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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

清流長良川の鮎についての物語

2024-07-06 00:59:31 | 社会評論

先日見たTVの釣り番組で長良川鮎釣りをやっていた。ここの鮎は湖産ではなく海産だからいいと言っていた。
どういうことかというと、琵琶湖産の稚鮎を放流したものではなく、中流域などでの産卵によって生まれ稚魚が、一旦海に下り、遡上してきた純天然鮎だというのだ。
これは地元民にとっては嬉しい話だが、その実情を私は知っている!最上流部にまでダムのない長良川ではたしかにその可能性はあり、一部、海産のものもいるだろう。
しかしである、それを阻むグロテスクな産物がデンとして存在するのだ。曰く、長良川河口堰!長良川河口付近でその流れを完全に止めてる。

    

ここで遡上魚のほとんどが阻止される。当局は遡上魚のための魚道をその脇に設置しているというが、幅660mの堰の端に設けられた何mかの魚道に遡上魚が来る確率は極めて低い。
私はその魚道をガラス越しに観察できる箇所で遡上して行く魚をかなりの時間見つめていたが、その数は惨めなほどに少なく、かえってこの河口堰が魚類の遡上をほぼシャットアウトしていることが確認された次第だ。
では、これほどの犠牲を払って、愛知・岐阜・三重の東海3県へ水資源を供給するというその目的は達成されたのだろうか。高度成長の右上がりの図式を単純に延長するという目論見は完全に崩れ、今や、水余りでそれを押し付け合っているのが現状なのだ。
鮎の話に戻ろう。こうした河口堰の存在のもと、長良川全体での稚鮎の放流量は約12t強、その8割は琵琶湖産稚魚、そして2割が県漁協産の人工孵化だそうだ。こうしてみると、本当に海産鮎に行き当たった人は、とても稀だということになる。
なお、長良川の自然を愛する人たちは、この河口堰の一時開門を要求しているが、当局は頑なにこれを拒否している。
最後に、この河口堰付近はかつてはヤマトシジミの絶好の漁場であったが、堰完成後に、それは絶滅し、シジミ漁は廃業を余儀なくされたことを付け加えておこう。

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テロルって本当に悪いことなの? では、どうしたら?

2023-10-19 14:11:23 | 社会評論

 歴史上の出来事のなかには、その折の、指導者格にあり、元々リーダーシップをとりうる人たちではなく、思わぬ人の思わぬ行為が世の中に広い影響を及ぼした例がたびたびある。

 50年代末から岸→安倍と三代、六〇年間にわたり自民党の中枢に深く入り込み、それを支えながら、一方では人の弱みに付け込み悪徳の限りを尽くして金を集めていた旧統一教会が、今やその宗教法人としての資格を剥奪されようとしている。同時に、自民党は過去においてのこの統一教会との関わりを必死になってもみ消し、なかったことにしようとしている。
 しかし、この事態、昨年の夏以前に予測し得た人はいたろうか?そんな人はいなかった。ではどうして?・・・・これには多くの人が答えうるであろう。そうなのだ、かの山上徹也被告の安倍元首相の銃撃事件がなければ旧統一教会の悪質な犯罪行為も、それと結託した自民党中枢部との醜い関係もほとんど闇のなかにとどまり続けた可能性が大なのだ。

       

 山上被告の行為は明らかにテロルである。そして人々は言う、「テロルはよくない。ましてや人様を殺傷するなんて」と。しかし、そうした一般論にも関わらず、一方には、山上被告への非難や告発がさほどなく、少なからずの人が彼に同情的であり、なかにはあからさまに彼を支持し、罪状軽減運動すら起こっているという事実がある。なぜなんだろうか。

 日本は民主主義国家だといわれる。しかしその内実ははたしてどうであろうか。基本的人権などは入管の収容施設ではまったく無視されているし、不正規労働者の末端での生存権も怪しい限りだ。三権分位も絵に描いた餅で、行政はもちろん、司法も立法もマジョリティの意のままだ。地方分権?沖縄の民意はすべて本土の権力によって無視され踏みにじられっぱなしだ。ようするに、「民主主義のルール」とやらでものごとは解決していないばかりか形骸化した多数決のみのマジョリティによる独裁を許しているのが実情ではないのか。

       

