六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

蕎麦・そば・ソバ 椛の湖そば祭り&博石館

2018-09-27 17:12:16 | 旅行
 9月後半の連休、地域の人達と岐阜県は東濃、主に中津川近辺を訪れた。
 といっても、中津川の市街は通り過ぎただけ(ここいつもそうだから、一度はゆっくり街中を見たい気もする)、行った先はいずれもこの間の合併で中津川市に編入されたかつての周辺地ばかり。

 
 
 
 まずは、蕎麦祭りをやっている椛の湖畔の広大な蕎麦畑へ。直前の新聞に、ただいま満開とでていたので期待がもてる。中津川市内からかなり標高を上げたところに平地が開け、蕎麦畑が広がっている。

 
      
  
 今まで、蛭ヶ野の蕎麦畑や開田高原、それに赤蕎麦の産地などを訪れたことがあるが、そこらではそば畑があちこちに散在していたように思う。
 しかしここは、かなり広いエリア(5ヘクタール強)にそば畑のみが密集していて、辺り一帯、白いシーツを敷き詰めたような広がりがある。

      
                   

 そば畑以外はさして観るものはなく(それだけで十分なのだが)アトラクションの熱気球で上空からの眺めを満喫というのもさして食指が動かない。
 そこで売店に立ち寄ったら、地産の野菜を売っていて、小さめのトマト6個入りが250円、立派なみょうが20個ほどで250円とあったのでこれをゲット。観光地に来ても主夫感覚は生きている。
 ちなみに、冷奴の上にみょうがの千切りを乗せたシンプルな料理が大好きというのだから生まれついての貧乏性か。あ、もちろんそれには冷やしたお酒もなければね。

 しかし、蕎麦の産地へ来て、蕎麦を食せざるは冒涜と、100食限定の蕎麦のプリペイドチケットを握りしめ、戦中戦後の配給品の支給以来苦手になっている行列に加わる。
 蕎麦の調理は3人でやっていたが、いかにも手際が悪い。駅の立ち食い蕎麦のノウハウを一度学んだらよかろうと思う。並び始めて30分でやっと私の番に・・・・。
 でその味はというと、う~ん、微妙。まあ、このロケーションんで食するという付加価値を考えて良しとしよう。

          

 高原のおいしい空気を満喫したところで、木曽川河畔の坂下の街へ下る。ここで正式の昼食。椛の湖で食べた量はあまり多くなかったので、ミニざる蕎麦ぐらいはまだ大丈夫。しかし、ここも評判のいい店らしく待たされる。ただしここは、店頭のノートに氏名と人数を書いておけば、その場を離れてもいいので、30分ほどと検討をつけてあたりを探検。

 

 ここは道の駅の一角になっていて、土産物販売のほか、蕎麦打ち体験などもできるらしい。またその裏手には、木曽川が滔々と流れ、その河畔には今を盛りと彼岸花が咲いていて、絶好の散策コースとなっている。

 
 
 何枚かの写真をスマホに収めた頃時間になり、食堂へ。結論を言うと、ここの蕎麦のほうが私には合っていた。また、ミニざる蕎麦なのに、普通とほとんど変わらぬボリュームがあって嬉しい誤算。一日に、二つの蕎麦が味わえるなんて最高ではないか。

 
      
 
 
 食後は、石の博物館「博石館」へ。ここは、石屋さんがはじめた石の造形物や関連する展示などのちょっとしたレジャーランド。いろんな石の造形物を巡って庭園などを回遊できるようになっている。石はアングルによっては面白いが、写真の被写体としてはちょっと物足らない。むしろ、そこで遊んでいる人たちのほうが面白い。
 
 最後に秋の花も少し。

 
 


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ポ〜ッと見ていたオルガンの秘密 日本・スペイン国交50周年記念コンサートへ行く

2018-09-24 15:00:35 | 音楽を聴く
 日本スペイン外交関係樹立150周年記念「音楽の花束」と銘打ったオルガンコンサートに行って来た。
 場所は岐阜サラマンカホール。何百年も故障したままだったスペインのサラマンカ大聖堂のオルガンを、岐阜にオルガン工房をもつ辻宏氏が見事復活させたのを機縁に、サラマンカ市と岐阜市が姉妹関係を結び、この音楽ホールが「サラマンカホール」と名付けられたとあって、冒頭のような催しにはうってつけの場所である。

