六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「一人で死ね!」の酷薄さこそ背景では? 川崎事件をめぐって

2019-05-31 00:37:12 | 社会評論
 川崎での痛ましい事件に接して、私たちはその悲惨を悼むとともにどこかで、「またか」と思っている。そうなのだ、実はこの種の事件に私たちはすでに慣らされてしまっているのだ。
 振り返ってみれば、今世紀初頭の2001年、付属池田小事件があり、2008年には秋葉原通り魔事件があり、その間には、それらに類似した車の暴走による多数被害事件などがしばしば起こっているのだ。

 だから私たちは、「あってはならない事件」と言いながら、同時に、「世の中には、そんな事件を起こす奴が一定程度いるものだ」と思っている。もっとうがっていうならば、タテマエは警官や保護者を動員して街角での安全を図ることに同意しながら、どこかで「そんなことしたって防げないよね」とも思っている。

 これはある意味で、この種の事件へのリアルな対応といえる。
 しかし、ここには同時にニヒリズムがある。どう対応したって所詮は防ぎえないもので、なるようにしかならないのではないかというのがそれだ。こんななか、監視体制の強化、プライヴァシーの侵害をも含む管理体制の強化が進み、私たちの市民的な自由が担保されることとなる。
 しかし、それでいいのだろうか。事件そのものはいつしか風化し、忘れ去られ、人の内面にまで立ち入るような監視と管理のシステムのみが無気味に残る。それでいいのだろうか。

         
 私には、こうした事件に出会うたびに思い起こすひとつの事件がある。それは、まさに私が生まれた1938年に岡山県で起こった津山事件である。若い人にはわからないだろうが、横溝正史の小説「八つ墓村」のモデルになった事件といったら多少はわかってもらえるだろうか。

 この事件の特異性は、その被害者の多さである。戦争やテロ以外で、一人の加害者が殺戮した被害者の数についてであるが、この津山事件で、犯行後に自殺をした都井睦雄(当時21歳)が手にかけたのは30人に及ぶ。これは今なお、日本記録であるし、世界の犯罪史上でも5位に相当するという。
 なお、この年のわが国の殺人事件の被害者数は500人を切っているため、一人で7%の被害者を生み出したことになる。

 なぜ、この事件を思い出すかというと、たまたま私が生まれた年に発生しているということの他に、上に述べた近年の事件との類似性が認められるからである。
 それは、いわゆる「他者巻き込み型の自殺願望」事件=拡大自殺の走りであり、典型だとも思われるのだが、その内容は追って述べる。

         
 池田小や秋葉原の場合は、犯行後に自殺はしていないが、やはり自殺願望はあったようだ。
 池田小事件の宅間 守は、その裁判においても一切反省の言葉を口にすることなく、早く死刑にしろと言い続け、死刑判決にも控訴はせず、2004年に死刑は執行された。この、事件後3年での執行は一般的にいって異例の短さである。
 秋葉原事件の被告、加藤 智大は、2011年の一審判決で死刑とされたのに対し、一度は控訴したものの、二審の審議には一度も出廷せず、翌12年には死刑が確定した。ただし、処刑はされていない。

 こうした事件に遭遇するたびに、よく発せられる言葉は、「死ぬのなら一人で死ね」というもので、今回もそうした言葉がネットなどでも溢れている。
 これはたしかに「正論」ではある。罪もない巻き添えになった人のことを考えると、そういわずにいられない気持ちもわからないでもない。

 しかし、ちょっとまってほしい。ここには命の価値への重大な偏見がある。殺された人たちは生きているべきだが、殺したお前は生きているべきではないというのがそれだ。しかも、この見解には、事件を起こしてしまった加害者とその哀れな犠牲者というその結果から遡及して命の軽重を判断するという論理的な誤りを含んだ問題があるのだ。
 事件を起こす前ならどうだろう。加害者候補たる人たちは、世間との齟齬に苦しむ単なる自殺志願者に過ぎないし、もちろんまだ加害者ですらない。その彼に、「一人で死ね!」というのは、自殺幇助にも等しい冷酷な言葉ではないだろうか。

              
 繰り返すが、「一人で死ね!」とは事件が起こってから始めて口にできる言葉に過ぎず、その大合唱をしてみても、何ら実効性もない空疎な言葉なのだ。
 ほんとうに事件の悲惨さを知るならば、「人を殺すな!そしてお前も死ぬな!」というのが正しいのではないか。