 山上被告に、なにもテロルに頼らなくとも諭すことはカンタンだ。だがもし、彼が司法に訴える手段をとっていたら、今頃はまだどこかの地裁でノロノロ審理が続いているか、旧統一教会と自民党が結託して形成された「優秀な」弁護団によって論駁され、審理不要として裁判所の門前で追っ払われていたことだろう。
 そして旧統一教会は、安倍の政策を継承するという岸田のもとで、やはり自民中枢との結託を継続し、悩み多い善男善女からあることないことを理由にして大金を巻き上げていただろう。

 これは私のこじつけではあるまい。あの事件がなかったら、実際にいまのようにはなっていなかったことはもっとも可能性のある事実なのだ。これらの観察から、旧統一教会をここまで追い詰め、自民党を慌てさせたのは山上被告のテロルのせいであったと断言できるのではないだろうか。

 もう一度問うてみる。「テロルって本当に悪いことなの?」と。それは現状のシステムのなかで虐げられながらも、それに抗して「民主主義的」手段では救済されない人たちの最後の手段ではあるまいか。なおかつ、「テロルは悪い」という人たちは、山上氏に「ではどうすべきだったのか」を語る必要があるのではないだろうか。民主的手段によって?それはどんな手段?実際に効果はあるの?彼は救われるの?旧統一教会と自民党中枢は正当に裁かれたの?

       

 似たようなことがいま、パレスチナで起こってる。今回の事態に限れば、先に攻撃を仕掛けたのはガザ地域の中のハマスという勢力だ。それはテロ攻撃として非難されている。しかし、パレスチナの状況を、そしてガザという塀に囲まれた強制収容地域が歴史的に形成されてきた経緯を知る者にとっては、今回の襲撃は起こるべくして起こったイスラエルによる抑圧と収奪の歴史への反撃として十分理解できるものなのである。

 欧米世界は、2000年にわたるユダヤ人差別と抑圧の歴史、そのピークとしてのナチスによるホロコーストの事実を受けて、ユダヤ人にその国家を与えることにした。しかし、狡猾な欧米は、それを自らの身を削ることによってではなく、なんとイギリスの植民地であったパレスチナの地を与えたのであった。
 自分たちの土地を一方的に奪われたパレスチナの人たちやアラブの人たちは当然それに反抗する。それを欧米の軍事支援によって抑圧し続けたイスラエルは、与えられた自分たちの領土をさらにこえてパレスチナ人の土地を奪い続け、その抑圧を強化してきた。

       

 これらの事実は、20世紀中頃の世界では常識であり、周知の事柄であった。しかし、それらが既成事実化し、その経緯が忘れ去られている現在、ハマスの攻撃をもって世界の人々はガザの集団収容所的、非人道的な地区へのイスラエルの支配を今更のごとく思い起こしつつある。
 この衝突は、何らかの形で収拾されるかもしれない。しかしそれは、パレスチナの人々の、ガザ地域の人々の、イスラエルの軍事支配を脱した自由な地位の回復でもって収拾されねばならない。
 ハマスが先制攻撃を行ったのは事実である。しかし、それによって久しく忘れられていたパレスチナでの非道なありようが国際的にあからさまになったのも事実である。

 山上氏の行動とハマスのそれは、それ以外の手段でもっては、世論や国際情勢が見向きもしなかった事柄を表面化したことにおいて共通点をもっている。それらを「テロルは悪い」と切って捨てることは簡単である。しかしそれは、それ以外にものいう手段を持たない弱者、マイノリティの声を改めて抑圧することであり、抑圧し続けるマジョリティを支えることになりはしないだろうか?

 以上はテロルを勧めるためのものではない。しかし、それをもってしか自分たちの被抑圧者としての声を発することができない人たちが存在することを理解すべきだし、それがいけないとするならば、ではどうすべきかという実効的な手段を「彼らの立場に立って」思考すべきではないだろうか。

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パレスチナを支持します!そして、イスラエル支持の西欧諸国に抗議します!

