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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

86歳の誕生日を迎えて超えた二つのこと。

2024-10-26 23:49:28 | よしなしごと

 86歳の誕生日を迎え、こんなはずではなかったといささか戸惑っています。
 私の若い頃、40代50代が老年の入口で、80代などはよく生きているなぁと思うほどの年齢だったからです。それも、80代の後半に差し掛かるなんて・・・・。

 86歳は私にとって二つの意味でエポックメーキングです。そのひとつは亡父の享年を超えたということです。もっとも私は養子のもらわれ子ですから 父との間に遺伝子的なつながりはありません。父はその亡くなる寸前まで、私と同様腰痛の悩みを抱えながらも元気で飛び回っていました。

          


 それが12月の末、その年の業務を終えた段階で、大きな総合病院へ出かけ、まずは腰痛対策のためのコルセットを作ろうと言うことでその採寸を行ったようです。それから 別の階へ移り内科主体の健康診断を行っていたその最中に倒れたと言うことなのです。父は一人で自転車で出かけたものですから、その過程を見ていたものは誰もいません。だから親戚の中には、 父が急に倒れたこと自身が何らかの医療ミスによるのではないかと言う疑念を持ち続けた人もいました。

          


 それから 年が改まり一週間ほど後、 父は集治療室に入ったままそこで亡くなりました。 集中治療室から一般病棟に移されそこで集まった親族一同が嘆き悲しんでいた真っ最中に、いきなり入り口から明るい看護師さんの言葉が聞こえてきました。
 「 〇〇さ~ん、お待ちどおさま~。ご依頼の腰痛用コルセットができましたよ~」
 外科の看護師さんの底抜けに明るい口調に、遺体の脇にいた内科の看護師さんが入口に飛んで行って、外科から来た看護師さんの口を塞ぐようにして遮りました。
 父の容態は、外科の方には全く伝えられていなかったのです。

          

 結局その腰痛用コルセットは私が引き取り、今も時々用いていますが、とてもかさばり重いため、もっぱらこれからの冬用に用い、それ以外はもっと軽便のものを用いています。

 もう一つのエポックメイキングな出来事は、私の連れ合いが亡くなってからおよそ8年が経過したということです。
 それにどんな意味があるかというと、彼女が亡くなった頃の統計的な資料によれば、夫に先立たれた女性は、その後おおよそ17年間生きるが、逆に妻に先立たれた男の方は、平均7年ほどしか生きられないとあったのです。
 にも関わらず、私はこの誕生日でおおよそ8年間、永らえたのです。

     

 私と仲が良かった高校時代の同級生は、70代のはじめに連れ合いに先立てれたのですが、本当にその統計のデータ通り、その約7年後、まだ70年代に後を追ってしまいました。
 その意味では、私はその統計上の平均値を凌駕出来たということです。

 私の連れ合いが亡くなった折、かなり年少のガールフレンドからいわれたことがあります。そのひとつは、朝起きて、いくら面倒でも、トレーナーなど寝間着を来たままでのそのそ過ごさないこと。二つ目は、食事の後、使った器や調理器具をシンクに貯めることなく、すぐ洗うこと。そして三つ目、どんなに淋しくても、昼間っからお酒を飲んだりしないこと。
私はそれらを守ってきました。

     

 上に述べた平均値の7年で亡くなった同級生は、服装や食後の片付けはともかく、よく昼の間に酒を口にしていたようです。「そうでもしなければ淋しくてしょうがないさ」といっていました。

 ところで、私にそう諭した女性ですが、一昨年、病に倒れ急に亡くなってしまいました。
 私が、連れ合いを亡くしてからも七年以上生き延びたのは、その彼女の助言に忠実に従ってきたからではとも思うのです。

 八五歳時の出来事は、K氏を訪ねてヨーロッパを一〇日ほど旅したことです。
 さて、八六歳時の私の目標は漠然としてはあるのですが、これから具体化してゆくつもりです。
 どうか、今後もよろしくお見守りください。

写真は記事の内容とは全く関わりがありません。

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久しぶりの名古屋駅西口と「駅裏」時代の思い出

2024-10-24 00:17:24 | 想い出を掘り起こす

 久しぶりの名古屋駅西口である。久しぶりといっても何年ぶりかというほどではない。こちらにある映画館、名古屋シネマスコーレには毎年何回かは来ているからだ。しかし、最近では映画を見る機会が減ったこともあり、一年近く来ていなかったかもしれない。

 それにかつては、わたしたちの同人誌をわざわざ店においてくれるママさんがやっていた飲み屋があって、映画を見ないときでも岐阜への帰りに時間の余裕がある折にはよく寄ったのだが、その店も閉店してもうかなりになる。
 今回は映画を観るためではなく、月イチで参加している読書会の会場がたまたまこの西口側になったからだ。

 西口近辺は今、工事箇所がやたらに目立つ。ほとんどが私の生きているうちは運行しないであろうリニア新幹線の関連工事だ。
 それらを尻目に、読書会の会場へ歩を進める。

      