 死のうとする人たちは、一般的に、世間と馴染めない、世間もまた自分を必要とせず、よけい者にされているのではという意識をもっている場合が多い。この意識は、内に向かえば自虐的になるし、外へ向かえば、ルサンチマン(恨み)による呪詛になりやすい。加えていうならば、さらに追い込まれた人にとっては、宅間の場合に典型的にみられるように、もはや「善悪の彼岸」にいることが多い。
 そうした人に、「一人で死ね!」は挑発的にさえ響くだろう。気の弱い人は一人で死ぬだろう(この場合、「一人で死ね!」は自殺幇助になる)。そうでない人は、一層挑戦的に、自分を否定した世間に自分の名前を刻みつけるべく拡大自殺に走るかもしれない(この場合、「一人で死ね!」は挑発行為となる)。

         
 宅間の場合は、父の日常的暴力の中で、強くあることを強いられ、自衛官になる。これが一番長く続いた職業だという。その後の転落の中で、世間への恨みつらみをつのらせてゆく。
 加藤の場合は、勤務先で自分の制服を隠された(と思った)ことから自分に向けられた世間の否定の眼差しを感じ、リアルな友人もいたが、他者との主な交流の場であったネット上の掲示板で自分のアカウントを乗っ取られ、荒らされたことに決定的な憤怒をたぎらせたという。
 これら二人が、今回の川崎事件の被疑者同様、引きこもりの時期を経験していることも看過できない。

 さて、それらとともに思い出す1938年の津山事件の都井睦雄の場合はどうであろうか。
 彼は、当時としては割合裕福な農家の育ちで、女性にもけっこうもてたようだ。この山間部の集落では、当時、「夜這い」というか比較的自由な性の交歓が風習として残っていて、彼も複数の女性とそうした関係にあった。

 それが一転するのは、彼がかかった結核による肋膜炎で、間もなく快方に向かうのだが、まだまだ不治の病とされたそれには偏見が避けがたく伴うのであった。
 それに追い打ちをかけたのが、事件前年の徴兵検査であった。彼は結核の既往症を理由に「丙種」とされたのであった。すでに、日中戦争に突入し、男の値打ちが徴兵検査のランク付けで決まるような時代、彼は甲はおろか乙にすら手が届かない劣性男子と規定されたのであった。

 それが及ぼした影響は如実であった。彼と関係があった女性たちは潮が引くごとく身を翻し、なかでも、もっとも親しい間柄であった女性は別の男に嫁いでいった。
 彼の大量殺人は、その女性の里帰りを狙い、彼女を巻き込んで(結果は違ったが)の拡大自殺の試みだったのである。私たちはその経緯を、事件後の死の直前、彼が書いた遺書の中に見出すことができる(【付録】として文末に載せる)。

         
 繰り返すが、私たちが口にすべき言葉は、「人を殺すな!そしてお前も死ぬな!」だと思う。
 そして、人が人をランク付けし、社会的存在を否定するようなシステムや言動のありかに心を配るべきだと思う。
 自分が大事にされていない人に、他者を大事にしろと命じることは出来ない。
 思いやりの対象から外れている人に、他者を思いやれというのも酷な話だ。
 こうしてみると、「死ぬなら一人で死ね!」という言葉がはらむ酷薄さがわかるのではあるまいか。実はこうした言葉が飛び交うこと自体が、他者への思いやりを決定的に欠く状況を日々再生産しているのではなかろうか。
 
 ここにはある種の傲慢も垣間見える。自分は世間に肯定されている。お前は否定される側で、死にたがっているかもしれない。それならどうぞ、俺たちに迷惑をかけないところで勝手に死んでいってくれ、というわけである。
 こうした酷薄と傲慢が、自己責任論の大合唱と呼応して飛び交うところに、ある状況下の人たちを一層追い詰め、この種の拡大自殺を生み出すような時代背景を形成しているかもしれないのだ。

【巻末付録 都井睦雄が犯行後、自死直前に書いた遺書】
愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。
思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺元ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺元ゆり子は逃がした、又寺元倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸本順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。 もはや夜明けも近づいた、死にましょう。

  — 「津山事件報告書」より都井睦雄の遺書(犯行直後の興奮状態での遺書。誤字などあるが原文のままとする)
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国現代史の中の若者像 映画「芳華-Youth-」を観る

2019-05-25 01:51:38 | 映画評論
 久々に中国映画を観た。
 「芳華-Youth-」(2017 フォン・シャオガン監督)。
 「芳華」とは、英文が示すように、青春期といった意味合いであり、映画そのものは青春群像劇の様相をもって展開される。