2023-10-11 01:34:00 | 社会評論
 歴史的にみて、パレスチナを一方的に侵略し、抑圧し、パレスチナ人を居住地域ガザへと押し込めたのはイスラエルの仕業です。イスラエルはかつてナチスによってなされた抑圧を、今やパレスチナで行っています。
 
 今回のパレスチナからの攻撃は、積年のイスラエルからの抑圧への反撃です。西欧諸国は今回の事態に対し、いち早くイスラエル支持を打ち出しています。まるで、自分たちが公正な「第三者」であるかのように。でも、違うのです。今回の事態の遠因はまさに西欧諸国にこそあるのです。
 
 彼らは2000年にわたってユダヤ人を迫害してきました。その頂点がナチスによるホロコーストでした。西欧諸国はそれを自分とは関わりがないとしていますが、それは違います。ナチスは西欧のユダヤ人迫害の突出した部分に過ぎませんでした。

 西欧はその闇の歴史をどう始末したのでしょうか。なんということか、自分たちは一切その責任を負うこともなく、パレスチナ人の土地にユダヤ人の国家イスラエルを強引にねじ込むことにしたのです。

          

 以来、イスラエルはそれに抵抗するパレスチナ(当然です!パレスチナにとってはイスラエルは突然やってきた侵略者なのですから)に対し、西欧の軍事支援を受けながら、ナチスばりの抑圧を展開してきました。ナチスによるホロコーストに反対する人は、イスラエルによるパレスチナへの侵略、抑圧行為にも反対すべきです。
 
 とりわけ、第三者ヅラで自らの2000年にわたるユダヤ人迫害をパレスチナへの侵略で清算しようとした西欧諸国は卑怯そのものです。
 
 以上の理由から、私はパレスチナの反抗を「造反有理」と認定し、これを支持します。
 
 停戦云々がいわれますが、それはまずイスラエルによる侵略、抑圧行為の終焉が条件になるべきだと思います。

 

 
 
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ジャニーズ事務所と旧統一教会 その過程の類似

2023-09-08 14:51:37 | 社会評論
旧統一教会に過料を課し、場合によっては宗教法人の資格を取り消すという。
この進行の過程、ジャニーズ問題とまったく同じだと思う。
喜多川が生きてる間は見て見ぬふりのメディアが急に騒ぎ出す。
旧統一教会は岸−安倍の健在な間はやはり見て見ぬふり。そして今頃になってやっと腰を上げる。
 
      
 
両方とも、数十年間悪行が続き被害が出続けた点でも一致している。
今頃になって正義ヅラして、おのれの過去には頬っかむりのメディアのおめでたさを痛感。
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関東大震災一〇〇周年に寄せて思う。

2023-09-02 01:32:44 | 社会評論

 昨日の9月1日は関東大震災100周年の日であった。
 この地震による死者、行方不明者数は10万5千人ほどといわれる。その悲惨さは目に余るものがあるが、さらにそれに拍車をかけた事実がある。それは、6千人余といわれる朝鮮人、言語障害者、地方出身者に対する暴行致死事件である。
 
 朝鮮人が暴動を起こす、井戸に毒を投げ込んだなどの流言飛語が飛び交い、その防衛と称して各地に自警団が組織され、通りかかる人を捕らえては、「15円50銭」と言わせ、それがうまくいえない人を朝鮮人とみなして虐殺したというのだ。
 こうした事実を踏まえ、私が気になった事柄を2、3述べておこう。

 ひとつは東京都知事小池百合子のの虐殺容認の態度である。彼女は就任以来7度目となる今年も、朝鮮人虐殺追悼式への追悼文の送付を拒否した。「三国人」などという差別発言を繰り返していたあの石原慎太郎ですら、その知事時代には毎年追悼文を発表していたにも関わらずだ。

 小池の言い分はこうだ。彼らへの追悼は、関東大震災での犠牲者全員への追悼分に含まれ、すでに済んでいるというのだ。ようするに、地震に付随した家屋倒壊や火災による犠牲者と朝鮮人虐殺は同じく自然災害に過ぎないというのだ。
 結局彼女は、こうした場合、朝鮮人は殺されて然るべきだとその虐殺を肯定し、その再発を防ぐ気もないということになる。

 6千人余というのは決して少ない人数ではない。行方不明者数10万5千人のまさに6%が人為的な殺人事件だったわけである。

 もうひとつは、昨日の「朝日新聞」を見ていての感想だ。さすがに何箇所かで朝鮮人虐殺に触れ、それに至る流言飛語を防ぐためにといった記事も書かれている。
 だがちょっと待てよ、と思ってしまう。当時のメディア、とくに新聞の果たした役割についての言及はまったくないのだ。

