知多半島を日帰りで旅したこと、その西側、中部国際空港についてはすでに述べた。
午後はその東側、河和口にした。なぜ午前に西にし、午後に東にしたかは、写真を撮る際の順光と逆光を考えたからである。そして、なぜ河和口にしたかは、病み上がりの身、ここが駅から海までの距離が一番近かったからだ。
しかし、それだけではない。ここは自分史的に思い出の地であるからだ。そう、何度目かの初恋の折、ふたりとも学生であった私たちは、それまでのキャンパスやその所在地、名古屋を離れ、はじめての遠隔(というほどでもないか)デイトを敢行したのがこの地であったのだ。
六十数年前、ここは海水浴場として結構人気の地であった。まだ、高度成長期の前で、日本の河川は従前からの白砂青松の面影を残していた。
それが、60年代初頭から始まった高度成長期には、日本の河川や海は、大工場の垂れ流す汚水の排水、廃棄されるさまざまな物質であれよあれよという間に昔日の自然美を破壊され尽くした。とりわけ、そこに含まれた有毒物質は、水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそく、富山神通川沿いのイタイイタイ病のいわゆる四大公害病をはじめ、各地で人びとを死を含む深刻な病へと蝕んでいった。
それらに対する政府や行政の動きは鈍く、ある局面では加害者である大企業を弁護し、その対策をネグレクトした。そうした各地での汚染が、なんとか今日のような程度に落ち着いたのは、各地の被害者たちの粘り強い闘いの結果にほかならない。
ただ、目に見えた公害ではないにしても、大都市周辺では、工業地帯として大幅に埋め立てが進み、白砂青松の海岸は姿を消した。名古屋周辺の三河湾、知多半島周辺、伊勢湾、などもそうであった。ちなみに、随分前のデータであるが、東京から神戸までの東海道線沿線で、昔ながらの自然海岸は10%を切りそうだとあった。いまはもう切っているのかもしれない。
話は固くなったが、「遠隔青春デイト」に戻ることにしよう。夏の海水浴だ!石原一族の派手な湘南海岸での豪遊とは行かなくとも、海水浴は庶民にとっての夏最大のイベントであった。
彼女の水着姿も拝める(コラッ)ということだが、ただし当時の庶民の水着は学校の水泳の授業の水着とほぼ同じであった。にも関わらず、女性の(男性もか)露出姿が日常的に氾濫するこんにちとは違い、当時はそんな水着でも結構艶っぽかった。
信じられないかもしれないが、年配の女性は、水着ではなくシュミーズ、それも現代風のノースリーブではなく袖付きのゾロンゾロンとした下着姿で海へ入っていた。男性もそうだ。かくいう私も、中学生まではいわゆる六尺ふんどしであった。長良川まで泳ぎに行った折など、それを路面電車の窓からひらひらさせていると、終点までに乾くといったこともあった。もっとも、まだ濡れている段階でたまたま窓から顔を出したおっさんの顔にそれがピタッと張り付き、こっぴどく叱られたこともある。なお年配の男性は六尺ではなく越中ふんどしで泳ぐ人も多かった。
ところで、その海水浴デイト、二人っきりの甘いものではなく、実はコブ付きだったのだ。相手の女性の実家が許した条件は、彼女の末妹、小学5年生を連れてゆけということだった。まあ、コブ付きデイトでも結構楽しかった。しかし大変だったのはその帰りだった。小5の妹はもともとあまり強健な方ではなかったが、時ならぬ機会をえてはしゃぎ過ぎたのか、ぐっすり寝込んだしまったのだ。
その寝込んだ子を、私が背負って帰ることとなった。海岸から駅までは冒頭付近に書いたように近かったが、彼女の実家(愛知県知多郡東浦町緒川)は最寄りの駅からかなりあり、しかも山側へと向かう登り道であった。私自身、結構泳ぎ回って疲れいたこともあって、これは結構きつかった。
そんな思い出の地に、六十数年ぶりに訪れたのだった。
結論を言ってしまうと、観るべきものはなにもなかった。もはやかつての海水浴場の面影はなく、コンクリート製の堰堤から海辺へと降りる面が、階段状のスロープをなしてる点のみが海水浴場の名残りといえばいえるかもしれない。しかし、海水浴場の必須条件ともいえる砂浜がまったくないのだ。
それでも、せっかく来たのだから、階段状の箇所に腰を下ろし、対岸の三河地区、碧南市あたりの工場や、目前を行き交う船舶など眺め続けた。それは午前に行った飛行場のひっきりなしに動きのある情景とは対照的なの~んびりした情景で、それはそれで悪くはなかった。
まあしかし、六十数年を経れば、風景が著しく変わるのは当然だ。当時、白いシャツに黒いズボンで颯爽(?)とした学生だったこの私が、ボロボロのお爺さんになってぼんやり海を見つめているのだから。
もっとも当日、私は青いシャツで出かけたから、ピンキーとキラーズの「恋の季節」の一節、「あ~おいシャツ着てさ~ う~みを見てたわ~」だった(引用する歌が古いよなぁ)。
なお、そのときにデイトをした女性とは、その後、結婚した。そしてその彼女は、2016年、先に旅立っていった。