六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【六でも出来るおせち料理】

2007-12-31 23:00:27 | よしなしごと
 六の作ったおせちです。
 伝統的な田舎料理で、なんの目新しいものはないのですが、まあまあの出来でしたので、アップしてみました。
 これがほんとの最後です。
 皆様いいお年を・・。

 
 まずは全体像です。

 
 野菜とコンニャクの煮〆です。

 
 左から、百合根、たつくり、酢蓮根、きんぴらゴボウ

 
 玉子だし巻き 真ん中は黒豆 手前は赤カブの切り漬け

 
 再び全景

 他に数の子他。
 いや~、疲れた。

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初詣前のお宮と六の時事川柳

2007-12-31 03:54:32 | 川柳日記
 名古屋駅裏の椿神社です。
 いちばん名古屋駅に近いかなぁ。
 もう一つ南にあるのも近いが。
 やはり初詣は多少賑わうのだろうか。

 

 何年か前、除夜の鐘が鳴った途端、犬を連れて近くの集落を巡回し(うちは郊外なのです)、三つの小さな鎮守様を梯子したことがあります。
 住民がパラパラとしか来ないお宮さんですが、当番の人たちがかがり火を焚いて甘酒でもてなしてくれました。
 予定より多く作りすぎたのか、あるいは思ったより人が来なかったのか、おかわりまで勧めてくれてすっかり体が温まったことを覚えています。
 あの時の犬が亡くなってから、もう何年も経ちます。

 今でもあのひっそりとした神社で、土地の人たちはかがり火を焚き、甘酒を振る舞っているでしょうか。
 往復何キロもある夜寒の中、それを確かめに行く元気がもはやないのが悔やまれます

 


<今週の川柳もどき> 07.12.31

 不始末の処分に新しい役所
  (耐震や食品偽装を監視する消費者省だって。
   監督官庁の怠慢を新しい役所でカバー?
   この国は役人天国ですねぇ)

 下手すれば修学旅行になりかねぬ
  (福田首相訪中)

 アメリカが通ればそこはみな荒地
  (パキスタン、アフガン、イラクetc.)

 人口に迫る携帯契約者
 携帯を持たぬはもはや犬と猫

 真央と美姫・友加里もみんな名古屋の娘(こ)
  (全日本フィギアのメダリスト。
   私、由加里ちゃんのファン、普通の子っぽいから)

 故郷への土産厳しく吟味する
 お袋よこれは偽装でないはず

 こんな年手放したいと亥が急(せ)かす
 引き継ぎをためらっている子(ね)の本音

 
御礼の言葉
 一年間、いろいろ書き続けてきました。
 今年はこれでお終いです。
 お読みいただいた方に感謝致します。
 そうでない方も含めて、新しい年が皆様によいものであれと祈念致します。
 ありがとう。そしてこれからもよろしく。


年末特別付録
  映画『実録・連合赤軍』に触発されたおセンチな寝言

   浅間にも雪積もるらし凍てついた銃持ち往きし若者ら思う
   殺さるも殺すも哀れもろともに我が胸広げ抱きてやりたし



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【実況・カラスの忘年会】

2007-12-29 17:37:08 | よしなしごと
 私の家の隣の田圃で、カラスたちの忘年会が行われました。
 カラスたちのお喋りを聞くとはなしに聞いていると、おおよそこんなことが話し合われたようです。

 まず、鵜の真似をするカラスがいいました。
 「今年の一字はらしいが、そんなことされたら、私の立場がないではないカァ~。それに偽装をしたところがドンドン復帰しているらしいが、今度は大丈夫カァなぁ?
 今鳴いたカラスがもう笑ったりしてるンじゃあないカァなぁ」

 
 
 続いて、ゴルフ場から来たカラスがいいました。
 「イヤー、官僚のトップで忙しいはずなのに、よくあれだけゴルフが出来るなあと思っていたら、あれが仕事だったんだなぁ」
 「エ、あれが仕事だったのカァ~?」と純情カラスが尋ねました。
 「そうだとも、あそこで日本の次期装備が決まってたのを知らないのカァ~」
 「すると、ゴルフのスコアーに合わせて次期兵器の規模や数量をどうすのカァが決まっていたのカァ~」
 「もちろんそれだけじゃあないさ。決定的なのは、袖の下だカァらなぁ」
 「そんな腹黒いことをしていたのカァ~。おれたちよりもまっ黒じゃぁないカァ~」
 「でも、もっと黒い奴が上にいるって話だカァらなぁ」
 「しかし、それって闇カァら闇だろう?これがほんとの闇夜のカラスだなぁ」