 1923年時、ネットやテレビはむろんなく、ラジオ放送すらなかった(放送開始は25年)。ようするに、その時代、唯一の大衆的メディアは新聞だったのだ。
 では、新聞はどう報じたのか。流言飛語の尻馬に乗って、それを煽るように広めた新聞もけっこうあった。少なくとも、新聞はそれを抑制する役割をほとんど果たしてはいない。朝日はそれらについてちゃんと自己検証すべきではないだろうか。

 最後にもうひとつ。あの虐殺事件は決して流言飛語に惑わされた愚かな群衆による犯行に還元してはいけないということだ。それは、1919年の3・15独立運動に対する日本政府の対応が、朝鮮人の暴徒による暴動と断じ、新聞などのメディアもそれに従っていたからだ。朝鮮人=暴徒、暴動を起こす連中ということで、震災時の流言飛語を裏付ける素地は当時の日本の公式的普遍的な立場ですらあったのだ。
 

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クラスター爆弾を使用するウクライナを支持できますか?

2023-07-10 10:36:30 | 社会評論

 あウクライナはアメリカが供給するクラスター爆弾を対ロ戦に使用するという。
 この爆弾は、いわゆる親子爆弾といわれ、親爆弾のなかには数百個の小型爆弾が収納され、それらが空中での親爆弾の炸裂に伴い、広い範囲に拡散して炸裂するという「効率性」の高い爆弾である。ということは、限定された軍事目標にとどまらず、無辜の住民にまで被害を及ぼしかねない。
 しかもこの子爆弾たち、着地点によっては、その時点で炸裂せず不発弾として残り、事後的に思わぬ被害を生み出す。

 この爆弾は、ヴェトナム戦争で米軍によって使用され、その悲惨さに非難が起こり、その不使用のための国際条約が提起され、現在百カ国以上がそれを支持している。日本の自衛隊は、一時期、それを保有していたが、今は廃棄処分にしてるという。それをいま、ウクライナが使用しようとしてる。

       

 私はこれに反対する。もともと、ゼレンスキー良い人、プーチン悪い人といった単純なウクライナ支援(メディアの大半がそうだ)には加担してこなかったが(とはいえ、ロシアを支援しているわけではない)、その「徹底抗戦」の方策が悲惨の拡大であることが許されていいはずがない。
 もし、この戦争が悲惨の拡大再生産を肯定するものならば、ロシアの限定的な核兵器の使用も制限しようがなくなる。

 方策は唯一つなのだ。直ちに停戦、そして話し合いのテーブルに着くこと。
 私はこの戦争がはじまる前に書いたことがある。ウクライナはNATOへの加入を当面、見送ること、ロシアはウクライナ領への侵攻を止めることである。この二つは糾える縄のようなものだ。ウクライナはロシアの侵攻に備え、NATOを後ろ盾にしようと思い、そしてそれはロシアにとって、自分の喉元に短刀をつきつけられるようなものであり、ウクライナ抹殺へと走る。

 私にとっては正義だとか理念だとかはどうでもいい。むしろ、そんなものはない方がいい。そんな観念的なものよりも、もっと価値を持つのが「悲惨の減少」である。プラグマティストのR・ローティが晩年、現代思想の相対主義(なにが真理かわからない)に対し、掲げ続けたのがこの「悲惨の減少」という論理=倫理であった。
 もちろん、なにが悲惨でなにが悲惨でないかはそれ自身問題であるが、ゼレンスキーのクラスター爆弾使用は明らかに悲惨の拡大を意味している。そしてそれは、ロシア側からの新たな悲惨を招きかねないというべきだろう。

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鮭が高級魚に? 変動する生態系とわが家の植物たち

2023-05-21 16:55:58 | 社会評論

 今日の「朝日新聞」日曜特集「GLOBE+」は「海をむしばむ温暖化と酸性化」の記事を載せている。その書き出しはこうだ。

      
 
