「キネ旬」のベストテンに特に権威を感じているわけではない。ただし、映画の好きな人たちがどんな映画に好感をもったかには興味がある。
昨年はあまり本数を観なかったが、洋画部門では4本がキネ旬のベストテンと一致していたことはすでに述べた(1、2、6、7位)。
邦画部門では、邦画そのものをほとんど観ていなかったこともあって第2位の「花筐/HANAGATAMI」しか観ていなかった。
その邦画部門で第1位の「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」を再上映しているというので観に行った。タイトルの頭の「映画」は余分だろうと思われるかもしれないが、それも含めてこの映画のタイトルなのだ。
私にすれば、孫のような世代の物語である。
当初は別々だった女性と男性の生があるところからクロスし始める。女性は看護師であり夜はガールズバーで働いている。男性は、不正規労働者として建設現場で働いている。
映画の形としてはかなり実験的に見える。映像の焦点が曖昧であったり、画面が三分割されそれにそれぞれの人物が映っていたり、あるいはアニメが挿入されたりする。音楽なども不協和音がうるさくつきまとったり、さほどうまいと思われないロード・ミュージシャンの歌が何度もでてきたり、意味不明の重奏低音が鳴ったりといった具合だ。
にもかかわらず、内容は極めてリアルな現実をとり扱っている。イタリアのネオリアリズムをも髣髴とさせるほどだ。
ほとんど無駄だとさえ思われる強度で光や音響を放出する渋谷や新宿の都市空間、スマホに飼い慣らされ自分の周辺の空間からさえも疎外された人び、今なお4Kの建設現場で働く非正規労働者と外国人労働者、パチンコ依存症、かつてはインテリと思われる老人の孤独死、そして通奏低音のように背景にある巨大災害や戦争を思わせる不安。
これはまごうかたなき私たちを取り巻く現実なのだ。
で、そうした中で、なおかつ私たちが希望を語り、見出しうるとしたら、それはどのようにしてであるか。
主人公たちのセリフの非凡庸さが目立つ。それはこの映画が、最果タヒのベストセラー詩集から得たインスピレーションを実写映画化しているからだ。詩集からの衝撃を脚本化し映像化するという石井裕也監督の意欲的な挑戦が、そのもととなった詩集の尻尾を残している。
通奏低音は不安だと書いた。映画はいつ惨劇で終わってもおかしくはない兆しをはらんだまま進む。事実、部分的な惨劇は何度も生じ続ける。
しかし最後は、拭いきれない不安定さを抱えながら、ささやかな希望をもって映画は終わる。重ねていうが、不安定さが終わったわけでない。しかし、不安定だからこそ、自分たちを何処かへ繋ぎ止めようとする営為もまた人間の実存のありようなのだ。
主人公たちがそうしたように、私たちも不安のなかに投げ出されながら、自分が流れ着くべき岸辺へと自分を投企する。
しかし、私たちは依然として不安のうちにあり、いつ惨劇で終止符を打たれるかもわからない。にもかかわらず、ちょっとした契機を足がかりにそうした世界と渡り合う中で、それぞれのささやかな希望を見出して生きているのではないか。
それがいいとか悪いとかいうことではなく、私たちがしばらくスマホに依存することをやめて、あるいは凡庸な日常のおしゃべりをやめて、四囲を見渡すとき、間違いなく私たちがそのうちにある現実なのだ。
そうした私の屈折した思いや感想はともかく、物語そのものは、決して軽くはない現実を背景にしながら、なおかつそれを乗り越えてゆく若い女性と男性の爽やかな物語といっていい。
【余談】この映画ではヒロインやヒーローも含め、登場人物たちがやたらにタバコを吸う。それは私たちが日常に目にする頻度を遥かに上回っている。
カウリスマキ監督の影響だろうかとも思うが、カウリスマキの映画では登場人物たちの寡黙なありようを補う要素としてタバコが用いられている。
この映画の場合には必ずしもそうではないが、セリフが詩的言語としてポツネンと語られるとき、その補完物としてタバコが登場するのかもしれない。
*以下は、予告編ではなく、制作過程を伝える動画。
