六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

灼熱の日々の昼麺物語

2023-07-30 00:49:05 | グルメ
 連日の灼熱地獄。水辺に近い気象台で39.4℃っていうのだから、照りっ返しの強いわが家あたりでは連日40℃超えといっても過言ではない。
 そんななか、昼食にモソモソ米の飯を食ってはいられない。いきおい、冷たい麺が中心になる。

 これは我流冷やし中華。在庫のあるもので作ったが、香味野菜をしっかりのせてみた。きゅうりは歯ざわりがいいように予め塩もみにしたものを使った。
      


 これは冷やし山かけそば。ネギ、オオバ、ミョウガの薬味たっぷりに摺りゴマと切り海苔。キュウリとミニトマトを付け合わせに。
      


 「冷やし中華」ではなく「冷やしラーメン」。スープは濃い目に作ったものに氷をぶち込んで冷たく。キャベツとモヤシは味をつけてから冷やして。ボロニアソーセージと生わかめはそのまま。賞味期限が近づいていた豆腐も入れてみた。
      


 最後は定番冷や麦。薬味はネギ、オオバ、ミョウガと多めに。麺にはキュウリの薄切りも添えた。つけ汁に浮いているのは、摺りゴマ。
      

 

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生活者の記録 農協「おんさい朝市」にて

2023-07-27 15:34:28 | よしなしごと

 岐阜は昨日、39.1℃という酷暑。今日も同じぐらいということで、朝からジリジリと照りつける日差しが暑い。
 めげずに、農協の「おんさい朝市」へ行ってきた。

 「おんさい」は別に「温菜」ではない。
 岐阜弁で「来る」の丁寧語である。「〇〇さんがおんさった」=「いらっしゃった」などといった具合だ。(普通の「来た」は「きんさった」だが、この「さった」に丁寧語の意味合いを含むから、これも多少は丁寧語のうちか)
 だからこの「おんさい」は「いらっしゃい」の意味になる。

 サブタイトルが「産地直売所」とある。
 だから、スーパーへ行けば年がら年中あるようなものでも、この時期、この地区で穫れないものは売ってはいない。例えば今は、ほうれん草、小松菜、水菜などの葉物は見かけない。
  

 魅力はその安価さである。スーパーの半値、場合によっては三分の一で済むこともある。
 今日買った例で見てみよう。

・ネギ一束 100円 ・甘長ピーマン一袋 100円 ・きゅうり一袋 100円 ・モロッコいんげん一袋 100円 ・枝豆一袋 130円 ・十六ささげ一束 100円 ・かぼちゃ半分 70円 ・ミニトマト一袋 100円 ・グリーンアスパラ一束 140円 ・茗荷一袋110円✕3=330円 *合計1,270円(すべて内税)

 どれもお値打ちだが、掘り出し物は茗荷。スーパーのものよりやや小ぶりだが、10個入って110円だから3袋買ってしまった。

 それからきゅうり。大小それぞれでひん曲がっているが、12本で100円で一本が10円もしないのだ。それに新鮮そのもので、写真ではわかりにくいかもしれないが、付いているイボイボの棘がまだ指先に痛い。

 ものみな20~30%の値上がりが当たり前のなか、これはとてもありがたいのだ。
 さあ、カッパやキリギリスよろしく、きゅうりを囓ってこの酷暑の夏を乗り切るぞ! 

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久々 名古屋千種区今池へお出かけ

2023-07-25 11:46:49 | 写真とおしゃべり

 連日暑い日が続く。
 最初の写真は自宅の窓の外だが、見るからに暑そうだ。しかし出かける。

       

 出かけた先までの間、暑くて途中の写真など撮っている余裕はない。
 会場の今池交差点ガスビルの上階から、街並みを撮る。
 眼下は、よく通った新今池ビルの新たな建て替え風景。

          

 かつてのこのビルには、いくつかの映画館があり、人文書籍のウニタ書房があり、さらには中古レコードやCD販売のピーカンファッジがあり、よく通ったものだ。
 私の半世紀の足跡の一部が壊される思い。

       

 千種郵便局を含む今池交差点。この郵便局からは、その頃やっていた店のDM便をよく出したものだ。

       

