六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

最後のアクシデントはこう収拾した 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-20 13:57:39 | 旅行
 ヘルシンキ在住の親切な女性に案内されてフィンエアー(フィンランド航空)の事務所に着くことができた。
 そこにいた女性二人はどうやら私を待っていたようだが、それにしてもその連携は悪く、私に新たなチケットを渡したスタッフもただ渡したのみでそれを言わなかった。付き合ってくれたあの親切なヘルシンキの女性がいなかったら、ここへはたどり着けなかったはずだ。

 彼女たちの説明は概略こうだ。
 1)あなたの荷物は明日の成田行の便の方にもう回っているから今夜はない。
 2)あなたのホテルは空港内で確保されていてもちろん無償。
 3)夕食がまだならそれも無償で提供するが、ただしホテルの食堂はもう閉まっているので、残り物からの選択になる。
 4)お詫びとして、17ユーロの金券を出すのでこれを出発までに空港内のキオスクで使ってほしい。
 5)明日の成田行きの2時間前にフィンエアーのカウンターに来てほしい。そこでジャパニーズ・スピーカー(日本語が話せる者)を配置しておくので、詳細をその者に聞いてほしい。

          
              フィンエアーのホテルへ

 そのうえで、空港入り口付近の同社経営のホテルへ二人で案内してくれた。チェックインを済ませ、さて食事だが、この中から選んでくれと見せられたのは、これまでコンビニで見てきた料理の詰め合わせのようなもの。すごくでかくて食い切れなさそうなものもあるなか、サンドイッチに毛の生えたようなものを選ぶ。

 別途、料金は払ってもいいからワインかビールがほしいと頼むと、この時間はもうアルコール類は出せないとのこと。しかし、キオスクにならまだあるかも知れないという。
 さっそく空港内のキオスクに取って返す。地方のスーパーほどあるキオスクは24時間営業らしい。さっそく酒類のケースに。あった!ワインも並んでいる。しかしである、しかしそれらのケースには南京錠のような鍵がかかっている。

 従業員(ほとんどが北欧以外の外国人)に尋ねる。やはりこの時間はもうアルコール類は販売しないのだという。酒類のケースに取って返し隣を見ると缶ビールがずらりと並んでいる。ノンアルのものだ。それでいいかと思ってみていたら、2.5%の500ml のものがあったのでそれを選ぶ。ついでにチョコレート菓子などの詰め合わせを土産用に買ってほぼ17ユーロを使い切る。

          
              翌朝見たホテルの中庭

 ホテルへ取って返し、真夜中の夕餉だ。概略は掌握できた。ようするに一日遅れでの帰国ということだ。あとは明日、ジャパニーズ・スピーカーに会って、ディティールを確認するばかりだ。

 飲食が終わり、寝る段になって着替えも、パジャマも、洗面具もすべて成田行きの荷物の中だということに気づく。しかしなんともならないままに寝るほかなかった。

 翌日、ヘルシンキ空港の周りを散歩して、昨夜の最後の約束にあった、ジャパニーズ・スピーカーと会ってディティールの打ち合わせをするということでフィンエアーのカウンターに出かける。正面にいた係員に、「昨夜、あなたの会社から言われたジャパニーズ・スピーカーに逢うために来た」と告げる。

      
                ヘルシンキ空港
 
 なんか怪訝そうな顔をした彼女は、私をあるコーナーへ案内し、ここで待てという。そこには車椅子に乗った老婦人の先行者がいて、会釈を交わす。ひたすら待つ。30分ぐらいして案内専門と思われる女性が現れる。そして私に、「あなたの要求はなにか?車椅子が必要なのか?」と尋ねてくる。どうやら私は、先程の女性から特別な要求をもつ乗客扱いされ、そのコーナーへ案内されたのだ。

 そこで私は今一度、「ジャパニーズ・スピーカー」に逢うように言われてきたのだと説明する。すると彼女は、ちょうど私の死角になっていた辺りに視線をやり、何やら合図をしている。そこにはまさに東洋人の顔つきの女性がいて微笑んでいる。案内係が彼女のところへ連れて行ってくれる。
 その登用人はれっきとした日本人で、私は搭乗券を示し、昨夜以来の話を繰り返す。

 彼女はそれらを確認し、改めてそこに書いてあることを説明してくれたが、それは私にもほぼ分かっていたことだ。ただ、彼女の話で貴重だったのは、「あなたの海外旅行は成田で終了する。だから、そこで必ず預けてある荷物を一度引き取ってください。そして、あらためてJALに預けてください」ということだった。

 当初のフィンエアーでセントレアということなら荷物はセントレアで受け取ればよかったので、この説明を聞かなかったら、私は成田へ荷物を置いたままセントレア行きに乗っていたかも知れない。
 やはり、日本語での確認は必要であった。

      
       
                                       いよいよ搭乗 そして機内 以後は熟睡

 あとは順調だった。成田行きの便では疲れ切っていたためひたすら睡眠。気がつけば19日の夕刻の成田。荷物を受け取り、さらにJALのカウンターへ。この哀れな老人のたらい回しを知ってか、とりわけ丁重な応対で、無事夕刻の離陸を果たすに至った。
 
      
      
