六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

わしがわしを見る?

2007-08-31 16:22:04 | よしなしごと
 前回述べた美濃市では「うだつ」と並んで、美濃和紙が有名であることは知っていました。
 水が命と言われる和紙づくり、清流長良川とその支流板取川を擁し、さらには近辺で採れるコウゾやミツマタなどの優れた原料にも恵まれて、この地区できわめて質の高いものが生産されていることも知っていました。

 それでも、全国にいくつもある和紙の産地のひとつぐらいにしか考えていませんでした。
 しかし、奈良時代の戸籍用紙が美濃和紙であったという記録が「正倉院文書」に残っていて、美濃和紙の始まりは奈良時代だと考えられていること、そしてそれが国の無形文化財に指定されている程の伝統と歴史をもつものだとは知りませんでした。

    

 そんなわけで、手近にそれを実感できる和紙の専門店さんに入ってみました。
 創業明治四三年といいますから、もうすぐ百周年の老舗です。

 

 一見、反物のようでしょう。これはみな、手漉き和紙で作られた千代紙なのです。もちろん、小分けして購入することが出来ます。
 以前、岐阜の小さな割烹屋さんで、こうした千代紙で作られた手作りの箸袋を見かけたときは、何と粋なと思ったものでした。

 

 ちょっとキッチュですが、こんな絵巻物風もあります。
 
 

 こっちの方にあるのは小物類ですが、やはり和紙によるものです。

 

 ホラ、店内にもちゃんと表示が・・。
 いっておきますが、ここに載せた写真は絵になりそうなものばかりを選んだのであって、このお店のメインはやはりオーソドックスな白色系統のもので、しかもそれ自身、極めてバリエーションの多いものなのです。

 この美濃和紙による作品はこうした紙特有の平面的なものばかりではありません。かつての行灯を思わせるものに「あかりアート」があります。
 和紙で様々な形状の立方体を作り、その中に灯りをともし、その風情を楽しむのです。

 
 それらは、うだつの町とマッチして幻想的な美しさをかもし出します
 この最後の写真は残念ながら私が撮ったものではありません(こんなのが撮れたらプロになっています)。

 毎年、こうした「あかりアート」の美しさを競う「美濃和紙あかりアート展」が開催されます。
 今年は10月6日(土)、7日(日)のそれぞれ午後5時から9時までだそうです。

 さて泥棒さんに先を越された円空仏探しから、うだつと和紙の町の探訪記はこれでお終いです。

 ところで皆さん、山の中にダチョウがいるって知っていますか?
 折を見てそんな話も・・。

                                                                                 
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「うだつ」の上がらない私が・・。

2007-08-30 05:14:06 | よしなしごと
 先回の続きです。
 円空仏盗賊団はまんまと私たちを出し抜き、円空唯一の女性像というその「ほほえみ女僧」を盗み出したのです。
 もう一度、この前の私の日記の円空像をみ下さい。すばらし微笑みでしょう。もはやセクシャリティを越えた人類の微笑みそのものなのです。

  でも、もうないのです。窃盗者がせめてその保全に努力してくれることを祈ります。そうしてくれさえすれば、またどこかで会えるかも知れないからです。

 

 まあ、愚痴はそのくらいにして次の目的地美濃市へ向かいました。まさに美濃国の真ん中に位置する市です。
 私実は、この街を貫く国道を仕事や私用のためおそらく百回近く利用しているのですが、じっくりこの街を見るのは初めてなのです。

 齢だけ重ね「うだつが上がらぬ」男が「うだつの上がる町」見るのも逆説的で面白いように思われます。

 

 国道から入ってすぐの箇所にその町筋はあります。この美濃市には日本で最も多く「うだつ」が残っていて、それらの町屋が保存されているのです。

 その「うだつ」とは、屋根の両端を一段高くして火災の類焼を防ぐために造られた防火壁のことなのですが、裕福な家しか「うだつ」を造ることができなかったために、「うだつを上げる」とか「うだつが上がらない」の言葉もできたといわれています。

 

 写真はその実状です。
 ただ側壁風のものが作られているだけではなくそのそれぞれには家紋入りの瓦が添えられ、その形状にも幾分のバリエーションがあるのです。

 「うだつ」の保全は当然それを掲げる町屋そのものの保全に繋がります。
 その意味でこの街(市)はいい味を出しています。
 うだつのない町屋もそれはそれとして尊重し、町並みそのものが統一されているのです。