 私が初めてこの地域に足を踏み込んだのは六十数年前に岐阜から名古屋の大学へ進学した折であった。その頃この地域は「駅裏」と呼ばれていた。そして先輩たちは口を揃えて言った。「駅裏の飲み屋は安いが物騒だから行かないほうがいい」と。

 この地区が「駅裏」から西口、あるいは太閤口と呼ばれるようになったのは20世紀の終わりごろだろう。その時期は、日本海側を「裏日本」と呼ばなくなった頃とほぼ同一と思われる。
 ただし、こうした呼称は全国的なもので、JR岐阜駅でも、もっぱら私が利用する南口はかつては「駅裏」と呼ばれていた。その駅裏近くの実家で育った私の記憶では、亡父への年賀状が「岐阜市駅裏 ◯◯◯◯様」で届いたこともある。

 名古屋駅の西口に話を戻そう。「駅裏=西口へ行くな」という先輩たちの戒めには根拠がないわけでもなかった。「駅裏」は当時、東京の山谷、大阪の釜ヶ崎(今の西成あいりん地区)と並んで日本の三大スラム街の一角を占め、治外法権の場所といわれていたからだ。

 実際のところ、駅の表側=東側=桜通口と比べるとその環境の差はとても大きかった。東口も現在のように高層ビルが立ち並ぶほどではなかったが、そこそこ、大都市の玄関口をなしていたのに比べ、「駅裏」はほとんどがいまだ未舗装で、じっとりした路地に闇市とドヤ街が広がり、夜ともなるとバラックのような店や屋台に赤ちょうちんが灯り、客を誘っていた。

 ちなみに当時(1960年前後)はどこの街でも屋台は健在で、名古屋でも今池界隈の屋台街、栄から柳橋近くまで続く屋台街は隆盛を極めていた。それはまた、バイト代が入ったときにやっと飲める私の世代にとって、その価格帯からいっても不可欠な存在だった。
 それらを、64年の東京五輪を契機にして、お馬鹿な政府が「諸外国に恥ずかしいいから」という理由で全国一律に禁止してしまったのだ。

      

 それはさておき、そうした屋台でやっと飲める私たちにとって、さらに救いは駅裏の飲み屋の安価さであった。「駅裏の店で使ってる肉は犬や猫だから安いのだ」という悪口も耳にしたが、安価で口に入るものがありそれを肴に飲めるというだけでもうじゅうぶんありがたかったのだ。
 なお、今のアメリカの大統領選で、トランプが移民たちは犬や猫を捕らえて食べていると演説したというのを聞いて、吹き出しそうになった。

 しかし、やはり「駅裏」はなんとなく怖かった。だから、飲み屋にしてもあまり駅から離れたところまでは行かず、何かあったらすぐ駅へ逃げることが出来るように身構えていた。その意味では当時の私は「駅裏」への偏見から自由ではなかったともいえる。

 写真はその駅裏改め西口から見た名古屋駅の現在の姿である。
 明るい方は読書会へ出かける行きがけの撮影であり、暗い方は読書会とその後の懇親会終えてからのものだからその時差は五時間ほどである。

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通夜への道・主観的には豊かな粗食・白鷺の舞・大須

2024-10-20 01:43:38 | よしなしごと
 「ちくさ正文館」というのは人文書籍の品ぞろえが良いというので名古屋では知られた存在だったが、昨年7月、惜しまれながら店を閉めた。長年、その店長として頑張ってきた古田一晴氏が、この9日に逝ってしまった。

           

 私がその近くの街、今池で居酒屋をもった70年代のはじめ、何年か後に彼も正文館へやってきてすぐに私の店へ来てくれるようになったから、半世紀ほどの付き合いになる。
 とはいえ、彼は私より14歳下の72歳だから、いささか早い旅立ちだ。
 
      

 11日に行われた通夜に出た。閉店して一年以上経つのに、日本の人文書籍の錚々たる出版社がこぞって花輪を出しているのを見ても、彼の果たした足跡がわかろうというものだ。
 写真は、その通夜の式場へ向かう道すがらの、黄昏行く空と街の様子である。

 今は回復しつつあるが、15日頃から幾分私自身が不調で、買い物へ行くのも億劫で放おっておいたら、17日の昼、在庫が少なく、昼食の取り合わせもままならない。
 在庫の中華麺の乾麺とキャベツ、赤ウインナー、それに薬味のネギだけで作ったラーメンが写真のもの。スープは薄口醤油のさっぱり系。
 こってりしたものを受け付けない心境にあったので、これでもじゅうぶん豊かな昼食になった。

      