          
 冒頭しばらくはあの中国独特のけばい色彩が支配し、何だこりゃ、中国の情宣映画かと思わせるが、それも無理はない。時代は1970年代中頃の文革の真っ只中、しかも舞台は、兵士たちを慰問し、鼓舞する歌舞音曲の文化工作団なのだから。まだ人々が人民服をまとっていた頃、彼らの存在は華麗である。一方、その統制のとれた歌舞音曲が激しいトレーニングの成果であることが示される。

       
 しかし、この華やかな一隊自身が、大きな歴史のうねりの産物であり、したがって、その推移にどうしようもなく翻弄される存在であることが次第に明らかになる。
 そうした歴史の陰影は、例えば主人公の一人、シャオ・ピンは文革で父が迫害されているという秘密をもち、別の一人は父が党幹部であることでその地位を誇っていたりする。

       
 こうした歴史上の状況の推移と、彼らのなかにある錯綜した恋愛劇とが並行して進む。
 毛沢東が死去し、文革が終わり、地方へ追放されていた人たちの名誉回復が行われるが、先にみたシャオ・ピンの父は流刑先で死亡していた。
 群像劇だから、あからさまな恋、切なく折り畳まれた恋なども登場する。

       
 後半の山場は、中越戦争である。この戦争の詳説は避けるが、団を抜けたシャオ・ピンは前線に近い野戦病院で看護師をしている。一方、シャオ・ピンが密かに思いを寄せていた団の模範青年(ホアン・シュアン)は最前線でヴェトナム軍の奇襲を受け、負傷する。

       
 やがて、鄧小平の開放政策のもと、文化工作団の歌舞団も解散の日を迎え、最終公演が開催される。片腕をなくしたホアン・シュアンは傷痍軍人として聴衆の中にいる。シャオ・ピンは野戦病院での負傷兵のあまりにも過酷な状況を受け止めきれず、PTSDの重症患者として、やはり観客席にいる。

       
 当初、なんの感興も示さずうつろな表情をしていた彼女だが、鳴り響く音曲に身体が反応し、やがて、客席を抜け出して、庭園で往年の舞を一人で舞う。この場面は美しく感動的だ。

       
 映画は、それをクライマックスにして、現代の彼らを後日談風に語って終わる。その中には、シャオ・ピンとホアン・シュアンの出会いと経緯も語られているが、二人が単純に結ばれてめでたしめでたしではないところがかえって良い。

       
 佳作だとは思ったが、往時から現代に至る描写がいささか薄っぺらで、その間の人の推移がやや乱雑に描かれているのが惜しい。

       
 しかし、これはないものねだりで、私の中には、やはり同時代の地方の慰問団を描いたジャ・ジャンクー監督の優れた作品「プラットホーム/站台」(2000年)の残像があるからなのだ。

       
 チャン・イーモウなどが、ハリウッドに絡め取られない前、チャンチーが可愛いかった頃の中国映画の傑作群を懐かしく思い出している。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽と食の祭典 ジャコバンピアノ音楽祭2019 in 岐阜

2019-05-22 02:13:51 | 音楽を聴く
 5月19日、岐阜サラマンカホールで行われた「ジャコバンピアノ音楽祭2019 in 岐阜」にでかけた。「ジャコバン」といっても、フランス革命後に暴虐の限りを尽くしたというあのジャコバン党とは関係がない。
 この音楽祭を主催者のパンフから拾うとこうなる。

          
 「薔薇色の街がピアノに染まる。世界でもっとも美しいピアノ音楽祭。フランス南西部にある中世のレンガ造りの街並みが美しい《薔薇色の街》トゥールーズ。
 13世紀ゴシック建築のジャコバン修道院を舞台に、半世紀前から世界中のピアニストたちに愛されてきたピアノのための音楽祭、《ジャコバン国際ピアノ音楽祭》があります。
 

       
 リヒテル、ブレンデル、アルゲリッチ…。この音楽祭の歴史を彩ってきたのは、きら星のようなピアニストたち。音楽祭のコンセプトは、とてもシンプル。テーマもなく、ジャンルもない、ただピアノだけ。ピアノでみんながひとつになる。
 新たな国際交流の第一歩が、いま、はじまります。
 主催:サラマンカホール 共催:岐阜新聞・ぎふチャン
 後援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
 協力:大野町、大野町バラ苗生産組合、アペリティフ365 in 岐阜実行委員会」

