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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「原爆の図 丸木美術館」が存続の危機を訴えています!

2020-06-29 18:00:18 | 催しへのお誘い

 ドイツ在住の畏友 K氏から、「原爆の図 丸木美術館」がこの間のコロナ禍により館存立の危機にあることを知った。ドイツ経由で知るとはうかつな話である。

       

       

 その危機の内容と支援の方法などは下記のページをご覧いただきたい。私もささやかながらカンパをさせていただいた。

https://congrant.com/project/marukigallery/1587

 私個人はこの東松山市にある館自体へ入ったことはないが、丸木夫妻の作品自体は巡回展などで2,3度は観ている。
 
 近くは2017年秋、愛知県一宮市の三岸節子記念美術館での「丸木スマ展 おばあちゃん画家の夢」を観ている。この丸木スマは、丸木位里の母親で、70歳を過ぎてから位里の連れ合い俊に勧められて絵筆を執ったという異色の画家で、その自由奔放な構図と色彩はある種心地よい全身の弛緩を誘うものであった。

 話が逸れたが、私の中での丸木美術館の位置づけだが、優れた芸術性を持つと同時に、戦争の負の遺産を余すところなく表現した作品を所蔵する美術館として、長野県の上田市郊外の「戦没画学生慰霊美術館無言館」と並んで決してなくしてはならない場所であると思う。

       

       

              18年5月に訪れた際のもの

 この間、芸術施設や芸術活動は「不要不急」とみなされ、公的な支援も薄く、危機的な状況にある。しかし、人間の生活は衣食住だけではあるまい。
 一定の時期が過ぎたとき、生き延びてはみたものの、貧しく索漠とした世界に自分たちが住んでいることに気づくのではあるまいか。

 そうならないためにも、ある種のアクションが必要なのだと思う。

 

 

 

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沖縄の友人が歌手デビュー 『祈り 命どぅ宝』

2020-06-28 02:09:27 | 音楽を聴く

 沖縄での私の親友が、6月23日の沖縄慰霊の日に照準を合わせ、それにふさわしい歌を引っさげて歌手デビューした。
 歌は『祈り 命どぅ宝』。歌手は彼女「おりざ」さん。
 歌詞は、俳句、詩、エッセイの各部門でおきなわ文学賞の県知事賞受賞歴のあるおりざさん自身。曲は熊木敏郎氏。

       

 さて、おりざさんの歌唱力であるが、昨年度の「第20回全国縦断歌謡フェスティバル」でグランドチャンピオンとなった実力者だ。

 歌詞並びにその歌は、幾度も歴史の重圧に踏みにじられ、いまもなお「琉球処分」に似た差別の重圧にある沖縄の民の、その芯にある静かな祈り、しかしながらうつむくのではなく、未来への希望へ向かって面を挙げてその祈りを放つような心に染みるものとなっている。

           
             右側、バンダナ姿がおりざさん

 その思いは、このCDをリリースするにあたって彼女の以下のような言葉にみてとれる。
「『命どぅ宝』という思いは
 言葉では語りつくすことができない陰影をもっています
 だからこそ私はこの言葉をタイトルにし
 リフレインにして祈るしかありませんでした」

       

 さて、私との出会いであるが、SNSで出会ってからもう10年にはなるだろう。岐阜と沖縄という離れた距離にありながら、彼女とはリアルに二度出会っている。

 一度目はもう数年以上前遡るが、彼女が友人のところを訪れた帰途、伊吹山のイヌワシを見たいというので私がアッシー君の役目を仰せつかったのだ。その折は、残念ながら天候の悪化で彼女の願いは叶えられなかったが、長浜を散策し、荒れ模様の琵琶湖を見るなど、親交を温めることができた。

       

