六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

アートな一日@豊田市 とりわけ喜楽亭

2019-08-31 14:40:42 | 歴史を考える
 当初ここを知った折、ここは愛知県加茂郡挙母町と呼ばれていた。60年ほど前のことである。それがいまや豊田市と呼ばれ、愛知県では名古屋市に次ぐ人口を抱え、その面積たるやなんと愛知県の六分の一を占めるという。
 いわずとしれたトヨタの企業城下町、したがって市名の豊田も「とよだ」と濁らず、「トヨタ」である。

 この前、ここに来たのは豊田市美術館にフェルメールが来た折だった(2011年)。といってもたった一点(「物理学者」)で、しかもその展示が仰々しく、ここをこう見ろといったレクチャーにあふれていて、絵画鑑賞だかトレヴィアの開陳だかわからないありさまで、いくぶん引き気味に観た記憶がある。

 今回もまた、アート鑑賞が目的だが、もう少しスタンスを広くとって観てこようと決めていた。
 それにしても岐阜からは遠い。家を出てから2時間半ぐらいを要する。今回は見る対象も多かったので、朝寝の自分にしては早めに出る。

 最初、豊田市駅構内の案内所で豊田市美術館で開催中のクリムト展とあいちトリエンナーレのセット券をゲット。
 回る順序を決める。あいトレの方はいろいろなところでいろいろな展示があるようだが、豊田市美術館以外は涙をのんで一箇所に絞る。

            

 その一箇所とは、国の登録有形文化財にも指定されているかつての老舗料理旅館喜楽亭を会場とした作品「旅館アポリア」(作者:ホ-・ツーニェン シンガポール出身)で、その理由は、この作品は数箇所に設置されたスクリーンで順次映し出される映像を時間系列で観てゆくもので、おおよそ1時間半を要するとあったからだ。もちろんそれが面白そうだという予感もあった(若干の情報も)。

 他は見ていないのでなんともいえないが、ここを選んだのは正解だったと思う。なにより面白い
 一階二階、合わせて五スクリーンのうち、三つは戦前戦中の小津監督の作品をコラージュした映像に主として短い手紙形式の往復の文字と音声(音声は女性男性のそれが微妙にずれながら発せられる)がオーバーラップする。

 小津作品の登場人物は、すべてのっぺらぼうだが、その輪郭から、あ、笠智衆だ、佐野周二だなどとわかるのも懐かしい。私個人として懐かしかったのは、自身、『南の国に雪が降る』という戦争体験記を著している(映画化もされた)加東大介で、笠智衆との絡みで、「軍艦マーチ」に合わせて敬礼をしながら行進のフリとするやや長めの映像では、何かこみ上げるものがあった。

 もっとも、作家としては敢えてこの顔を消し、のっぺらぼうにすることで、普遍性を強調したのだろうから、私のようにそこへ個を投入して懐かしんでしまうのはダメなのかもしれない。

            
 この小津作品のコラージュものでもっともすごかったのは、神風特攻隊草薙隊に関するものだった。この草薙隊はこの豊田市にあったもので、しかも、命令が出て実際に出撃する鹿児島へ発つ際、まさにこの喜楽亭において、しばしば最後の宴会を催したというのだ。
 
 それらが、喜楽亭の女将の回想によって語られるに及んで、空間のもつ多重性、歴史性が私自身の身体にまで及ぶ。以後、74年、その映像を観ているまさにこの部屋で、私がそれを観ているここで、その最後の宴が繰り広げられたかもしれないのだ。何という身を突き抜けるような臨場感。

 ほかのひとつは、往年の少年漫画「クフちゃん」の作家、横山隆一の戦時中の戦意高揚アニメ三部作のうち、『フクちゃんの潜水艦』を取り上げたもので、その映像を部分的に紹介しながら、戦後の横山の言葉を紹介している。

 彼はいう、「自分はただ命令に従ったのみのみで、なんの罪悪感もない」、「今後また、同様な状況になったら、同じように行動するだろう」と。アイヒマン裁判を連想するがその是非は言わない。ナレーションはただ、それらの作品や戦時中の一部の作品などは、高知にある「横山隆一記念まんが館」には見当たらないことを平坦に告げるのみである。

 もうひとつのスクリーンは、何やら円形のものの下部のベルト上のスクリーンに文字が映し出される。そのほとんどは、戦時中の京都学派の天皇や国体、現人神に関するまさに哲学的解釈である。それらが、薄められることなく、哲学の言葉のままに表示されるので、哲学にある程度の造詣があったり、京都学派の独特の概念に通じていないとチンプンカンプンだろう。 

 私自身は、それを目で追っておおよそなにをいっているのか把握するのに精一杯だった。いってみればそれらは、戦時中の不合理極まりない体制をなぜ国民は甘受しなければならないのか、またその体制のうちで死んでゆかねばならないのかを理由付けるもので、それらは即、既にみた、特攻草薙隊の若者たちの死にリンクするものであり、彼らの死を当然なる当為ともいうべき倫理的行為として称賛し、かつ義務として強要するものであった。

 部屋が明るくなると、帯状のスクリーンの上方の円形は、巨大な扇風機であることがわかる。そこから吹き付ける風は、現人神の御心を忖度した京都学派の、美しくも醜い言葉の群れとして往時の臣民を屈服させた風であり、それによりもっとも遠く飛ばされた者たち、国内三百万余、近隣諸国二千万余の屍へといまもなお、生暖かく吹き付ける風であるかのようであった。

 映像と音声、とりわけ言葉そのもののコラージュといえるが、印象に残ったのは、言葉そのものが詩的に昇華されることなく、発せられたそのものの意味においてそこに並べられ、私たちにその受容の仕方を委ねていることだ。
 
 その方法は、例えば戦時中、もっとも端正な言葉として受容された京都学派のまさにその言葉の群れが、どのような現実と対応しているかをまざまざとみせながら、私たちがその言葉といまなお対応しきれていない素朴な事実をあぶり出してゆく。

 アートに関する見識など持ち合わせていないが、そこに繰り広げられている世界は、確かに、私に迫るものをもっていた。
 惜しむらくは、各スクリーンの連携が今ひとつ不十分で、見損なったり、重複したりで、いくぶんイライラさせられたことだ。

 いっそのこと、ワンスクリーンで通しで上映してもとも思うが、そうすれば、他ならぬ喜楽亭でそれを受容するというもっとも大きな臨場感を失うことになるのだろう。

            
         
            
 あと、クリムト展、ならびに豊田市美術館でのあいトレの展示も観たが、もちろん言葉にする能力はもち合わせていない。
 撮ってきた写真を羅列してお茶を濁すことにする。

 なお、クリムト展のポスターにもなっている、彼の作品、「ユディト1」については、前々から女優の高畑淳子さんを思い出してしまうのだが、これってやっぱり変ですよね。

         
            
         
            
         
         
         
         
         
         


 







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今日は何曜日? @ヘルシンキ 気がつけば無一文

2019-08-30 00:19:02 | 日記
         
 いざ海外に出るとなると曜日の感覚が怪しくなる。今日が何曜日かわからない、あるいは何曜日でも構わないような気がしてくる。
         
 私の場合もそうであった。サンクトペテルブルクからヘルシンキへ列車で着いたのはもう夜の時刻であった。しかし、白夜の国、まだまだ明るい。
 ヘルシンキ中央駅に着いたものの、この国で通用するユーロはまったく持ち合わせていない。残っていたリーブルと、円とを両替しなくてはならない。