 

 駐車中の車のみが邪魔なのですが、にもかかわらず町並みはすっきりしているのです。そうなんです。この街の保存地区全体には電柱が一本もないのです。
 ですから写真を撮していてもそれらを気にすることはありません。ですが、TVアンテナには幾分気を使わざるえをえませんでした。

 先般、いわゆる木造の町屋そのものを保存することがいかに大変かを取材で知った私には、こうした町並みが随分懐かしく思えると同時に、この保全のための並々ならぬ努力を思ったのでした。

 
          珍しい湾曲したうだつ


 懐かしさ溢れる町並みです。お近くへいらっしゃったらどうぞお立ち寄りを。


                    




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消えた円空仏!ドジ探訪始末記

2007-08-28 17:11:25 | よしなしごと
 過日、岐阜の中濃を取材するという記者に同行したのですが、これがとんでもない珍道中に・・。

 その経緯はともかく、この岐阜県地図をみてください。
 今回でかけたのは、この赤くV字型をした関市というところです。一見して何とも奇妙な形状だと思われるのではないでしょうか。岐阜県人でも、現行の関市がこんな格好だということを知らない人が多いと思います。

        

 これぞ平成の大合併がもたらした奇天烈な結果なのです。
 地域の住民の繋がりや風俗習慣など全く無視した、ただただ地方交付税などの経済効果のみを目当てとした乱暴な合併のなれの果てなのです。

 もともとの関市は、この図のV字の底辺にある岐阜市(赤点がある)に隣接したこぢんまりとした地方都市でした。
 それがかの平成の大合併で、隣接する、というより、隣接の隣接をも含めて合併をした結果、こんな奇天烈な市が出来上がったのでした。何と、西北の端は福井県にまで達しています。
 西のウイングは武儀郡の武芸川町・洞戸村・板取村、そして東のウイングは武儀町・上之保村、ということであのV字型は出来上がったのです。

            

 さて大合併はともかく、私たちが向かったのは、かつて上之保村といわれた長良川の支流、津保川沿いに展開するのどかな山村でした。
 図示すると、上図の赤いところでありV字の東ウイングの先端に当たります。

 ところで、ここからが大笑いなのですが、私たちが向かったのは、この地区に沢山ある円空仏を求めてで、とりわけ目玉は、数ある円空仏の中で、唯一女性を彫ったというその女僧像に出会うことでした。
 写真で見る通り、そのほほえみは得もいわれず魅力的で、この地区の観光用のキャッチフレーズはこの「ほほえみ」なのです。そういえば、途中にあった温泉も「ほほえみの湯」とありました。

       
          
 目指す仏像は、この地区でもさらに奥の方だということで、一度、その所在を確認すべく、車を止めて野良仕事をしていた人に、こちらの方向で良いのかを尋ねてみました。

 いかにも地元の人という感じのそのおじさんは、にこやかにそちらを指さし、「あと五分ぐらいかな」と教えてくれた。
 しかし、幾分怪訝そうな顔をして、「ところで、何しにゆかっせる」と訊いてきたのです。
 何しにっていったって、円空仏を見るほかないのでその旨を告げると、幾分あきれかえった表情で、「いっても何にもあらへんで」とのお言葉。

 「あんなア、こないだ泥棒が来て円空さんをみんな持っていってしもたんや」とのこと。

 
              旧上之保村地域


 「えっ、えっ、えっ」私たちは多分マンガの登場人物のように目が点になっていたことでしょう。
 しかもです、来る道中、車の中で、「どっかで円空仏が大量に盗まれたらしいな。本当に罰当たりな奴だ」と話しながら来たのですから。
 ああ、ナンタルチア!それがまさにここだったとは・・。

 ご承知かも知れませんが、岐阜県は円空仏が密集していてあちこちに点在しているのです。
 だからといって、盗難のニュースを知りながら、それがどこかを確かめずに来たこの愚かはまさに底抜けといわれてもしょうがありません。
 一応、前日ネットで調べたのですが、関市の観光案内などにも盗難の件は記載されていませんでした。

