六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

山椒 益臣氏 モーレンカンプ・ふゆこさん

2009-05-30 04:30:10 | よしなしごと
 落語の「饅頭怖い」ではないが、ものはいってみるものである。
 5月19日付のこの欄に、山椒が好きなのだが鉢植えのものを何度買ってきても枯らしてしまって巧く育たないと泣き言を書いた。

http://pub.ne.jp/rokumon/?entry_id=2162702 
 
 書いた本人はそんなことは忘れてしまって、先般、名古屋で月一回行われる勉強会というかお話会に出ていたら、あの記事を読んでくれたHさんという女性が、自宅で採ったという山椒の小枝を沢山持ってきて下さった。
 これが本当の「驚き、桃の木、山椒の木」である。

 スーパーなどで売っているポリ袋に入れたそれとは違って、香りはすこぶるいい。おまけに、山椒は小粒でぴりりと辛いという可愛い実まで付いている。

 ところでこれをくれたHさんご夫妻、私と同じ岐阜のお住まいなのだが、岐阜の中心部を挟んでお宅は北東、私の家は南西と対角線上にある。従って、この山椒の枝は、Hさん宅から名古屋へ、そして名古屋から拙宅へと三角形の旅をしたことになる。

 

 写真で見るとさほど量は多くないが、最初もらったのはこの数倍はあった。
 お調子者の私は、頂いたのが嬉しくてそれを吹聴し、欲しい人にお裾分けをしたのだった。
 そればかりではない。
 
 この日の集まりは、やはり私がここに4月7日付で記した、わずか三年あまりの付き合いだったが同年齢ということもあり、それなりに濃密な関係であった伊藤益臣氏の死を悼み、彼を看とった方を招いてその晩年を聞く会でもあったのだ。

 http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20090407

 かの益臣氏と彼女の晩年が、充実し、互いに満たされたものであったことを聞き、死んでしまった益臣氏に嫉妬すら覚えた次第であった。
 で、なぜそれが山椒と関連するかは次のような経緯があったからである。

 定例の会が終わった後、益臣氏がかつてよくいっていた補習事業(2次会)も終了し、いつもなら散会なのだが、有志の間で益臣氏の行きつけのバーというかスナックを訪問しようという話がまとまった。
 筆頭のH氏(山椒をくれた人とは関係ない)をはじめ、Yさん、Kさん、そして私であった。
 実はこの店、益臣氏とほとんど初対面の折、「六さん、是非付き合って下さい」と彼に連れて行かれた店である。
 さすが、Mという企業とそのネットワーク内なのだろう、この店を訪れる後輩たちに対し、益臣氏は押しも押されぬ先輩面をしていた。

 で、その話と山椒との関連であるが、私が酒というものを口にし始めた頃巷に蔓延していて、そしておそらくは益臣氏もそれを口に運んだであろうことが間違いないハイボールというものを飲みたくなって、私はそれを注文した。その酒に山椒の葉を浮かべて飲んだ。H氏もそれにならった。益臣氏がいたら彼もそうしただろう。

 

 そんなわけでそこで一定程度消費したのと、それを説明したついでにその店に一枝置いてきたこともあって、私の持ち帰り分はさらに減少したのであった。
 博愛衆に及ぼすということで、これをくれたHさんもこれを了承してくれることと思う。

 なお、上の山椒の写真とともに写っている本は、朝日歌壇などで活躍したモーレンカンプ・ふゆこさんの歌集である。同時に発表した句集共々、日本総発売元のYさん(上にも登場した人)がその宣伝に獅子奮迅の努力をしている。

 なお、モーレンカンプ・ふゆこさんにはかつてここでも言及したことがある。
 彼女はオランダ在住だが、彼の地から日本の現状を憂う歌などを発表したところ、ネット右翼と目される連中が悪態をつき放題にし、彼女を売国奴と断じた言説がネットを飛び交った。
 だが、彼らが決定的に知らない、また知ろうともしない現実がある。

 それは、モーレンカンプ・ふゆこさんの熱烈なファンに美智子皇后がいて、二人はおそらく連絡もあるということである。
 ネット右翼は、天皇家も反日であると断定するのだろうか。
 なんともややこしい話である。

 しかし、そんな生臭い話とは関係なく、山椒は確実にその香りを放っている。



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バースディのハッピイさって・・・

2009-05-29 03:13:04 | よしなしごと
 

 95歳の誕生日、寝たきりでも目出度いのでしょうか。
 病院の集会所で、「ハッピバスディ・トゥユー」の合唱がありましたが、母はそれがかすかに聞こえる病床で虚空に眼をやっていました。
 私は「ハッピバスディ・トゥユー」にあわせて母の唯一麻痺していない左肩を静かに叩いてやりました。
 
