六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

花 この淫靡で、それがゆえに愛らしきものよ!

2012-06-30 00:00:47 | 花便り&花をめぐって
 なんだか気が滅入って文章も書けない。
 書くことがないわけではないが、書いた途端にそれが虚しくなり、あとで読み返すと自己嫌悪に陥る予感がする。
 まあ、こんな時は花の写真でも載せてごまかすことにしよう。
 逃避の材料に利用された花には申し訳けないが、私としてはあなたたちに甘えているつもりなので、恋の道行きの相手にでもなったつもりで許して欲しい。

       
 
       

       
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人を殺してしまったのだろうか? 悪夢と中途覚醒

2012-06-27 15:43:06 | よしなしごと
     写真は関係ありません。部屋の眼下に咲いた柾(マサキ)の花

 悪夢の後に目が醒めて、その後、寝付かれないままという日がここ二、三日続いている。結果として睡眠不足で、昼間しなければならないことが手につかず、あるいはちゃんとこなすことができず、気だるさのみがまとわりついて離れない。
 年に何回か周期的にやってきて一週間ぐらいは続く持病のようなものだ。

            
             
 昨夜は特にひどかった。
 どうやら人を殺してしまったようなのだ。こんな夢ははじめてだ。
 さいわい、殺す場面そのものは出て来なかったので不快極まりない思いは免れたのだが、その後、逃げ回っているところから夢は始まった。
 どうして虫も殺せないこの善良を絵に描いたような私(自分がいうのだから確かだ)が、人を殺す羽目になってしまったのかはさっぱりわからない。

 もっと不思議なのは、ある女性と一緒に逃げているのだが、その女性こそ私が殺してしまった当の被害者なのだ。
 といっても知っている女性ではない。それどころか、おそらくこれまでの生涯にはまったく出会ったことのない女性なのである。
 歳の頃は4、50代だろうか、なかなか知性的な顔立ちで、髪型はおかっぱ風だった。声は落ち着いたアルトで、言葉付きや話す内容もしっかりしている。

            
 
 いっておくが決して私が強要して一緒に逃げているわけではない。
 それどころかこの女性、私に殺されたにもかかわらず私と一緒に逃げているのみか、その逃走についてじつに適切なアドヴァイスまでしてくれるのだ。
 私はまるでその人の弟のように、すっかり頼りきって逃避行を続けるのだった。

 いつか私は、このままずーっと一緒に逃げていたいと思うようになったのだが、夢のなかとはいえ事態はそれほど甘くはない。
 ついに私は(私たちは?)丘の上の一軒家で警官隊に包囲されてしまった。
 もはや、逮捕は時間の問題。
 そのとき彼女が耳元で言ったのだ。
 「いいのよ、ちゃんと私がいってあげるから」
 ここで目が醒めた。

 「私がいってあげる」っていったい何をいってくれるつもりだったのだろうかと半ば夢うつつのなかで私は考えていたが、むろんわかるはずはない。

            
                    接写にすると・・・
 
 それからがいけない。
 すっかり目が冴えてしまってもう寝付けないのだ。
 で、当然、その夢のことを考える。
 フロイトなど少しは読んでいるものの、無論、夢判断や分析など到底できないし、例えしたところで、まあ、一種のこじつけにしか過ぎないことだろう。
 
 しかし、凄惨な場面はなかったとはいえ、自分が殺人者になったというのは少しショックではある。まあ、空想のなかでは消してやりたい奴がいないではないが、それを現実に考えたことはない。
 ましてや、夢のなかでの女性は好ましい印象こそあれ、殺すほどの憎悪の対象には決してならないタイプであった。

            
                  やってきたアオスジアゲハ
 
 そんなことを考えていたら一時間はとっくに過ぎて二時間に迫ってしまった。改めて睡眠薬を飲もうかと思ったが、この時間に飲むと朝まで残ってしまってまたまた困ることになる。
 それやこれやで、やっと浅い眠りについたかと思ったらけたたまし目覚ましに叩き起こされた。

            
                ホタルに似ているが残念ながらほかの虫
 
 おかげで頭は鉛詰めの状態で熱っぽいようでもあるが、しなければならないこともあるので床を離れた。
 その後、一応すべきことをしたので少し昼寝でもと思ったが、あと一時間ほどで別の予定が入っているのでその間にぼんやりした頭のままこれを書いている。

 今夜また、あの女性に会えたら、あなたを殺したことは間違いであったとちゃんと謝れば、中途覚醒の悪習は解消するだろうか。
 
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【日記らしい日記】恋に身をよじって泣くネジンボ

2012-06-25 17:07:53 | 写真とおしゃべり
 岐阜サラマンカ・ホールで開催されるコンサートなどの案内を送ってくれたり、割引チケットを販売してくれる「サラマンカ・メイト」の資格が今月で切れるよ~んというお知らせがありました。
 しばしばコンサートに出かけるし、案内をもらうだけでこの地区の音楽シーンとのつながりを確保できるとあって、失効してなるものかと早速出かけました。
 手続きは簡単、ついでに近未来でいいプログラムがあればこの際予約をと物色しましたが、それらしいものがなかったのでそれは断念。

               
                朝顔の緑のカーテンにはもう花が付いているものも

 そして県立図書館へ。今日返却のものが4冊、最後はピッチを上げて読んだのですがいずれもノートをとらなければならないもので、ついに最後の一冊の三分の一ぐらいを残してしまいました(余分なこともしてたもんなぁ)。
 で、カウンターで「この一冊だけ継続して借りたいのですが」と申し出てスンナリ了承を得ました。
 前に同じシチュエーションで、「次の方がお待ちですからだめです」と断られたことがあります。それからしばらくの間、その本に関するノートは空白のまま残されることとなったのですが、しばらくして再びその本を手にした折には、その問題への興味がすっかり失せていたこともありました。