 でもめげてはなりません。
 目的地はもうひとつあるのです。
 「うだつ」と「美濃和紙」の街として有名な美濃市。この関市のV字に囲まれた市です。
 ここなら「うだつがみんな盗られた」というようなことはあるまいと思われます。



 道中、キバナコスモスがきれいでした。
 この辺り、見慣れた白やピンクのコスモスよりこちらの方が多いようで、ややしっかりした葉と力強い花がとてもきれいでした。
 それにしても、「あんたらドジね」と笑われているように思ったのはこちらの気のせいでしょうか。

 次回は、美濃市の探訪へと続きます。


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六の時事川柳&いろいろゴタク

2007-08-26 18:38:14 | 川柳日記
<今週の川柳もどき> 07.8.26

安倍内閣の新組閣

 饒舌バンソウ膏は避け組閣
  (失言と不明朗は避ける?)
 
 お友達だけでは駄目と釘刺され
  (挙党一致=性格不明内閣
 
 身を正すふり大臣の椅子を待つ
  (収支報告書訂正相継ぐ
 
 結局は引っかき回しただけみたい(*1)
  (小池防衛相続投せず

国際

 散布する側がほんとはネズミ以下
  (パリでホームレスにネズミ駆除剤散布)

 宗主国気取りに怒るバクダット(*2)
  (アメリカの不快感にイラク反論

 弱者から食料奪うバイオメタ
 食料を奪い車を走らせる
  (中南米など主食のトウモロコシ高騰

その他

 警官やくざは銃で人殺す
  (全警官に銃を持たす必要があるのか

 寸鉄がハイテクを嘲笑う事故
  (中華航空機事故ボルトが原因) 

 岐阜県人だから煙草は吸いません
  (男性喫煙率最低は岐阜28%、最高は香川60%

 稲刈りのニュースだ酷暑遠慮せよ

 

【補足】
 
 (*1)について

 私は小池防衛相を支持するものではない。
 だが、彼女なりに防衛省の改革の意志はあったはずだ。それがあんなに強硬な官僚の抵抗にあったのは、改めて日本の官僚機構の強固さを思わせるのだが、しかし、もうひとつ別の問題も現しているのではないか?

 それは、彼女が女性大臣だったからではないかと思われるのだ。あれが、男性の大臣だったら、やはり事態は同様に進んだだろうか。疑問はつのる。

 というのは、私たちはそれについての先例を持っているからである。

 小泉政権の誕生に多大な功績があった田中真紀子が外務大臣になり、彼女なりに外務省の改革を進めようとしたとき、官僚の抵抗は凄まじいものがあった
 そのすさまじさは、官僚主導に批判的であった小泉すらも屈服させた。
 「後ろからスカートを踏まれた」という田中真紀子のコメントは、けだし名言であった。

 

 (*2)について

 今日のイラクの混迷が、例え、かつてのフセイン政権に問題があったにせよ、ありもしない大量殺戮兵器を喧伝した米国の侵略に端を発していることは言を待たないであろう
 
 アメリカの侵略行為は容認しがたいが、その結果出来たイラク政府は、傀儡との批判はあるものの、国民から選ばれた合法的な政府である。

 ところが最近、アメリカはこの政府に宗主国ばりの内政干渉的非難を繰り返している
 なぜなのか?それはイラクのマリキ政権が、隣国のイランやシリアとの対話外交に踏み出したからである。
 このイラク政府の選択は全く正しい
 イラクで展開されつつあるテロ行為をなくすため、イランやシリアと話し合うことは全く正しいのである。

 ところが、それがアメリカの気に入らないのである。なぜなら、イランやシリアは、アメリカが規定する「ならず者国家」であるからである。

 アメリカがどのような根拠で世界の国々を規定しランクづけるかはさておき、イラクの人々にとっては近隣諸国との平和的共存こそが望まれるのである。
 しかし、それに不快感を示すアメリカの意図は逆に明らかになりつつある。

 アメリカは、アフガン、イラクを占拠し、その余勢を駆ってイラン、シリアへも軍事的進出を行おうとしているのである。
 だから、イラクとイラン、シリアが友好的になっては困るのである。
 アメリカの軍需産業を中心としたコングリマリットは、戦争状態の常時化によって支えられている