 寝たきり病人たちの病棟は薬品の匂いに混じってかすかに糞尿の匂いがします。私は、そこで母に会うたびに、胃が痛くなります。

 母を見ているのがつらいので、肩をなぜながら病室の窓の外などを見ています。そんなときに限って、分かるのかどうかは不明ですが、母は遠くを見ている私の視線を追うのです。

 ハッピバスディ・トゥユー ハッピバスディ・トゥユー ハッピバスディ・トゥユー・・ 私の原罪をなじるように歌が続きます。
 
 私は途方にくれて母の左肩に手を置いたまま佇むのです。

 ハッピバスディ・トゥユー ハッピバスディ・トゥユー ハッピバスディ・トゥユー・・・

 母は生まれてしまったのです。そして、私も・・。

 それがハッピイであるのかどうかは大きなお世話です。
 でも、母も私も、どうしようもなく生まれ、今に至っているのです。

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【討論】相対と絶対  なんたる刺激!

2009-05-28 02:33:12 | ラブレター
 前回の私の記事、【相対主義と絶対主義】を別のSNSへも掲載いたしました。
 変な独り言のような記事ですから、コメントはほとんど付かないだろうと思っていましたが、けっこう興味を示していただき、それぞれ中身の濃いコメントをいただくこととなり、思わず襟を正すこととなりました。
 以下はいただいたコメント、並びにそれへの私の応答です。

Aさん より
 勉強不足で分からない部分たくさんありましたが、興味深い日記でした!
 相対主義と全体主義に対してのさらなる考察の日記を期待しますわーい。

Aさんへの私の返事
 私もあまり分かってはいません。この問題は、どうしてもある種のアポリアを免れがたく、そうしたアポリアにうちにあるのが人間なのだといってしまえそうなのですが、それで済ませては実も蓋もないので、そのあたりをなんとか言語化する努力をすべきでしょうね。
 また、新しい進展がありましたら報告いたします。

     
 
Bさん より
 この問題はいつも苦しんでいる問題ですが、問い続けるしかないですね、それにしても写真が素晴らしい。相対主義と絶対主義の対立を超えています。

Bさんへの私の返事
 Bさんがお進めになっている「疎外論の復権」とも関連するようです。
 疎外論は、「本来性」からの逸脱、そこへの環帰といった意味合いを含むのでしょうが、その場合の「本来性」の設定を誤ると、民族や大地に足をすくわれたハイデガーのように、あるいはまた、プロレタリア的人間のありようの歪曲を強要したスターリニズムのように、ある種の絶対主義(あるいは形而上学)に至る可能性をも秘めているように思います。
 その意味でお進めになっているお試みにつき、その動機を諒としつつも、どのように具体化するかをかたずをのんでROMさせていただいております。

 写真についてお褒めいただきありがとうございます。
 私のはとてもその域に達してはいませんが、一般的に優れた芸術は、上記のアポリアをイメージの提示として越えているようです。
 その点、哲学や思想は、それらを概念を用いた論理として言語化しなければならないので大変ですね。

     

Cさん より
 僕は相対主義+関係主義+生物学で全て考えてます。
 絶対主義が役に立つのかなと。

Cさんの補足
 現代の精神疾患的犯罪などは、道徳や倫理を問いますが、絶対主義ではヒステリックでアホな議論しか出来ません。
 倫理は物理的条件、生物学的条件を出発点として流動的に組み上げられた関係から発生し、異なる状況では異なる倫理が形成されます。一種の相対主義です。
 役に立つ、という意味では関係主義だと思います。

Cさんへの私の返事
 最初いただいたコメントではよく分からなかったのですが、二度目にいただいたコメントでご主旨は幾分分かりました。
 生物学的というところが面白そうで、これはひとつ間違って、優生学的に固定したファクターとすると、抑圧や排除の道具立てになるわけですが、Cさんの場合には、倫理を人間に内在する固定した要素として捉えるのではなく、生物としての外界への反応のありようのバラエティとして捉えようとなさっているわけですね。
 相対主義は同時に何ものかとの関係を前提するという意味では関係主義でもあると思います。

Cさんのさらなる補足
 わかりにくくてすいませんでした。
関係の生成と変化を前提として、システムの均衡または定常変化の傾向の規則性が重要であると。動的な構造主義ですか。
 これはどんなものにでもあるかと思いますが、社会や人間の場合は倫理と呼ぶというのではと。
 その関係の生成変化を分析してゆくと、これ以上分解出来ないレベルが生物学的条件、物理的条件では、という主旨です。