https://www.youtube.com/watch?v=OzQoyF1j_xQ
昨年はあまり本数を観なかったが、洋画部門では4本がキネ旬のベストテンと一致していたことはすでに述べた(1、2、6、7位)。
邦画部門では、邦画そのものをほとんど観ていなかったこともあって第2位の「花筐/HANAGATAMI」しか観ていなかった。
その邦画部門で第1位の「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」を再上映しているというので観に行った。タイトルの頭の「映画」は余分だろうと思われるかもしれないが、それも含めてこの映画のタイトルなのだ。
私にすれば、孫のような世代の物語である。
当初は別々だった女性と男性の生があるところからクロスし始める。女性は看護師であり夜はガールズバーで働いている。男性は、不正規労働者として建設現場で働いている。
映画の形としてはかなり実験的に見える。映像の焦点が曖昧であったり、画面が三分割されそれにそれぞれの人物が映っていたり、あるいはアニメが挿入されたりする。音楽なども不協和音がうるさくつきまとったり、さほどうまいと思われないロード・ミュージシャンの歌が何度もでてきたり、意味不明の重奏低音が鳴ったりといった具合だ。
にもかかわらず、内容は極めてリアルな現実をとり扱っている。イタリアのネオリアリズムをも髣髴とさせるほどだ。
ほとんど無駄だとさえ思われる強度で光や音響を放出する渋谷や新宿の都市空間、スマホに飼い慣らされ自分の周辺の空間からさえも疎外された人び、今なお4Kの建設現場で働く非正規労働者と外国人労働者、パチンコ依存症、かつてはインテリと思われる老人の孤独死、そして通奏低音のように背景にある巨大災害や戦争を思わせる不安。
これはまごうかたなき私たちを取り巻く現実なのだ。
で、そうした中で、なおかつ私たちが希望を語り、見出しうるとしたら、それはどのようにしてであるか。
主人公たちのセリフの非凡庸さが目立つ。それはこの映画が、最果タヒのベストセラー詩集から得たインスピレーションを実写映画化しているからだ。詩集からの衝撃を脚本化し映像化するという石井裕也監督の意欲的な挑戦が、そのもととなった詩集の尻尾を残している。
通奏低音は不安だと書いた。映画はいつ惨劇で終わってもおかしくはない兆しをはらんだまま進む。事実、部分的な惨劇は何度も生じ続ける。
しかし最後は、拭いきれない不安定さを抱えながら、ささやかな希望をもって映画は終わる。重ねていうが、不安定さが終わったわけでない。しかし、不安定だからこそ、自分たちを何処かへ繋ぎ止めようとする営為もまた人間の実存のありようなのだ。
主人公たちがそうしたように、私たちも不安のなかに投げ出されながら、自分が流れ着くべき岸辺へと自分を投企する。
しかし、私たちは依然として不安のうちにあり、いつ惨劇で終止符を打たれるかもわからない。にもかかわらず、ちょっとした契機を足がかりにそうした世界と渡り合う中で、それぞれのささやかな希望を見出して生きているのではないか。
それがいいとか悪いとかいうことではなく、私たちがしばらくスマホに依存することをやめて、あるいは凡庸な日常のおしゃべりをやめて、四囲を見渡すとき、間違いなく私たちがそのうちにある現実なのだ。
そうした私の屈折した思いや感想はともかく、物語そのものは、決して軽くはない現実を背景にしながら、なおかつそれを乗り越えてゆく若い女性と男性の爽やかな物語といっていい。
【余談】この映画ではヒロインやヒーローも含め、登場人物たちがやたらにタバコを吸う。それは私たちが日常に目にする頻度を遥かに上回っている。
カウリスマキ監督の影響だろうかとも思うが、カウリスマキの映画では登場人物たちの寡黙なありようを補う要素としてタバコが用いられている。
この映画の場合には必ずしもそうではないが、セリフが詩的言語としてポツネンと語られるとき、その補完物としてタバコが登場するのかもしれない。
*以下は、予告編ではなく、制作過程を伝える動画。
https://www.youtube.com/watch?v=OzQoyF1j_xQ