 しかし、イラクの人々にとっては、そうしたアメリカの世界戦略とは関係なく、近隣諸国との平和的共存こそ緊急の必要課題なのである。

 イラクの混迷を招いたアメリカが、イラク政府の隣国との懸命な平和的共存策を否定するという事実は、アメリカこそ世界の平和を脅かす巨大なテロリスト集団であること立証しているように思える。

<もうひとつの補足>

 まず武力で占領さえすれば、何でもいうことを聞くというイメージを最初に与えた国は日本であろうと思う。「鬼畜米英」を叫び、「本土決戦」をおらんでいた日本は、アメリカ軍の占領下、何の抵抗もなくアメリカ様々で、それが今日まで至っている。

 アメリカは、その成功例をもとに、その軍事政策を展開している。
 しかし、世界の国々や民族は、日本ほどだらしないことはなく、言うべきはいい、ちゃんとそれへのアゲインストはしているのである。





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枯死する! 酷暑の爪痕。

2007-08-25 17:58:19 | よしなしごと
 暑い。当地はまだ酷暑日のうちにある。
 暑い、即、地球温暖化がいわれるが、一方、ヨーロッパでは冷夏だというから、話はそれほど単純でもないようだ

 しかし、温暖化が依然として進行し、それが人類史上の、否、地球史上の問題であることには変わりない。


         路傍のサツキの生け垣

 酷暑のうちにあって、人間はさまざまな対策、例えば冷房だとか、何らかの形の避暑という手段を講じることが出来る。
 それでも、死者を含めた熱害の被害者が出る。

 動物は、熱害を避け、移動したりする。それでも長期的にはその生態系などの変動を避けることは出来ないだろ
う。

 
       立ち枯れた街路樹。岐阜駅付近にて

 可哀相なのは、移動などの手段を持たない植物である。ただそれにひたすら耐え、耐えきれなければ枯死する他はない
 オーストラリアでは、干ばつのため小麦の生産が激減し、それが地球のこちら側のわが国で、輸入小麦の10%価格アップに繋がり、讃岐うどんがピンチだという。

 植物の危機は何もオーストラリアばかりではない。
 ここに掲載した植物の哀れや枯死といった事態は、それぞれ、身近な私たちの街で起こっているものである。

 
      枯れ始めた笹の植えこみ。やはり岐阜駅

 上から四番目のもの(写真はこの下)のみが、鉢植えのものであるから事情が違う
 実はここ、私の家からほど遠からぬところで、よく通る場所なのである。
 そしてこれらの鉢植えは、つい最近まではよく手入れをされ、私の目を慰めてくれたものなのである

 
      手入れをしていた人の安否が気にかかる

 それがこの有様。
 これは、手入れをし、水を欠かさなかったこの鉢植えの所有者の身に何かが起こったことを示している
 それが気がかりなのだ。

 私も暇を見てはわが家の植物たちに水をやる。それはもっぱら私の役目である。
 で、私に万一のことがあったら、やはりわが家の植物たち、特に鉢植えのものはあんな運命を辿るのだろうか

 遺言状に、「植物に水を絶やさないこと」と書いておこうかなどと考えながら、今日も水をやるのだった。

 
       往く夏にひとつ打たれたセミコロン




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酷暑の街からの便り・・。

2007-08-23 01:01:09 | ラブレター
 前略 八月に書くものは、どうしても肩に力が入ってしまいます。

 よく、二〇世紀は戦争と革命の世紀だといわれてきましたね。
 いってみれば私もその端っこの方で生きてきたわけですが、そこへの参入の起点がどうもこの八月のように思われるのです。


    
         青桐の実を見つけました。

 ひとつの価値転換のような出来事(敗戦)と、ものごころが付き、何とか記憶においてのアイディンティティが保たれるのがこの辺で重なり合っているせいかもしれません。
 それ以前の曖昧な記憶も、この一点で折りたたまれて、保たれているといっていいのです。


 
   拡大してみました。子どもの頃、この実を竹鉄砲の弾にしました。

 だから、私の発信するコメントは、若い人達から見れば随分時代離れをしたもの言いにしか聞こえないのでしょうが、しかし、そこに刷り込まれたもの、私の内なる歴史(ややオーバーでしょうね?)からしかものを言うことが出来ないのです。

 
         猫の嫉妬=ネコジェラシーの群生

 私のコメントは、切手も貼らず、住所も書かないままに投函された手紙のようなものかもしれません。
 それは誰の元へも着かないの可能性があります。あるいは、着いたとしても、誰の元へどのように着き、どう読まれるのかは全く不確定というほかないのです。


 
   まだら染めの鶏頭。最近こうしたファッションあまり見ませんね。

 それでも、こうして書いています。
 考えてみたら、宛先をしっかり書き、切手をちゃんと貼って投函しても、着かない場合もあるでしょうし、また着いても、それがどう読まれるかはやはり、確定し得ないのではないでしょうか。


    
       浮いてる水草は菱です。知ってました?

 え? なんか変な手紙が着きました? あ、捨てないでください。それ、多分私からのものです。              草々







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モーツアルトと機関銃

2007-08-21 02:09:39 | 想い出を掘り起こす
 1991年8月21日、私の乗った飛行機は、モスクワ空港の滑走路の上にいた。
 モスクワ郊外の森と湖、それに農地のモザイクのような光景を眼下にしながら、ここへ降り立ったのだった。

 その機はチューリッヒ行きであったが、ここで2時間ほどトランジットがあり、空港内ではあるが降りることが出来ることになっていた
 私にとっては始めての海外旅行で、従って始めて踏む他国の地であった。
 養父のシベリア抑留経験、若い頃からの私の社会主義とのさまざまな因縁などを含めて、その地に足跡を記すのは何か運命的にも思われた

 
 
 しかも、当時、何かと話題の渦中にあったソ連である。
 つい先日も、クーデターがあり、黒海地方に夏期休暇に出かけたゴルバチョフが反動派に幽閉されたというニュースが世界を駆けめぐったが、エリツィンなどの工作により一応の収束を見たことまでは成田で確認済みであった。

 さあ、降りるぞ!それっ、売店だ、ウオッカだ、と私の気ははやるのだった。
 ああ、それなのに、期待は無惨にも裏切られた。
 機内アナウンスがあり、ソ連当局から、機外へでる許可が下りないので、そのまま座席にて出航をお待ち下さいとのこと。

 そういわれて、仕方なく窓の限られた視界から外に目をやると、やはり何やら不穏な空気がみなぎっているではないか。
 機関銃とおぼしきものを装備した装甲車や、完全武装した兵士たちが要所要所を固めているのだ。それらの兵士が、時折、機に接近してきて様子を窺ったりする。
 もはや気分はウオッカではない。ここはやはり、争乱のまっただ中なのだ。

 
 
 遠くに目をやると、すらりと伸びた白樺の並木が見渡せるのだが、それをバックに武装した兵士たちが行き交うのはやはり異様だ。
 機内に緊張感が漂う。みなひそひそと言葉を交わすのみだ。

 やがて機は、予定より30分早く離陸した。
 離陸と同時に緊張が緩み、ホッとしたものが感じられた。
 さっきまで、あれほどこの地に足跡をと思っていたのに、全く皮肉なものである。

 これはあとで知ったのだが、この日、黒海付近に幽閉されていたゴルバチョフが、モスクワへ帰るためこの空港へ降りるというので、空港全体が厳戒態勢のうちにあったのだ。

 私はその折りの自分の軽薄さと、そして、にもかかわらず、その後の天国のような10日間の旅をいささか後ろめたく思い起こす。
 そう、私は、チューリッヒで乗り換えてオーストリアへ入り、モーツアルト没後200年祭に沸くウィーンとザルツブルグで、昼は散策、夜はコンサートやオペラという至福の時間を過ごしたのだった

 

 何という落差であろう。機関銃とモーツアルトは似合わない(そういえば、『セーラー服と機関銃』という映画があった)。

 私が音楽を楽しんでいる間も、ソ連の崩壊はもはや留まるところを知らず、その年の暮れには、クレムリンから赤旗が降ろされ、ソビエト連邦そのものが消滅した

 昨20日の夜8時、NHK・BSハイビジョンは、「エリツィンとゴルバチョフ~ソ連邦崩壊・当事者が語る激動の記録」と題した2時間のドキュメンタリーをやっていた。
 それを観ながら、その現場をかすめたこと、そしてその後の至福の時間を思い出し、改めて自責の念やら、訳の分からない胸キュンなどを感じたのであった。

 