      

 さらに隣の県美へ。ただいまは県展の開催中だが内部はご無礼して外回りの自然ウオッチング。芝生の生えている中になにやらつんつくと10~20センチぐらいのものが生えています。それが結構広範囲に分布しているのです。
 よく見るといわゆるネジンボです。
 この花、和名ではネジバナ(捩花)というのだそうですが、ねじり草ともいわれたりもするようです。私のいうネジンボウは子供の頃からそれを見つけると「あ、ネジンボウがあった」と言い続けてきたもので、その意味では「私的言語」です。
         
                                        ここに蜂さんが・・・
 
 巻く方向は左右それぞれだとのことですが、私が見た範囲ではいわゆる時計方向が多かったように思いました。
 特筆すべきは、園芸家などが珍重するという白い花のものが結構見られたことで、私がのぞき込んで写真を撮っていると、「あ、白いのがある」という家族連れの声が背後で。やはり珍しいのでしょう。
 蜂がやってきたのでチャンスと思ったら恥ずかしげに花影に潜んだもの一枚を残してどこかへ行ってしまいました。

 このネジンボ、源融(光源氏のモデル?)が百人一首で詠んだ  
  
        陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにし我ならなくに

 の「もぢずり」でもあるとのこと、「なるほど、身をよじってもだえたんだと納得。ただし、それが男性の仕草だとすると、五木ひろしが演歌を歌うときのようでいまいちだなぁと思ってしまいます。
 おなじ身をよじってもだえるのなら女性にしてほしいものです。
 そして、できれば私がそうさせたい(←バカ!)。
     
        
       <photo 

 本当は、この場所で定点観測しているお気に入りの南京ハゼの木を撮しにいったのですが、今回はすっかりネジンボに主役を占拠されてしまいました。
 申し訳程度に、南京ハゼと近くにあったエゴの実などを紹介します。

 
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水無月に水を考える 付:レトロな建造物

2012-06-21 17:44:12 | 写真とおしゃべり
 岐阜市の水道水は美味い。
 全部で21箇所の水源があるとのことだが、そのほとんどが長良川の伏流水を汲み上げたもので、飲料水としての水質基準をはるかに高い値でクリアーしている。
 ようするに良質の井戸水が供給されているようなものである。
 それが証拠に、これら水道の原水が、無添加無処理のままセラミックフィルターでろ過したのみでペットボトルに詰められ、販売されている。その名も「清流長良川の雫」という。

                

 ところで昨年来、私は水に関する新たな経験をふたつした。
 そのひとつは中国山西省の山の民の生活に触れたことであった。
 ここではまさに「水は天からもらい水」で、慢性的な水不足状態であった。最近では麓から週一回ぐらい給水車が来るようだが、それではとても足りない。
 家々の庭には、中央付近にくぼみが穿たれ、庭の地面はそこへと向かって傾斜している。ようするに、降った雨を逃さずそこへ誘導しようというわけである。

 また、顔を洗い口を濯いだりした水も決して捨てない。それらは畑のための貴重な資源なのだ。
 一生風呂へ入ったことのない人、シャワーも浴びたことがない人が大半だともいう。
 まさに水を「湯水のように使う」私たちからは考えられないことであり、水の貴重さをしみじみと知った次第である。

 したがって帰国して以来、以前よりは水を大切にするようになった。ただし、その後時間を経るに従い、それも幾分緩んできているので、それに気づいた折には改めて自戒するようにしている。

               
                 中国山西省の民家の庭に掘られた雨水集積のための穴

 もう一つの経験は、昨春の原発事故以来、各地で続発した飲料水をも含めた水のセシウム汚染の問題である。
 それは地元はもちろん、東京都の水道水まで汚染する結果になっている。パニックになるので詳報はされないが、検出されたことは事実であり、現在それがどの程度まで収まったかは定かではない。
 また、先般のNHKの「報道スペシャル」によると、福島で出荷不能になている米の汚染も、山林に蓄積された放射能が山水とともに水田に至ったことによるという。
 
 あたら有り余る水を、むざむざ放射能に曝すとは、まったく惨いというべきだろう。
 ついでながら再稼働が急がれている大飯原発が事故を起こした場合、関西の水瓶といわれる琵琶湖の汚染は必至であり、京阪神の人々は飲料水は無論、日常使用する水を絶たれることとなる。
 その用水に依存する田畑の収穫物についても言わずもがなであろう。

 

 そうしたあおりを食って、岐阜市の上下水道事業部でも昨年来、放射性物質の検査を行なっている。
 以下はその、HPによる。
 「岐阜県では、福島第一原子力発電所の事故に伴い、東京都などの水道水から放射性物質が検出されたことを受け、平成23年9月より岐阜県内の水道水の安全性を確認することを目的に《水道水の放射性物質モニタリング検査が実施されることになりました。」
 そしてこの6月15日の最近の報告は以下である。
 「検査結果
   現在までのところ、放射性ヨウ素及び放射性セシウムは検出されておりません。」

   

 かくして岐阜市民は安心して水を使用することが出来るわけだが、原発からはるか離れたこの地で、そうした定期検査が行われなけれがならないこと自体がこの事故が及ぼした計り知れない影響の大きさを示している。

