六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

菊との別れ

2011-11-30 15:32:39 | ラブレター
 しばしとはいえ、愛でたものとの惜別には心残りがある。
 などと意味ありげな書き方をすると、菊という女性との別れのようである。
 番町皿屋敷のお菊は類まれな女性であったとのことだが、そんな女性とならぜひ出会いたいし、また、別れたりはしたくない。
 幸いわが家には、割れて困るような10枚揃いの皿などないから、お菊との悲惨な別れなどしなくて済むし、彼女も井戸の中で毎夜皿を数えなくとも済むことだろう。

 この話、知ってる人は日本人の半分を割ったのではないだろうか。

    

 枕が長くなったが、ここでいう菊は単純に花の菊である。
 いつの間にか我が家に住みついた何の変哲もない黄色単色の小菊であるが、私のお気に入りである。
 この菊、昨年は花の付きが遅く、しかも少ししか咲かず、ずいぶん寂しい思いをしたものである。

 で、今年はというと、10月の終わりに、ポツポツと蕾の先端に黄色いものが見えはじめたのだが、それを見届けてから中国への旅立ったのだった。
 一週間程して帰国したら、それを待ちわびていたかのように一斉に開花し始めた。いつもの年にまして馥郁とした香りを伴ってである。
 しかもその花の数がなんと昨年の数倍にもおよぶ多さで、夜間でもその一角が明るいほどである。
 昨年とは打って変わったその様相に私はとても満足している。
 齢を重ねるとささやかなことにも過剰な喜びを覚えるのかも知れない。

         

 以来、一ヶ月にわたって咲き誇り、楽しませてくれてはいるが、やがては霜にうたれ、色褪せるであろう。
 その前にと感謝を込めてその終焉前の爛熟ぶりをカメラに収めた。

 ところで、なぜ昨年と今年ではこんなに花の量や質が違うのだろう。特別なことは何もしていないのにである。
 そういえば今年は、わが家では桜ん坊や琵琶など、実のなるものが不作であった。そうした不作の要因が菊にはプラスに作用したのだろうか。
 自然のなせる技はわからない。
 自然科学者ならすべて説明しおおせるとも思えない。

         

 さて、来年のお菊、いや菊は、どんな様相で私の前に現れるだろうか。
 そして私は、どんな状況下でそれを迎えることができるのであろうか。
 え?その菊が私の霊前に供えられている可能性がある?
 もちろんそれもありうる。
 いずれにしろ、またまた伸びやかに咲いて欲しいものである。

 

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有無変転 建てたり取り壊したり・・・

2011-11-29 15:12:31 | よしなしごと
 最近、私のうちの近くでは、新築、増築などが盛んです。
 一方、取り壊し、移転なども結構あります。
 それらはある種の騒音となってわが家を襲うのですが、さほど神経質ではない私はあまり気にはしません。
 世界は音に満ちているのです。

          

 まあ、新築、増築の場合は何が出来るのかは完成してのお楽しみなのですが、取り壊しの方はその瞬間を見ておかねばあとは瓦礫かさもなくばいつの間にか更地になっていたという結果に終わります。その挙句、はて、ここには何があったのだろうと記憶中からも消去されることもがあります。

 廃屋フェチの私は同時に取り壊しの野次馬でもあります。
 そこにあったものがなくなるというその瞬間を目に焼付け、写真に記録し、私的に葬ってやるのです。

          

 ここに載せたのは私の家から100メートルほど行ったところにある繊維関連会社のビルの取り壊し現場です。
 同じ繊維関連会社として建て直すのでしょうか、それともまったく別のものになるのでしょうか。私の予感としては、マンションかアパートに生まれ変わるのではないかという気がします。

          

 最後の写真はやはり近くにあった中型スーパーがすこし離れたところへ移転するため、旧店舗の看板取り外し作業です。ここも何になるのかまだ知りません。
 それよりも困るのはスーパーが遠くなることです。
 今までは調理の途中で足りないものに気づいたら、火を止めて買いにゆくようなことができた距離でしたが、これからはそうはゆきません。

       

 今も音が聞こえます。
 これはたぶん、うちから30メートルほどのケーキ屋さんの増築工事です。
 今朝通りかかったらほとんど出来上がっている様子でしたから、12月1日が増築オープンでしょうね。
 このケーキ屋さん、評判がよさそうで、クリスマスには車が押しかけ、警備員も出るのですが、私の家からの車の出入りにも影響します。

 そういえば、いくぶん離れたところに移転するスーパーも12月1日が新築移転のオープンです。
 品揃えは良くなるでしょうか。
 特に鮮魚類が今まで貧弱でしたから、その部分に期待です。

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コンサート・長良川・美濃市「あかりアート」

2011-11-27 16:35:40 | 写真とおしゃべり
 ここのところ、心身ともにいささかの疲れが溜まっているようなので思い切って遊ぶことにしました。
 
 まずはサラカマンカホールの昼のコンサートです。
 金沢澄華さんのソプラノ・リサイタルを聴きにゆきました。
 シンフォニーなどと違って一曲一曲が短いので肩肘張らずにリラックスして聴けます。
 華奢な体つきですが、声量は結構ありますし、歌声も美しいと思いました。
 客演はバスの伊藤貴之さんです。
 歌声のみならず話し声もとても低いので会場がドッと湧きました。
 二人の二重唱、ドニゼッテイの『愛の妙薬』から、アディーナとドゥルカマーラの二重唱「なんという愛情!」はなかなか聴かせました。
 また、アンコールでは私の好きな『ドン・ジョバンニ』(モーツアルト)からのドン・ジョバンニとツェルリーナの二重唱「お手をどうぞ」を聴くこともできました。

        

 すっかり満足して会場を出たのがまだ4時前です。
 よしと決心して、長良川の上流美濃市へと出かけました。
 ここでは今月いっぱい、特産の和紙を生かした行灯工芸の美術を町並みに配した「あかりの町並み美濃2011」を催しているのです。

 東海北陸道の高速に乗って飛ばしたせいか、まだ「あかり」を観るには明るすぎます。そこで小倉山近くの長良川へ寄り道をしました。
 吊り橋を渡ると長良川の澄んだ流れを眼下に出来ます。

 
 
 しかし、この下流にあのグロテスクで役立たずの長良川河口堰がこの清流をせき止めているのかと思うと心が痛みます。
 そのおかげで天然鮎も、サツキマスも遡上せず、その他あまり一般に知られてはいない海と川を行き来する生物もその往来を阻止され、一見きれいなこの川も、その生態系は目に見えないところで損傷を受け続けているのです。
 河口堰付近のヤマトシジミがほぼ全滅したことは周知の通りです。

        
         川の中央、せき止められているように見えるのは落鮎を獲る仕掛け

 そんなことを考えていて折角の休日に影が射し始めた頃、山並みに夕闇が迫り始めました。
 早速美濃の街、行灯の通りへと向かいました。

        
 
 街並みはすっかり夕闇の中に沈み、郷愁を誘うあかりがだんだんくっきりと浮かび上がりはじめています。
 やはり岐阜よりもかなり寒いのですが、しかしその寒さがあかりの温かみを一層盛り上げているかのようです。

 
 
 

 幻想的な一つ一つのあかりをじっくり見て回りました。
 あかりを展示してるメインの通りは二筋あります。それらはそれぞれ「うだつ」の密集した町筋としてもよく知られた通りです。
 小一時間も観て回ったでしょうか。
 散策していた人影も次第に少なくなりました。
 それとともに冷気が一層身に沁みます。
 この辺が潮時と町をあとにしました。

        
 
 癒された一日ではありましたが、帰りのハンドルを握りながら、何かしら澱のように沈んでいるものを感じていました。それが何であったのかはよくわかりません。私にとって私は他人なのです。



 
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山間部で見かけた廃車に触発されて

2011-11-25 02:33:55 | よしなしごと
       

 孤独であること、それは世界、ないしは世の中との交感の可能性が絶たれているのではないかという時生じるのだと思います。
 ロビンソン・クルーソは言葉としては孤独を語っていますが、世の中への回復を希求している限り、あるいはまた、フライディとの交流をもった限り、本質的な孤独感から免れていたのではないでしょうか。
 もちろん寂しさを感じたことはおおいにあったでしょうが、それは世の中との繋がりを前提としたものであり、孤独感ともまた違うものではないかと思うのです。

 孤独感とは自分が世界や世の中と隔絶されているのではないかという感覚ですから、それはロビンソン・クルーソのように空間的に隔絶されているということともまた違うようです。
 したがってこれは人混みのまっただ中においても起こりえます。例としてはふさわしくないかも知れませんが、小林秀雄が道頓堀の雑踏の中でモーツアルトの40番の旋律を聴いたようにです。
 
 よく文学青年や哲学青年(?)が孤独感を訴えることがありますが、たいていの場合これは、自分が共同存在にどっぷり依拠しているにもかかわらず、その孤高をアピールするためのものに過ぎません。
 孤独感はそうした有り様の選択とは無関係に不意に襲うものです。
 
 私の経験でいえば、結構乗客の多い夜汽車の中で、不意に、この人達が形成している共同社会と私は隔絶されているのではないかという思いが襲い、世界が白々しいものに思えてしまったことがあります。

 それは凍りつくような時間でしたが、私がこの世に生まれ、複数の人々と交わる中でおのれを形成し、やがてここを去るまでその共同体に属しているのであり、その各メンバーもまたそうして私とクロスする時間と空間を共有しているのだと思い直すにいたり、そのよそよそしい状況から抜けだしたことがあります。

 例えどのような隔絶感の中にいようとも、それ自身が共同存在の中の出来事であることは否めないような気がします。
 したがって孤独というありようも、また、共同存在の中でこそ可能なので、人間以外の存在者にはありえない状況でしょう。

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でっかいパチンコ玉の話

2011-11-23 16:00:51 | よしなしごと
         

 さすがパチンコ発祥の地、名古屋だ。
 街を歩いていたらでっかいパチンコ玉が落ちているのを見つけた。
 とにかくでかい。
 この玉を打つのにはよほど大掛かりな装置がいるだろう。
 もし、かかって、ジャラジャラ玉が出てきたら、それを運ぶのがまた一苦労だ。

         

 実はこれ、今春開設された名古屋市科学博物館の世界最大のプラネタリウム。
 行ってみたいが、5時間待ちとか、朝いちばんに各回の切符売り切れとか聞くと、岐阜くんだりからノコノコ出かけていては当分は無理か。
 人々が飽きて、容易に見ることができるまで待つしかないが、それまでにこちらの寿命がもつかどうか。
 「冥土の土産特別コース」などを作って欲しいものだ。

      

 上の二枚の写真は逆光覚悟で撮ったものでいくぶん暗いが、最後のものは9月19日の「反原発デモ」の際、南側の白川公園から撮ったもの。
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久々の川柳もどき&付知渓谷と中山七里

2011-11-21 03:06:31 | 川柳日記
 久しぶりの「川柳もどき」です。
 写真、前半は付知渓谷、後半は中山七里です。
 撮影はいずれも11月12日です。


<縮む>
 怖いけど縮めてみたい距離にいる
 縮む距離 もう影踏みもできません

     

<花>
 裏切りの蜜を湛えて咲き誇る
 花いちもんめあのこをさらう波がしら

     

<急ぐ>
 急いだら鬼が待ってる曲がり角
 幸せなひとだ決して急がない

        

<雨>
 雨だから重い手紙が来るだろう
 見つめればあのひとのなかに雨がある

     
  
<リモコン>
 リモコンに別れのボタン追加する
 リモコンが効かぬ世界は凍りつく

     

<谷>
 濃厚な谷間の虹の自己顕示
 谷の闇けっして見せぬむかし唄 

     

<灯>
 狐灯と同行二人 風の旅
 灯火管制 還らぬひとを待っている

     

<騙す>
 曼珠沙華鮮やかすぎて騙せない
 騙してはいません愛のレトリック

     

<策>
 万策を小刻みに出し生き延びる
 策のない愛のほほんと浮き沈み

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私が行ったところ 最後の航空写真をご覧ください!

2011-11-19 15:44:15 | よしなしごと
 中国から持ち帰ったものを整理していたら山西省の地図が出てきました。
 私が行ったところは地球上でどんな位置にあるところなのか本当は行く前に調べてゆくべきでしたが、ずぼらな私はおおよその見当だけで出かけたのでした。

 まずは山西省が日本や中国全土との関係でどこにあるのかを示した部分が見つかりました。わかりやすいですね。

       
 
 次に山西省全体の地図です。
 これを見た途端、「ア、長野県にそっくりだ」と私がいったら、ほかの人達も同意してくれました。そればかりか、今回の旅では長野県の出身者や長野在住の人が多かったので、長野県と比較して「ホラ、ここがどこそこでこの辺りもそっくりだ」と感嘆しきりです。