 時の流れは速い。4年ほど前、機会があってハンガリーへ行ったのだが、社会主義のの字も見あたらず、若い人達は1956年の対ソ動乱や、当時の指導者、イムレ・ナジについても知るところはなかった。

 8月21日は、私が世界史をかすめた日である。それとも、世界史が・・

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残暑は惨暑・六の時事川柳

2007-08-19 16:23:07 | 川柳日記
 16日の猛暑にやられて以来、軽い熱中症で幾分ダウン気味でしたが、昨夜あたりからほぼ通常に戻りました。
 油断大敵を身をもって体験致しました。
 
         
    
           山本眞輔・作 「森からの声」



<今週の川柳もどき> 07.8.19

 シビリアンコントロールが危ぶまれ
  (防衛省人事)

 徳俵でやっと残って組閣する
  (さて、お手並みは)

 支持率株価が競い合っている
  (どっちがどうなるか?)

 関東は揺れ東海は炎上す
  (千葉の地震と中部の高温)

 白い恋人の材料黒い欲
 菓子だとて賞味期限は甘くない
  (北海道のメーカー)

 その筋は地上で花火ごっこする
  (福岡で組長撃たれる)

 ファンよりもノミ屋が嘆く馬の風邪
  (中央、地方競馬中止)

 熱中症よそのことだと思ってた
  (六も人の子。マイッタ!)
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日本のいちばん暑い日

2007-08-18 15:45:08 | よしなしごと
  

 「日本のいちばん暑い日」は八月一五日だと思っていました。
 しかし、翌一六日は物理的にいって本当に暑かった。
 その暑い日に、自転車で飛び回り、あまつさえ、その暑い太陽を写真に捉えようとした不遜さが災いし、アポロンの怒りをかったイカロスのように見事失墜したのでした。
 熱中症にやられたのです。

 幸い軽度のもので、頭痛、けだるさ、気力体力の著しい減退、食欲不振、などなどで済んでいますが、固いものを読んだり、まとまった文章を書くことが出来ません。
 どうやら、もともと薄かった脳みそがかなり蒸発してしまったらしいのです。
 慌てて、信州の高原の涼風を期待し、信州味噌を詰めてみたのですが、あまり馴染まないようです。
 やはりカニミソの方がよかったのでしょうか?

 

 こんなブログですが、結構覗きに来てくれる人がいて、ここ三日程、更新していないにもかかわらず、かなりの数の方が来てくれています。
 申し訳ないと思うし、このまま放置したらもう来てくれないのではないかという不安もつのります。
 そこでせこいことを考えました。自分の文章が書けなければ、人のものを引用してお茶を濁すのです。

 

 選んだのは、私の好きな茨木のり子さんの詩です。
 
 私とちょうど一世代上の人ですが、昨年亡くなられたときには、あっと思い、随分淋しい思いをしました。というのは、ここに引用した二つ目の詩の最後に、彼女は「だから決めた できれば長生きすることに」と歌っていたからです。

 だから、もっともっと生きていて欲しかったのです。
 出会いは私の20代の前半ですが、まなじりを決してではないが、「あの時代」をうまく叙情へと繋げるフレーズ、しかもそこへと流されない芯が通った詩、素晴らしいと思いました。

 その後、やれダダイズムがどうの、シュールリアリズムがどうの、あるいは詩はやっぱり象徴詩では、などといささか背伸びをして論議をしたこともありましたが、やはり好きなのは茨木のり子さんの詩です

 ここに載せたものの他にも、戦争関連としては、ミンダナオ島のジャングルで戦死した日本兵のどくろが、成長する木の枝に引っかけられたままその木の梢に至るという、いささか気味悪いものもあるのですが、彼女の視線は、そこから、かつてその頭をかき抱いた母、その髪に指をからませた女へとスライドし、やがてそれが自分であったらと進みきるところで絶句するのです。ここに彼女の真骨頂があります。時代を叙情的に歌いあげるだけではなく、そこへと自己を内在させないではおかない確かな存在への触手(「木の実」)。

 それではどうぞ。

 