 この検査のモニタリング・ポストの一つが先に見た水源の一つ「鏡岩水源地」であり、私の居住区域もまたそこからの給水ブロックに属する。
 そこを訪れてみた。

 織田信長の居城があった金華山が長良川へせり出す辺りの山麓と、長良川の河川敷との間にそれはある。
 水源からの揚水そのものは別に見るべきところはないかもしれないが、40年ぐらい前までそのエンジン室、ポンプ室として使われていた二棟の建造物が、現在は「水の資料館」として一般に公開されていて、山裾に抱かれたそのレトロな佇まいがなかなか素晴らしい。

    

 国の有形登録文化財に指定されたこの建物は、赤い切妻屋根を方杖(ほうづえ)で支える山小屋風の意匠をもち、花崗岩を隅石や窓の縁取りに使用し、その丸窓など曲線が全体の風情によくマッチしている。
 またこの建物の最大の特徴は、外壁にすぐ目の前の長良川の川原で収集したという無数の玉石がはめ込まれていることで、それが無機的になりやすい壁面に素晴らしいアクセントを与えている。
 また何度もいうが、山麓に位置するというロケーションもこの建物の味わいをよく引き立たせている。

    

 この前の記事で触れた引退した発電機と同じ敷地内にあるのだが、その発電機といい、この建物といい、黎明期の技術が私たちの身近にあり、手の触れる距離にあった時代を回想せずにはいられない。
 とはいえ、もうその時代に戻ることはできない以上、現代の科学技術と私たちが共存してゆく新たな方法、とりわけ、その管理が専門家と称する政官財の一部の人たちに任され、それが不透明なベールの彼方にある現状をどう打破してゆくのかを真剣に考えないと、気づいたら破局の中にいたことになりかねないように思う。

 昨年の原発事故はそうした現状への警鐘にほかならないだろう。






 
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原発以前のエネルギイ 発電機の老兵

2012-06-18 16:15:36 | 歴史を考える
 かつて、岐阜の揖斐川支流で稼働していた水力発電機が長良橋の少し上流にある岐阜市の上水道鏡岩水源地の敷地内に展示してあるというので、見に行った。
 
 ある人を見舞っての帰りである。
 たとえ、お見舞いといっても、病院の雰囲気は独特で、とりわけ最近の病院は機能本位に造られているだけに私のような老人を威圧するものがある。
 まあ、そんな気分を和らげ、次の行動へのギア・チェンジのためといっていいであろうか。

 平日の午後とあって人の気配は全くない。少し手前のかつての旅館街(ああ、なんと寂れてしまったことか。かつて、林立に近い状態だったのが、いまや10指で足りてしまうのだ!)には、鵜飼の開始までを散策で過ごす人も散見されたが、そこからわずか100m余り、ここまで来る人は皆無のようだ。

 

 入り口を辿ると、いきなり「イノシシが出るよ~ん。注意しろよ」の看板が。
 ロケーションは河畔にそびえる金華山と地続き、その山麓とあってさもありなんというところだが、注意しろっていわれてもこっちがお招きするわけではなく、先方様が勝手にお出ましになるのだから注意のしようもあるまい。

 めげずに進むとそれらしいものが展示してある。
 もっと巨大なものを予想していたがそれほどではない。高さにして3m前後であろうか。

 

 説明書を読む。フムフム、明治41(1908)年からか・・・・、だとすると私の亡くなった父と同い年だなぁ・・・・なに?粕川で昭和57(1982)年まで稼働していた・・・・じゃあ、アマゴ釣りで何度も通った折に見たあのダムの下で動いていたわけだ・・・・粕川といえば家から一時間余りで行けるホームグランドみたいな川、この発電所を眼下に何度往き来したことか。ただし、私の釣り歴の最後の方ではもう停止していたことになる。

 

 初対面の機械なのにどことなく懐かしい思いを禁じ得ないのはそうした因縁か、それとも、ハイテク機器がもつ冷たさとは違ったどこか人懐っこいレトロな機械がもつ独特の雰囲気のせいか。

 細部も見て回る。と言っても生来、機械には鈍い方、ここから水が入ってこのタービンを回し、ぐらいしかわからない。しかし、おそらくはそれがこの機械のほとんど全てなのだろう。そして、だからこそその単純さが私に馴染むのだろう。

 二、三箇所に貼られたプレートを読むと、この機械の製造(水車はモルガン・スミス、発電機はゼネラル・エレクトリック)や輸入元(やや薄れているが)、それに性能も分る。

 

 ぐるりと一周して撮るべきところを写真に収める。
 張り出した山の陰になって午後の陽射しが遮られ、少し涼しくなってきたのを機にその場を離れる。

 蒸気機関がそうであったように、またこの水力発電がそうであったように、かつての技術は私達の身近にあって親しみやすく、またその原理の単純さもあって制御可能なものに思えた。
 それから100年、膨れ上がったテクノロジーの数々はそのディティールの煩雑さを増し、あるいはまたその相互間の結びつきを生み出し、私のような市井の人間にとってはほとんどブラック・ボックス化してしまった。
 それと同時にそれを管理する組織やシステムも特権化され、私たちにとっては不可視のところでその制御や決定が行われるに至った。

 そのひとつの帰結が今回の原発事故である。
 一見それは不意を襲ったかに見えながら、一部の人には予見できたものであり、事前に指摘されていたものであるという。しかし、それらは政官財の複合体の中では圧倒的な少数派であり、私たちの耳目からは慎重に遠ざけられてきた。

 

 この事故を契機に、それらが可視化されようとするかに見えたが、再び霧の中へと隠されようとしている。
 再稼働を巡る動きは、その情報の詳細を公開しないまま、予め定められた「儀式」によって決定を見るに至っている。
 資源エネルギー庁から再稼働作業に入るよう指示が出たと関電が嬉々として発表したのは16日午前だったが、これは大フライイングで、実際に資源エネルギー庁からその指示があったのはその20分後であり、発表の時点ではまだその指示は出ていなかったという茶番すらあった。陸上競技ならその時点で失格だ。
 しかし、「もうすでに密室で決まっていた」事柄にとっては、そんなことは「ちょっとしたミス」で、メディアもそれをエピソードとしてしか伝えない。

