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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【素朴な疑問】フクシマはいまどうなっているのだろうか?

2014-01-30 16:11:10 | よしなしごと
   写真は内容とは関係ありません。

 あの事故からやがて三年が経過する。
 安倍内閣はあきらかに原発再稼働に舵を切っているし、首相自身がセールスマンよろしくトルコやヴェトナム、インドなどへ原発の売り込みを図っている。そのうちに新設案も浮上するかもしれない。もっともこの路線からいうと、老朽化したものの更新は必然になるだろう。

 一方、都知事選においてはその是非が問われていて、地方自治にはなじまないという声もあるようが、東京は単なる「地方」ではない。全人口の一割を抱え、電力消費も全国一とあっては、その有権者がどうそれを判断するかはぜひ問うべき問題だと思う。
 それなくしても、石原以前の都知事選はしばしば政権のおごりに警鐘を鳴らす役割を果たしてきた。

              

 しかし、ここでいいたいことはそれではない。
 ここしばらく、あのフクシマの状況がどうなっているのかの情報が、個々の極めて散漫なものをまさに小耳に挟むぐらいのことはあっても、新聞やTVのマス・メディアを通じては全くといっていいほど入ってはこないのである。
 どうもこの静けさは不気味である。
 ひとつには、都知事選や現政権の意向を汲んで報道管制的なバイアスがかかっているのではということであるし、今一つは、フクシマの現場そのものがもはやどうにもならないほどの惨憺たる状況に差し掛かっているのではないかということである。

           

 時折、高濃度の汚染水が漏れだしているという情報がマス・メディアではないところからの情報発信として出てくる。それに対して、マス・メディア側は否定もしないし、ただひたすら沈黙を守っている。
 事故を起こした炉内は今どうなっているのか、こうしている間にも刻々と増えている汚染水対策はどんな状況なのか、原発施設内にただただ貯蔵されたおびただしい汚染水のタンクは一体どうなるのか、などなどについての情報がここしばらくは全く見えず聞こえないところへ押しやられている。

              

 周辺地区についてもそうだ。除染という水洗い、ないしは移染に過ぎない表層の撤去、それらはどうなっているのか、周辺住民への健康上のケアーはどうなっていて、今どんな状況にあるのか、それらも全く不明のままである。
 首相のいった「アンダー・コントロール」は、どうも原発事故の成り行きではなくて、それについての情報に関してではないかとさえ思われる。

           

 そこで思うのだが、東電や原発メーカー、それに経産省の色付きではなく、学識経験者を中心とした調査団を結成し、そのレポートを明らかにするというのはどうだろう。この学識経験者には、プルトニュウムは人畜無害だというとんでも学者以外なら原発維持派から反対派の双方がいても構わない。ようするに、とりあえずは現実のデータを検証し報告するのだから、むしろ双方が確認し合ったほうが良い。
 おそらくその収束への方法や期限などの見通しについての見解は賛否両派で、ないしはそれぞれの内部においても分かれるであろうが、それはそのまま明記すれば良い。
 私たちがとりあえずほしいのは、それが今どうなっているのかの事実についての情報なのだからである。したがってそれらは、もってまわって変に擦り合わせたりはしないで、即時に公表されなければならない。

              

 都知事選にかぎらず、原発の賛否はまだまだ論議が深められなければならない。そのためにはますます事実が明らかにならねばならないのに、昨今はその情報が皆無といった日々が多い。これが、年月によるものだとしたら、それはまだまだ風化させてはならない問題なのだと声を大きくしなければならないし、あるいはまた、政権の鼻息を伺っての人為的な「アンダー・コントロール」だとしたら、もはや何をか言わんやである。

 しかしながら、この問題が、現今の社会のみならず、人類や文明と深く関わる問題だとしたら、やはり三猿を決め込むわけにはゆかないのだ。




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NHKはどこへ行こうとしているのか?その「公共性」を巡って。

2014-01-27 17:39:58 | インポート
 写真は内容とは関係ありません。

 NHKの新会長に 籾井勝人という何やらきな臭いひとが就任し、右寄りのイデオロギー満載の記者会見を行って物議をかもしている。かてて加えて、同様に、新しく経営委員に任命された百田尚樹氏が都知事選では田母神氏支持とあって、さながらネット右翼にも似た人びとがNHKを占拠したかのようである。
 かねてより、NHKの支配を狙っていた安倍首相の念願がかなったといっていいかもしれない。

           

 それに応えて籾井勝人新会長は、「政府が右というものを左とはいえない」と早速エールを送っているから、かつて大本営発表をそのまま流していたような体制の下地が整ったわけだ。ようするに、NHKの「政府広報機関化」といえるかもしれない。
 だとしたら、NHKはもはや視聴料をとってはいけない。どこの地方自治体でも、広報誌などを住民に有料で売りつけたりはしない。政府の広報機関に徹するのなら、まさに国営放送として国が運営し、視聴者に経費を分担させることは許されないだろう。