 次は、永田町から来たカラスです。
 「何たって、話題が多すぎるカァらなぁ。選挙で負けたオボッチャマンが、もう辞~めたって内閣をほっぽり出したのも今年だろう。小沢とカァいう人がナベツネの口車に乗りそうになったのもつい最近じゃぁないカァ~。
 何せ、次カァら次へといろんなことが起こりすぎるカァら、ひとつひとつの事態がちゃんときわめられることなく、カラスの行水で通り過ぎてしまうんだよなぁ」

 ワイドショー・カラスもいいました。
 「そうだよなぁ、カラスの鳴かぬ日はあっても凶悪事件がない日はないカァらなぁ。それらの背後を見て行くと、無知や貧困、ワーキングプアーなどの格差社会がはっきり見えて来るんだカァらなぁ」

 

 カラス一同は暗い話ばかりにうんざり気味です。
 そこへ、マリア・カラスがやって来ていいました。
 「何よ、みんな暗い話ばっかりで。じゃぁわたしが歌でも唱ってあげるわ」
 マリアねえさん、さすがにお歳で、カラスの足跡などが目立ってきました。
 でも、往年の美声で『カァルメン』から「ハバネラ」などを唱いました。

 恋は野のカラス 気まぐれ 気ままよ
  呼べど 招けど あちら向くばかり
  手管こわもて 何の役に立つとぞ
  恋知らぬ人に すりよる恋カラス

   おゝ 恋
   おゝ 恋
   恋はジプシーの子よ
   法も理屈もなしよ
   すげなくする人に
   あたしは焦がれる
   でもあたしに思い込まれたらば
   ご用心
   ご用心しなさいよ

 

 それを聴いた純情ガラスがいいました。
 「マリアねぇさん、それってちょっと歌詞が違うンじゃぁないカァなぁ?」
 「どこがよ~」
 「カラスって歌ったところ、ほんとはじゃぁないのカァなぁ?」
 「いいのよ、烏も鳥も一本線があるカァないかで大した違いじゃぁないカァら」
 「でもそれって偽装じゃぁ・・」
 「いいのよ、これっくらい。豚肉やパンくずまで混ぜた牛ミンチや廃鳥を比内鶏に仕立てたのに比べたらおとなしいものよ。さ、次の歌にゆくわよ」

 カ~ラ~ス~ なぜ鳴くの~
  カラスの勝手でしょ~

 どうもカラスたちの忘年会は、辛辣な話や他愛もない話を交えて、延々と続くようでした。
  



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映画『実録連合赤軍』を観る

2007-12-27 03:39:02 | 映画評論
 若松孝二監督の『実録連合赤軍』を観た。
 私はこれを、映画の良否の問題として語ることは出来ない。「作品」として、距離を保つことが困難なのだ。
 むろん私は当事者ではないし、年齢的にもほぼ一世代の隔たりがある。にもかかわらず、どこかで、しかも逃れようがない倫理的な面で、ある種の繋がりを感じてしまうのだ。それは、私の側からの一方的な関連づけかもしれないのだが。

 映画は大きく分けると三部に別れる。まさに私の時代であった60年初頭から、様々な経緯を経て連合赤軍が形成されるまでの過程、ついで、彼らの武装路線が具体化し、山岳アジトにこもっての軍事訓練といわゆる「総括」の場面、そして最後の浅間山荘での銃撃戦とその終結までである。
 これらの中で、もっとも重いのは真ん中の山岳アジトでのシーンであろう。若松監督も、この部分を丁重に撮っているように見える。
 「共産主義的主体の形成」の名のもとに行われる「総括」は次第に凄惨なものとなり、ついにはリンチ殺人に至る。解放の名のもとでの人間の根底的な否定!