          

 演奏者は、現在サラマンカ国立高等音楽院で古楽科主任教授などを務める、ピラ・モント・チカさん(女性)と自らオルガン設置などの事業に携わりつつオルガン奏者でもある後藤香織さん。

 アンコールも含めて、7曲の演奏だったが、4手のものや2台のオルガンのためのものは二人で、ソロの曲はピラ・モント・チカさんの演奏だった。
 曲目のほとんどがスペインの作曲家によるもので、不勉強な私が知らないひとの、知らない曲ばかりであった。
 しかし、オルガンの荘厳な音色は心地よく、とくに4手の場合の音の広がりは、オケにも相当するぐらいで、全身をその音響に包まれるような心地がする。

 プログラム最後の「日本古謡 さくらさくら(4手のための組曲)」はスペイン風のインプロビゼーションとカデンツァを含むもので、全体の構成としては組曲というより変奏曲といった感じであった。馴染みのメロディが、次々と異なる衣装をまとってたち現れる変奏の妙はやはり聴いていて楽しい。

          

 演奏された楽曲はむろん楽しかったが、このコンサートの第二部は、「スペインオルガンの秘密」と題したオルガンに関するレクチャーで、奏者の二人が、オルガンの基本構造、スペインにおける各都市とその設置状況などをスライドと実演を交えて聴かせるもので、これが楽しかった。

 無知な私は、オルガンなんてどれもこれも基本的には同じだろうと思っていたのが大間違いで、地方や時代によって大きく異なるとのことで、例えば、サラマンカのそれに見られる水平に突き出たトランペット管はスペインオルガンの特徴だという。
 さらには、何となくぼんやり観ていたオルガンの各種パーツの説明も目からウロコだった。
 例えば、鍵盤(サラマンカの場合は3段)の両脇に縦にならんでいるノブ(サラマンカでは60個)はストップノブ(音栓)といって、これによって音色を変えることができ、この操作次第では、鍵盤の中央から左右でまったく音色が変わってしまうこと、さらには足鍵盤(ペダル)は30鍵もあり、それにより、オルガンの左右にある巨大なパイプを鳴らすのだとのこと。

 その他、知らないことばかりで、少なくとも、鍵盤楽器が弾けたらオルガンも弾けるなどという生易しいものではないことは十分わかった。

          
      この白い部分がスクリーンで、演奏者の手元が映し出されていた

 このコンサートでもう一つ特筆すべきは、オルガン奏者は高いところで観客に背を向けて演奏するため、音は聞こえるものも、どのように演奏しているのかがピアノ演奏のようにはわからない。
 このコンサートではそれを解消する方法がとられていた。それは、演奏者の位置する高い演奏場所の下にスクリーンを設置し、それに斜め上方から撮ったその手元の映像が映し出されていたことである。これにより、ピアノのコンサート同様に、否、それ以上に演奏者の手元が鮮明に捉えられ、とりわけ4手の演奏などではそれぞれの手があるいは交差し、あるいは3段ある鍵盤を行き来するなど、その有様がよくわかった。

 オルガンと私との距離をうんと近づけてくれたコンサートであった。
 同時に、スライドで紹介された4台ものオルガンを設置しているというスペイン古都の大聖堂を訪れ、その4台の同時演奏を聴いてみたくなったりもした。
 帰途、程よい気候の中、私の頭蓋骨は、荘厳なオルガンの音色にすっかり満たされていたのであった。


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カタロニアの片田舎 ひと夏の経験 映画『悲しみに、こんにちは』を観る 

2018-09-20 16:05:58 | 映画評論
 『悲しみに、こんにちは』の邦題はいくぶんもって回った感じで、微妙に違うような気がする。原題は「Estiu 1993」で、Estiuはカタロニア語で夏だそうだから、つまり、『夏 1993年』ということになる。映画は文字通り、このひと夏の、フリダという少女を巡っての物語である。
 たぶん邦題は、フランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』を意識しているのだろうが、少女のひと夏の経験という共通点はあるものの、サガンの小説の方は17歳の思春期の少女の物語であるのに対し、映画の方の少女は就学前の6歳とあっては比較すべくもない。

