『アメリカのニーチェ』(法大出版)という、アメリカでのニーチェ哲学の受容の歴史を述べた書を読んでいたら、思いがけない懐かしい名前に出会った。
「マーガレット・サンガー」・・・・ひょっとして「あの」サンガー夫人では?半世紀以上の思い出がセピア色のフィルムのように巻き戻ってきた。
ところで、彼女がなぜニーチェとの関連で出てくるかというと、ニーチェがアメリカへ紹介された二〇世紀の初頭、彼女はまさに悪しき伝統、習慣に対して果敢に戦っていたからである。そこで彼女がニーチェに見出したものは、「あらゆる価値の転倒」という不屈の姿勢への共感であった。
当時、彼女の戦っていたものとは性行為とその結果に対する女性の負荷の軽減、子どもを産む産まないの選択権を女性自身の意志に委ねるということであった。
同時にこれは、貧乏人の子沢山の解消などを通じて当時の社会主義的運動にも結びつくものであった。
これには彼女自身の身近での経験がバックに控えていた。彼女の母はなんと18回の妊娠を経験し、そのうち出産は11回を数えた。それによる貧しさの中、すでに自立していた姉の援助で、やっと彼女は保健衛生系の学校で学ぶことができたのだった。
若き日のサンガー夫人
そこで学んだことを基礎に、男女の性と性行為の仕組みの啓蒙に乗り出し、産児制限の仕方の普及などのパンフを発行したりしたり、産児制限の普及を目的とした記事を新聞「女性反逆者」に載せたりした。
しかし当時は、宗教的な戒律と絡んで、性のことは自然に任せるべきで人が介入すべき領域ではないとされ、そうした伝統的な性意識のもと、彼女の活動は忌避され、そのパンフの配布に関しては「猥褻罪」に相当すると非難されたりもした。
しかし、女性の権利と必要に深く根ざしたこの運動は、次第にその理解の領域を拡大していった。
そしてその活動は国際的な広がりをも見せ、戦前の日本へも数回の来日を果たし、日本の社会主義者、石本静枝(後の加藤シヅエ)などとの連帯のもと、その運動は広がりつつあった。
石本静枝(後の加藤シヅエ)と産児制限を訴える左翼の雑誌
そうした運動は、この国でも次第に普及するかのようであったが、折も折、それを一挙に吹き飛ばす事態が発生する。
それは、日本が戦時体制に入ったことによる。戦争は、人間を兵士や銃後の「資源」として、それを大量に消費する。だから、戦時のモットーは「産めよ増やせよ」で、産児制限などはもってのほか、まさに非国民の所業にほかならないとされた。
これにより、サンガー夫人とそれに同調する日本の運動は跡形もなくすっ飛んだ。お上は、多産の家族を表彰した。私の母方の祖母は、サンガーの母同様、11人の子供を産み、表彰状を授けられ、座敷の鴨居に飾っていた。
1952年の来日を伝える記事
この国で、その運動が復活するのは、戦後になってからである。そしてそのピークは、1952年、サンガー夫人の戦後初の来日であった。彼女は加藤シヅエと名を変えていたかつての同志、石本静枝ともども、その活動に尽力する。ただし、かつての反体制的なイメージとは異なり、政府そのものの公認のもと、全国で産児制限の講演などを行ったのだった。
サンガー夫人と出迎える加藤シヅエ
折しも私は中二で、性的な関心をもち始めた時期でもあった。そのせいか、サンガー夫人の来日はよく覚えている。しかもどこかで、人間の性的欲望は、他の動物たちが自分の子孫を残すための行為として行うものとはいささか違って、それ自体を求めるような、いわば疎外された性であることをおぼろげながら知っていた。
もちろん「疎外」なんて概念を知っていたわけではない。ただ、とくに子どもを作るためでもないのに、あるいはこれ以上の子どもは必要ないのに、性行為の都度ポコポコ子どもができたらたまらないな、しかもその負担がもっぱら女性の側に課されるとしたら・・・・ぐらいのことは考えていたと思う。
戦後の加藤シヅエ
このサンガー夫人の産児制限の啓蒙と普及は、戦前と戦後を画する大きな出来事であったと思う。そしてその効果は紆余曲折はあったものの今日まで至っているといってよい。
ここまでは、彼女の功績を示す陽の部分だといって良い。しかし、残念ながらその陰の部分についても語らねばならない。
もとより、性の話、出産の話、とりわけその制御については際どい側面をもっている。ようするにその制御とは、誰が、いつ、どこで、誰を産んでいいのか、あるいは産んではいけないのかを人為によって決めることである。
そして、その判断のために参照されるのが優生学的思想なのであり、サンガー夫人はその優生学の祖に祭り上げられたことがあるのだ。一説によれば、ヒトラーも彼女の書を読み、多くを学んだという。
事実、サンガー夫人には、それを思わせる叙述もあるようだ。例えば、ある民族においてはその脳の体積が小さく、したがって性的衝動を抑制し難いと本気で信じていたようなのだ。
晩年のマーガレット・サンガー夫人
また、劣性遺伝と目される人々の断種という理不尽な暴力的措置にもその根拠を与えてしまった節がある。
日本でも、まさに戦後、1948年から1996年の間、優生思想を根拠にした「優生保護法」が猛威をふるい、「人口構成において、欠陥者の比率を減らし、優秀者の比率を増すように配慮することは、国民の総合的能力向上のための基本的要請である」という当時の厚生省の見解のもと、知的障がいや精神障がいの人が子どもを産まないよう、優生手術と呼ばれる不妊手術を強制したのだった。
母体保護目的のものも含めて実施された不妊手術は84万5,000件に上り、そのうち本人の同意を必要としない強制的な優生手術は1万6,000件以上といわれている。
それらの被害者の一部が、2018年以降、半世紀ぶりに声を上げはじめ、訴訟にすらなっているのは、耳新しいニュースである。
日本の優生思想は、ヒトラーのそれのように、障がいを持った人たちを直接、殺害はしなかった。しかし、本来ならこの世に生を受けるはずの多くの命を予め封じたという事実は同様に大きな罪といわねばならない。
誰が産まれてもよく、誰が産まれてきてはならないかをきわめて不確かな科学的根拠で判定したのであった。
これらすべてのことどもがサンガー夫人のせいだとはいわない。しかし、性と生誕のコントロールの際どさが、残念ながらこうした陰の分野にまで及んだことを無に帰することもできない。
今はただ、彼女の初期の動機、不本意な妊娠と産む装置としての女性の解放を志し、ひいては貧困層を浮上させたいという彼女の善意の動機をよしとするとともに、彼女の不十分な優生学説を、生産性の向上などのために悪用した連中を憎悪せずにはいられない。
マーガレット・サンガーの来日という、少年時代の私の記憶に刻み込まれたものを再浮上させ、いま一度考えて見る機会をもったわけであるが、彼女の功罪がクロスする地点に立ってそれらをみるとき、いささか気が重くなるのを禁じえない。
しかし、あの1952年の彼女の来日が、戦後民主主義下での女性の地位の問題、彼女らを性や出産の対象ではなく、それを自ら司る主体の地位に据えた点は評価できると思う。