 ある犯罪の傾向を、犯罪者Aと社会の関係として考えると、犯罪者Aがどのように世界(社会)と関係を結んでいるか、その状態はどのように学習されたか、学習を強いる環境とはどのようなものか、という推測が可能であり、環境から学習した結果、犯罪者Aにとって生きる上で一番効率的な指針を僕は倫理と呼びます。
その土台となるのが、生物学的条件、例えば自己保存の性質や快楽の原則などである、という認識です。

 個々人は学習から無矛盾のやりかたを探します。無矛盾に至るためには何かを排除するかジンテーゼを生み出すか、保留する必要がある。
そのような者同士の間にも無矛盾を求める動きがあり排除やジンテーゼや保留がある。
そのような動きが全体のダイナミズムを生み出すと同時に均衡を生み出す、と。

 絶対主義の要素を入れ込むことは可能ですが、あくまでこのシステムのひとつとしてでしかなく、こうした関係主義思考と対等に扱うことが出来ないことがお分かりかと思います。対比にさえならないというわけです。

 なぜ絶対主義などというものを人は形成してしまうのかを問うのが関係主義的思考だからです。
 多分にニーチェ系統の思考です(笑)

 *追記
 「無矛盾」と言うと誤解を招くおそれがありました
 「最適化」と読み替えて下さい。

 


Dさん より
 どちらの方が人(自分とともに他者、動植物、無生物)を活かし、知性を働かし、より善く、できるだけ「罪」なく生きていけるか、を考えますが。はっきりしているのは、絶対主義は選ばない。相対主義は選べる。選ぶ際には当然、その都度の、絶対ではないにしても「絶対的な決断」をしなければならない。相対主義には絶対主義的なものが含まれている。その逆はあるのかはしりません。絶対主義には相対的な選択はないのでは?それなら、「絶対的な決断」を多くの選択の中からやっていく相対主義の方が、まだまし、になりませんかね。「より善く、できるだけ「罪」なく生きていけるか」の問いがその都度忘却されない分、再審性を持っている分、いいかなと私は思います。

Dさんへの私の返事
 相対主義はもちろん絶対的な基盤を欠いていますから、現実的にはおっしゃるようにある種の決断を迫られるわけです。
 それについて思い起こすのは、あらゆる基礎付けを否定していたプラグマティストのリチャード・ローティが唯一認めていた「人間の悲惨、苦痛の減少」という一見単純な基盤です。
 加えていうならば、ハンナ・アーレントがいっていた、オイコス(エコノミー)から自由になった人間がポリスのアゴラ(広場)という公共の場で「活動」というパフォーマンスを展開するというイメージです。
 とくに後者は、深い人間の肯定に根ざした思考であると思っています。

 ただし、二人とも、それが成功裏に終始するとはいっていません。そうした試みこそ、相対主義を生ききる実存のありようだといっているように思います。

     

Eさん より
 我々のいる大地は物凄い速度で移動していますが、地球軌道の中心にある太陽は更に猛スピードで銀河系を移動しています。
 その銀河系も近くの銀河系と一緒に「島宇宙」を形成し、その島宇宙がまた移動しています。
 座標としての絶対的なものは無いことが分かっています。

 論理学は難しいですね。数学では記号論理学なのですが、前世紀の初めにゲーデルという人が(記号論理学での)論理体系について「不完全性定理」というものが成り立つことを証明しました。

 記号論理での論理体系では有限個の「定義」と「公理」から出発して記号列を構成します。得られた記号列が「定理」となり「真」であり、得られないことが分かったり、それまでに得られた記号列と矛盾する記号列は「偽」となります。
ゲーデルが示したのはある記号列及びその否定の意味がある記号列の両方共に得られないものが必ず存在することです。

 数学は哲学の多くの困難から離脱するために形式化をしましたが、それでもなお新たな困難があることが分かりました。
形式化の一例として数学の基本的概念である「自然数」を例に申し上げます。
「自然数」という概念は歴史的には個数の概念と順序の概念の両方を包含した数ですが、現代数学においては次のようなものとします。

 まずある集合Zで次の「ペアノの公理」を満たすものとします。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%81%AE%E5%85%AC%E7%90%86

 このペアノの公理を満たす集合Zを「自然数全体」とします。
 この「自然数全体」に含まれる要素を「自然数」と言います。
 通常の考え方とは逆ですね(笑)
 この手法はよく使います。

 ウィキペディアには「0」も自然数になってしまいますが、通常は「0」の代わりに「1」から始めます。
 この定義では実は「自然数全体」というのは一つではありません。
 「ペアノの公理」を満たす集合なら何でも「自然数全体」にして構わないのです。
 ただ一つの集合を固定したら、別の『自然数全体』があっても同じものと見做します。

