振り返ってみても私が受けた音楽教育の歴史は極めて乏しい。
生まれた時期も悪かった。完全に戦時体制に突入していた1938年、生母に先立たれた私は養子に出されたのだが(実父はその後、悪名高いインパール作戦で戦死)、養父が戦争に取られ、都市部が空爆にさらされるに至って、大垣郊外の片田舎に疎開することとなった。
そんなこともあって、私は幼稚園などというところへも行ったことがない。絵本でみたことはあったが、特殊なお金持ちが行くところだとばかり思っていた。
45年に国民学校へ入学するのだが、そこでの音楽教育についてはほとんど記憶がない。
教室の前にオルガンがあって、みんなで斉唱をするのみだった。
戦争が終わっても、猛烈な物資不足は続いた。
小学校も高学年になると、音楽表現も授業の一環となったが、なにせ楽器がない。
ハーモニカだってクラスに一本か二本で、それを順に回し吹きをするのだ。自分の前の子が、青鼻を垂らしていたりすることもあった。
ほかには木琴。これもクラスに一台で、前の教壇にあるものを一人ずつ出ていって交代で叩くのだ。
これで興味をもったとしても、自分専用の楽器が買えるような状況ではなかった。
音楽を受容する教育については小学校の折には経験がない。
中学校になってやっとあったような気がするが、音楽室で音楽専用の教師が名曲のさわりをピアノで弾くぐらいで、オーケストラの作品になると、手回しの蓄音機で、いわゆるSPレコードによる細切れのものを聴くのみであった。その音質も、針の音が聞こえるようなひどいものであった。
そんな私に、ナマのオケを聴く機会が巡ってきたのは、確か1952年、私が中2のときであった。その頃、疎開地から岐阜へ戻っいた私は、学校からの動員で当時の岐阜市の公会堂(現在は取り壊されて市民会館ができているが、これもまた改築されるという)へと駆り出されたのであった。
その頃は、時折、学外の映画館などでの鑑賞の授業があったりしたので、その一貫ぐらいだろうということでさして感興をもっていたわけではなかった。
しかしである。一旦、演奏が始まってみると、その最初の音で打ちのめされたような衝撃を味わった。それらの音は、チューニングの悪いラジオから聴いたり、針音がするレコードで聴くものとは全く異質のものであった。ましてや、まだ再生装置にステレオなんてものがなかった時代、ナマで聞くオケの音は、弦はそのあるべき位置で音を紡ぎ、管はその後方で音を響かせ、打楽器は、とりわけ、初めて見るティンパニーの飛び跳ねるような音色はその所在を明確に告げていた。
ようするに、音楽の音に然るべき空間を占める立体感があることをはじめて体感したのだった。
曲目は、カルメンの前奏曲や、スッペの騎兵隊序曲などなど、最もポピュラーな小品ばかりだったが、それぞれが面白く、すっかり堪能することができた。
その時のオケが、近衛管弦楽団で、指揮はもちろん近衛秀麿であった。戦前戦後にかけて、山田耕筰と並んで日本のオーケストラを引っ張ってきた人である。
その折の感動は、今から振り返っても大きなものがあったが、多情・多感な少年の興味の対象は拡散しがちである。
クラシックについても、それがきっかけでしばしば聴くようになったが、近衛秀麿についてはさほどこだわりをもたなかった。時代は帝王カラヤンに傾斜していて、なにかそれだけでありがたがっていた。
まだまだ再生装置にも恵まれていなかった。実家にあったのは流石にもう手回し式ではなかったが、動力をモーターに変えただけのプレーヤーであった。
高校生の頃、やはりちゃんとした再生装置が欲しくなり、カラヤン指揮・ベルリン・フィルのベートーヴェンの6番のLPを買ったついでにもう一枚、三橋美智也かなんか、当時流行っていた演歌のレコードも買った。
後者は父母が対象で、私の作戦としては、「ホラ、こういうレコードも、もっといい再生装置で聴いたらいい音がすると思うよ」ということで、ステレオ装置かなんかを買ってもらうことであった。
父母はレコードは喜んでくれたが、「私らはこの音でじゅうぶん」ということで、私の深慮遠謀はあえなく挫折した。