 しかし、これが「民主的手続きを経た」「慎重な熟慮の結果」であるとしたらとてもそら恐ろしいことではないだろうか。

 こんなことを考え合わせると、この100年以上前の頑丈で無骨な発電機に頬ずりしたいような懐かしさを覚えるのは私の老いのせいばかりではないようだ。
 何れにしても居丈高で虚妄なシステムの魑魅魍魎と付き合うのは疲れる。それぐらいなら、山から出てくるイノシシのほうがはるかに可愛いというものだ。


同じ敷地内にある岐阜市の上水道水源地の水の資料館も、水道開設以来1970年代まで現役だった建物で、長良川の石を積み上げて立てられたそれは登録有形文化財にも指定され、素敵な雰囲気を持っている。項を改めて紹介したい。


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映画『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』はカリカチュア?

2012-06-16 16:29:17 | 映画評論
 前回はARATA改め井浦新が出た映画を一日に二本も観てしまったことを書いた。
 その内の一本『かぞくのくに』については紹介したが、もう一本の『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』には触れることができなかった。
 文章の長さや時間の制約もあったが、質的にいってまとめにくいというのが正直な実感だ。

               
 
 題名の通り、三島由紀夫が若者たちを引き連れての陸上自衛隊市ヶ谷駐屯部隊へ籠城し、彼自身、並びに彼に心服する学生森田必勝の自決までの過程を追った映画である。
 それらの事実は、その同時代を生きてきた私にはある意味、既知のものであり、それへのある種のイメージも持っている。したがってこの映画を見る動機は、私のその既知を越えるなにがしかのものへの期待、あるいはあえてこの時期にこれを世に問う監督の解釈や立ち位置への関心であったといっていいだろう。

 しかし、はっきりいってそれを把握することには失敗したといっていい。ようするに、なぜ若松氏がこれを今作らねばならなかったかがもうひとつよくわからなかったのだ。

       

 極度に様式化されたその美学、効率において勝る銃よりもあくまでも日本刀でなければならない、そして、その自決は古来の作法に基づく切腹でなければならないというのは分からないではないが、それが過度に強調されると今ひとつの物神崇拝が浮かび上がってきて、その純化は滑稽の領域に滑り落ちてしまう可能性がある。

 また、共に自決した森田(それを満島真之介が熱演)が途中、「先生、私実は先生のお書きになったものがさっぱり分からないのですが」というのに対し、頷き返す辺りも、三島自身が大正教養人以来、連綿と続く日本知識人への不信感を強烈に持ち続けていたとはいえ、「理よりも情」に単純化されてしまうとやはり幾分引かざるをえないのだ。

 もっとも、三島と全共闘とが共鳴した点がまさにそうした日本知識人への不信感であり、それを力で突破しようとするパトスであった(ついでながら、それに「天皇」という名を冠するかどうかが唯一、彼らが相違する点であった)とすれば、それも分からないでもない。

             

 これらの諸点を劇画風に強調した若松演出の意図は、実はそれらをカリカチュアライズすることではなかったかとすら思える。若松氏がそれを意識してはいないにしても、私にとってはそう思えてしまうのだった。

 市ヶ谷のバルコニーでの自衛隊員に対する三島演説での「諸君は武士だろう!」という呼びかけは、その当時もサラリーマン化された自衛隊員に対する全く場違いなものであると思っていたが、この映画でもそれははっきり浮き出ている。
 ようするに、バルコニーの上と下とでは全く接点がないのだ。
 三島たちは孤立したミニチュアの世界で様式化された美を演じているに過ぎない。

 しかし、少なくとも三島はそれを知っていたのであろう。むしろ、自分がそうした隔絶された場にいて、しかも不本意、かつ無為に生き長らえることに嫌悪したがゆえにその死に場所として自分の世界をあのように演出したのだろうと思う。

 ところで、若松演出であるが、私が最後に述べた視点からの掘り下げがなされず(多分、意識的にそうしなかったのだろうが)、「実録」風に綴っているせいもあって、すでに述べたように「コップの中の戦争ごっこ」といったカリカチュアとしての側面が強調されてしまうのではないだろうか。

       

 「実録」といえば、この映画と対になっているような同監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』も、ほぼ同じ様な方法で撮られているのだが、そちらの方がよりリアリティが感じられたのは、監督自身の立ち位置のせいであろうか。

 三島事件、連赤事件、オウム事件は、大雑把にいえばその原理主義的主張による全体主義のミニ・カリカチュアとしてくくってしまえるかもしれないのだが、そのそれぞれには、それに内在する思考なり状況なりがあるはずである。
 惜しむらくはこの三島を題材としたものでは、その客観主義的演出と相まって、それらがあまり明確に浮かび上がってはいなかったように思う。

 この事件は、第一次の高度成長が様々な異論を抑圧しながら成就する過程に投げ撃たれた一つの特異な礫として記憶に留めるべきだろう。
 果たせるかなその後に迎える80年代、三島の杞憂したとおり、「義なき大国」として「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を豪語したこの国は、その後の転落過程を経て、名づけ難いグロテスクさの土壌の上で這いまわっているように見える。

 ここに至るまで、私たちがどのような経過を辿ったのかの一つの資料として、この映画は若い人達には必見であろうと思う。ただし、三島の美学は単にそこへと収斂されないないだろうことは言い添える必要があろう。


