書名は『藤田文江全集』。1908年から33年とわずか24歳の短い人生を駆け抜けたこの詩人は、生前、1冊の詩集(『夜の聲』1933年)を残すのみであった。しかもその詩集の初刷り300部は、彼女の通夜の席に届くという劇的な生涯であった。
もちろん、今回の全集にはその『夜の聲』はまっさきに収録されているが、その他の彼女の作品や散文、手紙などは、当時発刊されていた各詩誌などさまざまな媒体に発表されていて、このままでは散逸は免れがたいものであった。
それらを長い年月、全国津々浦々まで足を伸ばし、収集し、一冊の冊子で目にすることができるようにしたのが谷口氏の今回の仕事であった。氏によって集められたそれらの諸資料は、『夜の聲』掲載詩などの2倍以上に達する。
繰り返しになるがそれらは時代とともに蒐集が困難になり、散逸の危機にあったものであり、その収集復元それ自体が文学史上、詩壇史上の一大功績といわねばならない。
さらには、谷口氏が調査するなかで明らかになってきた彼女の生前、死後のさまざまな痕跡が年譜としてまとめられている。
彼のそうした緻密な調査の結果のひとつとして、2020年に収録された藤田文江の末妹・林山鈴子さんとのインタビュー記事も興味深い。
これらすべての作品、資料が、居ながらにして一望できるようになった成果は何度強調してもし足りないほどだ。
書の後半は、谷口氏による「解説」と題されているが、これはたんに氏が蒐集してきた藤田文江の作品、ないしはそれにまつわる諸資料の説明に終わるのではなく、藤田文江に触発された谷口氏自身の詩壇史への見解、詩論が、一般論ではなく、藤田文江の作品に即して具体的に、しかも熱く語られている。この谷口氏自身の表現への情熱と、藤田のそれとがあるときには互いに融合し、またあるときには格闘し合っているかのようにもつれながら展開される叙述は、もはや通りいっぺんの「解説」にとどまらないことは明らかだ。
おおよそ100年近く前、この国が戦争へと歩み始めた折に詩作のピークを迎える藤田の詩風を、ひとまずモダニズムと捉えながら、谷口氏はそこにとどまらない藤田の詩の力を見出してゆく。
圧巻は、藤田の先行者と目される萩原朔太郎の作品、「竹とその哀傷」や「竹」(1917年)と、藤田の「五月の竹林にて」(1932年)を対比させながら、その差異、藤田の側からの脱構築的批判の姿勢、あるいは藤田の詩にある時代そのものへの違和感などを析出してゆくくだりで、果たせるかな1938年に至って「日本主義への回帰」を行うその後の朔太郎を知っている私たちに、藤田の詩に内在する確かな地盤、その言葉の重力のようなものを指し示してくれるにじゅうぶんな記述である。
最後に、その藤田の「五月竹林にて」を紹介してこの小文を終えるが、表記の都合上、その行間表示などは、オリジナルと異なることを許してほしい。
「五月の竹林にて」
白い紙が流れている。
おびただしいその紙が
何処に流れてゆくのか
私には何もわからない。
時折しぶきの様な風が
優しい眼を動かしてすぎる。
月日というものは
この竹林(くに)の何処にもないらしい。
明るい磨いた鏡のような
*
美しい竹林(せいねん)がにこにこ笑って
立っている。
その青い肉體を
私は愕いてみまもるばかりだ。
たとへ花の様な少女が
これが死んだにしろ
彼はやはりにこにこしてゐるにちがひない。
全く泣くよりも笑ってゐたほうが
お互いの生活は明るくなるのだから。
よしんば窶(やつ)れて
一本の繊維のみになるにしても。
*
手を叩けば
一せいにふりむく無邪気な林だ。
私は一粒の米のように寂寥である。
過去、現在、未来に
開花し 開花するであらう
悪の華を吊すには
この竹林(くに)はあまりに明るすぎるのだ。
何故天は上にあり
何故土は下にある
何故月は上にあり
何故水は下にある
又、
人は何故蛇の様に孤独を寂しがるのだ
そして又、
夜何故水は月を抱いているのだろう。
詩集「夜の聲」より