 広小路通を挟んだ眼下のビルは、今池を象徴するようなパチンコ屋の大伽藍。もっとも私は、手で球を一つ一つ供給する方式の頃しかパチンコ台に触れたことはない。

       

 その同じビルを、会合終了後、広小路通を挟んで撮す。
 このまま千種駅まで歩き、中央線で金山へ。
 金山で東海道線の快速大垣行で帰途に。

          

 20時30分頃岐阜着。
 写真は岐阜駅のプラットホーム。手前が東海道線下りホーム。
 真ん中が高山線のホーム。
 そして、左側に少し見えるのが東海道線の上りホーム。
 それぞれの線に、列車がいるのを収めることが出来た。

       

 ここからはバス・・・・。

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告白、あるいはある勧酒の話

2023-07-22 02:17:56 | よしなしごと
■私がはじめて酒類を口にしたのは、15歳の頃だった。相手は父、というより父に勧められてだった。「よしなさいよ」という母に、父は「15といえばむかしなら元服だ。そういえばこの俺も15歳の初陣より・・・・」と自分の身の上話が始まるといった具合。
■その父は尋常小学校高等科(今の中2)卒業後、人間より熊のほうが多い福井県の山村の集落から、柳行李ひとつを背負って旧油坂峠を越え、岐阜の材木屋へ奉公に出た。その歳から見知らぬ土地で肩肘張って生きてきたのだと思う。
■その父も、20年近い奉公の後、やっと自分の暖簾を掲げたのもつかの間、1944年、戦争に取られて満州へ。敗戦後はシベリア抑留。
■帰還して以後、平の勤め人として材木屋へ。やっと自分の会社をもつに至った頃、私が元服へ。それがこの最初のシーン。
■今年の秋、私は亡父の享年に至る。
 
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【夏の昼餉】とにかく食欲増進だ!

2023-07-20 15:31:46 | グルメ

 やれ手術で入院だ、それ歯の治療でうまく噛めないなどの事情が重なって、わが成人史上最低の体重50キロ弱に。このままでは体重がなくなってしまって、生けるがままに即身成仏でミイラになってしまう。

       
         定番ざるそば 乾麺からでも適切な処理でうまくなる

 一ヶ月近く、手術痕が完全に癒着するまで断酒をして、食の手抜きをしたのも影響があった。どういうことかというと、ただただ腹がくちくなって栄養が摂取できればというのは私にとっては人間の食事ではない。
 人間の食事とは、酒類に伴走し、そこである種のハーモニーを醸し出すものであって、それ以外のものは餌にほかならない。「酒なくてなんのおのれが桜かな」である。

       
          焼き飯 昨夕餉の残り物を細かく刻んである

 というわけで、今月第二週ぐらいから、餌ではない食事の方に切り替えてから、少しづつ体重が戻ってきた。

       
  冷やし山かけそば ネギ・大葉・茗荷・胡麻・切り海苔 塩分補給で梅干し

 ただし、ここに載せたものはいずれも酒の友たるべき夕餉ではなく、昼餉である。この時期、とくに昼の食欲を掻き立てるのはある種の努力がいる。
 まあ、あんまり努力をした痕跡はないのだが、昨日あれを食したから今日はこれといったぐらいのコントロールはして、飽きさせないようにはしている。

       
   これは夕餉のメインデュッシュ30センチ弱の生ニシン 久々の踊り串、時期が時期だけに糸のような数の子しか入っていなかった

 結論として、この2週間ぐらいで、体重は2~3キロは戻すことが出来、即身成仏は免れた次第

       
             冷製パスタ 具は昨夕餉の残り物
       
              在庫品をかき集めた冷やし中華
       
やはり夏の定番はこれ!冷や麦 野菜不足にならぬよう薬味は多め 梅干し付き

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この豪華きわまりない折込広告の実体は・・・・

2023-07-16 02:41:04 | フォトエッセイ

 7月14日(金)の「朝日」の朝刊に、新聞紙大の立派な光沢質の4ページ立ての折込広告が入っていた。
 普段は折込広告などろくに見もしないのだが、その紙質とボリューム感に惹かれて、「おや、なんの広告かな」とタイトルに目を通した。
 そこには、「大手総合通販大和心 新規人材を大募集」とある。通販といえば、いまや既存の大手と新規参入との競合が激しい分野といえる。そこへさらに新たに・・・・ということだが、引っかかったのは「大和心」というアナクロなネーミングにわざわざルビを振って強調していることである。

