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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

黒人問題などはない! 映画「私はあなたのニグロではない」を観る

2018-05-29 16:45:16 | 映画評論
 アメリカにおける「黒人問題」を題材にしたドキュメンタリー映画である。と同時にそれは決して「黒人問題」ではない。なぜかをみてゆこう。

             

 悲惨な場面も出ては来る。激しい怒りの波もある。しかし、この映画はそれをもってして感情に訴えかけるアジテーションではない。あくまでも理性や対話に訴えかけるものとなっている。言ってみれば、人間への信頼に依拠しているといっていい。

 しかし、問題が問題だけに歴史上の事実に目を閉じていることは許されない。理性的であることは、同時に何がどのように推移したのかを今日の時点から振り返ってしっかりとみることだ。
 その意味でこの映画はめっぽう面白く、最後まで目が離せない。問題の重さからいって面白いというのは不謹慎かもしれないが、事実、面白いのだ。そこには、ひとつのセオリーを掲げて断罪するのみに終わらない、映画ならではの編集の妙味がある。

          

 映画は、公民権運動の真っ只中にいた黒人作家・ジェイムズ・ボールドウィンが書き残した30ページたらずの原稿をもとに、黒人俳優のサミュエル・L・ジャクソンの朗読をもって進行する。
 狂言回しとして頻繁に登場するのはジェイムズ・ボールドウィン本人の在りし日の映像、講演や対談などだが、このジェイムズ・ボールドウィン、ちょっと目には人懐っこく柔和な印象にもかかわらず、一旦口を開くやその言葉は明晰で事態を根底から穿つものである。
 とくに、白人のスピーカーの、「もはや黒人の権利はじゅうぶん回復されたのではないか」との発言に対しての彼の反論は、形としての「権利の回復」と現実に起こりつつある事実との齟齬を具体的にかつ明確にに指し示し、もって聴衆の関心を惹きつけてやまない。

          

 そうしたジェイムズ・ボールドウィン言動の間に差し込まれるかつての現実の映像、映画やTVの映像はまさに観ものであり、それがこの映画を単に白人vs黒人という平板な設定を抜け出たものにしている。
 それらのなかには私自身が少年の頃、夢中になった西部劇やターザンシリーズ、そして絵に描いたような白人の中流以上の家庭などが映し出され、舞台ではドリス・ディが軽やかにステップを踏みながら歌う。

          

 一方、黒人たちは、映画の中では大道具や小道具といった背景同様、使用人や召使いという代替可能な客体でしかない。
 黒人ではないが、ネイティヴ・アメリカンのインディアンはまるで野生動物を狩るようにして撃ち殺され、「駅馬車」の白人たちは、成功したハンターとして笑みを浮かべながら引鉄を引き続ける。

          

 そうした映像の一方、マルコムXやキング牧師、メドガー・エヴァンスら活動家の映像が差し込まれ、彼らが凶弾に倒れるニュースが挿入される。

 これらのすべての要素が、ドキュメンタリーならではの映像のモンタージュとして提示され、下手な劇映画よりもはるかに興味深く観ることができる。

          

 映画の最後はやはりジェイムズ・ボールドウィンの語りで結ばれる。
 「誰が黒人を必要としているか?黒人などというものはいない。ただ白人が、それを必要としているのだ」
 これは挿入した写真のプラカードにも示されている。「Who needs Niggers ?」がそれだ。
 白人たちは自己の狭隘なアイディンティティ、優越感をもち続けるために黒人を必要とするのだ!
 冒頭に私はカッコ付で「黒人問題」と記した。しかし、ここへきて明らかなのは、この問題は実は「白人問題」だったのである。フェミニズムが女性の問題ではなく男性の問題であるように。

 これはすべてのレイシストに共通する。
 「在特会」のような連中は、実態のない日本人の誇りをフィーチャーするために、「在日」を言い立てる。
 「ネウヨ」たちは、来るべき新しい世界に順応することを拒み、ゴミ溜めのような現状にしがみつくために、「サヨ」をことさらに言い立てる。
 理性を信じるならば、そこには黒人も在日もサヨもいない。ただ、この同じ地表で、共存在している人間たちがいるだけだ。






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「無言館」「檻の俳句館」「俳句弾圧不忘の碑」金子兜太最後の揮毫 