 ここには、この時代の「反スターリニズム」の限界が集約されているように思う。彼らは、既成の左翼、とりわけ革命主体を僭称する共産党とその国際的なバックとしての旧コミンテルン体制を、抑圧の体制に過ぎないとして切って捨て、その前衛の座に自分たちが付くことを夢見る。
 しかし、彼らは既成の左翼をどこで切ったのか、既成の左翼が抑圧の体制であることをどの次元で批判したのか。
 その戦術的な曖昧さ、党組織の官僚的な硬直化、組織成員の革命主体としての弱さ、そんなレベルでそれを批判し、乗り越え得たと思ってしまったのではないだろうか。
 確かに既成の左翼は、上に述べたレベルでも十分に批判さるべきだったろう。しかし、にもかかわらず、彼らが無謬の前衛党を名乗り続けることが出来たのは、その背後に彼らなりの確信があったからである。
 いわく、「世の中には唯一の真理、唯一の正義があり、それは常に既にわれわれのもとにある」という形而上学ともいえる思想的なバックである。

 いわゆる新左翼は、このレベルでの批判を展開し得なかった。そして、そこが抜けていたからこそ、自らもまた、「より真面目でストイックなスターリニスト」たらざるを得なかったのだ。
 彼らが、既成スターリニストの思想的バックボーンを以下のようにさらに強化した。
 いわく、「世の中には唯一の真理、唯一の正義があり、それは常に既にわれわれのもとにある。したがって、そのためには自他共に死を厭わず」。
 つまり、そのためには、人を殺しても、また自らが死すことも恐れないということである。
 映画の中での、「共産主義的主体の形成」という総括の題目は、上に述べたテーゼを実践しうる主体の形成ということに他ならない。
 もとよりこれは、旧ソ連邦などにもあったものであり、スターリンの支配下で、その中央委員の三分の二が粛清(処刑)されているという歴史的事実があり、彼ら連赤のそれは、そのカリカチュアライズでもあったといえるかもしれない。さらに、その連赤のカリカチュアライズとして、オウム真理教を数え上げることも出来るだろう。

 この時点で、彼らを批判することはある意味では容易であろう。しかし、それを単に常軌を逸した挙動であるとして私たちの歴史から抹殺することは二重の意味で許されない。
 ひとつは、彼らが批判しようとして自らそこへと到達したスターリニスト的原理主義は、様々に形を変えて現存しているし、それが情勢の動向に従って、容易に牙をむくことがあるからだ。いわゆる「全体主義」的趨勢は、人の歴史に張り付いたものとしてあると思った方がよい。
 いまひとつは、人はパンのみに生きるにあらずとして、何かを志向しようとする若者たちはいつの世にもいるものであり、それ自体を笑い飛ばすことは出来ないということだ。
 連赤もまた、当初は閉塞した世界に異議申し立てをし、解放を志向する若者たちの集団であった。にもかかわらずそれ自身が、まさに抑圧や人間の根底的な否定に至ってしまうのは、歴史のアイロニーという他ない。これは重い。
 
 虚しく山中に埋められた若者たち、あるいはその周辺で命を散らしていった人たち、私はなにがしかその責めを担った者として、彼らに深甚な合掌を捧げる。

<追記>映画の感想らしいことを付け加えれば、森 恒夫役と永田洋子役が好演。容赦なく総括を迫る永田が、森と一緒になり、事実上の夫であった坂口と別れる際の、ほんのわずかな表情の崩れの中に、何かしらホッとしたものを感じた。

              


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【ビヴァ! 年末のロリータ!】

2007-12-25 17:27:04 | 書評
「暮れの忙しい時期、まだろくすっぽ年賀状も書いてないのに、何読んでるのかと思ったら『ロリータ』かい?
「そうだけど何か?」
「何かじゃないよ、遅すぎるんだよ。この小説は1955年に出版されているんだぜ。そして、それが評判になり精神病理学ではロリータ・コンプレックスという言葉まで生まれ、一般的にもロリコンというのはもはや普通名詞じゃぁないか」
「そりゃぁ知ってるさ。だけど、読む機会に恵まれなかったからしょうがないじゃないか。それにな、ちゃんと読んだら分かるけど、この小説の語り手、ハンバート・ハンバートは、この手記はロリータがその生涯を終える21世紀初頭に出すようにとわざわざ断っているんだぜ。だから今がちょうどその時期じゃぁないか」
「へ~、ボンクラのわりにはある程度読んでるじゃないか」
「ボンクラはないだろう。確かに僕は遅れてきた読者だけど、これがなぜ1955年に出版されたのかがよく分からないのだ」

 

