六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

信長はキンキラキンのニーチェなのだ!

2009-09-29 17:44:46 | 写真とおしゃべり
 過日、岐阜駅周辺の整備事業完工の日(9月26日)、仕事がらみの取材をかねて、岐阜駅頭を訪れました。
 といっても、名古屋へ出るときなど常にここを利用しているわけで、改めて行ったというのは利用者の目ではなくレポーターの目として訪れたというわけなのです。

 
            2007年秋 工事中の岐阜駅北口

 1997年、岐阜市民念願の東海道線の高架化が完成し、それまで鉄路で分断されていた街の北部と南部が繋がりました。それを期して岐阜駅周辺の再開発や整備事業が行われてきました。
 駅の南口はいち早く整備されたのですが、表玄関の北口の整備はそれに遅れ、折しも岐阜市制施行120周年の今年、やっと完成し、ついに一連の事業が完結したのです。
 9月26日はそれを祝うセレモニーが行われたのでした。

 
              いち早く完成を見た南口

 今回、完工のラストを飾ったのは岐阜といえばこの人、高橋尚子さん・・・ではなくて織田信長の銅像のお目見えで、その除幕をもって全工程にピリオドが打たれたのでした。
 これを銅像・・・というのでしょうか、何せ、天下の奇将といわれた信長像ですから、そこら近所の銅像とはわけが違うわけです。
 どう違うかは、共同通信が26日に配信した記事を引用してみましょう。

 「天下統一を推し進めた戦国武将、織田信長の金箔の銅像がJR岐阜駅前広場に建てられ、26日、除幕式が行われた。像は高さ約3メートルで、台座を含めると約11メートル。<新しいもの好き>といわれた性格を表すようにマントを羽織り、火縄銃と西洋かぶとを手にしている。」

 
           これが全体像 駅舎の方を向いている

 ここに掲げた写真は除幕式直後のほやほやの写真です。どうです、いかにも信長らしくて面白いでしょう。
 金ピカはちょっとやりすぎだという批判が地元でもあります。あまりにもキッチュだというのです。
 しかし、私はこれでいいのだと思います。ポルトガルの宣教師、フロイスが岐阜の街を訪れ、岐阜城で信長に接見した折の見聞を、彼の書いた「日本史」に見ると、こうあります。
 「三層四階建ての御殿風の天守閣が建っており、その内部は金箔と絵画で飾られた壮麗なものだった。」
 そうなのです、これぞ信長の真骨頂なのです。

 彼にとっては現世で現れるものだけが本当のものだったのです。来世のために欲望を抑圧したり日延べをしようとは思いませんでした。ようするに、現世の背後にある形而上学的なものすべてに「否」を突き付けていたのです。
 フロイスなどの宣教師や、彼のもたらす文物、情報にはおおいに興味を示したのですが、かといってキリシタンの教義に興味を示した痕跡はありません。
 では伝統的な仏教や鎌倉仏教を重んじたかというとその痕跡もまったくありません。それどころか比叡山を叩き、本願寺派の急先鋒、その政治進出をもくろむ一向一揆に対しては過酷な弾圧と制圧でもって報いています。
 まさに「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返せ」を地で行ったわけです。

     
             織田家の家紋もくっきりと

 ようするに形而上的な価値の序列というものは、人の弱さが生み出す幻想の序列に過ぎず、今まさに眼前に現れているものこそすべてであり、それを「ヤー」といって引き受けるのが人が生きるということだというわけです。その意味では、彼の立場は後世のニーチェに比肩しうるかも知れません。
 それはまさに、時代を超えた彼の深い知見ではなかったかと思うのです。

 秀吉にも似た傾向があったというむきがありますが、それは違うと思います。彼の思想というべきものを知る手がかりは少ないのですが、畢竟それは世すぎ身すぎの戦略戦術レベルのものではなかったかと思うのです。
 それに対し、信長の反-形而上学はその血肉に埋め込まれたものであったように思うのです。
 同時代、もっとも忠実な彼の部下すらも、彼の思想的な境地(それはそれとして語られたことはなかったのですが)を理解し得なかったのだろうと思います。
 その意味で彼は単独者として孤立せざるを得なかったのです。

 
           折りからの秋風に金のマントが翻って

 これが、信長像がキッチュであれなんであれ、金箔で飾られ凜としてそびえることを肯定する論拠です。
 落ち着いたブロンズの像は彼には似合いません。むしろ、それくらいならば、像などない方がいいのです。
 彼自身が偶像を崇拝したとは思えないのですから、もし彼の像を作るとしたら、ブロンズの安定の中に閉じこめるのではなく、今回のように、まさに現世での栄耀栄華に輝くキンキラキンのものこそふさわしいのです。 



もちろん、提出したレポートには後半のようなことは書きませんでしたよ。
どうして私はこんなにも著しく脱線するのでしょう。
 一度、「JR西日本事故調査委員会」に調査してもらった方が良さそうですね。



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秋の海にあってきました。@吉良吉田

2009-09-27 18:06:26 | 写真集
 過日、秋晴れの一日、親しい人たちと三河湾の吉良吉田に遊びました。
 ここは善政の誉れ高い吉良上野介の領地であり、荒神山で散った吉良の仁吉の出身地であり、作家、尾崎士郎の出身地であると共にその主著、「人生劇場」の舞台でもあります。
 でも今回の遠足は、それらを頭の隅にちらっと置きながらも、時間の関係もあり、ひたすら食べ、近くの海に遊んだのでした。

 それぞれがガキ大将とお転婆さんに返って、食べ、しゃべり、潮の香を満喫する遠足でした。
 あまり書くことはありません。むしろ写真が当日の有様を表しています。
 ということで、アルバム形式で・・・。


 
     到着したリゾート施設でいきなりベッドイン・・・ではなくここが控え室

 
            フロントから臨む静かな吉良吉田の海 

以下はランチタイム風景
 

 

 


 
                 さあ、海へ!

 
               最初に海へ着いた二人

 
      「あ、アメリカが見える!」「違うわよ、あれはオーストラリア!」
 
 
                 勢揃い・1

 
    勢揃い・2 「あ、クジラが飛んでる!」「ほんとだ、写真撮らなくっちゃあ」

 
          ここで一句 「秋の海やはりひねもすのたりだぎゃぁ

 
               海との別れに名残を惜しむ

     
              小島 その向こうは渥美半島

 
   送迎バスで帰途に 地元のKさんとはここでお別れ いつまでも手を振ってくれた
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「白」か「黒」か・・・<その2 花嫁衣装>

2009-09-26 02:34:04 | フォトエッセイ
 前項同様、犯罪事件を調べようとするわけではありません。
 やはりこれも、単純に色彩の「白」と「黒」についてです。
 今回は、前回の場所から道ひとつ隔てたところに出来た白い建物についてです。

     

 なにやら南欧風の白い建物が出現しているのですが、はてさて、前にはここに何があったのかさっぱり思い出せないのです。まあ、それを思い出すことはこの際さして問題ではないのでスルーします(といって記憶力の減退をごまかす)。

 この建物は結婚式場です。写真を撮りながら見ていると、黒い礼服や留め袖の参列者が三々五々やってきます。割合カラフルなのは新婦や新郎の女性の友人たちでしょう。
 結婚式で白といえば昔から新婦の衣装と決まっているようです。
 白無垢に綿帽子、または角隠し、これらは白です。洋風のウェディングドレスも白が基本のようです。

 

 ようするに日本の結婚式は、白い新婦を黒い集団が取り囲むという形をとります。後で述べますように、今は少し様相は変わったようですが、かつては新郎も黒地に白い家紋を染め抜いた衣装に袴というのがスタンダードでした。

 こうした新婦の白は純潔の白を表すとされますが、一方、どんな色にも染まる無地の白をも意味します。ようするに、どんな色にでもお好みの色に染めて下さいというサインなのです。
 では、その白地を何色かに染め上げるのは誰でしょうか。一見、新郎のように思えますが、かつてはそれは家でした。ですから新郎は、家の権威を象徴する紋付きを着たのでした。そしてまた、新婦は家に付く女として「嫁」と呼ばれたのでした。