          
       ホールに飾られた薔薇の塔 白いのはヤマボウシの花

 コンサートはマチネ(昼の部)とソワレ(夜の部)に別れるが、次の予定があったのでマチネのみを聴く。
 マチネの一部は三浦友理枝さんのピアノ。
 ラヴェル、サティ、プーランク、ドビュッシーとフランス一色。
 そのせいか、弾きまくるという感じではなく、繊細なタッチをじっくりと聴かせるタイプ。このようにまとめて聴かせてくれると、同じピアノ曲でも、おフランスのそれはやはり独自性をもっていることがよく分かる。

       
 このひと、演奏もいいが、その解説がいい。作曲家ごとにトークが入るのだが、それがとてもいい。滑舌の良さもだが、その内容が要点を的確に衝いている。
 例えば、ラヴェルは印象派に数えられてしまうが、その枠を出てより前衛的なものを志向していた反面、ドイツバロックではなくフレンチバロックへの先祖返り的志向があったこと、ドビュッシーの前期と後期の曲想の相違などがそれだ。
 こういう形で整理できる人は、自分が弾いている作曲家のコンセプトを掌握しながら演奏できるのではないかと思った。

       
 マチネの二部は、フランスからやって来たフィリップ・レオジェというジャズピアニストで、前の三浦友理枝さんとは違ってガンガン弾きまくるタイプで、最初の三曲ほどのシャンソンのスタンダードナンバーをアレンジしたものはわかったが、、その後の曲はアレンジのせいか、もともと私が知らない曲なのか、曲名もよくわからなかった(プログラムにも非表示)。
 しかし、その迫力溢れる演奏は、ジャンルを超えたピアノという楽器の表現の可能性を追求しているようで、心地よい後味を残す演奏であった。
 小さなライブハウスや、ジャズクラブでの演奏スタイルとは全く異なり、コンサートホール向けの演奏だと思ったが、小ホールではそれに合った演奏をするのだろう。

          
 マチネが終わった夕刻、サラマンカのホワイエでは、ピアノのミニコンサートが続いていたし、サラマンカが入るふれあい会館の大ロビーでは、デリカテッセンの催しが全開で、ワインとフレンチの一品料理を楽しむ人、ソフトドリンクとケーキに舌鼓をうつ人で溢れていたが、次の予定のためにその場を後にせざるをえなかった。

 余談だが、陽気が良かったので自転車で会場に向かったのだが、道半ばで、肝心のチケットを忘れたことを思い出し、全速力で自宅へ取って返し、また全速力で会場へ向かった。はじめに、余裕を持って家を出たので、なんとか開演には間に合ったが、八〇歳を過ぎての数キロのツール・ド・フランスなみの自転車の全力疾走、やはり腰に来て、翌日から激しい腰痛に悩まされている。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リリー・クラウスの足跡を偲んで

2019-05-18 15:01:10 | 音楽を聴く
 You Tube で、モーツァルト弾きといわれたリリー・クラウス(Lili Kraus 1903-86)のモーツァルトピアノ協奏曲全曲集を見つけた。
 PCを立ち上げた折には、これをバックに作業をしている。とてもオーソドックスな演奏だと思う。
  *オケはウィーン祝祭管弦楽団
  *指揮者はスティーヴン・サイモン(Stephen Simon)

   

 この人、戦時中に演奏旅行で滞在していたジャワ島(インドネシア)で、家族とともに日本軍によって第二次世界大戦終結まで軟禁(保護?)されていた経歴がある。
 1966年には、ニューヨークで、9夜でモーツァルトのピアノ協奏曲全曲を演奏する偉業を成し遂げたというから、以下の録音はその折のものと思われる。

https://www.youtube.com/watch?v=FHwmL8Md22w&list=PLo2mDjLkMtM-uWJjB-Gbi7RH62yTDlJrr

https://www.youtube.com/watch?v=ZntL9Y7vcDM&list=PLo2mDjLkMtM-uWJjB-Gbi7RH62yTDlJrr&index=2

https://www.youtube.com/watch?v=jvRhkZLM__E&list=PLo2mDjLkMtM-uWJjB-Gbi7RH62yTDlJrr&index=3

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥美濃で出会った郡上一揆義民たちの墓所

2019-05-16 11:49:11 | ひとを弔う
 ちょうど先月の中頃、奥美濃へ観桜に出かけたとこのブログにも書いた。
 メインのお目当ては、郡上市は白鳥(シロトリ)町から牛道谷沿いに登った箇所にあるエドヒガン桜の古木、善勝寺桜だった。この名称は文字通り、善勝寺という寺院の境内にこの樹があるからだ。
 麓の町中のソメイヨシノはもう満開状態だったので、期待をもって山道を登ったのだが、ああ、何と途中から残雪がここかしこに見えるではないか。

