六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

またもや早とちりのミス 著者は別人だった!

2022-05-31 11:42:13 | 書評

 先般、1・2とある小説本を、てっきり上・下と勘違いし図書館から借りてきて読んだところ、実は3巻があって、その3巻は著者デパントの母語=フランス語では出版されてはいるものの、まだ邦訳はされていないとあって、生きてるうちはその結末を見届けられないかも・・・・というミスを犯してしまったと書いた。もっとも、結末はともかく、その過程自身がけっこう面白かったからさほど後悔はしていないが。

 で、今回はまたまた失敗をやらかしてしまったのだ。
 舞台はやはり岐阜県図書館の新刊コーナー。ふと目をやると、ベルンハルトの『推敲』という書が並んでいるではないか。すわ、「あの」ベルンハルトの新作と迷わずに借りてきた。

 この作者については、最初手にとった『朗読者』が面白かったので、その後、邦訳されているもの7、8冊を読み漁ったことがある。この『朗読者』は国際的に評価され、2008年には映画化もされている。ただし、映画の邦題は『愛を読むひと』(監督:スティーブン・ダルドリー)だった。

              

 帰宅して早速読みはじめてみると、なんか違和感があるのだ。文体や叙述のスタイルがまったく違うし、どこか実験的な書に思える。著者の名前を確認する。トーマス・ベルンハルトとある。ん?ちょっと違うような・・・・ということで『朗読者』で検索してみると著者名はベルンハルト・シュリンンク。同じベルンハルトでも、一方は姓の方であり、もう一方は名の方なのだ。ついでに『朗読者』のベルンハルトはドイツ人で今も健在だが、『推敲』のトーマスの方はオーストリア人で、しかも1989年に既に故人となっている。

 つまり、ベルンハルトという字面のみでまったく別人の書に接することになったわけだ。
 でも面白ければいいじゃないかと読み始めたのだが、はじめっからまず視覚的に違和感があった。見開きでスキャンして載せた写真を見ていただきたい。2ページ分をびっしりと文字で埋め尽くされているのがおわかりだろう。これは、たまたまこのページでのことではなく、どのページもそうなのだ。

 どういうことかというと、300ページほどの小説なのだが、前半に「ヘラー家の屋根裏部屋」という小見出しがあり、中間に「目を通し、整理する」という小見出しがあり、それぞれの始まりに段落の始まりを示す「一字下げ」があるほか、全てのページがびっしり文字で埋め尽くされているのだ。ようするに、300ページから成るこの小説は、たった2つの段落からなっているのだ。そうそう、小説によくある「 」付きの会話体がまったくないのも各ページが文字で埋められる原因をなしている。


           

             余すところなくページ全体を文字が。どのページも・・・・。
 

 ようするにこの小説の前半は、隠れた主人公ロイトハイマーの友人である「私」が、ヘラー家の屋根裏部屋に逗留し、自死したロイトハイマーの遺構に「目を通し、整理する」に至った経緯と、ヘラー家の描写なのだが、その描写は150ページ近くの一つの段落で語られる。

 後半は具体的にロイトハイマーの書き残したものの紹介だが、ロイトハイマーによって延々と語られるその家族関係が何やら凄惨である。どうやら彼の家族は父母と自身を含む三人兄弟、それに姉との六人家族なのだが、それを彼は、父と姉、そして自分の陣営と、母と兄弟の陣営とに分断する。その分断は、前者を「聖」、後者を「俗」とするほどである。
 彼=ロイトハイマーにとって、母はもはや母とも呼ばれず、その出身地からなるエファーデング人でしかない。これら家族のうち、彼が最も侮蔑的に描写するのはその母=エファーデング人である。そして、彼が最も敬愛するのがその姉である。

 この小説のもうひとつの主人公は、その姉のためロイトハイマーが設計し建てたコーベルンアウサ―の森の中心の円錐形の家である。彼は、イギリスのケンブリッジでの研究生活の傍ら、故郷オーストリアでのこの円錐の建設の没頭するのだが、後半はこの円錐の虜となったかのようである。
 この円錐の家は完成し、それを敬愛する姉に披露するのだが、その直後、姉は急死する。その後を追うようにロイトハイマーは自死する。

 ここまで読んで、私にはひらめくものがあった。それはこの小説の主人公に模されているロイトハイマーの正体についてである。オーストリア出身でケンブリッジで学究生活を送り、自分の姉のために住宅を設計したのは、まさに今世紀初頭の哲学者、ヴィトゲンシュタインにほかならないのだ。ヴィトゲンシュタインが姉のために設計したのは森の中の円錐形のものではなく、ウィーン市街の方形のものだが、彼はそのディティールにまでとことんこだわり尽くしたことが伝えられている。
 この私の推理は、訳者あとがきで正解であること知った。

