六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「和三盆」って知ってました?

2009-01-31 03:30:36 | よしなしごと
 徳島大学の先生からお菓子をもらった。
 戦後史の生き残りのような先達からのオーラル・ヒストリ-の聞き取りの場に、途中から顔を出し途中で退席するという中途半端な私にも、分け隔てなく下さったもので、有り難く頂戴した。

 お菓子は、「阿波和三盆糖」という。
 ようするに砂糖を固めたものだが、もちろん角砂糖とも違うし、よく似た落雁などとも微妙に違うようだ。

 「和三盆」という言葉の存在は知っていたが、ようするに砂糖の一種だろうぐらいに大雑把なままで過ごしてきた。そこでこの際、少し調べてみた。
 この砂糖、いただいた徳島県のものから香川県のものも含め、四国地方の産物のようである。そしてその製法については以下のように記してあった(Wikipediaより)。

 

 <和三盆の原料となるサトウキビは、地元産の「竹糖」という品種が用いられ、搾って汁を出した後、ある程度精製濾過して結晶化させる。この結晶化させた原料糖は白下糖といい、成分的には黒砂糖とほぼ同じ「含蜜糖」である。
 そして白下糖を盆の上で適量の水を加えて練り上げて、砂糖の粒子を細かくする「研ぎ」という作業を行った後、研いだ砂糖を麻の布に詰め「押し舟」という箱の中に入れて重石をかけ圧搾し、黒い糖蜜を抜いていく。この作業を数度繰り返し、最後に一週間ほどかけて乾燥させ完成となる。
 盆の上で砂糖を三度ほど「研ぐ」ことが「和三盆」の名の由来になっているが、最近では製品の白さを求めて5回以上「研ぎ」と「押し舟」を行うことが多い。


 なるほど、「和三盆」の名前の由来と共に、これだけの手間暇を掛けて作られているのだと納得する。そういえば、いただいたお菓子の説明書にも、「価も高価に精白糖に数倍するも又止む得ぬ次第」とある。

 さらにWikipediaの続きを読むと、
 <和三盆は精糖の作業が複雑な上、寒冷時にしか作ることが出来ず、白下糖から和三盆を作ると全量の4割程度に目減りし、途中で原料の追加もできないため、砂糖としては最も高価である。
 ともあった。

 そういわれれば、いただいたお菓子の表書きにも、わざわざ【寒製品】と記してある(写真を参照されたい)。
 う~ん、たかが砂糖とはとても侮れない代物である。よく味わっていただこうと改めて思った次第である。

 

 人の味覚というのは、舌にある味蕾が味の分子をキャッチすることによるとされる。他にも堅さ・柔らかさの食感、喉ごし、匂い、などなどの複合的な要因が作用する。そしてそれらは、いずれも化学的要因や物理的要因に還元される。

 しかしである、ものの味はそれだけではあるまいと思うのが観念論者たる私なのである。
 私の調べた和三盆についての知識は、それを味わう際の付加的な要因、しかもかなりの重みを持ったものとはならないであろうか。それを知らずに食した場合は、「ああ、砂糖の塊か」で済んでしまいそうなのであるが、それを知った後はそれに止まることはないであろう。
 和三盆に限らず、その食品の産地や由来、あるいはそれを巡るエピソードを知ることは、それを知らずして口に運ぶのとは自ずから味わいが変わるのではなかろうか。

 グルマンというのはえてして高価で稀なものを食するように思われがちだがそうばかりでもあるまい。むしろ、その食品にまつわる出来るだけ豊富な物語と共にそれを摂取することではあるまいか。
 さほど裕福でもないのに口がいやしく、うまいものを食いたい私にとっては、そうした味わい方が性に合っているようだ。

 「阿波和三盆糖」に話を戻そう。
 甘さに広がりと深みがある。といって、濃厚な甘さではなく淡白で柔らかな甘さである。後味もいい。口中に甘みがス~ッと広がり、執拗に残ることなくやがて消えて行く。
 まずは、冷蔵庫にしまってある美味しい方のお茶(昨年の新茶)と一緒にいただいた。うまかった。

 しかし、偉そうなブリッコはここまでで、所詮私は無粋な味わい手にしかすぎないようだ。
 次には、ナイトキャップの焼酎のお湯割りと一緒に食した。これもうまかった。

 やはりグルマンにはほど遠いと思った次第である。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ばつぐんジョッキー」の「おケイさん」

2009-01-29 15:02:50 | 想い出を掘り起こす
 かつて飲食店の店主だった頃、午後1時半頃に岐阜の家を出て、途中、銀行で釣り銭の両替などをして、3時過ぎには今池(名古屋)の店へ入るのが日課でした。
 この時間帯にいつも車中で聴いていたラジオ番組にCBC(中部日本放送)の「ばつぐんジョッキー」という、月曜日から金曜日まで日替わりでパーソナリティが出演する番組がありました。
 この番組、結構の長寿番組で1968年から86年まで続くのですが、私が聴いていた頃のパーソナリティは、以下のようでした。
 
   月曜日  板東英二
   火曜日  三笑亭夢楽*
   水曜日  田中小実昌*
   木曜日  上岡龍太郞
   金曜日  高橋基子
     (*は故人)

 いずれも口八丁の人たちで、そのウイットは奔放にして楽しいものでした。
 このうち、ほとんどのパーソナリティはその後、別の人に交代したのですが、上岡龍太郞は最初から最後まで出演し続けました。
 そのオープニングの自己紹介は以下のようでした。
 「女性の方でしたら小学生、中学生、高校生、浪人生、大学生、お嫁入り前のお嬢さんは言うに及ばす、主婦の方から未亡人、出戻り娘にご隠居さん、果ては嫁かず後家の皆さんにまで 声を聴いただけで四畳半のた打ち回って喜ばれている、芸は一流、人気は二流、ギャラは三流、恵まれない天才、阪神タイガースのオーナー、上岡龍太郎です。」
 かくして彼は、ドラファンの本拠地へタイガースの旗印を背負って殴り込んだのでした。
 それを迎え撃つドラ側の板東英二とのやりとりは、曜日を挟んでとても面白いものでした。

    
              現在のCBCの正面で

 しかし、ここで語ろうというのはそれらのパーソナルティについてではありません。
 これらの猛者を相手に、一歩も引かず渡り合い、番組を盛り上げていた女子アナ(このいい方はあまり好きではありませんが一般的な通称として使います)の「おケイさん」についてです。
 その番組を聴いている頃から、「しっかりした方だなぁ。一癖も二癖もあり、しかも脱線ばかりするパーソナリティをてなづけ、番組を盛り上げている」と思っていました。
 しかし、時代は昨今のように女子アナブームはなく、あくまでもアシスタントとしての存在として「おケイさん」を記憶していたため、失礼ながらそのフルネームも定かに憶えてはいなかったのです。
 ただし、今から考えても驚異的なのは、相手は変わるのですが、その月曜日から金曜日までの約4時間の放送をおケイさんが一人で引き受けていたことです。

 その「おケイさん」が今、意外と身近なところにいらっしゃるのです。
 私が2、3年前から参加しているある勉強会のメンバーにその方はいらっしゃいました。ただし、上にも書きましたように、フルネームでの記憶が曖昧でしたからCBCのOGとは聞いていましたが、その方が他ならぬ「おケイさん」であることに気づくのにはしばらくの時間を要しました。
 それと知った折、なるほど、この方ならあれらの猛者を相手に丁々発止と渡り合えたのだと納得できました。

 

 その方が、その勉強会で、ご自分が経験された民放業界の創成期とその後の変遷について発表される機会がありました。残念ながら私はそれを直に聴けなかったのですが、録音していた方からそのテープをお借りし、後日、聴くことが出来ました。
 そこには、「ばつぐんジョッキー」のエピソードなども語られていましたが、それ以上に民放創成期の様々な様相が語られていて興味を覚えました。
 CBC(中部日本放送)は、日本で最初の民放としてJOARのコールサインを持つ局です。それだけにその当初のありようは創成期特有のみずみずしさをもっています。
 例えばわが「おケイさん」は、当初CBC専属の劇団員として採用されるのですが、一年後の本採用の折に同期採用の12人のうち2人が不採用の通告を受けたのに対し、それを不当として組合を作って抵抗し、最終的には当時の大物代議士の仲介により全員の採用を勝ち取ります。
 その後なお、東京のキー局などで女子アナ30歳定年制がまかり通っていたことを考え合わせると、これは画期的なことだったと思います。
 
 その他、アナウンサーというものは番組の中で笑ってはいけないという当時の禁を破って、パーソナリティと共に「アハハ」と笑って番組を進めた結果、上司から注意を受けながらもそのスタイルを押し通したという件も痛快です。昨今、「アハハ」と笑うだけのアナウンサーが多い中、「おケイさん」は乙女のように笑い転げながらも、一方、それを凌駕する教養でもって猛者どもと渡り合っていたのでした。
 そんな「おケイさん」が局を去るのは、放送局が多角経営にに乗り出す一方、経営の効率化を数字として追求するあまり、番組制作を下請けに任せ、真面目に番組を作らなくなったからだといいます。
 最近指摘された各種の番組での不祥事が、ほとんどこれら下請けの段階で行われていること、またそれを理由に親局が頬被りをして済ませることはこの周知の通りです。

    

 「おケイさん」の話は、上に尽きることなく面白かったのですが、長くなるので省略いたします。
 民放の創成期、「おケイさん」も熱く周辺も熱かったのですが、いつの間にか効率のみが語られる世界に堕したようです。
 そんな中で、今なお少しでもいい番組をと奮闘しているラジオマンやテレビマンたちにエールをおくりたいと思います。

 あ、そうそう、「おケイさん」のままで終わってしまうところでした。
 この素敵なお姉様は松ヶ崎敬子さんとおっしゃって、今なお、アムネスティなどで人権を守る運動にアクティヴに関わってらっしゃいます。
 あの頃のころころ笑っていらっしゃった「おケイさん」と、昨今、間近にお目にかかる松ヶ崎さんとは、今では、私の中でほどよいバランスでもって同居していらっしゃいます。
 「ばつぐんジョッキー」は、私の屈折した日々を慰めてくれた番組であり、そこでころころ笑っていらっしゃった「おケイさん」はやはり忘れがたいものがあります。





コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説『1984年』の完成・・覗き見と告げ口の社会を生きる

2009-01-27 03:13:05 | 社会評論
 これは、他のところで、ネット上の私の友人が現代の監視社会について触れている問題提起に対し、私が応じたものの掲載です。

 もう何年か前です。全国の高速道路を走る何十万台の車の中から容疑者の車を見つけ出し、その車が死体遺棄現場に向かっていた状況証拠をつかみ、逮捕に至ったという事件に接しました。
 その折、「へぇ、そんなことが出来るんだ」と感心する一方、もはや誰にも知られずに移動することが出来ない社会に住んでいるのだと実感しました。

 

 また、最近の犯罪報道などでも、都市部のみならず郊外でも、意外な場所での監視カメラの設置が伺われ、その監視ネットワークは随分緻密であるようです。
 さらには、人工衛星からの地上の映像が、今やセンチメートル単位で解像可能だと知り、これぞ現代のパノプティコン(放射状に獄舎を設置しその中央に監視室を設けるような全展望監視装置のこと)、神の視座だと思ったものです。
 これも何年か前ですが、犯罪防止のため各地の公園で死角をなくすため、生け垣を低くし、木陰を生み出す樹木の伐採が行われたこともあります。もはや、酔っぱらって立小便すらできないのです。

      
 
 ようするに知らない間に、ピープ(覗き見)とチクリ(告げ口)がインプットされた空間に居住し行為するというのが至極当たり前の現実となってしまったのです。
 ジョージ・オーウェルの小説『1984年』の日常化といってもいいでしょう。
 それらが、一方でのプライバシーや個人情報の保護というお題目と並行して実現されたこと、そして、どこからもさして問題として取り上げられることなくスルスルっと実現してしまったことも異様といえるかも知れません。

 

 私がなにか反社会的な行為をしない限り、それらの監視装置からのリアクションはないとはいえ、理不尽な越境的侵犯の可能性(小説『1984年』の世界です)を秘めた装置の満遍なき普及はやはり気味が悪いものがあります。
 まさに権力は遍在するで、私が自由を謳歌する際にも、それはそうした監視下での許された範囲内においてでしかないということは、お釈迦様の掌中にある孫悟空の自由にしかすぎないということでしょうね。

 私のような古い人間はそれに違和感や不快感、忌々しさを感じるのですが、おっしゃるように若い人たちはそれが習い性になったというか、すっかり内面化されてしまったというか、そうした監視社会が当たり前となっているようで、むしろ監視されていることに安心すら覚えているようですね。

    

 総てがデジタル化されるゲゼルシャフト(利益共同体)な社会の進展にともない、相互のまなざしが交差する中にいるという擬似的なゲマインシャフト(情念に根ざす共同体)として、これら監視社会が受容されているのでしょうか。

 こうした中で、このシステムにねじ伏せられることなくディオニソス的にそれを異化し、はみ出してて行くことの可能性への問いは重いと思います。
 「現代思想」とやらに依拠した評論家諸氏は、幾分アジテーション気味にそこからの脱却を言いつのりますが、その具体的手だてを示そうとはしません。

 

 フーコーやドゥルーズ、デリダ亡き後、彼らの遺産を継承しながら、そのアクティヴでアグレッシヴな展開、実践的にバージョン・アップした展開が求められているように思います。
 もはや私に、それらを展開する能力がないことへの口惜しさを自覚しつつこれを書きました。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【映画鑑賞】失われゆくものへのオマージュ『さくらんぼ 母ときた道』

2009-01-25 10:56:30 | 映画評論
 映画の好きな方にはこの題名でピンと来るものがあるはずです。そう、あの『初恋のきた道』(監督:張芸謀) のトーンと同じですね。それもそのはず、両作品とも鮑 十という人の脚本という点で共通しているのです。これは鮑 十が実話をもとに脚本化したものだそうです。

 ただし、監督は違います。今やハリウッドのスペクタクルに取り込まれてしまった張芸謀ではなく、同じ張でも張 加具という人です。
 しかし、脚本の力は大きいようで、かつての『初恋のきた道』と同様、中国の美しい農村風景(雲南省の棚田のある風景)のもとで無垢で無償の愛が展開されます。ただし、『初恋のきた道』が男女の愛であったのに対し、これは母娘の愛です。

 

 母親に知的障害がある女性を持ってきたのは無垢を描くという意味で少々ずるい感じがしますが、実話に基づくとあれば致し方ありません。
 ストーリー展開は述べませんが、母は無垢であるだけ世間の規範に収まり切れない愛情を娘に注ぎます。が、その過剰さが時として娘にとっては疎ましかったり、恥ずべきことであったりします。
 そこにやりきれない切なさがあります。しかしそれも、家族共同体の固い絆で乗り越えられるのですが・・。
 なお、この映画で母を演じた苗圃(ミャオ・プゥ)は、ほとんど言葉もなく、表情と仕草のみで喜怒哀楽を表現するというその汚れ役を見事に演じ切って、その年の主演女優賞に輝いています。


 『初恋のきた道』もそうでしたが、『山の郵便配達』、『故郷の香り』(いずれも監督は霍建起)、『小さな中国のお針子』(監督:戴思杰)などなど、いずれも農村や山村から離脱した人の回想録として展開されるものが多いのが中国映画のひとつの特色ともいえます。
 それは多分、日本の昭和30年代と同様、高度成長の中で急速に都市化が進行する中でゲマインシャフト(情念的結合)なアナログ社会が解体され、ゲゼルシャフト(利益共同体的)なデジタル社会に取って代わられようとするその落差を描かれざるをえないところからきているのだろうと思います。
 この『さくらんぼ 母ときた道』も、村落共同体から離脱し医者になった娘の回想として語られています。

 

 しかし、これらを中国映画の特色としてしまうのもいささか性急かも知れません。
 シシリー島の小さな映画館を揺籃として育った少年の回想録、『ニュー・シネマ・パラダイス』(監督:ジュゼッペ・トルナトーレ)もそうした失われた共同体へのオマージュであったと思います。
 また、日本の小津作品も角度を変え、失われるものの視点からそれらを描いていたように思います。

 映画を観てからいろいろ考えるのが好きです。
 考える余地を残してくれない映画は苦手です。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽と音と民主主義と・。

2009-01-22 06:24:41 | 音楽を聴く
                                                                                                                                                                                                  
 「音楽は音ではない」といういささか乱暴な考えをもっていた時期があります。
 むろん、音なくして音楽は成立しえないのですから音が不要だというわけではありません。ようするに、音楽を聴くということはは配列された音の一群を聴覚でもって享受するということなのだろうかという疑問です。あるいは、もっといえば、「音楽は心で聴く」という観念論的主張ともいえます。

 
             浅川マキライブ会場にて

 なぜこんな考えを抱くに至ったのかの経緯は単純です。
 私が音楽なるものに始めて接したのは敗戦後のどさくさ紛れで、チューニングが極端に悪く、その曲の本来のフォルテシモやピアニシモとは無関係に音が波打つように大きくなったり小さくなったり、はたまた、途中で聞こえなくなったするような真空管ラジオによってでした。

 ですから、ドボルザークの九番「新世界から」の第二楽章のあの有名なイングリッシュホルンによる主部の主題のメロディもまともに聴いたことがありませんでした。シューベルトの「未完成」の第一楽章のあの出足についても同様でした。
 かすかに聞こえる音楽にオーバーラップしてどこか外国の言葉などが時折風に乗るかのように割り込んでくることはざらでした。
 聞こえないところは空想力で補って聴く、これが一般的で、ある種の精神修養であるかのように忍耐を伴った作業の結果として音楽が与えられたのでした。
 
    
           CDコンサートへ向かう途上の冬の柳
 
 冒頭に述べた暴論(=音楽は音はない)は、そうした環境下にあって、しかもその後もオーディオ装置に手間暇をかけてこなかった貧乏人のひがみによるものと思われます。偉そうに、それに積極的な意味さえ与えようとしていたのですからお笑いぐさです。

 音のよい環境で音楽を聴いた方がいいのは当たり前です。
 作曲家はどんな音をどう構成するかに骨身を削り、演奏者はどんな音を表出するかを競い、それらを収録したり放送したりする技術者たちもまた、オリジナルの再現に、あるいはアレンジされた音響にと自分の技能を傾けるのですから・・。
 それを最後の再現部分で台無しにするのではなく、ちゃんとした音として聴き取ることはそれら音楽の評価以前の行為として必要なのでしょう。

    
               同じく冬のモクレン
          

 チュ-ニングの悪いラジオの話に戻ります。猫の目のような円い緑のランプ部分でチューニングが視覚的に出来るマジックアイつきの懐かしいラジオなどもありましが、あれは民放局が増えて、度々チューニングを行わなければならない必要に応じたものだったようです(某国のラジオは、海外の放送が受信できないようチューニングが固定されているというのは本当でしょうか)。
 しかし、それによって飛躍的にチューニングがよくなったわけでもなかったようです。
 
 チューニングの悪いラジオから解放されたのは1950年代後半から始まった半導体使用のトランジスタラジオからでした。
 これはラジオの歴史においては画期的かつ革命的であったと思います。ラジオを小型化し、ポータブルな利用を可能にし、車への搭載をも可能にしたのでした。
 どこでも誰でもラジオが気軽に聴ける、これはそれまでのように一家に一台ラジオが存在し、そのチューニング権は家父長が握るという時代の終わりを告げていました。
 ラジオにおける民主主義の拡張です。それと共に、ラジオをこぞって聴くという様相から個的に聴くという状況も確立されました。

 
       オーディオ装置メイン・アンプ 真空管の蘇り

 それに、テープによる再生機能の充実などは、これまでのレコード盤を遙かにしのぐ勢いで人々に浸透しました。それにより、番組表に従って受動的に音楽を聴くという状況も一変しました。収録媒体を通じて、音楽を所有できるようになったのです。
 こうして、脱-真空管が果たした役割は大きかったと思います。それがさらに今日のデジタル化と相まって音楽を巡る環境はすっかり様変わりしました。

    
            スピーカーなど
          

 最近、オーディオ装置にこだわりを持つ人が持ち込んだご自慢の装置一式に、「この一枚」というCDを持ち寄った「CDコンサート」を聴きました。
 さすがすばらしい音色です。高音はあくまでもシャープに輝いていて、低音は最低部でもクリアーで、チェロのピアニシモなど、一本一本の弦が震えているのが手に取るように感じられます。
 もちろん楽曲全体の再現もすばらしく、その曲のもつ可能性をすべからくあらわにして迫るかのようでした。

 しかし、歴史は巡るというのでしょうか、それらの装置のプリ・アンプもメイン・アンプも真空管式でした。
 私自身、そうした装置の概要には暗いのですが、興味のある人のために、当日の装置を以下に記します。
1,CDプレイアー:デノンDSD-S10Ⅲ
2,プリ・アンプ:英QUAD QC-24(真空管式)
3,メイン・アンプ:WE-300B シングル・ステレオ 出力8W×2(真空管式 提供者自作)
4, スピーカー:英ローラ・セレッション Ditton-66 Studio Monitor(3Way) ×2基

       
               この装置は?

 私にはそれがどれほどのものか評価する能力はありませんが、これらがきわめて心地よい音をもたらしてくれたのは事実です。
 ライブとはまた違った意味での、というか、よりクリアーな音の緊迫感がありました。
 酔い痴れるような音色といってもいいでしょう。

 しかし、こうした心地よい音に接するという快楽と、そこからどんなインパクトを受け、何を受容するのかはいささか次元の違う問題ではとまた考えてしまうのでした。やはり私流の観念論なのでしょうか。
 いや、いい音が必要ないとか、それを忌避するわけではありません。今回聴かせてもらった音はそれ自身感動ものでした。この装置を提供されたMさんには感謝と感嘆の念すらおぼえています。

 
            CDプレイヤーなど

 音楽っていったい何なんでしょう。私たちの聴覚に与えられるひとまとまりの音とそれがもたらす印象で終わりではないような気がします。そこで与えられたものを原-印象とし、それにある種の加工が施され、それが最終的に受容されるような気もします。
 音楽は時間芸術ですから、それらの受容と加工という作業が同一の時間内でオーバーラップして行われるためその辺がわかりにくくなっているようにも思います。

 まあ、ごちゃごちゃ言わず、音楽はいい装置でいい音で聴いた方がいいのは事実です。
 いい音でいい音楽を聴く、それは確実にある種のカタルシスです。

                          








コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浅川マキとの長い付き合い・・「ハスリン・ダン」

2009-01-19 02:22:35 | 音楽を聴く
 浅川マキのライブへいってきました。
 ジャズ・イン・ラブリィ@名古屋です。
 
 実は私、彼女の隠れファンなのです。
 といっても、物事にそれほどおタッキーになれない私は、つかず離れず付き合ってきたといえます。
 しかし、ファン歴は長いのです。60年代後半に、彼女が「かもめ」と「夜が明けたら」でレコードレビューをして以来のファンです。
 もう40年以上になるのですね。

            

 当時は、岐阜ー名古屋間を車で往復していましたから、もう既に廃れつつあるカセットデッキのそのまた前の、一本のカセットが弁当箱程もあるようなエイトトラックのデッキを買い込んで、それらを車中で聴いていました。
 正直に告白しますが、加藤登紀子流のストレートなメッセージや、多少暗くとも所詮は明るいところへ戻るんだろうという疎外論的なスタンス(?)より浅川マキの方が好きです。

 彼女は、悲しみも暗さも惨めさも丁寧にとり上げて歌います。しかし、そこには憐れみを乞う姿勢はありません。ルサンチマンがないということです。
 そこからは、それらを総て引き受けながら、それにウィといって生きている人間模様が立ち上がってくるようです。

     

 彼女の歌い方が、それに息吹を注ぎます。
 彼女の歌はもともと歌と語りのグラデーションのようでしたが、ここへ来てその要素は一段と強くなったようです。
 宣言でもなく、ぼやきでもなく、「私こう生きてるのよ、なにか?」というまさに生きている場をそこに刻印するような歌なのです。
 時にはアカペラで、そして大半はセシル・モンローのドラムスのみをバックに歌われます。それがいっそう彼女のモノクロ風の表現を引き立たせているようです。

 休憩を挟んで二時間程のライブが終わりました。盛大な拍手で見送られたことはいうまでもありません。
 ラブリィというこの店、高名な割に狭く、店舗内に楽屋を設けるスペースがありません。演じ終わったアーティストは、店の外へ出て別の場所にある楽屋へ向かいます。
 彼女が出ていって、さしもの盛大な拍手がおさまろうというときです。再び拍手の音が大きくなりました。振り返ると、一度外に出た彼女が引き返してきてアンコールに応えようというのです。
 彼女のライブをけっこう経験している人も、こんな風にアンコールに応えるのは初めて見たといって喜んでいました。

 
 
 「ハスリン・ダン、わたしのいいひと~」
 彼女のアンコール曲が流れます。むかしよく聴いた懐かしい曲です。
 もう青年とはいえない年代でしたが、いろいろ思い煩うことがあった折りに聴いた彼女の歌は、意外と体の芯にまでしみ込んでいるようです。
 
 岐阜へ着き、自転車を漕いでいると、「ハスリン・ダン」という彼女の少し鼻にかかった歌声が、真夜中の路地からふいに聞こえてくるようでした。







コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お通夜は最前列で 合理主義者のガイド

2009-01-16 13:53:43 | よしなしごと
 私の友人に、早とちりをして別人の葬儀に出かけ香典まで置いてきたというものすごい人がいますが、これから述べるのは逆にしっかり者の話です。

 高校時代の同級生が逝きました。
 それほど親交があったわけではないのですが、かといって全く疎遠であったわけではありません。別れの儀式には行くことにしました。お通夜とお葬式両方は負担なので、どちらか一方ということで日程の都合などからお通夜を選びました。

 10人近い同級生がきていました。
 闘病生活がある程度続いていたこともあって、悲壮感はあまりないようです。むしろ、絶望的といわれてから幾ばくかの時間を経てケリがついたという点で、本人も解放されたのではという感が強いようです。

 
         葬儀の翌日は雪でした いずれも私の部屋から

 友人たちとホトけの顔を拝みました。それが少年の頃の面影を見事にとどめているのを見て、さすがに胸に迫るものがあり、思わずウルウルとなりました。
 「綺麗な死に顔だなぁ」「見舞いに行ったときはもっとボロボロだったのに」などという感想が友人たちのものでした。去年、『おくりびと』という映画を観て、なにゆえホトケは綺麗なのかを知ってしまった私ではありますが、さすがにそれが納棺師の技能の為せる業であるとは言い出しかねて黙っていました。

 さて、着席という段になって私が後ろの方に遠慮がちに座ろうとしていると、つきあいが広く、いかにも葬式慣れをしているような友人が、「おい、こっちこっち」と手招きをします。見るとそれは最前列でした。
 「これでは前すぎるのでは?」とおずおずしている私に、「まあ、いいからいいから」と友人。

 結局、彼の指示は的確にして当を得ていたといえます。
 読経の間は退屈なものです。しかし、最前列のおかげでいろいろ見ものがあります。導師の所作を見ながらその意味を考えたり出来ます。親族を観察し、誰が一番悲嘆の情を表しているのだろうと観察したりも出来ます。
 やはり、喪服の女性は綺麗だなと不謹慎なことを思ったりも出来ます(これはどこにいても思うことが出来ますが)。

 

 珍しく真面目な導師で、ちゃんと法話をしました。語り口はうまいとはいえませんでしたが、その内容などは骨格がしっかりしていて好感が持てました。
 これも前の方だからこそよく聞こえ、またその表情もよく見えたたといえます。

 しかし、最前列に座った効用はそれ以降でした。
 いよいよ焼香の段となりました。親族などは近しい順にお棺の前でするのですが、一般の参列者は別途設けられた場所で、順不同とはいえおおよそ最前列からの順となります。
 ほとんど、いの一番に焼香を済ませました。
 お通夜というのは、葬儀のようにお見送りなどもなく、焼香が済めばそれで終わりなのです。いわゆる「流れ解散」です。

 かくして私と友人は、焼香の順を待つ長蛇の列を尻目に、スイスイと会場をあとにしました。
 「な、早く終わるだろう。これでまた車も出しやすいんだ」と友人はいいます。
 なるほど、焼香を終えた客は一斉に駐車場に出て車を始動させようとします。ところが、それが各自一斉なので、混乱してなかなか車を出すことが出来ません。
 かつて、ドジな私は駐車場から出るまでに随分の時間を要したものです。

 私が駐車場を出る頃、やっと人々が車に辿り着きだしました。これから混雑が始まるのです。私の家は、葬儀場から20分程ですから、私が家にたどり着いた時点で、最後の方の人はやっと駐車場を出る頃でしょう。

 

 何ごとにも要領いい奴がいるものだと感心しました。
 お通夜の席で、さほどホトケと親しかったわけでもないのに最前列でふんぞり返っている奴がいたら、それはこうした要領のいい奴だと思って間違いありません。
 私も今後、そうするつもりです。

 え?こんな話はホトケに対して不謹慎?
 そんなことはありません。後ろの方で退屈してあくびをかみ殺しているより、むしろいいのではないでしょうか。最前列にいればこそ、お通夜に参加したという充実感すら味わえるのですから。
 
 なあ、Gよ、お前もそう思うだろう。
 お前も俺のお通夜の時は最前列に来い。
 あ、無理か。お前の方が先に逝ったんだっけ。         合 掌





コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シンガラモチキャッキャ キャベツデホイ

2009-01-15 01:05:49 | ポエムのようなもの
 


    女のひとの横顔が見える
    頬だけが白く光っていてあとは陰影のなか
    でも なんだか懐かしいひと

    高校時代に読んだ小説に出てきたひとか
    ぽつねんと夜汽車に揺られていたひとか
    それとも 生き別れになった姉だろうか

    陰影のなかから唄声が広がる
    あ これはむかし聴いた童唄 
    たしか鞠つき唄だったような
    しかも尻取りになっている唄

    イチリキライライ ラッキョクッテシッシ 
    シンガラモチキャッキャ キャベツデホイ
    ホイで鞠は少女のスカートのなかに消えて
    少女はキッと私を見据えるのだった



 

 上の鞠つき唄は、以下のものの別バージョンのようだ。

    いちりきらいらい らかさですいすい
    かっぱくってきゃっきゃっ きゃべつでほうらい

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光る街のソネット  眠れないままに

2009-01-13 00:27:13 | ポエムのようなもの
 

   そこに光る街があった
   もちろん陽をうけてではあるが
   自ずから光っているようにも見えた

   もう、光ることなんか出来ないな
   陽をうけることなんか出来ないな
   こう呟いてみるのは嫉妬だろうか

   光ったから何なんだヨォ
   光らなかったから何なんだヨォ
   と、ここまで来れば居直りだろう

   やはりそこに光る街があって
   降り注ぐ陽もあって
   呼びかけるにちょうどいいくらいで
   それで実際に呼びかけてみると
   それが歌になったりすることもあるのではないか



    



       これは不眠の中で私の反省。
        眠ると消えてしまうかもしれない反省。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クラシックとセックス 初映画二本立て

2009-01-08 15:33:03 | 映画評論
 二本立てといっても勝手に続けて二本観ただけですが、ひとつはサイモン・ラトル率いるベルリンフィルの東アジア演奏ツアーの記録『ベルリン・フィル 最高のハーモニーを求めて』(’08 トマス・グルベ監督)、もう一本は高校生のセックスを描いた『俺たちに明日はないッス』(’08 タナダユキ監督)。
 ああ、何という取り合わせでしょうか。
 でも観てしまったものは仕方がありません。

 お目当てはむろん前者ですが、後者は夕刻人と会うための時間つぶしのようなものでした。しばしば書いてきましたが、岐阜に名画座系の館がなくなってから、名古屋への交通費の節約もあって、こうして同じ日に二本を見る機会が増えました。 
 二つの映画の印象がごっちゃになるのであまりいいとは思わないのですが、今回のようにあまりにも落差が大きすぎると、かえって相互に干渉する余地は少ないようです。

      
               サイモン・ラトル

 さて前者の監督、トマス・グルベは、前作の『ベルリンフィルと子供たち』で、やはりラトルのベルリンフィルと、名もない子供たちのダンスが、ストラヴィンスキーの『春の祭典』でコラボレイトする様を描いて見事でした。
 今回の映画は、北京→ソウル→上海→香港→台北→東京というベルリンフィルの演奏ツアーをその土地々々のありようを交えて描いたものですが、主眼は、各パートの演奏者たちの音楽観、オケに対する態度などが次々と語られるところにあります。

 そこで披露されるものは実に多様です。そして、その多様なものがひとつになって音楽を形作るという共同作業としてオケがあり、そのコアとしての指揮者が存在することが浮き彫りにされます。
 各パートの演奏技術の秀越さもさることながら、それらの構築の差異が、オケの性格やその紡ぎ出す音楽の差異となって現れるのでしょう。

      
           「ベルリンフィルと子供たち」から

 ベルリンフィルを注視し続けて来たわけではありませんが、カラヤンのゲルマン的重厚からアッパドの南国性を経て、アングロサクソン流のラトルに至り、いい意味でのプラグマティックな状況への対応によって、未来への開かれた活動が可能になったように感じました。

 台北でのコンサートで、会場には入れなかった万余の聴衆が場外スクリーンでその演奏を楽しみ、最後に挨拶に出たラトル以下のメンバーと交歓する風景は音楽のもつエネルギーを示していて感動的でした。しかも、それらの観衆の大半が若者たちで占められていたことも特筆すべきでしょう。

 ちょうどこの映画を観た日、ベルリンフィルは今後、ネットで演奏会を公開すると発表しました。
 
あ、もう一本の映画ですか?高校生のセックスに対する開かれ(?)は羨ましかったです。もう半世紀後に生まれていたら・・。う~ん、でも、おそらく私なら溺れてしまっていることでしょう。

 




コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする