六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

編集会議、藤田嗣治&「ハイル・ヒトラー」

2016-06-25 11:57:12 | 日記
 写真は6月23日の名古屋。

 6月23日、雨が上がったので自転車で岐阜駅へ。
 考えてみたら、今月2回目の名古屋行きだ。
 以前は名古屋での仕事を辞めてからでも、月に5,6回はでかけていたのに。
 行動範囲の減少は老化の指標と肝に銘じる。

  
 
 その代わり、出かけたら一度にいろんなことをこなす。
 この日の最初は、所属する同人誌の会合。
 情報交換と次号(秋に予定)のための打ち合わせ。
 もう次号の原稿がほとんど出来上がっているという私より年長の人の報告に焦ることしきり。
 私の場合は、あと一冊の参考書を(これがけっこう難解)を読まなければ書き出すこともできない。

  

 会合の後、昼食を摂りながらの歓談。
 同人各位の人脈は、誰をとっても私より広くて深い。
 私が沈潜していた期間も、この人たちは活躍していただとしみじみ思う。

  
 
 昼食後散開。
 私の次の予定は、名古屋市美術館での藤田嗣治展。
 時間があったから栄から伏見まで歩く。

  

 藤田の絵は、これまでの展示や、もっている画集でほとんどがなじみのものだが、現物を見るのははじめてのものも多い。そのうち、とくに関心があるのは「戦争画」だ。
 今回は、「アッツ島玉砕」、「ソロモン海域における米兵の末路」、「サイパン島同胞臣節を全うす」を見ることができた。

  

 今日の私の目から見たら、これらはとても戦意高揚にはみえないが、当時においては、この絵の鑑賞には脱帽が強いられ、観る人が手を合わせ、賽銭まで集まったというから絵画が表現しているものというより、それに付加された意義付けのようなものが、戦時においてある機能を果たしたことは否めないであろう。

  

 今回、私が気に入ったのは後期の風景画である。白を基調としたそれらは、人物や状況をえがいたそれよりも、どこか超越した即物性(もちろん藤田の感受性をろ過してのものだが)があって、面白いと思った。

  

 その後は映画である。
 観たのは『帰ってきたヒトラー』(2015年ドイツ)という映。これは2012年にドイツのベストセラーになった同名の小説(ティムール・ヴェルメシュ著)をデヴィット・ヴェントが映画化したもので、文字通り、1945年5月、ベルリンの地下壕で自殺したアドルフ・ヒトラーがタイムスリップして現代のベルリンへ現れるというもの(原作では2011年の出現ですが映画では14年の出現)。
 役者などの撮影クルーがそのまま街頭に出るなど映画手法としても面白い試みがなされているのだが、問題は、ヒットラーが蘇るという事実が、どのように受容されるのかにある。

  

 未見の人のために詳細は書かないが、「瓢箪から駒」というか「嘘から出た真」というか、一筋縄ではゆかない怖さをもった作品だ。
 戦後70年余、いまや世界のどこでも差異の拡大やそれに伴う排除の動きが見られるが、この映画のバックグラウンドにも明らかにそれがある。そしてそれが怖い。

  
 
 ヒトラーについては今勉強しているところで、いずれこの映画も引用した形で一つの文章にまとめたいが、後半に彼=ヒトラーがいう、「私は君たちによって選ばれた!」「君は私だ!」というセリフだけは紹介しておこう。

  

 帰途、安いイタメシ屋で赤ワインなどすすりながら一日のまとめを手帳にメモ。
 まあまあ充実した一日だった。
 それにしても疲れた。
 あちこち徒歩でほっつき回ったせいで、歩数計は1万近くを指していた。








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マサキの花とある種の屁理屈

2016-06-21 18:02:20 | 花便り&花をめぐって
 私の二階の部屋のデスクの真ん前はいま、緑一色に輝いている。
 梅雨の晴れ間のそれは、眩しいくらいに私の視線を占領する。
 周辺の切ないことや自分自身の近未来への不安が鬱積するなか、しばしの慰めを与えてくれる。

       
 
 もっと若くてとんがっていた頃、花鳥風月に慰められるなんてある種の逃避だと思っていた時期がある。
 もちろん、それらの美しさ、造形の稀有さやその魅力に惹かれなかったわけではない。
 しかし、そうした感覚とおのれの直面している問題とを同じレベルで俎上に乗せることは逃避だと思っていたのだ。

