川崎での痛ましい事件に接して、私たちはその悲惨を悼むとともにどこかで、「またか」と思っている。そうなのだ、実はこの種の事件に私たちはすでに慣らされてしまっているのだ。
振り返ってみれば、今世紀初頭の2001年、付属池田小事件があり、2008年には秋葉原通り魔事件があり、その間には、それらに類似した車の暴走による多数被害事件などがしばしば起こっているのだ。
だから私たちは、「あってはならない事件」と言いながら、同時に、「世の中には、そんな事件を起こす奴が一定程度いるものだ」と思っている。もっとうがっていうならば、タテマエは警官や保護者を動員して街角での安全を図ることに同意しながら、どこかで「そんなことしたって防げないよね」とも思っている。
これはある意味で、この種の事件へのリアルな対応といえる。
しかし、ここには同時にニヒリズムがある。どう対応したって所詮は防ぎえないもので、なるようにしかならないのではないかというのがそれだ。こんななか、監視体制の強化、プライヴァシーの侵害をも含む管理体制の強化が進み、私たちの市民的な自由が担保されることとなる。
しかし、それでいいのだろうか。事件そのものはいつしか風化し、忘れ去られ、人の内面にまで立ち入るような監視と管理のシステムのみが無気味に残る。それでいいのだろうか。
私には、こうした事件に出会うたびに思い起こすひとつの事件がある。それは、まさに私が生まれた1938年に岡山県で起こった津山事件である。若い人にはわからないだろうが、横溝正史の小説「八つ墓村」のモデルになった事件といったら多少はわかってもらえるだろうか。
この事件の特異性は、その被害者の多さである。戦争やテロ以外で、一人の加害者が殺戮した被害者の数についてであるが、この津山事件で、犯行後に自殺をした都井睦雄(当時21歳)が手にかけたのは30人に及ぶ。これは今なお、日本記録であるし、世界の犯罪史上でも5位に相当するという。
なお、この年のわが国の殺人事件の被害者数は500人を切っているため、一人で7%の被害者を生み出したことになる。
なぜ、この事件を思い出すかというと、たまたま私が生まれた年に発生しているということの他に、上に述べた近年の事件との類似性が認められるからである。
それは、いわゆる「他者巻き込み型の自殺願望」事件=拡大自殺の走りであり、典型だとも思われるのだが、その内容は追って述べる。
池田小や秋葉原の場合は、犯行後に自殺はしていないが、やはり自殺願望はあったようだ。
池田小事件の宅間 守は、その裁判においても一切反省の言葉を口にすることなく、早く死刑にしろと言い続け、死刑判決にも控訴はせず、2004年に死刑は執行された。この、事件後3年での執行は一般的にいって異例の短さである。
秋葉原事件の被告、加藤 智大は、2011年の一審判決で死刑とされたのに対し、一度は控訴したものの、二審の審議には一度も出廷せず、翌12年には死刑が確定した。ただし、処刑はされていない。
こうした事件に遭遇するたびに、よく発せられる言葉は、「死ぬのなら一人で死ね」というもので、今回もそうした言葉がネットなどでも溢れている。
これはたしかに「正論」ではある。罪もない巻き添えになった人のことを考えると、そういわずにいられない気持ちもわからないでもない。
しかし、ちょっとまってほしい。ここには命の価値への重大な偏見がある。殺された人たちは生きているべきだが、殺したお前は生きているべきではないというのがそれだ。しかも、この見解には、事件を起こしてしまった加害者とその哀れな犠牲者というその結果から遡及して命の軽重を判断するという論理的な誤りを含んだ問題があるのだ。
事件を起こす前ならどうだろう。加害者候補たる人たちは、世間との齟齬に苦しむ単なる自殺志願者に過ぎないし、もちろんまだ加害者ですらない。その彼に、「一人で死ね!」というのは、自殺幇助にも等しい冷酷な言葉ではないだろうか。
繰り返すが、「一人で死ね!」とは事件が起こってから始めて口にできる言葉に過ぎず、その大合唱をしてみても、何ら実効性もない空疎な言葉なのだ。
ほんとうに事件の悲惨さを知るならば、「人を殺すな!そしてお前も死ぬな!」というのが正しいのではないか。