 二度目の出会いは昨秋、沖縄へ招かれた折だった。三重県在住のS夫妻ともども、三日間の沖縄の旅だったが、その間、ずーっとおりざさんが案内をかってでてくれた。
 ヤンバルの森、珊瑚礁の海、破壊されようとしている辺野古の海、沖縄戦の凄惨を今に留めるチビチリガマなどの戦跡、そして祈りの地・平和祈念公園などなどの訪問は、沖縄訪問を物見遊山で終わらせたくないという私のわがままをきいてくれたおりざさんの行き届いた配慮だった。

       

 最後の夜、那覇でのカラオケで、おりざさんの生歌を聴くことができた。流石にグランドチャンピオン、その歌唱力は圧倒的であった。文句なしにうまいのだ。

       
           右側小さく写っているのがおりざさん

 しかし、今回、CDになったものをじっくり聴いて、その時とは印象が変わり、じつにしんみり聴かせる歌だと思っている。
 カラオケの場合は、ひとのもち歌で、いわゆるバエル歌が選曲されていたからだろうが、このCDは違う。いうならば、祈りの言葉を内側から丁寧になぞるようにして彼女自身の情感で表現しているのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=wwjb8wChELA

 添付したYouTubeは、沖縄のFM局にゲスト出演した折のおりざさんをとらえているが、収録風景を収録するということで、残念ながら歌の部分は不鮮明である。

 この歌、本人も書いているが、縁あって玉城デニー知事の手元へも届いているようだ。沖縄の祈りを洗練された表現で歌い上げたこの歌が、来年の沖縄慰霊祭を飾るような歌として聴かれ、歌われ、広げられることを願わずにはいられない。
 
 お求め、お問い合わせは ☎ 070ー3803ー8529 OFFICEおりざまで。
 価格は1,000円&送料などです。

  写真は昨秋、おりざさんの案内で沖縄を散策した折のもの

 

 

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沖縄の風 蹂躙し続ける私たち

2020-06-23 17:45:21 | 歴史を考える

 今年もこの日がやってきた。七五回目の沖縄慰霊の日。
 七五年前のこの日、私は国民学校の一年生であった。幼いながら、天皇陛下のためにこの一身を挺して戦えと叩き込まれていた私にとって。この日は記憶のうちにあった。

 おそらくその日のしばらく後であろう、学校で「沖縄が陥ちた。やがて、本土決戦は必至である・・・・」という訓示があったのを覚えている。どの程度リアルにこの状況を理解していたかはともかく、ある種の逼迫感のようなものがあったと思う。

        

 唯一、地上戦が行われた沖縄においては、総勢20万人が死を迎え、それら死者のうち、軍民を含めた沖縄県民はその人口のじつに四分の一を失ったのであった。
 双方の戦力からいって勝敗の帰趨は最初から明らかだった。にも関わらず本土からの司令は一日でも長く戦い続けろというものだった。

 いくら追い詰められても降伏は許されず、ただただ命をいたずらに捨てる戦いが強要されたのだ。
 こうして沖縄は、なんの見返りもないままに、一方的に「本土」の盾となることを強いられたのだ。その激戦が一応終了したのが七五年前のこの日だった。

        

 だが本当に終わったのか?

 昨秋、私は初めて沖縄を訪れる機会をもった。
 これまでも何度かその機会はあり、同行を誘われたこともあった。しかし、その都度、それを断ってきた。
 沖縄を犠牲にして自分が生き延びてきた、そしていまもなお沖縄を盾として利用しているという現実の中で、後ろめたさを振り切って物見遊山に出かける気にはとてもなれなかったのだ。

 昨秋はさいわい、同行の方も、そして沖縄で出迎えてくれる方も、こうした私の気持ちを理解していただいた上で、平和祈念公園などでの贖罪の祈り、いまなお、沖縄に犠牲を強いるその最先端の辺野古の訪問などをスケジュールに組み込んだ旅が実現したのだった。

        

 チビチリガマは東条英機の「戦陣訓八」「生きて虜囚の辱を受けず」を文字通り民間人にまで適用したような凄惨な場面が実現した洞窟で、投降しさえすれば全員が助かった(すぐ近くのシムクガマではそうだった)にも関わらず、火を放って集団自殺を図ったもののそれも叶わず、ついには自決が半ば強要され、親が子を殺し、肉親が相互に殺し合うという阿鼻叫喚を極めることとなった。
 自決者数は82(85説も)人に及び、その過半数は子供であったという。

        

        

        

 平和記念公園の海に面した明るい箇所に、黒い御影石に彫られた人名は敵味方を問わず、20万近くに及び、今尚、判明した人名が刻まれ続けているという。
 その間を散策した。碑を渡り抜ける海風は爽やかであった。
 しかしである、私を取り巻くこれらの人名は、すべて肉体を持ち、死体となったことによってここに刻まれているのだ。私を取り巻く20万の死屍累々・・・・これこそがこの場所の特異性なのだ。

        

 辺野古の海は沖縄の海の典型で、途中までは明るい色彩を放ち、何がしかの沖合で紺碧の深い色彩に転じる。その境界がサンゴ礁と外海を隔てている。それ自体がとても美しい。
 それがいま蹂躙されつつある。何度かの沖縄県民の意に反して・・・・などと今さら繰り返すまい。蹂躙する側は、そんなことは百も承知でそれでもなおそれを強行しているのだ。
 それを許している「本土」の私たちは皆その共犯である。「沖縄県民に寄り添い、真摯に対応する」という二枚舌の持ち主は、今年はヴィデオメッセージの参加だったようだが、私たちは彼の共犯者なのだ。

        

 75回目の沖縄慰霊祭、私の気持ちは晴れない。沖縄は頑張った、今度は本土決戦・・・・と力みながらも、その沖縄を新しい盟主アメリカに貢ぎ、それと引き換えに守られた「国体」のもとにのうのうと暮らす私たち。

 この日が来ると、思い出すもう一つのシーンがある。
 学生時代、沖縄から留学(当時はまだ米軍占領下で、日本ではなかった)していたA君のことだ。
 左翼も右翼も、沖縄早期返還を叫ぶなか、A君の主張は違っていた。「沖縄独立!」。彼は「早期返還」にこれをぶつけようとした。しかし、留学生が政治運動をしたことが発覚するや強制送還されるということで、私たちはそのビラを撒くのを手伝った。

 沖縄は、ほんとうに「日本」というこの国に「返還」されてよかったのか。日本というこの国は、返還された沖縄を、取引の材料としてのみ消費しているのではないのか。

  写真はいずれも昨秋、沖縄を訪れた折に撮ったもの

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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旬のイサキをいただく

2020-06-23 15:52:03 | よしなしごと

 釣り師の方から旬のイサキの釣果のおすそ分け二尾をいただく。
 それぞれ30センチに迫ろうかという良型。

       

 写真の魚肌、鱗がはっきりしないのは、わざわざ鱗を引いたものをお持ちいただいたため。右下は、白子。
 頂いた二尾にはそれぞれ、真子が入っていた。

 三枚におろす。
 まだ腹骨はとっていない。
 ここから用途によって処理が違う。

       

 刺身用は、腹骨をそぎ取り、中央の小骨が入ったチアイの部分を取り除き、腹身と背身に分ける。その皮を引いて切り分ければ刺身の出来上がり。
 イサキの刺身は、桜色に輝いていて美しい。
 
 腹骨やチアイ部分は捨てないで中骨やカマの部分とともにアラ炊きにする。
 真子や白子は、別途あっさりと煮付け、生姜の千切りを乗せる。

       

 もう一尾はムニエルにするつもりなので、腹骨はとるがチアイ部分は気になる小骨を毛抜きで取るぐらいでそのままにする。皮も引かない。皮をうまくこんがり焼き上げると、いい味のアクセントとなる。

 海なし県の岐阜にいながら、こんな新鮮な海の幸をいただけるというのはとてもありがたいことだ。
 感謝しつつ、いただくことにする。
 
 

コメント (2)
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1960年6月15日

2020-06-16 00:16:37 | フォトエッセイ

【追憶と追悼】ちょうど60年前のこの日の夜、私と同年代の(正確には一つ年長)女性が、国会南通用門近くでその命を落とした。

 彼女の命が絶たれたその時刻、私は、彼女と同じ目的で名古屋の街を歩いていた。

 彼女の死を知ったのは、その集会とデモの解散地点近くであった。その人の名は樺美智子。享年22歳。

 

       

 

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【懐かしい出会い】マーガレット・サンガー夫人の功罪

2020-06-03 01:48:07 | 歴史を考える

 『アメリカのニーチェ』(法大出版)という、アメリカでのニーチェ哲学の受容の歴史を述べた書を読んでいたら、思いがけない懐かしい名前に出会った。
 「マーガレット・サンガー」・・・・ひょっとして「あの」サンガー夫人では?半世紀以上の思い出がセピア色のフィルムのように巻き戻ってきた。 
 
 ところで、彼女がなぜニーチェとの関連で出てくるかというと、ニーチェがアメリカへ紹介された二〇世紀の初頭、彼女はまさに悪しき伝統、習慣に対して果敢に戦っていたからである。そこで彼女がニーチェに見出したものは、「あらゆる価値の転倒」という不屈の姿勢への共感であった。
 
 当時、彼女の戦っていたものとは性行為とその結果に対する女性の負荷の軽減、子どもを産む産まないの選択権を女性自身の意志に委ねるということであった。
 同時にこれは、貧乏人の子沢山の解消などを通じて当時の社会主義的運動にも結びつくものであった。

 これには彼女自身の身近での経験がバックに控えていた。彼女の母はなんと18回の妊娠を経験し、そのうち出産は11回を数えた。それによる貧しさの中、すでに自立していた姉の援助で、やっと彼女は保健衛生系の学校で学ぶことができたのだった。

           
                若き日のサンガー夫人

 そこで学んだことを基礎に、男女の性と性行為の仕組みの啓蒙に乗り出し、産児制限の仕方の普及などのパンフを発行したりしたり、産児制限の普及を目的とした記事を新聞「女性反逆者」に載せたりした。
 しかし当時は、宗教的な戒律と絡んで、性のことは自然に任せるべきで人が介入すべき領域ではないとされ、そうした伝統的な性意識のもと、彼女の活動は忌避され、そのパンフの配布に関しては「猥褻罪」に相当すると非難されたりもした。

 しかし、女性の権利と必要に深く根ざしたこの運動は、次第にその理解の領域を拡大していった。 
 そしてその活動は国際的な広がりをも見せ、戦前の日本へも数回の来日を果たし、日本の社会主義者、石本静枝(後の加藤シヅエ)などとの連帯のもと、その運動は広がりつつあった。

          
        
      石本静枝(後の加藤シヅエ)と産児制限を訴える左翼の雑誌

 そうした運動は、この国でも次第に普及するかのようであったが、折も折、それを一挙に吹き飛ばす事態が発生する。
 それは、日本が戦時体制に入ったことによる。戦争は、人間を兵士や銃後の「資源」として、それを大量に消費する。だから、戦時のモットーは「産めよ増やせよ」で、産児制限などはもってのほか、まさに非国民の所業にほかならないとされた。

 これにより、サンガー夫人とそれに同調する日本の運動は跡形もなくすっ飛んだ。お上は、多産の家族を表彰した。私の母方の祖母は、サンガーの母同様、11人の子供を産み、表彰状を授けられ、座敷の鴨居に飾っていた。

           
               1952年の来日を伝える記事

 この国で、その運動が復活するのは、戦後になってからである。そしてそのピークは、1952年、サンガー夫人の戦後初の来日であった。彼女は加藤シヅエと名を変えていたかつての同志、石本静枝ともども、その活動に尽力する。ただし、かつての反体制的なイメージとは異なり、政府そのものの公認のもと、全国で産児制限の講演などを行ったのだった。

          
             サンガー夫人と出迎える加藤シヅエ

 折しも私は中二で、性的な関心をもち始めた時期でもあった。そのせいか、サンガー夫人の来日はよく覚えている。しかもどこかで、人間の性的欲望は、他の動物たちが自分の子孫を残すための行為として行うものとはいささか違って、それ自体を求めるような、いわば疎外された性であることをおぼろげながら知っていた。

 もちろん「疎外」なんて概念を知っていたわけではない。ただ、とくに子どもを作るためでもないのに、あるいはこれ以上の子どもは必要ないのに、性行為の都度ポコポコ子どもができたらたまらないな、しかもその負担がもっぱら女性の側に課されるとしたら・・・・ぐらいのことは考えていたと思う。

             
                  戦後の加藤シヅエ

 このサンガー夫人の産児制限の啓蒙と普及は、戦前と戦後を画する大きな出来事であったと思う。そしてその効果は紆余曲折はあったものの今日まで至っているといってよい。

 ここまでは、彼女の功績を示す陽の部分だといって良い。しかし、残念ながらその陰の部分についても語らねばならない。

 もとより、性の話、出産の話、とりわけその制御については際どい側面をもっている。ようするにその制御とは、誰が、いつ、どこで、誰を産んでいいのか、あるいは産んではいけないのかを人為によって決めることである。

 そして、その判断のために参照されるのが優生学的思想なのであり、サンガー夫人はその優生学の祖に祭り上げられたことがあるのだ。一説によれば、ヒトラーも彼女の書を読み、多くを学んだという。

 事実、サンガー夫人には、それを思わせる叙述もあるようだ。例えば、ある民族においてはその脳の体積が小さく、したがって性的衝動を抑制し難いと本気で信じていたようなのだ。

         
             晩年のマーガレット・サンガー夫人

 また、劣性遺伝と目される人々の断種という理不尽な暴力的措置にもその根拠を与えてしまった節がある。
 日本でも、まさに戦後、1948年から1996年の間、優生思想を根拠にした「優生保護法」が猛威をふるい、「人口構成において、欠陥者の比率を減らし、優秀者の比率を増すように配慮することは、国民の総合的能力向上のための基本的要請である」という当時の厚生省の見解のもと、知的障がいや精神障がいの人が子どもを産まないよう、優生手術と呼ばれる不妊手術を強制したのだった。

 母体保護目的のものも含めて実施された不妊手術は84万5,000件に上り、そのうち本人の同意を必要としない強制的な優生手術は1万6,000件以上といわれている。
 それらの被害者の一部が、2018年以降、半世紀ぶりに声を上げはじめ、訴訟にすらなっているのは、耳新しいニュースである。

 日本の優生思想は、ヒトラーのそれのように、障がいを持った人たちを直接、殺害はしなかった。しかし、本来ならこの世に生を受けるはずの多くの命を予め封じたという事実は同様に大きな罪といわねばならない。
 誰が産まれてもよく、誰が産まれてきてはならないかをきわめて不確かな科学的根拠で判定したのであった。

 これらすべてのことどもがサンガー夫人のせいだとはいわない。しかし、性と生誕のコントロールの際どさが、残念ながらこうした陰の分野にまで及んだことを無に帰することもできない。

 今はただ、彼女の初期の動機、不本意な妊娠と産む装置としての女性の解放を志し、ひいては貧困層を浮上させたいという彼女の善意の動機をよしとするとともに、彼女の不十分な優生学説を、生産性の向上などのために悪用した連中を憎悪せずにはいられない。

 マーガレット・サンガーの来日という、少年時代の私の記憶に刻み込まれたものを再浮上させ、いま一度考えて見る機会をもったわけであるが、彼女の功罪がクロスする地点に立ってそれらをみるとき、いささか気が重くなるのを禁じえない。
 しかし、あの1952年の彼女の来日が、戦後民主主義下での女性の地位の問題、彼女らを性や出産の対象ではなく、それを自ら司る主体の地位に据えた点は評価できると思う。

 

 

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