 ある意味、「相対的」な概念とも言えます。

 話はかなり逸れたとは思いますが、私は相対的なものしかないと思っていますm(__)m

Eさんへの私の返事
 私のような文系人間には不得手な分野ですが、お触れになっているゲーデルの不確定性定理や、トーマス・クーンのパラダイム論など、記号論理学や科学史論などの分野でも論議は盛んなようですね。
 最近読んだ本に空集合の話が載っていて、それによれば以下のような展開がなされていました。
 ? ={  }=0  考えていることが何もない。
{? }={{ }}=1  考えていることが何もないことを考えている。
 そしてこの過程は無限に続き、2、3、4、5 ・・・と続きます。

 ここで面白かったのは、最初の? (考えていることが何もない)が始源に見えながら、実は{? }(考えていることが何もないと考えている)に論理的には先立たれている、{? }なくしては?自身が成立不能だという転倒です。

 その先は私には分かりません。
 ただし、始源があって後続があるのではなく、始源そのものが常に後続に巻き込まれてのみ可能であるというパラドックスは、相対主義の論理と深く関わっていると思います。

     

Fさん より
 難しいことは解りませんが、相対論もいつしか絶対論として崇められてしまう傾向はありませんか?
 マルクスの理論がいつしかドグマとなってしまったように。
 フロイトが精神科医を逆縛りするように。

 逆に今ある宗教も当初は相対的に説かれて様な気もします。

 人には絶対を求める弱さがあるのかも。

Fさんへの私の返事
 マルクスの絶対主義的受容がスターリニズムに他なりません。マルクス自身は、形而上学的固定化を忌避していたようですが(「私はマルクス主義者ではない」というマルクスの言明)、ただし、それが十分であったかどうかは問題があるところです。
 フロイトに関しては、「無意識」を実体化(無意識というものがある)してしまったこと、その教義を守る集団を固定化したことなどによって絶対化の非難は免れがたいのですが、19世紀末から20世紀初頭にかけて展開された形而上学批判やそれに伴う「人間」という概念の批判については今なお有効だと思っています。
 ようするに、「人間とは、自分とはかくかくしかじかのものであると思っているような者ではない」ということです。

 

Gさん より
 会話の生産性重視という点一つを取り上げても、ロ?テイは、面白い哲学者ですね。
 私が知ったのは割合最近で、『偶然性・アイロニ?・連帯』から『哲学と自然の鏡』へと遡り、デュ?イ、鶴見俊輔さんまで行き着きました!
 連想ゲ?ム的に、何事も関連して行くので、なかなかキリがつきませんが、楽しくもあります…。

Gさんへの私の返事
 ローティ関連では、ご存じかも知れませんが、『脱構築とプラグマティズム?来たるべき民主主義 』(叢書ウニベルシタス・法大出版)も面白いですよ。
 これは文字通り論争の書で、ローティVSデリダをはじめとする脱構築派の主張が交互に交わされていて、けっこう刺激的でした。
 話が噛み合わなくて幾分いらつくところもあるのですが、全体を読み終わってみると、実践的には両者は思ったほど距離がないのではと思えるから不思議です。
 なお、何かひとつを知ると、その周辺に知らないことがいっぱいあることに気づかされるという面白さはありますね。

     

とりあえずのまとめ
 最初に申し上げたように、こんな記事にこんなに中身の濃いコメントがつくとは思ってもいませんでした。とても驚き、そして刺激されました。
 
 それにしても皆さんよく勉強されていて鋭いですね。
 皆さんへのご返事のコメント、古いノートなどひっくり返して懸命に書きました。おかげで、私が勉強してきたことや考えてきたことの復習が出来ました。
 たぶんこれは、ボケの崖っぷちまでいっていた私を幾分引き戻してくれたのではないかと思います。

 おのれの浅薄さは隠しおおせようもないのですが、これらは私にとっては客観的な論理ゲームではなく、おのれの前半生の総括に関わる問題なのです。
 また、時折、一般的、抽象的、かつ無内容と思われる事柄を書くかも知れません。その折りには、またお付き合い下さい。
 



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【思考実験】絶対主義と相対主義

2009-05-25 02:19:22 | ポエムのようなもの
 簡潔にいって、相対主義は真理や正義などは、ある特定の時代の特定の場所での特定の立場によるものでしかないとします。
 それに対し、絶対主義は、時代や場所や立場を越えて、真理や正義は成立するとします。というより、成立すべきであり、真理や正義はもともとそうしたものだとします。

     