近衛秀麿のことだが、私にはじめてクラシックのナマの音を聴かせてくれた人ということでずっと記憶にとどめてはいたが、どこかでやはり縁遠い人だと思っていた。
と言うのは家柄が良すぎた。お公家さんの五摂家筆頭の家柄で、地位もお金もあり、だからこそ戦前からヨーロッパでクラシック三昧を決め込むことができたのだというぐらいにしか思っていなかった。
印象が変わったのは先般、たまたまNHKBSで、「玉木宏 音楽サスペンス紀行 マエストロ・ヒデマロ 亡命オーケストラの謎」(29日後8:00)を観たからである。
この番組で、戦前のヨーロッパでの近衛の足取りが具体的に示されていて、それは私が思っていたように家柄の良いボンボンが優雅に・・・といったイメージといささか異なるものであった。たしかに当時の日本はドイツと同盟関係にあったとはいえ、そのナチス・ドイツはヨーロッパ各地で、とりわけユダヤ人に対して残虐の極みを尽くしていた。
そのナチスが、クラシックの世界にも干渉し、あのモーツァルトの音楽や音楽祭までナチス色に染め上げたことは、私自身が勉強し、今春発刊の同人誌に書いたとおりである。
そうした渦中に近衛もいたわけである。昨日までともに演奏していたユダヤ人演奏家の仲間が、今日、収容所でガスシャワーを浴びるというそんな環境の中に・・・。
そこで彼は何人かのユダヤ人を助け、その亡命に手を貸し、演奏機会を奪われた彼らに自分の指揮下で演奏する機会を与えたりしたという。
とりわけ占領下のポーランド・ワルシャワでの、当時の状況下では舞台に上ることもできなかったユダヤ人音楽家たちをも組織して行われた謎のコンサートは、おそらく感動的なものであったろうと思われる。その曲目、シューベルトの『未完成』は、番組冒頭から通奏低音のように流れ続けていた。
私は今、私にはじめてオケのナマの音を聞かせてくれたのが、近衛秀麿であったことを改めて誇らしく思う。そして、彼のことをいいとこのボンボンの芸事のように扱ってきたことを恥ずかしく思う。
NHKには私が観た番組に先立つ、「戦火のマエストロ・近衛秀麿~ユダヤ人の命を救った音楽家~」というドキュメンタリーがあるという。それも併せて観たいと思っている。
生まれた時期も悪かった。完全に戦時体制に突入していた1938年、生母に先立たれた私は養子に出されたのだが(実父はその後、悪名高いインパール作戦で戦死)、養父が戦争に取られ、都市部が空爆にさらされるに至って、大垣郊外の片田舎に疎開することとなった。
そんなこともあって、私は幼稚園などというところへも行ったことがない。絵本でみたことはあったが、特殊なお金持ちが行くところだとばかり思っていた。
45年に国民学校へ入学するのだが、そこでの音楽教育についてはほとんど記憶がない。
教室の前にオルガンがあって、みんなで斉唱をするのみだった。
戦争が終わっても、猛烈な物資不足は続いた。
小学校も高学年になると、音楽表現も授業の一環となったが、なにせ楽器がない。
ハーモニカだってクラスに一本か二本で、それを順に回し吹きをするのだ。自分の前の子が、青鼻を垂らしていたりすることもあった。
ほかには木琴。これもクラスに一台で、前の教壇にあるものを一人ずつ出ていって交代で叩くのだ。
これで興味をもったとしても、自分専用の楽器が買えるような状況ではなかった。
音楽を受容する教育については小学校の折には経験がない。
中学校になってやっとあったような気がするが、音楽室で音楽専用の教師が名曲のさわりをピアノで弾くぐらいで、オーケストラの作品になると、手回しの蓄音機で、いわゆるSPレコードによる細切れのものを聴くのみであった。その音質も、針の音が聞こえるようなひどいものであった。
そんな私に、ナマのオケを聴く機会が巡ってきたのは、確か1952年、私が中2のときであった。その頃、疎開地から岐阜へ戻っいた私は、学校からの動員で当時の岐阜市の公会堂(現在は取り壊されて市民会館ができているが、これもまた改築されるという)へと駆り出されたのであった。
その頃は、時折、学外の映画館などでの鑑賞の授業があったりしたので、その一貫ぐらいだろうということでさして感興をもっていたわけではなかった。
