過日、岐阜駅周辺の整備事業完工の日(9月26日)、仕事がらみの取材をかねて、岐阜駅頭を訪れました。
といっても、名古屋へ出るときなど常にここを利用しているわけで、改めて行ったというのは利用者の目ではなくレポーターの目として訪れたというわけなのです。
2007年秋 工事中の岐阜駅北口
1997年、岐阜市民念願の東海道線の高架化が完成し、それまで鉄路で分断されていた街の北部と南部が繋がりました。それを期して岐阜駅周辺の再開発や整備事業が行われてきました。
駅の南口はいち早く整備されたのですが、表玄関の北口の整備はそれに遅れ、折しも岐阜市制施行120周年の今年、やっと完成し、ついに一連の事業が完結したのです。
9月26日はそれを祝うセレモニーが行われたのでした。
いち早く完成を見た南口
今回、完工のラストを飾ったのは岐阜といえばこの人、高橋尚子さん・・・ではなくて織田信長の銅像のお目見えで、その除幕をもって全工程にピリオドが打たれたのでした。
これを銅像・・・というのでしょうか、何せ、天下の奇将といわれた信長像ですから、そこら近所の銅像とはわけが違うわけです。
どう違うかは、共同通信が26日に配信した記事を引用してみましょう。
「天下統一を推し進めた戦国武将、織田信長の金箔の銅像がJR岐阜駅前広場に建てられ、26日、除幕式が行われた。像は高さ約3メートルで、台座を含めると約11メートル。<新しいもの好き>といわれた性格を表すようにマントを羽織り、火縄銃と西洋かぶとを手にしている。」
これが全体像 駅舎の方を向いている
ここに掲げた写真は除幕式直後のほやほやの写真です。どうです、いかにも信長らしくて面白いでしょう。
金ピカはちょっとやりすぎだという批判が地元でもあります。あまりにもキッチュだというのです。
しかし、私はこれでいいのだと思います。ポルトガルの宣教師、フロイスが岐阜の街を訪れ、岐阜城で信長に接見した折の見聞を、彼の書いた「日本史」に見ると、こうあります。
「三層四階建ての御殿風の天守閣が建っており、その内部は金箔と絵画で飾られた壮麗なものだった。」
そうなのです、これぞ信長の真骨頂なのです。
彼にとっては現世で現れるものだけが本当のものだったのです。来世のために欲望を抑圧したり日延べをしようとは思いませんでした。ようするに、現世の背後にある形而上学的なものすべてに「否」を突き付けていたのです。
フロイスなどの宣教師や、彼のもたらす文物、情報にはおおいに興味を示したのですが、かといってキリシタンの教義に興味を示した痕跡はありません。
では伝統的な仏教や鎌倉仏教を重んじたかというとその痕跡もまったくありません。それどころか比叡山を叩き、本願寺派の急先鋒、その政治進出をもくろむ一向一揆に対しては過酷な弾圧と制圧でもって報いています。
まさに「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返せ」を地で行ったわけです。
織田家の家紋もくっきりと
ようするに形而上的な価値の序列というものは、人の弱さが生み出す幻想の序列に過ぎず、今まさに眼前に現れているものこそすべてであり、それを「ヤー」といって引き受けるのが人が生きるということだというわけです。その意味では、彼の立場は後世のニーチェに比肩しうるかも知れません。
それはまさに、時代を超えた彼の深い知見ではなかったかと思うのです。
秀吉にも似た傾向があったというむきがありますが、それは違うと思います。彼の思想というべきものを知る手がかりは少ないのですが、畢竟それは世すぎ身すぎの戦略戦術レベルのものではなかったかと思うのです。
それに対し、信長の反-形而上学はその血肉に埋め込まれたものであったように思うのです。
同時代、もっとも忠実な彼の部下すらも、彼の思想的な境地(それはそれとして語られたことはなかったのですが)を理解し得なかったのだろうと思います。
その意味で彼は単独者として孤立せざるを得なかったのです。
折りからの秋風に金のマントが翻って
これが、信長像がキッチュであれなんであれ、金箔で飾られ凜としてそびえることを肯定する論拠です。
落ち着いたブロンズの像は彼には似合いません。むしろ、それくらいならば、像などない方がいいのです。
彼自身が偶像を崇拝したとは思えないのですから、もし彼の像を作るとしたら、ブロンズの安定の中に閉じこめるのではなく、今回のように、まさに現世での栄耀栄華に輝くキンキラキンのものこそふさわしいのです。
*もちろん、提出したレポートには後半のようなことは書きませんでしたよ。
*どうして私はこんなにも著しく脱線するのでしょう。