 相対主義には弱みがあります。絶対的真理などないとするその主張そのものが相対的であるならば、その主張そのものが成立しないという批判にさらされるのです。ようするにあらゆる主張がある特定の条件下でしか正当性を持ちえないとすれば、その主張そのものも一定の条件下でしか成立しないものであるという指摘です。

 そこで相対主義は居直ります。その通りだ、私の主張はあらゆる真理や正義は一定の条件下で成立するということであり、この命題そのものも一定の条件下で成立しているのだ、と。

         

 それでは、無限後退の悪循環ではないかと絶対主義は責め立てます。【ある一定の条件で『ある一定の条件で「ある一定の条件で(ある一定の条件で・・)・・」・・』・・】ということになるのではないかというわけです。

 でも、相対主義はそこで凹みません。なるほどその通りだ、その無限の後退はあらゆる命題には必ずその外部があるということを示しているのであり、そしてその無限後退の最終地点(があるとすれば)は究極の外部としての無であり、従ってあらゆる命題の無根拠性を示しているのだと主張します。
 かくして相対主義は完成します。

     

 しかし、絶対主義は強固な日常経験と必然性の神話に裏打ちされていますから、容易には後退しません。
 宗教的真理や科学的真理、人倫の真理などを総動員します。
 相対主義が許されるならばこの世の価値はすべて流動化し、私たちはよりどころを失ってカオスの内へと転落するであろう、と反論します。

         

 相対主義はいいます。私たちは現にあるものが絶対的ではないといっているだけで、それらをカオスの内へと陥らせようとしているわけではない、むしろ、私たちのありようが深い無根拠に根ざしているがゆえに、私たちはそれぞれが見い出した相対的な場所に依拠しているというその現実を肯定するのだ、と。
 それに、と相対主義は続けます。絶対主義の必然礼賛に反し、そうでないもの、つまり外部や他者の浸食、より異なった偶然の襲来をも受け入れる立場をとり続けようと思うのだ、と。

     

 この話はここで終わりです。
 ただしこの話は、私の中では以下の項目とリンクしています。

 
  必然と偶然 未知と非知 
  原理主義 全体主義 
  ナチズム スターリニズム
  グローバリゼーション
  ヒューマニズムと非ーヒューマニズム

写真は本文とは関係ありません。ただし、最後の写真は最近撮ったもののうちではお気に入りです。






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「なんだかなぁ」とぼやきの雨の日なのです。

2009-05-23 01:30:32 | よしなしごと
 「なんだかなぁ」という今日この頃です。
 
 へんてこなメールは毎度のことですが、最近はちらほらとマスクの売り出しの案内がやってきます。
 買い占めてネットで売りさばこうというあざとい商売ですね。
 それはそれとして、私のことをマスクを探して右往左往していると思っているのかと毒づいてやりたいのですが、先方としては私が問題なのではなく、下手な鉄砲も数撃ちゃあたるとばかりに無差別に出しているのですから仕方ありませんね。

     
             空き地で遊ぶムクドリたち

 折も折、運転免許証の更新の前提として、「高齢者講習」なるものの案内が舞い込みました。これを前もって受けていないと、免許の更新をさせないというのです。
 内容は、講義、適性検査、実習などですが、これへの参加は免許が要る者にとっては強制的なのです。
 
 老人による高齢者特有の事故などを防止するため、これらが実施されるという主旨は分かります。しかし、この講習、無料ではないのです。わずか2、3時間の講習なのに、5,800円もの講習手数料をとられるのです。
 この対象となる人の大半はもはや年金以外の収入源を持たない人です。
 その人たちを対象にしてこの制度を強制しながら、一方、けっこう高額な経費を支払わせるというのはいささか酷いのではと思うのです。

       
              な~らんだ、な~らんだ

 いっそのこと免許証を返還しようとも思うのですが、そうすると母の入院先へ通うのもままなりませんし、まだまだ車を使わなければならない用件も多いのです。とくに私の住んでいるような地方都市では公の交通網も不備で、車を放棄した途端、行動半径ははグンと縮小され、その生活スタイルそのものもいちじるしい変貌をも余儀なくされます。

     
            公園脇のレストランが閉店した

 そんなわけで、泣き寝入りで講習に行くほかありません。
 三年ほど前から税金面でも老齢控除が廃止され、私たち老人は実質、年平均5万円の増税になっています。むろんそれほど収入のない私の場合は、経費などの計上でまるまる5万円のダメージからは免れていますが、全般的にはやはり増税となっていることは事実です。
 かくして、老人への風当たりは、じわじわと冷たいものになってきています。
 齢を重ねるのも自己責任というわけですね。

