六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

『ツォツィ』とは誰のことか?

2007-05-30 17:03:52 | 映画評論
 南アの映画、『ツォツィ』を観た。
 主人公の少年は「ツォツィ」と呼ばれるが、これは本名ではない
 「不良」あるいは「ゴロツキ」を現す普通名詞である。

 その名のごとく、彼は仲間と徒党を組んで盗みや強盗をはたらく。その手口は残忍暴虐という他はない。
 その彼のリアルタイムな行動の合間に、エイズらしい母親と切り離されたり、父からの虐待の回想シーンが挿入され、南ア下層階級の中で、はみ出しものとして育たざるを得なかった背景がほの見える。

 その彼が、ひょんなことで手に入れ(てしまっ)た、赤ん坊を蝶つがい、ないしは節目にして、アウトロウの世界からインロウの世界へと変化を遂げるといった物語である。
 事実、その前後での彼の変貌がこの映画の主題となる。

 その意味で赤ん坊との出会いは大きいのだが、暴虐の限りを尽くす彼がなぜその赤ん坊に惹かれるのか?自分の幼少時の記憶とのオーバーラップだろうか。
 それもあるだろう。しかし、私はここで、リトアニア生まれの哲学者、E・レヴィナスの倫理の起点である「ヴィザージュ(顔)」、「汝殺すなかれ」と訴える「他者」の顔を想い起した。
 実際のところ、あの映画の中の眼ばかりでかい黒人の赤ん坊は、私達に、そしてツォツィにそう訴えてはいなかったろうか。
 
     
    
 いずれにしても、その出会いからツォツィは変わる。もらい乳のために押しかける若い子持ちの女性との出会いも、最初のとげとげしいものから柔和な関係へと変わる。
 その変化のひとつは、ツォツィという普通名詞で応答していた彼が、まるで忘れてしまっていたかのような自分の固有名詞を使い始めることのうちにもある。

  そしてラストシーンへ・・。
 このラストは、誰しもホッとするものである。
 はみ出しものの一人の少年が、「われわれのもとへ」と帰ってきた、目出度し、目出度しである。

 しかし、ほんとうにそれで良いのだろうか?
 「ツォツィ」が固有名詞ではなく普通名詞であったように、周辺には無数のツォツィたちがいて、しかもそれが日々再生産されつつあるのだ。
 アパルトヘイトが廃止されて以降の南アは、少なくとも表面上の人種差別はなくなったようである。しかし、それに変わって黒人間をも含めた貧富の差は一挙に拡大しつつある。
 
 この映画においての加害者(ツォツィたち)も、そしてその襲撃を受ける裕福な被害者たちも、すべて黒人であることは象徴的である(ついでながら、この映画には白人は一人しか登場しない)。
 また、高層ビルの林立するヨハネスブルグの中心街を遠望する地点での貧民窟や土管ハウスもまたこの関連を如実に示す映像といえる。

        


 ここには、グローバリゼーションの急激な襲来の中で、そこへと組み込まれ富の蓄積を可能として行く部分と、そこからはじき出され、秩序外の、要するにアウトロウとしてしか生存できない部分とがクッキリと描かれている。
 また、そのアウトローたちの稼ぎを組織して利益を上げるブローカーも登場する。

 この映画で見る限り、それはもはやシステムとして定着しているかのようである。
 ひとりのツォツィは、ひょんなことからそこから掬い上げられた。それは良いことには違いない。
 しかし既に述べたように、同時に、無数のツォツィたちがいて、それが拡大再生産されつつあることも事実なのだ。

 むろん監督がそれを無視しているわけではない。挿入されるエピソードや、先に見た対照的な富と貧困の映像は、この物語が、南アをはじめ、あらゆる低開発国家のグローバリゼーションとの不可避な遭遇による世界的な規模での物語の、ほんの一部でしかないことを示している。

 映像は、貧民窟を中心に描いているにもかかわらず美しい。赤ん坊に乳を与える若い女性は、聖母マリアを思わせるし、ツォツィの面構えと、下から見据えるような視線のきらめきは時に切なく、また時に哀しく、極めて印象的である
 彼が、赤ん坊が入った紙袋を下げて歩いて行く様は、それ自身とても美しい。音楽もいい。