死のうとする人たちは、一般的に、世間と馴染めない、世間もまた自分を必要とせず、よけい者にされているのではという意識をもっている場合が多い。この意識は、内に向かえば自虐的になるし、外へ向かえば、ルサンチマン(恨み)による呪詛になりやすい。加えていうならば、さらに追い込まれた人にとっては、宅間の場合に典型的にみられるように、もはや「善悪の彼岸」にいることが多い。
そうした人に、「一人で死ね!」は挑発的にさえ響くだろう。気の弱い人は一人で死ぬだろう(この場合、「一人で死ね!」は自殺幇助になる)。そうでない人は、一層挑戦的に、自分を否定した世間に自分の名前を刻みつけるべく拡大自殺に走るかもしれない(この場合、「一人で死ね!」は挑発行為となる)。
宅間の場合は、父の日常的暴力の中で、強くあることを強いられ、自衛官になる。これが一番長く続いた職業だという。その後の転落の中で、世間への恨みつらみをつのらせてゆく。
加藤の場合は、勤務先で自分の制服を隠された(と思った)ことから自分に向けられた世間の否定の眼差しを感じ、リアルな友人もいたが、他者との主な交流の場であったネット上の掲示板で自分のアカウントを乗っ取られ、荒らされたことに決定的な憤怒をたぎらせたという。
これら二人が、今回の川崎事件の被疑者同様、引きこもりの時期を経験していることも看過できない。
さて、それらとともに思い出す1938年の津山事件の都井睦雄の場合はどうであろうか。
彼は、当時としては割合裕福な農家の育ちで、女性にもけっこうもてたようだ。この山間部の集落では、当時、「夜這い」というか比較的自由な性の交歓が風習として残っていて、彼も複数の女性とそうした関係にあった。
それが一転するのは、彼がかかった結核による肋膜炎で、間もなく快方に向かうのだが、まだまだ不治の病とされたそれには偏見が避けがたく伴うのであった。
それに追い打ちをかけたのが、事件前年の徴兵検査であった。彼は結核の既往症を理由に「丙種」とされたのであった。すでに、日中戦争に突入し、男の値打ちが徴兵検査のランク付けで決まるような時代、彼は甲はおろか乙にすら手が届かない劣性男子と規定されたのであった。
それが及ぼした影響は如実であった。彼と関係があった女性たちは潮が引くごとく身を翻し、なかでも、もっとも親しい間柄であった女性は別の男に嫁いでいった。
彼の大量殺人は、その女性の里帰りを狙い、彼女を巻き込んで(結果は違ったが)の拡大自殺の試みだったのである。私たちはその経緯を、事件後の死の直前、彼が書いた遺書の中に見出すことができる(【付録】として文末に載せる)。
繰り返すが、私たちが口にすべき言葉は、「人を殺すな!そしてお前も死ぬな!」だと思う。
そして、人が人をランク付けし、社会的存在を否定するようなシステムや言動のありかに心を配るべきだと思う。
自分が大事にされていない人に、他者を大事にしろと命じることは出来ない。
思いやりの対象から外れている人に、他者を思いやれというのも酷な話だ。
こうしてみると、「死ぬなら一人で死ね!」という言葉がはらむ酷薄さがわかるのではあるまいか。実はこうした言葉が飛び交うこと自体が、他者への思いやりを決定的に欠く状況を日々再生産しているのではなかろうか。
ここにはある種の傲慢も垣間見える。自分は世間に肯定されている。お前は否定される側で、死にたがっているかもしれない。それならどうぞ、俺たちに迷惑をかけないところで勝手に死んでいってくれ、というわけである。
こうした酷薄と傲慢が、自己責任論の大合唱と呼応して飛び交うところに、ある状況下の人たちを一層追い詰め、この種の拡大自殺を生み出すような時代背景を形成しているかもしれないのだ。
【巻末付録 都井睦雄が犯行後、自死直前に書いた遺書】
愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。
思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺元ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺元ゆり子は逃がした、又寺元倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸本順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。 もはや夜明けも近づいた、死にましょう。