         
 そこで到着早々、駅の案内担当のベストを着た人にエックスチェンジャーの所在を訊ねた。すると彼は、ある方向を指差したが、今日はもう終わってるといった。「Why?」に対し「Sunday」がその答え。更に詳しく訊くと、さっきまでやってたが日曜日は夜はやらないとのこと。
 かくして、はじめて来た街へ、文無しで放り出されたのだった。

         
 カードはあるからなんとかなるだろうと気を取り直し、少し道に迷ったが15分ほどで予約したホテルにたどり着いた。念のため、ホテルのフロントでエクスチェンジはしているかと訊いたら、していないけど明日の朝からここでしてくれると地図にマークをしてくれた。そこはいま通ってきた百貨店だった。

         
 「百貨店でエクスチェンジ?」と訊ねると、「いやその7階にBankがある」とのこと。まだ黄昏時のようだが、なんやかんやでもう午後10時ぐらい。サンクトペテルブルクを発って以来、飲食はしていない。なんとか胃の腑を満たさなければならない。
 フロントの女性(とても親切でかつ丁寧であった)は、よかったらうちで食べれば、精算はチェックアウトの折にといってくれた。でも、貧乏旅行で、ホテルのレストランで洒落込む余裕はない。

          
 すると彼女は、隣のオープンレストランのようなところを指差して、同じ経営だからここでどうだという。渡りに船と、そこへ座を占める。ウエイターは若くしなやかな黒人男性で、素晴らしくよく通る声でスローリー&クリアリーな英語で注文を聞いてくれる。

         
 とりあえず一品を頼み、赤ワインを注文する。それにとどめておいてよかった。エビやらサケやらのシーフードをベースにしたサラダ風の盛り合わせなのだが、それが実にビックサイズなのだ。パンをコンガリさせたものも入っていてそれで充分だった。ワインをお代わりする。それで16ユーロ、つまり1,900円ほど。

          
 しなやかな黒人男性の、センキューの笑顔に送り出される。
 ところで、今日が日曜日ということは明日は月曜日だ。そこでふと思い当たることがあった。フロントに走って確認する。そうなんだ、この国でも日本同様、月曜日は美術館関係は休館なのだ。

         
 にもかかわらず、冒頭に書いたように曜日に無頓着だった私は翌日の月曜日に、ふたつの美術館を含んだコースを予定していたのだ。部屋へ帰り、PCをつないでいろいろ調べ、予めの予定を変更したスケジュールを作成し直した。ああ、この段階で思いついてよかった。

         
 北欧の夏の夜は遅い。もう午後11時過ぎなのに、なんとなくざわめいていて、ホテルの窓から見える通りやオープンレストランにも客がたむろしている。もう一度街へ出たい誘惑があったが、今日の移動の疲れや明日の予定を考えて断念。日頃の睡眠障害も何のその、バタンキューで眠りにつくことができた。

 写真はいずれもヘルシンキ市内で






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ヘルシンキ概観 私の身の丈にあった街?

2019-08-27 17:21:17 | 旅行
         
           午後10時でこの明るさ 緯度の高さを思い知る
            
            
         
 ヘルシンキは想像していた以上にいい街だった。
 第一、その規模が手頃である。人口60万人、わが街岐阜をひと回り大きくしたぐらいで、しかも、主たる施設が80歳の私の足で到達可能な2~3キロの範囲内にある。
 その上、10系統のトラムが市内を縦横に走り、いわゆる交通弱者がいない。そのせいか、車の数もそれほど多くはない。

         
         
       この街ではハトやスズメよりもカモメが大きな顔をしている 駅前広場にて

         
 もうひとついい点は、わが街岐阜が、今やJR快速で18分という名古屋の衛星都市としてトヨタ一強支配に屈しそうなのに対し、この街は小粒ながらこの国の首都として、その威厳を失ってはいない。
 
 半分本気で、この街に住みたいと思った。というのは、日本という国がつくづく嫌になって、逃避といわれようが卑劣といわれようが、残り短い人生、この国ではあまり暮らしたくはない。ときおり、ネトウヨから「北へ帰れ!」というお言葉もいただく。そう、こここそが日本の北ではないか。

         
         
      サンザシに似た木が街路樹などにも使われている ロシアでもよく見かけた

         
 しかし、私が訪れた8月上旬は、白夜は終わっといえ、午後10時ぐらいがやっと黄昏という頃で、気温や湿度も快適この上なかったのだが、その反動が冬にはやってきて、陰鬱な夜の長さ、日暮れの早さ、そして老骨にこたえる厳寒を考えると、それは現実的ではないように思われる。

         
      弦楽六重奏団 ヴィヴァルディやバッハ 合間にポピュラーの編曲などを演奏

         
      ショッピングモールの中の「俳句」という名の寿司店 東洋系の女性が準備をしていた

 それはさておき、この街を楽しむために私が予めリサーチしておいたのは、トラム乗り放題のチケット、2日分をゲットすることだった。これは2日分で14ユーロ(約1,700円)するが、訪問予定にしていた全島世界遺産のヘルシンキ港から15分ほどのスオメンリンナへの船賃往復も込みだとしたら随分お得だと思う。
 実際のところ、この島へは往復したし、市内のトラムは何やかやで10回以上は利用した。

         
            
         
 街は美しい。サンクトペテルブルクでもそうだったが、高層ビルというものがなく、街の著しい凹凸、伝統的な建造物とのアンバランスがないのがいい。
 いまや、ヨーロッパ各地で、観光化した旧市街と、近代の要請に応えた高層ビル群との著しい対照がみられるのだが(昨年訪れたロンドンでもパリでもそうだった)、サンクトペテルブルクでもこの街でもそうした不均衡な光景をみることはなかった。

         
         
   サーモンサラダ日本風 白いのは寿司飯風ライス サーモンが見た目より多く、美味しかった 完全セルフ方式のオープンテラス風の店で7ユーロ

         
   公園で見かけた馬車 馬の脚が太く長い毛が蹄を覆っている こうでないと寒い冬を越せないのだろう
 
 それは、この地の人々が、まだまだ効率一辺倒にとらわれることなく、伝統的な世界と自分との調和のうちに住まっているからではないだろうか。自分の住む場所としてのこの街が、自分にとって何かよそよそしい異物のようになることなく、しっくり噛み合っているといった感じなのだ。

         
         
         
 そう思ってみると気のせいか、トラムに乗っている人たちも、あまりせかせかしていないし、またスマホに見入る人もはるかに少なく、流れる時間に身を任せている感があった。
 短い時間の旅行者の視線、いくぶん美化しすぎているかもしれない。
 追々、この街での見聞を記してゆきたい。




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ペット専用席?での列車旅 サンクトペテルブルクからヘルシンキへ

2019-08-26 17:32:36 | 旅行
 サンクトペテルブルクの三日間は、私にはとても魅惑的な時間であった。
 三〇〇年前に人工的に作られたこの都市は、その佇まいからして魅力的だったが、それらの景観に重ねて、おおよそ一〇〇年前にこの都市で起こった革命の痕跡を観ることができたのだった。
 ロシア革命がなんたるかもわからず、その具体的な事件、その現場を知らない若い人々に比べて、私は何倍もこの都市を賞味できたと密かに自負している。
 
 しかし、私の旅は続くのだった。次の目的地は、トランジッドで何度もその空港には降り立ったことがあるがその都度上空から眺めるだけだったヘルシンキ。今回はその市街を目指したのだった。
 サンクトペテルブルクからは鉄路で約三時間半。通称フィンランド駅(サンクトペテルブルクの駅名は、その行く先を示す場合が多い。モスクワへ行く駅はモスクワ駅と呼ばれる)の国際線待合室はロシアや北欧系の人びとに混じって、インドやムスリム系もかなりの割合を占めていたのはやや意外だった。

         
 もちろん国際線なので、空港並みの出国検査の後、プラットホームに出る。私の乗るべきALLEGRO号はもうホームに入っていた。車両番号を確認しておいてから、写真を撮る。
 ホームの端まで行って列車の全体像を撮り、他のホームの国内線と思われる列車、そして列車の反対側の駅舎を2枚ほど・・・・。

 そのとき、意外なことが起こった。プラットホームを俯瞰できる場所には、黒い服で身を固めた国境警備隊か鉄道警備員かはわからないがいずれにしても腰にはちゃんと拳銃を装備している人たちが立っていたのだが、そのうちの一人、女性隊員がつかつかと私の方へ寄ってきて、駅舎を指して、「NO!」という仕草をする。
 そして、いま撮った写真を見せろという。その段階で、6~7枚の写真を撮っていたのだが、それらを再生してみせると、駅舎を撮したもの2枚を指差して、さらにゴミ箱マークを指す。ようするにそれらを削除せよということなのだ。

         
 以上は言葉が通じないままのやり取りだから、それ以上突っ込んで「なぜですか?」と聞くこともできない。下手に抵抗してスパイの嫌疑をかけられ、シベリア送りになったりしたら、亡くなった私の養父の二の舞いだ。満州で敗戦を迎えた養父は、約3年のシベリア抑留生活を送っている。

 結局、相手の言うがままにその2枚を削除したら、OKという仕草とともに私のもとを去っていった。よく見ると思ったより若い女性で、こんなことさえなければ「かっこいいなあ」といった雰囲気の女性隊員だった。

         
 ところでよくわからないのは、私が撮した駅舎の写真、それがなぜ撮影禁止なのかだ。けっこう伝統的な建物で、日本の機能本位の駅舎よりも素敵だから私の撮影本能をくすぐったのだが、それを肉眼で見直しても、その何処かに軍事秘密や国家秘密があるようにはまったく見受けられないのだ。
 あるいはどこかに、隠しカメラや、不審者を洗い出すセンサーのようなものが設置されているのかもしれない。そして、それらが密輸犯や、越境する犯罪者に知られるのを防ぐため撮影を禁じているのかもしれない。

 事件はそれで終わりなのだが、その女性隊員に制圧されている間、彼女の背後にかのプーチンの面影が浮かび、シベリアという観念が頭をかすめたことは書き残しておこう。やはり、ロシアにはその表層ではわからない怖さがある。

            
 さて、列車内の私の席はやや特殊であった。ALLEGROを示す下にはPETSとあり、写真下方の白い丸にはペットのイラストが。
 そう、ここはペット席なのだ。
 果たせるかな、私の両側はペットのケージをもった二人の女性が。二人とも猫を連れての国際旅行のようだ。
 片や品の良い老婦人、もうひとりは30歳前後のややぽっちゃりタイプの女性。この若い女性、Tシャツなのだが、その二の腕辺りにさほど大きくない入れ墨が2つ3つ。そのうちの一つの絵柄がふるっていて、明らかに男女和合の絡み合った図柄なのだ。
 しかし、この女性、わりと英語がクリアー(私にわかりやすいという意味だが)で、会話にも気さくに応じてくれる。
 猫の名前は「リトル・ブラザー」で生後1年とちょっとだと教えてくれた。ケージから出してくれた猫を見ると、決してリトルではない。すかさず私は「ビッグ・ブラザー」と名付け、彼女は苦笑していたが、この「ビッグ・ブラザー」がかのジョージ・オーウェルのディストピア小説の名品、『1984年』に登場する独裁者の名前であることを果たして彼女は知っていたろうか。

         
 老婦人の方はヘルシンキに住む娘に会いにゆくとのことで、猫の名はアメリカの映画俳優のような名前だったが忘れた。テッドだったろうか。
 この二人、互いに猫好きだけあって気が合い、間の私を飛び越えて話が弾むので、「なんでしたら席を替わりましょうか」ともちかけてみたところ、それはダメだという。ペット間のトラブルや感染などを防ぐため、席を隣接させることは禁じられているのだとのこと。
 かくして私の、あわよくば窓際の席をせしめようという野望は砕け散ったのだった。
 
 ようするにペット席に座らされた私は、ペット間の緩衝材だったわけだ。できるだけ安くあげようとして旅行社と交渉した結果がこれだったのか、それともたまたまだったのかはわからないが、いずれにしても私はこの状況に文句はなかった。なぜなら、この席は他のきちんとした座席に比べて遥かに前後左右に余裕があり、目の前の二つ折りのテーブルも、ペット用のケージを乗せるために自分の部屋のテーブルほどの広さがあるのだった。

         
 動物に関しては検疫検査がある。サンクトペテルブルクを出発してすぐ、検疫官が二人やって来て猫の検査を始めた。提出書類だけでA4数枚ほどで、それにパスポートが要る。パスポートといっても人間のそれではない。猫のそれである。猫のパスポートというのを始めてみた。体温などの検査もあり、かなり厳重だ。

 フィンランドとの国境に差し掛かる。
 昨年、ロンドン・パリ間を列車で移動した折は、同じEU間ということで、ロンドン側での出国で済んだようだが、ロシア・フィンランドではそうはいかない。人間様も改めてフィンランドへの入国審査が行われる。

         
         
            ヘルシンキ郊外の駅にて 車両は国内線用か

 ペットはというと、またまた今度はフィンランド側の検疫官がやってくる。どうもこちらのほうが検査がきつそうだ。出てゆく側より、これから受け入れる側が厳しくなるのは当然かも知れない。
 やはり、一悶着があった。
 若い女性の方はすんなりいったのだが、老婦人の方で問題が発生した。どうやら、婦人が持参したキャットフードが持ち込み禁止に該当するらしい。だが老婦人は粘る。そのキャットフードの成分表を示し、問題はないと主張する。検疫官は規定の書類を示してダメだと言い張る。相互のやり取りが交差する。こんな場合、負けるのは民の方だ。老婦人はそのキャットフードを没収されることとなった。それによる落ち込みはひどく、それまでの陽気さが嘘のようにむっつりと黙り込んでしまったのは気の毒だった。

         
         
           ヘルシンキ中央駅へ到着したアレグロ号と駅構内

 ここで車窓を紹介しておこう。列車は北欧の原野をひた走る。車窓の両側には白樺林、カラ松、ヒョロヒョロとした幹の赤い松(やはり赤松か)が生い茂り、時折それが途切れると、小麦と思われる畑が広がり、広い牧場が現れる。
 途中さほどの都会はない。ある駅では、同じ長さに伐採された白樺を満載した貨物列車をみた。ある駅では、鉱物資源を運ぶような特殊な貨車が連結された長い列車をみた。

         
                ヘルシンキ中央駅正面
 やがてヘルシンキに近づくにつれ、郊外の街々で人が息づく姿が見え、列車はヘルシンキ中央駅へと吸い込まれるのであった。
 のんびりと降り支度をしてホームに立つ。すると先程の老婦人が、出迎えの娘とおぼしき女性と抱擁を交わしている。通りすがりに「グッド・ラック」と挨拶をすると、先程の落ち込みが嘘のように満面の笑みで娘に私を紹介し、娘もまた笑顔を返してくれるのだった。
 もちろんこの間の会話はすべて異国の言葉、語られた言葉をここに翻訳することはできないが、何が語られたのかはよくわかる瞬間だった。






 
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サンクトペテルブルク・トリヴィア三題「電線の怪」「深〜い地下鉄」「暴走族」

2019-08-15 15:55:39 | 旅行
サンクトペテルブルクには電柱がないにもかかわらず、電線が縦横無尽に走っている怪

 サンクトペテルブルクには電柱はない。ならば電線は地中に埋設されているかというとさにあらず。地上を蜘蛛の巣のように走っているのだ。

         
         
 そして街並みや建造物を写真に撮る際、ほとんどの場合それらが入ってしまうのだ。それをあまり気にしないひともいるが、あいにく私はけっこう気にする方なのだ。
 しかも、この街の電線は半端ではない。まったく縦横無尽に、無政府的とも思える頻度で縦、横、斜めに走っているのだ。そして、どこをどう撮っても煩わしい頻度で画面をよぎることとなる。 

         
         
         
 では、電柱がないのにどうして電線はかくも煩雑に空中を走ることができるのか?それは「電柱がないから」である。え?え?とお思いの方もいらっしゃるだろう。
 その答えは以下の写真にある。そのうちの一枚は、レーニンが演説をぶったという、旧クシェシンスカヤ邸のもので、彼が演説をしたバルコニー横にはしっかりと電線が固定されている。

         
         
 ここでは電線は、各建物から建物へと直結されながら進んでいるのである。だから電柱に沿ってというわけでもなく、街中の道路を横切り、まさに縦横に走るのだ。
 なぜそうなったのか。おそらくここは人工的に作られた街で、建物と建物の間が密集していて、電柱が必要なかったからではないかと思うのだが、ロシアの他の街ではどうなっているのかはわからない。

サンクトペテルブルクの深ぁ~い地下鉄と遠い駅間

 この街の地下鉄は世界で一番深いところを走っていて、平均は地下60m、一番深いところで86mもある。ネヴァ川河口の三角州に開けたこの街では、逆にうんと深い地層を通す必要があったのだという。
 地上からホームへの連結は、さすがに階段はなく、といってエレベーターもなく、もっぱらエスカレータによる。このエスカレーターが実に長い。深さ60mで角度30°とすると、その距離は120mとなる。

            
         
 で乗ってからどのくらいかかるかというと、エスカレータの速さは平均して分速30mだそうだから、たっぷり4分はかかる。ちまちましたところで、けっこうせっかちな生活をしている私たちの感覚からしたら、この4分間はけっこう長く感じる。いらちな人には耐え難いかもしれない。
 エスカレターの幅は、日本と同じく二人が並べるほどであり、当然のこととしてその隅に立つようにしていたのだが、ここの人たちはいらちが少ないせいか、ほとんど横を追い抜いてゆく人はいない。なかには新聞など読んでる人もいる。スマホもいたかな。
 世界でも優美な地下鉄ということだが、ホームの写真や電車の写真を撮り忘れた。緊張していたのだろう。

         
         
 ところで、この地下鉄、駅間の距離が実に長い。他の街の地下鉄はよく知らないので名古屋に例を取ると、名古屋駅から東山公園までは途中8箇所の駅に停車し、東山公園は9駅目となる。しかしこのサンクトペテルブルクの地下鉄の感覚では、東山公園は4駅目、下手をすると3駅目ぐらいなのである。
 だから、ここならこの駅が近いだろうと目星をつけて降りたところから、日本の地下鉄ひと駅分を歩くなどということはザラである。数回利用したが、一番近いのはホテルから駅までで、それでもバス停ひと駅分はあり、その他のところでは、目的物が駅の間近にあったことはない。
 おかげでよく歩いた。サンクトペトロブルク三日目は最終日とあって、できるだけ多くのものを観ようと欲張った結果、何回かの地下鉄を利用しながらも、な、なんと歩いた歩数は26,268歩!! 距離にして15.7Km!! 齢80のジジイがほんとうにこれだけを歩いたのだろうか!
 野次馬根性というエネルギーは凄まじいものがあると自分でも感嘆している次第!

人々の列の間を走るサンクトペテルブルクの暴走族
 
 ネフスキー大通りは、パリでいえばシャンゼリゼに相当する。広くとられた車線を車はひっきりなしに通り、両側の歩道は人が途切れることはない。
 私はそれを北上し、突き当たったドヴォルツォヴィ橋でネヴァ川の対岸に至り、そこから昨日観たエルミタージュなどの全体像を観ようと思っていた。歩行はスムーズであったが、北上する車列は渋滞し、クラクションを鳴らす車、諦めてUターンして戻る車などもあった。

https://www.youtube.com/watch?v=Aku0sLq9NGM【動画】
 対向車線の車も来ない。しばらく行くと、渋滞の先頭を何台かのパトカーがガッチリ抑えて規制している。どうしたのかなぁと思っていると、前方から騒々しい音が聞こえる。
 歩道は自由だからさらに歩を進めると、その騒音はおびただしいバイクの発する音響であることが確認できた。このバイクたちは、ネフスキー通りがネヴァ川に突き当たる地点、かのエルミタージュの西側をを制覇し、わがもの顔に走り回っているのだ。
 見ると、反対車線のドヴォルツォヴィ橋からくる車も、パトカーによって完全に静止されている。こうして自由になった空間をバイクたちは行ったり来たりしている。いわゆる、暴走族である。

https://www.youtube.com/watch?v=U3VhTNcOcRw【動画】
 ただし、日本の暴走族と違うのは、彼らはただ走り回るだけで、それ以上のことは決してしない。だから添付した動画のように、彼らが走る両側を、市民や観光客がとりまき、歓声をあげたりして見物している。
 おそらく走り始めて2、30分してからだろうか、これまで通行車両を規制していたパトカーから威嚇とも思える不快な音響(ロシアのパトカーの音響は強烈な不協和音の合成で、ギョッとするのは日本のパトカーのサイレン以上かもしれない)が鳴り響いた。ほかにもパトカーが結集したようだ。
 それを聞くやいなや、暴走していたバイクがいっせに姿を消し、逆に車道で見物していた野次馬が歩道に戻され、やがて、何ごともなかったように車が通り始めた。
 なんだか、健全な暴走族と、一定の基準を設けた警察当局の規制とで、ヤラセのエキシビジョンが行われているかのようだった。

         
         
         
 去年行ったロンドンではバイクは少なく、自転車が闊歩していた。パリではバイクがわが物顔だった。そして、このサンクトペテルブルクでもバイクが多い。
 私が泊まったホテルの前だけで、カップルのバイカー、ホンダのバイク、ハーレーダヴィットソンを見かけることができた。いずれも宿泊客か、レストランの利用者だ。





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芸術広場と日本人があまり行かない美術館@サンクトペテルベルク

2019-08-14 01:48:52 | 旅行
            
 中央にプーシキンの堂々たり立像があるさして面積が広くもない楕円形のミハイロフスキー公園は、芸術広場とも呼ばれている。
 この公園自身にその立像の他に芸術的な要素があるわけではない。その周りの諸施設からしてそう呼ばれているのだ。

 そのひとつがサンクトペテルブルク・フィルハーモニア、クラシック用の常設コンサートホールである。ここを本拠地としているのが、サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団とサンクトペテルブルク交響楽団で、ウィーンフィルとウィーン交響楽団のようにその名前は紛らわしいが、ウィーン同様、サンクトペテルブルクでも、前者のほうが1772年に発足と伝統を誇っている。

         
         
 建物全体を撮し忘れたが、上の写真の左手、木立の向こうのやや赤っぽい建物がそれである。
 ここのウインドを覗くと、ガラス越しに公演を告げるポスターが並んでいるのだが、ロシアのアルファベットを学んでくるのを怠ったせいで、よくわからない。下のものが、モーツァルトとブラームスの曲を演奏するものであることは辛うじてわかった。

         
 さらにその向かい側にあるのが、ミハイロフスキー劇場で、ここはオペラとバレエの殿堂である。
 フィルハーモニアといい、この劇場といい、パリやウィーンに比べると外見は地味で、殿堂という感はないが、内部は4階までのバルコニー席が舞台を馬蹄状に取り囲む堂々たる大伽藍である。

         
 それらの世界に誇るような施設に囲まれた芸術広場であるが、その正面の主客ともいえる場所にそびえるのはロシア美術館である。
 サンクトペテルブルクに来た観光客は、エルミタージュはまず外さないと思うが、このロシア美術館はスルーしがちである。たしかにその知名度には差があるが、エルミタージュがエカテリーナⅡ世の時代から収集された西洋各地の古今の美術品を網羅しているのに対し、このロシア美術館は、まさにロシアの作家のものを展示した「ロシア」美術館なのである。

 ここは外せないと、当初からプランに入れていた。前日のエルミタージュが三時間で消化不良だったので、ホテルをはやく出て9時過ぎに着いたのだが、門のところに大柄なご婦人が頑張っていてダメだと入れてくれない。そして、しきりに時計を指差してなんか言っている。どうやら開館は10時らしい。芸術広場の公園に戻って、あたりを見回しながら小休止を決め込む。

 スズメやハトが物欲しげに足元までやってくる。向こうでパンくずをやっている人がいてそちらへ集中しているのだが、「お前もよこせ」と私の足元を離れないのも居る。ヨーロッパなどで公園の小鳥やリスなど小動物が人懐っこいのは、パンくずをやる習性があるからかもしれない。
 スズメやハトは日本のものとほぼ同じに見えるが、こちらのものはみんなまるまるとして日本のそれより一回り太い。多分この地の寒さからして、皮下脂肪を蓄えなければ冬を過ごせないのだろう。

         
 そうこうしているうちにやっと開館になる。
 なかに足を踏み入れると、最初に大階段が迎えてくれるが、どこか既視感がある。そうなのだ、あのエルミタージュの大階段と構成がそっくりなのだ。あれほどキンキラキンではないのだが。

         
 作品はロシアの作家のものだから知名度はあまりない。だいたいロシアは、その音楽などに比べて、絵画の方では比較的地味なのだ。
 しかし、展示してあるものの端々から、どこかロシア的なものを感じることができる。宗教画にしたところで、カソリックのそれと、イコン重視のロシア正教のそれとは、明らかに違う。

 19世紀中庸から20世紀始めの近代絵画にこの美術館の、まさにロシアの特色がある。
 イヴァン・アイヴァゾフスキーの「第九の波(波濤)」、ヴァシーリー・スリコフの「ステンカ・ラージン」などはかつて「社会主義リアリズム」の代表作といわれたものだが、そうした評価基準が潰え去った現在、ロシア近代表現の別の視野から評価されなおされているという。

         
         
 ここまで読んできて、勘の良い読者なら、「それをいうんなら、あれに触れないのはおかしいだろう」とおっしゃるかもしれない。そう、かつて教科書などにもその作品「ヴォルガの船引き」が載っていたイリア・レーピンの作品である。
 私もそれをお目当てのうちに入れていた。年代からいったら、上記の作品などと同じところにあるはずだがそこにはない。しばらく進んだがやはりない。見落としたかなと戻ってみたがやはりない。

 女性の係員をつかまえてカタコトの英語で尋ねる。「レーピンはどこですか?」彼女は困ったような顔で「それはない」と断言する。「いや、たしかにここにあるはずだ」と食いさがる私。私のヒアリングのつたなさに、彼女は説明に手こずったようだが、結果、理解できたのは、いまモスクワで彼の特別展が開催されていて、レーピンの作品はすべてそちらへ出払っているということだった。

             
         
 がっかりものだが気をとり直して観てゆく。前後するが、ロシアの作曲家の肖像を見つけた。上がボロディンで、下がリムスキー・コルサコフだと思う。
 あと彫像は、おなじみのエカテリーナⅡ世。そして、ロシア版ジャポニズムの作品などなど。

            
         
 美術館巡りは疲れる。ましてやお目当てのレーピンに振られたとあっては幾分のアンニュイが残る。
 しかし、トータルとしては来てよかった。エルミタージュが西方に向かって開かれた、ないしは西方を取り込んだ作品群だとすれば、こちらは紛れもなくロシアの土の匂いを内にもつ作品群である。

         
          鏡のある通路で休憩している私 右の人は関係ない人
 
 ロケーションも、エルミタージュやその前に広がる宮廷広場の様な壮大にして威圧的なものではないが、こじんまりとした芸術広場、その中心に建つプーシキン像を取り囲むように配置されたコンサートホール、オペラハウス、そして美術館となんか私の身の丈にあった情景が好ましく感じられるのだった。




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私の「エルミタージュ幻想」@サンクトペテルブルグ

2019-08-12 14:03:53 | 歴史を考える
         
 いくらロシア革命の痕跡をたどる大昔の左翼少年の感傷旅行とはいえ、サンクトペテルブルクへ来た以上、エルミタージュを外すわけにはゆかないだろう。
 それにここは、ロマノフ王朝終焉の地であり、既に述べたように臨時政府が居着いた場所でもあった。ようするに、革命によって権力が移りゆく、まさにその舞台だったのだから。

         
 もちろん、ここにそれがあることは少年時代から知っていたが、近年になってここをさらに印象づけたのは、アレクサンドル・ソクーロフの映画、『エルミタージュ幻想』(2002年)であった。
 この映画では、監督=主人公が、その姿を見せぬまま、突如現れた19世紀のフランス人外交官キュスティーヌ伯爵に先導される形でエルミタージュの絢爛豪華たる各部屋を巡るという構成で、サンクトペテルブルクを築いたピョートル大帝や、この場所に幾多もの財宝、芸術品を収集し、その豪華さに一層華を添えた女帝エカテリーナⅡ世などの歴史的人物がひょいと現れ、まさに幻想の世界を生み出していた。

         
 この映画は、その内容にもまして注目されたのは、90分間という長さにもかかわらず、ワンカットで、つまり終始、一台のカメラでのみ撮影されたということであった。つまり、カットの切れ目、編集によるつなぎ合わせが一切なかったのである。
 予めそれを知っていた私は、目を凝らして画面を見続けたのだが、ラスト近く、ヴァレリー・ゲルギエフが指揮するサンクトペテルブルク交響楽団の音楽に、貴族たちの群れが館外へ送り出されて逝く場面まで、それらがどのように撮影され、ワンカットで表現しえたのかまったくわからなかった。

 もっとも、映画撮影の技法にはまったく暗い私にとっては、ヴィスコンティの『山猫』の冒頭シーン、野外から建物を俯瞰していたカメラが、窓からスーッと入って屋内を写し始める方法すら、何度観てもわからないのだが。今なら、ドローンを使って容易に可能なのだろうが。

         
 それはさておき、この映画は革命遺跡・サンクトペテルブルク・エルミタージュへの私の関心を一層掻き立てるものだった。革命の舞台を、そして、ナチスドイツ軍の900日の包囲に耐えて守り続けたその収蔵品を、この目で見てみたいという欲望はいや増しに高まったのだった。

         
 一言でいえばそれは壮大だった。
 まず全体のロケーション。エルミタージュの中心冬宮前の宮殿広場は、モスクワの赤の広場、北京の天安門前の広場に伍するような広大さを誇り、その広場の中心に立つアレクサンドルの円柱(ナポレオン戦争に勝利したアレクサンドルⅠ世を賛美した47.5メートルの円柱の塔)を挟んだ向こう側には、半円形の長大な建造物、旧参謀本部が横たわっている。

            
         
 なお、この宮殿広場は、1905年1月、ガボン神父に率いられたまったく平和で素朴な要求を掲げた請願デモに対し、その数の多さ(約6万人)に仰天したのか皇帝の軍隊が発泡し、少なめにみても、1,000人(多めには4,000人とも)が死傷した「血の日曜日事件」の現場である。
 その結果として皇帝崇拝への幻想は一挙に払拭され、1917年の革命の遠因になったといわれる。
 
 エルミタージュそのものの構成そのものも壮大である。一般に、エルミタージュというと、エメラルドグリーンと白の華麗な外壁をもつ建造物をイメージしそうだが、その部分は冬宮であって、エルミタージュの一部に過ぎない。エルミタージュ全体の構成は写真とともに説明しておくのでそちらを参照されたい。

         
 ネヴァ川対岸から観たエルミタージュ その壮大な構成がみてとれる 写真左からエルミタージュ劇場   旧エルミタージュ(薄茶色) 小エルミタージュ  冬宮殿 と続き、新エルミタージュは旧エルミタージュの背後にある 

 その冬宮を中心とした部屋に、エカテリーナⅡ世が収集した古今東西の美術品が展示されているのだが、それらは古代エジプト・ギリシャの遺物から西洋の中世の宗教画、古典派から印象派に至る絵画など枚挙にいとまがない。
 それらをちゃんと観て歩くとひとつに1分をかけるとして何年にも及ぶとのこと、駆け足旅行者の私には望むべくもない時間を要する。

         
 それらは、ダヴィンチ(2点)、ラファエロ、カラヴァッジオ、グレコ、ベラスケス、ゴヤ、ルーベンス、ダイク、レンブラント、ルノワール、セザンヌ、モネ、ゴッホ、ゴーギャン、ルソー、マティスとビッグネームのみ挙げてもきりがないくらいだ。
 ここでは、私が一度本物に会いたいと思っていたカラヴァッジオの「リュートを弾く少年(若者)」を載せておこう。なお、この絵の下方にある楽譜は、いまでもそれを見て弾くことができるほど精巧かつ正確に描かれているという。

         
         
 エルミタージュは、ロマノフ王朝後期に開花した壮大な徒花ともいえる。そこには伝統と押し寄せる新しい波との葛藤があり、エレガンスとヴァイオレンスの相克があり、文化の芳香と軍靴の響きが共存し合う空間が開けていた。
 1917年のロシア革命は、一旦はそれらの矛盾をひとつに収拾し、新たな開けへと向かうはずだったが、それが実際にはどのように終始したかは今日では周知のとおりである。

         
 孔雀を中心としたからくり時計 長い間止まっていたが、その仕組みの解明にによって次第に正確な時刻を刻むようになってきたという

 しかしながら、それはどのように総括されているのだろうか。日本の戦後史について、亡くなった加藤典洋が指摘していたように、ロシア革命とその終焉の歴史、その中にあるねじれもまた、放置されたままではあるまいか。
 私は、自分史との関連で、この問題領域の周辺を容易に去ることはできない。
 今回の旅は、私なりの執拗さがなしたものだと、改めて感じている。

         
 歴史には、質量があり、アウラがある。
 それがサンクトペテルブルクの地を踏んだ実感であった。
 そしてそこでは、20世紀初頭を幻視する私がその痕跡の鮮やかさに圧倒されながら徘徊しているのだった。



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巡洋艦オーロラ号の数奇な足跡を巡って @サンクトペテルブルグ

2019-08-10 11:56:10 | 歴史を考える
         
 ネットや書物では見ていたが、現物を目の前にして気品があり美しいと思った。とはいえ、相手はれっきとした兵器、戦前の幼年期に零式戦闘機に憧れをもったことはあるが、以後、兵器に対してはそうした感情はもったことがない。
 にもかかわらず、眼前の巡洋艦オーロラ号にそうした感情をもったとしたら、この艦が経てきた数奇な運命を予め知っているからだと思う。

 サンクトペテルブルクはネヴァ川河畔に、それは係留されていた。たしか、戦の任務から解かれてもう100年近くになるのだが、それは端正な姿のうちにあまたの歴史の痕跡を秘めたまま、そこに厳然としてあった。

         
    添えられた銘板には「アヴローラ」とあるが、これはロシア語でオーロラを意味する
 
 今回の六十数年前の左翼少年のサンクトペテルブルク訪問に関し、前回のレーニンが演説した旧クシェシンスカヤ邸のバルコニーと、このオーロラ号は絶対に欠かせない箇所であった。それは後述するように、ロシア革命の最終段階において、この戦艦の果たした役割が決定的だったからだ。

         
 この戦艦は日本語表記ではオーロラ号であるが、ロシア語ではアヴローラという。意味はともにオーロラで構わない。
 巡洋艦オーロラ号は1897年にサンクトペテルブルクの造船所で建造された。
 この艦の最初の出番は日露戦争で、バルチック艦隊の一員として日本へと向かったのだが、サンクトペテルブルクを出港していくばくもしないバルト海で、日本の水雷艇が迫っているとの誤った情報により、艦隊のうちの二艦がイギリスの漁船を誤射してしまう。これはイギリスに対するロシア側の謝罪と損害賠償でケリが付いたが、なんとこの際の流れ弾がオーロラ号を傷つけたという。

         
         
           艦首に翻るのは旧ロシア海軍の軍艦旗
 
 そして1905年5月には、日本海海戦で日本の連合艦隊と対峙し、バルチック艦隊は敗北を喫する。オーロラ号は艦長が戦死し船も損傷を追うが、かろうじて脱出し、フィリピンの港で補修し、帰国する。

