アメリカにおける「黒人問題」を題材にしたドキュメンタリー映画である。と同時にそれは決して「黒人問題」ではない。なぜかをみてゆこう。
悲惨な場面も出ては来る。激しい怒りの波もある。しかし、この映画はそれをもってして感情に訴えかけるアジテーションではない。あくまでも理性や対話に訴えかけるものとなっている。言ってみれば、人間への信頼に依拠しているといっていい。
しかし、問題が問題だけに歴史上の事実に目を閉じていることは許されない。理性的であることは、同時に何がどのように推移したのかを今日の時点から振り返ってしっかりとみることだ。
その意味でこの映画はめっぽう面白く、最後まで目が離せない。問題の重さからいって面白いというのは不謹慎かもしれないが、事実、面白いのだ。そこには、ひとつのセオリーを掲げて断罪するのみに終わらない、映画ならではの編集の妙味がある。
映画は、公民権運動の真っ只中にいた黒人作家・ジェイムズ・ボールドウィンが書き残した30ページたらずの原稿をもとに、黒人俳優のサミュエル・L・ジャクソンの朗読をもって進行する。
狂言回しとして頻繁に登場するのはジェイムズ・ボールドウィン本人の在りし日の映像、講演や対談などだが、このジェイムズ・ボールドウィン、ちょっと目には人懐っこく柔和な印象にもかかわらず、一旦口を開くやその言葉は明晰で事態を根底から穿つものである。
とくに、白人のスピーカーの、「もはや黒人の権利はじゅうぶん回復されたのではないか」との発言に対しての彼の反論は、形としての「権利の回復」と現実に起こりつつある事実との齟齬を具体的にかつ明確にに指し示し、もって聴衆の関心を惹きつけてやまない。
そうしたジェイムズ・ボールドウィン言動の間に差し込まれるかつての現実の映像、映画やTVの映像はまさに観ものであり、それがこの映画を単に白人vs黒人という平板な設定を抜け出たものにしている。
それらのなかには私自身が少年の頃、夢中になった西部劇やターザンシリーズ、そして絵に描いたような白人の中流以上の家庭などが映し出され、舞台ではドリス・ディが軽やかにステップを踏みながら歌う。
一方、黒人たちは、映画の中では大道具や小道具といった背景同様、使用人や召使いという代替可能な客体でしかない。
黒人ではないが、ネイティヴ・アメリカンのインディアンはまるで野生動物を狩るようにして撃ち殺され、「駅馬車」の白人たちは、成功したハンターとして笑みを浮かべながら引鉄を引き続ける。
そうした映像の一方、マルコムXやキング牧師、メドガー・エヴァンスら活動家の映像が差し込まれ、彼らが凶弾に倒れるニュースが挿入される。
これらのすべての要素が、ドキュメンタリーならではの映像のモンタージュとして提示され、下手な劇映画よりもはるかに興味深く観ることができる。
映画の最後はやはりジェイムズ・ボールドウィンの語りで結ばれる。
「誰が黒人を必要としているか?黒人などというものはいない。ただ白人が、それを必要としているのだ」
これは挿入した写真のプラカードにも示されている。「Who needs Niggers ?」がそれだ。
白人たちは自己の狭隘なアイディンティティ、優越感をもち続けるために黒人を必要とするのだ!