 
 
 しかし、最近、年齢のせいかどちらも私なら、それを混ぜあわせたってかまわないではないか、いや、むしろそのほうがリアルではないかと思うようになった。
 花鳥風月はたしかに癒しになる。しかし、それはそれでいいいのではないか。そんなに簡単に現実が消え去るわけではないから、逃避だなどと目に角立てる必要もない。むしろ、切なさや不安な現実をバックにしているがゆえに花鳥風月に接する自分の感受性が増す面もあるのではないか。

 

 もっとも、ほんとうに必死な折には花鳥風月に気を取られることもないかもしれない。
 その意味では、漠然とした不安のなかで、花鳥風月にもそそられるということはそこそこ幸せなことであるかもしれない。
 美しいモノに接すること自体にあれこれ理由を付ける必要はないのだろう。たぶん。

 【今日の教訓】逃避が現実を支え、現実が逃避を彩る。




         
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五嶋みどりさんのことなど

2016-06-19 15:53:25 | 音楽を聴く
                 

 春以来、6,7回のコンサートに出掛けたが、17日の五嶋みどりさんのものでしばし休憩。
 3月以来手がけてきたまとまった仕事が最終段階へ入ってきたのと、新しく文章を書き始めねばならない。後者のためにはあと2冊ほど、参考書も読まねばならない。夏過ぎまではしばらくおあずけか。でも機会があればたぶん出かけるだろう。
 
 五嶋さんの演奏はどれも素晴らしかったが、とりわけ最後のシューベルトの「ピアノとヴァイオリンのための幻想曲 ハ長調 D934」が素敵だった。その情感がストレートに伝わる演奏だった。
 プログラムの曲目解説も彼女自身の手によるもので、なかなか適切であるし、文章家でもあることを知った。多彩な人である。
 
 演奏家としてはむろんだが、社会貢献においてもその好感度は高い。学校や施設を訪れ、子どもたちにその演奏を聴かせるのみか、楽器に触れさせて音が出るその瞬間を体感させるなどの活動を展開している。そのため、年間の演奏機会はゆうに100日を超えるという。
 14歳の折のあのバーンスタインとの伝説以来、彼女は輝き続けている。
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切ない夜景と「闘病激励会」

2016-06-17 14:34:28 | 日記
             

  私んちの2階からの昨夜の夜景。一見街なか風だが、下半分は田んぼの水面への映り込み。左上は駅付近の高層ビル。
 
 田んぼでは蛙が鳴き交わしているが、昔のように殿様蛙や牛蛙がいないのでバリトンやバスがいないやや薄っぺらな合唱。
 
 高校時代からの友人二人からの癌に罹った旨の連絡。そのうちの一人は最短余命三か月とか。15歳の頃からだからもう62,3年の付き合い。卒業後も何かと行き来があり勉強会もしてきた。
 
 親しい友人数名で「お別れ会」をしたいとのことだが、そんな会は嫌だと拒否。「闘病激励会」なら参加すると返事。もう一人、まだ健康な奴もそうしようと同意。近々実現の予定。
 
 最近そんな話ばかりで切ない。老人だからその病状の進行が少しでも遅いことを祈るのみだ。
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加納城址公園にて

2016-06-15 16:39:23 | 写真集
 左手骨折の治療のため、この公園の近くの病院へもう数か月通っています。
 8月以降に再手術をしておしまいになりそうですが、その行き帰りにここへ立ち寄っています。
 少年時代、この近くに住んでいて、この近くの小学校と中学校へ通っていたため、とても懐かしい場所なのです。
 樹木とベンチの写真が多いのですが、なんとなくこの図柄が好きなのです。


 
     
     
 
 
 



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死者が貨幣に還元される「死の商人」

2016-06-13 02:07:50 | 社会評論
 戦争で儲ける人たちを「死の商人」という。
 彼らは当初、戦争という現象に付随する存在であったが、それが力を増すと、自らが生み出す商品=兵器の消費を大幅にアップし、在庫品を貨幣にかえるため、時の政府を動かして戦争そのものを演出するに至る。
 
