私が紅顔の美少年であった頃(むろん、今もその面影をとどめているが)、ある少年雑誌で「少年発明コンクール」というものがあり、その二席に入ったことがある。
発明といっても、具体的に物を造るのではなく、
「こんなものが出来たらいいな」という夢を描くものであった。
私のそれは、枕の中に本を入れて眠ると、翌朝にはその本の内容がすっかり頭に入っているというもので、それに関する私のコメントと、その枕の内部構造の図解が掲載された。
さすが六、稀代の勉強家にして初めて考え得るものだとお思いになった方は
大外れである。実は全くその逆で、その頃、
少年のはじけるような生命の躍動をひたすら享受していた私には(まわりくどいっ!ただ遊びほうけていただけだ)、勉強や宿題のために費やす時間など全くなかったのである。
ようするに、私の発明と称するものは、
手抜き勉強法の具体化を夢見たに過ぎないものなのだ。まことにもって、
「必要は発明の母である」。
その遊びほうけていた報いが今日仇をなしている。いろいろ知るべきところがぽっかりと
穴になって残っているのだ。だから、この年になってから勉強を始めたりしている。
あからさまにいえば、
もはや手遅れもいいところだが、あの世とやらへいって
閻魔と対決する折り、おそらく私の犯した罪として彼が列挙するであろうものに対し、逐一、反論することが出来るぐらいの自己合理化の手法は身につけておきたい。
地獄でバーベキューになるより、天国の蓮の花の上でワインかなんかすすっていた方が良いに決まってる。
そこで、今になってあの少年の日の「発明」を思い出した次第である。なんたって歳とると、ちょっと小難しいものを読んで理解しようとすると、時間がかかってしょうがないのだ。
これは、ある友人に聞いた話だが、フランスの哲学者、
ミシェル・フーコー(1926~84)という人は速読の天才だったらしい。
ある日、彼が図書館で書物をぺらぺらめくっているので、知り合いが、
「なにかをお探しになっていらっしゃるのですか」と尋ねたところ、
「これを読んでいるのです」と答えたのだそうだ。傍目にはただ、次々とページをめくっているに過ぎないように見える行為が、なぜ、読んでいることになるのだろうか。その秘密はこうだ。
私たちが書を読む場合、それが縦書きにしろ横書きにしろ、行を追って
線状にそれを読んで行く。しかし、フーコーの場合はそうではないのだ。彼はそれぞれのページを
面として即座に読みとり、内容をも理解することが出来るというのだ。斜め読みとも違う。斜め読みはざっととばして読む読み方だが、フーコーの場合はそうではない。繰り返すが、文字の集合を瞬間に面として読みとり、しかも内容まで理解するのだから、斜め読みというより
「面読み」というべきだろう。
私にとっては、本をペラペラめくってなにかを読みとったという経験は、子供の頃によくやったペラペラ動画しかない。
しかし、これはいささか病的ではあるまいか?確か、昔、
フロイトの『精神分析入門』かなんかで、似たような話を読んだような記憶がある。
おぼろげな記憶だが、それによると、ある中年の女性がヒステリー症状を起こし、その際、
訳の分からない外国語のようなものを延々と話すのだそうだ。しかし彼女はいかなる外国語をも学ぶ機会をもたず、従って、それを話せるはずがないにもかかわらずである。
しかし、詳しく調べてみると、彼女が話していたのは間違いなくある外国語であり、ついにはその出所まで分かったというのだ。
なんとそれは、
彼女が買い物かなんかをした際、包装紙代わりに使われていた外国の新聞に載っていた記事であり、彼女はそれを暗唱していたのである。それにしても、その言語の素養がない彼女がなぜそれを記憶しえたのか、それが先ほどのフーコー同様の
「面読み」だったからである。
なぜそんなことが起こったのかの説明としては、彼女の身の上になにか精神的にショックな出来事(トラウマ)があり、その際、たまたま目にしていたその記事が、彼女の記憶に刷り込まれてしまったというものだった。
例えていうならば、私が買った焼き芋の袋が
『ニューヨークタイムズ』の古新聞で出来ていて、せっかく買った焼き芋を熱さのあまり取り落としそうになり
(精神的なショック)、ハッとした瞬間に、その袋の記事に目が行き、ろくすっぽ英語が読めない私が
瞬時にしてその記事を記憶してしまったようなものなのである。
しかし、私も彼女も、多分、その字面を記憶して暗唱しうるのみで、内容を理解しうるわけではない。そこがフーコーとの違いであろう。しかも、フーコーは何のショックも必要とはしないのだ。
この女性に関する話は、40年ほど前の私の読書の記憶であるから、出典、内容とも曖昧であり、不正確ではあろうが、どこかにそんな話が出ていたことだけは確かである。
さて、こうしてみると、
私の少年の日の「発明(妄想?)」もまんざら捨てたものではない。ようするに、枕の中で本のページを順に繰りながら、その都度、精神的なショックを与えれば、それが実現するのかも知れないのである。
結果的にいって、
私の「発明」を評価した少年雑誌の編集者は、慧眼の持ち主だったというべきだろう。ただし、惜しむらくは私を二席にしか評価しなかったことである。
ちなみに、一席と二席では景品がうんと違ったのだ。私が貰ったのは、『ひよどり草紙』など、吉川英治が書いた少年少女向けの小説本の数冊のセットであったが、一席は確か、自転車だったような気がする。半世紀以上前の自転車がどれほどの価値をもっていたかを、今さら述べ立てたところで愚痴になるだけだからやめておこう。
で、書物を面として読むということだが、自分が書いたこの文章を見ているだけで目がクラクラするのだから、私にはとても無理である。
もちろん、
書を読んで理解するということは、そうした単なる刷り込みに還元できるものではない。フーコーのそれはまた別のレベルのものであり、たぶんに伝説化された匂いがする。
だから私は、かのヒステリーの女性と同様のレベルであることで満足するのだ。
私に似合わず、とても謙虚な結論になってしまった。