娘の勤める学童保育の学童に陽性反応が出たということで24日以降、娘は自宅待機に。
娘の自宅というのは、私が住まいするところであるから他人事ではない。自宅でもマスクは欠かせないし、距離を保ち、食事も別室、行動時間も時差付きという警戒ぶりだ。
問題は娘も感染しているかどうかだが、25日検査にでかけて以来、72時間を過ぎたが未だに検査結果が来ない。
私もまた、感染している可能性ありという前提で、周辺への影響も考え、24日以降、全く外出せず幽閉状態だったが、たまりかねて28日、必要最低限の用件のため外出した。
そのついでに、少し歩いた。ここ数日、家の中のみだから、一日、ン百歩しか歩いていない。ここに載せた写真は、その帰途、夕刻に撮したものである。
帰宅したら、旧知の釣り師から、新鮮な鯵が届いていた。夕食にその刺身を、残りは明日、ムニエルにするつもり。
親しい友人からの電話もあった。あまり細やかではない私の軽挙に対する様々な注意事項が。どこかに、私にものをくれたり、健康を気遣ってくれる友人がいることはありがたいことである。
徒然草の第百十七段を実感している。「よきとも、みっつあり。ひとつには、ものくるるとも。ふたつにはくすし。みっつには、ちえあるとも」
【今日気づいたこと】なぜ、カリフラワーはブロッコリーより高いのか。
買い物に出かける人はご存知だが、カリフラワーの価格はブロッコリーのほぼ倍ぐらいする。似たような野菜なのになぜだろうかと思っていたが、その謎が解けた。
ここに載せたのは今日の散策中に撮した写真だが、このカリフラワーの写真を見てほしい。
鬱蒼と茂った株の中に、隠れるようにしてカリフラワーが育っている。ブロッコリーの畑も見たことがあるが、それは遥かに小さな株で育つ。
つまり、同じような大きさのものでも、カリフラワーはブロッコリーの二倍以上の畑の面積を要するのだ。もちろんこの事実は、カリフラワーはブロッコリーの二倍美味しいということを意味してはいない。それは好き好きだ。
娘が勤める学童保育で、学童に感染者が出たというので、娘は自宅待機に!自宅待機と言っても、そこには私がいる。
一挙に風雲を告げる状況。できるだけ隔離しての生活を心がけているが、旧来の日本家屋ではそれにも限度がある。
問題は、接触者というだけで娘の感染、つまり、陽性・陰性が明らかでないことだ。待機になってすぐに然るべき場所で検査を受けたのだが、いろいろ殺到しているとみえて、48時間以上経った今でもその結果は出ていない!ただただ疑心暗鬼が募るのみだ。
困るのは私自身が外出できないことだ。もし、娘が陽性で、私にも感染しているとしたら、私がでかけた先で迷惑がかかる。
この検査結果の遅延、かつての保健行政の合理化に関連があると睨んでいる。私の居住する岐阜市には、かつて、中保健所を中心に、東西南北、それにプラスαで数カ所の保健所があった。しかし、今や岐阜保健所があるのみだ。
これは岐阜のみではない。維新の牙城・メガシティの大阪市でも、保健所は一箇所しかない。これでは保健行政が捗るはずはない。
そこへもってきて今朝の新聞報道だ。第三回目のワクチン接種は、欧米がほとんど50%以上、お隣の韓国も50%以上なのに対し、この国は、なんと2.3%で世界最低だというのだ。
念の為、岐阜保健所へ私の場合を問い合わせてみたら、昨年七月に第2回を接種しているのなら、2月以降になりますとの返答。
何ということだ!コロナ対策に関しては、この国はもはや最後進国なのだ!
岸田くんよ!「新資本主義」などという一般的・抽象的で無内容な言辞をほざいていないで、コロナ対策を真面目に進めてはどうだ!
ようするに彼の進める「新資本主義」は効率主体の新自由主義的方策で、国民の健康や、格差の拡大はお構いなしということが如実になって来たということだ!