     
              岐阜県立美術館にて

 ほかに、個人的にも、周辺でも、明るい話題が何一つありません。
 暗い話は毎日のように増え続けます。
 これが齢を重ねた報いなのでしょうか。
 雨の一日、沈んだ気持ちを引きずったまま無為に過ごしたことへの自己嫌悪もつのります。

 でもって、冒頭の「なんだかなぁ」にループするのです。

   写真は本文と関係ありません。
  







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弾ける帰り途と、そして校歌・・。

2009-05-21 02:04:25 | 想い出を掘り起こす
 校門から弾ける声の塊が散ってゆく。
 
 「ほしたらね、ほしたらね、キヨちゃんがね・・」
 「あ、おまえ、それヒロシの真似だがや」
 「バカという方がバカなんだぞ」
 「ギャハハハハハッ」
 「アッ、やったな。よ~し」

 塊ごとの話題が通り過ぎる。

     

 私の子供たちも出た小学校だ。
 この学校の校歌の歌詞の募集があった。
 40年ほど前のことである。
 賞金目当てで私も応募した。

     

 結果は該当当選者なしで、二人が佳作入選ということだった。
 そのうちの一人が私だった。

 出来上がってきた校歌を見て驚いた。
 私が応募したフレーズが半分ぐらいを占めている。
 おそらくあとの半分はもうひとりの佳作の人の手になるものであろう。

       

 ようするに該当者なしということで、二人の詩をていよくくっつけたのだ。
 賞品に花瓶をもらった。
 なんだかしらけていると、たまたま遊びに来た義妹がいい花瓶だという。
 欲しければどうぞというと、喜んで持っていった。

     

 もちろん、今となっては何の恨みつらみもない。
 ただただ懐かしいのみだ。

       

 私の子供たちはその歌を歌って卒業した。
 今もその歌が歌われているのだろうか。
 賑やかに帰って行くこの子たちも歌っているのだろうか。
 一度それを聴きたいような気がする。
 


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カーネーションと山椒のデリカシィ

2009-05-19 01:29:39 | 花便り&花をめぐって
 母の日に息子夫妻がカーネーションを贈ってくれました。
 野良犬や野良猫のような草花しか育てていませんので、というか、放りっぱなしで咲く花しか相手にしていませんので、こうした深窓育ちの花をどう扱っていいのかよく分かりません。
 基本的には室内においているのですが、久々に天気がよいのでお日様に当ててやりました。

       
 
 もう終わりかけの花もあるのですが、これからというつぼみも控えています。
 出来るだけ長持ちさせ、付いているつぼみをすべて開かせるのが贈ってくれた側の厚意に報いることだと思い、その育て方をネットで調べてみると、これがまた意外とデリケートなのですね。

    

 適当に日を当ててやることは必要なのですが、直射日光にさらさないで木陰の風通しの良いところに置いた方がよいだとか、水はやりすぎると根腐れしますよだとか、咲き終わった花は摘み取らないと灰色カビ病が発生しますよなどといった恐ろしいことが書いてあります。
 フムフムと一応は読んだのですが、果たしてこれらを充分ケアーして無事すべての花を見、かつそれ以上に育てることが出来ますでしょうか?

 ところで、もうひとつ、かねてより私とは相性が良くなかった植物があります。
 それは山椒なのです。
 この香りが好きで、とりわけこの時期、竹の子や煮魚、和え物などの付け合わせにはもってこいですね。
 そこで、葉っぱだけ買うよりもと、時折、苗木を買ってくるのですが、これが巧く成長したことがありません。一度だけ、2、3年間ぐらい生きていて1メートルぐらいにまでなったのですが、ハイ、それまでよで、その他は買って半年以内にご昇天という有様です。

       

 ですから、ここ何年かはすっかり諦めきっていたのですが、もう一度チャレンジしてみようと農協で150円をはたいて買ってきました。
 これも買ってきてからネットで調べたら、葉っぱを摘む時に笑ったり、話したりしただけで木が死んでしまうという怖い話が載っていました。植え替えに弱いとか、西日が当たってはダメだとか、日陰がいいとか、コンクリートの照り返しがダメだとか、なんだか、はなっから自信を削ぐような話ばかりです。

 植え替えに弱いといわれても、7センチ四方ぐらいのポリの包みのママにしておくわけには行きません。出来るだけ呼吸をしないようにして、植え替えました。

       
 
 でも、この木に関しては疑問もあるのです。
 かつて山へよく入っていた頃、西日ががんがん当たる斜面で、山椒の大木を見かけたことがあります。また、岐阜駅の南では、街路樹のエリアに結構大きな山椒の木があり、コンクリートの照り返しにもめげず2メートルほどの頑丈な木に育っています。
 その木の所在を知ったのは、自転車で一度よろめいてその棘に引っかかれたからです。仕返しに、新芽の美味しそうなところを採ってきて食べてやりました。

 といった具合で、そうしたかなり過酷な条件下でも平気なのになぜ私の家には馴染まないのでしょうか?何とか今度こそ、飼い慣らしてみたいものです。

       
            デリケートな仲間のそろい踏み

 そんなわけで今日は、デリケートは植物2種をノミネートいたしました。
 果たしてどちらがより長く我が家に居着くことが出来ますでしょうか?







