちであった。

        
              石楠花の実 残念ながら花は見逃した

 で、つい先ごろ、、道路にいろんな枝がはみ出していては交通の障害になるだろうとそれらを刈り取ったのであるが、そこでエッと思うものを見かけた。それらはもう果実となっているのだが、まごうことなく私が諦めたシャクナゲの枝につながっていたのであった。
 こうした立派な果実があるということは、彼らはここで立派な花を咲かせていたのだ。

        
      毎夜の訪問者ヤモリ 二重なのはガラス戸の二重になっているところにいるため

 内側からしか自分のうちを見たことがなく、客観性に欠ける視点が見逃したものだがかえすがえすも残念であった。来年はこの場所での開花をちゃんと見届けたいと思う。

 私たちの視点が常にそれ自身恣意的であり、それを越えた自然の営みを見逃してきたものであることを痛感させられた出来事であった。


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脱原発化と電力マネーの民主化のために

2011-07-13 02:27:58 | 社会評論
 「朝日」の世論調査によれば「脱原発」が77%そして段階的解消が63%だという。
 あれだけの被害を出し、しかもそれが継続中であり、収拾には数十年がかかるというし、しかもその間、人々への影響、とりわけ子供たちやこれから生まれてくる命への影響は定かでないというまるで人体実験の様相を呈している時、上の数字はそうしたリスクを勘案した極めて妥当な数字というべきである。

 しかし、油断は許されない。
 人命を差し置いても「経済」というよくわからない連中や、電力会社の株主という直接的な利害ゆえに原発再開を主張する人たちがいる(その中には少なからず地方自治体そのものが含まれている)。
 そしてそれと連動した電力会社の策謀が依然として続いている。

        

 玄海原発の再開をいち早く容認した玄海町長の岸本氏のファミリー企業へは、九電からの関連事業だけでも56億の金が流れている。
 佐賀県知事の古川氏には、九電幹部からの「個人」献金が慣例となり、それは業務引継ぎ時の申し送り事項となっている。
 また、東北電力は、東北地方の県議会議員、77名に年間200万円のお小遣いを与えてている。

 反面、「脱原発」の匂いがするメディアからは広告宣伝費の引き上げなどの制裁が実施されている。世論調査の結果にもかかわらず各メディアの反応が極めて鈍く「中立」を装っているのはそのせいである。

        
 
 各学術機関にばらまかれた電力マネーも馬鹿にならない。
 「東京電力さん」と敬語を忘れない東大大学院教授、「これくらの放射能は体にいいんです」という講演を巡業して歩いた生理医学かなんかのオカルト的東大教授(さすがに福島県の中通り地区ではやじりたおされたようだが、その地区の人間は馬鹿だからと言っている)などなど年間数億円の(東大のみでの)買収資金は一定の功を果たしている。

 なお、原発事故の当初、買収されていない京大系の原子炉物理学者がメディアから敬遠され、彼らが登場し始めたのはフクシマがねっちもさっちもならないことが判明した2ヵ月後ぐらいからである。
 京大グループが当初から指摘していたメルトダウンの事実を東電が認めたのは事故後3ヶ月後であった。もっと早く認めていればしかるべき措置があったかも知れないのにである。

 最初の世論の数字に戻る。
 この世論を尊重した施策が実施されてしかるべきである。
 
 それへの最大の抵抗勢力は潤沢な電力マネーとそれに踊らされた人たちの抵抗である。しかし、おかしくはないか?それら電力マネーというのは私たちの電気代ではないのか?なぜそれが私たちの不本意な買収資金や政治家のお小遣いに使われなければならないのか?

        

 私はここに及んで冒頭の世論調査をも踏まえて以下のことを主張したいと思う。

 1)菅内閣は「脱原発」を明確にし、退陣するとしても、その意志を継ぐ体制を明確にすべきこと。それまでは粘ってもいい。
 2)電力会社のの電力マネーを公共的に管理する民主的な組織を作ること。彼らは一般的な会社ではなく、特殊な独占会社だから、その運営には当然、社会的倫理的規範によって規制されるべきである。

 電力が円滑に供給され、なおかつそれが次世代の子どもや生まれ出づるものたちに災いを残しませんように・・・。


電力が「不足する不足する」という言い分は、ただただ原発を再開したいがゆえの恫喝であることが明らかになりつつあります。
 たとえ危機になっても、その折の日本人の知恵を信じたいと思います。
 戦中戦後、電気は愚か食い物もない時代から私たちは蘇りました。

コメント (9)
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