ところで、明日の夜までひとつ屋根の下、できるだけ接触を避ける形で過ごさねばならない。難儀やなぁ。
バスで岐阜駅へ。途中、加納宿の奇祭、「玉性院の節分吊り込み祭り」を告げる10mを超える巨大な赤鬼像を車窓越しに撮す。これと同様の像がもう一体、加納宿に設置されている。
JRで名古屋へ。普通、読書で乗車時間を過ごすが、2箇所では書から視線を外す。
そのひとつは県境の木曽川鉄橋。川の流れの様相、水鳥の遊ぶ様などを観る。川の流れる経路も様々に変わる。かつて、ルアーを投げる練習をした深い淵は、今ではすっかり河原になってしまっている。
ついで目を上げるのは稲沢駅。ここはかつて、日本三大操車場と言われただけあって、その様相をしっかり残している。もはや、旅客列車を牽引することがなくなった様々な型式の電気機関車や、貨物車両を観ることが出来る。
国鉄時代のヨ8000型の車掌専用車両ももはや使われないままにそこにある。
名古屋へ着く。今日の目的、読書会の会場は名古屋駅から徒歩の範囲内にある。途中で六地蔵ならぬ五地蔵を見かける。「名駅島崎地蔵尊」というらしい。
後で調べたら、「愚痴聞き地蔵尊」で衆生の愚痴を聞くらしい。私は愚痴もルサンチマンもあまり語らぬ方なので、縁がないのかもしれない。
それを写真に収めたりしているうちに会場がわからなくなってしまった。先に到着しているメンバーに電話し、迎えに来てもらう。これだから老人は情けない。
さて肝心な読書会だが、内容は我が青春の総括に関すること。私が迷路にぶつかりながら逡巡していた時期を、まるで俯瞰するかのようにスイスイと述べ立てる絓秀実。う~ん。
二次会でのメンバーの述懐も興味深いものがある。
帰路、岐阜駅でまだバスがあったのでそれに乗る。ただし、自宅からやや離れた停留所を通る路線。そぼ降る冷たい氷雨のなか家路につく。
疲れた割に寝付きが悪い。いつのも睡眠剤を服用するが、しばらくしても根付かれないので、後追いでもう一錠を服用。
複雑怪奇な夢を見たが、詳細は覚えていない。
なんとかそれをクリアーしたが、かと言って急に何かが書けるわけではない。
そこで、ここ2,3日、スーパーへの往復などで撮った草木たちの写真でお茶を濁しておく。
柿の老木
こちらは梅
桜
もみじ
杉・1
杉・2
楠
躑躅
紫陽花
蒲公英の紅葉
蒲公英の紅葉のそばで青々としているのは?
蒲公英の紅葉のつらなり
菫の黄葉
わが家のイントロ
わが家の雪柳の黄葉
11日、いつものクリニックへでかけた。
別に悪いところはないのだが、薬をもらうために二週間に一度は行く。十数人座れる待合室は、私の行く午後4時からの時間帯にはいつも2,3人しかいないのだが、この日は連休明けのせいか7,8人がいて、ひとつずつ席を空けるのがやっとだった。
ああ、こんなに混んでるのだったら本を持ってきてよかったなぁとそれを読み始める。はたせるかな、自分の番はなかなか来ない。でも、何人かが診療室に呼ばれ、そろそろ自分の番かなぁと思っているときそれは起こった。
中年と思しき女性が一人、受付カウンターへ来て、「すみません、風邪のような症状なのですが・・・・」。
受付の女性が即、立ち上がり、「すぐ外へ出てください。こちらから行きます」と彼女を外へ出した。
やがて、クリニックのスタッフが外へ出てゆく。
診察が済んで帰ったひともいたが、新しくきたひともいて、待合室には相変わらず7,8人がいた。それらの人々の間にピ~ンと緊張の糸が張りめぐされるのがわかった。私だって、悠然と書に目を通してはいられなかった。
ん、ん、これは、という疑心暗鬼が駆け巡る。
その直後、私の番が来て診療室へと招かれる。
とくに変わりはないことを告げ、いつもの薬を依頼する。
血圧を測りましょうということで、その結果は高い方が140。いつもは130で収まっているのでやや高い。先程の待合室での緊張のせいだろうか。
診療時間は3分ほど。待合室でしばらく待ち、診察代と処方箋をもらって外へ出る。駐車場にエンジンをかけたままの車が一台。先程の女性とその連れ合いとおぼしき男性が乗っている。