           

 籾井新会長の危険性は、NHKを政府の広報部門にし、あまつさえ、自らの信仰するイデオロギーを押し付けようとする点にもあるが、そのもっとも危険な点は「公共性」という言葉についての徹頭徹尾の無理解にある。

 いっておくが、「公共性」ということは「中立性」ということではない。「中立性」ということであれば、この籾井というひともその会見の中で一応は語っているし、自分では本当にそう思っているのであろう。左右いずれのイデオローグであれ、自分が偏向しているなどとは思ってはいないはずだ。まさに自分こそが真性の中立だと思っているし、それがまたイデオロギーというものの特質でもある。

           

 では公共性とはどういうことか。上に述べた「不偏不党、中立性」という含意も多少はあるが、政治的見解やある種の利害関係を含む問題についていうならば、モノサシで測ったようにその中間点などを見出すことなどはできない。せいぜい極論を慎むといった消極的なものにとどまる。
 公共性とは、そうした中間点を求めるのではなく、それも含めてある特定の固定化した着地点そのものを示さないことである。ようするに、人びとの多様性、複数性に応じて開かれてあることこそが肝要なのである。

           

 したがって、籾井新会長の特定のイデオロギー(本人はそれを中立だと思っているが)への偏向それ自体もだが、むしろ、政府見解を柱とした一定の着地点へとその姿勢を固定しようとすることにこそ問題はある。そこにおいては、人びとの多様な見解、複数の利害などが、NHKの考える中立性(=政府見解)へと収斂されることによって無視や抑圧が生じることとなる。
 したがって問題は「中立性」ではなく、そうした多様性、複数性の存在が許容される「公共性」の維持にこそあるといわねばならない。

 極論すれば、新会長が極右であろうが極左であろうが構わない。その役職上、NHKの経営に関しての責任のみをまっとうすればいいのであって、報道や番組に関してはその着地点を示唆するようなことを一切せず、そのスタッフと視聴者の双方向の意見交換の中で生み出されるものに任せればいいのだと思う。そしてそれが公共性のあるべき姿だと思う。

           

 テレビなどの媒体は今、双方向の機能を備えつつあるが、それらは、クイズ番組などの回答など、ちまちまとしたところでしか用いられていない。多数の見解を持った人たちが参加し、番組そのものを制作するところまでゆかないと「双方向性」自体が視聴者支配の小道具になりかねない。

 上に述べたのは「公共性」への原則的な立場であり、それを踏まえながらも、現実に進行しつつある、安倍―籾井ラインによるNHK支配から目が離せないことはいうまでもない。 

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まあ、やはり愚痴なんでしょうね。滅多に言わないのですが。

2014-01-25 03:09:46 | よしなしごと
 理不尽はいきなりやってくる。
 もっともあらかじめ予測できるのは理不尽とはいわないのだろう。

           

           
 
           

 私にとってはカフカの「掟の前」のように、目を点にする事態なのだが、そうしたことは世の中にはあることなのだろう。それに気づくと気づかないとにかかわらず、人はそうした理不尽からは逃れられないところで生きている。

           

 私もまた、理不尽を生きてゆくほど強くありたいし、そうあろうと決心した。
 


上記には、ある人から受けたいわれない面罵への非難がましい記述がありましたが、どうもある種の病に起因するものではないかと思い、そのほとんどの記述を削除いたしました。
 



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アバドをめぐる思い出とザルツブルグで出会った音楽家たち

2014-01-22 15:46:27 | 想い出を掘り起こす
 クラウディオ・アバドがその80歳の生涯を閉じたそうです。
 そんなに熱狂的なファンというわけではありませんでしたが、ベルリン・フィルなどとともに、さまざまな媒体で聴いたその音楽が思い起こされ、とても寂しい気がします。
 所持するCDをチェックしたら10枚ほどになります。FMからエアー・チェックしたテープを入れると、はるかに多くなるでしょう。

 アバドといえば、クラシックの世界でも超ビッグな存在でしたから、来日の際のライブは聴いたことはありません。ただし、1991年のモーツァルト・イアーに、ザルツブルグで彼とベルリン・フィルを聴いたことがあります。
 曲目はブラームスのピアノ協奏曲第2番(Pf:ブレンデル)と同じくブラームスの交響曲第4番でした。

   
            アルプスを背景としたザルツブルグ旧市内

 当時の日記を見ると、現地時間で8月29日のことでした。
 以下、当時の日記からです。

 「ブレンデルの叩きつけるようなタッチが続く。重厚なバックのオケに対しては、これくらい叩かないと協奏にならないのだろう。一緒に聴いたひとが後で、この曲をよく弾くピアニストはぎっくり腰になるのだと教えてくれた」
 実際に中腰になっての演奏は力仕事を連想させるものでした。

 
          アバド                  ブレンデル
 
 続いて交響曲4番について。

 「第2楽章でハプニングが起きた。この楽章でもっとも静かだと思われるところで、コントラバスの奏者が椅子の上においていた荷物がバタンと大きな音を立てて落っこちたのだ。瞬間、客席がざわめいた。録音されているのはあきらかだったので、いずれ、NHKFMなどでオンエアーされることだろう。そのときに聴くのが楽しみだ」

 以上は現地でホテルへ帰ってからの日記ですが、その予想の通り、これは翌92年の3月19日にオンエアーされました。で、その音ですが、見事にバタンと響いていました!「おっ、その時私はそこに居た」というほとんどどうでも良い感慨を覚えました。

 
         ハイティンク                  ジュリーニ
 
 さらに終演後です。
 「アバドの人気はすごい。何度かの拍手に応えて挨拶をしていたのだが、楽団員が引き上げてもある一団がなおも拍手や足踏みを繰り返す。とはいえ、もう掃除のおばさんたちが出てきて舞台を片付けはじめたので、私も腰を上げて出口へ向かおうとしたとき、ひときわ大きな歓声が上がったので振り向くと、なんと、アバドが掃除のおばさんが立ち働いている舞台に出てきて、今一度深々と頭を下げたのであった。
 どうやら、最後まで騒いでいたのはイタリアからやって来たファンのようだが、それにしても、楽団員がとうに着替えたような頃に出てくるなんてすごいと思った」

 思えば当時は50代後半で、アバドがもっとも油の乗り切った頃だったかもしれません。それにしても、その人柄を垣間見るようなシーンでした。

 アバドに改めて感謝と合掌を!

 
         ショルティ                   デイヴィス

 これに触発されて、その折(1991年夏)にザルツブルグで聴いたり出会ったりした音楽家たちのその後について調べてみました。
 上に記したピアニストのブレンデル(1931年生まれ)は2008年をもって引退し後進の指導に徹しているうです。

 『フィガロ』を振ったベルナルド・ハイティンクは2004年にこの世を去っています*。幕間に、オーケストラ・ボックスにあった彼の譜面をみたのですが、実にこまめに色も変えて、さまざまな書き込みがなされていました。
 あまり細かいので、実際に振っている際にはすべてを読み取ることはできないだろうと思いました。しかし、彼の予習のようなもので、そこに書き込まれたことどもは彼の頭にすべて入っているのでしょう。

 モーツァルト・イアーのひとつのハイライトであるモーツァルトが洗礼を受けたという大聖堂での『レクイエム』はカルロ・マリア・ジュリーニが振りましたが、彼ももう鬼籍に入っています(1914~2005)。そして、この演奏を客席で聴いていたゲオルグ・ショルティも逝ってしまいました(1912~97)。ショルティは同じ年、この『レクイエム』をウィーンのシュテファン教会(モーツァルトが結婚式を上げ、またその葬儀が執り行われた所)で、どんぴしゃり200年目の命日、12月5日に振ったということです。

 もう一つの歌劇『皇帝ティトの慈悲』はコリン・デイヴィスが振りましたが、このひとも昨年4月にこの世を去っています(1927~2013)。とても端正な指揮ぶりだったと記憶しています。

           
                 これはわかりますよね。

 こうして見てくると、私が1991年にザルツブルグで出会った指揮者たちのうち、今なお現役で頑張っているのは、当時、ボストンを率いていた小澤征爾氏のみです。
 この演奏会、私の席は最悪で、最前列の左端に近いところでした。ただし、唯一いいことは、小沢氏が舞台裾へ引っ込む際、私のほんの3メートルほど先を通るのです。何回かの行き来の際のあるとき、私は勇気を振り絞って舞台裾へと歩を進める彼に、「小澤さん!」と声を掛けたのです。
 それは確実に彼の耳に達しました。その証拠に、微笑みながら私に軽い会釈をしてくれたのです。ミーハーですね。

 ご承知のようにいま小澤氏は、闘病をしつつも音楽の現場で頑張っています。2、3日前も、少年少女のブラバンに耳を傾け、アドヴァイスをしている彼の映像をTVで観ました。彼は、私より3歳歳上なだけです。病を克服さえできればまだまだこれからも私達に感動を与えることができると思います。
 
 
<小澤さんへの追伸> 
 小澤さん、アバド亡き後、私のあのザルツブルグでの至福の一週間を共有する人は、もうあなたしかいないのですから、はやく健康を取り戻してほしいと思います。
 ザルツブルグに滞在中に、あなたがよくゆくと聞いた中華料理店にも行きましたよ。
 中華料理には暗い私ですが、あなたがこの店を好まれる理由がわかるような気がしました。白飯がとても美味しかったのです。


上記に「ベルナルド・ハイティンクは2004年にこの世を去っています。」と書きましたがこれは誤りです。氏はご顕在で、今もタクトを振っていらっしゃいます。大変失礼いたしました。




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大・小、二つのリベンジ 名護とクワイ

2014-01-20 00:11:24 | よしなしごと
 まずは、大きい方のリベンジから。

 名護市長戦は基地誘致反対派の稲嶺氏が勝利した。
 名護市民は自分たちの故郷、自分たちの安全、そして何よりも自らの誇りを守った。
 
 選挙の終盤戦、名護入りをした自民党の石破幹事長は、500億円の振興基金をちらつかせ、基地容認派への投票を迫った。
 金さえ積めば、名護市民はパブロフの犬よろしく「お手」でも「お座り」でも「チンチン」でもなんでもすると言わんばかりの仕打ちであった。人の誇りだろうが人格だろうが、金で頬を撫でればなんでも買い取れるという彼らの哲学を示して余りあるものであった。こうした方法は過去、原発の設置などでも繰り返し用いられた方法でもある。

 

 名護市民は、そうした人を人とも思わぬ仕打ちに、まさに人として敢然と応えた。それは、自分たちの人格を犬なみに扱おうとする者たちへのリベンジであったといえよう。

 もちろん、基地の問題はこれで片付いたわけではない。
 日本政府は名護市民の選択を尊重し、辺野古への移転を断念すべきである。
 そして、懸案の普天間については、アメリカに単純に撤去するよう交渉すべきであろう。その機能のグアム移転はかつて俎上に乗ったところであり、決して不可能ではないはずだ。

           

 もし、これ以上辺野古にこだわるようなら、それはもはや米軍の問題ではなく日本の現政権の問題である。政権の責任において東京湾にでもどこにでも移すが良い。維新の石原氏はかつて東京で引き受けるといってはいなかったろうか。

 
 ついで、小さい方のリベンジについてである。
 これはつまらないから、ここで読むのをやめて頂いてもけっこう。

 昨年末、おせちを作った折、スーパーでクワイを探したら、5個で498円、つまり1個100円だったため、イソップの狐よろしく、「あんなに高くったって、どうせさほどうまくはないだろう」と心中密かに悪態をついて諦めたのだった。

 
         まずは下ごしらえ              煮えた!

 ところが2、3日前、農協の野菜売り場を覗いたら、形は不揃いでスーパーで売っていたものほどまんまるではない(クワイの中の別種かな)が、な、なんと、1パック12個入り100円なりで売られているではないか。
 早速ゲット。おせちに欠けていて寂しい思いをしたが、これでリベンジを果たすことができた。

 ほくほくとしてほろ苦く、熟年の恋の味(?)がした。


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小野田さんの死去とこの国の棄民の歴史について

2014-01-17 15:07:36 | 歴史を考える
 ルパング島から帰還した小野田少尉が亡くなったという。
 右翼的な妻の影響で自分自身が大変な目にあった過去の戦争や、そこで行われた諸外国への残虐行為を肯定するかのような発言をして晩節を汚したのは残念だが、ただ、彼がなめた29年の辛酸の年月を考えると、彼を責めるのは酷かもしれない。

 むしろ問題なのは、戦中戦後を通じて、日本国が諸外国に対してと同様、日本人をもないがしろにしてきた事実が問い直されねばならない。
 小野田氏に先立つグアムの横井氏(小野田氏の前年に帰国)などなど、戦後何十年の歳月、彼らは劣悪な条件に放置された。
 そして、彼らは国家の手によってというより、もっぱら民間の努力によって探し当てられたのだった。

        
                 小野田さんと横井さん
 
 南方のみではない。
 中国大陸では、時の関東軍は満蒙開拓団などの民間人を放置したまま、自分たちだけがさっさと撤退し引き上げてしまった。そのために、いわゆる中国残留孤児が大量に発生した。
 
 また、山西省では、将校が自分の軍隊の兵士を国民党軍に売り渡し、それと引き換えに自分たちのみがさっさと帰国してしまった。そのため、残された兵士たちは「勝手な戦線離脱」とみなされ、戦後補償から取り残されたという事実がある。この経緯を描いたドキュメンタリー映画に『蟻の兵隊』がある。

 外地ばかりではない。唯一の地上戦となった沖縄では、撤退する軍が、情報が漏れるからと一般住民を殺戮したという痛ましい事実もある。
 その沖縄は今も基地に苦しんでいるのだが、その是非を問う名護市の選挙にあたり、石破自民党幹事長は16日、現地入りをし、500億円の振興資金をちらつかせ、名護市を買い取る意志を示した。なんとも露骨な利益供与の選挙違反ではないか。

 話はそれたが、先の戦争での棄民は、戦闘行為の中での玉砕にも現れている。この根幹にある「戦陣訓・八」の、「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」は、敗走か投降をすれば助かった多くの兵士の命を無為に殺すことになった。その数は数十万人にものぼる。
 その極めつけが「特攻」である。人間を武器弾薬の類として扱い、「死んでこい」というわけだ。もはやこれは、通常の戦術のうちではない。これにより、6,000余の生命が奪われている。

 かくして、先の大戦における「お国のために」は、決して「日本人のために」を意味することはなく、もっぱら抽象物である国体=皇国のために、日本人にも死を強要し、あるいは弊履のごとく棄民することだったのである。
 
 こうして小野田少尉の訃報に接すると、ビルマ(現ミャンマー)のジャングルで無念の死を遂げた実父や、ソ満国境で九死に一生を経験し、そのままシベリアへ連れて行かれて悲惨な数年を過ごし、ボロボロになって帰国した養父の事どもが去来する。

 国家は戦争をする。しかしそれは国民のためではない。一人ひとりの国民からは遊離した国益や体制のためであることが多い。
 安倍氏がいう「積極的外交」というスローガンはきな臭い。
 いざとなったら軍事力の動員をもちらつかせてコワモテをする外交という意味を含んでいるような気もする。
 先の靖国参拝が、そのための戦勝祈願でなければよいのだが。

 なにはともあれ、小野田さんの御霊に 合掌。








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「寒雀」に誘われての雀談義と「俳句もどき」 

2014-01-15 11:51:45 | よしなしごと
 Face Book を見ていたら、知り合いの方が「寒雀」という題で俳句をひねり出そう(?)としているのに出くわした。
 
 雀といえば、私は二階の南に面したベランダのある部屋に棲息しているのだが、そのベランダやその向こうのちょっとした木立に雀たちがよく遊びにやってくる。本やパソコンに向かっているとさっと影が落ちるようにしてよぎる。
 忙しい時には無視するが、ちょっと退屈している時にはその訪問者に視線を送ることとなる。彼らの所作は可愛い。あるとき、その可愛さの秘密を知ってしまったのだが、これを読んでくれている人にはそっと教えよう。

           
            農協の花売り場で見かけた蝋梅の蕾

 彼らと烏や鳩との決定的な違いはその歩行の仕方にある。烏や鳩は、右足と左足を互い違いに出してまさに歩行する。
 昔、漫才で、どうして人は左右の足を互い違いに出して歩行するのかという話があって、その答えは、両足をいっしょに出すとひっくり返るからというものであったが、雀はまさに両足を一緒に出すのだ。

 どうやら、その脚の構造からして交互に出して歩行することはできないようで、歩くというよりはチョンチョンと跳ぶのである。だから、のっしのっしと歩く烏や鳩に比べるとその所作がとても可愛く感じられる。もちろん、両足をいっしょに出したからといって転んだりすることはない。この歳になるまで、雀が転んだのは見たことがない。

 こうして私は彼らを観察するのだが、彼らが自然に振る舞うのは私が見ていることに気づかない間だけである。なんかの拍子に、視線があってしまったりすると(私には雀の視線がわかるのです)、彼らは驚き、警戒し、たいていは逃げていってしまう。
 もう少し暖かくなったら、パンくずでも撒いて餌付けしてみようかとも考えている。それで、やってくる雀の個体が判別できるようになったら名前を付けてやろうと思っている。

 しかし、今のところ、私は雀の雌雄の見分け方すら知らない。名付けるためにはそれを会得すべきだろう。別にジェンダー論に逆らって男らしいとか女らしいとかにこだわりはしないが、それでもなんとなく、女の子と男の子とは区分したいような気がする。

 おっと、どんどん話題が逸れてきた。
 そうそう、始まりは「寒雀」をお題とした俳句の話だった。
 面白そうなので、俳句はまったくわからないのだが、見よう見まねで「俳句もどき」のようなものを作っていたら、三句(という程でもないから三つといったほうがいいだろうな)溜まってしまった。いずれも、「つぶやき」などに載せたかもしれないが、雀論議をしたついでにまとめて載せてみようと思う。