「根府川の海」

  根府川
  東海道の小駅
  赤いカンナの咲いている駅

  たつぷり栄養のある
  大きな花の向うに
  いつもまつさおな海がひろがつていた

  中尉との恋の話をきかされながら
  友と二人こゝを通ったことがあつた

  あふれるような青春を
  リュックにつめこみ
  動員令をポケツトにゆられていつたこともある

  燃えさかる東京をあとに
  ネーブルの花の白かつたふるさとへ
  たどりつくときも
  あなたは在つた

  丈高いカンナの花よ
  おだやかな相模の海よ

  沖に光る波のひとひら
  あゝそんなかゞやきに似た十代の歳月
  風船のように消えた
  無知で純粋で徒労だつた歳月
  うしなわれたたつた一つの海賊箱

  ほつそりと
  蒼く
  国をだきしめて
  眉をあげていた
  菜ツパ服時代の小さいあたしを
  根府川の海よ
  忘れはしないだろう?

  女の年輪をましながら
  ふたゝび私は通過する
  あれから八年
  ひたすらに不敵なこゝろを育て

  海よ

  あなたのように
  あらぬ方を眺めながら……


 

「わたしが一番きれいだったとき」

  わたしが一番きれいだったとき
  街々はがらがら崩れていって
  とんでもないところから
  青空なんかが見えたりした

  わたしが一番きれいだったとき
  まわりの人達が沢山死んだ
  工場で 海で 名もない島で
  わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった 

  わたしが一番きれいだったとき
  だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
  男たちは挙手の礼しか知らなくて
  きれいな眼差だけを残し皆発っていった

  わたしが一番きれいだったとき
  わたしの頭はからっぽで
  わたしの心はかたくなで
  手足ばかりが栗色に光った

  わたしが一番きれいだったとき
  わたしの国は戦争で負けた
  そんな馬鹿なことってあるものか
  ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

  わたしが一番きれいだったとき
  ラジオからはジャズが溢れた
  禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
  わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

  わたしが一番きれいだったとき
  わたしはとてもふしあわせ
  わたしはとてもとんちんかん
  わたしはめっぽうさびしかった

  だから決めた できれば長生きすることに
  年取ってから凄く美しい絵を描いた
  フランスのルオー爺さんのようにね
 




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君は神の声を聞いたことがあるか?

2007-08-15 01:19:28 | 想い出を掘り起こす
 私は神の声を聞いたことがあります。私をカルト扱いしてもかまいません。当時の日本人はみんなカルト信者だっのですから。

 1945年、8月15日、暑い日でした。夏休みまっただ中、田舎のこともあって、私たち子どもはほとんど裸同然で遊び回っていました。それに、その日は空襲警報もありませんでした。
 昼少し前、母が呼びに来ました。何でも昼に、やんごとなき方の放送があり、こぞってそれを聞かなければならないこと、そのためにちゃんと正装をしなければならないとのことなのです。

 こうして、白いシャツとズボンをはかされた私は、ラヂオの前に正座させられました。
 疎開先の母屋の住人たちほぼ10人、その縁者である私たちのような疎開者が数人、そして、近所のラヂオがない家の人たちが数人、総勢20人ほどだったと思います。

         

 やがてチューニングの悪いラヂオから、なんだか少しうわずった、漢語ばかりのお経のような聞きなれない言葉が流れてきました。
 これが私が、そしてその回りの人たちがはじめて聞いた現人神、昭和天皇の玉音だったのです。

               
         玉音を録音する昭和天皇
 
 間もなく、その変な日本語らしき神のみ言葉は終わったのですが、私はもちろん、回りの大人たちのほとんどが、それが何を言っていたのかさっぱり分からなかったのでした。
 しかし、中に少しは学のあるのがいて、その人がつぶやくように言いました。
 「戦争に負けたんや」
 回りは半信半疑でした。まだ、昨日まで、大本営は我が軍の戦果を華々しく伝えていたのですから。
 「じゃあ、本土決戦はどうなるんじゃ」
 誰かがいいました。

 そう、本土決戦があるはずだったのです。そこでは一億総火の玉で、一人一殺、鬼畜米英を迎え撃つはずだったのです。そのために竹槍の訓練も行ってきたのです。
 「そんなもんはもうない」
 彼は吐きすてるように言いました。