「もう一歩ツッコミが甘いんだよな。お前、ジョン・レイ・ジュニア博士という署名入りの序文をちゃんと読んだか?」
「読んだことは読んだけど、そんな冒頭のことは忘れたよ。それと僕の疑問は何か関係があるのかい?」
「大あり名古屋は城でもつってんだよ。そこで実は、登場人物のその後が記されているんだ。ここでは主人公のその後と同様、ロリータ自身が被った運命とがちゃんと述べられているんだ。ただしロリータは、本編の中で分かるように変ってしまっているから、ロリータという名では序には出てこないんだ。だから、全部読んでから、もう一度序文に戻らないと分からない仕掛けになっているんだ」
「パラパラパラっと。え~と、あっ、なるほどそういうことか。作者もやるもんだねぇ」

    

「お前は本当に遅れてきた読者だなぁ。ところで読んでみてどうだった」
「面白かったよ。特にさ、通俗的なロリコン解釈のように、ロリータのようなニンフェッタが、単に無垢で汚れを知らぬ純粋な美少女ではないということがよく分かったよ」
「じゃぁそのニンフェッタ・ロリータはどんなものだと思うんだい?」
「そうだな、いってみれば、大人の女性よりは世間知らずで、飼い慣らされていないだけわがままで、したがって、手に負えないワイルドな面が、そのどこか頼りなげで一見うぶな、かわいげな容貌と同居しているということかな」
「それだったら、お尻ぺんぺんでお終いにすればいいじゃぁないか」

 

「そこなんだよ、そうした対象にどうしても惹きつけられ、それへの報われない愛の一方的な注入こそが描かれていると思うんだ。ロリータはそれに対して感興を示したり、あるいはそっぽ向いたりする。しかも、その法則性のようなものは分からない。分かったつもりでいても、それをスルリと抜けて遠ざかる。そして最後には逃げられてしまうだろう」
「まあ、そうだな。追えば逃げ、近くにあると思えば遠く、かと思えば思いがけず彼の腕の中でその欲望を充たしてくれる、この非対称な愛、まったき他性への愛といったところかな」
「そう、そうなんだよ。主人公もどこかでいっているが、このニンフエッタたちは、小さなものであるにかかわらずある大きな可能性を秘めていて、そのアンバランスと、それが順次表面化するその過程そのものへの慈しみ、愛おしさ、なんてね」
「だけどそれは、過程=時間であるからして、やがては消えて行くもの、その過程そのものを愛するがゆえに、彼は純粋な子供も、そして、成熟した女性も愛することは出来なかったのだろう」

 

「うん、だからこの愛というのはやはり儚いものなんだな。もっとも主人公は、それが人為的に奪われたものだとして、それを奪った奴に復讐を誓うのだが、誰かが奪わなくともそれはやがては果てるものではなかっただろうか?」
「そのとおりさ。だから、ロリータに再会したときの彼はその目の前の相手に対しては割合クールでいるのだ。そして、もはや関心は、自分の宙吊りの愛に引導を渡した相手との決着にのみ注がれる」
「う~ん、では、どうしてこの期に及んで、その終わりを認められないんだろうな」
「それは、やはり過程への愛を選んだ宿命のようなもので、その過程そのものに自らピリオドを打つためには儀式のようなものが必要だったんじゃぁないかな」
「ふ~ん、そんなもんかねぇ。そのために人をねぇ・・」

 

「そのヒントはこの作者、ナボコフが蝶の収集家として著名であったことと関連するかも知れないな。ひらひらと舞う蝶を、最も美しい様でピン留めしたいという夢。でも、それは叶わないのかも。どんなにきれいに処理された標本でも、現実に飛んでいる蝶にはかなわないもんなぁ。例えそれが、全く不規則な飛行で、やがては僕らの視界から消えてしまおうとも」
「なるほどねぇ。それって、文学や芸術そのものの見果てぬ夢をも象徴してるみたいだねぇ。ウ~ン、なるほど、なるほど」
「オイオイ、いつまでも感心してないで、年賀状はどうなったんだい」
「ア、いけない。今日は何日だっけ。え、もう後がないじゃない。時間よ止まれ!乙女の姿しばし留めんだなぁ」

 写真の女性たち、みんな成熟しすぎだな。作品の中のロリータは12歳だもんなぁ。
 もっとも、私に美少女を撮る趣味がないからしょうがないか(笑)。
 一枚だけロリっぽいのがある。



*以上は、ウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ』の文字通り遅れてきた読者の感想です。
 付け加えるとすると以下の二点です。