                                                                                         
           ヴィトゲンシュタインがその姉のためウィーンに建てた住宅
 
 もうひとつ、この小説の実験的な試みを述べておくと、300ページに及ぶなか、人名の固有名詞はロイトハイマーとヘラ―しか出てこず、前半、後半を通じて、語り手の位置にある私の固有名も出てこない。ただし、この3人は幼少時から親友だったようだ。
 その他の人物は、父、母、兄弟、姉、友人などなど、その関係性でしか語られない。
 それと、母の俗物性(ほんとにそうであったかも疑問)についての記述はミソジニー風である。「 女性である限り精神に反対し感情に味方する。自然とはそういうものですでに証明されている」という叙述があるかと思うと、その姉に対しては「誰よりも親しい愛する人」などと今度は近親相姦的な記述が続く。まさに主観的な好悪が露骨に表出されている。

 既に白状したように、早とちりで間違えて借りてきて読まざるを得なかった小説ではある。しかし、面白くもなかったかというとそうばかりではない。この 実験的スタイルは細かいフレーズにも施されていて、それはそれで結構面白かった。ただしそれにしても、全ページをびっしりと文字で埋め尽くされている文章を読むというのは、なんとなく重圧に抑え込まれている感じがするものだ。
 表現における差異化の追求、それは広義の芸術界を貫いてあるものだろう。

 長生きすれば(といっても百歳社会ではまだ八十路前半はその端っくれだが)いろんなものに出逢えるものだ。

来月早々に両眼の白内障の手術を行うこととなった。そのせいで、この所を今月中に返済すべく、慌てて読んだため、どうしても冗漫な箇所はななめ読みになるなどし、ディティールで見逃しがあるかもしれないことをお断りしておく。
 
   『推敲』トーマス・ベルンハルト 飯島雄太郎:訳  河出書房新社
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私は昼餉に何を食らって生きているのか・・・・

2022-05-29 02:31:54 | よしなしごと

 時折、私の昼餉を載せてきたが、ここしばらく載せていなかったのでまとめて載せておく。

山かけそば
 山芋の上に乗せる香草類によってその味が。たまたま在庫していた葱の小口切りと大葉のみじん切りのみ。それに切り海苔を・・・・。

          



でたらめパスタ
 冷蔵庫を開けたらなにもない。ピーマンとブロッコリー、それに油揚げを具にしたありえない組み合わせのパスタ。

          



ざる蕎麦プラス冷奴。昨日の夕餉の残り、蕗の煮付けとウドとワカメの酢の物。

         

これからこれが増えるだろ。ヒヤムギ。

          

我流冷やし中華。具はモヤシ、レタス千切り、キュウリ千切り、ボロニアソーセージ千切り。キュウリは固くて麺の歯ざわりと違和感があるので、予め塩揉みをしてある。上に散らしたのは、万能ネギの小口切り。

          

令パスタ風冷やしウドン これはわれながら快作! 
 具はレタス、サニーレタス、万能ネギの4センチほどに切ったもの、トマト、中央は揚げの煮付けを冷やしたもの。
 はじめて「箸上げ」を撮ってみたが、右手で上げ、左手での撮影はけっこう難しい。

          
         

 美味しかったが、切りノリ、ゴマを振っても良かったかなと反省。

昼餉のための三原則
 1)昼餉のためにわざわざ買い物にはゆかない。ありあわせで作る。
 2)事前の構想などなく、その場の思いつきで作る。
 3)昼餉のために30分、一時間といった時間は絶対に使わない。基本、15分以内の調理とする。

【付葉付き大根の漬物
 農協で3本100円でゲット。大根葉よりもさらに成長し、直径2センチはどのいわば小大根。これは漬物にするほかないと漬ける。
 3日ほどで漬かる。大根もここまでになるとピリッと辛いが、それが美味しい。

          
          

 

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わが家の花事情 付・近隣のそれ

2022-05-26 14:22:36 | 花便り&花をめぐって

 基本的に草花を育てる資質が欠けている私が管理する(放置する)庭だが、ツツジが終わって以来、花が欠けていた時期があったが、 最近幾分の回復を見るに至ったので、それを報告方々載せておこう。

 まずはツツジの仲間、サツキであるが、 わが家のものは八重咲きである。私の剪定が下手なのかびっしり花をつけることはないが、そのかわり一輪一輪がとてもゴージャスである。

          
          
          



 続いてエンドウ豆。一株五〇円で買っ た豆苗の一部を植えたのだが、去年同様やはり植えたのが遅すぎたせいか、株だけはたくましく育ったのだが花がつかない。花がつかないということは実もならないということだ。
 それでも、二輪だけ花がついた。あとに続くとしたら嬉しいが、これで終わったとしたら惨めで、昨年以上の失敗だ。昨年は一〇粒ほど収穫し、一応、汁物の具にはなったのだが・・・・。

              
                   



 アジサイは小さな株だが今年は一〇輪の花をつけて喜んでいる。 元は緑がかった花だったが、ここへきて次第に色づき始めた。この花は例年、紫色になり、その後は次第に赤くなって終わる。一〇輪が出揃ったら 結構豪華な気分になることができよう。


           

          



 ナンテンはまだ固いが、白い蕾を付け始めた。

          


 これは、どこかから侵入してきたヘビイチゴである。玄関先に近い所にあるので、抜いてしまおうかと思ったが、よく考えたら、かってはこの近くの田んぼののり面にたくさん見られたが、最近はそののり面が垂直のコンクリート壁に変られてしまって、ほとんど見ることがなくなってしまった。そんなこともあって、あまりはびこらないように注意しながらも、全部を抜くことはやめておいた。

          



 これは道路を挟んでお隣りの庭にあるものだが、ベリーの仲間だろうか。ここの住人は近くの洋菓子屋さんのオーナーだから、なにかケーキに関連した実なのかもしれない。

          



 これは、近くの道路際のフェンスにびっしりしがみついている蔦状の植物だが、ひょっとして、フウセンカズラではなかろうか。だとすると楽しみだが、誰かが栽培しているものではなく、道路側に生えているから、そのうちに駆除されてしまうかもしれない。
 逃げることができない植物の宿命か。

               

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生きてるうちに読めない小説! その真相の告白!老害?重なるミス。

2022-05-23 16:09:43 | 書評
 ヴィルジニー・デパントの小説を手にしたのは偶然だった。
 いつものように岐阜県図書館の新着図書の棚を見ていると、『アポカリプス・ベイビー』という書が目に付き、訳者の「あとがき」を当たってみると、2010年にミシェル・ウェルベックとフランスの芥川賞のようなゴンクール賞を争い、惜しくも次点だった著者とある。

 このウェルベックであるが、新聞の図書欄で見かけ、面白そうなので岐阜県図書館にあるものを借りたところ、さまざまなフェイクやテロルに揺れるフランスを活写していて面白かったので、『セロトニン』『服従』『地図と領土』『ある島の可能性』『素粒子』など図書館にある彼のものはほとん読破した。
 彼の小説は、レイシズムやミソジニー、フェイクなどなど、いわゆるポリティカル・コレクトネスなどどこ吹く風といった描写が続くのだが、それらの描写を通じて、パリの取り澄ました表層の下にあふれるまさに「他なるもの」の蠢きやそのテロルとしての顕現を掘り起こしてゆく。

               


 そのウェルベックと肩を並べるというのだからヴィルジニー・デパントも面白いに違いないと早速借り出してきたのが『アポカリプス・ベイビー』であった。
 大雑把にいうと、父親から素行調査を依頼されていた15歳の少女・ヴァランティーヌに捲かれるのみか失踪を許してしまった女性探偵が、もう少し野性的な女性探偵ハイエナの手を借りて少女を追いかけるという追跡ロードムービーのような筋立てである。
 その叙述は、段落が代わるごとに記述の主体がそれぞれの登場人物に変わるという形式で、事態の進行がそれぞれの人物の思いを含む重層的なものであることが伝わる。物語の展開に従い、当然、重要人物ほど記述機会が多くなる。

 ここで、恥しながら私自身の勝手な思い込みのミスについて告白すべきだろう。
 この小説を読み始めてしばらくして、どこか違和感を感じて作家の名前をあらためてググッてみて愕然とした。この小説のややワイルドな表現や、ウェルベックなみのポリティカル・コレクトネス無視の記述スタイルからして、これは当然男性の手によるものだとばかり思っていたのだが、それが大間違いで、作者は女性だったのだ。

                   

 
 しかも、その経歴そのものがひとつの物語でもあるのだ。
 彼女は、フランスの労働者階級の家庭に育ち、15歳の折、両親は彼女の意思に反して彼女を精神科病院に入院させたというのだ。その後の少女時代はヒッチハイクをしたり、ロックバンドを追いかけたりしていたが、17歳のとき、友人とヒッチハイクをしているとき、ライフルを持った3人の若者に脅され、輪姦されるという被害に遭ったという。そして成人後は、メイド、「マッサージパーラー」やのぞき小屋での売春婦、レコード店の販売員、フリーランスのロックジャーナリスト、ポルノ映画評論家をしていたというのだ。そして24歳で小説家としてデビューしたという。

 私の間違いは、まずは外国人の名前につき、その男女の区別がつかないという無知によるもの、そして、ワイルドでハードボイル調の描写は男性によるものというなんの根拠もない誤った先入観によるものであった。
 しかし、私が「ん?」と思ったのは、ミソジニー風の表現が出てきたり、いわゆる「ヴィアン」がかなりのウエイトで出てくるのだが、その描出の仕方が男性のそれではないような気がしたからだった(と、ひとまずは私のミスを取り繕うことにしておこう)。

 小説の方に戻ろう。二人の女性探偵の追求は、パリを離れスペインのバルセロナへ至り、少女ヴァランティーヌを連れ戻すという任務には一応成功する。しかし、この少女は父親のもとには帰らなかった。永久に・・・・。この少女が身を挺した大惨事、まさにカタストロフィでありアポカリプスであった。
 しかもそれを引き起こした方法というのがまったくもって奇想天外なのであるが、まったくありえないとはいえないのが現代なのだ。
 
 なお、2010年に出版された(日本での翻訳は2021年)この小説は、その後、フランスを揺るがしたテロルの連鎖を予告したものとしての評価もあるという。

 この小説が面白かったので、このデパントのもの2冊を読んだ。
 『ヴェルノン・クロニクル 1「with the lights out 」』と『ヴェルノン・クロニクル 2「Just like Heaven」』だ。2冊合わせると700ページを超えるが、まあなんとかなるだろうと思って読んだ。

               


 「1」の方は、かつてパリでロックを中心とした音楽愛好家たちにその品揃えの質量の豊かさで尊重されていたレコード店の店主ヴェルノンが、人々の音楽需要の形態の変化により、閉店へと追い込まれ、新しい職に就くこともできず、かつての友人たちの元を転々として泊まり歩くのだが、ついには泊めてくれるところもなくなり、ホームレスへと至る過程を述べる。

 叙述のスタイルは、『アポカリプス・ベイビー』と同様、ヴェルノンと知り合った多数の人間のそれぞれを語り手として進行してゆく。それぞれの人達は、音楽の趣向、性愛のタイプ、ポルノ・DV・ドラッグなどへの向き合いを異にしながら生きている。「男も女もLGBTも、金持ちも貧乏人も、移民も難民も、老いも若きも、現代という壺の中に投げ込まれ掻き混ぜられ、毒と血と体液を塗され、日々生きている」(同書の感想文より)。
 こうした群衆の叙述を通じてその時代の多様性を描写してゆく作風は、評論家をして、デパントを「現代のバルザック(1799~1850)」と言わしめるほどてある。 

 「2」の方は、すっかりホームレスの地位に落ち着き、もはや普通の家屋に泊めてもらうことすら負担に感じるようになったヴェルノンが登場するが、問題は彼が唯一持っていた、いまは亡き友人にして伝説のロックスター・アレックス・ブリーチの遺言とも言える独白を録画したカセットデッキの争奪戦と、その公開をめぐる話となる。

               


 このカセットのなかでアレックスは、映画界で権力をもつディレクターが一人の女性をなぶり殺しにした事実を告発している。それを巡って復讐劇なども出てくるが、問題は、このカセットを観た限られた人たちの間に、ヴェルノンを中心とした緩やかなサークルが出現し、「1」でヴェルノンが泊まり歩いた人々、それを断った人たち、その後、偶然の機会で出会った周辺の人々を含み、とくにこれといった目標をもたない「無為の共同体」のようなものが出来上がったことだ。

 これについて、ヴェルノンがなにか能動的な働きかけをしてるわけではない。ただし、彼には長年のレコード屋の経験を経ての音楽の評価能力、受容能力があり、それらを生かしたディスクジョッキーとしての音楽の選択能力は抜群で、彼がDJを務めるパーティや集まりに参加した面々はすっかりその虜になり、気づけばヴェルノンを取り巻く「無為の共同体」の一員になっているのだ。

 この共同体は、ホームレスとなったヴェルノンの居場所の公園に集まる少数の集団にすぎない。そして、この集団がどうなってゆくのか、それは不明のまま小説は終わる。

 ここで今一度、私自身の愚かさを告白しなければならない。
 デパントの小説、『ヴェルノン・シリーズ 1・2』の700ページ超のものを読んだといった。たしかにその通り読んだ。しかし、この小説は私が当初考えたように、「1・2」がいわゆる「上・下」ではなく、「3」へと続くのだった。しかも、それに気づいたのは「2」をほとんど読み終える頃だったのだ。

 だったら、「3」を読めばいいだけの話だろうということになる。しかし、しかし、しかしだ、フランスではもう「3」は出版されている(2017)ようなのだが、邦訳はまだないのだ
 いずれ邦訳は出るだろう。しかし、それまでにこちらの寿命がもつかどうかが問題なのだ。

【お願い】私が逝ったあとでこの小説の「3」を読んだ方は、私の墓前でその概要でけっこうですから、教えて下さい。

 『アポカリプス・ベイビー』 齋藤可津子:訳  早川書房
 『ヴェルノン・クロニクル 1「with the lights out」』 博多かおる:訳 早川書房 
 『ヴェルノン・クロニクル 2「Just like Heaven」』  博多かおる:訳 早川書房 
 ヴェルノン・クロニクル 3』 日本語訳未刊

 

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【今回の戦争について】ドイツからの便り エロスとタナトス

2022-05-18 11:20:40 | フォトエッセイ

 ドイツに住む私の畏友・小林敏明氏(哲学者)の、今般のロシアウクライナ問題を中心としたレポートが5月16日付「朝日新聞」朝刊の文化欄17ページ に掲載された。
 一読して感じるのは、いわゆる現場との距離感の問題である。情報網等の発展により地球は狭くなったといわれるが、やはり1万キロ近く離れた土地での 臨場感というのは、日本では伺い知ることができない面がある。
 
 彼の住まいはライプツィヒで、かつての東独地域に相当する。そしてポーランドも近く、したがってポーランド経由のウクライナからの避難民が現実に列をなしているのを見る地域でもあり、いわば地続きの戦争なのである。
 したがって、その物価などへの影響も日本もそうではあるが彼の地ではより鋭角でドラスティックなようなのだ。

       
          2017年3月11日 脱原発ベルリン風車デモでの小林氏
 
 軍事面での問題もある。ドイツはロシアの侵攻後、国防費一千億ユーロ(約13兆円)の緊急拠出を発表し、4月末には対空戦車などの重兵器のウクライナ供与を決めた。しかもこれを決めたのは、ショルツ首相率いる社会民主党、緑の党、自由民主党(日本のあの愚劣な党とは質が違う)の左派リベラル政権の決定だけに、すんなり決まったわけではなかった。この決定には反対デモも行われ、それ以後も燻っているという。

 こうした軍事力に関する件においては、ドイツは慎重である。それはかつてのナチスドイツ時代、ヨーロッパの戦乱についての消すことのできないその責任をいまなお自覚的に継承しているからである。
 小林氏はそれについて次のように述べている。
 「70年余ナチス下での戦争責任と徹底して取り組んできた国が、どんな大義があるにせよ、また軍事的に動けば、国際社会の目にどう映るか。自制心は保守派も含めて働いていたと思う」

 この辺りはこの日本という国と決定的に違う点である。70年余、この国が武力を用いて東南アジア全体を蹂躙し、「東洋鬼」として恐れ、蔑まれていたことを大半の日本人が忘れているし、自民党など保守派ときたら、「戦後レジームからの脱却」だとか、「美しい日本を取り戻す」などとその時代への回帰さえ目指す始末である。

 小林氏の話に戻ろう。 
 彼は、今回の事態で欧州全体に不気味な空気が漂っていると指摘する。そしてそれを、フロイトを援用した戦争論一般との関連で考察する。人間のもつエロス(生への欲動)とは対極のタナトス(死への欲動)は、折を見て破壊や憎悪を伴う攻撃衝動として発現する。しかし、一方、人間は罪悪感や良心によりそれらを抑制し、文化や秩序を形成してきた。ただし、その抑制が過剰になるとメランコリー(鬱)に陥り、さらにそのメランコリーに耐え得ないと再びタナトスの支配する破壊的欲動の状態に陥る。

    



 ようするに、氏の戦争論はこうした循環の一契機として捉えられるのだが、氏のいう欧州全体を覆う「不気味な空気」とはまさに鬱の終焉とそれを突き破るタナトスの時代の到来を伺わせるのではないかという点にある。

 ここには、氏独特の戦争論と、それによる欧州を覆う暗雲の解析があるが、それを裏付ける兆候は欧州にとどまらず広範囲に見出すことができる。
 今回の事態に触発されて、永世中立であったはずのフィンランドとスェーデンがNATO加盟を決断したこと、フランスではかつて泡沫であった極右ルペン派がマクロンに10%と迫る気配であること、アメリカでは一度失脚したはずのトランプの人気が衰えず、再デビューの可能性もあること、日本でも、最近の世論調査によれば、リベラルを凌駕して、自公に次ぐ勢力は維新であることが明らかになりつつあることなどである。

      



 これらを小林氏の解析にあてはめるなら、鬱状態がタナトス的な状態へと変動する世界的な兆候と見て取れる。ようするに、氏のいう「不気味な空気」は、今や欧州のみならず、世界中を覆っていることになる。

 氏の論は、こうして具現し始めたタナトス(死への欲動)が、諸芸術や文化などによって、無害なものへと昇華させられる希望を述べて終わっているが、正直いってそれはあくまでも希望的な観測にすぎないし、氏もそれを自覚していることと思う。
 今や狭小なプラグマティストでしかない私は、これらの事態のなかにあって、ただただ悲惨の減少を祈るばかりである。


「ライプチヒへ行きたい」と小林氏に言って、「いらっしゃい」と言われたのが3年ほど前か。それからコロナ禍で往来不能になってしまった。往来可能になったらまた受け入れてくれるだろうか。ライプチヒを含むドイツ全般と、ポーランド。そして、アウシュビッツ!
 私は、20世紀の人間だから、20世紀に起きたことをしっかり見ておきたい。

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【護憲勢力の限界と虚妄】

2022-05-17 02:35:08 | 社会評論
            
              
 
 あんたたち、ほんとうに九条を中心とした現憲法を守る気持ちがあるの?
 ロシアの軍事行動に伴い、フィンランドとスウェーデンが永世中立をかなぐり捨ててNATOという軍事同盟に加入するというのに、この国の護憲勢力といわれる人からはなんの反対も挙がらず、むしろ賛成あるいは傍観であるのはなぜ?
 九条を中心とした日本国憲法を護りたいのは、この国が軍事的に問題を解決する側には回らないという、いわば永世中立的な理念からではないの?
 それを掲げた国、フィンランドとスウェーデンがいま、軍事同盟に入ろうとしているのだよ。
 え?ロシアが脅威だから仕方ないだろうって?
 あのね、この国の改憲を迫る人たちも、中国の脅威、北朝鮮からのミサイル危機を理由にしているのだよ。それでもなおかつ、憲法の理念を護るということは永世中立的な姿勢からその攻撃対象から逸脱できると思ったからでしょう?
 でもいま、フィンランドとスウェーデンのNATO加入をなんの見解も示さず見送るとしたら、日本の護憲派って、一般的、抽象的でかつ無内容な「平和教」集団にしかすぎないのではないの。
 私は改めていいたいと思う。
 フィンランドとスウェーデンのNATO加盟、それによる永世中立解消に反対する。むしろ、フィンランドとスウェーデンのような国の拡大こそが必要なのだと考える。
 それを言明し得ないいわゆる護憲派の膠着と軟弱を非難したい。

 

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花の終わりと花の始まり

2022-05-15 11:24:40 | 花便り&花をめぐって
 わが家の貧弱な庭には、この時期、花らしい花はなにもない。ハルジオンさえ枯れてしまった。だいたい、花好きの人たちが丹精を込めるような、草花系を育ててはいないのだから仕方がない。ようするに無精だから放っておいても毎年花をつける樹木系の花しかないのだ。

          

 そんななか、齢樹数十年のボリュームで豪華に咲き誇っていた紅白のツツジが終わった。白いツツジは花ごと色あせ褐色になって落ちる。赤い方は、赤いままに落下し、それから褐色に朽ちる。

              

 代わっていま咲こうとしているのはナンテンと紫陽花である。

              

 紫陽花の方だが、先般、さほど大きくない株に今年は八つの花が付きそうだと喜んでいたが、その後、花芽はさらに増え、ちょうど10輪の花をつけそうだ。しかも、この紫陽花は大輪の方だから、全部咲き揃ったら豪華になることだろう。

              
              

 おまけに植物に関する間抜けな失敗談を書いておこう。ご存知のように、豆苗として売られている野菜は絹さやの苗で根っこがついたまま売られている。そして、これを直植えにしてうまく育てれば絹さやを収穫することができる。

 去年、これを試みた。しかし、植えた時期が遅すぎた。それでも少しばかりの花をつけ、10さやほどを収穫できた。しかし、絹さやの10さやというのはいかにも頼りない。せいぜい・味噌汁の具になるぐらいだ。

           そこで、今年こそはリベンジを誓い、また植えた。しかし、何を勘違いしたのかまたしても遅かったのだ。農家の知り合いから、「何を今頃。もうとっくに収穫の時期じゃない」と笑われてしまった。そして、「まだ冬のうちに準備しなきゃだめだよ」とのアドヴァイス。  しかし、想像力に疎い私、まだ寒い時期にキヌサヤエンドウをイメージすることなど出来はしない。でも来年も生きていたらチャレンジしてみたい。                             
                           

 今年の収穫を諦めたわけではない。感銘にツルヒゲを伸ばしているのを見ながら、「頑張れっ!」と声援を送り続けている。
 
 
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【寓話】 今に生きるデルフォイの神託

2022-05-13 11:29:17 | 社会評論

                     
 あるところに、 国境を接したAという国とBという国がありました。 この両国には過去いろいろなことがあり、B国の侵攻を恐れたA国は、もともとB国を仮想敵国としたようなある軍事同盟に急接近しました。
 一方、かねてよりその同盟による包囲をひしひしと感じ、警戒していたB国は、様々な理由を挙げてA国に攻め込み、とりわけ自分たちと親交が深いと称するA国の一定地域を掌握しにかかりました。
 
 当然、A国はそれに対し猛烈に反発し、軍事力をもって抵抗することとなりました。そしてそれを、A国が入ろうとしていた軍事同盟は全力をあげて支援しはじめました。その同盟国ではないが、その同盟の親方の飼い犬のようなN国なども早速、A国への全面支援を打ち出し、難民の受け入れなどを、これまでの難民拒否国であったことをかなぐり捨てて実施しはじめました。これまでは、何らかの理由で滞在期間を超えた外国の人たちを強制収容所まがいの所へ監禁し、殺しささえしてきた国がです。

 色んな所で、色んなものを青と黄色に塗り分け、あたかも自分が正義の側に立っているかのように「A国頑張れ!」と叫ぶのが流行っています。それはそれでいいでしょう。侵攻した側の「B国頑張れ!」とはいえないですよね。
 しかし、現実に目を向けてみましょう。その戦闘のなかで、兵士はもちろん、一般市民も含めて多くの人が毎日その生命を失っているのです。

 そんなとき、私たちがすべきことは、どちらかの側に立って「頑張れ!」と叫ぶことではなく、両方に向かって「もう、頑張るな!」ということではないでしょうか。そうです。まずは停戦こそが必要なのです。どっちが正義かなどは人の命にとってはどうでもいいことなのです。どうしてもそれにこだわりたければ、事態が済んでから論じればいいのです。

 とりあえず必要なことは、悲惨の終了です。人が死ななくていい事態の実現です。「平和」だとか「民主主義」とかいう包装紙も要りません。現行の悲惨をとりあえず終わらせること、そこへと知恵を働かせなければならないときなのです。

 冒頭に書いたことに戻ってみてください。A国はB国の侵入を恐れるあまり、反B国の軍事同盟に接近しすぎた結果、恐れていたB国の侵攻を招いてしまったのかもしれません。
 また、B国は性急にA国へと侵攻することによって、決定的にA国を反B国の軍事同盟側に組み込ませる結果になりました。さらには、やはり近隣のC国やD国を、反B国の軍事同盟の方へと踏み切らせる結果を招きました。
 
 ようするに、両国ともに、デルフォイの神託を回避しようとそれを避けるべく行為したにも関わらず、その神託を実現させてしまったオイディプスの悲劇のように、自分の行為でもって自分の望んでいない結果を招来するように動いてしまったのです。

 今世紀の情報網は従来より格段の差があります。今回の事態に至る何週間も前から、その可能性が語られていました。にもかかわらず、その間に、それを回避する措置がとられなかったところに暗澹としたものを感じないではいられないのです。

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名古屋千種区古井伝説と夜のJR岐阜駅

2022-05-09 15:48:17 | よしなしごと
5月9日(月)
 大型連休が終わった。それとともに、好天続きだったのが崩れはじめた。雨はシトシト程度だが、昼ぐらいから気温がぐんと下がった。朝方からは数度は下がったのではないだろうか。治りかけの風邪がぶり返すといけないので、薄手のジャンバーから毛糸のカーデガンに着替える。
         
 昨日は名古屋今池での集まりにでて、夕刻から、居酒屋時代の常連だった当時の若手の客と久々に逢い、名古屋駅近くで飲みながら話す。当時20代だった彼も、もう50代だ。独学ながら、在日の立場からいろいろ学び、考えている人だ。

 こちらも、この間学んだことを含めていろいろ話す。3時間近く経って散会。
 彼から、金時鐘の書をもらう。このひとの詩は読んだことがあるが、まとまったものは読んでいないので、真摯に向かい合ってみようと思う。
           
 写真はそれとは関係ないが、私が居酒屋をしていたところに近い高牟神社の境内と、帰り着いた岐阜駅の夜景。

          
               
 古井伝説発祥地点ともいわれる高牟神社 近くには弁慶が掘ったという井戸のある寺院もあり(ただし、弁慶の井戸は全国各地にある)、旧地名も元古井だった。ここから南へ古井の坂(残念ながら「恋の坂」ではない)を下ると吹上町に至る。吹上では文字通り水が自噴していて、昭和の時代にはその水を用いたサッポロビールの名古屋工場があった(現在は撤退)。これから見るに、今池近辺は水の豊かな段丘をなしていて、その南への水の補給地だったことがわかる。吹上の先の鶴舞(名古屋有数の公園がある)も、もともとはツルマで、「ツル」は「水が流れる所」「マ」は「間」を意味しているといわれる。それを「鶴舞」という美しい文字表記にしたため、地元では未だに公園や駅名(地下鉄・JR中央線)町名、図書館名、小学校名などで、その読みが別れていて、いずれを「ツルマイ」いずれを「ツルマ」か分かる人はよほどの名古屋通である。話が逸れたが下も高牟神社境内の写真。

               
               
               

               
                 JR岐阜駅北口広場 金の信長像と噴水
          
          同じく一階コンコース9時半だというのに人影はほとんどない
          
                 同じく岐阜駅の南側外観

 
 
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今年、一番長かった日 もしかして、コロナがやってきた?

2022-05-05 03:01:47 | フォトエッセイ
 もちろん、夏至にはまだ早い。長かったというのはむろん、あくまでも私の主観にとってだ。

厳密には昨夜遅くにそれは始まった。もう寝ようとしていたとき、喉の痛みを感じた。ン?これは?そう、これは典型的な私の風邪の症状なのだ。私の場合はいつも、喉が痛むのみで熱も咳も鼻汁もでない。しかし、喉がジンジン痛むのが続くのは、飲食の際、それらが喉に引っかかるようで痛いしまずい。それ以外の時間も、不快が居座った感じでなにかに集中することもできない。

 年に1,2回はこれに罹るのだが、どういうわけかコロナ禍のなかではそれを免れてきた。これまでなら、行きつけのクリニックへ行って症状を話し、薬をもらってくればそれで3~4日で治る。処方される薬もメモしてある。トランサミン250mgだ。    
 しかしこの時期、風邪の症状が出ていれば、事はそれでは済まない。

 事前に症状を報告し、駐車場などで抗原検査をして陰性ならば風邪の治療を普通に受けることができる。行きつけのクリニックでも、その手順を踏んだ例を目撃したことがある。
 だからそれに従えばいいのだが、あいにく連休のど真ん中、4日とあってそうはゆかない。クリニックは休みなのだ。

 ネットで調べたら、岐阜市の場合は保健所へ相談しろとある。早速、電話をしたら休日中は受け付けないとのテープの声が冷たく響く。今度は県の方に電話をした。これもお話し中でなかなかつながらない。
 そうこうしているうちに、いろいろ不安が募ってくる。もし陽性だったらどうしよう。

 ここ2,3日の間に出会った人たちの顔が浮かぶ。私にうつした人の犯人探しではない。逆に、私がうつしたかもしれない人々にこれ以上拡散しないように警告を発する必要があるからだ。
 入院か自宅治療かはともかく、治療体制に入る必要があるが、今後の予定はどうなっていたのか・・・・などなどいろいろな想念が頭の中を巡る。唯一安心できたのは、同人誌の原稿を昨日3日に入稿を済ませておいたことだ。

 県の電話がやっとつながった。状況を話して岐阜市南部で休日中に対応してくれるところを尋ねる。県の側から3箇所ぐらいの病院名が挙げられる。そのうちのひとつが、70代の中頃、急性気管支炎で41.5度の熱を出し、心身ともに朦朧としてくたばりかけた折、救急車で担ぎ込まれ、そのまま一週間ほど入院したところだったので、迷わずそこに決め、電話をする。

 ちゃんと対応してくれたが、やはり病院のなかには入れないから、駐車場に着いたら電話をするようにいわれた。それに従い電話をすると、本人確認やいわゆる問診で2,3回の電話のやり取りがあった後、抗原検査をするのでどんな車でどの辺に止まっているのか、車のナンバーまで尋ねられる。しばらくすると防護服を来た女性の看護師さんが近づいて来たので、ドアを開けて外へ出ると、出ないでウインドのみを開けろと指示される。
 それに従うと、ちょっと顎を上げてくださいと言って綿棒のようなものを鼻の奥に突っ込んでくる。それがけっこう痛いし、念入りに行うのか思ったより時間がかかる。

 それが済むと、検査結果が出るまでしばらくそのまま待つようにいわれる。そんなこともあろうかと、読みかけの本をもっていったので、それを読みながら待つ。15分から20分ぐらい経ったろうか、電話があり、陰性だとの結果でひとまずホッとする。それでは、院内に入れてくれて、喉の方の治療をしてくれるのかと思ったが、そうは行かない。

 しばらく待つと、今度は医師から電話があり、それに従い詳しく症状を述べ、これまで飲んできた薬、トランサミン250mgを告げると、それではそれと痛み止めを出しておきます、との結論に。
 さらにしばらく待つと、看護師さんからの電話で、診察料金を知らされ、処方箋を持って集金に行くから然るべき金額を用意して待つようにいわれる。

 やがて、看護師さんが現れ、現金で支払う。預けておいた保険証やお薬手帳を返してくれて、処方箋を渡してくれる。日曜日にやってる調剤薬局は少ないので、この近くでのそれを尋ねると、そこへの経路も含めて適切に指示してくれた。
 そこへ立ち寄り、薬をもらい、今度はPaypayで支払って一連の行為が終了する。

     

 こう書くと、一連の流れがスムーズに行ったように思われるかもしれないが、実際にはそうでもなかった。連絡を取り始めたのが午前中で、終了したのが5時近かったので、ほぼ一日を費やしたことになる。
 その過程で、PCR検査も浮かび、それをやっている場所を確認し、そこへ連絡をとったが、その結果が出るのが3日ぐらい後でメールで知らせるとのことで、私の今回の要請には合わないと思い諦めたりした。ただし、その検査結果の精度についてはPCRの方が高いことも今回勉強した。
 上の叙述は、そうした迷いの枝道を省略したものである。

 すべてが済んで帰宅し、傷んだ喉に心地いいコーヒーのオンザロック(ようするにアイスコーヒー)を飲んだ。これまでの緊張が一挙に緩んで、心地よさが全身を駆け巡った。
 あんなに不安に怯えていたのに、それらも含め、なんか全部自分の手柄のように思うなんてまったく勝手なものだ。

コメント (4)
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