     

 これは只者のなせる技ではあるまいという私の直感は当たった。裏面には、この会社の社長兼会長の挨拶があり、そこには彼は82歳であり、その妻は「49歳と若く、九州で随一の名門鶴丸高校から早稲田大学第一文学部心理学科を卒業した才媛」との紹介がある。まるでギンギン精力剤のCMのような自己紹介は普通の経営者のそれにはあまりない。この奇妙な経営者こそ、吉田嘉明という男である。

 この名前を聞いてハハ~ンと思われる方がいらっしゃると思うが、さらにいうと、今年1月にオリックスが買収を完了したDHCの創業者であり、いまやその座を追われるように去った男なのである。
 そしてそのDHC時代、その会社のHPやその傘下にあったDHCテレビを通じて根も葉もないヘイトスピーチやフェイクニュースを垂れ流した男なのである。

     

 その一端を紹介しよう。
 2017年、DHCテレビはその番組「ニュース女子」において、沖縄の基地反対運動に参加しているのはテロリストであり、犯罪者たちであり、その運動は無法地帯化していると報じ、在日コリアンの組織的介入を匂わせる内容に終始した。
 これに対し放送倫理・番組向上機構(BPO)は、「重大な倫理規定違反」と判断し、その旨警告を発した。それに対して吉田は、BPO自体がNHKや民放から選任された反日・左翼という偏った組織にほかならず、NHKも民放もいずれも「左傾化・朝鮮化」していると反論した。

 さらに吉田は、20年にはHP上で、「サントリーのCMタレントははほぼ全員がコリアン系日本人である」「ゆえにネット上では”チョントリー"と揶揄されている」と主張し、多くの人々から嘲笑も交えた批判が寄せられた。ここで問題なのは、この発言の内容が事実と異なるフェイクであると同時に、「コリアン系」と名指すことがなにか悪を象徴しているかのようなヘイトを内在しているということである。

 この差別意識に基づく在日コリアンに対する吉田の攻撃は執拗で、政界、マスメディア(新聞、NHK、民放)や法曹界、芸能界やスポーツ界を在日コリアンが牛耳っているとし、どういうわけか、その出身は東大、早大に多いとしている。
 これらは、吉田がしてきたヘイトスピーチやフェイクニュースのほんの一端である。

 DHCを去ったこの男が、次の事業として展開しようとしているのが冒頭に述べた「大和心」という通販組織なのである。
 私は、この男が関わるような事業に手を貸したくはない。いわばこれは、予めの不買運動宣言なのである。
 その意味では、さまざまな通販組織がひしめくなか、「大和心」などというアナクロでわかりやすいネーミングにしてくれたことは良かったと思っている。

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クラスター爆弾を使用するウクライナを支持できますか?

2023-07-10 10:36:30 | 社会評論

 あウクライナはアメリカが供給するクラスター爆弾を対ロ戦に使用するという。
 この爆弾は、いわゆる親子爆弾といわれ、親爆弾のなかには数百個の小型爆弾が収納され、それらが空中での親爆弾の炸裂に伴い、広い範囲に拡散して炸裂するという「効率性」の高い爆弾である。ということは、限定された軍事目標にとどまらず、無辜の住民にまで被害を及ぼしかねない。
 しかもこの子爆弾たち、着地点によっては、その時点で炸裂せず不発弾として残り、事後的に思わぬ被害を生み出す。

 この爆弾は、ヴェトナム戦争で米軍によって使用され、その悲惨さに非難が起こり、その不使用のための国際条約が提起され、現在百カ国以上がそれを支持している。日本の自衛隊は、一時期、それを保有していたが、今は廃棄処分にしてるという。それをいま、ウクライナが使用しようとしてる。

       

 私はこれに反対する。もともと、ゼレンスキー良い人、プーチン悪い人といった単純なウクライナ支援(メディアの大半がそうだ)には加担してこなかったが(とはいえ、ロシアを支援しているわけではない)、その「徹底抗戦」の方策が悲惨の拡大であることが許されていいはずがない。
 もし、この戦争が悲惨の拡大再生産を肯定するものならば、ロシアの限定的な核兵器の使用も制限しようがなくなる。