 この艦の次の出番はロシア革命時、1917年である。サンクトペテルブルクにいたオーロラ号では、艦内に水兵によるソビエトが組織され、レーニン率いるボルシェビキに同調していた。
 ロシア海軍の兵士たちが革命的であったのは、エイゼンシュタインの映画『戦艦ポチョムキン』にも描かれているし、また後の、「クロンシュタットの反乱」も水兵たちによるものだった。もっともこの最後の例は、レーニンたちのソビエト運営に反旗を翻したものだったが、革命政府はそれを武力で鎮圧したのだった。

         
      この艦の係留地点の近くに、日露戦争での戦没者の慰霊碑が建っていた
            
 この辺り一帯が、現在も海軍関係の施設が多く、これは海軍士官学校の入り口 そのせいもあってセーラー服姿のまだあどけなさの残る士官学校生徒もちらほら 彼らが戦場に出る日がないことを願う
 
 オーロラ号に戻ろう。10月17日の蜂起で、ボルシェビキの勝利は濃厚だったが、なお、中途半端なケレンスキー率いる臨時政府というものが冬宮に本部を置いていて、ボルシェビキの印刷所襲うなどの反抗を繰り返していた。
 それに対し、10月25日、このオーロラ号の砲撃を合図に、ボルシェビキ軍が冬宮へと進撃した。冬宮では、臨時政府がなす術もなく鳩首会談を繰り返していたが、ボルシェビキ軍が突入した際、首班のケレンスキーはかろうじて脱出し、その他のメンバーは全員その場で逮捕された。

         
            
         
 ケレンスキーの臨時政府が本拠にしていた冬宮、孔雀石の間 並びにそれに続く部屋 銘板が添えられていたが、暗いところでフラッシュ禁止のためボケてしまった 見学する人も部屋の豪華さに見とれて、そこが歴史的事件の現場であったことには興味がないようだ

 ケレンスキーが逃亡する際、女装をしてアメリカのジャーナリストの車で逃げたという説もあるが、確認はされていない。
 なお、ボルシェビキ軍が突入した際、臨時政府が陣取っていたのは冬宮の「孔雀石の間」という部屋で、私はそれを確認してきた。

 オーロラ号の話はまだ尽きない。
 1941年から44年まで続く900日間のナチスドイツ軍の当時のレニングラード包囲のなか、もはや戦艦としての使命を終えて、練習船としてネヴァ川河畔に係留されていたオーロラ号に対するドイツ軍の攻撃は執拗で何次かにわたり、ついに沈没(といっても水深が浅いため着底)の憂き目を見ることとなった。
 その後、浮揚され、大規模な改修が行われ、しばらくは練習船として利用されたが、1956年以降は「記念艦」として一般公開されて今日に至っている。

         
 その艦を眼前にして、私のうちでの幻視幻聴は、ネヴァ川の川面を揺らす砲撃音であり、それを合図に、労働者や農民、兵士からなるボルシェビキ軍が冬宮へ殺到する場面であった。
 そしてそれは、六十数年前の左翼少年の私が見た夢とまったく同じであった。まるで私は、その幻視幻聴を再確認するためにサンクトペテルブルクくんだりまで来たかのようであった。

 その折の彼らの行為が後世からみてどうだったのかは厳密に検証されるべきだとは思うが、しかし、当時のペトログラードの街を駆け回った人々の、自分たちの未来は自分たちの手でという思いは、否定すべくもないと思うのだ。
 むしろ、バタバタしたってどうせ現状は変わらないのだからという取り澄ましたニヒリズムのうちで暮らす現今の私たちより、よほど純粋だったと思いたい。
 こういうロマンチシズムはやはり反動的な思いに過ぎないのだろうかと自問はしている。
 それにしても、数奇な歴史を生きてきたオーロラ号はとても美しく輝いていた。








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バルコニーからの言葉 レーニンの「四月テーゼ」@サンクトペテルブルグ

2019-08-09 12:12:00 | 歴史を考える
 1917年2月、ロシアで2月革命が勃発し、ロマノフ王朝の専制政治が倒れたことを知ったレーニンは、亡命先のスイスから急ぎ帰国することとなった。帰国にはドイツ領内を通過せざるを得ない。しかし、当時ロシアとドイツは第一次世界大戦で敵国の関係、 そこでレーニンはドイツと交渉し、列車での通過を認めさせる。

 その背後にあった事情は、当時の国際的労働者運動の組織、第2インターナショナルの各国幹部が、戦争が始まるや自国政府の方針に従い戦争に賛意を表するナショナリストへと戻るなか、レーニンなど少数の社会主義者のみがインターナショナルな立場を堅持し、戦争そのものへの反対を表明していたことが大きく関わっている。
 つまり、ドイツは、レーニンをロシアに送り込むことによって、対ロシアの東部戦線の圧力を回避できると踏んだわけである。

         
         
 旧クシェシンスカヤ邸には二つのバルコニーがある 上は邸の側面で道路に面したもの 下は正面玄関上のもの さてレーニンはどちらで演説をぶったのか 片言の英語でかろうじて確認した結論は道路側とのこと そうでなくっちゃ ちまちまっとした玄関前ではなく道路いっぱいに広がる民衆に話してこそ絵になるというものだ

 そんな事情が絡んで、レーニンはドイツ領を無事通過し、ロシアへと戻ることが出来た。これが、いわゆる「レーニンの封印列車」のエピソードである。

 ロシアへ戻ったレーニンが最初に着手したのが、この革命をどんな方向に向かって進めるかの方針の表明であった。「四月テーゼ」といわれるそれを、彼は論文として発表すると同時に、旧クシェシンスカヤ邸(現:政治歴史博物館)のバルコニーから、道路に溢れる民衆に向かって訴えかけた。

            
                  
 ここは著名な観光地ではない だから人影もまばらで閑散としてる 観光客というよりロシアの若い人たちが歴史探訪に訪れているのだろうか 私のようなジジイの東洋人は珍しい客といえる 下はバルコニーを少し違うアングルから 

 その内容は簡潔にいえば次の二点になる。
 1)国家が君たちに武器をもたせ、彼らを撃てと他の国の民衆を指差すとき、君たちはその銃口を、君たちに銃をもたせた者たちに向けるべきである。なぜなら、他の国の民衆は君たちの敵ではなく、君たちに銃をもたせた者たちこそ、君たちの真の敵なのだから・・・・「帝国主義戦争を内乱に!」

 2)革命によって宙ぶらりんになっているすべての権力を、労働者、農民、兵士からなる自治組織ソビエトへ集中しよう・・・・「すべての権力をソビエトへ!」
 これが、革命成立後、この国が「ソビエト社会主義共和国連邦」といわれることとなった理由である。

 ここで私見を挟むなら、私はこれらの方針は正しいと思う。ただし、残念ながら、すべての権力はソビエトのものとはならなかった。その点を、1919年のドイツスパルタクス団蜂起の際、カール・リープクネヒトとともに虐殺されたローザ・ルクセンブルグも当時、既に鋭く批判をしていた。