   ・寒雀礫のごとく降り立ちぬ
   ・紺碧の空や孤高の寒雀
   ・鼓動ひとつ包み膨らむ寒雀


 最初のものは、当初、「寒雀礫のごとく墜ちにけり」としたのだが、これだと墜落に間違えられそうなので不本意ながらこれにした。しかし、雀をよく知っている人はお分かりだと思うが、例えば、彼らは屋根から地上に降りる際、まさに墜ちてきたように降り立つことができるのだ。その点がまた、カラスや鳩のように滑空して降りるような様子とは違うところである。

 二つ目は、歩いていたら頭上で影がよぎったので、仰ぎみたら紺碧の空をバックに一羽の雀がけっこう高いところを飛翔しているのを目撃したことによる。
 三つ目については、まあるく膨らむのは寒雀のお決まりのスタイルといっていいだろう。
 まあ、小学生が最初に作った五・七・五だと思ってご笑覧のほど。
 俳句に明るい人、ご遠慮なく添削などして下さい。
 打たれ強いほうだから手厳しくおっしゃって頂いて結構。 






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制約の中にこそある未来への羽ばたき 『少女は自転車にのって』を観て

2014-01-13 11:50:22 | 映画評論
 サウジアラビア初の女性監督、ハイファ・アル=マンスールのデビュー作だという。
 主人公は10歳の少女ワジダ。伸びやかな性格でチャレンジ精神が旺盛で、そしてちゃっかりとした現実派でもある。その少女の飾らない日常生活、とりわけ学校でのそれは、回教社会の厳しい戒律と男性優位で女性はその影でしかないような生活習慣の中で、ことあるごとに問題視され、教師たちの注視の対象となる。

           

 家庭内では割合開かれているのだが、それでも制約から自由ではないし、その家庭が内包するとんでもない出来事を、やがてこの映画は暴き出してゆくであろう。
 ワジダの伸びやかさと対照的なそれらの制約は、現代日本の社会に暮らす私たちにとっては実に息苦しく感じられるし、彼女にそれを迫る学校や諸々の戒律に対してつい苛立たしいものを感じてしまう。

 そうした彼女に一つの明確な目標が現れる。それは、男の子たちが乗っている自転車に自分も乗るということである。夢見る少女であると同時に現実派でもあるワジダは、さまざまな手段を講じて、ジリジリとにじり寄るように目標へと迫ってゆく。その過程で、私たち観客の全てをその応援団にしてしまう監督の演出は見事である。

 

 しかしである、やがて私たちは、映画の前半で感じていた、単にサウジアラビアの現実という制約が不条理な外圧として少女を抑圧しているという見方だけでは不十分なことに気付かされる。それらの制約を自然必然として受容するのではなく、さまざまな方法でそれをクリアーしようとしているこの少女の示す生き方は、どのような社会においても実は普遍的な意味を持ったものなのだ。

 先ほど、「現代日本の社会に暮らす私たちにとっては」といった。しかし、ここにおいても様々な制約があり、私を含めた人びとは決して自由に生きているのではない。むしろ、これらの制約を自然必然のように受容してそれに絡め取られている私たちよりも、彼女のほうがはるかに自由であり、はるかにリアルに「世界」と向い合って生きているともいえるのだ。
 ようするに、「文明の高み」という虚構に立ってこの少女を応援していたかのような私たちは、逆に彼女の奔放な生きる力によって鼓舞激励されているのを知るところとなる。

 

 それともうひとつ気づいたのは、前半で彼女に制約を課しているように見える人たちも多かれ少なかれその制約を被っている人びとであるということだ。
 もっとも極端にワジダを牽制する校長(共学ではない学校では、女生徒を教えるのは全て女性教師。したがって校長も女性)にしても、その私生活では何やら訳ありげで、それもどうやら社会的制約によるもののようなのである。

 一面ではワジダを規制する立場の母親も、忌まわしい因習の中で嘆きや悲しみに直面しなければならない。ラスト近くのこの母娘の屋上でのシーンが二度にわたってでてくるが、それらはそれぞれ心にしみる場面である。とりわけ、そのバックに花火が上がる情景での親娘は聖家族のように輝いている。そこで伝授される未来への希望が美しく表現される瞬間である。

 もう一人忘れてならないのは、ワジダの男友達、アブダラ少年のことである。この二人の間には大人たちの間にある旧弊な禁忌はほとんど見られない。それはまた、ワジダのチャレンジ精神ともども、未来への展望を象徴しているといって良い。
 当初、いたずらっ子として登場するこの少年は、次第に、現実的でかつ優しさを兼ね備えた格好いい小紳士に見えてくる。私もこんなボーイ・フレンドになりたいと思う。

           

 途中でも書いたが、この映画をアラブ社会の旧弊さとそれに抗う少女のお話としてのみ見るならば、それは遠い世界の現状をあげつらうにすぎないといえる。
 アラブ社会や回教社会のみならず、この私たちの世界においては、自分たちを取り巻く各種の制約に満ちている。私たちがそれらを自然必然のごとく受容する没・世界的な立場に立つ限り、未来への開けなど訪れることはないであろう。
 この映画はそれを、清々しい結末でもって私たちに教えてくれる。
 重いテーマを、爽やかに描いてみせた監督の手腕に拍手を送りたい。

 少女が最後に行き着く場所は、町外れの車が行き交う高速道路のような箇所である。そしてここは、広大な世界への交通とコミュニケーションが広がる可能性をもった場所なのである。

 できるだけネタバレのないように書きました。お勧めです。
 

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私の新春コンサートと「第六」の思い出

2014-01-12 02:04:57 | 音楽を聴く
 岐阜サラマンカホールで行われた中部フィルのニュー・イヤー・コンサートに出かけた。開演前のロビーでは新春風景満載で浮き立っていた。
 開演前には鏡割りが行われ、樽酒が振る舞われた。飲み放題状態だがいい気持ちになって寝てしまってはいけないので一杯でやめた。飲み干した盃を持ち帰っていいとはさすが美濃焼の産地だけあって気が利いたサービスだ。ちょっとシックなぐい呑みを一個いただいた。

           

 堀俊輔指揮による中部フィルハーモニー交響楽団の演奏曲目は、第一部がベートーヴェンの第六「田園」で、第二部がウィンナー・ワルツやポルカ、それにジョン・ウィリアムズの映画音楽などだった。

 ここまで読んだだけで、ヘビイなクラシックファンは「まあ、ニュー・イヤー・コンサートなんてそんなものだ」とそっぽを向くかもしれない。「単なるファンサービスの軽~い仕事だろう」というわけだ。
 しかし、すでに功なり名を遂げたオケではそれに近いものがあるかもしれないが、地方都市(愛知県小牧市)で産声を上げて10年余のこのオケにはそんな余裕はない。

           

 まずは日頃、クラシックに馴染みのない層にもこうした機会を通じてその素晴らしさを実感せしめ、かつ、自分たちのオケを印象付けるために懸命なのである。そうした態度は、プログラム構成からその演奏、その前後の配慮などに十分現れていた。
 だから私は、それらを楽しみながらも、一方ではその応援団になった気持ちで彼らの熱意を受け止めていた。
 ベートーヴェンの第六は新春にふさわしい清々しい演奏で、フルート、オーボエなどの管が大活躍をしていた。

           
 
 この六番にはいろいろ思い出がある。
 高校生の頃、私が最初に買ったLPレコードがベルリン・フィルに華々しくデビューしたカラヤンの「第六」であったが、それといっしょに私が買ったのは、なんと村田英雄の歌謡曲集であった。
 これには深慮遠謀があって、当時、手回しに近い再生装置しかなかったわが家に、もう少しマシなものを導入すべく、父の好きだった村田英雄と抱合せに買ってその関心を呼ぼうとしたのだった。
 その後、わが家に新たな再生装置が導入された記憶が無いから、私の策略は功を奏しなかったといえる。

           

 もう一つの思い出は、1991年のモーツァルト・イアー(没後200年)にザルツブルグへいった際立ち寄ったウィーンの郊外でのことであった。
 ここがベートーヴェンがよく散歩をし、田園交響曲の発想を練ったところだと案内された箇所は私のイメージしたものとはずいぶん違っていた。
 小さな小川はあったが、住宅街のはずれのようなその場所は、想像していたような牧歌的な広がりは全くなく、なんとなくせせこましくて第六の曲想とも違うものだった。
 ただし、その頃から数えても180年近い前(1808年)に作られた曲だから、その間にその環境自身が変わってしまったのかもしれない。

 そんなことを想起しながら聴く第六はどこか懐かしいものがあった。

           

 第二部はエンタメ性満開のプログラムであったが、この堀俊輔という指揮者、サービス精神旺盛というかとにかくよく喋る。カラオケに行ってもマイクを離さないタイプかもしれない。しかし、そのおかげで会場はずいぶんとなごんだ感じになった。お決まりの「ラデツキー」がプログラムにないなと思ったらやはりアンコールに登場してラストを締めくくった。

       

 その後、50年ほど前にサラリーマン生活をしている頃に出会って、今なお付かず離れず付き合いがある人と、彼が所属するグループ(ほとんどが小牧市からの遠征)のメンバーとで岐阜市内の店で夕食会に臨んだ。女性が大半ということでさして飲まない会だろうと思ったが、それがけっこう強い人たちが多く、かくいう私もけっこう飲んでしまった。

 音楽を聴いて美味いものを食って酒を飲む、極楽のようなものである。
 今夜は浮世のことは忘れて寝よう。オヤスミナサイ。

 

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おとしだまに絵本をもらった六さんのお話

2014-01-09 15:23:33 | ラブレター
 もうなんじかんもしたら、おてらのかねがゴ~ン、ゴ~ンとなってお正月がくるというおおみそかのことでした。
 六さんはふとげんかんをあけて外へでました。りっぱなかどまつやシメカザリはないけれど、こころづくしの花などをげんかんにかざったので、こんなことでお正月さんがきてくれるだろうかと気になってみにいったのです。
 六さんはもうおじいさんです。ですから、お正月がくるといってもすこしふくざつなきもちがあります。あたらしい年をむかえることができるというよろこびと、あとなんかいお正月をむかえることができるのだろうかというおもいがいっしょになってやってくるのです。

 

 六さんのいけた花はナンテンの赤いみをちゅうしんにきれいにかがやいています。六さんはすこしあんしんしてうちにはいろうとしました。そのとき、ゆうびんうけに、大きなふうとうがはいっているのをみつけました。
 それは、A4という紙の大きさぐらいで、ふつうのときならせんでんやらなにやらでそんなゆうびんぶつがよく来るのですが、こんなおおみそかに来るのはめずらしいことだとおもいました。

           

 このくれにこんな大きなものをおくってくるのはだれだろうとおもってふうとうのうらをみると、ネットでしりあった北のまちにすむ女のひとのなまえがかいてありました。あったことはないのですが、もうなんねんもまえからいろいろネットでおはなしをしていて、まるでずっとまえからのおともだちのようなひとです。
 さっそくへやへもってかえってふうをきりました。すると中から、大きな絵本がでてきました。絵本といっても本やさんでうっているものではありません。絵も字も、そして本のとじかたもまったくの手づくりの絵本なのです。

           

 さっそくよみはじめました。「まりちゃん」という女の子がしゅじんこうで、お話はおもちつきの日のことです。そのおもちつきのお話は、ちょっとしたちがいはありましたが、六さんが子どものころ、そかいをしていたいなかでのおもちつきとそっくりでした。やはり、つきたてのおもちをダイコンおろしといっしょにすすってたべたり、あんころもちでたべたりしました。きいろいアワもちや、すこし赤みがかったキビもちなどのおもいでもどんどんひろがって、まるでまりちゃんといっしょにおもちつきをしているようでした。

           

 絵本の絵もとてもあたたかいものでした。出てくるおじいさんやおばあさんのかおつきもとてもいいのです。え?まりちゃん?それはもうまりちゃんもとてもかわいいのですよ。
 それにおだいどころのおクドさんや、おじいさんがいまもなおだいじにしている「のうきぐ」が六さんの子どものころのものとそっくりおなじで、とてもなつかしくおもいました。

           

 おもちはだんだんかたまり、そのいちぶはうすくきられてほされ、カキモチになります。このあたりも六さんの子どものころといっしょで、「そうそう、そうだった」とうなづきながらよんだのでした。
 そのうちに六さんはあることにきづきました。どうしてまりちゃんはおじいさんやおばあさんといっしょにいて、お父さんやお母さんは出てこないのでしょう。まりちゃんはとてもさみしい子なのではないでしょうか。

           

 そうなのです。まりちゃんはどんなにおじいさんやおばあさんにかわいがられていてもやはりお母さんにあいたいのです。まりちゃんはお母さんにあえるのでしょうか。

           

 でもあんしんしてください。このお話のさいごはこんなふうになっているのです。
 「お母さんはまりちゃんのしらないにおいがしました。・・・・・・・・お父さんとお母さんがかえってくるんだ。そうしたらお母さんも、ワラとおもちのにおいになるだろうとまりちゃんはおもいました」

           

 六さんはすこしうるうるっとしながらこの話をよみおえました。そしてもういちど、絵をながめました。こんなお話と、こんなすてきな絵がかけるひとはきっとこころやさしいひとだとあらためておもいました。
 そして、いろいろくらい話はあっても、にんげんのよのなかもそれほどすてたものではないなとおもいました。そして、つくったひとのひとがらがつたわるようなこの絵本が、あたらしいとしをむかえる六さんのおまもりのようにおもえたのでした。

           

 六さんは絵本から目をあげて、北のきびしいきこうのなかで、いろんなやさいや花をつくったりして、しぜんにやさしくいきているこの絵本のさくしゃのことをおもいました。絵本のなかにもあったように、きっと北のほうはゆきでしろくなっているにちがいありません。
 まりちゃんもこの絵本のさくしゃも、かぜなんかひかないようにね、と六さんはつぶやくのでした。

 フルフルトマトさん ありがとう!


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