 方策は唯一つなのだ。直ちに停戦、そして話し合いのテーブルに着くこと。
 私はこの戦争がはじまる前に書いたことがある。ウクライナはNATOへの加入を当面、見送ること、ロシアはウクライナ領への侵攻を止めることである。この二つは糾える縄のようなものだ。ウクライナはロシアの侵攻に備え、NATOを後ろ盾にしようと思い、そしてそれはロシアにとって、自分の喉元に短刀をつきつけられるようなものであり、ウクライナ抹殺へと走る。

 私にとっては正義だとか理念だとかはどうでもいい。むしろ、そんなものはない方がいい。そんな観念的なものよりも、もっと価値を持つのが「悲惨の減少」である。プラグマティストのR・ローティが晩年、現代思想の相対主義(なにが真理かわからない)に対し、掲げ続けたのがこの「悲惨の減少」という論理=倫理であった。
 もちろん、なにが悲惨でなにが悲惨でないかはそれ自身問題であるが、ゼレンスキーのクラスター爆弾使用は明らかに悲惨の拡大を意味している。そしてそれは、ロシア側からの新たな悲惨を招きかねないというべきだろう。

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雑記いろいろ 安倍留魂? 図書館 マイナカード 全快

2023-07-07 16:11:14 | よしなしごと

7月某日 留魂?

        

 7月1日、奈良に安倍の「留魂碑」が建立され、迷妄神秘主義者の高市早苗が、「安倍先生の霊魂はこの世に留まっている」とのたわごとをことありげに述べているが小うるさい。
 実は、安倍胸像は某所に密かに建立されているのを私は知っている。この事実は、そして目撃者は、10人前後であろう。
 しかし私は、この詳細を述べようとはしない。これはその作者やプロデュ−サーとの約束だから。
 
7月某日 岐阜県図書館にて
 
     

 先月の手術以降、なんかこちらから積極的に行うことが億劫になって、TVのドキュメンタリー風のものを観たり、音楽を聴いたりと受け身でできることしかしていない。
 読書もあまりしていない。読書というのは、そこに書かれていることを咀嚼しつつ解釈を加えてゆかねばならないという意味で、意外と能動的なものなのだ。

         

 こんなことではいけないと思って、図書館へ出かけた。図書館で借りるということは、返却日までに読むという負荷を自分にかけるという意味で、怠惰な私の尻にムチを入れることにつながる。
 そんなことで、つい、4冊を借りてしまった。これを20日間ぐらいの間に読了するのは骨が折れる。そのうち2冊ほどは、ノートを取る必要がありそうだから読み流しにはできない。

         

 図書館へ行ったついでに、資料室で1960年の6ヶ月分の「朝日新聞」「中日新聞」(60年代は「中部日本新聞」だった)を閲覧し、ちょっとした調べごとをした。これには2時間半ほどかかり、帰宅したらドット疲れが出てへたり込んだ。
 たんに物事を知る、調べるというのは結構疲れるものだ。探している記事を見つけようと神経を過度に集中しなければならなからだろう。お陰でいくつかの情報を拾えたし、私が誤って記憶していた事実も正すことができた。

     

 図書館内の鏡にかなりくたびれた爺さんが映っているのを見て、あんな人に図書を貸して返却日前に死んじゃったらその図書はどうなるのかななどと考えた。それが自分だという事はわかっていたが・・・・。

7月某日 マイナカード 

 マイナカードが不完全でトラブルを起こしているから反対しているのではない。それ自身が家畜の耳につけられたチップのように、国家が国民をトータルに管理するツールだからだ。健保の後はキャッシュカード、図書券などとすべてを一元化する方向に進むだろう。これぞ国家による国民の生活全般の掌握と管理なのだ。

 そしてそれは、フーコーいうところの「生政治」の究極の完成というべきだろう。そもそも、国家がそこまで国民の生活に踏み込む国家形態はおかしいのだ。 

7月7日 全快

 朝一で手術・入院をしていた岐阜市民病院へ。主治医(執刀医)から全快のお墨付き。これで諸制限から開放される!