 

 一方で女性は、「女三界に家なし」などといわれました。
 この三界とは仏教用語で欲界、色界、無色界だとか、過去、現在、未来、などといわれますが、もっと俗世間的にいえば、幼くしては親に従い、嫁いでは夫に従い、老いては子に従え、などといわれたものです。ようするに、女性はその特有の世界を持ちえない、あるいは持ってはならないといわれたのです。
 「三界に家なきをなぜ嫁という」というのは私の昔の川柳ですが、ようするに女性はこうした狭間で生きることを要請されたのです。

 しかし、これは仏教や儒教の表向きの論理で、上流階級などではそうした窮屈な秩序がまかり通っていたかも知れませんが、家族総出で働く庶民の家庭では、夫と共に働き、なおかつ家事労働や育児までこなす女性は、逆に家族の礎ですらありました。「かかあ天下に空っ風」は何も上州の名物であったばかりではなく、働く家族の実態だったのでしょう。

    

 むしろ、明治以降の近代的な労働過程の中で、男女の階層秩序が男尊女卑型に固定されたのではないでしょうか。そして、その是正のために今なお、均等雇用や共通賃金などの法的な措置が必要となっているのではないかと思うのです。

 著しい脱線です。結婚式に話を戻します。
 最近の新郎の衣装ですが、新婦同様、白いものが目立つようです。
 これがまた、男性も純白で女性に向き合うということでしたら、それはそれでいいことですね。さらにいえば、白は「降伏」の色ですから、お互いに降伏し合うのはある種の平等化かも知れません(降伏=幸福って洒落を考えたのですが敢えて書きません・・・ってしっかり書いてますね)。

 

 学生の制服にしろ礼服一般にしろ、権威はいつも黒く彩られてあるようです。その中で白いものやカラフルなものが幅を利かせることは、そうしたいわれなき権威を相対化し、無化することに連なるかも知れません。
 モノクロの世界は二極的で分かりやすいのですが、その単純化の中で抑圧されているものがたくさんあるようにも思うのです。






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「白」か「黒」か・・・<その1>

2009-09-23 03:48:32 | 花便り&花をめぐって
 犯罪事件を調べようとするわけではありません。
 単純に色彩の「白」と「黒」についてです。

 先日のことです。
 ある会合に出るため、名古屋市は東区の高岳という地下鉄の駅で降りて歩道を歩いていました。ふと見上げると、晴れ渡った秋空になにやら黒いものが点々と・・・。
 ハテ、何だろうと考え込んだのですが、次の瞬間、ひょっとしたらという思いが頭をかすめました。減退しきった記憶の巻き戻しです。

 失われたとみえた記憶に割合容易に辿り着くことが出来ました。それもそのはず、私の記憶に刻み込まれた痕跡が示すのはまさにこの場所、しかもこの木、わずか5ヶ月前のことだったのです。
 そうなのです、5ヶ月前、私はこの木を、正確にはこの木の花を撮影し、日記に載せたりしたのです。
 その花は、ヒトツバタコ、通称ナンジャモンジャの花でした。
 即座に思い出せなかったのはその実の色合いにあります。
 あんな白い花の実が、こんなに真っ黒になるなんて・・・。

 
            晴れた秋空に黒い点々が・・・

 しかし、と私は思い当たるのです。花の色とその実の色とが一致することの方が稀で、だいたい違う方が当たり前なのですね。白い花から赤いリンゴが、黄色い花から緑のキュウリが、白い花から褐色のナシがといった具合です。
 茄子などは、その花の色と果実の色が似ている方ですね。

 ではなぜ、花の色と果実の色が違うのでしょう。
 そこである仮説へと至ります。
 植物にとっては、花と果実とではその機能が違うため、そうした変化が起こるのではないでしょうか。つまり花のときは、虫などに受粉を媒介してもらうためにそうしたものの注意を引く色となり、果実のときにはその種子を運んでもらうため、鳥や獣たちの注意を引く色になるという仮説です。