            

 この省の上、北側はもう内モンゴルです。
 内モンゴルとの省境にはあの万里の長城があります。
 また、西側は黄河を挟んで陜西省です。
 そのおとなりの省は川越しに眺めただけでした。
 私たちが川沿いに走った範囲では橋はまったくありませんでした。
 だから、毛沢東が黄河を渡ったという地点が、その歴史的意味と共に伝えられていて、でっかい碑まで建つのでしょうね。

 先ほどこの山西省が長野県に似ているといいましたがその広さは一桁違います。長野県が13,560 k㎡なのに対し、山西省は134,200 k㎡と、約10倍になります。
 日本でも有数の広さを誇る長野県の10倍なのです。
 ちなみに北海道は77,984.15 km?ですからそれと比べても2倍近い広さです。

       

 その広い山西省のどのへんに行ったかというと、南北にすればほぼ中央、東西にすれば西よりのところです。
 拡大した地図の左のほうに「臨県」という字(赤い四角で囲みました)がぽつねんと見えるでしょう。そのあたりです。いかになんにもないところかほとんど書き込みがないところから見てもお分かりでしょう。
 その東の方に赤丸の白抜きがある辺りは太原に近い平地といえます。
 私たちが拠点とした「賀家湾村」はその「臨県」のほんの一部に過ぎません。

 中国式にその所在を書くと「山西省呂梁市臨県招賢鎮賀家湾村」となります。
 グーグルのマップで検索するとちゃんと表示されます。

 自分の行った場所を後追いで確認しているなんて馬鹿ですねぇ。
 そんなものは行く前に把握しておくべきですよね。
 
 最後にいささか長ったらしいのですが、以下をコピーし、アドレスバーにペーストをしてみてください。
 私が行った山西省呂梁市臨県招賢鎮賀家湾村の航空写真をご覧いただけます。
 等高線のようにうねっているのはすべて段々畑です。
 すこし写真を動かしていただいても辺り一帯が同様の風景です。
 「耕して天に至る」というのがよくお分かりいただけるかと思います。
 そして私がそこへ行きたかったわけも・・・。

http://maps.google.co.jp/maps?
f=q&source=s_q&hl=ja&geocode=&q=%E5%B1%B1%E8%A5%BF%E7%9C%81%E5%91%82%
E6%A2%81%E5%B8%82%E8%87%A8%E7%9C%8C%E6%8B%9B%E8%B3%A2%E9%8E%AE%
E8%B3%80%E5%AE%B6%E6%B9%BE%E6%9D%91&aq=&sll=37.672841,110.931385&sspn=
0.002475,0.004576&vpsrc=6&brcurrent=3,0x0:0x0,0&ie=UTF8&hq=&hnear=%E4%B8%AD%E
8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD+%E5%B1%B1%
E8%A5%BF%E7%9C%81+%E5%91%82%E6%A2%81%E5%B8%82+%E8%87%A8%E7%9C%8C
+%E8%B3%80%E5%AE%B6%E6%B9%BE%E6%9D%91&ll=37.675822,110.953009&spn=0.004
951,0.009152&t=h&z=17
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小菊とシシ座流星群

2011-11-18 02:40:44 | よしなしごと
 ここ何日か中国への旅のレポートでいささか肩肘張った感もありましたので、ちょっと日常の茶飯事を。

 小さな植物にも気候に感応する力があり、毎年同じではありません。
 我が家の黄色一色の小菊ですが、いつの間にかやってきてそれなりに株を増やしてきました。決して派手ではないのですが、可憐な小さい花をつけるのでそれなりに愛でてきました。昨秋は花が咲くのが遅く、また花のつきも悪くとても心配したものです。
 ところが今年は、うって変わって、私が中国から帰るのを待っていたかのようにたくさんの花をつけました。

       

 黄昏時になると、そこだけが明るいようにほんのりと花々が浮かび上がります。
 特筆すべきはその香りです。菊独特の芳香が辺りにただよい、私は鼻孔を拡げてそれらと交感するのです。すると、これらの小さな花々が、何かとてもいとおしげに思えるから不思議です。

 大輪の菊も嫌いではないのですが、それらを育てる根気と技能を欠いた私には、何か自分とは隔絶した人工物の美として受け入れるほかないのです。

       
 
