南アの映画、『ツォツィ』を観た。
主人公の少年は「ツォツィ」と呼ばれるが、これは本名ではない。
「不良」あるいは「ゴロツキ」を現す普通名詞である。
その名のごとく、彼は仲間と徒党を組んで盗みや強盗をはたらく。その手口は残忍暴虐という他はない。
その彼のリアルタイムな行動の合間に、エイズらしい母親と切り離されたり、父からの虐待の回想シーンが挿入され、南ア下層階級の中で、はみ出しものとして育たざるを得なかった背景がほの見える。
その彼が、ひょんなことで手に入れ(てしまっ)た、赤ん坊を蝶つがい、ないしは節目にして、アウトロウの世界からインロウの世界へと変化を遂げるといった物語である。
事実、その前後での彼の変貌がこの映画の主題となる。
その意味で赤ん坊との出会いは大きいのだが、暴虐の限りを尽くす彼がなぜその赤ん坊に惹かれるのか?自分の幼少時の記憶とのオーバーラップだろうか。
それもあるだろう。しかし、私はここで、リトアニア生まれの哲学者、E・レヴィナスの倫理の起点である「ヴィザージュ(顔)」、「汝殺すなかれ」と訴える「他者」の顔を想い起した。
実際のところ、あの映画の中の眼ばかりでかい黒人の赤ん坊は、私達に、そしてツォツィにそう訴えてはいなかったろうか。
いずれにしても、その出会いからツォツィは変わる。もらい乳のために押しかける若い子持ちの女性との出会いも、最初のとげとげしいものから柔和な関係へと変わる。
その変化のひとつは、ツォツィという普通名詞で応答していた彼が、まるで忘れてしまっていたかのような自分の固有名詞を使い始めることのうちにもある。
そしてラストシーンへ・・。
このラストは、誰しもホッとするものである。
はみ出しものの一人の少年が、「われわれのもとへ」と帰ってきた、目出度し、目出度しである。
しかし、ほんとうにそれで良いのだろうか?
「ツォツィ」が固有名詞ではなく普通名詞であったように、周辺には無数のツォツィたちがいて、しかもそれが日々再生産されつつあるのだ。
アパルトヘイトが廃止されて以降の南アは、少なくとも表面上の人種差別はなくなったようである。しかし、それに変わって黒人間をも含めた貧富の差は一挙に拡大しつつある。
この映画においての加害者(ツォツィたち)も、そしてその襲撃を受ける裕福な被害者たちも、すべて黒人であることは象徴的である(ついでながら、この映画には白人は一人しか登場しない)。
また、高層ビルの林立するヨハネスブルグの中心街を遠望する地点での貧民窟や土管ハウスもまたこの関連を如実に示す映像といえる。
ここには、グローバリゼーションの急激な襲来の中で、そこへと組み込まれ富の蓄積を可能として行く部分と、そこからはじき出され、秩序外の、要するにアウトロウとしてしか生存できない部分とがクッキリと描かれている。
また、そのアウトローたちの稼ぎを組織して利益を上げるブローカーも登場する。
この映画で見る限り、それはもはやシステムとして定着しているかのようである。
ひとりのツォツィは、ひょんなことからそこから掬い上げられた。それは良いことには違いない。
しかし既に述べたように、同時に、無数のツォツィたちがいて、それが拡大再生産されつつあることも事実なのだ。
むろん監督がそれを無視しているわけではない。挿入されるエピソードや、先に見た対照的な富と貧困の映像は、この物語が、南アをはじめ、あらゆる低開発国家のグローバリゼーションとの不可避な遭遇による世界的な規模での物語の、ほんの一部でしかないことを示している。
映像は、貧民窟を中心に描いているにもかかわらず美しい。赤ん坊に乳を与える若い女性は、聖母マリアを思わせるし、ツォツィの面構えと、下から見据えるような視線のきらめきは時に切なく、また時に哀しく、極めて印象的である。
彼が、赤ん坊が入った紙袋を下げて歩いて行く様は、それ自身とても美しい。音楽もいい。