 
           これが5ヶ月前の同じ木です

 これはひととおり筋道が通った推理ですが、それがなにがしか正しいとしても、植物自身の意志やその他の大いなる意志が働いてそうなったとはいえないようです。
 むしろ逆に、そうした遺伝形質をもち、それが自然に適応していたためにたまたま生き残ったというのが実情ではないでしょうか。
 ようするに、今なお生き残っている種は、自然に適応できず、あるいは自然の変化について行けず絶滅してしまった死屍累々の種の中でかろうじて生き残ったものだともいえます。
 したがって、生き残ったものはかく努力したからだという物語は、結果論に過ぎないのではないでしょうか。

 もちろんこの話は、生物の後天的な獲得形質が遺伝子に作用し、適応性を高めるという側面を無視するものではありません。

 
             もう少し近づいてみましょう

 植物や動物のありように人間と同じような意志のようなものを想定するのは、それ自身、人間的な見方ではないかと思うのです。
 これを思い知らされたのに、いわゆる生物の擬態についての話があります。
 よく、木の葉にそっくりな蝶や海草にそっくりな海の小動物などを見るとき、「なるほど、巧くしたものだ」と、そこになにか意志の力のようなものを感じてしまいます。

 しかし、この擬態に関する感慨は単に人間特有な視点によるものなのだというのです。どういうことかというと、ある統計的な結論から言えば、擬態をする(という言い方がすでにして人間の視点なのだそうですが)蝶と、そうでない蝶とが捕食される割合はあまり変わらないというのです。
 「やあ、巧く化けたなぁ」と思うのは人間のみで、それを捕食する動物は、私たちとは別のセンサーをもっていて、擬態を見破ってしまうのです。考えてみれば、何かと何かが似ているという観念はきわめて人間的なもので、動物の世界ではその類似よりも差異をキャッチする能力の方が勝っているのかも知れません。

 生物の形や生態をまるで意志あるもののように考えてしまうこと、擬態を文字通り欺く手法としてみる視点、それらはまさに人間中心主義的な見方にすぎないのかも知れません。

 あ、また脱線です。
 あの白い花が、黒い実をもたらすことへの素直な驚きにとどまれないのが私を詩人から遠ざけているようです。

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「雑然」と「手作り」の魅力・今池祭り

2009-09-21 15:46:39 | 催しへのお誘い
 秋祭りの頃となりました。
 しかし私が行ってきたのは、商店街のお祭りです。
 名古屋は今池という街のそれなのですが、20年ほど前、私がそれにかかわったこともあり、そしていま、息子がスタッフとしてかかわっていることもあって、毎年顔を出すことにしています。


 
        在日の人も日本人も共に舞うノリパン農楽隊

 私自身が今池を離れてからもう10年、私の店と軒を並べていたようなお店が世代交代をしたり、あるいはお店そのものがなくなっていたりしているのですが、まだまだ顔見知りも多く、街を行くとそういう人たちが笑顔で迎えてくれます。
 祭りのスタッフたちも、親子二代にわたって知り合いが多いのです。

 
               出番を待つ少女たち

 今年は、ある会合に出てから顔を出したため、あまり長い時間いることができませんでしたが、それでもここの祭りのエキスのようなものを満喫してきました。

 
           しばし憩うスタッフ 本部近くにて
 
 ここの祭りの面白さは、専門の企画会社などを入れず、一切を地元住民やこの街を大好きな人たちの手作りで行われることにあります。
 そのために、一見、雑然としているのですがそれが面白いのです。街全体が騒然とし、街のあちこちで同時多発的に様々なパフォーマンスが展開されます。


 
        来訪者に真剣な面持ちで応対する本部の女性スタッフ

 ライブ会場は屋外が三箇所、室内のホールが一箇所で、催しの途切れる時間がありません。そうしたパフォーマンス会場を包み込むようにして、バザールが展開され、200に近いブースがホコテンを埋め尽くします。

 

    地元を拠点とするバレーボールズのライブ ノリノリの演奏であった

 下降を辿っていた今池の街も、近年、新しい出店も見られ、新たな気配も感じられます。祭りにかけるスタッフたちの情熱が実って、日常的にお祭り空間のようだったかつての今池が復活するといいですね。

   今夜(21日)までやってますよ! お近くの方はどうぞ!

 

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みよちゃん、泣かないで、あたしがついてったげるから・・・

2009-09-18 23:32:41 | フォトエッセイ
 農協へ野菜を買いに出かけました。
 農協のすぐ傍に小学校があってちょうど下校時間でした。
 小鳥がさえずるような群が通りかかります。
 そのひとつの群を背後から撮しました。

    
 
 でも、一人の子に気付かれてしまいました。
 全員がカメラを意識して歩道橋を登ります。
 私は「さようなら」と手を振って写真を撮りました。

 
             あら、見つかってしまった

 
             ほら、みんなこっちを見ている


 ふと気付くと、傍らの柵のところで女の子が一人泣いています。
 厳密にいうと一人ではなく、写真に映っている矢印の看板の後ろに友だちがひとりいて一生懸命慰めています。

 
    泣きじゃくっている子 看板の向こうに足だけ見える子が慰めている子

 どうしたのか心配になって、声をかけようかと思いました。
 そのとき二人はくるりと向きを変え、学校の方へ戻りはじめました。
 写真には写っていませんが、学校の方には子供たちを送り出した女性の先生の姿が見えました。
 そこで安心して引き返しました。
 変にお節介を続けると、私が泣かせたように誤解されかねません。
 きっとあの子は、すすり上げながら先生に事情を話すのでしょう。
 そして先生は適切に対応してくれるでしょう。

 
      学校へ戻っていった 左の子が泣いていて右の子が慰めている

 ここには小さなドラマがあります。
 きっとしばらくすれば本人も忘れてしまうような些細なドラマかも知れません。
 しかし、私たちの生涯は、実はそうした小さなドラマの積み重ねなのではないでしょうか。
 トラウマなどという言葉があり、それはこうしたドラマの中で、とくに衝撃的で記憶に深く、しかもそれと分からぬうちに刻み込まれたものだといいます。
 でもどうなんでしょう。決して衝撃的でもなく、深く刻み込まれなくとも、こうしたドラマの繰り返しや積み重ねが私たちの今を総体として形作っているようにも思えるのです。

 よく、「私のトラウマはね・・・」といったりする人がいます。
 日常の会話の中のことですから目くじらを立てて言いつのることもないのですが、それはトラウマではないと思います。厳密に言えばトラウマとは、そのように情景を描写し言葉に出来るものではないと思うのです。それが可能なものは、すでに経験として自分の歴史に織り込み済みで、それによる「不可避の」事態が発生したりはしないのです。

 ですから、本当のトラウマとは、それとして自覚もされず、むしろ記憶の底に押さえつけられていて、したがって言葉として話すことも出来ない経験、にもかかわらず、その人の言動に作用し、「不可避の」事態をもたらしたりするもののようです。

 とまあ、以上はある心理学上の立場の受け売りにしか過ぎません。
 私のいいたかったことは、そうしたトラウマ支配説はともかく、私が目撃したような小さなドラマが蓄積されて私たちを作っているのではないかということです。
 
 正直いうと、泣きじゃくっている子とそれを慰めながら学校の方へ戻って行く二人の後ろ姿に少しばかり感動を覚えたのです。
 何となく、この二人は終生の友だちになるような予感がしました。

 ふと思い出した童謡です。タイトルは「仲よし小道」です。

   仲よし小道は どこの道
    いつも学校へ みよちゃんと
    ランドセル背負(しょ)って元気よく
    お歌をうたって 通(かよ)う道



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秋は自転車 実りが見える

2009-09-16 13:59:01 | 写真とおしゃべり
 自転車での久しぶりの遠出です。
 といっても往復十数キロのゆったりした行程です。
 夏の暑い間、昨夏の熱中症に懲りて長距離の自転車は敬遠していました。