一度、「JR西日本事故調査委員会」に調査してもらった方が良さそうですね。
といっても、名古屋へ出るときなど常にここを利用しているわけで、改めて行ったというのは利用者の目ではなくレポーターの目として訪れたというわけなのです。
2007年秋 工事中の岐阜駅北口
1997年、岐阜市民念願の東海道線の高架化が完成し、それまで鉄路で分断されていた街の北部と南部が繋がりました。それを期して岐阜駅周辺の再開発や整備事業が行われてきました。
駅の南口はいち早く整備されたのですが、表玄関の北口の整備はそれに遅れ、折しも岐阜市制施行120周年の今年、やっと完成し、ついに一連の事業が完結したのです。
9月26日はそれを祝うセレモニーが行われたのでした。
いち早く完成を見た南口
今回、完工のラストを飾ったのは岐阜といえばこの人、高橋尚子さん・・・ではなくて織田信長の銅像のお目見えで、その除幕をもって全工程にピリオドが打たれたのでした。
これを銅像・・・というのでしょうか、何せ、天下の奇将といわれた信長像ですから、そこら近所の銅像とはわけが違うわけです。
どう違うかは、共同通信が26日に配信した記事を引用してみましょう。
「天下統一を推し進めた戦国武将、織田信長の金箔の銅像がJR岐阜駅前広場に建てられ、26日、除幕式が行われた。像は高さ約3メートルで、台座を含めると約11メートル。<新しいもの好き>といわれた性格を表すようにマントを羽織り、火縄銃と西洋かぶとを手にしている。」
これが全体像 駅舎の方を向いている
ここに掲げた写真は除幕式直後のほやほやの写真です。どうです、いかにも信長らしくて面白いでしょう。
金ピカはちょっとやりすぎだという批判が地元でもあります。あまりにもキッチュだというのです。
しかし、私はこれでいいのだと思います。ポルトガルの宣教師、フロイスが岐阜の街を訪れ、岐阜城で信長に接見した折の見聞を、彼の書いた「日本史」に見ると、こうあります。
「三層四階建ての御殿風の天守閣が建っており、その内部は金箔と絵画で飾られた壮麗なものだった。」
そうなのです、これぞ信長の真骨頂なのです。
彼にとっては現世で現れるものだけが本当のものだったのです。来世のために欲望を抑圧したり日延べをしようとは思いませんでした。ようするに、現世の背後にある形而上学的なものすべてに「否」を突き付けていたのです。
フロイスなどの宣教師や、彼のもたらす文物、情報にはおおいに興味を示したのですが、かといってキリシタンの教義に興味を示した痕跡はありません。
では伝統的な仏教や鎌倉仏教を重んじたかというとその痕跡もまったくありません。それどころか比叡山を叩き、本願寺派の急先鋒、その政治進出をもくろむ一向一揆に対しては過酷な弾圧と制圧でもって報いています。
まさに「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返せ」を地で行ったわけです。
織田家の家紋もくっきりと
ようするに形而上的な価値の序列というものは、人の弱さが生み出す幻想の序列に過ぎず、今まさに眼前に現れているものこそすべてであり、それを「ヤー」といって引き受けるのが人が生きるということだというわけです。その意味では、彼の立場は後世のニーチェに比肩しうるかも知れません。
それはまさに、時代を超えた彼の深い知見ではなかったかと思うのです。
秀吉にも似た傾向があったというむきがありますが、それは違うと思います。彼の思想というべきものを知る手がかりは少ないのですが、畢竟それは世すぎ身すぎの戦略戦術レベルのものではなかったかと思うのです。
それに対し、信長の反-形而上学はその血肉に埋め込まれたものであったように思うのです。
同時代、もっとも忠実な彼の部下すらも、彼の思想的な境地(それはそれとして語られたことはなかったのですが)を理解し得なかったのだろうと思います。
その意味で彼は単独者として孤立せざるを得なかったのです。
折りからの秋風に金のマントが翻って
これが、信長像がキッチュであれなんであれ、金箔で飾られ凜としてそびえることを肯定する論拠です。
落ち着いたブロンズの像は彼には似合いません。むしろ、それくらいならば、像などない方がいいのです。
彼自身が偶像を崇拝したとは思えないのですから、もし彼の像を作るとしたら、ブロンズの安定の中に閉じこめるのではなく、今回のように、まさに現世での栄耀栄華に輝くキンキラキンのものこそふさわしいのです。
*もちろん、提出したレポートには後半のようなことは書きませんでしたよ。
*どうして私はこんなにも著しく脱線するのでしょう。
一度、「JR西日本事故調査委員会」に調査してもらった方が良さそうですね。