— 「津山事件報告書」より都井睦雄の遺書(犯行直後の興奮状態での遺書。誤字などあるが原文のままとする)
振り返ってみれば、今世紀初頭の2001年、付属池田小事件があり、2008年には秋葉原通り魔事件があり、その間には、それらに類似した車の暴走による多数被害事件などがしばしば起こっているのだ。
だから私たちは、「あってはならない事件」と言いながら、同時に、「世の中には、そんな事件を起こす奴が一定程度いるものだ」と思っている。もっとうがっていうならば、タテマエは警官や保護者を動員して街角での安全を図ることに同意しながら、どこかで「そんなことしたって防げないよね」とも思っている。
これはある意味で、この種の事件へのリアルな対応といえる。
しかし、ここには同時にニヒリズムがある。どう対応したって所詮は防ぎえないもので、なるようにしかならないのではないかというのがそれだ。こんななか、監視体制の強化、プライヴァシーの侵害をも含む管理体制の強化が進み、私たちの市民的な自由が担保されることとなる。
しかし、それでいいのだろうか。事件そのものはいつしか風化し、忘れ去られ、人の内面にまで立ち入るような監視と管理のシステムのみが無気味に残る。それでいいのだろうか。
私には、こうした事件に出会うたびに思い起こすひとつの事件がある。それは、まさに私が生まれた1938年に岡山県で起こった津山事件である。若い人にはわからないだろうが、横溝正史の小説「八つ墓村」のモデルになった事件といったら多少はわかってもらえるだろうか。
この事件の特異性は、その被害者の多さである。戦争やテロ以外で、一人の加害者が殺戮した被害者の数についてであるが、この津山事件で、犯行後に自殺をした都井睦雄(当時21歳)が手にかけたのは30人に及ぶ。これは今なお、日本記録であるし、世界の犯罪史上でも5位に相当するという。
なお、この年のわが国の殺人事件の被害者数は500人を切っているため、一人で7%の被害者を生み出したことになる。
なぜ、この事件を思い出すかというと、たまたま私が生まれた年に発生しているということの他に、上に述べた近年の事件との類似性が認められるからである。
それは、いわゆる「他者巻き込み型の自殺願望」事件=拡大自殺の走りであり、典型だとも思われるのだが、その内容は追って述べる。
池田小や秋葉原の場合は、犯行後に自殺はしていないが、やはり自殺願望はあったようだ。
池田小事件の宅間 守は、その裁判においても一切反省の言葉を口にすることなく、早く死刑にしろと言い続け、死刑判決にも控訴はせず、2004年に死刑は執行された。この、事件後3年での執行は一般的にいって異例の短さである。
秋葉原事件の被告、加藤 智大は、2011年の一審判決で死刑とされたのに対し、一度は控訴したものの、二審の審議には一度も出廷せず、翌12年には死刑が確定した。ただし、処刑はされていない。
こうした事件に遭遇するたびに、よく発せられる言葉は、「死ぬのなら一人で死ね」というもので、今回もそうした言葉がネットなどでも溢れている。
これはたしかに「正論」ではある。罪もない巻き添えになった人のことを考えると、そういわずにいられない気持ちもわからないでもない。
しかし、ちょっとまってほしい。ここには命の価値への重大な偏見がある。殺された人たちは生きているべきだが、殺したお前は生きているべきではないというのがそれだ。しかも、この見解には、事件を起こしてしまった加害者とその哀れな犠牲者というその結果から遡及して命の軽重を判断するという論理的な誤りを含んだ問題があるのだ。
事件を起こす前ならどうだろう。加害者候補たる人たちは、世間との齟齬に苦しむ単なる自殺志願者に過ぎないし、もちろんまだ加害者ですらない。その彼に、「一人で死ね!」というのは、自殺幇助にも等しい冷酷な言葉ではないだろうか。
繰り返すが、「一人で死ね!」とは事件が起こってから始めて口にできる言葉に過ぎず、その大合唱をしてみても、何ら実効性もない空疎な言葉なのだ。
ほんとうに事件の悲惨さを知るならば、「人を殺すな!そしてお前も死ぬな!」というのが正しいのではないか。
死のうとする人たちは、一般的に、世間と馴染めない、世間もまた自分を必要とせず、よけい者にされているのではという意識をもっている場合が多い。この意識は、内に向かえば自虐的になるし、外へ向かえば、ルサンチマン(恨み)による呪詛になりやすい。加えていうならば、さらに追い込まれた人にとっては、宅間の場合に典型的にみられるように、もはや「善悪の彼岸」にいることが多い。