          
            いずれも成田にて 到着 夕焼け 離陸
 
 そして19時半近く、富士の上空に差し掛かるので写真を撮る。セントレアに着いた頃はすっかり暗くなっていた。

           

 外貨の両替をする。紙幣しか受け付けてくれない。しかし小銭の方は階下のファミリーマートに両替機があって、前は日本円と替えてくれたが、今は電子マネーか各種ギフト券に限定されている。アマゾンのギフト券に変えたら970円分ぐらいになった。文庫本が一冊買えそうだ。

 それらを済ませ、名鉄電車で岐阜へ着いたのは10時過ぎ、腹も減っているが重い荷物を引きずって飲食店へ入る元気もない。タクシーで自宅へ直行。
 出かける際、冷蔵庫をキレイにしていったので食品は何もない。乾麺はあるのでそれを湯がいて、薬味もないまま胡麻ぐらいで誤摩(胡麻)化してかき込む。左手には赤ワイン。なんとも妙な取り合わせだが、これが自分食の良いところ。

 最後に思わぬアクシデントがあったが、こうして無事に帰ることができた今、自分の幸運に祝杯だ。おっと、一方ならぬ世話になったK氏への感謝も込めてだが。

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危機は突然最後にやってくる! 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-19 16:13:33 | 旅行
 10日間、私のヨーロッパ一人旅は、事前のリサーチの不十分や語学力のなさ、年齢ゆえの行動力不足などで、決して効率の良いものとはいえなかったが、なんとか当初観るべき対象と設定したものにはたどり着くことができた。
 これには、ライプチヒ在住のK氏の事前の、そして旅行中のLINEを通じての懇切な指示が欠かせないものであったのだが。

 だから、ワルシャワの最終日の夕刻、駅近くのテラスでいつものようにOne beer onlyでくつろぎながら、マアマアだったなと自分の旅に合格点を与えることができた。
     
     

 翌日、ホテルをあとにし、中央駅から20ほどのフレデリック・ショパン空港へと余裕をもって向かう。出発ゲートも確認し、駅ピアノの近くに席を確保し、くつろぎながら帰路の確認。
 近くのピアノから「エリーゼのために」が・・・・。どうしてここでベートヴェンなの?ショパンでは?とも思うが、その後も入れ替わり弾き手が現れるがついにショパンはなかった。
 
      
           
           
      
 最後は入れ墨の父の膝の上の子どもの演奏 NHKの「空港ピアノ」ならカットでは?

 予定ではここからフィンエアーでヘルシンキへ飛び、そこでセントレア(中部国際空港)行きに乗り換えることになっている。

 搭乗時間が近づき、ゲート付近に搭乗客が集まり始める。そこで何かざわめきが起こっている。掲示を見ると搭乗開始時間がなんか大幅に遅れている。周りの客にカタコトの英語で尋ねたりした結果判明したのは、何かのトラブルで離陸が2時間半遅れるというのだ。

 ガ~ン! 2時間半? ヘルシンキでの乗り換え時間は2時間しかない。そこへ2時間半の遅れ?私の帰路はどうなるのだ? フィンエアーのメンバーに訊くがまだ詳細はわからないという。ジリジリした気分で2時間半を待ち続け、やっと搭乗する。
     
             これはポーランド航空の飛行機
 
 通りかかった搭乗員にワルシャワ→ヘルシンキ・ヘルシンキ→セントレアのチケットを示し、これはどうなると尋ねる。どうも彼女にもわからないようだ。「Wait ! 」といったまましばらく帰ってこない。いろいろ調べてはくれているのだろうが、詳細がわかるまで焦燥が押し寄せてきて不安が募る。

      

 ジタバタしても仕方がないと分かっていても気が急く。やがて彼女が戻ってきた。私の示したチケットに、「H's OK. They will WAIT! 」のカードが貼り付けられている。どうも、「大丈夫です、フィンエアーのスタッフがヘルシンキで待機している」ということらしい。

      

 見捨てられてはいないということだから、それに身を任せることにする。ヘルシンキ空港に着くと、降りる私に乗員が新たなチケット2枚を手渡した。
 見ると、明日の成田行フィンエアーのチケットと、成田からセントレアへのJAL のチケットだった。これでひとまず日本へ帰ることができることは保証されたわけだ。

 しかし、まだわからないことがある。私の荷物はどこへ行ったのか?これから明日の成田行まで私はどこでどう過ごせばいいのか?
 
 ここで私を助けてくれた女性がいる。彼女はヘルシンキへの機中で私の近くにいてその経緯を知っていて、ヘルシンキへ着いてからも、私に付き添ってくれた。荷物の到着場へも一緒に行ってくれて、自分の荷物を受け取ってからも、私のそれを待ってくれた。
 そしてついに私のものが現れないことを確認してから、フィンエアーの事務所のようなところへ連れて行ってくれた。

 そこではフィンエアーのスタッフの女性二人がいて私を待っていたかのようで、そこから先は下へも置かぬ扱いであった。しかし、フィンエアーも連携が悪い。付き添ってくれた女性がいなかったら、私はここへたどり着けず、夜半が迫り、無人になった広い空港内に放り出されていたろう。