 あちこちからの情報で、彼が正しかったことが次第に明らかになってきました。
 不思議とパニックは起きませんでした。大人たちはけだるい表情で、農作業に出かけたりしました。
 ただ、一部の、主に旦那衆ですが、鬼畜米英の暴虐を恐れて、隠匿していた貴金属(一般家庭からは、献納という形でとっくに召し上げられていました)などを持って近くの山林に逃げた人がいました。やがてそれらの人も、様子をうかがいながら、恐る恐る帰ってきました。
 鬼畜米英もこんな片田舎までは手が回らないらしく、しばらくはその姿を見ることもありませんでした。
 四キロほど離れた町に住む叔母がやってきて、その町の駅前で彼等の一団を見たが、何ということもなかったと言っていました。枝豆を食べていたどっかの子に、それは何だと訊ねていたなどといっていました。

              
       連合軍総司令官、ダグラス・マッカーサー
 
 夏休みが終わりました。しかし、登校すべき学校はありませんでした
 夏に入る前の、ほんの付け足しのような空襲ですっかり焼け落ち、校庭の栴檀の樹のみが一本、虚しく残っていました。
 授業は、あちこちの寺や、焼け残ったちょっとした工場などで、行われることになりました。
 その工場は、機銃掃射で天井に穴が空いていたため、雨降りには傘をさしての授業でした。

 授業の最初は、教科書の墨塗りでした。
 教師が、何ページの何行目から何行目までと指示し、それに従って墨を塗りました。ところによっては、ほとんど一頁をすべて塗らねばなりませんでした
 ドジな私は、教師の指示する頁とは違うところを塗ってしまって、笑われたり叱られたりしました。

 あとで知ったのですが、その頃、軍部はむろん、各省庁や役場でも都合の悪い書類などはすべて焼却していたのでした。ですから、歴史修正主義といわれる人たちが、今になって、そんな公式文書などないと居直るのはいかがなものかと思ってしまうのです。

         
 いつの間にか私たち子どもは、鬼畜米英を待ちわびるようになっていました。
 風の便りによると、彼等は、チョコレートとかガムといったものをくれるらしいのです。
 そうしたものがあるとは話には聞いてはいましたが、そんなものは見たこともなかったのです。
 私たちは、四キロほど離れた町にいるという彼等が、私たちの集落へ姿を現すのを今か今かと待ちかまえていました。
 
 遂にある日、彼等はやって来ました。未舗装の道を土煙を上げながら二台のジープに分乗してやって来たのです。
 私たちは、わらじ(ズック靴は金持ちの子だけでした)の紐も切れよとばかりに駆け、ジープと併走しながら声を限りに叫びました。
 「チョコレート、サービス! ガム、サービス!」
 しかし、無情にもジープは私たちの傍らをいっそうスピードを上げて駆け抜けて行くのです。
 それでも私たちは、追いすがるように駆け続け、なおも叫び続けました。
 「チョコレート、サービス! ガム、サービス!」

 ジープの巻き上げる土埃が私たちを襲いました。鼻からも口からもそれが入ってきます。
 それでも私たちは叫ぶのをやめませんでした。
 「チョコレート、サービス! ガム、サービス!」
 まるでそれが、あの予定されていた本土決戦であったかのように・・。

 現人神の肉声を聞き、鬼畜米英を目の当たりにした夏、私は、天皇のため、お国のために命をなげうつ小国民の覚悟を脱ぎ捨てたのでした。

 この時期になると、あの折の自分の声がこだまするような気がします。
 わらじ履きで必死に駆けながら叫んだあの声が・・。
 「チョコレート、サービス! ガム、サービス!」
 「チョコレート、サービス! ガム、サービス!」




 



 
  日本中のほとんどの都市で、こうした無差別絨毯爆撃がおこなわれた。

*日本の敗戦の確定がいつなのかには諸説があります。
   45年8月14日  ボツダム宣言受諾
   45年8月14日  昭和天皇の詔書発令
            玉音放送録音
   45年8月15日  玉音放送公開
   45年9月2日   全面降伏文書調印


 しかし、私見によれば、1944年段階で既に敗戦は確定していたのであり、それが引き延ばされたことにより、自国や他国の多くの人の人命が奪われました。
 その段階で敗戦を認めていれば、広島や長崎の原爆もなく、本土の無差別爆撃も避けることが出来て多くの人命が救われたと思うと、当時の硬直した天皇絶対主義国家のオカルト的な(例えば、最後には神風が吹いて日本が勝つといった)政策の愚かしさが本当に恨めしいのです。




コメント (2)
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