そうした人に、「一人で死ね!」は挑発的にさえ響くだろう。気の弱い人は一人で死ぬだろう(この場合、「一人で死ね!」は自殺幇助になる)。そうでない人は、一層挑戦的に、自分を否定した世間に自分の名前を刻みつけるべく拡大自殺に走るかもしれない(この場合、「一人で死ね!」は挑発行為となる)。
宅間の場合は、父の日常的暴力の中で、強くあることを強いられ、自衛官になる。これが一番長く続いた職業だという。その後の転落の中で、世間への恨みつらみをつのらせてゆく。
加藤の場合は、勤務先で自分の制服を隠された(と思った)ことから自分に向けられた世間の否定の眼差しを感じ、リアルな友人もいたが、他者との主な交流の場であったネット上の掲示板で自分のアカウントを乗っ取られ、荒らされたことに決定的な憤怒をたぎらせたという。
これら二人が、今回の川崎事件の被疑者同様、引きこもりの時期を経験していることも看過できない。
さて、それらとともに思い出す1938年の津山事件の都井睦雄の場合はどうであろうか。
彼は、当時としては割合裕福な農家の育ちで、女性にもけっこうもてたようだ。この山間部の集落では、当時、「夜這い」というか比較的自由な性の交歓が風習として残っていて、彼も複数の女性とそうした関係にあった。
それが一転するのは、彼がかかった結核による肋膜炎で、間もなく快方に向かうのだが、まだまだ不治の病とされたそれには偏見が避けがたく伴うのであった。
それに追い打ちをかけたのが、事件前年の徴兵検査であった。彼は結核の既往症を理由に「丙種」とされたのであった。すでに、日中戦争に突入し、男の値打ちが徴兵検査のランク付けで決まるような時代、彼は甲はおろか乙にすら手が届かない劣性男子と規定されたのであった。
それが及ぼした影響は如実であった。彼と関係があった女性たちは潮が引くごとく身を翻し、なかでも、もっとも親しい間柄であった女性は別の男に嫁いでいった。
彼の大量殺人は、その女性の里帰りを狙い、彼女を巻き込んで(結果は違ったが)の拡大自殺の試みだったのである。私たちはその経緯を、事件後の死の直前、彼が書いた遺書の中に見出すことができる(【付録】として文末に載せる)。
繰り返すが、私たちが口にすべき言葉は、「人を殺すな!そしてお前も死ぬな!」だと思う。
そして、人が人をランク付けし、社会的存在を否定するようなシステムや言動のありかに心を配るべきだと思う。
自分が大事にされていない人に、他者を大事にしろと命じることは出来ない。
思いやりの対象から外れている人に、他者を思いやれというのも酷な話だ。
こうしてみると、「死ぬなら一人で死ね!」という言葉がはらむ酷薄さがわかるのではあるまいか。実はこうした言葉が飛び交うこと自体が、他者への思いやりを決定的に欠く状況を日々再生産しているのではなかろうか。
ここにはある種の傲慢も垣間見える。自分は世間に肯定されている。お前は否定される側で、死にたがっているかもしれない。それならどうぞ、俺たちに迷惑をかけないところで勝手に死んでいってくれ、というわけである。
こうした酷薄と傲慢が、自己責任論の大合唱と呼応して飛び交うところに、ある状況下の人たちを一層追い詰め、この種の拡大自殺を生み出すような時代背景を形成しているかもしれないのだ。
【巻末付録 都井睦雄が犯行後、自死直前に書いた遺書】
愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。
思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺元ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺元ゆり子は逃がした、又寺元倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸本順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。 もはや夜明けも近づいた、死にましょう。
— 「津山事件報告書」より都井睦雄の遺書(犯行直後の興奮状態での遺書。誤字などあるが原文のままとする)