 このヘルシンキ住まいという女性に丁重に礼を言って別れた。彼女は私のためにおそらく30分以上の時間を割いて、私を助けてくれた。せめて彼女のメールアドレスでもきいておけばといまも悔やんでいる。その背中に何度も頭を下げたぐらいでは済まない恩義を感じているからだ。

 ここでスタッフに会えたことで見通しが立ったのだが、まだまだ問題は残っていた。
 私の荷物は?私はどこで寝るの?もう一〇時間ほど何も食べていないのだが。
 じゅうぶん長くなってしまったので、この続きは次回に譲ろう。 

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ユダヤ人がもっとも住みやすかった国での悲劇 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-18 00:55:40 | 旅行
 1940年代初頭、世界でのユダヤ人人口は1,000万人弱であり、そのうちの三分の一、約350万人がポーランドに住んでいたといわれる。ワルシャワのみでも約50万人を数えたという。これは中世以来、ユダヤ人への風当たりが少なく、暮らしやすかったからだといわれる。

      

  しかし現在、ポーランドはヨーロッパにおいてもっともユダヤ人が少ない国のひとつになっている。ワルシャワには約3,500人ぐらいと聞いたこともある。
 この大変な落差はドイツ占領下のホロコーストによるものであることは容易に想像がつくが、しかし、その過程にもさまざまな問題があって、一筋縄では行かないようだ。

      

 まずはナチスの方だが、ポーランド占領後、ワルシャワにはもともとユダヤ人の密度が高かった地域を中心に、38万人を収容したワルシャワ・ゲットーが設けれれ、ユダヤ人は高い有刺鉄線に囲まれたその地域からの移動を禁止された。いわば、街そのものが強制収容所とされたのである。

           
 
 さらに42年、ナチスがユダヤ人の「最終解決」を決定するに及び、ゲットーから処分場への搬送が頻繁になり、流れ作業による最終処分が進行した。搬送を免れてゲットー内に留まったユダヤ人もまた、その栄養状態や衛生状態のなか、命を落とすものが続出した。
 43年には、ゲットー内で蜂起反乱が起きるのだが、素手の反抗はドイツ軍の火器の前に血みどろの終結を余儀なくされた。

           

 これらは45年のドイツ敗北まで敗北まで続くのだが、最終的にポーランドにおいて生き残ったユダヤ人は約5万人だったといわれる。

           

 しかし、ポーランドでのユダヤ人迫害はこれにとどまらない別の側面をもっていた。41年当時、ポーランドの東部はソ連によって占領されていたが、この地域において23箇所でユダヤ人を対象としたポグロム(抑圧殺戮事件)が発生し、数百人のユダヤ人が犠牲になったというのだ。ドイツがユダヤ人の最終解決を決定する1年前のことである。
 
 その犯行グループはポーランド愛国主義者たちで、反抗理由はソ連の侵攻はユダヤ人による誘導援助によってなされたというものだった。
 もちろんこれはほとんど濡れ衣で、戦後、これに関わり合った約100人が逮捕され、27人が有罪、そのうち4名が死刑となった。

      

 日程の都合でアウシュビッツへ行けなかった私は、これらをワルシャワの「ポーランド・ユダヤ人歴史博物館」で確認するつもりで出かけた。
 
 最寄りのトラムの駅で降りた私は、青年を捕まえてどう行ったらいいかを尋ねた。しかし彼は、そんなものは知らないとそっけなく行ってしまった。すると、少し離れたところでそれを聴いていた中年の婦人が寄ってきて、それならこちらの方だと親切に教えてくれた。途中まで一緒に来て、ある角で、「ゴー、ストレート!」といって引き返していった。彼女もこちらの方に行く用件があるのだとばかり思っていた私は、その後姿に何度も「サンキュー!」を浴びせかけた。

           

 それは、ヨーロッパ特有の広い緑地帯の一角にあるとてもモダンな建物だった。それにしても人気が少ない。そこで私はハッと思い出した。そう、この博物館は火曜日が定休日なのだ。
 海外でうろちょろしていると、曜日のことなどすっかり頭から飛んでいた私は、下調べをした折、「へ~、火曜日休みとは珍しいな」と思ったことさえすっかり忘れていたのだ。

      

 気づけば、私の他にも休みと知らずに来たらしい2組ぐらいがいた。やがて、10人近くのグループがやってきて、解説者と思しき人が建物を指差しながら何やパペラペラと説明し始めたが、たぶん、ポーランド語らしく何もわからない。

      

 入場を諦めた私は、予め調べたポーランドでのユダヤ人の悲劇を念頭に、鎮魂の意を含めてこの大きな建造物の周りを二周した。
 何百万という人命が失われたあの喧騒の時代と、折からの風に応える頭上の葉擦れの音色のコントラストが、八〇年という歴史の落差を表しているようだった。

      

 しかし、あの歴史は本当に終わったのだろうか。かつて、ホロコーストの対象であったユダヤ人のなかのシオニストたちが、今度はパレスチナのガザ地区にパレスチナ人のゲットーをつくり、そこを対象に無差別殺戮を繰り返しているのではないか?
 2000年にわたり、ユダヤ人を差別し続けてきた欧米諸国は、自らの犠牲を払うことなく、ムスリムの土地をユダヤ人に与え、イスラエルという国家を作らせたばかりか、いままた、ムスリムへの攻撃を支援し続けているのではないか?

 私は、この旅から帰った翌日、疲れた体を引きずって、名古屋での「反ゴザ虐殺」のデモに参加した。

 写真はいずれもポーランド・ユダヤ人歴史博物館にて
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「旧市街」ではないワルシャワ「旧市街」 八五歳のヨーロッパ一人旅

2024-08-15 11:34:11 | 旅行

 厳密にいえばワルシャワに旧市街はない。なぜならここのかつての街は第二次世界大戦の激戦によって徹底的に破壊されつくされて、そんなものが残る余地がなかったからである。

       

 最初に掲げた写真は、2002年公開の映画、ロマン・ポランスキー監督の『戦場のピアニスト』のラストに近いスチール写真である。これだけ破壊し尽くされた街のどこに旧市街が残る余地があったろう。
 にもかかわらず、旧市街は存在する。それはワルシャワの市民たちが、瓦一枚欠けることなくかつての街を復旧させようとしたからである。そうして出来上がったのが現在の旧市街である。

          

      
 だから、いうなれば「新市街」なのだが、ワルシャワ市民はその地域に下手な近代化が侵入するのを拒んできたので、その意味ではどこの旧市街よりも旧市街的なのである。そうしてたワルシャワ市民の意を汲んで、1980年、ここは世界遺産に選定された。
         
      
 私はこの街に北側のバルバカンから入った。バルバカンというのは、赤レンガ作りの旧王城の守護砦であるが、それ自身ひとつの城郭のようにも見える。
 それ以南がいわゆる本格的な旧市街なのだが、それらが素晴らしい。広場にはいくつかのテント張りの店があり、物品販売やレストランなどがひしめいている。
 
          
      
          
 歩き疲れ、喉も乾いていたので、そのうちの暇そうなテント張りの店で退屈そうにしていた学生アルバイト風な学生に声を掛ける。「One beer only , OK?」「Yes.」と頷き、生ビールを注いでくれる。「お前は日本人か?」というので「そうだ」というと「日本のアニメが大好きだ」という。かわいそうに彼はもっともふさわしくない日本人に出会ったのだ。私はアニメのことはからっきしわからない。

           
 話題を逸らす。お互い、わかったかわからなかったかよくわからない会話を交わし、店を出る。端数をチップに置くと、それはビール1杯分のチップを超えていたので大いに感謝される。
           
          
          
 
 旧市街は面白い。権威のありそうな建物は聖ヨハネ大聖堂(手前)で、それと壁を共有するように建っているのがイエズス会の教会だ。その辺りの通りも雰囲気がある。

         
      
           
 やがて王宮と王宮前広場に至る。広場の中心には高い円柱の上にジグムント三世の像が。この王様、17世紀には東奔西走と活躍し、ついにはモスクワのロシア王朝をも支配下に置いたことがあるとのことだ。

       
 広場の南の堂々たる建物は、カソリック教会の聖堂という。ヨーロッパでのキリスト教の力は大きいのは常識だが、70年にわたるスターリニズム支配下をくぐり抜けてもその勢力はいささかも変わらなかったようだ。
       
 王宮前広場から見える風景のひとつに、ワルシャワのサッカー場がある。カメラのレンズの関係ですぐ近くに見えるが、実はこのサッカー場はワルシャワ市の東を流れるヴィスワ川の向こう岸(東側)に位置する。
 このヴィスワ川を巡って、ワルシャワ市民には忘れ難い悲劇がある。
 1944年のその悲劇については次回書きたい。
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70歳以上交通費無料のワルシャワでショパンに逢う 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-14 00:40:01 | 旅行

 ワルシャワはもちろん初めての地、しかもいままでのようにK氏の案内は期待できない。しかし、いい点もある。ポーランド国内は、インターシティなどの鉄道を除き、近郊鉄道、地下鉄、トラム、市内バスなどが70歳以上は無料なのだ。外国人も含めてだ。

      

      
 よく利用した。地下へ潜るとわかりにくいので、トラムとバスをふんだんに利用した。けっこう検札に来るのだが、顔を見ただけで切符などの提示は求めなかった。東洋人でも歳は歳だと識別できるようだ。
 無料はありがたい。間違えたら引き返せばいい。見えている近くでも疲れていたら乗ればいい。

          


 最初に会いに行ったのはショパン。ショパン博物館である。彼はポーランドの英雄である。紙幣にもなっているし、私が帰途利用したワルシャワ空港はフレデリック・ショパン空港と名付けられれている。もちろんこれは彼がポーランドの出身だったからだが、彼が名を成し、活躍したのはフランスなどの他国においてだった。
 
 にもかかわらず、彼自身の中にはポーランドへの愛着は強く、数ある名曲のなか、「ポロネーズ」を18曲作っている。ポロネーズとは文字通り「ポーランド風」ということである。
 私自身の経験で言えば、若き頃観たアンジェ・ワイダの映画『灰とダイヤモンド』のラストで流れる「英雄ポロネーズ」がいまも忘れがたく耳に残っている。

      

 少し迷ったが、無事到着。そこで私は今回の旅で始めて私以外の日本人と出会った。やはり単独行の若い男性で、これは頼もしい、今後のワルシャワ散策の参考になるかも知れないと密かに期待した。
 
ともに入場した。しかし彼は、どの展示場でもさっと目を通すのみでどんどん歩を進め、あれよあれよという間に出口付近に達してしまった。
 どうやら彼は、ショパンや音楽には関心がなく、ワルシャワへ来た以上ここにはという案内に従ってやってきたのみで、まるでアリバイ作りのような行動なのだ。
 これはたまらないと、「私はもう一度観ますから」と出てゆく彼と出口付近で別れ、最初の展示へと取って返す。

 もう一度、各展示を見回る。経歴や楽譜、楽器などが並ぶ。ライプチヒでのバッハのオルガンは経年のため、バッハ当時のものとしてはその基体しか残っていなかったが、ショパンのそれはアップライトもグランドピアノもそのまま残っていた。ただし、パリ時代のもののようだ。

      

          
 その他、譜面台にショパン作品の楽譜を置くと、それを自動演奏するピアノなど、けっこう展示にアイディアを凝らしている。
 少し歩き疲れたので、試聴室に座り、専用のヘッドフォンで彼の曲を聴く。当代一流の塩素者によるそれは、私が日常用いているヘッドフォンよりも遥かに高性能のものを通じ、耳に心地よい。

      
      
 
 それを通じて、まさにポロネーズを数曲聴いた。彼は、ピアノの詩人と言われているが、ポロネーズに関しては詩というよりテーマを定めた掌編小説の趣がある。
 
        


 その後、最上階にある彼がしばらくともに暮らしたジョルジュ・サンドのエッチングなど眺めて、この館とおさらばした。先の男性と行動をともにしなくてよかった。

      
      
 なお、これは後刻だったが、旧王宮近くのショパンのピアノ曲のみの専用コンサートホールを探し当てたのでその写真を載せておく。入口に貼られたチラシによれば、その日の18:30からのコンサートは、マオリシオ・シルヴァという人で、知らないひとだったのでググッてみたら、若手だが、オケとの共演などもある売出し中のピアニストということだった。
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ワルシャワへ着く 駅周辺の衝撃  八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-12 17:47:18 | 旅行

 今回の旅の主要目的は旧友にして畏友、K氏を訪れることだったから、あとはせっかくヨーロッパまで来たのだからというおまけのような旅だ。しかし、そのおまけにワルシャを選んだというのには積極的な理由がないわけではない。

 そのひとつはドイツの侵攻に始まりソ連の反撃に終わるあの第二次世界大戦で、徹底的に破壊されながら、それから見事復旧を果たし、今や世界遺産にまでなった旧市街を見ておきたかったこと、世界的音楽家として知られるショパンと出会うこと、ヨーロッパでもっとも密度が高いといわれたユダヤ人が暮らしたこの国、そしてこの都市でのその変遷の歴史を探ること、そして今一つは、アンジェ・ワイダ監督の映画「灰とダイアモンド」や「地下水道」の痕跡、特に後者の背景、1944年のワルシャワ蜂起の痕跡を探ることなどであった。

          
         
         
         
 ワルシャワ中央駅に着く。ここはホームのすべてが地下で、頭端式(ほうき状)ではなく複数のホームを列車が行き交う。
 時間は夕刻に近い。今日は駅の近辺のみの探索に留める。まずは薄ら鉄ちゃんの儀式としてホームの列車を撮る。そして地上へ出たところで駅舎並びに近辺の建物を撮る。

      
      
 それらの写真で、まさにこの駅の近辺で時代がクロスしているのを実感する。
 まず駅舎である。中央駅を示す掲示の下はマクドナルドが広く広がっているようだ。

 周辺を見てみよう。駅の東側にまるっきり時代を超越したかのようにそびえるのが、かつてソ連圏内あったこの場を象徴するかのようなスターリン様式(?)の建造物、文化科学宮殿である。私はかつて、同様のものをサンクトペテルブルクの郊外で見ている。
 それに今ひとつ、まさに今世紀のいまを示すかのように、駅の南側にひときわ高くそびえるのが韓国の大企業サムスンの高層ビルである。

         
        



 まさにこれぞ、現今の世界!という感じではないか。なんとなく落ち着きのなかにまとまったドイツ、ライプチヒから来た身には、この落差はいくぶん衝撃的だった。

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別れの感激・そのときもらったもの 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-11 17:38:52 | 旅行

 ライプチヒからベルリン中央駅経由でワルシャワ行き列車でポーランドへ移動する。七時間の列車の旅。
 ライプチヒ駅までK氏が見送りに来てくれる。ここまでのドイツの旅は、ほとんどがおんぶにだっこのK氏の庇護によるものだった。ここからがほんとうの一人旅だ。

 しかし、K氏の私へのケアーはこれで終わったのではなかった。彼は私にひとつの包みを渡していったのだ。「昼食時は列車の中、そのための弁当を作ってきた」と。何という心配り、これからは一人という私の心細さを和らげてくれるにじゅうぶんだった。

 やがて発車のベルが鳴ろうかというときだった。もうひとつのハプニングが起こった。昨夕の食事をともにしたZさんが駆けつけてくれて、花を一輪と、旅の幸運を招くというタグをバッグにつけてくれたことである。
 昨夕の宴は、一期一会のこととして終わったと思っていた私には、まさに意表を突く続編だった。

 この歳になるまで、何度もの別れを経験している。そのうちには、駅頭でのものもむろんある。しかしこれは、忘れ難いものとなった。K氏の気配りとそれに文字通り花を添えてくれたZさんの好意。
 列車に乗り込み、見送る人との間に無為な時間が流れ、それがやや間抜けに感じられてしまうことがある。しかし、今回は違った。この人たちとできるだけこの空間にともにいたい、そう思った。

 しかし、列車は発車した。ライプチヒには二日しかいなかったのだが狭いリング内で馴染みの箇所がけっこうできたこと、K氏宅へ何度も訪れその生活ぶりを目の当たりにしたこと、K氏に関連する人たちに逢うことができ楽しい宴がもてたことなどなど、その中身は豊かであった。それだけに離れがたい思いもあった。

 K氏、並びにZさんに頂いたモノたちのその後を記しておこう。

          

              ワルシャワ行き列車
 
 まず、用意してもらった弁当だが、これは車中でのトラブルのため食べることができなかった。というのは、ベルリン中央駅でワルシャワ行きに乗り換えたのだが、指定された車両に乗り込んだところ通路が大混乱していて進むことができない。どうやら通路の横は六人掛けのコンパートメントになっているようなのだが、それらコンパートメントのどの扉も開かず、乗り込んだ客が中へ入れないまま通路がどん詰まりになっているようなのだ。

 怒号に近い声が上がり混乱がいや増しに増すなか、乗務員らしい男が二人ほど現れ大声で事情を説明し始めたようなのだ。言葉はわからないが、どうやらこの車両は使わないので、それぞれを別のところへ案内するから切符を見せろといっているようなのだ。
 
 私の番になった。切符(といっても旅行社発行のA4の印刷物だが)を見せるとうなずき、ついて来いという。私の乗るはずだった車両の2,3輌辺り後ろのあるコンパートメントを開けてここに座れという。見ると、知り合いらしい中年の女性が二人いて、犬も一匹いる。いきなり入ってきた東洋人の老人を観て、怪訝そうな、というより拒否に近い顔つきをしている。車掌がこの間の成り行きを説明したのに納得したのか、私の荷物の収納を手伝ってくれた。
 彼女たちは窓際でひっきりなしにしゃべくりまくっているし、私は通路側でその間には犬が陣取っている。

          

              ポーランドへ入った

 やがて、途中の駅で男性客が一人また一人と乗り込んできて、コンパートメントは満席になった。こんな状態のなかで、K氏が用意してくれた弁当を広げるわけには行かない。ましてや隣りは犬だ。諦めた。

 やがてワルシャワに着く。駅から徒歩一〇分ほどの所なるホテルにチェックイン。三泊の予定だがその間、ベッドメイキングには入らないと申し渡される。へ~、と思ったがそのほうが気楽でいい。枕銭につて気にすることはないし、その間、誰も入ってこないのもいい。
 寝小便をしたら困るが、ダブルベッドだからその際は反対側で寝ればいいだけだ。

 土地勘を掴むために、ホテルの周辺を散策する。ホテルのすぐ近くにコンビニ風の店を見つけた。一通りの商品(食品)を見て回る。ただし、今日の目当ては種類だ。300ml ほどの缶ビールとフルボトルの1/4 サイズの赤ワインを買う。
 K氏が用意してくれた弁当を今宵のディナーにするのだ。

      

 写真を見てほしい。別途、皿があったら盛り付けて立派なプレート料理になるところだ。
 手前には卵焼きと大粒なさくらんぼ、その右はピクルス風の漬物だ。その奥はロースハム。おにぎりは二個あって、一個はしそ味、そしてもう一個はふりかけ味風だ。左側には、おにぎり用の海苔を別途湿気を防いでつけてくれていたが、この海苔自体が良いものなので、おにぎりに巻くことなく一品でいただく。デザート用のバナナも一本付いている。

          


 これらを、ホテルの窓から西日が射し始めた風景を見ながらいただく。K氏の細やかな気配りがこもったこの旅最高のディナーだ。
 混み合ったコンパートメントで犬の隣りで食べなくてほんとうによかった。

           


 Zさんからもらった花だが、ガーベラだろうか。ホテルのベッドメイキングや掃除が三日間来ないのを幸い、洗面所に飾ってワルシャワにいる間毎日眺めていた。黄色系のガーベラの花言葉は「究極美」「究極の愛」「親しみやすい」「優しさ」だとか。

      
 それから、やはりZさんがバッグに取り付けてくれた旅の幸せを祈るタグ、実は旅の最後の最後にアクシデントがあったのだが、それをも圧して、こうして無事帰宅できたのはこのタグのおかげだろう。いまそのタグは、私の手元にある。

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ライプチヒ・楽しかった最後の晩餐  八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-10 16:23:21 | 旅行

 いよいよ明朝、K氏の本拠地で私のこの旅の最大の目的地であったライプチヒを離れることとなった。
 最後の晩餐(パリ五輪の開会式でのそのパロディと目されるものが問題となり、恐喝騒ぎになっているそうだが、私のそれはそんな物騒なものではない)であるが、それについては予め私の方からK氏に頼んでおいたことがあった。それは、ライプチヒへ 来た以上、K氏に会うのは当然として、それ以外の彼の人脈のある人々とも逢いたいということだった。

      

 彼の方では誰にしようかと困っていたようだが、たまたま彼がここぞと思い予約をしていたレストランの近くに、彼がライプチヒ大学勤務時代の同僚で、 今なお勤務を続けている東アジア研究所中国学科の講師Zさん(女性)が住んでいること、しかもその娘さんHさんが、念願の芸術大学へ入学が実現し、その祝いをしたいとのことで、それではということで、私のお別れの宴とその娘さんの祝宴とを共にしようということになった。

 前回述べた聖トーマス教会でのオルガンコンサートの後、K氏と私はその予約の店へと徒歩で行くことにした ある。トオマス教会から西へ進み、メンデルスゾーンの像の前を横切りリングを囲む通りを渡ると 広々とした緑地帯に出るこの一帯は直径1キロほどの広さを誇る公園で、その名はクララ・ツェトキン公園と言う。

          


 このクララ・ツェトキンという名は、私の年齢以上のいわゆる左翼にとってはよく知られた二〇世紀前半のドイツの革命家でありなおかつフェミニスト運動の女性活動家のもので、ローザ・ルクセンブルグの同志としても知られている。なお彼女は、ナチスが政権を取るに至り、当時のソ連へと亡命するが、その地で客死している。
 一方、ローザ・ルクセンブルグは1919年のスパルタクス団蜂起の際に、 カール・リープクネヒトなどとともに、右翼のフライコール(義勇軍)によって虐殺されている。なおクララ・ツェトキン公園から程遠くない場所に、このカール・リープクネヒトの名を冠した通り存在していることも、この街が東独の街であったことを示しているのかも知れない。

 クララ公園の広大で深い緑の中をK氏とさまざまな話をしながら行く。こういう感じの 大木が林立し緑地が広がりなおかつ水をたたえた池がこれほどの規模で広がる公園は日本にはない。東京のちまちまとした公園の緑さえ伐採しようとする話が出ているというが愚かな話というほかはない。

      

 小一時間、ゆっくり話しながら歩いたろうか。公園の中を流れる運河のほとりに出た。目指すレストランはこの運河に面してあるというので、運河に沿って南下する。
 K氏の馴染のこのレストランのオーナーはイタリアはシシリー島の出身という陽気な人で、二〇年ほど前、私もシシリー島へ行ったことがあるというと、まるで100年の知己であるかのように抱きしめてくれた。

 店内にも多くの席があるが、運河に張り出した川床のようなところに席を取る。身動きを誤ると落っこちそうな運河では、大勢の客を乗せた観光船、小型のボート、カヌー、競技用の練習船舶などがひっきりなしに行き交う。午後5時は過ぎているのだが、9時頃まで明るいここでは、まだまだ日本の午後3時といった様子だ。

      

 待つことしばし。Z&Hさん母娘が現れる。この旅に出て以来、はじめて面と向かって出会う東洋系の人たちだ。妙な親しみと安心感はあるのは私もまた東アジアの人間だからだろう。とはいえ、やはりカタコトの英語(私の方だが)以外、言葉は通じないのでいくぶんもどかしい。その辺をK氏に依存しながら話を進める。

      

 Zさんは親しみやすさとともに現役の大学講師だけあってどこか頼もしい感ががある。その娘さん、Hさんは自分の志望をちゃんと見据えた確固とした意志と、何よりもこれからそれを推進して行こうとする若さがみなぎっている。

 話題は多岐にわたった。自分の語学力の乏しさを嘆きながら、K氏の補助を受けて話は進む。Hさんは美大で何をしようとしているのかの私の問いに、日本のアニメ作家の絵に興味があるとのことだった。しかし、その辺のところは私にはわからない。そこで、私の知る限りでの日本の現代美術の絵画をスマホの検索から引っ張り出しながら話を進める。

      

                私とZさんの乾杯

 奈良美智、会田誠、村上隆などの作品を観る。これには彼女も興味を示してくれた。もちろん、とっくに知っていて私に合わせてくれただけかも知れないが、それでも話の過程は面白かった。
 何らかの拍子に、ハイデガーの話が出て、その際、Zさんが「あなたはハイデガーのすべてを肯定しますか」と問いかけてきた。西洋形而上学を否定しようとしたハイデガーが、1933年のフルブライト学長就任にあたってナチズムをもその選択肢として考えてしまったことは遺憾に思っている旨を話したら、彼女の表情は和らいだ。

      

                   K氏と私

 その他、ハンナ・アーレントの話なども出て、日本の親しい友人たちともあまりできないような会話が重ねれられた。中をとりもって通訳していくれたK氏は大変だったろう。
 正直にいって、話がはずんで料理の詳細はおぼえていないが、シシリー出身だけに魚介も含めたそれらはどれも美味しかった。K氏がこの店を贔屓にするのもわかるような気がする。日本で馴染んだ味覚をとんでもなく超えてしまうことのない程よい味付けが施されているのだ。

      

                  K氏とHさん

 傍らの運河を往来する船の数が少なくなり、辺りにやっと闇が忍び寄る頃、楽しかった宴は終わった。
 最後は、この近く住む彼女たちと別れてK氏とトラムで帰ったが、ホテルへ帰ってからも、あれも話せばよかった、これも語るべきだったという思いが次々と湧き出てライプチヒの最後の夜はさまざまな惜別の情とともにふけゆくのであった。

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バッハ記念博物館とオルガン演奏会  八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-07 16:57:27 | 旅行

 ライプチヒ最終日、午後三時からのバッハゆかりの聖トーマス教会でのオルガンコンサートでK氏と出会うことを約してそれまでは自由行動。
 ざっと何があるかを確認したのみで通り過ぎてしまったところなどを今一度詳しく見直したりしたあと、とりわけ聖トオマス教会前の「バッハ記念博物館」はこの街へ来た以上必須の場所だと考え入場する。

          

      
 やはり日本人もよく来ると見えて、日本語のヘッドホンも用意されていたのでそれを身に付ける。確かにバッハ関連の様々な資料が保管されている。あの複雑な家系図等はう~んと眺めているものの特に覚えようとはしない。その他バッハの時代の楽器や演奏の組み合わせ、楽譜などなどが展示されている。

          
         
 それら残されたもののうちで これはと思ったのは当時のオルガンの基体である。聖トーマス教会のオルガンそのものはもはや当時のものではない。当時のものは解体されて新しいものが設置されている。しかしこのバッハ記念博物館に残されている オルガンの演奏基体は当時のもので、まさにバッハが日常的にこれに触れていた代物であるという。

          
 その他にも様々な資料を見た。いささか欲求不満だったのは、肝心のバッハの音楽の変化や変遷やについての当時の様子を伝える資料があまりなかったことである。まあ、音楽という抽象性の高いものを歴史的に伝えるという事はなかなか大変なことだからないものねだりだろうとは思う。

 なんやかんやしている間に、K氏との約束の時間がやってくる。教会の周りはやはりこのコンサート目当てのかなりの人数が集まっていてやがて入場が始まる。満席とまではいかないがかなりの入場数だ。館内に入っている人たちはどんな人たちなのだろう。観光客、あるいは音楽愛好家、はたまた信者の方々。比較的高齢者が多いがまあ、これはクラシックコンサートの通例か。

 何やらドイツ語の説明があって演奏が始まる。手元にあるプログラムを見る限りでは、演奏曲目はバロックの宗教曲を中心に数曲でそのうちバッハものは2曲である。
 演奏が進む。こうした教会等での演奏は コンサートホールとは違い音の乱反射などがあり、それがまさに教会と言う場で教会音楽が演奏されているというアウラを演出するのだが、ここの教会は結構複雑な作りをしているにもかかわらず、演奏自体はまるでコンサートホールでのそれのようにクリアに聞こえる。
      
 演奏会を聞いていていまひとつ不審に思ったのは、明らかに1つの曲目が終わっても拍手が起きないことである。 これは客層のせいなんだろうか、あるいはこうした宗教音楽は、拍手をしないもんなんだろうか。わかりかねて私も拍手しない。
  やがて最後に演奏されたのは、明らかに今までのバロックとは違う近代風のオルガンのための曲で、その演奏法も自由闊達でとても面白い。今までの清廉とも思えた宗教曲とは明らかな 相違がある。 これはおそらく演奏者が最後に行ったアンコール曲であろうと思う。曲は盛り上がリを見せて終了した。
 さすがにこの曲には拍手が起こり、私もまたその演奏を称える拍手をした。演奏者は立ち上がりそれらに向かって深々と頭を下げている。これだけの聴衆の盛り上がりがあったのだからもう1曲 位アンコールがあってもと思ったがそれはなく、意外とあっさり終了した。

 演奏会はともかく、バッハがオルガンを弾いていた教会で、オルガンを聴くというのはやはりある種の感慨が残るものである。

               
 なお、後で調べたのだが、この日の演奏者はセバスチャン・キュヒラー・ブレッシング( Sebastian Küchler Blessing)という1987年生まれのオルガニストで、各地で活躍している他、デュッセルドルフのロベルト・シューマン音楽大学で教鞭をとり、各種オルガンコンクールの審査員なども努めてるという。
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薄ら鉄ちゃんの記録「ライプチヒ駅とトラムたち」 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-06 11:46:31 | 旅行
      
      
      
      
          
          

 ライプチヒ駅はベルリン中央駅の立体式とは違い、頭端式(私にいわせるとほうき状)駅である。ベルリン中央駅とよく似た鉄鋼ドームの下、十数の線路が広がっている。インターシティや近郊線など路線も車両もいろいろだ。
 どれがどれだかわからないまま、駅の構内でそれらを撮してきた。
     
      
 なお、駅のエントランスは伝統的な趣に溢れている。

 あとはトラムである。色とりどりのそれらが走っている。ただし、それらに乗る機会は一度しかなかった。なぜなら、市の中央部のリング内にはそれらは走っておらず、また、それにに乗ることなく伝統的な建造物などを見ることができるからだ。
 とはいえ、駅前のトラムのホームでのその発着は途切れることはない。リングの周り、そしてその近郊の街々とを結ぶそれらは途切れることなく頻繁に行き交っている。
       
       
      
      
      
      
      
         

 最後のおまけに付けたのは、たまたま出くわした緊急車両二台である。派手なサイレンとともにあっという間に駆け抜けていった。
 
      
 


 
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