しかしである。一旦、演奏が始まってみると、その最初の音で打ちのめされたような衝撃を味わった。それらの音は、チューニングの悪いラジオから聴いたり、針音がするレコードで聴くものとは全く異質のものであった。ましてや、まだ再生装置にステレオなんてものがなかった時代、ナマで聞くオケの音は、弦はそのあるべき位置で音を紡ぎ、管はその後方で音を響かせ、打楽器は、とりわけ、初めて見るティンパニーの飛び跳ねるような音色はその所在を明確に告げていた。
ようするに、音楽の音に然るべき空間を占める立体感があることをはじめて体感したのだった。
曲目は、カルメンの前奏曲や、スッペの騎兵隊序曲などなど、最もポピュラーな小品ばかりだったが、それぞれが面白く、すっかり堪能することができた。
その時のオケが、近衛管弦楽団で、指揮はもちろん近衛秀麿であった。戦前戦後にかけて、山田耕筰と並んで日本のオーケストラを引っ張ってきた人である。
その折の感動は、今から振り返っても大きなものがあったが、多情・多感な少年の興味の対象は拡散しがちである。
クラシックについても、それがきっかけでしばしば聴くようになったが、近衛秀麿についてはさほどこだわりをもたなかった。時代は帝王カラヤンに傾斜していて、なにかそれだけでありがたがっていた。
まだまだ再生装置にも恵まれていなかった。実家にあったのは流石にもう手回し式ではなかったが、動力をモーターに変えただけのプレーヤーであった。
高校生の頃、やはりちゃんとした再生装置が欲しくなり、カラヤン指揮・ベルリン・フィルのベートーヴェンの6番のLPを買ったついでにもう一枚、三橋美智也かなんか、当時流行っていた演歌のレコードも買った。
後者は父母が対象で、私の作戦としては、「ホラ、こういうレコードも、もっといい再生装置で聴いたらいい音がすると思うよ」ということで、ステレオ装置かなんかを買ってもらうことであった。
父母はレコードは喜んでくれたが、「私らはこの音でじゅうぶん」ということで、私の深慮遠謀はあえなく挫折した。
近衛秀麿のことだが、私にはじめてクラシックのナマの音を聴かせてくれた人ということでずっと記憶にとどめてはいたが、どこかでやはり縁遠い人だと思っていた。
と言うのは家柄が良すぎた。お公家さんの五摂家筆頭の家柄で、地位もお金もあり、だからこそ戦前からヨーロッパでクラシック三昧を決め込むことができたのだというぐらいにしか思っていなかった。
印象が変わったのは先般、たまたまNHKBSで、「玉木宏 音楽サスペンス紀行 マエストロ・ヒデマロ 亡命オーケストラの謎」(29日後8:00)を観たからである。
この番組で、戦前のヨーロッパでの近衛の足取りが具体的に示されていて、それは私が思っていたように家柄の良いボンボンが優雅に・・・といったイメージといささか異なるものであった。たしかに当時の日本はドイツと同盟関係にあったとはいえ、そのナチス・ドイツはヨーロッパ各地で、とりわけユダヤ人に対して残虐の極みを尽くしていた。
そのナチスが、クラシックの世界にも干渉し、あのモーツァルトの音楽や音楽祭までナチス色に染め上げたことは、私自身が勉強し、今春発刊の同人誌に書いたとおりである。
そうした渦中に近衛もいたわけである。昨日までともに演奏していたユダヤ人演奏家の仲間が、今日、収容所でガスシャワーを浴びるというそんな環境の中に・・・。
そこで彼は何人かのユダヤ人を助け、その亡命に手を貸し、演奏機会を奪われた彼らに自分の指揮下で演奏する機会を与えたりしたという。
とりわけ占領下のポーランド・ワルシャワでの、当時の状況下では舞台に上ることもできなかったユダヤ人音楽家たちをも組織して行われた謎のコンサートは、おそらく感動的なものであったろうと思われる。その曲目、シューベルトの『未完成』は、番組冒頭から通奏低音のように流れ続けていた。
私は今、私にはじめてオケのナマの音を聞かせてくれたのが、近衛秀麿であったことを改めて誇らしく思う。そして、彼のことをいいとこのボンボンの芸事のように扱ってきたことを恥ずかしく思う。
NHKには私が観た番組に先立つ、「戦火のマエストロ・近衛秀麿~ユダヤ人の命を救った音楽家~」というドキュメンタリーがあるという。それも併せて観たいと思っている。