 遊びに行ったわけではありませんからそれなりに用件はあったのですが、母を見送って以来久々にゆっくりとした時間を持ちました。そして、例によって今まで通ったことのない道を選んで行きました。

 

 写真に即してなぞなぞ仕立てです。
 これは何でしょう?野菜の一種です。
 今まさに赤い実を吐き出そうとしています。

    

 続いてこれです。蒼空にくっきり実を誇っている果実は花梨(かりん)なのですが、その上にある褐色の塊は何でしょうか。

 

 最初の問いはこれを見ていただければ分かりますね。
 そうなのです。ニガウリ(ゴーヤ)の成熟したものなのです。赤く覗いているのはその果実ですね。まるで鳳仙花のようにこうして弾けて繁殖するのでしょうか。
 二番目のなぞなぞは、カマキリの卵です。この卵はこのまま越年し、来春、親と同じ姿をした可愛いカマキリが百匹あまりも誕生するのです。

 

 ついでにこの自転車行で写したものを披露いたします。
 これはおなじみ彼岸花です。気のせいか今年は早いように思います。
 水辺で咲いているのを写したのですが、背景の水は難しいですね。

     

 続いては瓢箪です。
 お酒にしたら一升はゆうに入りそうです。中に果肉や種がびっしりつまっていて重いので、特別に棚がしつらえてあります。

    

 最後のこれがなんだか分かりますか?
 最初は色合いからしてプチトマトかと思ったのです。でも葉の形状が違います。
 写真を撮っていると畑の所有者の女性が現れました。
 「これって何ですか?」と私。
 「これはハナナス」とおばさん。
 「で、どんな味ですか?」と私。
 「これは食べません。花として使います」とおばさん。

 

 おまけは見るからにいたそうな栗のいがです。

 久々の自転車行でしたが、やはりいいですね。
 こうして随所随所で止まって、人々と会話を交わせるなんて車では決して出来ない芸当です。
 





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柳ヶ瀬に吹く風と「炭掘る仲間」

2009-09-14 01:39:09 | 写真とおしゃべり
 これまでも書いてきましたが、高校時代の同窓生との半年に一度の勉強会を行いました。午後3時の集合で、一泊します。参加者は7名でした。
 勉強会といっても所詮、飲み会だろうというむきもあろうかと思いますが、ところがどっこい、きわめて真面目な論争の場なのです。
 今回のレポーターは私で、ここで書いてきたような時事問題を丸投げにしたようなものですが、それと絡んで、今回の政権交代への意見が噴出しました。

 

 その詳細は割愛しますが、この勉強会の会場になった西柳ヶ瀬のホテルは、いわゆる柳ヶ瀬通六丁目に位置し、東の一丁目から始まる柳ヶ瀬通の西のどん詰まりになります。
 そしてものの本によると、この辺りが柳ヶ瀬という地名の発祥だとのことです。
 そのせいもあって、このホテルの周辺には立派な柳の木があり、折りからの秋風に悠揚とたなびいていました。

     

 ところで、最後の写真は、その西の地点から柳ヶ瀬通りを写したものです。
 平日の午後三時とはいえ、この閑散とした有様にはまことに哀れをもよすものがあります。
 全国各地にあるシャッター通りと化した商店街、そこに笑顔が戻る日があるのでしょうか。

 

 同級生の一人が、一九六〇年の三井三池の闘争をNHKが編集したドキュメンタリーのヴィデオをもってきたので、皆で観ました。
 猫の子よりも温和しい今の労組に比べて、昔日の感を新たにしました。
 暴力団や右翼の襲撃で、一人の労働者が命を落とすというまさに死を賭しての闘争だったわけです。
 