 翌18日、近くのクリニックへ薬の処方箋をもらいに。その後、調剤薬局へ寄って目的は果たしたのだが、ここしばらく全く歩いていないことに気づき、「歩くために歩く」ことはほとんどしない私だが、少し遠回りをして帰ることにする。
 なんとなく、水辺が好きだ。水中と水辺の生き物も好きだ。この日も、大したことはない流れが揺らいでいるのを見つけて凝視していたら、50センチほどの鯉が、悠々と流れを下っていった。

 秋の夕べはつるべ落としというが、この日は雲が垂れ込める曇天だっただけに、5時前なのにすっかり黄昏れてしまった。
 川に立ち尽くす白鷺を見つけた。スマホで撮るにはやや距離がと思っていたら、急にこちらをめがけて飛び立った。ラッキーと連続してシャターを押し続けたが、白鷺の方は、スマホを構えた異様な人物に気づいて、羽をいっぱいに広げ急ブレーキを掛けた。
 おかげで今までにない鳥のポーヅを撮ることが出来た。

           

           

           

           

 19日は親戚筋の法要ということで、名古屋は上前津近くの寺院へ午前から出かけた。法要と食事が済んで、大須が祭りをしているというので立ち寄った。
 大須は今、伝統的な大須観音の門前町に加え、IT 関連の店舗が若者を集め、さらに最近は、東南アジアから南米、中近東からの移民や労働者が集まるエスニックな街として、週末や祭日は肩擦り寄せるほどの賑だから、そこへ祭りが加わって歩くのも困難なほどの雑踏だ。
     
         
      
 多少見て歩いたのだが、朝からの法要などで疲れていたのであまり深追いはせず、全体の雰囲気のようなものを味わって早々と引き上げた。

 法要の間、あるいは私が留守にしていた間の岐阜では、結構雨が降ったようだが、持参した傘を開くことなく帰宅できたのは私の悪運の強さか。

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ちょっと不調・・・・といっても寄る年波のせいだが

2024-10-15 17:08:03 | よしなしごと
 
日曜日は家事労働。夏物を片付け、合物に。
これまでのタオルケット2枚、シーツ、布団カバーなど大物の洗濯。
家のある一部の掃除。全部は疲れ切って出来なかった。
よく働いて疲れたはずなのに不眠。睡眠薬を増量しても根付かれず。明け方まで悶々。
翌朝、やはりまともに起きられず。グダグダと体の芯が定まらない。
読書をしてもほんの2〜3ページで目が霞む。
TVでドキュメンタリー系のものを選んで観る。何を見たかもよく覚えていない。
何処かが悪いわけではない。ところ構わず、よだれを垂らして寝込む老域に到達したという自然の成り行き。
ここしばらくブロブも書いていないが、まだ生きておることは生きています。生物学的には・・・・。
 
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ショパンを聴きながら・・・・

2024-10-10 15:59:29 | 音楽を聴く
NHKFMでショパンの大曲「練習曲作品10」をを聴きながら、7月に訪れたワルシャワの風景をいろいろ思い浮かべていた。
ドイツとロシアの大国に挟まれて戦乱の揺り籠で弄ばされた歴史の日々、ここの多数のユダヤ人が戦後ユダヤの建国に馳せ参じ、シオニストとして今や殺す側に回ってるという歴史の悲惨。
日本も近代以降、戦火に見舞われることもあったが、地続きの他者との対面を知らない。「占領軍」であったアメリカを「進駐軍」と呼んで姑息にも自分の味方のように遇し続けたこの民は、かつて国境を超えた進出・侵略先のなかで、自らが醜い他者であったことも知らない。
国境を超えて西に向かったショパンの音楽のなかには、単なる民族主義を超えた、他者のなかでの自己の確立への憧憬のようなものがある。
 
      
      
      
      
      
      
      
      
      
      
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【今日の工作】材料は百均。合計300円。

2024-10-05 16:50:34 | フォトエッセイ
 玄関脇の大型郵便物など専用のポストを作った。
 
 前のものが壊れそうになったからだ。プラスチックは太陽光のもとでは劣化して壊れやすい。というのは前のものも、私が百均のプラスチックの箱を細工して作ったものだった。5,6年はもったろうか。実は今回のもので三代目に当たる。


 今回のものも百均でA4用紙用のプラスチックトレイ二枚と幅広の黒の粘着テープの都合300円で作った。色が黒しかなかったので、写真では見にくいであろう。
 大きさは、高さ32cm、幅26cm、奥行き、つまりものを出し入れする間口の幅は8cmである。

      

 この左上に、レターパックが入るような幅18cmぐらいの普通郵便受けがあるのだが、それ以上の大きさ、ないしは厚みのあるもの用なのだ。
 郵便局はこれをきちんと守ってくれる。チラシ入れなどは、これを守ってくれるのとくれないのがいる。後者については、それが何であるかを問わず目を通すことなくゴミにすることとしてる。
 こちらが書いているものを読みもしないで自分の方のものを読ませようというのは太い了見だからだ。

 さあ、これは何年もつかな?
 これが壊れるのが早いか、私が逝くのが早いか、競争だなぁ。
 
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