 地球温暖化と海洋酸性化。「双子の悪」が豊かな海を破壊しています。その原因は、私たちが大気中に大量に放出している二酸化炭素です。

 特集はまず、オーストラリアのグレートバリアリーフでのサンゴ礁の惨状と、それを護る人たちの活動を伝える。600種のサンゴ、1,600種の魚類、30種以上のクジラやイルカの生存が掛かった地域でもある。

 こうしたサンゴ礁の危機はむろん大問題だが、私にとってさらに関心があるのは、それによる魚類の生態の変化であり、わたしたちが口にする普通の惣菜魚の変化である。
 庶民の秋の味覚、サンマが獲れなくなったのはここ数年の話だ。かつては100円も出せばまるまると太った刺し身にも出来る鮮度のものが手に入った。
 今はもう、線香ほどの細くて油っ気もなくパサパサしたものが300円でやっと手に入るありさまだ。

          

 それが今度は、鮭にまで及びつつあるという。高度成長期の垂れ流しで汚れきった河川が浄化され、鮭の遡上が可能となった河川では、食用として捕獲すると同時に、ン百万という稚魚を人工孵化し、海へと帰している。「何年か先、またおいで」というわけだ。
 その循環がうまくいって、ここしばらくは鮭の漁獲量も市場への供給も安定していると見られてきた。

 しかし、その循環が崩れつつあるというのだ。ようするに、そうしてせっかく放った鮭が成長しても元の河川へ戻ってこないというのだ。日本の北部の河川とその付近の漁場はその循環に頼っているのだが、それが著しく期待を裏切る結果となっているらしい。
 これと同じ現象は、緯度を同じくする太平洋対岸のカナダでも起こってるという。

          
 これらに反して、より北方のアラスカ、ロシアのオホーツク沿岸ではここの処、鮭の大漁に沸き返っているという。このよって来るところは明らかではないか。日本やカナダで育てた鮭が、温暖化を嫌ってより北上しているのだ。
 このままでいったら、やがて鮭の切り身は高級魚の仲間入りかもしれない。

 こうして移動できる魚類はまだいい。はじめに書いたサンゴは動物でも、魚類のようにその生息域を急激に変えることはできない。可愛そうだが、座して死を待つことになる。

          

 それと同様、私たち惣菜魚の消費者も、座しておのれの可能な食を維持するほかはない。サンマも鮭のだめならサバやイワシにするかという選択もじつは先行き安定したものではない。
 サバはここんとこ急騰していて、サバの水煮缶なども倍近い値上がりとなってる。そしてイワシも、その漁獲量が減少しつつあるというのだ。

 こうした人間の営みが地球環境そのものを多くく変化させるこの時代を「人新世」というのだそうだが、そう名付けたところで、私たちの営みが楽になるわけではない。

          

 え? G7? あんなもん戦争ごっこの片棒担ぎ以外何の役割も果たしはしない。広島で開催したのも岸田の故郷へ錦を飾る以外の役割はなにもない。
 核の廃絶?核抑止力の断固とした維持を再確認したということは「広島は核の実験場」だったのであり、われわれは、その「成果」を踏まえて核を持ち続け、必要とあらばそれを強化しますよ。日本の皆さん、先制攻撃可能まで踏み込まれたのでしたら、核弾頭の一つや二ついかがですか。あ、わが方には豊富な在庫がありますからお値打ちに配備して差し上げますよ・・・・ってえのが「ヒロシマサミット」というわけだ。大江健三郎が泣いてるよ。

      

 と脱線したところで、写真はわが家の植物たちの現状。
 鈍感な私が気づかない気候変動をキャッチして、それぞれがその開花時期、実を結ぶ時期などを選択しているのだろうな。
 (最初の写真のみ、今日付「朝日」の「GLOBE+」から)

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家業としての政治家たち 看板としての思想信条

2023-04-10 16:33:59 | 社会評論

 統一地方選の第一期が終了した。関西での維新の伸びは想定内だったし、ほとんど変わりばえがなかったといっていい。
 
 そんななかで私が唯一注目したのが地元岐阜県議選の多治見選挙区の結果であった。この地区は衆院選岐阜第5区の中心都市だが、一昨年の衆院選において、当時、連続10回当選の盤石の基盤を持つ自民党の古屋圭司に対し、全国最年少、弱冠25歳の立憲の候補者、今井瑠瑠が挑んだのであった。結果は、古谷の8万2千票に対し6万8千票と迫り善戦したものの落選であった。しかし、この票差は彼女の若さと相まって、大いに将来を嘱望されるものであった。