             

 この少女フリダは、これが長編第一作というカルラ・シモン監督(女性)の分身であり、映画に描かれていることどもは彼女の少女時代の実体験に基づくものだという。
 この映画に関しては多少のネタバレがあっても構わないだろう。というのは、そうした「あらすじ」や「タネ明かし」などのストーリー云々を超えて、むしろ、細かなエピソードやその映像そのものが雄弁に語りかけてきて、それが映画の見所になっているからだ。

 バルセロナに住んでいたフリダは、その母の死により孤児となり、カタロニアの片田舎に住む母の弟(叔父)一家へ引き取られることとなる。その家族構成は、その叔父とその連れ合いマルガ、そしてその間の娘、3~4歳のアンであり、彼らはフリダを家族の一員として暖かく迎え入れようとする。

          
 
 しかし一方、フリダの方は、母に別れ、なおかつ都会から田舎への移住などの目まぐるしい変化のなかで、新しい家族のなかに編入されるのだが、当然のこととしてそこに馴染むには一朝一夕にゆかないものがある。
 さらにフリダには解けない疑問がある。どうして母は死んだのか、なぜ自分はその臨終の場から遠ざけられたのか、なぜ周囲は母の死を語るときヒソヒソと声を殺すのか、なぜ自分が怪我をして血を流したとき周囲の大人が慌てふためいたのかなどなど。 
 映画はそれらのシチュエーションを背景とした夏の日々の出来事として進行する。

          

 この映画において、フリダとアナにみられる子供の描写に卓越したものがあるということは特筆しておくべきだろう。
 フリダが有閑マダム風に扮し、アンがレストラン側になって行われる劇中劇のような「おままごと」は微笑ましいばかりだし、夜間の家出に失敗したフリダが「今日は暗いから、明日明るくなってからにするわ」と言い放つシーンは、緊迫した状況の後だけに妙にほっこりする。
 こうした思わず笑えたりするシーンがあるかと思えば、いくぶんスリラーめいたりサスペンスめいていて思わず息を飲むシーンなどが二、三度にわたってあり、淡々としたその描写がかえって起伏に富んだ展開を可能にしている。それらがとても自然に撮られていて、文句なしにその状況に惹き込まれる。

          
 
 子供を必要以上に可愛く健気に撮ったり、あるいは清純に見せようとしているわけでは決してない。子供をダシに泣かせたり感動させたりというあざとさもまったくない。逆に、子どもゆえの残酷さなども遠慮なく表現されている。にもかかわらず、いつの間にかフリダに感情移入し、揺さぶられてしまっているのだ。

          

 フリダに対して、もうひとりの重要な人物が叔父のつれあい、マルガである。「フリダの母になる」ことに揺るぎない覚悟で挑むマルガの存在こそ、もう一つのこの映画の見所だ。
 揺れ動く幼いフリダ、その振幅に妥協することなく、もう一つ大きな包容力でそれを受け入れてゆくマルガ、そのなかにはフリダに実子同様に接するがゆえの厳しいしつけの試みも垣間見える。ようするにそれは、母として受け入れてもらうための努力などではなく、常にすでに母として接してしまっているマルガがいるということである。だから、時折現れ、甘やかす一方の祖父母に対しては苦々しい思いを隠すことはないし、フリダへの接し方にもいらざる遠慮はない。

          

 ひと夏の間のいろいろなエピソードを重ね、フリダがいよいよ小学校へ入学(日本と違い秋が入学期)する前夜で話は終わる。家族全体でふざけ飛び回っているうち、いきなりフリダが号泣しはじめるのがそのラストシーンである。 
 そこには、母の死以来、ひと夏の緊張に耐えてきたフリダが、その緊張を脱ぎ捨てて新しい境地に向かう兆しがみてとれる。その意味では、これはカタルシスなのだ。だから、その泣き声のなかには、悲哀というよりある種の希望が宿っている。
 ほっこりしながらも、いろんな感慨を与えてくれる映画である。とりわけ、私のように里親のもとで育った人間には、フリダの一見不合理な行動の意味するところが、少しだけわかるような気がするのだ。

          

 カルラ・シモン監督、1993年に6歳とすれば、この映画は30歳を超えたばかりのものであろう。とても才能があるひとだと思って調べたら、この作品は2018年のカンヌ国際映画祭(是枝監督の『万引き家族』がパルム・ドールをとった)での、「ウーマン・イン・モーション」(映画界で活躍する女性をたたえる賞)を受賞しているほか、ベルリン国際映画祭新人監督賞、スペイン最高の映画賞、ゴヤ賞での新人監督賞などを受賞しているようだ。 
 
 映像をして語らせるという映画の鉄則を、みずみずしい感性で貫き通したこの若き才能に讃意を表し、その次回作もぜひ観たいものだと思った。
 以下に来日時のインタビューがあったので貼り付けておく。
 https://www.mine-3m.com/mine/news/movie?news_id=14771

 


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惜別:樹木希林さん

2018-09-17 16:39:11 | 日記
       

 1960年代はじめから活躍していらっしゃったので、女性の年齢に疎い私は、同年輩かあるいは上でいらっしゃると思っていました。実際には私よりも5歳若くていらっしゃったのですね。

 たくさんの映画でお世話になりました。私の好きな映画にはたいてい、出ていらっしゃったような気さえします。ここ10年ぐらいでも以下の映画でお目にかかりました。みんな、ちゃんと映画館でお目にかかりました。

*歩いても 歩いても(2008年)
*悪人(2010年)
*奇跡(2011年)
*そして父になる(2013年)
*あん(2015年)
*海街diary(2015年)
*万引き家族(2018年)

 とりわけ、「あん」でのあなたの立ち居振る舞いが印象に残っています。
 まだ未公開が2本あるそうですが、いずれにしても寂しいですね。
 あなたに代わりうる女優さんはいないように思います。
 闘病をしながらのご出演、お疲れ様でした。
 どうかゆっくりお休み下さい。

 
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引き裂く力に抗して 映画『判決、ふたつの希望』を観る

2018-09-15 15:27:29 | 映画評論
             

 レバノンを舞台にした映画である。したがって当然、レバノンの具体的な諸条件が背後にあるが、それが実に錯綜していて簡単ではない。ただ、70年代後半から約20年間、各勢力入り乱れての内戦が続き、それが現代にまで尾を引いていることは確かだ。
 現在のレバノンは、キリスト教徒の集団、イスラム教・スンニ派、同・シーア派などの勢力に比例する議員が選出され、それが中核となっている国家なのだが、それにイスラエルの拡張政策によって発生したパレスチナ難民、さらに近年は隣国シリアの政情不安による難民なども増え、決して安定しているとはいえない。

          

 そんな背景のゆえに、この映画で描かれるような当初は「個人的な侮蔑(この映画の原題はTHE INSULT=「侮蔑」)に端を発した小競り合いが、当事者の思惑をも越えて法廷にまでもたらされ、それが長引くことによって国を二分する勢力争いにまで膨れ上がる。
 そうした情勢は、当事者である自動車修理工場を営むキリスト教徒のトニーとパレスチナ難民で各種インフラ工事の現場監督であるヤーセルを、彼らの本意ではないところへまでもち上げ、それぞれを支持する側のヒーローに祭り上げられるに至る。

          

 法廷でのそれぞれの代理人(弁護士)による丁々発止のやり合いの中で、内戦時やその後に彼らが関わった過去の諸事件が、ある種のトラウマのように二人を捉えていることも明らかにされる。だからこそ、「当事者の個人的な」トラブルが国を挙げての勢力争いにまで発展し、ついには、大統領が仲裁役を買って出る事態になる背景は厳然として存在しているといえる。

          

 結局、それは法廷での結論に委ねられるのだが、その落とし所はまあまあ妥当といえるだろう。
 このように書いてくると、いわゆる法廷ドラマの感があり、事実、法廷場面がかなりを占めるが、それ以外の二人の出会いややりとりがけっこうあって、むしろそちらの方で「事実」は進展してゆく。
 ネタバレを避けるために遠回しな言い方になったが、つまるところ、事態は結局、この二人のドラマに収束される。それは同時に、悲劇の拡散を防ぐことにもなっている。現実にそんなにうまくゆくかなという思いは残るが、そのギリギリのところがこの映画のツボなのだろう。

          

 ところで、この映画の主人公は上に述べたようにトニーとヤーセルなのだが、あえてもうひとり(?)を挙げるなら、彼らをその当事者性を超えて引き裂く力といっていいだろう。それは、勢力争いの力、宗教やイデオロギーの力なのだが、その見えざる力を振り払うところにこの映画の眼目はあるようだ。
 法定外での二人の接触は、二人の当事者が、それを利用しようとする外在的要因(もうひとりの主人公=力)を振り払って、その当事者性を取り戻すドラマともいえる。

          

 「ヒューマンな感動作」というのが謳い文句だが、そのヒューマンなものはつねにより強大な現実的な力に晒されているのであって、けっしておいそれと一般的に可能なものではない。それを顧慮することなく、無前提のヒューマニズムを云々しうるのは、この国のように平和ボケした「一見」無風国家に住む者のみの特権なのかもしれない。
 
 トニーの「動」とヤーセルの「静」という二人の演技が光る。
 加えて、それぞれの代理人(弁護士)の男女の演技も。実はこの二人、ある特殊な関係にあるのだが、それは観てのお楽しみというところか。
 けっこう意外性に富んだエピソードが次々に出てきて、飽きさせない演出であった。

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藤田=Foujitaの肉声 声のユーチューバー?

2018-09-09 01:48:45 | よしなしごと
 画家・藤田嗣治の隠れファンである。別に隠れる必要はないが。
 画集などはあまりもたない主義だが、彼の全三冊のそれはもっている。絵もその生涯も面白いと思っている。
 3年ほど前、オダギリ・ジョーが演じた映画『Foujita』(小栗康平監督)も面白く観た。

          

 8日、午後5時10分から、NHK総合で「よみがえる藤田嗣治~天才画家の素顔~」という番組を観た。
 いろいろ面白かったが、1955年に日本国籍を捨てフランス国籍を獲得し、藤田嗣治から Leonard Foujita になり、さらにモンパルナスを離れてパリ郊外のヴィリエ=ル=バルクへ移住してからの最晩年がとても面白かった。

          

 この村で、彼の終の住処となったアトリエ兼住居は、現在、「メゾン=アトリエ・フジタ」として公開されていて、そこでの彼の佇まいを偲ぶことができるのだが、それがとても興味深い。

 例えばそこには、彼が当時聴いていたLPレコードが残されていて、その内容は浪曲であったり落語であったりする。それはまるで、彼のなかに残っている日本への郷愁が、彼を都合の良いように利用し放り出した近代や現代の日本に対するものではなく、それに先立つプレモダンなものであったことがほの見えるような気もするのだ。

          

 もっとも興味があったのが、彼が残したオープンリールのテープレコーダーによる肉声で、それらは単にマイクに向かって語るというのみではなく、彼自身の構成・脚本による一つの番組として、不特定多数の未来の人間、つまり私たちに聴かせるものとなっている。
 その聴かせ方はユーモア精神にあふれており、今風に言うならば、「声によるユーチューバー」ともいえるものだ。

          

 放映された限りでの内容では、ひとつは割合シリアスに、この声が永遠に残るように芸術も永遠に残ることを宣言している。
 もう一つはとびっきり面白くて、彼自身の脚本によるラジオドラマ風の設定である。「誰かが扉を叩いている」で始まるそれは、訪れてきた死神とFoujita 自身の掛け合いのドラマで、死神がもういい加減に逝こうと誘うのに対し、彼はいまひとつしたい仕事があるから待ってくれと応じる。
 
 その問答では結局、死神が折れてもう少し待ってくれることとなる。興味深いのは、その語り口が彼のもっていた浪曲のLPのその台詞部分の言い回しやイントネーションを彷彿とさせることである。
 もう一つ無視できないのは、彼が死神に猶予を乞う理由を具体的に述べていることである。それによれば彼は、これまでいろいろお世話になってきたことへの返礼というか応答の集大成として、ひとつのお堂を建てたいのだと明確に述べている。

          

 藤田=Foujita の伝記に詳しい方は、彼の遺作ともいえるものが、彼自身の設計によるランスのノートルダム・ド・ラ・ペ教会(通称シャペル・フジタ)であり、その内部にはFoujita の手になるステンドグラスやフレスコ画が描かれ、しかもその絵の中には、聖人などに混じってFoujita自身と、最後をともにした君代夫人が描かれていたことをご存知であろう。

 そうなのである。彼が上に述べた自作自演のドラマのなかで、死神に今なおやり残した仕事があるとその遅延を求めた仕事こそこのランスの礼拝堂だったのである。
 彼は律儀にも、死神との約束を守るかのように、その礼拝堂の完成後に体調を崩し、その翌年、81歳の生涯を閉じた。

             

 ところで、Foujita が自作自演のドラマで、死神と会話をしたのは彼の死の二年前、80歳を間近に控えた折で、彼は断固として「まだ為すべきことがある」とその誘いを断ることができた。
 いま私は、まさにその年齢である。いま私が、死神と同様の会話をしたとして、自分の命乞いをするどんな言い分をもっているだろうか。それをもっているとして、それはFoujita のように死神を納得させうる内容をもつであろうか。

 考えてみたら、自分の生涯とFoujita のそれを並列に置くこと自体が不遜であるというほかはないのだろう。
 凡人は生きるがままに生き、死ぬるがままにその生を終えるという当たり前を全うするのみである。
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台風21号 わが家の被害

2018-09-05 00:53:14 | 日記
 今回の台風では、私以上に大きな被害を被った方が数知れずいらしゃるから、ぎょうぎょうしく言いたくないが、心配してくれたひともいるので、事実を報告しておく。

 おそらく伊勢湾台風以来の風だったと思う。
 築50年以上の私の家は、大きく揺れて損傷が危ぶまれた。
 後でわかったが、岐阜市の最大風速は39.8mだったとのこと。
 
 そのまっ盛り、ガラガラバリバリッと大音響が。
 これはっと思って玄関の戸を恐る恐る開けてみると、強烈は風雨が顔面に吹き付ける。
 音の正体はと思ってみると、飛んできたトタンが、うちのガレージの愛車のすぐ後ろで、どっかにひっかかったままバタバタ舞っている。その先端は私の車から何センチかという近さ。

         
    このトタンの左部分が風に舞っていた 右が絡まっていたので車が助かった

 トタンを除きたいのだが、風に荒れ狂うそれに近づく勇気は流石にない。猫を追うより皿を引けで、車を動かすことにした。動かすといっても、後ろはトタンに抑えられているから前に幾ばくか進めるのみ。庭木にくっつくほどに前進し、やっと2、3m進めたのみ。
 これで安心ではないが、トタンがひっかかったままでいてくれればなんとかなる。

 その時、車の運転席から前方の道路脇にある縦横何メートルかの病院の看板が支柱からふうわりと剥がれ、舞い上がるのが見えた。もし、あれがこちらへ飛んできたら南無三と思わず目を閉じた。幸いそれは、10mほど前方の道路に着地し、私の車とは反対方向へズルズル吹き飛ばされていった。

 まだ、いろいろ気になるところもあったが、これ以上屋外にいると危ないと思って家に閉じこもってじっと耐えていた。もいちど、バリバリっと音がしたが、もし車がやられていても、もう仕方がないと諦めてじっとしていた。

         

 風が小休止してから恐る恐る表を伺うと、2度めのバリバリっとの正体がわかった。
 ガレージの屋根が飛ばされて穴があいたのだった。
 拙宅のガレージは、亡きつれあいと私の車の2台が置け、自転車や小物が置けるけっこう大きなガレージである。 
 この損傷をみるに、部分的な補修では済まないだろう。全面的に張り替えたらどれぐらいになるだろう。見当もつかない。これで年金の何ヶ月分かがとぶ。

 人間は自然から生まれながら、いまや自然の運行そのものに影響力を及ぼす存在になっている。しかもそれは明らかに悪い方向にだ。温暖化によって赤道付近の海水温度はいつにもになく上昇し、今年は台風やハリケーンが量産されるといわれている。
 自然の反逆による罰が自然災害だといえないこともない。しかし、その罰を被るのが、自然破壊にもっとも罪がある連中ではなく、私たち庶民であることはやはり納得がゆかないところである。


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