 ただし、この間、断酒で食欲減退のため、体重を数キロ減らしたので、その回復に努めなければ・・・・。

 
 
 
 
 
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はじめての遠隔青春デイトの地 六十数年ぶりの再訪

2023-07-02 14:37:45 | 想い出を掘り起こす

 知多半島を日帰りで旅したこと、その西側、中部国際空港についてはすでに述べた。
 午後はその東側、河和口にした。なぜ午前に西にし、午後に東にしたかは、写真を撮る際の順光と逆光を考えたからである。そして、なぜ河和口にしたかは、病み上がりの身、ここが駅から海までの距離が一番近かったからだ。



 しかし、それだけではない。ここは自分史的に思い出の地であるからだ。そう、何度目かの初恋の折、ふたりとも学生であった私たちは、それまでのキャンパスやその所在地、名古屋を離れ、はじめての遠隔(というほどでもないか)デイトを敢行したのがこの地であったのだ。
 六十数年前、ここは海水浴場として結構人気の地であった。まだ、高度成長期の前で、日本の河川は従前からの白砂青松の面影を残していた。




 それが、60年代初頭から始まった高度成長期には、日本の河川や海は、大工場の垂れ流す汚水の排水、廃棄されるさまざまな物質であれよあれよという間に昔日の自然美を破壊され尽くした。とりわけ、そこに含まれた有毒物質は、水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそく、富山神通川沿いのイタイイタイ病のいわゆる四大公害病をはじめ、各地で人びとを死を含む深刻な病へと蝕んでいった。



 それらに対する政府や行政の動きは鈍く、ある局面では加害者である大企業を弁護し、その対策をネグレクトした。そうした各地での汚染が、なんとか今日のような程度に落ち着いたのは、各地の被害者たちの粘り強い闘いの結果にほかならない。




 ただ、目に見えた公害ではないにしても、大都市周辺では、工業地帯として大幅に埋め立てが進み、白砂青松の海岸は姿を消した。名古屋周辺の三河湾、知多半島周辺、伊勢湾、などもそうであった。ちなみに、随分前のデータであるが、東京から神戸までの東海道線沿線で、昔ながらの自然海岸は10%を切りそうだとあった。いまはもう切っているのかもしれない。



 話は固くなったが、「遠隔青春デイト」に戻ることにしよう。夏の海水浴だ!石原一族の派手な湘南海岸での豪遊とは行かなくとも、海水浴は庶民にとっての夏最大のイベントであった。
 彼女の水着姿も拝める(コラッ)ということだが、ただし当時の庶民の水着は学校の水泳の授業の水着とほぼ同じであった。にも関わらず、女性の(男性もか)露出姿が日常的に氾濫するこんにちとは違い、当時はそんな水着でも結構艶っぽかった。



 信じられないかもしれないが、年配の女性は、水着ではなくシュミーズ、それも現代風のノースリーブではなく袖付きのゾロンゾロンとした下着姿で海へ入っていた。男性もそうだ。かくいう私も、中学生まではいわゆる六尺ふんどしであった。長良川まで泳ぎに行った折など、それを路面電車の窓からひらひらさせていると、終点までに乾くといったこともあった。もっとも、まだ濡れている段階でたまたま窓から顔を出したおっさんの顔にそれがピタッと張り付き、こっぴどく叱られたこともある。なお年配の男性は六尺ではなく越中ふんどしで泳ぐ人も多かった。



 ところで、その海水浴デイト、二人っきりの甘いものではなく、実はコブ付きだったのだ。相手の女性の実家が許した条件は、彼女の末妹、小学5年生を連れてゆけということだった。まあ、コブ付きデイトでも結構楽しかった。しかし大変だったのはその帰りだった。小5の妹はもともとあまり強健な方ではなかったが、時ならぬ機会をえてはしゃぎ過ぎたのか、ぐっすり寝込んだしまったのだ。

 その寝込んだ子を、私が背負って帰ることとなった。海岸から駅までは冒頭付近に書いたように近かったが、彼女の実家(愛知県知多郡東浦町緒川)は最寄りの駅からかなりあり、しかも山側へと向かう登り道であった。私自身、結構泳ぎ回って疲れいたこともあって、これは結構きつかった。

 そんな思い出の地に、六十数年ぶりに訪れたのだった。
 結論を言ってしまうと、観るべきものはなにもなかった。もはやかつての海水浴場の面影はなく、コンクリート製の堰堤から海辺へと降りる面が、階段状のスロープをなしてる点のみが海水浴場の名残りといえばいえるかもしれない。しかし、海水浴場の必須条件ともいえる砂浜がまったくないのだ。



 それでも、せっかく来たのだから、階段状の箇所に腰を下ろし、対岸の三河地区、碧南市あたりの工場や、目前を行き交う船舶など眺め続けた。それは午前に行った飛行場のひっきりなしに動きのある情景とは対照的なの~んびりした情景で、それはそれで悪くはなかった。



 まあしかし、六十数年を経れば、風景が著しく変わるのは当然だ。当時、白いシャツに黒いズボンで颯爽(?)とした学生だったこの私が、ボロボロのお爺さんになってぼんやり海を見つめているのだから。
 もっとも当日、私は青いシャツで出かけたから、ピンキーとキラーズの「恋の季節」の一節、「あ~おいシャツ着てさ~ う~みを見てたわ~」だった(引用する歌が古いよなぁ)。
 
 なお、そのときにデイトをした女性とは、その後、結婚した。そしてその彼女は、2016年、先に旅立っていった。

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ああ、飛行機は着陸し、待機し、そして離陸する

2023-07-01 02:06:15 | フォトエッセイ

 岐阜から久々に名鉄電車に乗った。着いたのは中部国際空港。ここは知多半島の西側。
 その後、同じ知多半島の東側、河和口にも行ったが、それは次回。



 1940年代中頃、幼かった私にとって、飛行機はアンビバレンツ(両価的)なものであった。
 飛行帽にゴーグル、白いマフラーの特攻隊員は私のヒーローであった。むろん、彼らの置かれた極限状況など知る由もなく、ただそのかっこよさに憧れていたのだ。
 
 しかし、44年、サイパン島が米軍の手に落ち、本土空襲が日常化するにつれ、飛行機は、とりわけ腹の底に響く重奏低音を伴うB29の爆音は恐怖の対象になった。
 大垣の郊外に疎開していたにも関わらず、近くの紡績工場が軍需工場に変わっていたのを米軍は見逃すことなく、焼夷弾を雨・霰と降らし、なかには爆弾も混じっていた。そのうちのひとつが私たちが避難していた防空壕の至近距離に落ち、その衝撃でその防空壕の入り口が崩壊し、大人たちがそれを必死で手で掻き分けて、やっと脱出することが出来たのだった。

 以来、飛行機の爆音そのものが恐怖の対象になった。敗戦が決まった後も、爆音が聞こえると目を泳がせてとっさに身を隠す場所を探すという状態が続いた。それは何年も続いた。当時、日本の上空には米軍機しか飛んでいなかったから、それは自然であったかもしれない。

 それが今は、のんびりと飛行機の群れを観るためにわざわざ電車に乗ってやってくるのだから、平和ボケ以外何ものでもあるまい。ましてや、今なお空爆が続いていて、あの時私が抱いた恐怖心を日常的に覚えている人たちがいる地域があるというのにだ。

 しかし、飛ぶという機能に特化された飛行機は美しい。もはやその形状などにおいて特異なものは少ない。一時期のコンコルドのような個性的なものはもうない。ただ、ある差異はその色彩やその塗り分けのようなものである。

 いま言ったことにまったくそぐわず関係はないのだが、私の好きなのに石川啄木の「飛行機」という詩がある。

 
 飛行機

 見よ、今日も、かの蒼空に
 飛行機の高く飛べるを。

 給仕づとめの少年が
 たまに非番の日曜日、
 肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、
 ひとりせっせとリイダアの獨學をする眼の疲れ・・・・・

 見よ、今日も、かの蒼空に
 飛行機の高く飛べるを。

 
 この詩は、1911年6月27日に作られたという。今から112年前のことだ。このとき、啄木が見た、ないしはイメージした飛行機はどんな形状のものだったろうか。ちなみにライト兄弟が有人飛行機の初飛行に成功したのは1903年のことだから、この詩はそれからわずか8年後のものである。やはり彼の頭脳にあったのは複葉機だったのだろうか。
 彼の詩集(斎藤三郎・編)では、この詩のあとに、やはり私が好きな「はてしなき議論の後」が続く。

 ゴテゴテ書いてしまったが、以下は当日、撮してきた飛行機の写真。着陸、待機、離陸など入り乱れたまま。












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