 夕方、ふらふら中途半端に表に居たせいか、体がけだるく喉元が痛みます。
 ピンチです。これは私の典型的な風邪の初期症状なのです。
 慌てて、念のため中国まで持っていった風邪薬の残りを飲みました。

 すぐ寝ればいいのですがそうは行きません。
 締め切りの原稿があるのです。
 それを自己校正し、送信しました。

 しかし、まだ寝ません。
 今夜はシシ座流星群が見えるはずなのです。
 ベランダに出ました。
 夜の冷気が身を刺します。
 東の空からそれは来るというのでそちらを凝視します。
 しばらく待っても何の徴候もありません。

       

 馬鹿ですねぇ。
 よく見たら、空全体が雲に覆われていて星ひとつ見えないのです。
 こんな中、流星群のみが見えるはずはないじゃないですか。
 身震いしながら部屋へ戻りました。

 私が肺炎をこじらせ死んだらそれは菊とシシ座流星群のせいです。
 しかし、変なトラブルで死ぬより、そのほうがいいのではないでしょうか。
 小菊を愛でた男。流星群に殉じた男。格好良いですね。

 あ、いけない、鼻がジルジルいい出しました。
 そう格好良く死ねはしまいと思います。
 今度こそ寝なければ。

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今季初の白菜漬け

2011-11-16 17:20:02 | よしなしごと
       

 岐阜産の白菜、中玉を158円で買いました。
 八つに切って干しました。
 小春日和の陽射しを受けて明るく輝いています。

 すこし水分が抜けたところで、唐辛子と昆布と柚子を入れて漬けます。
 さて、美味しく出来るでしょうか。

 それにつけても中国の旅で、青いものといえばところどころにある大根畑のみで、全体が褐色だった山から黄河河畔に降りた途端、その河川敷の畑で青々と育っていたのがこの白菜でした。
 そしてその夜、近くのヤオトン風民宿でその白菜の料理が出ました。
 とても美味しくいただきました。

 といったことで当分は、何につけ、あの中国への旅を思い出しそうです。
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中国山西省への旅 まとまらないまとめ

2011-11-16 16:29:08 | 写真とおしゃべり
 今回の旅のメインは、現地に住む旧知のNさんの取材によるオーラル・ヒストリーの中国語の出版本を、その取材に応じてくれた人々に配って歩く行脚に便乗し、それらの人たちやその暮らしぶりに接することでした。
 Nさんの取材対象がほとんど山の民でしたから、発展著しい中国というより、そこから取り残され、今後どうなるかわからないという何百年も続いてきた伝統的な風習の中に生きる人々との接触が主になりした。

       
                 山羊を飼う人

<蛇足>私が訪れた山の村々では、おそらくそこを訪れた最高齢の日本人だと思います。戦争時、日本軍が徘徊していはましたが、おそらく軍には73歳の老人はいなかったはずです。誰かギネス・ブックに登録してくれないかなぁ。

 とはいえ、その往復の途次で立ち寄った大都市の様相はたとえ不十分とはいえ目に入り、それと山の人々の暮らしとのあまりにも激しい落差に思わずめまいを覚えたほどでした。

       
           積み上げられたもの 厳冬期の防風用だろう

 それもあってか、まとまったかたちで今回の旅を叙述するには今なお脳が激しく攪拌されたままでとても困難なのです。
 今のところは、気づいた点をメモ風に書き残すのがやっとという有り様です。
 以下がそれです。

       
        村のお葬式 黒い門は風船式 空気を抜けば撤去できる

山の村へ到着して最初に見聞したのがそのお葬式風景だったのは象徴的でした。
 とりわけ、楽隊も入ったそのきらびやかな儀式は、日本のそれのしめやかさとは対照的でした。
 そこには人の死生観(中国では生死観というらしい)が顕れているようです。
 日本では仏教の、とりわけ浄土宗や真宗の影響もあって、無常観が中心になるようです。
 しかしこちらでは、その一生を成し遂げて土に還ったというその帰還に力点があるのではないでしょうか。
 日本や仏教の輪廻という考え方が「生命」の輪廻に限定されているとしたら、この地でのそれは「大地からいでて大地へ還るというもう一つ異なる円環」があるのかも知れません。