 戦後日本においては、平和憲法のもと、それらとはほぼ無縁な数十年が続いた。
 ただし、武器の生産や輸出を行う国の下請けとしての地下での取引はあっただろう。

           

 いまやそれが、おおっぴらに国策として行われようとしている。
 経団連と現政権のタッグによる兵器輸出の動きがそれだ。それらはすでに安倍内閣のもとでなかば公然と始まっているのだが、それでもなお、その進展がけだるいとして、こんな動きが始まっている。
 以下は朝日デジタルの記事による。

 「経団連は10日、武器など防衛装備品の輸出を『国家戦略として推進すべきだ』とする提言を公表した。10月に発足する防衛装備庁に対し、戦闘機などの生産拡大に向けた協力を求めている。」

 兵器とは人を殺す装置である。従ってその消費は確実に何人かの死者を生み出すこととなる。そして、それが消費されればされるほど人を殺す商品が貨幣に還元されることとなる。
 だから兵器生産者が「死の商人」といわれる所以だ。

 それが公然と語られ、国策となるような国にいつからなったのだろう。
 今から71年前、300万人の日本人の死者、2,000万人の近隣諸国の死者を前にして、もう殺されるのも嫌だし殺すのも嫌だからそうした体制から離脱すると誓ったのは一体何だったのか。
 
 もちろん殺されるのは嫌だろう。しかし、知らないところで、われわれのせいによって人が殺されるのは平気だという心境にいつからなったのだろう。
 平和というのは、自分さえ無事ならいいということではなくて、「殺されるのも嫌、殺すのも嫌」というごく当たり前の心情に根ざすものではなかったのか。
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おいしい一日 碧南市 「一灯」にて

2016-06-07 17:30:56 | グルメ
 キリンビールの元名古屋支店長高杉さん(定年退職され、現在は大阪にお住まい)とは、ほぼ10年ほど前、そのお得意先の飲食店のルポ記事を書くためのライターとして起用していただいて、2年余ほどご一緒させていただき、その後もSNSなどで交流が続いている仲である。
 その高杉さんが、名古屋へお越しになり、旧知の料理人が碧南で新たに展開された日本料理のお店にお出かけになるとのことで、同行させていただくことになった。
 久々の名鉄電車で、名古屋で落ち合い、碧南の目指すお店へ。

     

 「小袢天はなれ 一灯」というのがそのお店。
 「小袢天」というのは大正9年(1920年)創業というから、まもなく100年になろうという老舗中の老舗の日本料理店。その支店格がこの「一灯」。ただし、後述するように、ただ店を広げたという支店ではなく、独自のコンセプトをもったお店である。

  
 
 オーナーシェフは、知る人ぞ知る東京の料亭「つきぢ田村」で数年の修行の後、さらにいろいろ研鑽を積まれ、現在は本店の「小袢天」を弟さんに任せ、こじんまりとした佇まいながらこの「一灯」で、ご自分らしい料理を提供していらっしゃる長田勇久さんである。
 長田さんは自分のお店以外にも広く活躍の場をもっていて、「南三河食文化研究会」の開催や、自分の出身大学での「愛知の食」をテーマにしたオープン・カレッジの講師をつとめるかたわら、大阪の辻調理師専門学校の特別講師をしたりもしている。

  

 長田さんと高杉さんのご縁は、長田さんらが立ち上げた郷土愛知の野菜を見なおそうという企画に、高杉さん在職当時のキリンビール名古屋支店が協賛したことにはじまり、以来、高杉さんが退職されてからも互いに行き来されるなど、その交わりは深く長い。
 その仲に私も飛び入りで参加させていただいたわけである。しかも、美味しい昼会席付きで。

  

 先にみた長田さんのコンセプトであるが、それは上にみた地の野菜を大切にという企画などに見られるように、郷土の産物と自分の生み出す料理との有機的な結びつきである。
 それらは、野菜を始め、海産物から酒類、調味料とじつに多岐にわたり、それら生産者との人脈も多彩である。いちいち書ききれないので、興味のある方は以下のページをご覧いただきたい。
   http://www.katch.ne.jp/~kobanten/kobanten08.html

           

 いただいた各料理については、私が写してきた写真と、当日の献立を見ていただきたいが、そのすべての料理に、長田さんのコンセプトが生かされていて、それがその確かな腕を通じて誰もが納得をする絶妙な味わいを醸し出している。
 器やそれへの盛り付けも、奇をてらった派手さはないが、それが落ち着いた雰囲気で味へのイントロを損ねることなく、料理そのものの確かな存在感を表現している。

    

 それらの料理を、高杉さんと長田さんの気の合った会話に、私自身も時折、口を挟ませていただくなかで賞味した昼のひとときは、近年になく、おいしくも楽しいひと時であった。
 長田さん、高杉さん、ありがとうございました。
 そして、ご馳走さまでした。





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今年最初のビワの収穫

2016-06-05 18:11:49 | 日記
 梅雨入り宣言、田植えの開始とこの地方ではそれらしい季節を迎えているなか、今年はじめてのビワの収穫をした。ここでの友人たちのところでは、もう一週間も前に収穫をしたとのことだが、わが家の木の位置はあまり日当たりが良くないせいで、この時差なんだろう。

          

 今年は、かなり実がびっしり付いているので、ひとつひとつは小さいのではと懸念していたが、穫ってみるとそうでもない。ばらつきはあるがまあまあの大きさだ。
ただしわが家の木、伸びるがままに放置した結果、高くなりすぎて、上の方は収穫不可能。なっている分の一割も穫れないだろうと思う。

          

 穫れた分は例によって娘が勤める学童保育の子どもたちのおやつになる。子どもたちの喜ぶ顔を想像しながら、老骨に鞭打って、脚立に登って実をもぐ訳だが、しかし、無理は禁物。落っこちたりしたらそのまま寝たきりになる可能性が大だから。
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田んぼウオッチングとかわいい訪問者

2016-06-05 02:27:47 | よしなしごと
 周辺の田んぼが少なくなったと嘆くものをここ2、3回は書いてきただろうか。
 それらは世の移り変わりに沿ったものだからどうにもしようがないのだとは思うが、ここでの住まいがもう半世紀以上になり、もはやここが故郷であり、かつ、終の棲家となってしまったこともあって、ここの原イメージ(田んぼの中の一軒家)のようなものがどんどん変わってしまうことにはやはり寂しさを禁じ得ないのだ。

           

 生涯、10回近くにわたって住まいを変えているが、それらはすべて20代の中頃までで、その内でわりあい長かったのは大垣郊外への6年にわたる疎開生活(1944~50)だから、その印象はいまでも残っている。そこもまた、田園地帯だったことを考えると、田んぼは私の原風景かもしれないなどと考えてしまう。
 
 そんなわけで、居ながらにしての田んぼウオッチングは私の趣味であり憩いと癒やしの時間でもある。だから、今年の春以来、うちの2階から見える田んぼが一挙に10枚近くなくなる(大型ドラッグストアの進出のため)というのは、きわめて不穏当な問題なのだ。

           

 だからして、残された田んぼの動向が例年以上に気になるのだが、この辺の県産米の種類(霜が降りる頃に収穫するから「はつしも」)からして、毎度のことながら田植えも稲刈りも遅い。
 でも、別に同じ品種を「セーノ」と揃えなくてもいいじゃないか、自分のところは違う品種でもっと早く植えて早く収穫するというところがあってもいいじゃないかと思ったりもしていたが、最近、それは不可能なのだということがわかるようになった。

           

 というのは、むかしのように自然の小川から取水をし、田に水を張るのとは違い、U字溝が張り巡らされ、所々に設置されたポンプが必要な時期だけ水を汲み上げて給水するシステムである現状においては、その運用の効率性からいって、各自がそれぞれ勝手に田に水を張ることはできないのだ。給水はいついつからいついつまでと決められたら、その期間に合わせた田植えしかできない。だから、「セーノ」と揃えなければならないのだ。

           

 そうした事情もあってか、この地区では、何日か前からやっと田に水が張られることとなった。そして今日(6月4日)、私がウオッチングしている田でも、やっと田ならしをした。ここはかなり独自のやり方をしているようで(農機具専門の友人からいろいろ感想を聞いている)、それだけにウオッチングのしがいがある。
 写真を見ていただくと、彼がどんな環境のなかで稲作を行っているのかがお分かりいただけるだろう。
 田ならしが始まるとさっそくカラスが現れて、ほじくり出された虫をついばみ始めた。

            
            バックの木々の白や黄色に見える花はすべて栗の花

 じつは、この日、すでに田植えを終えた田んぼを見つけた。私が徒歩で散策する範囲内では一番早い田だと思う。とはいえ、早苗のひょろひょろした感じからして、昨日ぐらいに植えられたばかりだろう。
 年々、容易に見ることができる田が減りつつある状況からして、あと何回か残された(私の年齢も勘案して)田んぼウオッチングの機会を大事にすべきだろうと考えている。

             
        
 田んぼとは関係ないが、写真を撮っていたら、今年はじめて聞くあの小鳥のさえずりが・・・。あの声はと思って目を上げると、黄色いくちばし、黄色い足のあの鳥が、すぐ近くの電線にとまってさえずっているではないか。なによりもこの鳥の特徴はこの深い尻尾の切れ込みだ。スズメより一回り小さいのに、その鳴き声は多彩で面白い。
 そう、カワラヒワとの今年最初の出会いであった。

カワラヒワ、写真は私のものですが、以下の動画と鳴き声はネットから拾ったものです。

 https://www.youtube.com/watch?v=_z8IrAWKFmY







 
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「かくて少年の日は終わりぬ」 六十数年前の運動会の思い出

2016-06-02 02:43:11 | 想い出を掘り起こす
 5月の末日の午後、所要があって岐阜市の役場の南部センターへ自転車ででかけた。
 このセンターは私の出身中学校と隣接している。役場へゆく途中、何やら賑やかなのでふとグランドを見やると、どうやら運動会らしい。
 それを横目に役場へ行き、いくばくかの時間を費やして所要を済ませ、中学校へ立ち寄ってみる。先程までの喧騒に比べてどうも静かだなと思ったら、どうやら競技は全て終わり、閉会式のようだ。でもせっかく来たのだからとそれを見物した。

           

 どうも、全校生徒で数百人ぐらいらしい。やはり見物していた同窓生らしい二人組の女の子に声をかけてみる。
「いまは一学年、何クラスあるの?」
「4から5クラスぐらいかな」
 ついでだから、「私もここの同窓生だよ」といってみる。
「へ~、そうなの」
 と、何か珍しいモノを見るような表情。
「私の入学した年にはここは火事で半分ぐらい燃えてしまって、残った校舎を使って午前・午後との二部授業だったんだよ」
 と、いわずもがなのことをいっていってみる。するとその1人が、
「うちの爺ちゃんもそんなことをいってた」
 という反応。
「じゃ、あなたの爺ちゃんと私は同じぐらいかな」
「ううん、爺ちゃんはそれを知ってただけで、入学した頃にはもう新しい校舎が建ってたんだって」
 だろうなあ。私がここへ入学したのはいまから65年前だものなぁ。

           

 私のときには一学級50人ぐらいで、9クラスあった。
 だから一学年で、いまの全校生徒数に迫っていたわけだ。
 それが、娘の時代には大変だった。別にベビーブームではなかったが、高度成長でこの学区の岐阜の南西部地域が急速に都市化した時代だったからである。
 なんと、一学年のクラス数は19! これでは学校運営もままならない。やがてこの学区は二つに分断され、今に至っている。

           

 舟田町という地名が示すように、学校のすぐ南は開けた田園地帯であった。いまは家並みが建て込んで、もう少し南が田園である。

 運動会ということで、思い出したのが当時の新聞部の活躍である。運動会の模様を速報で出していた。いまのように、パソコンで打ち込んでプリンターという時代ではないから、ガリ版を切り、それを謄写印刷にする。私は新聞部ではなかったが、担任が新聞部の顧問だったこともあって、その配布を手伝ったりした。
 三年の運動会の最後、新聞部が出した運動会号外の最終号には、「かくて少年の日は終わりぬ」という大きな文字が踊っていた。
 たしか、その頃の運動会は秋だった。終わってから、夕日を浴びながら帰途につき、そうなんだ、もう、少年の日は終わったのだと自分にいいきかせていたことを思い出した。

           

 帰途、そんな回想に浸りながら、できるだけ人家のないところを選んで自転車を進めた。いささか感傷的になってしまったようだ。あの遠い昔の、本当に少年であった時代のように。



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