主人公の少年は「ツォツィ」と呼ばれるが、これは本名ではない。
「不良」あるいは「ゴロツキ」を現す普通名詞である。
その名のごとく、彼は仲間と徒党を組んで盗みや強盗をはたらく。その手口は残忍暴虐という他はない。
その彼のリアルタイムな行動の合間に、エイズらしい母親と切り離されたり、父からの虐待の回想シーンが挿入され、南ア下層階級の中で、はみ出しものとして育たざるを得なかった背景がほの見える。
その彼が、ひょんなことで手に入れ(てしまっ)た、赤ん坊を蝶つがい、ないしは節目にして、アウトロウの世界からインロウの世界へと変化を遂げるといった物語である。
事実、その前後での彼の変貌がこの映画の主題となる。
その意味で赤ん坊との出会いは大きいのだが、暴虐の限りを尽くす彼がなぜその赤ん坊に惹かれるのか?自分の幼少時の記憶とのオーバーラップだろうか。
それもあるだろう。しかし、私はここで、リトアニア生まれの哲学者、E・レヴィナスの倫理の起点である「ヴィザージュ(顔)」、「汝殺すなかれ」と訴える「他者」の顔を想い起した。
実際のところ、あの映画の中の眼ばかりでかい黒人の赤ん坊は、私達に、そしてツォツィにそう訴えてはいなかったろうか。
いずれにしても、その出会いからツォツィは変わる。もらい乳のために押しかける若い子持ちの女性との出会いも、最初のとげとげしいものから柔和な関係へと変わる。
その変化のひとつは、ツォツィという普通名詞で応答していた彼が、まるで忘れてしまっていたかのような自分の固有名詞を使い始めることのうちにもある。
そしてラストシーンへ・・。
このラストは、誰しもホッとするものである。
はみ出しものの一人の少年が、「われわれのもとへ」と帰ってきた、目出度し、目出度しである。
しかし、ほんとうにそれで良いのだろうか?
「ツォツィ」が固有名詞ではなく普通名詞であったように、周辺には無数のツォツィたちがいて、しかもそれが日々再生産されつつあるのだ。
アパルトヘイトが廃止されて以降の南アは、少なくとも表面上の人種差別はなくなったようである。しかし、それに変わって黒人間をも含めた貧富の差は一挙に拡大しつつある。
この映画においての加害者(ツォツィたち)も、そしてその襲撃を受ける裕福な被害者たちも、すべて黒人であることは象徴的である(ついでながら、この映画には白人は一人しか登場しない)。
また、高層ビルの林立するヨハネスブルグの中心街を遠望する地点での貧民窟や土管ハウスもまたこの関連を如実に示す映像といえる。
ここには、グローバリゼーションの急激な襲来の中で、そこへと組み込まれ富の蓄積を可能として行く部分と、そこからはじき出され、秩序外の、要するにアウトロウとしてしか生存できない部分とがクッキリと描かれている。
また、そのアウトローたちの稼ぎを組織して利益を上げるブローカーも登場する。
この映画で見る限り、それはもはやシステムとして定着しているかのようである。
ひとりのツォツィは、ひょんなことからそこから掬い上げられた。それは良いことには違いない。
しかし既に述べたように、同時に、無数のツォツィたちがいて、それが拡大再生産されつつあることも事実なのだ。
むろん監督がそれを無視しているわけではない。挿入されるエピソードや、先に見た対照的な富と貧困の映像は、この物語が、南アをはじめ、あらゆる低開発国家のグローバリゼーションとの不可避な遭遇による世界的な規模での物語の、ほんの一部でしかないことを示している。
映像は、貧民窟を中心に描いているにもかかわらず美しい。赤ん坊に乳を与える若い女性は、聖母マリアを思わせるし、ツォツィの面構えと、下から見据えるような視線のきらめきは時に切なく、また時に哀しく、極めて印象的である。
彼が、赤ん坊が入った紙袋を下げて歩いて行く様は、それ自身とても美しい。音楽もいい。