おそらく、緊急検査の結果を待っているのだろう。
それを横目にすぐ近くの調合薬局へ。待つこと約15分、所定の薬を受け取り帰途へ。
帰りにクリニックの前を通る。先程の車はまだ停まっていて二人とも車中にいる。ちょうど私が通りかかったとき、クリニックからスタッフが出てきて車の方へ。検査結果が出て、それを伝えに来たのではないだろうか。
その結末を知りたいとは思ったが、そのためになにかするほど野次馬根性が旺盛ではない。あとは想像の世界に任せてその場を離れる。
ところで、風邪の症状が・・・・と言っていたが、それは彼女の方だったのだろうか、それとも連れ合いの方だったのか。まあ、お互い濃厚接触者なのだから結果は一緒だろうが。
それにしても、あの待合室での緊張の場面、渦巻く疑心暗鬼の念は忘れがたい。コロナ禍の初期、他所からの車や人の移動に敏感になったひとが、その他所者へ危害や加えるような排除工作があったことが伝えられ、なんと狭量なと思ったりもしたが、これまで述べてきた過程からして、それもあり得ることがなんとなく理解できる。
この他者の一挙手一投足に過敏にならなければならない状況、逆にいうと、人前では咳やくしゃみすらまともにできないという自粛の強制が三年目に入った。
若い人には人生にはこんなこともあるといういい経験かもしれない。しかし、私はその人生をもう終わろうとしているのだ。だから、いい経験などとは言っていられない。
私がものごころついたとき、戦争の真っ最中であった。そして死んでゆくときには、コロナが残された可能性をほとんど閉ざすとしたら・・・・。
な~んて愚痴をいいながら私は生きてゆく。
セ・ラ・ヴイ!
*写真はクリニックへ行く途中で撮した雨が上がりの水たまりへの映り込みの風景。
ごく当たり前のことだが、一つの事象はそれに先行する事象によって起こり、前者は後者の痕跡となる。だから私たちの周辺にある事象は先行するものの痕跡としてある。
その先行するものも、さらにそれに先立つものの痕跡だとしたら、この先行探しは、今から138億2千万年前のこの宇宙の始まり、ビッグバンへと至るのではあるまいか。逆に言うと、ビッグバンこそがすべての事象を可能にした始点であるといえる。
前線が通過した後の痕跡
ある意味、これはその通りなのだが、では今私たちが眼前にしている事象、そしてそれらの今後の推移もすべてビッグバンに予め書き込まれていたものの発現にすぎないのかというとそうではあるまい。すべての未来がすでにして書き込まれているものの現れであり、私が何を意志し、どんな行為を選ぼうが、それは書き込まれていたものに従った演技にしか過ぎないとしたら、私たちは深いニヒリズムに捉えられる他はない。
実は、近代においてこの関係をもっとも深刻に受け止めたのがニーチェだった。
ときあたかも、近代的合理主義と一神教的形而上学が相まって、世俗的な面から聖的な面までもが決定論的に語られるなか、その背後にあるニヒリズムを嗅ぎ取り、その脱却のために考え出されたのが、ニーチェの「永劫回帰」だった。
ただし、当初の「永劫回帰」はいわばニヒリズムの局地であった。始めも終わりもなく、同じ運命が永遠に繰り返されるとしたら、「一切はむなしい、一切は同じことだ。一切はすでにあったことだ」。これほど虚しいことはあるまい。
にもかかわらず雪が降った痕跡
しかし、ここでニーチェはクルリと体を躱すようにして「前を向く」。「よろしい、ならばその生をなにか本質的なものから疎外されたものとして忌避するのではなく、まさにわが運命として引き受けようではないか」。ようするに、どこかに他の運命がと漠然と期待したりするのではなく、まさにこの運命をわがものとして引き受けそれを肯定してゆく「運命愛」の発見である。
こう書いていても私自身、よくわかっているわけではない。論理の飛躍もあるだろう。
しかしこれは、いわゆる運命といわれるものを受動的に甘受せよというわけではあるまい。
痕跡の痕跡の痕跡・・・・という連続のなかで、私自身はその痕跡の一つに過ぎないのかもしれない。しかし、その痕跡の痕跡の痕跡・・・・という連続のなかで、私自身が新たな痕跡の創始者、あるいは変革者たりうるかもしれない。