 では権力はどこに行ったのか。共産党のもとにである。この遠因はレーニンの『何をなすべきか』という著作のなかに記されている党組織論にある。
 それによれば、労働者や農民の自然発生主義には限界があるから、それによるのではなく、意識した前衛集団=党によってすべてが執り行われる必要があるとするものであった。

 これにより、権力は共産党の一極支配のもとに置かれ、ソビエトは党の方針を伝達するのみの機関になってしまった。そしてそれが、党独裁、後のスターリン独裁を生み出してしまった。
 ここでは詳論しないが、西洋がになうプラトン以来のイデアリズムの一つの帰結がここにあるといえる。

         
         
 おなじみマトリューシカのお土産店 めったに土産を買わず、しかも自分のためのものは買わない私だが、ここでは迷わず下のものをゲットした このお三方、いわずとしれたレーニン、スターリン、そしてプーチン ロシア革命後100年間の歴史が、この三体に凝縮されている 別に彼らを崇拝しているわけではありませんからお間違いなく

 この街はトラディショナルな建築様式を重んじていて、それだけに100年ほど前の状況を容易にオーバーラップすることができる。
 このバルコニーでレーニンが演説し、労働者や農民、兵士たちが、冬宮をめがけて駆け回ったあの日々、ジョン・リードの叙述に見られるように、そこには革命的ロマンティシズムが息づいていた。それらが暗転することも含めて、歴史のリアリズムが街のあちこちに刻印されている。

 四月テーゼ発表後、レーニンは反対派からの「ドイツのスパイ」呼ばわりにより、身の危険を感じて一時、フィンランドへ列車で逃れることになる。
 私も、この街での終りは列車でのヘルシンキ行きになる。
 ただし、この街を離れる前に、まだまだ見ておくべき事柄が多い。

 次回は、ロシア海軍の巡洋艦、オーロラ号をめぐるその数奇な運命について述べよう。日露戦争とロシア革命の二つのエポックを生き抜いたこの軍艦についてだ。
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六十数年前の左翼少年の感傷旅行 for サンクトペテルブルク

2019-08-08 17:05:56 | 旅行
 サンクトペテルブルクという都市を初めて知ったとき、ここはレニングラードと呼ばれていた。ただし、私が書物の中で読んだそれはペトログラードであり、そう呼ばれていたのは第一次世界大戦以降の1914年からレーニン死後に、レニングラードと名付けられたわずか10年余に過ぎない。ことほどさようにこの都市の名称は三転四転して、それはまた、この都市がどのような状況を生きてきたかをも現している。

        
        
 ヘルシンキで乗り換える 私は乗れなかったが去年お目にかかった作曲家、シベリウスの楽譜とサイン入りの空港のシャトルバスに今年もお目にかかった
 
 ペトログラードと呼ばれたその10年の間に、まさに世界を揺るがせた大事件、ロシア革命が起こっていて、少年ながら時代の閉塞を感じていた六十数年前の私は、当然のようにそれに関心をもち、その革命の終始に触れた書物に目を通しながら、密かに胸踊らせたものである。
 
 それらの書は、ジョン・リードの『世界を揺るがした10日間』であったり、E・H・カーの『ボリシェヴィキ革命』であったり、あるいは当時の「正当左翼」からは禁書扱いであったトロツキーの『ロシア革命史』であったりした。
 とりわけ最後のそれは、当時の角川文庫全10冊で、仲間内で回し読みをし、一巡して帰ってくる頃にはぼろぼろになっていた思い出もある。

        
 サンクトペテルブルク郊外のプルコヴォ空港 1941年~44年のナチスドイツ軍の包囲作戦の最前線基地 都市中心部から17キロ地点

 まだ、その革命の去就について詳細を知りえなかった少年後期の私は、ボリシェビキの権力奪取の課程のみを講談本にも似た思いで、手に汗握って読みふけった。
 それはまさに、他ならぬ庶民、労働者や農民、兵士たちが権力を握り、自分たちの未来の開けのためにそれを行使するという、夜明けを告げる物語であった。人類が自覚的に自分の歴史を創造するという初めての試みだと思った。

 いまとなって、まだそれをいうかといわれそうだが、それはそれで正しかったというほかはない。
 ただし、それが私が夢見たようにはならなかったという厳然たる事実は捻じ曲げることは出来ず、それはそれで深く総括されねばならないことはいうまでもない。

        
           ホテルの向かいの建物

 繰り返すが、六十数年前の私にとってはそれに思いい至るすべもなく、ある種のロマンスとしてそれらの物語を受容したのだった。そしてその舞台こそが、このペトログラード、いや、いまの名はサンクトペテルブルクなのである。


 西に向かって開かれているというロシア第二の都市(人口は約500万)サンクトペテルブルクは、おなじみのエルミタージュ宮殿を始め、後期ロマノフ王朝の絢爛豪華な建造物やそこへと収集された世界からの財宝、とりわけ美術品の数々でよく知られている。
 また、この都市は、1812年のナポレオンによる侵攻を撃退し(チャイコフスキーの『序曲1812年』はこれによる)、1941年から44年まで続いたナチスドイツ軍による900日間に及ぶ包囲戦を、多くの餓死者を出しながらも耐え忍んだ歴史をもつ。

 豊富な歴史的エピソードに彩られてきた都市だが、その歴史は意外と浅い。この都市は、おおよそ300年余前、フィンランド湾に面したネヴァ川河口のデルタ地帯にピョートル大帝によって人工的に作られたもので、旧市街は宮殿を要に扇状に広がり、各幹線道路もそれに即して扇の骨のように各地方へと展開している。
 教会の尖塔などを除いたら、あまり凹凸のない建築物が並んでいて、気持ちのいい街並みといえる。

        
        
        
           公園内を通る人々 その服装に注目されたい 

 この街に3日間、正確には2日半ぐらい見て歩いたのだが、随時その記事を掲載したい。
 なお、宿泊したホテルは小公園に隣接していて、朝夕通勤時にはここをショートカットして通る人、犬を散歩させる人などが往来するのだが、その服装を見てほしい。日本でいうなら完全に冬の出で立ちである。そうなのだ、38度の名古屋を発って来た私には信じられないような気温だった。

        
       ホテルへバイクで乗り付けたカップル 大音量で音楽を流していた

 朝夕は8~9℃と10℃を下回り、最高気温が20℃に至らないのだ。その点で私は持参する衣類の選択に完全に失敗した。いくら緯度が高くとも季節は夏、とばかりにTシャツにポロシャツ程度を準備したのだが、それらを着ることはまったくなかった。
 念のためにと持参した冬用の長袖のシャツ一着とサマージャンパーにずーっとお世話になったのだった。
 もちろん、予め気候などを調べてはおいたのだが、それをも大幅に下回る寒さだった。

        
        
         ホテルの食堂では、朝夕、薪の暖炉が焚かれていた

 昨日、7日に帰国したのだが、「しまった、帰ってくるのではなかった」というぐらいの暑さ、しかも、湿度が半端ではない。今日8日も同様だ。

【この都市の呼び名の整理】
 1703年 ピョートル大帝がモスクワからここへ遷都 サンクトペテルブルク
 1914年 ドイツとの開戦によりドイツ風を改めペテログラードにする
 1924年 レーニンの死に伴いその名をとってレニングラードに
 1991年 ソ連崩壊に伴い、最初のサンクトペテルブルクへ
 
 
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