余談であるが、「東大全共闘」とのディスカッションの場や、70年前後に街頭で叫んでいた人たちが、今、言論界や政界などでも「活躍」している。民主党政権の中枢にいて、原発再稼働をリードした人も含めて。




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不条理な非日常と日常 映画『かぞくのくに』を観て

2012-06-14 18:09:37 | 映画評論
 一日に、ARATA改め(いきなりシャレかよ。でも事実だから仕方ない)井浦新が主演、ないし主演級の映画を2本観てしまった。
 この人が出た映画、気がつけば、『DISTANCE』(是枝裕和:監督)、『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(若松孝二:監督)、『空気人形』(是枝裕和:監督)などなど、そこそこ観ている。

 で、昨日観た最初のものは、今年8月に名古屋シネマテークで上演される『かぞくのくに』(監督/脚本 ヤン・ヨンヒ)の先行試写会。
 この「かぞく」は東京に住む在日朝鮮人の一家で、父親はいわゆる「総連」の幹部級であるらしい。そんな関係で、1970年代、まだ10代の息子のソンホを帰国事業の一環として北へ送り出すのだが、その息子が「北」では治療不能の病にかかったため、同じような他の患者とともに三ヶ月限定の日本での滞在が許されて帰ってくる。
 物語はその父と母、それにソンホの妹のリエの4人の「かぞく」に関するものである。

          

 総連の幹部といっても、単に東京の下町の路地にある喫茶店の経営者にすぎない。
 また、日本滞在が許されたといってもそれはお目付け役の厳重な監視下においてである。
 この監視役を韓国の俳優にして監督のヤン・イクチュンが演じているが、なかなかの存在感である。
 物語は主として妹・リエの視線で進むが、ソンホが離日する前の同級生たちやかつての恋人との出会いなどさまざまなエピソードを縫って三ヶ月が経過するかに思われる。

 ここで私たちは、思い描いた物語の中断を告げる不可解な事態へ突き当たることとなる。
 まさに出口なしの不条理なのだが、例えば、カフカの不条理がその根っこを人間のある種のリアリティにもつとはいえ、想像力で昇華されたものになっているのに対し、この映画の登場人物が突き当たる不条理は、まさに私たちが作り上げてきたもの、国家やその諸関係、その接近と分断の歴史のなかで醸成されたもので、現実に抜き差しならぬものとして突きつけられてくるものである。

 それは、総連幹部の父や、監視役のヤン同志にすらなんとも出来ない、あるいは質問することすら許されない不条理なのだ。
 例えていうならばそれは、ハンナ・アーレントが描く誰も命令主体がいないにもかかわらず、運動として事態が推移する「全体主義」の化物の様相にも似ている。

 そうした不条理のなかで、最も理性的に振る舞うのが実は母親(オモニ)であることも見逃せない。この辺りを宮崎美子が抑制を効かせた立ち居振る舞いで好演している。
                     
          

 以上は極めて抽象的ではあるが、ネタを明かさない限りではこのくらいしかいえない。

 実はこの映画の背景になっている北へのいわゆる「帰国事業」であるが、私がサラリーマン生活をしている折に一度だけそれに関わったことがあった。
 この「事業」は、1950年代末から84年にかけて行われた在日朝鮮人の北への集団帰国、ないしは集団移住のことで、「帰国」したのはもともとの北の出身者に限らず、南出身の人たちのなかでも、北の方により希望を見出した多くの人たちが移住した。

 私が関わったのは(といっても工業用ミシンの営業活動のなかでたまたま遭遇したのだが)1960年代の後半、昭和40年代の半ばであった。
 名古屋市の西区でワイシャツの製造をしている縫製工場から相談を持ちかけられた。
 従業員10人程度の小さな工場であったが、その技術には定評があった。
 経営者の中年のおやじさんは在日の人で、もう名前もすっかり忘れたが、仮に李さんとしておこう。李さんの自慢は、「うちで作ったシャツの襟で頬を突くと血が出る」というものであった。たしかにワイシャツの生命は襟の出来栄え、前立のステッチ、胸ポケットの美しさにある。

 ところでこの李さん、帰国事業で北へ帰るというのだ。
 ついては、向こうにはいい機械がないから、新しく買った機械を持って行く、だからその相談に乗ってくれとのことであった。
 単なる見積ではない。機種の選定、それら機種に適合した消耗部品(針、ボビン、ボビンケース、釜、送り歯、その他メンテ用の部品などなど)の選定とその必要個数の割り出しなど結構厄介な仕事なのだ。加えて技術者を同行し、メンテナンスの指導もしなければならない。
 それらをこなし、見積でも最終の調整ができた段階で、李さんが最後に切り出したのが国内出荷用のダンボールの梱包ではなく、輸出梱包をサービスでやってくれないかというものだった。木箱で梱包し、金属製のベルトで固定するのだ。

 交渉は難航した。李さんとの間ではない、私と本社との間でである。
 私はせっかくの門出だからと粘り強く本社と交渉した。
 結果としてその了承を取り付けることができた。
 李さんはたいそう喜んでくれた。

 出発が近づいたある日、李さんから突然電話がかかってきた。
 「今夜うちで送別会があるのだがお前も来ないか」との誘いであった。
 いろいろ無理もいわれたが、この愛すべき職人、李さんの門出のためならと私は出かけた。

 出席者は在日の人達が圧倒的に多く、日本人は私とご近所で親しくしていた少数の人のみであった。
 料理も、酒も、宴も朝鮮半島一色のものであった。
 今のようにあちらの料理や酒が出回っていない頃のこと、口にする全てのものが私には初体験であり、珍味であった。
 酒が回るほどに歌舞宴曲が入り乱れ、その異国の歌や踊りがまた面白かった。

 李さんは、取り巻きたちのなかで顔を赤くしてすっかり上機嫌だったが、時折私のところへ来て、「ありがとうな、ありがとうな」と繰り返すのだった。
 そしてついには私を立たせ、「この人の世話で機械類が整い、私は大威張りで帰国できる。この人はよくやってくれた。将来きっと社長になるだろう」と大変な持ち上げようで、最後には熱いハグを交わして別れたのだった。

                

 それっきり、私は社長になることもなく、ず~っと李さんのことも忘れていた。
 それを思い出したのは梁石日の自伝的小説を映画化した『血と骨』(2004年 崔洋一監督)を観た時だった。
 ビートたけし(北野武)が怪演する親父は、いろいろきわどいことを繰り返しながら稼ぎ出し、それら大金を携えてやはり「帰国」するのであった。
 そして、収容所とおぼしきところで彼がぼんやりしているラストシーンがとても印象的だった。
 
 そのとき、私は李さんのことをハッと思い出したのだった。
 あの職人気質で曲がったことが嫌いな頑固者の李さんが、あの体制のなかでうまくやって行けたのだろうか、やはり、それに馴染めず収容所のようなところに入れられたのではないだろうか。
 私のこの遅れてきた不安は、彼の国のニュースなどに触れるたび、今なお、頭をめぐるものである。

 最初の映画に戻ろう。
 不条理で不気味なものについて触れた映画だといった。
 たしかに彼の国を取り巻く状況の中ではそれが際立っているかのようにも見える。
 だが果たしてそうか。
 私たちが住む現にこの場所においても、一皮めくればそうした不条理で禍々しい「主体なき意志」のようなものがとぐろを巻いているのではあるまいか。

 原発事故とそれへの対応が明らかにしたもの、そしてその再稼働に向けての動きが隠蔽し続けるもの、それらもまた不条理で不気味なものではあるまいか。
 一見、開かれた体制であるかのように見えながら、私たちの手に届かないところでさまざまな事態の推移が為されている体制、そうしたヤヌスの神、ヤヌスの鏡に、私たちもまた支配されているのではないだろうか。

 妹のリエが見張り役のヤンに、「あなたもあの国も大嫌い」となじるのに答えてヤンはいう。
 「あなたが嫌いなあの国で、お兄さんも私も生きているんです。死ぬまで生きるんです」と。
 ここには高い目線から一方的に、かつ一律に彼らを非難する者には決して理解し得ない深い悲しみがある。


 もう十分長くなりすぎた。もう一本の『11・25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』に関するものは他日に期したい。
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梅雨の風物と「若い女の子」にもてた話

2012-06-12 02:46:04 | よしなしごと
 岐阜駅の南側に、清水川という川があって、私の子供の頃は所々で自噴が見られ、文字通りの「清水」川でした。しかし、高度成長期の垂れ流しと地下水の過剰な汲み上げで、一時はその名前が泣くような川に変わり果ててしまいました。

 それから幾年かを経て、岐阜駅周辺の再整備にあたり、清水川の浄化と環境整備のプロジェクトが進められることとなりました。その折、水生動物の専門家として、これに参加されたのが私の高校時代の生物の恩師、後藤宮子先生でした。

 この後藤先生、長良川の生態系の変化をフィールドワークを通じて観察し続け、その膨大なデータは現在京都大学に収められています。
 そして、そのデータから、長良川河口堰の生態系に及ぼす破壊的な影響を指摘され、河口堰反対の有力な論客として活躍してこられました。

 そんな経緯もあって、岐阜駅の近くに用件があり、時間に余裕がある時にはしばしば、清水緑地と名付けられた一帯を散策します。
 一旦はドブ川になった川に清流に住む魚たちが戻り、水中で鱗をきらめかせて反転するのを見たり、川面に水生昆虫たちが行き交うのを見ることは心地よいものです。
           
          

 昨日立ち寄った折には、川岸近くで戯れるモンシロチョウのつがいを見かけました。懸命に追いかけたのですが、いっときもじっとしていないから大変です。
 私の腕と携帯のカメラでは上の写真が限界です。

 彼らを見ながら、「蝶々」という歌を思い出しました。
 「菜の葉にとまれ」でもなく、シューマンのピアノ曲作品2でもありません。1969年に坂本九が歌った曲です。
 この歌、その歌詞にある「上になったり下になったり蝶々っていいな」というくだりが卑猥だというので放送禁止になりました。なんでそんなことを覚えているかというと、放送禁止になる直前にTVでその歌を聴いたからです。

 その折、「面白い歌だけどちょっとやばいかな」と思ったのです。もちろん放送禁止にすべきだと思ったわけではありませんよ。その頃の一般通念からいってやられるのではないかなと思ったのです。果たせるかな、見事に放送禁止です。お陰で、私の頭にははっきりとそれが印象づけられたという次第なのです。
           
          

 この緑地にはいろいろな花が咲いています。多分これは花菖蒲だと思うのですが大ぶりで立派な花をつけていました。
 ちょっと淡い面白い色ですね。

          

 まあしかし、この時期外せないのが紫陽花でしょう。
 まあるく弧を描く花の形、土地の成分や時期によって変わる花の色合いなどはやはり梅雨を彩る女王の風格に満ちていますね。
 カタツムリなどはいないだろうかと探しましたがそんなに都合良くはゆきません。そのかわりミツバチがお食事中でしたのでそれをカメラに。

          

          