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【絵日記】映画の梯子・酒と映画の日々

2009-05-17 18:24:13 | 映画評論
 一週間ぶりの名古屋です。この前は病院へ行って顔見知りの医者にいろいろ不定愁訴をした結果、自分のへこみ具合を自覚させられたのでした。
 この日は映画と酒です。
 小じゃれていえば「酒と映画の日々」です。
 
    
 
 岐阜駅です。母娘が高山線の普通列車に乗ろうとしています。母はすっかり腰が曲がっていますが、娘の方もかなりです。こうした老々の組み合わせは最近多いですね。
 そんなに急がなくてもいいのですが、やはり列車にちゃんと乗るまでは気がせくのでしょうね。無事乗るまで見届けましたよ。

    

 名古屋へ着きました。平日の昼間とあってそれほど人混みはなかったのですが、のんびりした岐阜駅の人の動きに比べると、人々のスピードが違います。
 岐阜駅で見た母娘、名古屋だったら余計大変だったろうなと思い出しました。

    

 最初の映画は、トヨタの牙城・ミッドランドスクエアにあるシネコンです。
 ここで、クリントン・イーストウッドの『グラン・トリノ』を観ました。
 懐に手を入れて出す仕草、その前に伏線としてあるのと、かつての彼のガンマンぶりが背景にあって、脚本としてもなかなか凝っていますね。
 多民族社会のアメリカでの、他者との出会いと軋轢という普遍的な問題を含むのですが、同時に、朝鮮戦争とベトナム戦争を経由した歴史的問題も縦糸になっていて、その意味でもよくできた話だと思いました。

      

 地下鉄で榮へ移動し、名演小劇場を目指します。
 県の芸術文化センターから東へ向かう道は、緑もあって結構お気に入りの道です。
 歩道橋の坂道を、高校生が若さにまかせて自転車で駆けのぼってきます。
 この写真を撮る少し前、こけたのでした。
 こけた君は、なにやらいいわけを言いながらばつが悪そうに自転車を引っ張って登ってゆきました。

    
 
 さらに進むと、子供たちが街路樹のもとでなにやら探索しています。
 見ると、日本人らしい子と目の青い子との混合チームです。でもいいですね、子供は。言葉が通じなくても遊べてしまうんですから。

    

 名演近くのビル建設現場です。天気予報は明日から天気が崩れるといっていました。そのせいか雲がやや重いようです。

      
 
 名演の看板です。プログラムなどの選定はいいのですが、古い建物でバリアフリーになっていないことが欠陥です。一階はまだしも(ここも階段がある)、三階のスクリーンへは足腰の弱い人には結構厳しいのです。
 映画の鑑賞者には高齢者も結構いいますから、エスカレーターもエレベーターもないのはつらいでしょう。事実、この階段の途中で立ち止まって一息入れている人を時折見かけることがあります。
 私ですか?私は大丈夫です。ルンルン気分で一気に駆け足で上がります(虚勢あり)。

    
 
 これは名演のスクリーンです。
 ここで観たのはエミール・クストリッツァの『ウェディング・ベルを鳴らせ!』。
 このクストリッツァは、かつて『アンダー・グラウンド』という衝撃的な映画を観て以来、追っかけ的に観ているのですが、すこし作風が変わったように思います。シリアスな中にもノーテンキにそれを描ききるという特色は失われてはいないのですが、そのシリアスさの基軸がどの辺にあるのかが私にはよく分からなくなってきたのです。
 それはともかく映画はハチャメチャにおもしろいのは事実です。それに相変わらずのロマ風のブンチャカ音楽が最高に楽しいのです。

 映画が終わってから今池まで歩きました。健脚は嘘ではないでしょう。
 しかし、今池でお目当ての人には逢えませんでした。
 ほどほどに飲んで帰ろうとしていたところに、旧知の今池のアンちゃんたちがやってきました。挨拶だけして帰るのもと思いもう一度腰を落ち着けて飲みました。
 その後の分がやはり余計だったようです。
 でもたまには酒の力を借りてでもオダを上げなくっちゃ・・。
 医者のところへくちゃくちゃした不定愁訴を持ってゆくよりは、などと自分を勝手に擁護しているのです。