2018-05-27 01:24:31 | 想い出を掘り起こす
 信州は上田市の郊外、ニセアカシアが群生する丘に「戦没画学生慰霊美術館 無言館」がある。館主は窪島誠一郎氏、私が訪れた当日も出口付近の管理室に詰めていらっしゃった。
 十字架を寝かせたような間取りの館内には、かつてこの国が起こした戦の中、兵士として招集され、「この続きは帰ってから描く」とかりそめの筆を置いた者たち、「これが最後」と意を決して仕上げの筆を入れた者たち、そしてただ黙ってイーゼルのもとを離れた者たちと、彼らはそれぞれ還らぬ人となってしまったのだが、その思いが遺された作品が蒐集されている。

          

 若くしてすでに大家の風貌を示す画風、荒っ削りでまだまだといった感があるがそれだけにその伸びしろを感じさせる画風、しかしそのそれぞれがそこで切断されたまま、こんにちに残るのみである。
 戦中戦後のドサクサのなかで、失われたものや行方不明のものが多いなか、これだけのものを蒐集された窪島氏とスタッフの尽力に頭が下がる。
 これらの作品は、こうして集められることによって相互に呼応し、散逸したままでは出てこなかったであろうひとつの時代の実像、表現者の肉体がそのまま消滅せしめられるというあの忌まわしい時代の貌を赤裸々にあぶり出し、そして告発する。

          

 無惨に踏みにじられて散った表現者の怨念、それを鎮魂するこの美術館は、やはりその作品を十字に間取られた空間に配置しなければならなかったのだろう。
 私が生を受け、次第に物心つき始めたまさの同じ時期に、この若者たちは逝ったのだった。

          

 本館すぐ下の第二展示室「傷ついた画布のドーム」を出ようとするとき、ここを管理している方から声をかけられ、「このすぐ近くに、金子兜太さんが最後にその碑の揮毫をされた〈俳句弾圧不忘の碑〉と〈檻の俳句館〉がありますが、興味がおありでしたらどうぞ」と勧めてくれた。
 「行きます」と答えて在り処を訊くと、すぐ近くで、しかもここへ来る前に通り過ぎた場所ではないか。

             

 到着すると、まるで待ち構えていたように、草色のTシャツの西洋人の方が現れ、石碑の由来や、「檻の俳句館」の説明をしてくださった。
 この方は、「不忘の碑」の筆頭呼びかけ人で、「俳句館」の館長であるマブソン青眼さんというフランス出身の俳人で、本名はマブソン・ローランさん。青眼は俳号で、彼が澄んだ青い瞳のもち主であること、さらには、彼が師事した金子兜太が若き頃投句をはじめた俳誌「土上」の主宰者・嶋田青峰の「青」を受けたものだという。

          

 石碑への金子兜太の揮毫もそんな縁で、この碑の除幕式は今年の2月25日に行われた。実はこの日、兜太自身がその式典に参加するということで準備が進んでいたのだが、病状悪化により2月20日にその生を終えたため、それが叶わなかったという。そして、この碑への揮毫が、兜太が記した最後の文字ではないかとも。
 2015年に兜太が澤地久枝さんに依頼されて揮毫したという「アベ政治を許さない」は暴政に対する怒りに満ちた力強いタッチのレタリングであるが、この黒い御影石の碑に刻まれたそれは、戦中、圧政と弾圧のなかで17文字(自由律もあり)の表現を続け、検挙や投獄の憂き目にあった先達の俳人たちへの、慈しみと敬意に満ちた筆跡というべきだろう。

          

 そんなわけで、この不忘の碑は、戦時中に、治安維持法による弾圧の対象となった京大俳句事件など新興俳句弾圧事件の被害者たち、その表現を不法に絶たれた者たちを忘れることなく継承し、もって表現者たちの自由を守る決意の表れといえる。
 なお、青眼さんの俳号のところで述べた嶋田青峰も、その被害者の一人で、彼は胸の病をもつ身で特高警察に囚えられ、激しい尋問を受けたあと釈放されたのだが、もはや再び立つことができず、その後いくばくもしない間にその生命を終えたという。

             
 
 そして、そうした抑圧された俳人たちの句をユニークな形で展示したのが「檻の俳句館」で、ここでは、展示された各俳人の似顔絵と反戦句が、鉄格子(=檻)に囲まれて展示され、私たちはその格子越しにその作品を味わうことになる。こうすることによって、フラットに展示されたそれとは違って、これらの句がどんな状況下で詠まれたのか、その臨場感をも合わせて味わうことができる。

          

 これらはすべて、マブソン青眼さんが説明してくれたものに私が後で調べたことなどを付け加えたものだが、それを説明してくれる青眼さんの熱意がビンビンと伝わってきて引き込まれるものがあった。
 といっても、それらは決して堅っ苦しいものではなく、持ち前のユーモア感覚が随所に散りばめられた楽しいものであった。ちなみに彼は、この信州の俳人、小林一茶の研究家でもあり、一茶の、枠を逸したとも思える自由でユーモア感にあふれる句を日本語とフランス語で解説した著作もある。

             

 最後に、この館に備え付けの電子ピアノで、遠来の客のために、バッハの平均律集の中の一節を、つっかえつっかえしながら聴かせてくれたもご愛嬌だった。
 こうして、無言館訪問の旅は、おもわぬおまけに恵まれて、より豊かなものになった次第である。
 
 以下に、この俳句館と不忘の碑に関わるページを貼り付けておくので、近くへおでかけの際には足をお向けになればと思う。
 「無言館」へおでかけになったことがない方は、是非セットで両方をご覧になることをお勧めする。いうまでもなく、この二つのスポットを貫くコンセプトは同一である。いわく、「不戦」。

 「檻の俳句館」ブログ
   https://showahaiku.exblog.jp/

 なお、俳句ではないが、川柳の世界でやはり戦前に厳しい弾圧にさらされた鶴彬(つるあきら)に関して、かつて私がブログに載せた記事があるのでそれも貼っておく。
 最初は10年前のもの、ついで6年前のもの。
   https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20080713
   https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20121023

 


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ある艶笑噺とわれらが首相

2018-05-23 02:15:29 | よしなしごと
 むかしから語られている、少々えげつない艶笑噺をひとつ。
 浮気がバレそうになった亭主と、それを追い詰めるかみさんの話です。
 テは亭主、カはかみさんです。

          

 カ「あんた、あの女と浮気したでしょう」
 テ「そんなことはしてないよ」
 カ「嘘おっしゃい。二人をラブホの前で見かけた人がいるのよ」
 テ「たまたま前を通りかかっただけさ」
 カ「中へ入っていったと言ってたわ」
 テ「入ったことは入ったがなにもしなかったよ」
 カ「お風呂へ入ったでしょ。石鹸の匂いがするわ」
 テ「風呂へは入ったがそれだけさ」
 カ「また嘘を。それからベッドへ入ったでしょう」
 テ「ベッドへは入ったが何もしなかった」
 カ「二人で抱き合ったでしょう」
 テ「抱き合ったけどナニはしなかった」
 カ「またまた嘘を。ちゃんとしたでしょう」
 テ「したけれど、よくはなかった」

 次々に具体的事実が出てくるのに、あれやこれやと詭弁を弄して言い逃れをしているわれらが首相をみると、なぜかこの噺を思い浮かべてしまうのです。

 
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「中くらいの友だち」の一周年記念コンサート

2018-05-21 00:51:31 | 音楽を聴く
 『中くらいの友だち』という面白い名前の同人誌がある。
 ありていに言えば韓国で暮らす日本人と、在日韓国人との架け橋のような雑誌である。
 日韓、あるいは韓日の間には、隣国だけあって深い歴史的経緯があって、ともすれば政治やイデオロギーとして語られる側面が多いのだが、ある意味では、それらを棚上げして、とりあえずは相互の文化交流のようなところに視点を据え、そこから見て考えたことを率直に表現するということがコンセプトのようだ。

 それを前提にこの同人誌を読んでゆくと、新聞やTV、あるいはネットでも知ることができない相互の交流の実状が、それを担う当事者たち(それぞれの国で活躍するそれぞれの人たち)の視線でみえてきてとても面白い。

          

 ところで、ここに書こうとしたのはその雑誌についてもだが、発刊以来、一年が経過し、その第3号が出来上がったことを記念して行われた【『中くらいの友だち』と韓国ロックの夕べ ”李銀子(伽倻琴)/佐藤行衛(ギター)"】(@得三 名古屋今池)というライブについてである。
 
 この李銀子さんとはほぼ30年を遡る知り合いで、そのお連れ合いもよく知っている。
 佐藤行衛氏は韓国へ渡った日本のギタリストで、「コブチャンチョンゴル」というバンドを率いてソウルを中心に活躍している。コブチャンチョンゴルとはごった煮とかモツ鍋を意味していて、彼自身、『中くらいの友だち』には「コブチャンチョンゴルの飲んだり、食べたり、歌ったり」という日韓の民衆音楽の交流や、韓国の、主としてB級グルメの楽しい紹介を行ったりしている。

          

 李銀子さんの伽倻琴というのは、日本の琴に似た楽器だが、琴ほど鋭角的な音色ではなく、ソフトでまろやかで、コントラバスのピチカートにも似た低い音も出るし、曲の聴かせどころでは聴き手の体に響くほどのパンチがある音も出る。
 この楽器を聞くのは三回目だが、その都度、なんだか郷愁にも似た懐かしさを感じる。

             

 佐藤氏は今回はアコースティック・ギターでの登場だが、そのギターが上手い。もちろん歌もうまい。ロック特有のガナリ声も表情豊かに聞こえるし、洗練された高音も伸びやかであった。

          

 さらには金利恵さんの歌もしっとりと聴くことができた。この金利恵さん、本業は韓国舞踊とのことだが、最後のフィナレーの身のこなしでその片鱗を見ることができた。
 なお、ローマ字で書くと私と同姓同名になってしまう私の友人にして俳人と、この金さんは俳句仲間とのことで、回り回った縁でもある。

 出演者ひとりひとりの表現もだが、そのそれぞれのコラボがとても面白かった。伽倻琴とギター、そして歌、それらの絡み合いは、冒頭に述べた同人誌、『中くらいの友だち』のコンセプトが、音響として耳から飛び込んでくるかのような趣があった。

          

 なお、佐藤氏のライブ当日についての記述がMixiの以下ところにあるので、お読みいただければそのライブの内容がお分かりいただけると思う。

 http://mixi.jp/list_diary.pl?id=5675730&year=2018&month=5&day=19 
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どっこい、生きている がしかし、手抜きの花便り

2018-05-13 11:24:27 | 花便り&花をめぐって
          

 私ぐらいの歳になると、一週間も日記を更新しないと、「とうとうあいつもくたばったか」といわれそうです。

          
 
 こうやって書いている段には、「どっこい、生きている」という証拠なのですが、本当は自分の身辺におこった出来事に関して少し長い話を書きたくてその準備を進めてはいるのです。

          
 
 にもかかわらずそれをちゃんと書けないのは、並行して某雑誌のためのちょっと長めの文章を執筆中で、単に書くだけではなく、その裏付けなどをいろいろ調べなければならなくて、ちょっと忙しいからなのです。

          
 
 で、今回は、手紙を出しに行ったついでに申し訳程度の散歩をし、その折に撮した写真などを載せてなんとか誤魔化そうとする次第です。
 手抜きであることはバレバレですが、まあ、一応、生きていますというご報告までに。

          

 写真は上から順に、
  ・つい一ヶ月半前まで花をつけていた桜のたくましい変貌ぶり。
  ・ハルシオンのお花畑
  ・最近あちこちに自生しているが多分外来種。名は知らない。
  ・あじさいの赤ちゃん
  ・赤いカタバミ
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「ゆるふわ鉄ちゃん」のゆるふわ思い出

2018-05-07 01:04:56 | よしなしごと
 私は鉄道が好きだ。しかし、乗り鉄、撮り鉄をはじめ、やたらその歴史やメカに詳しいコアな鉄ちゃんたちがいるなか、私はそのどれにも属さないというか及ばないのだ。
 乗るのも好き、眺めたり写真を撮るのも好き、六角精児のように車内で飲むのも好き、ただし、それを極めるために、わざわざ乗りに出かけたり、どこかの撮影ポイントに出かけるようなことはしない。ようするに怠け者なのだ。
 だから自分のことを「ゆるふわ鉄ちゃん」と自称している。

 しかし、ある程度の努力はする。
 岐阜の樽見鉄道が第三セクター化した時、家族連れで途中の駐車可能な駅まで車で行き、そこから終点まで行って遊び、また折り返して帰ってきたことなどもある。

          

 駅構内に温泉があるときいて、やはり第三セクターに乗って友人たちとそこへ行ったこともある(長良川鉄道みなみ子宝温泉駅)。

          

 1991年のモーツァルトイヤー、ザルツブルグへ行く前、ウィーンに2、3日いたのだが、そのリングのトラムカーに乗りたくて、ホテルから2、3駅の間歩き、そこからホテルまで乗ったことがある。
 普通の編成の最後尾に、やや小さめの車両が連結されていて、それが珍しいのでそこへ乗車した。この写真でいうと最後尾の車両である。
 
          

 う~ん、これがウィーンのリング(ウィーン旧市街の城壁を壊した跡にできた環状道路を走るトラムカ-)かと感激していたのもつかの間、降車すべき駅にすぐ着いてしまった。
 さて、ここで料金を払って降りようとしたのだが、その支払い方法がわからない。車掌さんなどの影も形もなく、料金入れなどもまったくない。
 予め乗車料金を調べておいたので、その小銭を握りしめて降車口付近で戸惑っていると、当時の私よりも年配だった乗客たちが、「いいから降りろ降りろ」とゼスチャーで示すのである。もちろん、これ以上乗り続けても行くあてもないので、ためらいながらも降りることとなった。誰かに咎められないかと思ったがそれもなかった。

 トラムが発車する際、私に降りろと促してくれた人たちに向かって、深々と礼をした。人びとは手を降って車両は去っていった。

          

 それから十数年後のいまから10年ほど前、ハンガリーへ行った帰途、今度はオーストリーの第二の都市グラーツに寄った。
 この街にもトラムは縦横に走っていて、なぜかウィーンよりは生活感があるように思われた。なぜだろうと思っていたのだが、やがてその理由がわかった。
 ウィーンでは、私が観た範囲ではトラムはかなり広い道路を走っていたのだが、このグラーツのトラムは、もちろん広いところも走るのだが、これではまるで路地ではないかと思うような狭い道を、カーブなどでは建物に接触するのではと思うように走っている箇所があるのだ。
 私たちが泊まったホテルがそうだった。ホテルを出ると歩道があって、車道があって、そして軌道がといった具合ではなく、ホテルのフロントを出るとすぐ軌道があって、そこを鼻をかすめるようにしてトラムカーが走っていた。

 グラーツのみではなく、ヨーロッパの都市ではしばしばそうした光景が見られるようだ。それはひょっとしたら交通機関などのインフラ整備に関して、すぐさま既存の家屋を取り壊したり、立ち退かせたりして道路を拡張するなどする東洋的都市計画と、従来の都市景観などを壊すことなく、それに上塗りをするようにして新たなインフラを考えるヨーロッパ的な都市観の違いがあるのかもしれない。

 しかし、日本でもそうした狭い道を走るトラムを子供の頃、見たことがある。それはいまはもう廃線になった岐阜市と、関市、美濃市を結ぶ名鉄美濃町線で、廃線になった当時は岐阜の徹明町という広い交差点が起点であったが、1950年代までは柳ケ瀬の東の端、美殿通りから出ていた。
 まさにそれは、居並ぶ商店や住居の軒先をかすめるようにして走っていた。その通りを、当時は人も車も、そして電車まで走っていたのだから驚きだ。美殿町から殿町を経由し、梅林公園の南で広い道へ出るまでの約一キロはそんな具合だった。

            

 ドンピシャリ、それを撮した写真を探したのだが、ここに載せたモノクロのものがそれに近いと思う。この電車と右の家屋の近さを見てほしい。左の余白はこの写真ではかなり広そうに見えるが、実際にはこんなに広い感じではなかった。
 ちなみに、この通りは今では東への一方通行になっている。ようするに、街なかの一方通行になるような通りを市街電車が走っていたのだ。

 とまあ、こんな具合に私の鉄道への関心は散漫でまとまりがないものである。
 「ゆるふわ鉄ちゃん」を自認する所以である。

 
【おまけ】以下は、つい最近まで中国にいた私の友人のブログである。
 ちなみに私は、7年前、この写真にある新幹線型の特急に太原から北京まで乗ったことがある。客室ごとに乗務員がつき、お絞りのサービスなどがあった。飲食物、お土産の車内販売もけっこう頻繁だった。
  http://d.hatena.ne.jp/maotouying/20180130
 
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