            
             立憲の看板を背負った今井瑠瑠

 そんな状況に激震が走ったのは今年の一月であった。その今井瑠瑠が立憲から自民へ鞍替えし、今回の県議選多治見選挙区に立候補するというのだ。多治見選挙区の定員は2名、過去の県議線ではずーっと、自民系と野党系が一議席づつを分け合ってきた。

 しかし今回、自民は既成の自民候補(公認)の他に今井に推薦状を出し、この地区での自民独占を狙ったのだった。
 そして結果は、今井瑠瑠は2位当選を果たした。で、その結果としてはじき出されたのは・・・・自民の公認候補の方だった。

 けっきょく、自民の選挙区独占の夢は破れ、公認候補の落選という代償を払ったわけだが、今井の方は、高校時代からの政治家になるという夢を果たしたことになる。なお、この高校時代の政治家志向のなかには与野党のはっきりした区分はなかったというから、彼女の政治家志向は思想や信条とはほとんど関わりがないところで醸成されたものというほかはない。
 要するに職業としての政治家志向である。これが現行みられるような世襲と絡むと、家業としての政治家となる。そして、この国の政治は岸・安倍家の4代をはじめ、そうした家業としての政治家たちに牛耳られている。

            
             自民の看板を背負った今井瑠瑠

 今井瑠瑠の寝返り的離党、そして反対党派への加入であるが、過去にもなかったわけではない。
 1993年の細川内閣の発足による自民党の野党への転落は、野党中心というより、自民党を離党し、日本新党を結成した細川護熙ややはり自民党離党の新生党党首羽田孜、さらにはやはり自民党出身の新党さきがけの武村正義らの旗揚げに社会、公明などが呼応したことによる。
 しかし、これらの離党寝返りには、多数にあぐらをかいた自民党の腐臭漂う事態への反発と危機感があった。詳しくは語らぬが、当時、リクルート事件、金丸事件などなどの醜聞が自民党を蝕んでいた。

 しかし、最近の離党寝返りには、そうした危機感によるものではなく、よらば大樹的なものが多い。旧民主党時代の幹部、細野豪志などがその代表格であるが、思想信条においての変化を跡づけることは困難だという点では今井瑠瑠と共通している。

        

 マックス・ウェーバーは、その著書、『職業としての政治』で、「政治のために生きる」政治家と、「政治によって生きる」政治家を峻別しているが、この後者の、「政治によって生きる」ようするに、家業としての政治家が圧倒的に多くなり、それは今日の政界を支える最大のエネルギーではないかと思われる。それらの政治家たちが、その都度掛け変える新しい看板(たとえば「新しい資本主義」、「異次元の・・・・」など)は、家業継続のための看板の塗替えに過ぎない。

 ところで、こうした連中に、政治の素人である私たちが立ち向かい、その要求を実現する可能性はあるのだろうか。
 一番手っ取り早いのは、彼らの家業を容認し、その門下に膝まづき、忠誠を誓うなら、なにがしかのおこぼれとして、それは聞き届けられるかもしれない。そんな屈辱に耐えきれない正面突破は可能なのだろうか。革命、テロル、クーデター・・・・・・・・。
 いずれにしても、現状の政界というのはそうした政治の家業化を無視しては語れないのではないか。
 私は、これらの事態の解明や解決への道筋はもちあわせていない。

 今回の事態で、今井瑠瑠は、ある意味、今日の政治のあり方の典型のような気がしたのであった。

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紅梅とカレーピラフとAI チャットの可能性について

2023-02-19 03:19:58 | 社会評論

 亡父譲りの紅梅の鉢が、次第に花をつけ始めました。
 
      

 私が譲り受けてから、もう30年は経つので、おそらく樹齢は数十年でしょう。
 今年はなんだか、花の数が少ないように思えます。樹齢のせいか、私のものぐさのせいか気になるところです。

      

 この写真を撮った日、たまたま昼食にカレーピラフを食べました。

      

 そこでこんな文章を書きました。「亡父譲りの紅梅の鉢にどんどん花がついてきたので、昼食はカレーピラフにしました。」

      