 
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昨日の日記の訂正

2007-05-28 14:16:00 | 写真集
 松岡農水相の自殺騒ぎの関連で、昨日の日記で彼に触れた川柳を三句ほど掲載したものを削除しました。

 この時点で、安否の程は不明ですが、結果として死者に鞭打つことはしたくないからです。

 それにしても、この件についての安倍首相の責任は重大だと思います。それにつてのコメントを、昨日の日記に補足しておきましたが、重複を恐れず、再度掲載します。


松岡農水相に関する川柳が三句ほどあったのですが、彼が自殺を図ったとの報に接し、急遽、削除いたしました。
 この時間帯では、まだ安否の程は分からないのですが、結果として、死者に鞭打つようなことはしたくないからです。


 ただし、この件に関しては安倍首相の責任は重大だと思います。
 まず、自分が総理になる際の論功行賞として彼を大臣に任命したという任命責任、次いで、明らかな不祥事が発覚したにもかかわらず、罷免なり辞任させるなりの措置を取らず、それを庇い続け、かえって窮地にまで追いやったこと、さらには、政治と金についての透明感、清潔感を実現することを実行しようとすることなく、だらだらと事態を引き延ばしたことなどです。


 そのため、辛抱しきれなくなった与党である金子予算委員長から批判や辞任要求が出るまで事態が悪化し、その結果としての自殺騒動であると思います。
 安倍首相の指導力、求心力のなさが露呈したものといえます。

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旧・徳山村と六の時事川柳 07.5.27

2007-05-27 18:14:34 | 川柳日記
 5月末のある晴れた日、旧徳山村を訪れた。
 アマゴやイワナを追っかけてしばしば訪れたことはあったが、ダム建設が開始されて以降は足を向けたことがなく、約三〇年ぶりの訪問であった。

 ほぼ完成し、貯水をはじめた巨大ダムのもと、そのほとんどは水没し、かつてのよすがを偲ぶものもなかった。

 


 

 かくて、平家の落人伝説を持った由緒ある村落が、一挙にその歴史を断ったのであった

 

  湖畔の樹木に巻いた山藤の花のみが、「ひとはいざ心も知れず」とばかりに咲き誇っていた。

     

 


<今週の川柳もどき> 07.5.27

 五千万それでは宙も狭かろう
 (宙に浮いている年金の件数)

 五万円以下は金ではないという 
 (政治資金法というザル

 君が代が虚しく響く国技館
 
 全共闘以来大学連帯す
 (ただしハシカ)
 ハシカすら駅弁大学には来ない

<今週の川柳もどき>、実はこの上に松岡農水相に関するものが三句ほどあったのですが、彼が自殺を図ったとの報に接し、急遽、削除いたしました。
 この時間帯では、まだ安否の程は分からないのですが、結果として、死者に鞭打つようなことはしたくないからです。


 ただし、この件に関しては安倍首相の責任は重大だと思います。
 まず、自分が総理になる際の論功行賞として彼を大臣に任命したという任命責任、次いで、明らかな不祥事が発覚したにもかかわらず、罷免なり辞任させるなりの措置を取らず、それを庇い続け、かえって窮地にまで追いやったこと、さらには、政治と金についての透明感、清潔感を実現することを実行しようとすることなく、だらだらと事態を引き延ばしたことなどです。


 そのため、辛抱しきれなくなった与党の金子予算委員長からまで批判や辞任要求が出るまで事態が悪化し、その結果としての自殺騒動であると思います。
 安倍首相の指導力、求心力のなさが露呈したものといえます。

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まだらな町と花鳥風「蛙」?

2007-05-23 18:22:39 | フォトエッセイ
 私の住む市は県都ですが、私の住まいの辺から、住宅や建造物の集団がばらけはじめ、その間に畑や田圃が点在し、やがて田園色が濃くなる、そんな地点似住んでいます。要するに、まだらな町なのです。

    
     立派なユッカの花。身の丈3メートル近い。

 高度成長期やバブルの頃は、あちこちで田圃を潰しマンションなどが建ち、これでこの辺も市街地に完全に飲み込まれるのかなと思ったのですが、バブルの崩壊で、その勢いはストップし、現在、私の家から見渡せる範囲で大きな建造中のものはありません。

 
      そのすぐ近くで見つけたヘビイチゴ

 しかし、私は移り住んだ40年前とは激変しています。
 かつて雉がヒナを連れて渡っていた道は、岐阜羽島駅方面に向かう交通量の激しい道になっています。

 コブナもメダカもドジョウもザリガニも、みんないなくなりました。人間様の都合の良いときだけ水を流すコンクリート製のもはや川ともいえないU字溝に、彼らの住処はありません。蛙の鳴き声も半減しました。

 
ジャガイモの花。モンシロチョウが。でも、画面では捉え損ねた。
 
 それでもまだ、近くには小川もどきの川が残り、畑が四季の野菜を実らせ、やがて田植えが始まろうとしています。

 そんな中、自転車を走らせて、郵便局、銀行、洗濯屋、本屋などなどを回りました。

 
 カルガモがヒナを連れていた。12羽いる。しかし、みな無事に育たないようだ。夏頃になると母鳥について泳ぐヒナの数は、多くて数羽、去年は僅か2羽というのもいた。
 一羽でも多く育てよとエールを送ったが、母鳥からは「早くあっちへ行け」といわれてしまった。


 挿入した写真はその行き帰りに撮ったものです。
 これだけご覧になると、まだまだ自然がとお思いでしょうが、それすらも次第に・・と思うと、何かがじわじわと攻め込んでくるような気がするのです。


 
 やや見にくいが、今日いちばんの収穫。30センチほどもありそうなウシガエルである。かつては、私の部屋の下の田圃にも複数匹いて、夜は眠れぬほどうるさかったのだが、最近はとんと聞かぬ。
 時折、遠くからかすかにその鳴き声が聞こえるのだが、こいつかも知れぬ。「おい、元気でいろよ」と声をかける。

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石原映画の評価と六の時事川柳

2007-05-21 02:09:31 | よしなしごと
 石原慎太郎脚本・総指揮の映画、『俺は、君のためにこそ死にに行く』を観た。

 石原氏への既成観念で頭ごなしに決めつけるような「好戦映画」ではない。欧米に対する大東亜の戦いの強調や、特攻そのものを幾分美化するきらいはあるが、岸恵子の存在により、あたら若い男たちの理不尽な死がそれなりに描かれているといえる。

 

 冒頭、軍幹部たちが敗戦を察知しながらも、その降伏条件を有利にするために特攻を決定するシーンは、あの5,000人にのぼる若者たちの死が、もとより虚しいものでしかなかったことを如実に示している。
 それは完全に犬死の強要であった。
 私は、「犬死」という言葉で、決して死者たちを鞭打っているのではない。
 あたら若い生命を、根拠薄弱な作戦によって、消耗品として散らせた軍と、その頂点にあった者に対しての満腔の怒りをこめて、なおかつ、そういわざるを得ないのだ。そして、それが口惜しい。
 
 むろんこの映画は、「反戦映画」とは言い難い面を持つ。しかし、上記のような視点を堅持して観るならば、戦争というものが、いかに野蛮で不合理な死を強要するものであり、そうした状況に至らぬことこそが肝要であることが分かる。

 

 それから、石原氏が作ったからといって、全否定する評価もいかがなものかと思う。私も彼の言動は好きではない。むしろ嫌いである。
 しかし、彼とて、戦争をすべきだとか、若い連中が無為に死んでもいいと思っているわけではなかろう。
 むろん、彼の政治路線が、そうした危険性へと至ることは考えられるし、それは阻止すべきであろうが。

 ただ、この作品に関する限り、「坊主憎くけりゃ」は通用しないだろう。
 お勧めではないにしても、若い人達に、戦争というのはあんな理不尽な死を強要するものだということを改めて知らしめただけでもいいではないか。
 石原氏に、当時の軍部やスメラミコトに対しての批判をもっと明確にせよなどというのは、まあ、ないものねだりであろう。

 

 最後に、この題名はいかにも長く、しかもダサイ。
 その上、間違っている
 『俺は、君のためにこそ死にに行く』ではなく、正確には、『俺は、天皇のためにこそ死にに行く』なのだ。あるいは「大君」としてもいい。
 戦前、軍国教育を受けたものにとってはこれは常識であった。

 むろん一人一人は、その理不尽さに耐えられず、自ら死すべき目標を、「君」や「家族」を守るためとしたりもしたであろう。
 しかし、事実は天皇のためだった。「天皇のために死ぬ」は、私のような当時の小国民にとっても、当然の定めであった。

 

 この映画がもし戦前上映されていたら、軍部の検閲によって、『俺は、君のためにこそ死にに行く』は青臭い軟弱なものであるとして、『俺は、天皇のためにこそ死にに行く』に改めさせられていたことは間違いない。

 最後に、出撃した人たちは、私のひと世代上の、いわば兄ともいっていい人たちであった。改めてその無念の死に合掌したい

写真の花々は、内容とはなんの関連もないが、不本意な死を強要され、散らざるを得なかった御霊への献花としたい


<今週の川柳もどき>  07.5.20

 ふるさとは税を納めて思うもの
  (ふるさと税に室生犀星の詠める)

 不手際を重ね重ねて死者を出す
  (立てこもりへの愛知県警
  (亡くなった警官には合掌)

 高速船絶叫マシンに早変わり
  (東京湾で事故)

 六百億シュノーケルでは見つからぬ
  (大西洋でお宝満載の沈没船発見)

 コウノトリのヒナを運んだコウノトリ
  (43年ぶりの自然放鳥がヒナを
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バベル崩壊とコミュニケーション

2007-05-19 06:35:25 | 映画評論
 以下は、映画、『バベル』についての論評です。
 写真は、映画を待つ人々と、私が観たスクリーンです。

 ===========================

 ヤァウェは人の子らの建て始めた町と塔を見ていった。「見よ、彼らはひとつの民,ひとつの言葉(略)。さあ、われら下って行き、あそこでの彼らの言葉を乱し、仲間の言葉が通じないよううにすべし」(『旧約聖書』より)

 この映画は、その題名といい内容といい、ディスコミュニケーションを題材にしていることは間違いない。
 しかもそれは、グローバリゼーションの世界を背景としたものとして展開されるのだ。

 ネタバレを恐れずいってしまえば、日本の狩猟家がモロッコのガイドに与えた銃が、その知り合いに渡り、それを撃った息子の弾がツアー中のアメリカ人の女性に当たったため、その留守を預かるメキシコ出身の家政婦が息子の結婚式に面倒を見ていたた子供たちを連れて参列し、その帰途事件に巻き込まれるといったことなどが大筋である。

 

 監督はこの偶然的は事象の繋がりにディスコミュニケーションを見、さらにひとつひとつのエピソードにあるディスコミュニケーションに注意を向けようとする。

 まず、全体的な構成からいえば、日本の絡みはほとんどその必要性がない。別役の役柄や、自死したらしいその妻については煩雑な雑音にしか描かれていないし、ディスコミュニケーションの象徴的存在である聾唖者の高校生の登場もあざとらしさという他はない
 なぜなら、彼女は、あの映画の中では、もっとも過剰にコミュニケートしていたからである。

 百歩譲って、最もコミュニケート不能と思われる聾唖者が、最もコミュニケートしうるのだという主張があの監督にあるのだとしたら、それはそれである別の構成が可能なのであり、現実のあの映画全体の構成は破綻しているとしかいいようがない。

    


 監督の主張はなんなのか。世界はこのようにディスコミュニケーションに充ち満ちていますとということなのか。そしてその解消を裸の女子高生に託すのか。
 そうだとしたら、それは短絡でしかない。
 
 この映画が、決定的に見落としているのは、私達が直面しているこの事態は、決してコミュニケーションの齟齬によるものではないということのだ。
 ようするに、言語が一元化され、その意味が統合されコミュニケーションが緻密になりさえすれば解消するものではないのだ。

 言語、あるいは聾唖者が使う手話やその他の記号も含めて、それらは、決して一元的意味を担うことは出来ない

 これには二つの意味合いがあって、ひとつは言語学的、かつ哲学的なものであり、シニフィアンの持つ現実的物質的側面の特性ともいえるのだが、それはこの際、棚上げにしよう。

 
 ただしひとついえるのは、冒頭に掲げた引用のバベルの町のように、世界中の人が同一の言語と意味作用を共有するならば(あるいはそれしか持ち得ないならば)、私達は人工知能という唯一普遍のものを分有する部品でしかないのであり、バベルの塔を崩壊させた神は、賢明にも、人の無機的機械化を防いだのかも知れないということである。
 
 これは神の利にかなうことでもある。意味作用の完膚無きまでの一元化を果たしたひとは、もはやそれ自身神同様のまったき一元性の世界に座を占めるからである。多元性なき無機的存在者は、神を崇める必要もその術をも知らない

 
 

 少なからず脱線したが、言語や記号の持つ意味作用は、未来永劫、決して一元化されることはない
 だからこそ、出来事個別は存在し、法則から逸脱した歴史は存在しうるし、意味の余剰としての芸術も存在しうる。
 それらの逸脱を、政治的権力でもって規制しようとしたのが,ファッシズムやスターリニズムであることはいまさらいうまでもあるまい。そしてその破綻の歴史も・・。

    
 

 映画に戻ろう。モロッコの家族と警察の齟齬、アメリカとメキシコの国境における事態のねじれ、これらは決して単なるディスコミュニケーションではない。それが、現実のリアルなコミュニケーションのありようなのだ。
 そして、現今のグローバリゼーションは、そうした一見齟齬とも思われるものをも内包しながら、世界を、そのリアルポリティクスに即した平準化として政治力学の内に組み入れて行くのである。

 そこには、ディスコミュケーションなどははい。強者の支配的コミュニケーションがあるのみである。

 


 私達はバベルの塔の崩壊と、それによる言語の意味作用の分裂の中にあることは不可避なのである。だから、この映画のように、「この世にはいろいろなディスコミュニケーションがありますよ」といわれても、「で、どうしたの」というに留まるのである。

 繰り返すが、ディスコミュニケーでょンなどない。あるとすれば、それが常態なのである。問題は、世界を強者によるコミュニケーションが席巻しようとしているとき、私達がそれにどのようなコミュニケーションを対置しうるかであって、コミュニケーション一般の喪失などという泣き言を映像として並べることではないのだ。

 ついでながら、チラチラとお毛毛を見せたり、ヌードになるぐらいの菊池凛子が、アカデミーをとるぐらいなら、伝説のストリッパー一条さゆりにはノーベル賞が与えられて然るべきである。
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馬の耳に東の風が吹いたら

2007-05-17 15:59:35 | よしなしごと
 以下はある小冊子のために書いたエッセですが、テーマが急に変更になったため、宙ぶらりんになっていたものを引っ張り出してきたものです。幾分カットするなどの手は加わっています。

 なお、写真は全く関係ありません。

  ==========================

 
 「ちゃんと聞いているんですか?この前も言ったでしょう」
 家人(♀)の叱責の声が聞こえます。あいまいな言い訳をすれば、そのトーンがさらに上がるに決まっています。だから黙って首をすくめるという自衛策しか取れません。

 
 
 私だって、あえてそれに逆らおうとしているわけではないのです。その言い分はもっともですし(そうでないときもあるのですが)、できればそれに従いたい気持ちでいっぱいなのです。
 しかしです、この世の中には、私の注意力を要求する事柄が多すぎるのです。私は社会人として、特定の人たちの友人として、そしてまたあるときは酒場の優雅な客として振る舞い、なおかつ家庭でのしかるべき権利(これはきわめて少ないのですが)を行使し、義務(これは多いのです)を果たさねばならないのです。

  
 
 ますます複雑化する社会の中で、たとえ人に先んじようなどと大それたことを考えなくとも、それなりにその流れについて行こうとすると、並大抵ではありません。現にこうして自分が使っているつもりのパソコンですら、時として私を裏切り、きりきり舞いをさせます。しかもその大半の理由は、私がそのマニュアルを中途半端にしか理解していなかったことによるのです。
 
 要するに「世間並み」というレベルがぐんと上がっていて、世間並みになるために私たちがこなさねばならないマニュアルは実に多岐にわたっているのです。「便利な社会」が提供しているその便利さは、そうしたマニュアルを制覇した者のみに与えられるもので、さもないと、「ジョーホー社会」から転落してしまうのです。

 
 
 これは大変です。道は二つあるように思えます。一つは、必死でそれに食らいつくこと、もう一つは、そんな試みそのものを拒否して、ジョーホー社会にから己を閉ざすことです。
 しかし、ここで求めるのは、そのいずれにも属さない第三の道です。マニュアルに追いつめられず、引きこもりにもならず、世に適用しうる道、そんな道がほしいのです。

    
 
 それは、身に降りかかるすべてを引き受けるのではなく、適度に取捨選択しながら、時としてはさらりと受け流すこと、聞き流すことではないでしょうか。これを専門用語では「馬耳東風」というようです。その取捨選択の基準は人それぞれですが、それがその人の生き様を決めるものだともいえます。

 あ、また家人がまた何か言っています。私は本能的に、それを聞き流す方へと分類します。家人よ許せ。これが私が現代を生き延びるための必要な方策なのだから。「王様の耳はロバの耳」ならぬ、私の耳は馬の耳なのです。
 そこで一首(いわずと知れた菅原道真のパクリです)。

 東風(こち)吹かば思い起こせよ馬の耳 
     主(あるじ)怒れどそれは忘れよ
  未知座寝
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花と時事川柳と高野連

2007-05-13 23:56:35 | 社会評論
 しばらく図書館でくすぶっていたが、陽気に誘われて外に出る。
 道一本隔てた県立美術館の庭園を彷徨うと、既に春の花はすっかり姿を消し、初夏の花たちが風情を添える。

 三月に花を付けていた柊南天も、もうこんな実を付けていた(上が三月)。

 

 
 
 他にはこんな花も・・。
 ドウダンツツジの提灯のような花。

 
 
 これは外つ国からやって来たカルシア。正五角形整然とした中に、細やかな装飾が・・。蕾はまるで金平糖のよう。

 
 
 最後はヒトツバタゴ(通称・なんじゃもんじゃ)。まだ樹が若いのと、咲き始めなので、雪が積もったかのようなボリューム感はないが、近くで見ると清楚で可愛い。

 
 
 県美の庭では他にも面白そうな写真が撮れたので、まとまったらアルバムに掲載の予定。

<今週の川柳もどき> 07.5.13

 改憲が解党になる民主党
  (何だかバラバラみたい)

 ざる法がン千万の水許す
  (松岡式浄水器おとがめなし)

 大変だかつらをむしり取られそう
  (アデランスに外資系ファンド攻勢)

 大学の幼児化ハシカ流行らせる
  (各大学で流行っているとか)

 初仕事収賄がらみのクルーザー
  (仏大統領

 結局は事後承認の高野連
  (無能をさらけ出したのみ)

<高野連について>
 まず、国民的常識だった特待生の蔓延にの事実に驚いて見せ(それを知りつつ放置してきたのは高野連なのに)、春に限定した出場停止などのちょこちょことした小手先のごまかしでその広がりを押さえ、事実をただただ追認して、夏の甲子園はひたすら守る

 憲章に照らして事実を裁断するのではなく、憲章を事実に合わせる、なんのための憲章だったのかの疑問は残るが、それも現実的な措置かもしれない。
 ただし、高校野球がアマチュアだとはもう名乗らないことだ。ミニプロ野球としてしっかり位置づけるべきだ。高校野球には、プロで言うオフシーズンすらないのだから・・。
 まあ、金と情報網を持つ学校が勝つと割り切ればいいのだ。

 なお、この問題に「朝日」「毎日」の口が重かったことは明記すべきだ。彼ら自身が高野連と結託しているばかりかその重要な一翼を担い、プロ化したゲームが過熱することが狙いなのだから、公正な報道などできっこないのだ。

 ただし、高野連ミニプロ野球協会に質問がある。
 特待生を採用できない公立高校はどうなるのですか
 いっそのこと甲子園から閉め出して他の形で大会を行いますか?
 そうでなければ、公正の原則は保てないでしょう。
 それとも、文部省の予算で、公立高校も各学校単位に特待生用の経費を認めますか

ATTENTION!
 既成事実を作って置いて、あとから法を適合させる、これはどこかで見た方式ではないか。
 そうなのだ。憲法がまさにこの方式で変えられようとしているのだ。
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リンパ腺の妨害と「遊具幻想」

2007-05-11 16:41:17 | フォトエッセイ
 例によって、パソで文章を書いていたら、何だか、右脇下のリンパ腺が痛くなってきた
 触ってみると、かなり腫れていて、熱も持っている。
 その腕に外傷などを負った場合そうなるが、それらしいものはないから、肩こりから来ているのかも知れない。

 いずれにしても、キーボードを打つのも辛いし、何もしていなくても鈍痛がして不快である。

 歳が歳だから、三日も日記を書かないと、とうとう逝ったかと思われそうなので、書かねばとは思うのだが、やはりしんどい。

 そこで写真主体で誤魔化すことにした。
 題して、「遊具幻想」

   
 
 三、四日前の、さるスーパーの屋上である。
 子供たちの姿はない。
 少子化?時間帯? 解釈はご自由に。
 ちなみに時間は午後四時。私以外は誰もいない。

  
 
 前の用件から、次の用件までの余った時間を、ここもベンチで本など読みながら過ごした。

 

             
      
 気がついたら、陽が西に傾き、少し気温も下がってきたようだ。  
 周辺の気配も暮色に包まれてきた。
 遊具たちをもう一度見渡す。
 私を注視していた彼(彼女)たちが、一斉に視線を逸らせたように思えた
 
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怪しい一団と堀川のこと

2007-05-08 16:48:15 | フォトエッセイ
 この前の日記で、「鯉の恋」で河川の水質の問題に触れました。
 と思ったら、翌日さっそくそれに関連する状況に出くわしました。

 名古屋の町中で、何やら青い幟を持った一隊に出合ったのです。何かの宣伝かなと思って見ていてら、どうやらそうではないようです。
 折から通りかかった堀川の川岸に降りていった一隊は、私などには目もくれず、揃って川面を眺めはじめました。

 
 
 名古屋以外の方のために申し上げますと、この堀川、文字通り名古屋城の外堀と接続していて、下流は堀川運河として名古屋港にいたり、水上交通の盛んな折には、名古屋の都心と伊勢湾を結ぶ要路だった都心を流れている川なのです。
 また、この川はかつては水底まで見渡わたす事が出来、そこで泳ぐことも出来た清流であったということです。いまを去ることン十年前、古老にその体験を聞いたことがあるのですが、その話を聞いた頃は、折から環境などに一顧だにしないような高度成長のまっただ中で、どす黒い水が淀み、メタンガスが吹き上げる状況でしたので、にわかには信じがたいものがありました。

 
 
 さて、一隊の話に戻りましょう。
 一枚目の写真、文字が反転していますが、二枚目(私のことではありません。念のため)でお分かりいただけるように、「堀川を清流に 堀川1,000人調査隊」と幟には書かれています。幟の下段に記された2010は、たぶんその達成目標を2010年に置いているということでしょう。
 
 先ほど覗き込んでいたのは、目視による確認でしょう。二枚目の右の作業服の人が持っている筒状のガラスの器具は、水質検査関連のものだと思われます。
 写真には撮りませんでしたが、その後、この人は、川岸への階段を下りて、水を汲んでいました。

 さて、この川の水質の現状がどうであるかを三枚目の写真で示します。
 どうでしょう、これをあと二年で清流にするにはかなりの努力が要りそうですね。

 
 
 次いでにこの川の全体像を示したのが、四枚目の写真です。ご覧のように大都会の都心を流れる川です。この川が、本当に清流になったら素晴らしいですね。

   
 
 ところで、どういう人たちがこんな奇特な事をしているのでしょう。写真でご覧になれるように、どうもオフィスぐるみの参加のようです。時間も午後1時半頃ですから、普通なら就業時間中です。
 
 そこで、ネットで調べたら、このキャンペーン、名古屋ライオンズクラブが最重要課題として掲げ、実行しているようなのです。どうやらこの一隊も、社長さんがクラブの会員さんで、その指示のもと、こうして出かけてきたようなのです。

 ライオンズクラブとか、ロータリークラブというのは私のような庶民にとってはいささか縁遠いものがあるのですが、儲けすぎたお金を、こうした環境の保全回復に費やすという事は悪い事ではありません
 ましてや、動員されたとはいえ、こうして炎天下、現場で調査作業をする人たちには、ご苦労さんという他はありません。

 
 
 いずれにしても、この人たちの努力が実って、この堀川が、同じ場所で撮った五枚目の写真のような、青空に似つかわしい清流になる事を祈りたいと思います。
(この川がかつては清流であったと私に話してくれた古老たちに、回復した清流を見せてやりたいと思うのですが、そのほとんどがもう、鬼籍に入っていらっしゃるでしょうね。)
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