 水辺を離れて公園の噴水池の近くに差し掛かると幼稚園児たち(どういうわけかほとんど女の子)が水辺にしゃがみこんで何かをしています。
 「何してるの?」
 と、尋ねると、
 「あのね、お舟を浮かべるの」
 とのことです。
 確かに、笹の葉がありそれらをいじっているのですが笹舟にはなりません。くしゃくしゃになった笹を浮かべるのですが、それくらいなら笹の葉をそのまま浮かべたほうがいいようです。

 どうやらこの子たちは、笹の葉が舟になるよぐらいにいわれているのみで、その作り方を教えてもらってはいないようなのです。
 「おじさんが作ってみようか」
 といって昔とった杵柄で、笹を折り曲げ、三等分に切ってその左右を互いに差し込む舟を作り水に浮かべました。舟は風にのってスイスイと進みます。

 はじめ訝しげだった子らの視線が感嘆に変わりました。
 「おじさん(おじいさんじゃァありませんぞ)私にも」
 と笹が手渡されます。
 それを作り終えると次々に「私も」の声。
 私の前には時ならぬ行列が・・・・。

          

 その騒ぎに気づいた若い女性の先生がやって来ましたが、私が笹舟を作って手渡しているのを見ているだけでなにもいいません。
 「いや、ひとつ作ったらこの騒ぎになりましてね。出すぎたことで申し訳ありません」
 と、私。
 「いえ、いえ」
 と先生。

 私としては
 「笹の葉で舟ができるよというだけではなく、ちゃんと具体的にその作り方を教えたほうがいいのじゃないですか」
 と、いいたかったのですが言葉をのみました。
 その先生の視線を見ていると、どうやら彼女も笹舟の作り方など知らないようなのです。
 彼女自身の年齢や育った場所からしてそうした機会に恵まれなかったのかもしれません。

 「あ、どうもすみませんでした。これで失礼します」
 と、私。
 「いいえ、ありがとうございました」
 と、先生。

 子供たちがバイバイと手を振ってくれました。
 空には雲が垂れ込めていますが、まだ雨らしい雨は降りません。


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再稼働会見と梅雨入り そして南天の花と琵琶

2012-06-10 02:29:32 | 社会評論
 いよいよ東海地方も梅雨入りだそうだ。
 昨年は5月27日だったからそれに比べると2週間ほど遅いが、今年がとくに遅いわけではない。むしろ昨年は例年より12日ほど早かったというから、今年が例年並みということになる。

          

 野田がお膝元の与党議員からの三桁にのぼる反対をも蹴散らして原発再稼働を明らかにした翌日の梅雨入りとは何やら象徴的である。
 国民の再稼働反対は、各種世論調査によれば依然として50%を超えている。野田はそうした民意より政官財からなる「原子力ムラ」の権益を尊重したわけである。

 「国民の皆様の生活を守るために」と繰り返された文言はすべて「原子力ムラの権益を守るために」に代入可能なのだ。
 実際のところ、彼らの危機意識は、この夏、原発なしで過ごせるならば、原発再開の目処は立たず、原発プラントの輸出など原子力ムラが思い描いている路線が壊滅するところにある。
             
              

 かくして野田は、民主党政権の弔鐘を高らかに鳴らすことになった。
 誰もが、彼らが「民主」ではなく「民をないがしろにする」政権であることを知ってしまったからだ。「民」は主ではなく、力づくで支配すべき対象でしかないことが明らかになってしまったからだ。

 いわゆる政権交代には、多くの国民が期待を寄せた。それほど期待すべきではなかろうという冷めた人々もいたであろうが、その人たちですら何らかの変化はあるだろうと多少は思っていたはずだ。
 しかし、その期待は見事に裏切られた。
 
 なにが変わったのか?
 従前より取りざたされていたこの国の官僚支配に何かの歯止めがかかったであろうか?
 答えは「No!」である。
 考えようによっては、自民党以上に官僚支配の罠が強化されたといっていい。
 おかげで私たちは、この汚辱にまみれた似非「民主」政権に朗らかに決別を遂げることができるわけだ。

          

 放おっておいても彼らは「原発推進と福祉なき増税路線」によって自壊は避けがたいように思うが、反原発の運動を進める以上、彼らの退陣を迫ることは当然の事態となったと思う。

 では自民党の支配へとふたたび戻るのか?
 いわゆる政権交代は、民主党への期待というよりも、戦後政治を連綿として担ってきた自民党の腐臭を忌避したからだということを考え合わせると、そこへ戻ることは言葉の正確な定義からして「反動」にほかならないだろう。
 私たちはこの間の過程から、いわゆる「二大政党制」というものが、交代で民意を踏みにじる体制でしかないことをも学んだのだ。

          

 そうなると、話題の第三極がクローズアップされてくる。
 いわゆる「維新」グループは、橋下に依る教育改革という強権反動政治や、下級公務員いじめで信用出来ないところへもってきて、今回の原発再稼働で全く無責任は寝返りを見せつけられた以上支持することはできない。

 「減税」の河村グループは、今のところ反原発の姿勢を崩してはいないが、歴史認識でのかたくなさで危うい橋を渡っているし、市民の諸権利に関する事柄でもすっきりしない事が多いようだ。

 この夏、発足する日本版「緑の党」は、綱領レベルでは首肯できる点が多いが、実際の局面でどう機能するのかは全くの未知数だ。

          

 要するにこの国の政治は、安易に出口を見いだせない袋小路に至ったというのが実際のところではあるまいか。
 ここに至っては、従来の支持政党というものをご破算にし、かといってその折々の情勢になびく「無党派」でもなく、私たち一人ひとりが党派や従来の選択肢を超えた「非-党派」として、来し方行く末をじっくり「思考」すべき時ではないだろうか。

 梅雨入りの日、南天の花は咲き誇り、琵琶が色づいてきた。




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♪アーアーアーアーア~ 高校三年生~♪(なに、飛び級にするって?)