 なぜこんな変な文章を書いたかというと、今話題のAI と会話(chat)ができるという、「chatGTP」をテストするためです。
 これをそのまま送ったところ、AI は以下のように答えてきました。

「この二つの要素は、本来ならば何の関係もないように思われますが、プロキシによってはやがて可能性があります。

仮に、この場合であれば、『亡父譲りの紅梅の鉢にどんどん花がついてきた』という状況が作者にとって喜ばしいものであったことがお願いします。そして、その喜びを表現するために、作者が昼食にカレーピラフを選んだことを示唆していると考えることができます。 つまり、作者が心地よい状況にあるために、カレーピラフを食べることができたのだということです。

規則、このような文章はアルゴリズムによって異なる解釈ができるため、正確な解決には解決を適応する必要があります。」

 まだまだ日本語がこなれていない感じがしますが、いってることはそんなに外れてはいません。
 このchatGTPはいま急速に世界中に広がりつつあります。アメリカの大学生にとっては必需品扱いだそうです。

 折しも、AI が人間の知能を超えるというシンギュラリティ(技術的特異点)は2045年だといわれています。

 さてその折、現実にはどうなっているでしょうか。私はもう生きてはいませんが、人間が現状のように愚かでいるとしたら、AI が世界を支配し、人間はその下僕となっているかもしれませんね。
 それが、戦争や格差のない社会だとしたら、それでいいのじゃないかと思っています。

 AI とのチャット、面白いですよ。今日私は、カントとニーチェの哲学について問答をしました。知識はAI 、その解釈などは私のほうが・・・・といえそうですが、AI は日々学習しますから、その逆転も近いのかも知れません。

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「猫ボラ」を飲み込む資本主義 経済効果は年2兆円?

2022-12-14 00:12:49 | 社会評論
 「猫ボラ」というのをご存知だろうと思う。「保護猫ボランティア」の略称で、飼い主のいない、いわゆる野良猫の殺処分を減らすため、その世話や管理をし、捕らえて避妊手術をしたり、その保護観察や一時預かりなどするボランティア活動のことである。

      

 そうした活動の一つの成果が、いわゆる「さくらねこ」と呼ばれる雌猫たちである。これは、捕獲され、避妊手術を受けた印として、耳の先端をV字状にカットされた猫で、その耳の形状が桜の花びらに似ていることから名付けられたものである。

      

 日頃からさして猫に関心がない私は、それを知ったのはつい先ごろのことだが、SNS上でそうした猫ボラに積極的に参加している友人たちも知っていて、殺処分がなくなるのならそれもいいことだなあとは思っていた。いや、良いことに違いないといまも思ってはいる。

 しかし、いま発売中の「週刊朝日」の広告見出しを見て驚いた。トップ記事の特集がその「猫ボラ」に関するもので、そのなかに、「ネコノミクス」の経済効果は年二兆円とあるのだ。多分これは、「猫ボラ」だけではなくその周辺の猫絡み総体でのことだろうと思うのだが、それにしても人間のあらゆる営みを経済効果として市場に還元してしまう資本主義ってなんとたくましいシステムだろうと改めて感嘆している次第だ。

      

 現況のグローバリズム下の資本主義が、一握りの富裕層と、生活困窮者へと二極分解しているなかで、それを止揚するためにボランティアやNPO活動、協同組合活動などの推進を説いている知り合いの学者がいるが、その彼は、こうしたボランティアなどの非営利活動自体が、市場経済の場へと駆り出され、「経済効果」で測られている実情をどう考えるのだろうか。

 他にも、もっと戦闘的に振る舞いながらも、実は、資本主義の掌の上で踊っているというお釈迦様の掌で暴れていた孫悟空みたいな話もけっこうある。例えば、「資本主義の絶滅」をうたった書籍などすら、市場での商品として私たちにもたらされるのが実情である。

      
 最近のバンクシーの作品?ウクライナがプーチンのロシアを投げ飛ばしているところ?

 資本主義の網目の外部はあるのだろうか。
 あ、ついでに思い出した。美術館や画商の画廊から飛び出し、落書きとして始まったバンクシーの「絵画?」が、今や億単位の立派な商品として市場で流通しているのである。

 資本主義ってすごいなぁ!

 

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