冒頭に私はカッコ付で「黒人問題」と記した。しかし、ここへきて明らかなのは、この問題は実は「白人問題」だったのである。フェミニズムが女性の問題ではなく男性の問題であるように。
これはすべてのレイシストに共通する。
「在特会」のような連中は、実態のない日本人の誇りをフィーチャーするために、「在日」を言い立てる。
「ネウヨ」たちは、来るべき新しい世界に順応することを拒み、ゴミ溜めのような現状にしがみつくために、「サヨ」をことさらに言い立てる。
理性を信じるならば、そこには黒人も在日もサヨもいない。ただ、この同じ地表で、共存在している人間たちがいるだけだ。
悲惨な場面も出ては来る。激しい怒りの波もある。しかし、この映画はそれをもってして感情に訴えかけるアジテーションではない。あくまでも理性や対話に訴えかけるものとなっている。言ってみれば、人間への信頼に依拠しているといっていい。
しかし、問題が問題だけに歴史上の事実に目を閉じていることは許されない。理性的であることは、同時に何がどのように推移したのかを今日の時点から振り返ってしっかりとみることだ。
その意味でこの映画はめっぽう面白く、最後まで目が離せない。問題の重さからいって面白いというのは不謹慎かもしれないが、事実、面白いのだ。そこには、ひとつのセオリーを掲げて断罪するのみに終わらない、映画ならではの編集の妙味がある。
映画は、公民権運動の真っ只中にいた黒人作家・ジェイムズ・ボールドウィンが書き残した30ページたらずの原稿をもとに、黒人俳優のサミュエル・L・ジャクソンの朗読をもって進行する。
狂言回しとして頻繁に登場するのはジェイムズ・ボールドウィン本人の在りし日の映像、講演や対談などだが、このジェイムズ・ボールドウィン、ちょっと目には人懐っこく柔和な印象にもかかわらず、一旦口を開くやその言葉は明晰で事態を根底から穿つものである。
とくに、白人のスピーカーの、「もはや黒人の権利はじゅうぶん回復されたのではないか」との発言に対しての彼の反論は、形としての「権利の回復」と現実に起こりつつある事実との齟齬を具体的にかつ明確にに指し示し、もって聴衆の関心を惹きつけてやまない。
そうしたジェイムズ・ボールドウィン言動の間に差し込まれるかつての現実の映像、映画やTVの映像はまさに観ものであり、それがこの映画を単に白人vs黒人という平板な設定を抜け出たものにしている。
それらのなかには私自身が少年の頃、夢中になった西部劇やターザンシリーズ、そして絵に描いたような白人の中流以上の家庭などが映し出され、舞台ではドリス・ディが軽やかにステップを踏みながら歌う。
一方、黒人たちは、映画の中では大道具や小道具といった背景同様、使用人や召使いという代替可能な客体でしかない。
黒人ではないが、ネイティヴ・アメリカンのインディアンはまるで野生動物を狩るようにして撃ち殺され、「駅馬車」の白人たちは、成功したハンターとして笑みを浮かべながら引鉄を引き続ける。
そうした映像の一方、マルコムXやキング牧師、メドガー・エヴァンスら活動家の映像が差し込まれ、彼らが凶弾に倒れるニュースが挿入される。
これらのすべての要素が、ドキュメンタリーならではの映像のモンタージュとして提示され、下手な劇映画よりもはるかに興味深く観ることができる。
映画の最後はやはりジェイムズ・ボールドウィンの語りで結ばれる。
「誰が黒人を必要としているか?黒人などというものはいない。ただ白人が、それを必要としているのだ」
これは挿入した写真のプラカードにも示されている。「Who needs Niggers ?」がそれだ。
白人たちは自己の狭隘なアイディンティティ、優越感をもち続けるために黒人を必要とするのだ!
冒頭に私はカッコ付で「黒人問題」と記した。しかし、ここへきて明らかなのは、この問題は実は「白人問題」だったのである。フェミニズムが女性の問題ではなく男性の問題であるように。
これはすべてのレイシストに共通する。
「在特会」のような連中は、実態のない日本人の誇りをフィーチャーするために、「在日」を言い立てる。
「ネウヨ」たちは、来るべき新しい世界に順応することを拒み、ゴミ溜めのような現状にしがみつくために、「サヨ」をことさらに言い立てる。
理性を信じるならば、そこには黒人も在日もサヨもいない。ただ、この同じ地表で、共存在している人間たちがいるだけだ。