1)この作品、女性に対する結構際どい決めつけのようなものがあるのですが、ジェンダーの方たちはどう評価していらっしゃるのでしょうか。

2)ニンフェッタ・ロリータの特色は、確かに上に述べたような様相を孕むことからして、それはある年齢層に特有であるといえるかもしれませんが、反面、女性一般に共通するものではないでしょうか。
 そうしたニンフェッタたちは、私の回りにも結構いて、老いてなお魅力的なのです。
 まあ、いってみれば私が幼いだけ、すべての女性はニンフェッタであり、なおかつ、私にとっては他者として現れるのかもしれません。

 余談ですが、この間少し勉強した、レヴィナスのまったき他性をもった者への応答としての愛といったことなどを思い出しました。












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【仏教徒の聖誕祭と六の時事川柳】

2007-12-23 16:51:14 | 川柳日記
 
 
 私はどちらかというと仏教徒なのですが、全国のよい子の皆さんにクリスマスカード代わりの写真をお届けします。メリー・クリスマス

 


<今週の川柳もどき> 07.12.23

  必要ないもので膨らむ予算案
   (来年度83兆610億円

  肝炎の患者になってなお格差
   (政府救済に線引き

  焼け跡の遺体哀しや皆派遣
   (三菱化学火災の4遺体)

  SFで現実逃避する政治
  ゴジラさんお馬鹿な議員踏んでくれ
   (国会でゴジラやUFO談義)
  *開いてるだけで一日三億円かかる国会を
   だらだら延長しておいてなんたる様!

  物が山と出てくる大掃除
  永田町霞ヶ関も大掃除

  霊感は捜査に使う方がいい
   (現職警官の霊感詐欺)

  親友の誘いにのって鉛玉
   (飲みに行こうかと誘われても
       佐世保銃乱射事件後)

  聖俗がまだら模様のクリスマス



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「時間の脱臼( out of joint)」とハムレット

2007-12-21 18:16:02 | 現代思想
 父王の亡霊からその無念を聞いたハムレットは言った。
 The time is out of joint! (時間は脱臼している!)
 
 そう、時間は、そして歴史は、世界は脱臼し、もはや正接していないのだ。

 しかし、次の瞬間、ハムレットは自己の運命を呪う。
 That ever,I was born to set it right!
(何の因果か、私はそれを正すべく生まれてきたのだ)

 

 出来ることなら、もっと平和に生きたいではないか。
 時間の脱臼を正す立場などに立ちたくないではないか。

 しかし、父王の亡霊がまさしく語るごとく、既に罪は犯されてしまっているのだ。
 そしてハムレットは、そして私たちも(と急いで付け加えよう)、そこへと立ち会ってしまっているのだ。
 それを正す(set it right)にしろ、そうでないにしろ、その状況に対応=応答(response)すべく生まれついてしまったのだ。

 

 だからそれは、To be, or not to be,that is a question !(在るべきか、在らざるべきか、それが問題だ!)という根本的な問として自らにリバウンドする。

 ハムレットの横に私たちも滑り込ませておいた。
 これは遠い昔の若者の個的な体験というにはあまりにも重く普遍的だからである。
 私たちもまた、既に常に、罪が犯されてしまった時間、歴史、世界(out of joint)のうちに生きている(was born)。

 キリスト者なら、これを原罪というかも知れない。しかし、そこに、宗教への道ともう一方の、どうしようもなくリアルなものとの関わりの分岐がある。
 つまり、悔い改めて、全体性の内へと回帰すればいいという道とは異なる応答が求められているのだ。
 おそらくそれは、to be あるいは not to be のどちらかへ吸収されて終わるのではない、その間の or のうちにあるのではあるまいか。これは、言い換えるならば、弁証法の片割れに屈して終わらないということでもある。

 

 時間は、歴史は、世界は、常に既に脱臼している。
 その脱臼を顕わにした一人にマルクスがいる。
 彼は、新しい脱臼を用意した容疑もかけられているのだが、その弟子を自称する連中の所業にもかかわらず、現実のこの世界の脱臼をあからさまにしたのも彼であった

 だから私たちは二重の意味で To be, or not to be のうちにある。
 既に犯された罪、脱臼している歴史の目撃者として、さらにはその処方を描いた思想家が今なお残している波紋への応答者として・・。

 