 ただし、いわゆる「向坂教室」で、「この闘争は総資本と総労働の戦いであり、これを勝ち抜いて社会主義革命を」とアジる場面では、労組の運動と革命との短絡にいささかの違和感を覚えました。
 その後見た他の記録映画などでも、この「向坂教室」の評価は結構割れていて厳しいものがあるようです。
 
 「みんな~仲間だ~、炭~掘る仲間~」という炭労の歌を久しぶりに思い出しました。
 この時代、六〇年安保とも重なって世の中は騒然としていたのですが、柳ヶ瀬をはじめ、全国の繁華街は今よりも遙かに活気づいていたことは確かです。
 
 いろいろ考えさせられる勉強会、いろいろ問題提起をしてくれる仲間たちです。



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雲は「うん」とある・・・言葉の分節作用を巡って

2009-09-12 04:12:46 | 現代思想
 秋の気配を示すもののひとつに雲のありさまがあります。
 ついこの間まで空を支配していた入道雲(積乱雲というのだそうです)の影が薄くなったかと思ったら、うろこ雲やいわし雲、ひつじ雲などが空を彩っています。
 
 ところで、これらの雲の分類というか区分けがよく分からないのです。
 うろこ雲やいわし雲は、いわゆる高積雲といわれ、文字通り高いところで形成されるというので、秋のことを別名「天高く」というのも頷けます。
 私の居住する地域では聞いたことがないのですが、さば雲という言い方もあるそうで、やはりいわし雲がやや大きくなったのを示すようです。

 イワシやサバがあるならハマチやカツオがあってもと思い検索したのですが、それらはありませんでした。ところが、一方、さんま雲というのがヒットし、それを記述したものがあるのです。映像も添付されていますが、それはやはり、うろこ雲やいわし雲が大きくなったもののようです。

 

 これら魚類の名を付けられたものはどうやら高積雲らしいのですが、ひつじ雲になると微妙で高積雲の下の巻積雲に分類されたりします。他に、まだら雲は巻積雲、むら雲は層積雲とありました。

 しかしここで思うのは、今まで述べてきた雲はほとんど連続したものの様なのですがどこで区切るのでしょう。漠然として連続したものに区切り目を入れ、ここからここまでは何々、ここから何々というのを「分節化」というようですが、雲の名前はまさにそれなのでしょう。

 連続しているものにメスを入れ、ここからは何々、その向こうは何々、というのはとても面白くて、それが人間の言語の発祥だといわれています(by ソシュール)。そうして切り出されてきたものが言語化された私たちの日常だというのです。

 

 虹は七色、というのはほとんど私たちの固定観念です。しかし、実際には、虹はくっきりと七つに区切られてはいません。ですから、世界各地の虹の受容には、最も少ない三色から三〇色以上まであるのです。

 以前私が読んだ本で、アイヌ語では日本語でいう「雪」という言葉がないというのを知り驚いたことがあります。アイヌの人たちは私たちより遙かに雪に接した生活をしているのに・・・と思ったのです。ただしその謎は読み進むうちに解けました。

 私たち温暖な土地に過ごすものは、雨と霰や雹のあいだにあるものが雪です。もちろん雪には形容する言葉もつき、細雪、粉雪、ぼたん雪などといわれますが、いずれも雪という同じものを形容するにとどまります。

 一方、アイヌ語では、日本語の雪にドンピシャリのものはないのですが、その代わり、日本語の雪をあらわす言葉が複数あり、それぞれが別のものなのです。
 さらさらした雪、軽い雪、横なぐりの雪、べたべたした雪、とっても重い雪、その他その他、それらは日本語でいう「雪」という大雑把な言葉では括れないものなのです。

 なぜなのでしょうか。それは多分、アイヌの人たちの生活様式と関連していて、どの雪の時は狩りに出るかどうか、何の狩りに出るか、あるいは出ないか、どう過ごすのかなどなどを決定する要因で、日本語のように大雑把に雪と言い切れなかったのではないでしょうか。

 