       
          村の谷あい これに沿った道が時折崩落するという

こんなのどかな山村が、すぐる日中戦争の折、その戦禍に巻き込まれ、大勢の人命などが失われたことはショックでした。
 そのクライマックスが、賀家湾村の一挙に273名がヤオトンに通じる洞窟でいぶし殺された(私たちから言えばいぶし殺した)1943年12月19日から20日にかけての出来事でした。
 当時私はすでにこの世に生を受け、大きくなったらお国のために憎っくき敵をやっつけるのだと固く決心していたのです。
 しかし、そのとき、私と変わらぬ歳の幼児や少年たちもこの洞窟で理不尽な死を迎えていたのです。

       
               100年前のヤオトン住居跡

それからの連想です。
 結果として日本は敗戦したのですが、もし勝利を収めていたとして、この広~い中国を統治し得たでしょうか?
 おそらくそれは、軍事的経済的優位をもってしても無理だったろうと思います。

       
                    黄河

さらにそれからの連想です。
 現在中国は共産党の一元的な支配下にあります。そして人民共和国を名乗っています。しかし、この国がスーパー資本主義の道をまっしぐらに進んでいることもまた周知の事実です。
 ここにはある種の虚構というべき背理があります。
 そして、それを指摘することはたやすいのですが、しかしながら中国は、方便としてであれその虚構を今のところ必要としているのではないでしょうか。
 もちろんこれは、論理や倫理を越えたリアルポリティックスの世界ですが、その虚構の失墜は同時に中国という巨大な民の集合体が崩れる瞬間だと思うからです。

 やがてその瞬間が来るかも知れません。
 そのとき、様々な悲惨が到来する可能性があります。
 都市の住民や、あの山の民をも巻き込んで・・・。
 そしてまた、近隣の日本というこの国をも巻き込んで・・・。

       
       天安門広場 手前の塔が人民英雄記念碑 その後ろが毛主席記念堂

どんな国にでもその地域差や格差はあります。
 しかしこの国のそれは一段と凄まじいのです。
 やや大げさに言えば、古代農耕文明とポスト・モダンとが共存しているようなものなのです。
 ほんらい通時的なものが共時的に併存し展開されているといってもいいかも知れません。しかもその間を多様な価値観がアト・ランダムに交錯しているのです。
 それは同時にこの国の時間的な広がりと空間的な広がりの巨大さをまざまざと示しています。

       
                 太原の市街風景
 
 それらの片鱗に接してきた今、私はその抗うことのできない茫漠たる事実性の前にうちのめされ、己の卑小さに打ち震えています。
 若いころ、自らの行為によって日本という国と、そして世界をも変革できると思い上がった私は何だったのでしょう。
 私は往時、硬直した理論の槍を掲げ、自分が勝手に思い描いた風車(=世界)へ立ち向かうドン・キホーテではなかったかと思うのです。

 もちろんこれは、現状に甘んじ、理不尽に屈せよといっているのでは決してありません。
 私自身、それは譲れぬところです。
 上に記したのは、形而上学的に思い描いたある思想やイデオロギーにこの現実の世界を力ずくで押し込めようとした私のうちの「暴力」への反省なのです。

       
                 宵闇の北京西駅前

この日記で述べてきた事実は多かれ少なかれ衝撃的なものでした。
 私はこうした現実を目の当たりにして、自分が安住すべきポジションを見失ったかのようです。
 しかし、中国の都市の民、山の民、そして私をも貫いて呼びかける一つの言葉があります。 
 それはハンナ・アーレントの、「ひとは必ず死ぬ。しかし、死ぬために生まれてきたのではない」という言葉です。
 この言葉に励まされ、これからもヨタヨタと生きてゆきます。
 中国での経験はまだ未消化ですが、私の生きるよすがに、ひとつの大きな参照項を与えてくれました。
 それらを受け止めながら、私自身の最終章を生きてゆきたいと思います。

       
 中国は広い 北京空港も広い 東京ドームがひとつや二つ落ちていても誰も気づかないだろう

 この旅に私を誘ってくれ、滞在中は言うに及ばず、事前の段階から手取り足取り準備を進めてくれたNさん、日本の歴史(20冊は読んだという)にやたら詳しく、出来事の年号や武将の名前などがスラスラ出てきて私をタジタジとさせた通訳の温さん、そして同行した多士済々な方々へ、改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

              2011・11・16  小春日和の岐阜にて
                        山の民の笑顔を偲びながら


  



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