2012-06-06 16:18:58 | インポート
 高校時代の同級生たち4人で遊ぶ。
 岐阜市内が私を含め2人、一人は各務原から、そしてもう一人は岡崎からだ。
 まず、とりあえずの目的は谷汲の日帰り温泉。
 
 途中、学生時代にも、卒業してからもよく遊びに行ったやはり谷汲山近くにある恩師の墓に立ち寄る。かつて、その師のもとに集まるということそのものが私たちの青春にとって欠かせない一面であった。
 有縁の人が周辺にいなくなったせいか墓は淋しい。
 とはいえ、近隣の人や、私たちのように教え子が時折立ち寄るのか、それほど荒れた感じはない。
 私自身も、2、3年前、近くを通りかかった折に立ち寄り、近くで採った野花などを手向けたことがある。

 簡単な掃除をする。やはり花を手向けようかということになったが、ちょうど墓前に矢車草などが咲いていたので、わざわざ折り取るよりそのままの方が良かろうということでそれに任せる。
 一同、頭を垂れてそこを離れる。

       

 さあ温泉!と駐車場に着くと、ほかの車両が全く見当たらない。
 そして入り口には「本日休業」の無情な札が・・・・。

 ならば別の温泉をと車を巡らせたところで、運転者がガス欠寸前に気づく。
 谷汲山門前に近いスタンドで給油をしたついでに、そこのおばさんに近辺の温泉事情を尋ねる。
 なんと、そこから5分も行かないところに日帰り温泉があるという。
 その名も「満願の湯」。
 なるほど、西国三十三所観音霊場巡りの第三十三番札所、結願・満願の古刹、谷汲山華厳寺の門前にふさわしいネーミングだ。

 こじんまりとした温泉だが、泉質もよく、涌泉量も多いようだ。
 チャラチャラとした余分な施設がなく、内湯と露天風呂のみの入浴一筋がいい。
 それに、カルキ臭(晒粉の匂い)が全くないのがいい。

 帰途、そば懐石の店によるかどうかで意見が別れる。
 そこの食事がうまいことは先刻承知だが、そこを利用するとなると運転者のみ、飲酒ができない。彼はそれでもいいというのだが、彼を尻目に飲むのは気が引けて落ち着かない。
 しかし、その本人がそれでもいいというので立ち寄ることに。
 だが、やはり駐車場ががらんどう・・・・。
 やはり休日か、あるいは閉鎖してしまったのかもしれない。
 いずれにしても今日はよく蹴られる日だ。

 岐阜へ取って返す。
 旧知の居酒屋へ。
 ここは今時の若者向けの喧騒がなく、大衆店だがそれなりに落ち着ける。
 料理も、レトルトやチ~ンではなく手造りだ。

       

 話題は多岐に及んだが、まず車中では、以前もここで紹介した、現役で商店を営んでいるH氏がかかわる、不合理極まりない同業組合との戦いの報告が主体であった。
 かつて1,300人いた組合員が今は300人だという。その300人も決して楽な営業ではない。営業成績は低下し続け、後継者もいない中、せめて自分の代はと必死で店を守っている人がほとんどだ。

 H氏にしたところで、海外旅行はおろか国内での一泊も難しいという。
 そんな中でである、理事連中がその組合を食い物にしているというのだ。
 前の専務理事は、年間900万の給与をとり、2,400万の退職金を得て逃げ出すように去ったという。
 どこにそんな金があるかというと、やむなく廃業した人たちが残した積立などが残っているからだ(組合規約ではそれらを返さないことになっている)。
 要するに、死屍累々の業界にあって、落ち武者の屍から金目の物をむしりとるような所業といっていい。
 どうも、日本の官僚機構のミニチュア版であるような気もする。

 ところで、彼の改革の運動だが、その問題提起がじわじわと浸透し、同意者も増えているという。しかし、切り崩しや裏切りもあって予断は許されないらしい。
 彼自身が、理事でもなんでもなく、自ら営業をしながら、しかも身銭を切ってのチャレンジだから、常任の専従などに比べたら、物量戦でもかなり困難な戦いであることは想像に難くない。

 彼自身、いろいろ勉強したという。ことを構えた以上、もちろん勝利が目標だが、その過程で学んだことも多いという。こうした達観の上で進めるなら、たとえ敗れても彼が傷つくことはあるまいとは思うが、やはり勝たせてやりたい。
 その他、当然のこととして原発の再稼働を巡る状況なども話題に登ったが、それらは省略する。

 帰りに一悶着あった。
 メンバーの一人が、あらかじめ公言していた帰りの時間を急に一時間早めたのだ。
 これにH氏が反発した。
 もちろん、大げんかになったわけでもなく、名鉄の岐阜駅まで4人で歩き、そこで互いに握手をして別れることができた。

 H氏にしてみれば、早朝の仕入れから日常の営業、それに加えて今回の組合の改革運動と多忙な日常なのだが、その中で気を許してなんでも語れる場や相手が貴重なのだろうと思う。
 帰宅を早めたN氏にしても、相方に先立たれて以後の独居でいろいろ事情もあろう。
 
 そんなことを反芻しながら、夜風を頬に受けて自転車を漕いで帰宅するのだった。
 家の近くの田圃で、ケリが甲高く一声、三声、鳴いていた。

 岡崎のM氏は、時折私のブログを見ていてくれるとのこと。嬉しかった。



 

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