 かくして言葉は、過去において切り分けられ(分節化され)たものが私たちに提供され、私たちはそれを当たり前として、それを用い、それにしたがって思考しています。
 私たちの思考がいかに自由であることを謳歌しても、それは過去に分節化された言葉に依拠するものであり、私たちの言語使用は自由とは言い切れないのです。

 その事実を発見し、それを明らかにしながら ,ソシュールは言語のくびきから抜け出る方策を追求し続けました。

 あ、私の叙述は度し難い脱線をきたしていますね。
 問題の発端はこうでした。
 うろこ雲、いわし雲、さば雲、さんま雲、ひつじ雲はどのようにして分類可能かでした。
 皆さんのご教示を待っています。


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白川公園の履歴書といまの寸景

2009-09-10 16:30:38 | 想い出を掘り起こす
 この近くで行われる会合に出席するためでかけたのですが、少し前に着いたので、久々に白川公園へ行きました。行ったといっても、その公園の東の一角を覗いただけです。

 名古屋の中心地に近いこの公園は、広大なグランドと科学博物館、市立の美術館などを含んだ結構広い地域なのです。
 歴史的にも波乱含みな面を持っています。
 そもそも発端は、1942(昭和17)年、紀元二千六百年記念事業の一環として造られたのですが、戦況の悪化につれ、たちまち防空公園と改称され、造園わずか三年後には、敗戦によって米軍に接収され、アメリカ軍の家族が住むアメリカ村と変じたのでした。

 
             公園を清掃する人たち

 私が最初に名古屋へ出た1950年代には、鉄条網に囲まれた「アメリカ」がそこにはありました。酔っぱらった左翼青年たちがそこを通りかかるとき「ヤンキー・ゴー・ホーム」と呟くのですが、大声にはなりませんでした。なぜなら、銃を構えたMPが四六時中鉄条網の周辺をパトロールしていたからです。
 「アメリカン・パトロール」といういかにもアメリカ的な軽快な音楽があるのですが、私はそれを聴くとついその折りのアメリカ村の状況を思い起こしてしまうのです。

    
              清掃のための基地?

 しかし、1958年には返還され、以後、上に述べたような公園としての環境が整えられたのでした。しかし、不況が深刻化するにつれ、この一帯はホームレスの人々の青テントが林立するところとなりました。市は共同住宅の建設など様々な対策を講じたのですが成果を見るところはありませんでした。

 この公園が全国に注目されたのは、2005(平成17)年、愛知万博に際し、機動隊を動員しての強制執行が行われ、青テントが根こそぎ撤去されたときでした。その後、テントが撤去された跡地へ行った私は、その痕跡も残らないほど整備されたあちらこちらに、「植物保護のためにここへは立ち入らないで下さい」の看板を目撃し、その狡猾な言い回しの中に「お上の言葉」を見たのでした。

 
              野良猫ですが、何か?

 そんなこともあって、久々にこの公園の一端を覗いたのですが、さすがに前のように頑丈な青テントはありませんでしたが、ちょっと強い風が吹くと吹っ飛びそうな段ボールハウスをひとつ見かけました。チクる結果になりますので写真は撮りませんでしたし場所の詳細も言いません。

 ちょうど昼休み時とあって、コンビニ弁当を掻き込むサラリーマンや、おままごとのようにシートを敷いて弁当を楽しむOLたちの姿も見かけました。
 野良猫も見かけたのですが、ここの野良猫は至近距離まで近づいても逃げません。この公園で何かを食べる人たちのおこぼれを頂戴して生活している猫チャンたちは、人影に怯えて逃げ回るようでは生きて行けないのです。

 
       赤い日本。右翼の人が気を悪くしないだろうか?

 大きな地球儀様のものがあって、日本の所は赤く塗ってありました。
 はじめて国民学校へ入学したおりの世界地図を思い出しました。それは日本列島はむろん、台湾から朝鮮半島、そして中国大陸も真っ赤に塗られたものでした。
 この白川公園の歴史と重ね合わせてみると、感慨深いものがあるように思います。

 ともかくするうちに、集会の時間が近づいたので、この公園に別れを告げたのでした。




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