           
        
        

 到着して、のぞみは消え失せた。路肩に雪が残り、わずかに蕗の薹が覗くのみ。お目当ての桜はというと、蕾の膨らみすら見せぬまま、つれなくそびえている。ただし、その樹の大きさからして、これが花をつけたらさぞかし見事だろうとは思わせる偉容ではあった。
 なお、その折の模様は以下のブログに書いた。

https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20190417

 諦めて帰る前に、寺の墓所に立ち寄って、ん、ここにこれが、という息を呑む光景に出くわした。
 それは、江戸三大百姓一揆の一つといわれる郡上一揆の義民(犠牲者)35名を祀る墓所であった。
 もちろん、オリジナルではないし、もともと35名がまとめて葬られた場所もないのだが、これを建立したひとがその義民の末裔であり、これらの墓碑それぞれが史実に則ったものとあってはやはりないがしろには出来ない。

        
        

 なお、傍らにあった義民のうちの一人、細ケ谷村彦助の墓はオリジナルの模様である。

           
        

 ところでこの一揆、1750年代中頃(宝暦)に郡上八幡の金森家の年貢取り立ての増加に対し、奥美濃一円の農民たちが反対して立ち上がったもので、その過程で作られた首謀者を解らなくするための唐傘連判状がよく知られている。そのレプリカは郡上八幡城に展示されている。

        
        

 百姓たちの闘いは数年に及び、その経緯は一言では語れないほど錯綜している。
 事態は江戸表の政治的思惑をも巻き込んで混迷を極め、一時は百姓側の勝訴ともいえる結論がでたことがあったが、最終的には、百姓側がその責任を追及され、獄死や処刑など多くの犠牲者を見るに至った。

           

 ただし、この騒動で、金森家は所領を没収され、追放同然に身柄預かりになっているし、その後にやってきた藩主青山は、その教訓を汲んで藩政の改善に務めたといわれる。
 徹夜踊りで有名な郡上おどりは、この一揆で散った百姓たちへのレクイエムとして始まったといわれる。
 余談だが、東京の港区青山は、この青山藩の江戸屋敷があったところで、その関係で、いまもこの地区では郡上八幡の踊りと連携して、毎夏郡上おどりが開催される。

        

 郡上一揆は、理念から始まったものではなく、年貢の増強による生活破壊への抵抗として始まった広範な闘いであった。もちろん、百姓側にも利害の差異があったり、見通しへの違いなどがあって、いわば、裏切りのようなこともあったようだ。
 しかし、それも含めて、百姓たちが自分の生命を賭して権力にノンを突きつけた稀有な事態であった。

        

 ひるがえって、私たちは、これだけの緊張感をもって事態と対峙しているだろうか。あからさまな不正が横行し、所得配分の格差がじわじわと広がりつつあるいま、それらに対する不感症が私たちの習性になっているのではないか。怒り、立ち上がるという機能を奪われているのではあるまいか。
 なにをいっても、なにをしても、状況は変わらないというニヒリズムが私たちを支配しているのではなかろうか。

        

 電話もメールもない時代、いくつもの広範な山里に分散された郡上の百姓たちが、どのように連絡し合い、どう行動を一致させたのか、興味は尽きないが、きっと、このままでは自分たちは人間として暮らしてゆくことは出来ないという生の尊厳への思いが、技術上の困難や制約を超えて、彼らを団結させていったのではあるまいか。

 早春ともいえないほどの、奥美濃の古寺の奥まった個所で、そこに設えられた義民たちの墓碑は、「〇〇村の**」と記されていて、それがまさに彼らの生前の土着性を表現しているようだった。
 私たち現代人は、彼らのもっていた地理的なアウラを背負った生き様や、状況と真摯に対峙する生の在りようから遠く隔たってしまったのかもしれない。
 






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「トリのトリ分を残して終結宣言 わが家のサクランボ

2019-05-09 00:30:41 | よしなしごと
 三年前に枯れ死したもののひこばえのようなものから回復したわが家のサクランボの樹、今年は思わぬ復活ぶりで、小さな樹ながらたわわに実をつけ、今日(8日)、五回目の収穫を行った結果、これでもって、今年の収穫は終了することとした。