 この、or を挟んだヤジロベイのような地点から、out of joint を見据え、ちゃんと向き合って行くこと、それが歴史を生きるということではないだろうか。

 若い日々、私の頭の中で響き続けていたものこそ、実は「The time is out of joint! 」という言葉だったのだと今にして思う。その時以来、私は無念のうちに逝った父王の言葉を聞き続けてきたのだ


*以上は、J・デリダの『マルクスの亡霊たち』を読み始め、その序章に触発されて書いたものです。






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【ふゆのゆふぐれ あるモノローグ】

2007-12-19 17:14:15 | よしなしごと
 


 冬の夕暮れはしんしんと哀しく淋しい
 漆黒の闇のなかへすとんと落ちて行く

 春の夜のほんのり匂い立つ花や
 夏の夜の蛍の緩やかな曳光も
 秋の夜の誇らしげな月光も
 なんにもない闇の中へと

 闇の中に気配を探る
 闇もまた私を伺っている
 不眠という檻に囚われて
 のっぺらぼうな不安がまといつく

 

 私と闇とそして「在る」ということ
 その境界が曖昧になって黒く流れる
 不眠の夜はけっして明けない夜だ
 眠りという再生から見放された夜

 闇の覆いを退け時間を逆行させ
 冬の夕暮れに戻らねばならない
 かつて光のもとにあったという
 かすかな痕跡を見い出すために

 

 かくて深い闇のまっただ中で
 かろうじて私は宙吊りになる

 冬の夕暮れはしんしんと哀しく淋しい
 しかし、まだ闇に屈したわけではない

 



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【「あいつ」の半年と六の時事川柳】 

2007-12-17 03:28:38 | 川柳日記
 あいつとは、しばしば登場した私の定点観測の対象、あの南京ハゼの樹である。今年最後の登場にあたり、半年間を振り返ってみた。全て同じ樹の写真である。
 なお、撮影日を下に記した。

 
               7月12日

 
              11月24日

 
               12月5日

 
              12月15日

 最後の写真はいかにも淋しげだ。
 とりわけ薄暮ともいう時間に撮ったので余計その感が強い。
 新しい芽吹きの準備をし、来年もまた、私の目を楽しませておくれ



<今週の川柳もどき> 07.12.16

  念入りに防衛省の大掃除
  次官より大きいゴミも始末せよ
  ホラぬかがこんなところにこぼれてる
  気が付けば久しい間黒いゴミ
   (永田町と霞ヶ関を大掃除) 

  橋の下からの視線でする政治
   (議員宿舎など不要

  少子化であって増えない子の不幸
  生め生めで消耗品にした歴史
   (少子化は悪か?)
   
  「アケオメ」と競争になる年賀状
   (受付開始)
  
  歌合戦わけが分からぬ団子汁
   (だんだん性格がぼやけてきて)

  親友の誘いにのれぬ佐世保以後
   (お~い、飲もうかといわれても)




 


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【弔辞】 ああ、斃れしものよ!

2007-12-15 14:00:56 | ラブレター
 もとはといえばお前がいけないんだ
 最盛期のような羽音を立てて飛ぶなんて

 その時は「ア、いるな」ぐらいで済んだ
 でも、お前はもう一度やってきて
 あろう事かカーディガンの腕のところに
 フウワリと軟着陸するようにとまったろう


 だからこっちは本能的に叩いてしまって
 お前は斃れた
 哀れ、冬の蚊よ!

 

 いま、お前の亡骸を前に後悔している
 この時期からして、あの飛び方からして

 もう人を刺す力などなかったはずだ
 だったら、あんな風に叩かず
 自然死を待ってやればよかったのだ


 お前たちの全盛期の
 といっても、もう3ヶ月も前だが

 刺されたときのあの痒みの記憶
 おもわず手が動かしてしまったのだろう

 でも、叩く瞬間幾分力を抜いたはずだ
 だからしばらくはお前も羽を震わせてた
 哀れ、冬の蚊よ!


 

 後悔しているのにはまだわけがある
 俺もまた季節外れの蚊なのだ
 羽音ばかりうるさく飛び回るくせに
 もう人を刺す力なんてありゃしない

 
 お前の亡骸を見ていると
 まるで自分さきゆきのようだ

 
 せめてもの罪滅ぼしだ
 戒名を付けてやろう

 越季院残蚊居士(えっきいんざんぶんこじ)
 こんなのでどうだ


 戒名を持った蚊なんてめったにいやしないぞ
 だからこれで迷わず成仏してくれ

 哀れ、冬の蚊よ!



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