これは何の痕跡かはむつかしい わが家の近くのスミレの群落の黄葉
それを説いたのはハンナ・アーレントであった。
私たちは先人が築いた痕跡の集積の中へと生み出され、それを受容しながら生きてゆく。しかし、私たちが単に受け身の消費者にとどまらず、なにか「活動」に相当するような行為としてそれらの痕跡に能動的に関わるとしたら、既存の痕跡の変革者、新しい痕跡の創造者たりうるかもしれない。
これはニーチェの運命愛の否定ではなく、本当に自分の運命を愛するということはどういうことかを展開したかのように思わせる。
ビッグバン以来の過程で生み出された人類は、まだ宇宙環境そのものを対象とした面では何の能動的成果をも挙げてはいないが、近年の「人新世」の概念が示すように地球規模での環境を左右しうる手前まで来ている。それらの気づきが、人間による積年の地球環境破壊の結果であるというのは皮肉ではあるが・・・・。
わが家のガレージ近くの白南天 晴天の痕跡陽が落ちゆく
しかし、ハンナ・アーレントの主著のひとつ、『人間の条件』(ドイツ語版を底本とする日本語訳は『活動的生』)が、ガリレオによる望遠鏡の発明や、執筆時の人工衛星スプートニクなどを冒頭に掲げ、地球そのものが人間の対象となった時代(1950年代後半)を出発点としていることは象徴的でもある。
私たちは先人の産み出した痕跡の累積のなかで生きている。
それをどう捉えるのか、それに何かを加えたり変えたりができるのであろうか。それらは宇宙規模での痕跡には無力であるかもしれないが、地球規模での痕跡にはなにがしかの付与、変革を可能にするかもしれない。
さらに何世紀か後、AI に先導された人類が、地球規模を超えて宇宙規模での力を発揮し、ビッグバン以降の歴史を変革するという物語が可能かもしれない。しかしこれは、今のところSFの世界の話であろう。
現実の私は、次のゴミ出しはいつだったっけ、年末から年始にかけ、酒類を飲む機会も多かったから、ビンもけっこう溜まってる、これを出す日は、などというレベルで生きている。
【付:わが食欲の痕跡】
今年初おでん。今日明日の連休はこれに青野菜、他に若干のもので凌ぐつもり。
はじめて関東風の白いはんぺんを使ってみたが、これが始末に負えない。出汁に浸かるというよりプカプカ浮かんで移動する。いつものように、鍋のなかの各具材をきちんと整列させにくい。次から入れてやんないから。
味はいいと思うよ。
NHKBSで宝塚雪組公演『fff-フォルティッシッシモ-~歓喜に歌え!~』を観る。
一昨年のベートーヴェンイヤー(生誕二五〇年)を受けて、昨年の1月から行われた公演の放映とのこと。
とくにこれを観ようと思ったわけでもないが、たまたまTVをつけたらこれをやっていたので、つい観てしまった。
物語はベートヴェンを主軸に、ゲーテ、ナポレオンを絡ませたもの。
ベートーヴェンはナポレオンに幻想を持ったが、彼が皇帝を名乗るに至り、それに激怒して絶縁するという交響曲第三番絡みの話はよく知られていて、これにもそのくだりは出てくる。
しかし、ナポレオンとの関係はそれで終わったのではなく、彼が戦に敗れ、コルシカ幽閉後と思われるシーンでもう一度登場する。
その際の彼の告白が面白い。
彼がヨーロッパ全体に戦線を広め、さらにロシアにまで戦を仕掛けたのは、それらの地域を平定し、そのヨーロッパを中心とした地域では、誰もが自由に交流し交易し、ともに手を携えて生きて行ける一種の共栄圏を目指したからだというのだ。
えっ、えっ、これって現行のEUの先取りじゃんと驚く。
しかし、私たちは、軍事力に依拠した地域統合に伴うもうひとつの悪夢を知っている。
戦前のこの国での、軍部を中心とした大東亜共栄圏のあの悪夢、具体的にいえば、三〇〇万人の日本人、二,〇〇〇万人の近隣諸国民の死しか生み出さなかったあの統合への野望・・・・。
なお、主演級のゲーテは、時折、啓蒙的な台詞を放つのだが、なんとなくインパクトに欠けると思った。