        
 残りの分は、鳥たちの自由に任せることにして、鳥除けに吊るしておいたCDを取り外した。
 ワインやウィスキー、ブランデーなどの熟成中に目減りする分を「天使の取り分」というそうだが、それに習えば、「鳥の取り分」というダジャレのようなことになる。

        
 今日の収穫分を掃除し、行き先ごとに分けたのがこの写真。一番大きいのは学童保育のおやつ用。他は、お隣へのお裾分け、午後に久しぶりに合う友人への手土産など。
 鉢に取り分けたのは、茎から取れたものなどで、自家消費するつもりだが、そのままワインのお供につまんでもよいし、サラダにでも入れてやろうかなどとも考えている。

        
 上は収穫後の樹の写真。これでみると、ほとんど残っていないようだが、サクランボは葉の下で実を結ぶため、ざっと目で追って、ゆうに二百粒以上は残っている。

        
 うちのものはプロの作ったものに比べると、小粒で、旨味も劣るかもしれない。しかし、完熟させたそれは、甘味も強く、加えて独特のやや渋みを感じさせる風味をもっている。そう、あの桜餅の葉が放つような風味だ。
 来年もまた、たわわに実をつけてくれることを念じて、今年の終結宣言としたい。
 ありがとう、そして、再見!

 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元号と花鳥風月と護憲のチラシ 

2019-05-05 01:12:58 | 歴史を考える
 少しは騒ぎが収まったかなと思ったが、一般参賀とやらでまたも盛り上がり、ネットの中でも、感涙にむせんだりした人がいてなんだかなぁと思わずにはいられない。
 
 そんななか、一つ年上(=81歳)の先輩からメールを貰い、それによれば、この憲法記念日に、自家製の護憲のチラシを作り、自分の住所氏名、電話番号まで明記してそれを駅頭で配布したという。彼は無教会派のクリスチャン。

        
 私はというと、そんな勇気もなく、ひたすら花鳥風月のことを書いている。これも、「感涙にむせぶ人たち」とは一線を画してるつもりなのだが、そんな私を上の先輩のありようが無言で叱咤しているようだ。

 その先輩に詫びながらも、やはり花鳥風月の写真を載せておこう。はじめの三枚は、今年3月に満開を迎えた紅梅の鉢に、いつの間にか10個ほどの実がついていたというもの。
 この紅梅、25年前に亡くなった父から受け継いだもの。

   
 もうひとつ、下の濃いピンクのものは、やはり亡父が30年ほど前、もってきたカタバミの苗から引き継がれているもの。
 その下の黄色いものは、そこいらじゅうに自生しているカタバミで、花は小さい。
 最後の薄い方のピンクのものは、どこからきたのかやや離れた場所で2、3年前から咲き始めたもの。

            
 なお、元号については私にとってはどうでもいい面倒くさいだけのものだが、昭和だけは忘れがたい。だから、今年が昭和94年だということはすんなり出てくるが、平成はおぼつかなかった。
 自分で平成と書いたことは一度もなかったと思う。たぶん令和もそうなるであろう。

            
 なぜ昭和が忘れがたいかというと、あの戦争のせいである。私の実父は、昭和天皇の命令でインパールに行き、わけのわからない作戦の中で命を落としている。遺骨箱には石ころが一つ。
 そして、養父(上に述べた花にまつわる父はこの養父の方)はやはり昭和天皇の命令により満州に出征し、敗戦と同時にソ連によってシベリアへ抑留され、独立したばかりの家業を潰されている。

            
 昭和は、300万同胞と、2千万の近隣諸国民の亡骸によって血塗られた時代である。
 その時代への回帰を許してはならない。改憲は、そしてそこで図られている軍隊の明記は、その回帰へとつながる可能性をもっている。
 上にみたチラシを配布した先輩は、私と同時代を過ごしているだけに、その思いが強烈なのだろう。

 なお、この先輩とは、中学生の頃、ほとんど彼が一人で作っていた学校新聞を手伝ったという懐かしい思い出がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サクランボウのうた

2019-05-02 16:24:11 | よしなしごと
 うちのサクランボウです。
 三年前に枯れ死しました。
 そのひこばえのようなものから、昨年少しばかりの花と実をつけました。
 そして、今年はご覧の有様で、完全復活です。
 ネットでのお友だちのところは、実が色づき始めた矢先、先ごろの強風によって根っこから倒壊したそうで、それを知りながらこれを麗々しく載せるのはいくぶん気がひけるのですが、何卒お許しのほど。
 順不同に撮ったものを載せました。

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする