徳島大学の先生からお菓子をもらった。
戦後史の生き残りのような先達からのオーラル・ヒストリ-の聞き取りの場に、途中から顔を出し途中で退席するという中途半端な私にも、分け隔てなく下さったもので、有り難く頂戴した。
お菓子は、「阿波和三盆糖」という。
ようするに砂糖を固めたものだが、もちろん角砂糖とも違うし、よく似た落雁などとも微妙に違うようだ。
「和三盆」という言葉の存在は知っていたが、ようするに砂糖の一種だろうぐらいに大雑把なままで過ごしてきた。そこでこの際、少し調べてみた。
この砂糖、いただいた徳島県のものから香川県のものも含め、四国地方の産物のようである。そしてその製法については以下のように記してあった(Wikipediaより)。
<和三盆の原料となるサトウキビは、地元産の「竹糖」という品種が用いられ、搾って汁を出した後、ある程度精製濾過して結晶化させる。この結晶化させた原料糖は白下糖といい、成分的には黒砂糖とほぼ同じ「含蜜糖」である。
そして白下糖を盆の上で適量の水を加えて練り上げて、砂糖の粒子を細かくする「研ぎ」という作業を行った後、研いだ砂糖を麻の布に詰め「押し舟」という箱の中に入れて重石をかけ圧搾し、黒い糖蜜を抜いていく。この作業を数度繰り返し、最後に一週間ほどかけて乾燥させ完成となる。
盆の上で砂糖を三度ほど「研ぐ」ことが「和三盆」の名の由来になっているが、最近では製品の白さを求めて5回以上「研ぎ」と「押し舟」を行うことが多い。>
なるほど、「和三盆」の名前の由来と共に、これだけの手間暇を掛けて作られているのだと納得する。そういえば、いただいたお菓子の説明書にも、「価も高価に精白糖に数倍するも又止む得ぬ次第」とある。
さらにWikipediaの続きを読むと、
<和三盆は精糖の作業が複雑な上、寒冷時にしか作ることが出来ず、白下糖から和三盆を作ると全量の4割程度に目減りし、途中で原料の追加もできないため、砂糖としては最も高価である。>
ともあった。
そういわれれば、いただいたお菓子の表書きにも、わざわざ【寒製品】と記してある(写真を参照されたい)。
う~ん、たかが砂糖とはとても侮れない代物である。よく味わっていただこうと改めて思った次第である。
人の味覚というのは、舌にある味蕾が味の分子をキャッチすることによるとされる。他にも堅さ・柔らかさの食感、喉ごし、匂い、などなどの複合的な要因が作用する。そしてそれらは、いずれも化学的要因や物理的要因に還元される。
しかしである、ものの味はそれだけではあるまいと思うのが観念論者たる私なのである。
私の調べた和三盆についての知識は、それを味わう際の付加的な要因、しかもかなりの重みを持ったものとはならないであろうか。それを知らずに食した場合は、「ああ、砂糖の塊か」で済んでしまいそうなのであるが、それを知った後はそれに止まることはないであろう。
和三盆に限らず、その食品の産地や由来、あるいはそれを巡るエピソードを知ることは、それを知らずして口に運ぶのとは自ずから味わいが変わるのではなかろうか。
グルマンというのはえてして高価で稀なものを食するように思われがちだがそうばかりでもあるまい。むしろ、その食品にまつわる出来るだけ豊富な物語と共にそれを摂取することではあるまいか。
さほど裕福でもないのに口がいやしく、うまいものを食いたい私にとっては、そうした味わい方が性に合っているようだ。
「阿波和三盆糖」に話を戻そう。
甘さに広がりと深みがある。といって、濃厚な甘さではなく淡白で柔らかな甘さである。後味もいい。口中に甘みがス~ッと広がり、執拗に残ることなくやがて消えて行く。
まずは、冷蔵庫にしまってある美味しい方のお茶(昨年の新茶)と一緒にいただいた。うまかった。
しかし、偉そうなブリッコはここまでで、所詮私は無粋な味わい手にしかすぎないようだ。
次には、ナイトキャップの焼酎のお湯割りと一緒に食した。これもうまかった。
やはりグルマンにはほど遠いと思った次第である。
戦後史の生き残りのような先達からのオーラル・ヒストリ-の聞き取りの場に、途中から顔を出し途中で退席するという中途半端な私にも、分け隔てなく下さったもので、有り難く頂戴した。
お菓子は、「阿波和三盆糖」という。
ようするに砂糖を固めたものだが、もちろん角砂糖とも違うし、よく似た落雁などとも微妙に違うようだ。
「和三盆」という言葉の存在は知っていたが、ようするに砂糖の一種だろうぐらいに大雑把なままで過ごしてきた。そこでこの際、少し調べてみた。
この砂糖、いただいた徳島県のものから香川県のものも含め、四国地方の産物のようである。そしてその製法については以下のように記してあった(Wikipediaより)。
<和三盆の原料となるサトウキビは、地元産の「竹糖」という品種が用いられ、搾って汁を出した後、ある程度精製濾過して結晶化させる。この結晶化させた原料糖は白下糖といい、成分的には黒砂糖とほぼ同じ「含蜜糖」である。
そして白下糖を盆の上で適量の水を加えて練り上げて、砂糖の粒子を細かくする「研ぎ」という作業を行った後、研いだ砂糖を麻の布に詰め「押し舟」という箱の中に入れて重石をかけ圧搾し、黒い糖蜜を抜いていく。この作業を数度繰り返し、最後に一週間ほどかけて乾燥させ完成となる。
盆の上で砂糖を三度ほど「研ぐ」ことが「和三盆」の名の由来になっているが、最近では製品の白さを求めて5回以上「研ぎ」と「押し舟」を行うことが多い。>
なるほど、「和三盆」の名前の由来と共に、これだけの手間暇を掛けて作られているのだと納得する。そういえば、いただいたお菓子の説明書にも、「価も高価に精白糖に数倍するも又止む得ぬ次第」とある。
さらにWikipediaの続きを読むと、
<和三盆は精糖の作業が複雑な上、寒冷時にしか作ることが出来ず、白下糖から和三盆を作ると全量の4割程度に目減りし、途中で原料の追加もできないため、砂糖としては最も高価である。>
ともあった。
そういわれれば、いただいたお菓子の表書きにも、わざわざ【寒製品】と記してある(写真を参照されたい)。
う~ん、たかが砂糖とはとても侮れない代物である。よく味わっていただこうと改めて思った次第である。
人の味覚というのは、舌にある味蕾が味の分子をキャッチすることによるとされる。他にも堅さ・柔らかさの食感、喉ごし、匂い、などなどの複合的な要因が作用する。そしてそれらは、いずれも化学的要因や物理的要因に還元される。
しかしである、ものの味はそれだけではあるまいと思うのが観念論者たる私なのである。
私の調べた和三盆についての知識は、それを味わう際の付加的な要因、しかもかなりの重みを持ったものとはならないであろうか。それを知らずに食した場合は、「ああ、砂糖の塊か」で済んでしまいそうなのであるが、それを知った後はそれに止まることはないであろう。
和三盆に限らず、その食品の産地や由来、あるいはそれを巡るエピソードを知ることは、それを知らずして口に運ぶのとは自ずから味わいが変わるのではなかろうか。
グルマンというのはえてして高価で稀なものを食するように思われがちだがそうばかりでもあるまい。むしろ、その食品にまつわる出来るだけ豊富な物語と共にそれを摂取することではあるまいか。
さほど裕福でもないのに口がいやしく、うまいものを食いたい私にとっては、そうした味わい方が性に合っているようだ。
「阿波和三盆糖」に話を戻そう。
甘さに広がりと深みがある。といって、濃厚な甘さではなく淡白で柔らかな甘さである。後味もいい。口中に甘みがス~ッと広がり、執拗に残ることなくやがて消えて行く。
まずは、冷蔵庫にしまってある美味しい方のお茶(昨年の新茶)と一緒にいただいた。うまかった。
しかし、偉そうなブリッコはここまでで、所詮私は無粋な味わい手にしかすぎないようだ。
次には、ナイトキャップの焼酎のお湯割りと一緒に食した。これもうまかった。
やはりグルマンにはほど遠いと思った次第である。