 これらはいずれも先週の金曜日の話です。

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【定点観測】かくてパチンコ屋は消えてしまった。

2009-05-15 02:00:29 | 写真とおしゃべり
 定点観測のようなものが好きです。ものごとの変化が時間軸に沿って感じられるからです。
 これはすこし前に報告した閉店したパチンコ屋のドキュメントの続きです。
 私の家から自転車で10分足らずの場所です。
 撮影は三回に分けて致しました。

     

 これは前にも載せましたが、閉店した直後です。ある日通りかかった折り、いやに静かだなと思ったらすでに閉店していたのでした。

         
 
 この右の塔の上の放射状のネオンは、遠くからは花火のように見えたものです。私の家のベランダからもすこしだけ見えました。

     
 
 駐車場も広くとられていましたが、あまり満車状態を見たことがなかったので、やはりそのロケーションと相まって集客能力に限界があったようです。

     

 何日かして通りかかったら、ついに解体工事が始まっていました。

     
 
 これがかつての本館です。

     
 
 そしてこれが、先端にあの花火風のネオンがあった塔の名残りです。

     

 どんどん取り壊されてゆきます。

     

 さらに何日か経って通りかかったら、もうすっかり建物の形はありませんでした。

     
 
 残った土砂を運び出されていましたが、それが終わればここはもう更地です。

     
 
 かつての駐車場はすでに更地になっていました。

 これでこのパチンコ屋の物語は終わりです。
 終わってみて、あらためて思うのですが、街中でもなく、幹線道路沿いでもなく、回りが畑のようなところにどうしてパチンコ屋を作ったのでしょう。
 「パチンコ屋だよ~ん」というだけで人が入った時期があったのでしょうか?
 もう何日かしたら、人々はここに何があったかすら思い出さなくなるでしょう。
 でも、私は覚えているでしょう、たぶん。
 それは、こうして定点観測をしたということもあるのですが、そもそもそれが可能になったのは、ここが母の入院している病院へ自転車で通い続けているひとつのルートにあるからなのです。



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必要な薬が手に入らなくなる!

2009-05-14 03:17:24 | 社会評論
 楽天の三木谷社長が楽天会員にメッセージを送付しています。
 内容は、今、新型インフルエンザではしゃぎ回っている桝添厚労相の指揮下、密かに行われようとしている医薬品の通販全面禁止の措置についてです。

 確かに、あやしげな薬が通販で売られるという弊害が報告されてはいます。
 しかし一方、約800万人の人が必要な薬品を通販で購入しています。
 流通システムの変化に伴い、街の薬屋さんはどんどん減っていますし、離島や僻地の患者さんたち、産地特定の漢方薬の売買をする人たちは通販によってその生命線を維持しているのです。
 従ってこれを禁止する措置は、本好きの人たちに対し、アマゾンを通じての本の購入を禁止するような措置なのです。

 

 ようするに、一部の悪弊を忌避するあまり、通販そのものを規制することはたらいの水とともに赤児を捨てるようなやり口です。もちろん、こうした規制が世界的に見てもまれに見る狭量なもので、前例がないものです。

 ではなぜ、国際的にも逆行するような無茶な規制が実施されようとするのでしょうか。これにはとてもはっきりした理由があります。
 それは厚労省から主要な役員が天下りしている日本薬剤師会が、与党に対してこの3年間で10億円を越える政治献金を行っているという事実の中に見て取れます。これらの金額が、私たちが購入する薬価に上乗せされているのはいうまでもありません。
 ようするに、天下りした奴はそれに応じた役割を果たすべく厚労省の現役に働きかけ、また、厚労省の現役幹部は、自分たちの天下り先を確保するために現行の薬品販売ルートを守るため必死なのです。

 

 ここには、通販での薬を必要とする人たち、あるいは通販でしか薬を届けられない特定産地の漢方薬などの業者たちへのこれっぽっちの思いもありません。
 ただただ、厚労省の天下り先の確保と、そこからの政治献金の継続を狙った嫌らしいさが見えるのみです。
 
 表向きの理由になっている怪しげな薬の販売に対する規制の方法は別途あるはずです。それを敢えて、薬品の通販全般を禁止するという乱暴な施策を強行する中に、別の意図が見え隠れするのです。

この措置への反対署名は以下から出来ます。
 期限が5月18日までですから、ご賛同の方はお早めに。

 
 http://event.rakuten.co.jp/medicine/net_signature/public_comment/

<追記>
 私は、楽天の三木谷氏のようなビジネスにはある種の抵抗感があります。ただし、この件に関しては氏の提起に賛同します。
 というより、開けつつある新しい流通経路への規制強化には基本的に反対だからです。

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