六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

多彩なカント先生と宦官オスミンの悲哀

2014-09-30 00:48:17 | よしなしごと
 前々回にも書いたが、カントの『人間学』をノートを取りながらボチボチ読んでいる。
 そのなかで、ときどきカント先生は面白いエピソードや引用などをしている。
 以下はほかのところですでにツイートなどしたしたものだが、未読の方のためにまとめて掲載する。
 
 カント先生、いかめしいところがあるかと思うと、予期しないところで突然面白いことをいいだす。ちょっと身近に感じてきた。

          

まずは人間の理性と年齢について
 理性が使えるようになるのは20歳ぐらいで、「利口」という点では40歳、そして「賢知」に達するのは60歳ぐらいで、その賢知の段階でその前の段階がすべて愚かであったと達観することができると述べたあと、「自分が正真正銘善く生きるべきだったと今はじめて自覚した途端にそろそろ死ななければならないとは残念なことだ」といっている。

 ちなみにカント先生、当時としては長命の方で、80歳まで生きている(1724~1804)。
 私の場合、古希を過ぎてすでに数年であるが、賢知とは程遠い。したがって、「自分は何ものにも至れないまま、そろそろ死ななければならないとは残念なことだ」ということになる。

          
 
道楽(趣味)について
 道楽は「多忙な無為」でしかないが、ある種の気晴らしにはなる。したがって、この種の「罪のない愚行」を真顔でとがめるべきではないとしたあと、イギリスの小説家、スターンの次のような言葉を引用している。
 
 「誰かがおもちゃの馬にまたがって町をあちこち乗り回しいるからといって、お前に後ろに乗れよといって強制しない限りはほっときなさい」

          

男女の役割分担について
 
 カント先生、ごたぶんにもれず、18世紀の性差における男女の役割についての当時の考えを踏襲している。男は外に、女は家にというわけだ。そしてこんな小話を紹介している。 
 
 召使「大変です。あちらの部屋が火事です」 
 
 亭主「そういうことは家内の仕事だということぐらいお前も知っているだろうに」

          

人間の誠意、裏切り、能力の関連
 これはカント先生の言葉ではなく、先生が引用しているヒュームの言葉。

 「トルコのスルタンが黒人の宦官に自分のハーレムの見張り役を任せるのは彼らの徳を信じているのではなく、彼らの不能に安心しているからである」
 
 
 これを読んで、当時のトルコのスルタンは黒人を奴隷とし、なおかつ宦官の手術を強いていたことを知った。
 そしてモーツァルトの歌劇、『後宮からの誘拐』のまさに後宮(ハーレム)の番人、オスミンを思い出した。そうか、彼は宦官だったのだとしばし考えてしまった。
 
 そして、あの歌劇の中では三枚目役として主人公たちから徹底して馬鹿にされる彼が少し哀れになった(ただし、モーツァルトはこのオスミンのために素晴らしいバスのアリアを用意している)。
 
 https://www.youtube.com/watch?v=hWIBh5vUD34

《追記》
上記の歌劇では宦官であるオスミンがブロンデに恋をしたり、捕われのペドリッリョが去勢されずにハーレムに入れたという矛盾も同居している。

上記を歌っているクルト・モルは1938年生まれ、私と同い年のドイツ出身の歌手だが、2006年惜しまれながら引退した。






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レ・ミゼラブル! 稲よ 立ち上がれ!

2014-09-27 01:28:26 | 写真とおしゃべり
 24日から25日にかけて、この地方ではほぼ24時間、雨が降り続いた。
 そう、名古屋駅で地下鉄が水浸しになった時のことだ。
 時折激しい降りもあり、累計の雨量はかなりのものになったが、災害に至る程度ではなかったと認識している。
 名古屋地下鉄のアクシデントも、雨の量もさることながら、隣接するビル工事現場の排水溝のトラブルという人為的なミスであることがほぼ判明している。

          

 ところがである、名古屋と同じ程度の降りだった私の地方で、というより私の目の前で、とんでもない被害をもたらしたのである。それがここに掲げた一連の写真である。
 私の居住する二階の窓から見下ろせる田んぼ(2反ないし1反半)のほぼ3割から4割の稲が、無残にも倒壊してしまったのだ。

          

 これをご覧になると、さぞかし強風が吹き荒れたのではと思われるだろう。
 しかしそれはなかった。上記のように雨は降り続いたが、ほとんど風を感じたことはなかった。ようするに、稲を物理的に強制して押し倒すような上方や横からの力は加わらなかったといっていいのだ。

          

 それと奇妙なのは、「スワッ、これは」と思って他の田んぼをひととおり見て回ったが、私が歩きまわった範囲では倒壊はここだけの現象なのだ。
 とすれば謎を解く鍵はこの田んぼ、ないしはここでの稲の育て方に限定されることになる。そして、それに心当りがないわけではない。

          
 
 ひとつにはここで使われている農機具が、ある程度機械化されているとはいうものの、他の田のものとは格段に違って旧式のものであるということである。
 これは農機具メーカーに勤務するネットで旧知の友人が驚く程のものである。
 しかし、そのせいではないと思う。なぜなら、私はこの田をもう何十年とウオッチしているのだが、こんなことは、ましてやこの田だけというのは初めてのことなのだ。

          

 もうひとつ心当たりがあるとすると、この田が、いわゆる有機農法に近いものを採用していて、土壌を入れ替えたり、下肥を鋤きこんだりしているしているのを目撃していることである。しかし、有機農法によって稲株が弱体化して倒壊するという話はとくに聞いたことがない。
 ただし、これはいえる。昔は台風シーズンなど、よく稲の倒壊を目撃したものだが、最近はそれはほとんどない。何か稲株を強化する技術が開発されていて、この田の主はそれを怠ったのだろうか。

          

 いずれにしても気がかりなのはこの稲の行く手である。ひとつはもう立ち上がることはできないのかどうかである。一日以上経った現在、その気配なあまりない。
 もうひとつは、倒壊したままで、平均的にいってあと2週間ほどの稲刈りまでの間に、実を熟成させることができるかどうかである。
 
 私は1944年から1950年まで、母方の実家に疎開児として身を寄せながら、おぼつかないままに田植えや稲刈りなど農作業を手伝ったことがある。それだけに田を見る目もどうしても農家に寄り添ったものになる。
 だから、心のうちで「稲よ、立ち上がれ」と叫んでいるのだが、自然の掟は厳しいようだ。
 この田が、所定の収穫はともかく、最低限の減収で済むことを祈りたい。

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カント先生からボレロ、大根飯、芋粥へのクレッシェンド

2014-09-24 01:37:58 | よしなしごと
  真は北伊那谷にて 本文とは関係ありません。

 カントという哲学者は、なんとなくその名前の日本語の語感からしても固そうな感じがする人で、事実、その三大著作といわれるいわゆる『三批判』〈注〉は、固くて真面目な文章で埋め尽くされています。

《注》『三批判』とは『純粋理性批判』(人は何を知ることができるのか)、『実践理性批判』(人はどう振る舞うべきなのか)、『判断力批判』(人はどのようにして判断することができるのか)がそれで、つまり、「真・善・美」について述べているわけです。

 しかし、それらと平行して書かれてという『人間学』(正確には『実用的見地における人間学』)の方は、「実用的」というだけに、『三批判』で展開したものを、実際の人間の生き様に適用したような書物で、結構砕けた表現や世俗的な話題が出てきて面白いのです。

          

 例えば、「セックスほどいいものはない」という話が出てきたかと思うと「ご婦人の下着」についてなどが話題になります。
 私はまだ、「人間の感覚」などについてのところまでしか読んでいないのですが、目次を見ると、その後も、「お調子者の多血質」とか「苦虫くんの気鬱質」、あるいは「お山の大将の胆汁質」などという見出しが並んでいて面白そうなのです。

 昨日読み終えたところには、「感覚の充足状態に至るまでの漸増」として「後続する感官表象が先行する感官表象より絶えず強くなってゆくとこの系列には緊張の極限があって、それにより感覚は次第に覚醒してゆくが、そこ(頂点)を過ぎると弛緩してゆく。感覚の強度を徐々に高めてゆくこと。楽しみを自分のコントロール下に置くこと」(私のノートからですから意訳です)などという箇所がありました。

          

 これは平たくいうと、感情が次第に充足してゆくためには、その刺激を少しづつ高めていって頂点に持っていったほうがいいということです。カントは、その例として、演説や牧師様のお説教を挙げています。
 しかし、私が思いついたのはそうではなく、音楽においてのいわゆるクレッシェンド(音楽記号でいうと< を細長くしたもの)でした。そして、世界一長いクレッシェンドをもつという、ラヴェルの『ボレロ』を思ったのでした。演奏時間十数分というこの曲は最弱音から始まり、次第に音量が大きくなり、それが最大になった時に「ダダダダン」と終わります。
 まさに「感覚の充足状態に至るまでの漸増」をそのまま音にしたような音楽ですね。

 https://www.youtube.com/watch?v=ssIemc6ob5U

 それから、私のノートからの引用の最後に「楽しみを自分のコントロール下に置くこと」というのがありますが、これについてはまったく個人的な思い出があります。
 それは戦中戦後の食糧難の時代の話ですが、今のように米の飯を普通に食べるなどということは一般には不可能でしたので、いわゆる代用食でお腹をもたすしかありませんでした。
 それらの割合マシなものの方に、『おしん』で有名になった大根飯や芋粥がりました。

          

 『おしん』の大根飯はどうやら大根を角切りにして少量のコメと一緒に炊きこんだもののようですが、私が食べていたのは、大根を千切りにしてご飯というより粥状に炊き込んだものでした。はっきりいってそれほど嫌なものでもありませんでした。
 それから芋粥ですが、これもまた、芥川龍之介の『芋粥』とはいくぶん違っていました。芥川のそれは、山芋を甘葛(あまづら)という甘味のある植物の汁で煮込んだもののようですが、私の食べた芋粥はさつまいもをサイコロ状にして少量の米と一緒に炊いたものでした。これもさほど嫌な食べ物でもなかったのですが、やはり米の飯が食べたいのは事実でした。

          

 そこで私は一計を案じました。芋粥が出た折のことです。サイコロ状のさつまいもから、周りについた米粒を払い落とすようにして、先に芋だけ食べてしまうのです。すると、茶碗の底に盃に一杯か、一口分ぐらいの米粒が残るのです。大根飯の場合は、大根が千切りでしたから、こうした分離は困難でした。

 さて、最後に残った米のご飯を、という段階でいつも大人たちにからかわれました。
 「オヤ、六は米の飯が嫌いか?じゃ、食べてやろうか」
 「イヤじゃ!」
 私は必至で茶碗を抱え込みました。
 それがおかしいというので、またドッと笑いが起こるのでした。

          

 え?それがカントとどう関係があるかですか?
 ほら、いってるじゃないですか、「楽しみを自分のコントロール下に置くこと」って。
 私はまさににそれを実践し、自分の最高の欲望を最後の瞬間にまで遅延させることによって「感覚の充足状態に至るまでの漸増」を図っていたのです。
 「いや、カントはそんな意味でいってるのではない」ということですか?
 でもいいんです。哲学って抽象概念の繋がりのようなものですが、時折こうした卑近で世俗的なレベルにまで降りてこないと空疎なままに終わることもあるのですから。
 だからほら、カント先生だって、いきなりセックスや女性の下着の話までして私を驚かせるのですから。
 え?まだ何か?
 驚いてなどいなくてほんとは喜んでるんだろうですって?
 もう、あなたもくどいですね。ほっといて下さいよ。
 カントせんせ~い、助けて下さい!



 
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お見舞いとお祭りのはざまで・・・・

2014-09-21 18:05:01 | 写真とおしゃべり
 20日、少しの時間だったが今池祭りに立ち寄ることができた。
 「できた」というのは、昨年の今ごろ、41.5度の高熱を出して入院中で、顔を出すことができなかったからだ。
 それが今年はこうして来られたばかりか、逆に親しい人が入院しているのを見舞いに来た帰りなのだから、歳月の経過というものは皮肉なものだ。

          

 わたくしを囲む家族にみるデジャ・ヴ かつては囲む側にいたのに

 これは昨年の入院時に私が作った歌である。というのは、この入院は私にとって初めての経験だったからだ。そして、私が見舞いに行った人も私より先輩でありながら、初めての入院経験だという。

 私の作った歌は、逆転して、この先輩についての歌にもなってしまったのだ。幸いにも、私にはささやかだが、この先輩のために手伝えることがある。それを引き受けて実施しながら、その回復を待ちたい。

          

 今池の祭りの喧騒、大音響のロック、威勢のいい神輿は、そうした私の状況には少しそぐわない点があったが、それはそれとして、敗戦後、闇市から出発したこの街の雑然さを象徴しているようで、この街で30年近く過ごした私としてはとても懐かしいものがあった。そして、このコンセプトを維持し続けてきた後輩の諸氏に、敬意を表したいと思った。

 懐かしい顔ぶれに出会うこともできた。
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信州伊那谷「赤そばの里」と元気な昆虫たち

2014-09-19 02:21:11 | 花便り&花をめぐって
 この中旬、長野県上伊那郡箕輪町の「赤そばの里」を訪れた。
 「赤そば」といってもコミュニスト(これはもう死語なのだろうか)の蕎麦ではない。花も実も文字通り赤い蕎麦なのだ。

 

 日本蕎麦の花は白いのだが、中国の雲南省あたりではピンクのものがあるという。しかし、ここのはまた違って、ヒマラヤの標高3,800メートルの高地に咲く赤い花のものを持ち帰り、それに品種改良を加えたもので、「高嶺ルビー2011」と名付けられたものだとのこと。

 

 中央道伊北インターから車で10分少々なのだが、まずはこの地は蕎麦そのものの産地とあって、普通の日本蕎麦の畑を見ることにした。
 蕎麦の花はまさに満開で、白く清々しく咲き誇っていた。

 農薬などあまり使っていないせいか、小型のコガネムシや花アブ、それにアキアカネなどが写真を撮るレンズの先に小うるさいほど飛び回っている。
 アキアカネは岐阜などで見るのとは違って、もうすっかり色づき、胴体が真紅に輝いていた。

 

 この調子なら赤そばも期待できるぞと先を急ぐ。
 赤そばが栽培されている地域は限定されていて、標高900メートルの地に、4.2ヘクタールにわたって展開しているという。
 ほかの蕎麦と分離されているというのは、やはり高地を好むとうことか、あるいは白いものとの交配を断つということだろうか。

     

 指定された駐車場からしばらく、木立ちの山道を登る。
 ちょっと疲れたかな(若い人にとってはそうではないだろう)というあたりで山道のカーブを回り切ると、いきなり視界がひらける。
 なるほど赤い。広大な地がじゅうたんを敷き詰めたよう赤さを帯びてはいる。

 
 
 しかし、なんだか物足りないものがある。
 花の赤さと葉の緑が混在していて、予め聞いていた「真紅の絨毯を敷き詰めたような」という情景とはいささか異なるのだ。
 しかし、さらに近づくとその原因がわかった。4分咲きというぐらいなのかまだ花がじゅうぶん開ききっていないのだ。赤そばは普通のそばに比べて開花が遅いのだ。

 

 土地の人に聞くと、「最盛期なこんなもんじゃないぞ、気味が悪いくらい一面が真っ赤になるのだから」とのことだ。
 確かにこの程度の開花で、これだけ赤いのだから、最盛期にはもの狂わしいほど赤くなることはじゅうぶん想像できる。ちなみに今年の最盛期は9月後半から10月中頃までということだから、これからという人にも間に合うだろう。
 しかし、生まれてはじめて見る赤い蕎麦の花はじゅうぶん感動的であった。

     

 もう一つ残念なことがある。それは、この赤そばをぜひ味わいたいと思ったのにそれがかなわなかったことだ。畑を降りたところに、「赤そば」という看板が出ている店があったが、まだ営業していなかった。
 帰ってからネットで調べたら、今年は以下のような日程という。
  ▼赤そば花まつり:9/27(土)・28(日)
   地元農産物・手工芸品の販売
   手打ちそばの提供(有料)
  ▼地元農産物等直売所の開設
   9/19(金)~10/12(日)

 

 ようするに、行くのが少し早すぎたのだ。
 自然は自然がもつ周期で移ろう。人間はまた、人間のもつ都合で往来する。
 だから、それらが重なり合わないことはよくあることなのだ。
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李香蘭(山口淑子)と川島芳子のことなど

2014-09-13 18:07:37 | 想い出を掘り起こす
 これは、アメリカに住む、私の年長の友人のブログに付けたコメントを一部加筆編集したものです。


 女優で歌手であった中国名・李香蘭、日本名・山口淑子さんが、94歳でなくなりました。
 
 私は戦時中の幼少時以来、ラジオからの彼女の澄んだ声が、『蘇州夜曲』や『夜来香』(イェライシャン)を歌うのを聴いて育ちました。

 私は、彼女が中国の人だとばかり思っていました。しかし、それは私ばかりではなく、当時の日本人の大半がそうだったのでした。

               

 そればかりか、中国でもそう思われていたようで、敗戦後、中国人のくせに利敵行為をしたと疑われ軍事裁判にかけられそうになったのですが、日本人だとわかり保釈されたというエピソードがあります。
 したがって、戦後にはなってからやっと、実は彼女は日本人・山口淑子だったことが広く知られるようになったのです。 
 
 
 この人と同様に謎であったのが、男装の麗人といわれた川島芳子さんこと、清朝の一族で中国名・愛新覺羅顯玗で、文字通り男装を好み、日本名の通名で活躍しました。彼女がどの程度の役割を果たしたのかはよくわかっていないようですが、日本軍の大陸支配や満州国建国に協力的であったことは事実のようです。
 そしてこの人の場合は、1948年、国民党軍によって、漢奸(国家反逆罪)として銃殺刑に処されています。

               
 
 最近知ったのですが、この二人はとても仲が良くて、姉妹のように振舞っていたそうです。そしてこれも最近知ったのですが、川島芳子の墓は、国民党政府からもらい下げた遺骨ともども、川島家の墓所がある、長野県の松本市にあるようです。
 
 戦争に翻弄された女性としての共通点が二人を強く結びつけたのでしょうが、長く生きた山口淑子さんが川島芳子さんのことを晩年、どのように偲び続けたのだろうかと空想しながら、私の幼少時に、日中を股にかけて活躍した当時の謎の女性二人のことに改めて思いを馳せるのでした。


【おまけ】https://www.youtube.com/watch?v=fZCHk-McCws 
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盲目の少女と「在特会」的意識の一般化について

2014-09-12 16:17:39 | 社会評論
 つい先日発生した事件に、盲目の少女の杖に躓いたかした男が、それへの報復として彼女を突き飛ばすなどの暴行を加え、重症を負わせたというのがある。
 とんでもないことだと思ったが、驚いたことには、目も見えない奴がうろちょろで歩くほうが悪いという加害者への同情論が少なからずあることである。
 これはどうも、「在特会」的意識が一般化しつつあるのではないか思わずにいられない。以下、それについて述べたい。

          
 
 「在特会」というのは正式には「在日特権を許さない市民の会」という。ようするに在日の一般的諸権利を特権化されていると解釈し、それを非難・排除しようとするもので、「死ね!」とか、「殺せ!」とかいう脅迫や殺人教唆を含むヘイト・スピーチで知られている。典型的なレイシスト集団であることは誰の目にも明らかである。
 そのデモでは、日の丸や旭日旗が林立し、かつての大日本帝国をさらに凝縮したスタイルを思わせ、それがまた、彼らのアナクロニズムをよく示している。

 ハンナ・アーレントは、20世紀初頭に端を発し、第一次世界大戦後ドイツなどで跋扈したこうした集団や階層を「モッブ」と名づけ、それらのゴロツキ集団がナチズムのひとつの先駆をなしたとしている。
 
 「モッブを特徴づける要素は、反倫理性である。それでいて直情径行タイプが多く、一度信じ込むと手がつけられない。そのことが反ユダヤ主義や人種主義(汎ゲルマン主義)に熱狂させ、ついにはナチスの指導者層を供給することにもなっていく。」

          

 すでにいろいろ言い尽くされているので、ここではこれ以上の在特会の批判は行わないが、指摘したいことは、こうした在特会的な意識が、在日の人達に対してばかりではなく、広く一般化しているのではないかということである。

 生活保護受給者へのバッシングは、12年に端を発したお笑い芸人、河本準一の問題から拡散し続け、現在、制度的にも縮小減額が実施され、受給者への監視や密告が絶えないといわれている。
 ようするに、貧しいことを「特権」にして収入を得ている余計者だという受け止め方の一般化である。
 
 ついでながら、河本準一は愛知県名古屋市緑区有松町で生まれているのに、「北朝鮮の生まれで密航してきた」とネットでまことしやかに書かれる始末である。ようするに、「朝鮮人は悪い→悪い奴は朝鮮人」という単細胞が考えそうな論理である。
 そういえば、私もネット上で「北朝鮮へ帰れ!」とご親切なアドヴァイスをけたことが複数回ある。

          
 
 ベビーカーで電車に乗る母親へのバッシングもそうである。彼女らは、子持ちという「特権」を生かして他の乗客に迷惑を及ぼしているというのである。問題は、それに同調する連中が意外と多いことである。
 同情的な言説の中にも、せめて混雑時の乗車は控えるべきだというものがある。彼女らだって、不便なベビーカーを押して混雑した電車などには乗りたくないに決まっている。しかし、乗らざるをえない事情があるから乗っているのだ。一見同情的なこうした言い分は、それへの想像力さえ欠いている。

 電車に関してはもうひとつ、ラッシュ時の女性専用車の問題がある。これもまた、女性の「特権」であるとしてこれに抗してひとりそれに乗り込んだ男性の映像がネットで公開されていた。世の中には痴漢というものが存在し、その大半は彼と同様男性であることをどう思っているのだろうか。
 ちなみにこの男性、やはり「在特会」のメンバーであることが暴露されていたが、私自身が確認したわけではないので真偽の程はわからない。

 冒頭に述べた盲目の少女への暴行事件に関しても、被害者の「自己責任」として加害者をかばう発言が少なからず見られるのが実状である。

          

 この国はいつの間にかくも心貧しく険悪で、他者を罵ることが自己表現であるかのようになってしまったのだろうか。しかもその侮蔑や悪罵の対象は、いわゆる社会的弱者とされる人たちなのである。

 ここには、人は生まれながらにして平等で、弱い位置に転落したのは自己責任だとする「迷信」がある。
 人は生まれながらにして平等ではない。遺伝子の作用もさることながら、生育環境、教育環境などなどによって千差万別の差異が生じる。動植物界においてなら、それらは適者生存によって淘汰されることがあるかもしれない。

 しかし、それをさせないのが人間の文化なのである。そうした千差万別の人たちに平等に法的な権利を与え、なおかつともに生きることを保証する、それが人間の文化なのである。逆に言うならば、そうした形で動植物界の適者生存、弱肉強食を乗り越えたところで人間は人間になったといえる。「万人が万人にとっての敵という状況の克服をもって社会の成立とする」とホッブズは説いている。

          

 それを否定し、特権をあげつらう在特会的なありようは、人びとが共存してゆく道を閉ざすものであり、アーレントがいうように、一元化されたレイシズムやファシズム社会への露払いを果たす可能性がある。
 
 なお、安部首相の肝いりで幹部に登用された高市氏や稲田氏が、ハーケンクロイツを掲げる団体の責任者と、日章旗を挟んで意気揚々と写真に収まっている姿は、外国のメディアではかなり問題視されているが、日本のメディアではほとんど問題にならない。

 「自己責任論」を掲げる新自由主義が在特会的なものへの傾斜を強めつつあることを危惧している。
 それらは、上に見たように、人びとの多様性、複数性を踏みにじるものだからである。


 2枚目と4枚目の絵は、ジャクソン・ポロックを真似て描いたものです。
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「残夏」によせて

2014-09-11 02:19:09 | 写真とおしゃべり
 もう一昨日になる。
 岐阜は午前中から30度を超えて気温は高かった。
 しかし、湿度は低く、適度に風もあって不快ではない。
 午後、いつものクリニックへ出かけた。
 薬をもらいに行く定期便のようなものだ。

          
 
 「最近どうですか」と女医さん。
 「時折微熱が出て気だるいのですが」と私。
 「のどの痛みや洟が出たりはしますか」
 「いいえ、それはありません」
 「風邪ではないようですね。持続していますか」
 「いいえ、時々です」
 「それでは、持続するようでしたらまたおいでください」

           

 ようするに、経過観察ということだ。
 老人の不定愁訴と思われたのかもしれない。
 まあ、それもありかなと自分でも思っている。

             

 帰途、ここしばらく歩いていないので、散歩をすることに。
 あまりいったことがない方角を選んで歩く。
 8月はカラッとした日が少なかったが、この日は眩しいくらい。
 ああ、これが今夏の最後の輝きかとも思う。

             
 
 「残夏」という言葉を思いつく。
 もうすでにある言葉だろうか。
 ちなみに、『広辞苑』にはない。

          

 日射しの中に輝いているものを選んで撮る。
 やはりケイタイでは限度がある。
 デジカメを持ってくればよかったかなとも思う。

          

 同じ季節の移り変わりでも、夏の終わりは少し寂しい。
 生命の絶頂が終わるという感があるからだろうか。
 秋は実りの季節といわれる。
 しかし、実りとは次世代への委譲にほかならない。
 必ずしもその生物の最盛期を意味するものではない。

          

 夏の陽射しの中にこそ最盛期はある。
 その意味では私はもはや秋の暮かもしれない。
 しかしせめて、夏の残照のなかで生きていたいものだ。
 そうした思いで「残夏」という言葉を思いついた。 
 
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撮り損なった名月と赤城山

2014-09-08 23:12:14 | 日記
 今宵は中秋の名月、これは写真に収めねばと複数枚撮ったのですが、まん丸には撮れたものの、先般撮った時のようにウサギさんまで写っていませんでした(涙)。
 悔しいので、両方載せます。


          

          

  <今宵の狂句> 名月や今宵限りの赤城山   六

 
 若い人にはわかりにくいかもしれませんね。
 そこで参考資料。

◯ Wikiより
 赤城山といえば、上州・国定忠治で有名であり、明治、大正、昭和初期に講談や新国劇の題材として大人気だった。国定忠治の一節「赤城の山も今宵限り、生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て国を捨て、可愛い乾分(こぶん )の手前(てめえ) たちとも、別れ別れになる首途(かどで)だ。」の台詞で、この山の名前が全国に広がった。

◯ おまけ  

  https://www.youtube.com/watch?v=D2rqtqCF0zo
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「駅裏」が「駅西」になった理由とは?

2014-09-07 00:16:40 | 想い出を掘り起こす
 今は「駅西」というが、かつては「駅裏」といわれた場所である。
 この場合の駅とは東海道線や新幹線の名古屋駅のことである。
 この辺りの地理に詳しくない方はよく誤解するのだが、名古屋地区では東海道線は東西にではなく南北に走っている。したがって街は、その東側と西側に広がっている。

 この駅「西」が駅「裏」と呼ばれた頃、その東側との違いは天と地、陽と陰ほどの違いがあった。もちろん、東が天で、陽で、そして表であった。
 これから想定されるように、この名称の違いは単に地理的方角を表すのみならず、明らかにある価値観をも含んだものであったといえる。
 極端に言えば、この裏は、表にとっての異郷の地、境界の向こう側であったといえる。

        

 当時この地区は、東の山谷、西の釜ヶ崎と並んで日本の三大スラムといわれた地区であった。

 私が名古屋へ通い始めたのは1957(昭和32)年で、敗戦後12年を経過していて、駅の東側はなんとか都市の玄関の風貌をもっていたが、西側、つまり駅裏はバラック建てが主体の雑然とした街であった。そして少し大きい建物(といっても二階どまりがほとんどだったが)はいわゆるドヤ街で、日雇いの人たちの街といっても良かった。
 
 先輩たちたちからはよく、「あそこは怖い街だから行ってはいけない」といわれた。ただし、「物の値段などは表側と比べたら雲泥の差で安いのだ」ともいわれた。そうした情報は、そこがヘテロトピア(異他なる場所)であることを私に刷り込むこととなった。
 
 ところで、当時の私は列車で通学していたから、毎日、その「駅裏」を横目で眺めていたことになる。
 そして、そうするうちに、怖いもの見たさと、安く飲めるという意地汚さで、駅舎からあまり遠くないところ(いざとなったら逃げられるところ)で飲食をしたりもした。確かに安かった。それを先輩たちに話すと、それは犬や猫の肉を使っているからだといわれた。

 ドヤ街に一度だけ泊まったことがある。「駅裏」から少し離れた大門(かつての遊郭があった街)で友人と飲んでいて、遅くなってしまい、駅に駆けつけたのだが終車に乗り遅れてしまったのだ。
 まともな旅館に泊まる金はもちろんない。意を決してドヤ街へ泊まった。
 おっかなびっくりだった。目覚めたら身ぐるみ剥がされいたなどという話がまことしやかに語られていたからだ。だから鞄を抱くようにして寝た。

 確かに駅裏は雑然としたスラムであったが、今にして思うに、それにまつわる悪評のようなものは、そのほとんどは都市伝説のような曖昧な根拠しかもたず、あからさまな差別の眼差しに依るものだったと思う。
 しかもこうした場所の存在は、往時の戦後復興から高度成長に至る右肩上がりの状況の裏側に張り付いたこの国の必要不可欠な一面だったのだと思う。

 その間の事情は岡林信康の『山谷ブルース』(68年)が歌い上げるとおりである。
 https://www.youtube.com/watch?v=yuPyhdzyGlI

 しばらく間があって、「駅西」と名を変えたその地区へ私が足を向けるようになったのは故・若松孝二監督が「シネマスコーレ」と言う独自色の強い映画館を作ってからである。
 その頃には、もうすっかり様変わりしていて、予備校やホテル、大手の家電店などがそびえ、かつての「駅裏」の面影は、歩道まではみ出るように商品を並べて商う八百屋や乾物店などにわずかに留まるのみであった。そこには微かにではあるが、かつての闇市の匂いが残っている。
 
 そうした街への移行の過程を少しだけ知っている。
 昔の友人に名古屋市の都市計画課の土地整理かなんかの仕事をしている人がいて、彼曰く、駅裏で火事だとの報せがあると、夜中であろうがなんだろうが消防士よりも早いくらいに現場へ飛んでゆくのだそうである。
 なぜそんなことをするのかというと、その焼け跡に地権者ではない人たちが新たな建物を建てないよう、いち早く焼け跡を囲い込んでしまうというのだ。

 これはまるで、イタリアのネオ・リアリズムの映画『屋根』(1956年 ヴィットリオ・デ・シーカ監督)の真逆のような話である。
 http://eiga.com/movie/50239/

 そんな経緯もあって、戦後いち早くそこに根付いた人たちをさまざまな手段や方法で駆逐してできた街が現在の「駅西」なのである。したがって、「駅裏」という言い方をしないのは、「表」に対する差別的な意味合いをなくすということでもあろうが、同時に、かつてこの街がもっていたリアルな差別の歴史を消し去ってしまおうというアンビバレンツな衝動をも秘めているといえる。
 そうした呼称の変化は、名古屋の伝統的なアウラと結びついていた町名がほとんど剥ぎ取られ、「名駅◯丁目」などという機能本位の無味乾燥なものに取って代わられた過程と平行している。

 今の駅西を見る人の目には、かつてのスラムは古層に埋まった遺跡のようにその姿を見せることはない。しかし、そこには確かに、戦後の日本がたどってきた歴史の片鱗が埋まっている。
 色とりどりのネオンがきらめく現在のこの街の華やかさが、格差や規格外の過重労働によって支えられているように。

 9月に入っての僅かな間に、奇しくもこの駅裏=駅西に二回足を運ぶ機会があった折の感慨である。

 
コメント (4)
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