ひとつ気になるのは、モーツァルト、テレマン、ヘンデルが三人揃って狂言回し風に登場するのだが、彼ら三人はベートヴェンにとって、王侯貴族をパトロンに持つ古い音楽家として忌避の対象となっていることである。彼は三人のような音楽家を封建制に囚われたものとし、自分を市民音楽家と規定している。
しかし、これは時代背景を無視した暴論でもある。彼ら三人の時代には、音楽消費者としてのブルジョワジーはまだ生育しておらず、それはベートーヴェンの時代、一九世紀はじめを待たなければならなかったのだ。
この三人のうち、一番若いモーツァルトはザルツブルグの大司教コロレドと決別して以後、ウィーンを拠点に市民音楽家を目指し、自主プログラムによる演奏会を試みたことはよく知られている。
またその努力の過程でのシカネーダーとの交流のなかで、晩年の傑作オペラ、『魔笛』が生み出されたのも周知のところである。
ようするに、一八世紀後半と一九世紀はじめでは、ブルジョアジーの隆盛により音楽市場そのものが変化していたのだが、それをこの公演ではベートーヴェンの個人的努力に還元してしまっている。
宝塚公演に戻ろう。
ベートーヴェンにつきまとう「謎の女」が終始現れる。どうやら彼女は、ベートヴェン以外のひとには見えないらしい。そしてまた、ベートヴェンが聴覚を失って以降も、彼女の声のみは聞こえる。だから彼女が通訳のような役割を果たすこともある。
ベートーヴェンに対し主張すべき点はそれとしてちゃんと述べる。
この女性は何なのか?、彼にも、そしてそれを観ている私たちにもわからない。
しかし、あるとき、ベートーヴェンは気付く。
「そうだ、お前は私の運命なのだ!」 ダ・ダ・ダ・ダ~ン! 運命は扉を叩くのではなく、まさに彼の身近にいたのだ!
二人は抱擁する。
このくだりは、ニーチェの「運命愛」に相当するのかもしれない。
あらゆるルサンチマン(=怨恨)を排して自分の運命を「ヤー」と肯定し、それを引き受ける。
もちろんそれは、単純な受忍ではない。自己をその運命を生きる主体として自覚しつつ、その変遷の過程をも見据えてゆこうとする自己自覚の過程でもある。
こうした過程を、きらびやかな衣装と豪華な装置、華やかな歌声とダンスに託して展開する宝塚は、意識してリアリズムを廃し、夢想の美を対象化した舞台として実現するのだから、私のような鑑賞の仕方はそもそも場違いなのかもしれない。
いろいろ苦言めいたことを述べたが、なかなかおもしろかったのは事実である。
【付言:モーツァルトとベートーヴェン】
この宝塚公演では、ベートヴェンはモーツァルトを厳しく批判したことになっているが、現実にはそうではなかった。ベートヴェンは一六歳の折、モーツァルトに弟子入りすべく、ボンからウィーンへやってくるのだが、運悪く、その折、母が急逝したため、急遽ボンへと戻らねばならなかった。
その際に、モーツァルトと会うことができたのかどうかは不詳であるが、ボンへの帰郷後、再び条件が整ってウィーンへ出た折には、もはやモーツァルトはこの世のひとではなかった。
ベートーヴェンはモーツァルトへのオマージュともいうべき曲も書いている。
モーツァルトの「魔笛」から「娘っ子でも女房でも」の主題による12の変奏曲 と、同じく「魔笛」からの「恋を知る殿方には」の主題による7つの変奏曲 などがそれである。
ベートベンが、別にモーツァルトを忌避したのではないもう一つの証は、ウィーン中央墓地の楽聖地域にある。この一帯は音楽家の墓が集中しているのだが、ひときわ目立つ場所にモーツァルトを象徴する像が建ち(墓ではない。彼の墓は別のところにある。共同墓地に放り込まれたというからそれも怪しいのだが)、向かってその右側にはシューベルトの墓が、そして左側にはベートーヴェンの墓が鎮座している。自分が亡くなったら、モーツァルトの傍らにという遺言に従ったといわれている。
一九九一年、私がこの地を訪れた折、それら墓の周りを、リスたちが駆け回っていた。
【年頭の反省】若い頃以来、頭っから不必要としてすっ飛ばしてきたことどものうち、今となって「穴」として自覚されることがとても多い。