六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

スランプの中の「川柳もどき」

2009-02-27 17:52:36 | 川柳日記
 親しい友人から「おみゃぁさん、この頃川柳ちっとも載せえへんけど、どうしてりゃあす」との誘い水。
 「どうもこうもあらへんぎゃぁ。いろいろ草臥ぶれてまって、川柳どころでにゃぁであかんわ」
 と答えたものの、多少は書きためたものがあったのでそれを載せます。
 
 というわけで、スランプの中の作品だと言うことを承知の上で読んでちょうでゃあ。


 

少年
 少年と赤いリンゴと敗戦と
 時刻表なく少年はひた走る

笑う
 気が抜けたビールのように笑えます
 踏ん張って笑わなければ流される

驚く
 突き出されあっと驚くところてん
 驚いた頃の想い出桜餅

かたち
 かたち脱ぐ 譲れないものだけ残る
 沈黙のかたちを満たすコップ酒

崩れる
 手紙焼く もう崩れぬと決めた朝
 不可逆の崩れ青年の日終わる


雑詠
 鯨には鯨の悲哀 なあ目高
 白昼夢ここが最後の待避壕
 心理学はみ出す余剰吠えてみる
 吠えてみろ 誰かがとんで来るはずだ
 心中の片割れのごと昭和生く
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この期に及んでなおダムの怪?!

2009-02-25 05:14:49 | 社会評論
 都市は人工的で田舎は自然であるという考え方は必ずしも現実的ではない。
 今から30年以上前、当時は岐阜の僻地といわれた徳山村へしばしば行ったことがある。アマゴやイワナの渓流魚を追ってであったが、村落は「自然」に溢れていて自然は手つかずであるように思えた。
 
 秋には周辺の山々が見事に紅葉した。
 渓から上がり、竿を収めてしばし周囲を見渡し、錦織なす紅葉にしばし見とれた。
 たまたま通りがかった土地の老人に挨拶を交わし、「綺麗ですねぇ」とその土地への賛辞をまじえて話しかけると、「昔はこんなもんじゃぁなかったぞ。見渡す限り全部紅葉だった」と言い放った。老人は「あの辺もあっちの方も」と指さして示してくれた。

 確かに老人の指さすあたりは、杉や檜の針葉樹が黒々とした影を落としていた。要するに、金になる樹は檜や杉であり、既にして自然は加工されていたのだ。
 私は老人の指摘に納得しながら、先ほど越えてきた峠の向こう側が、ある大製紙会社の社有地であり、立ち入り禁止になっていたのを思いだしていた。

 都市よりも田舎の方がドラスティックに環境の変化が迫られるのを知ったのはそれからしばらく経ってからである。
 私がのんびり釣りを楽しんでいた頃、既に徳山村は巨大ダムの建設計画の中で揺れていたのだ。
 老人が指摘した針葉樹と闊葉樹の織りなすマダラはおろか、居住する全村民の離脱を前提としたダム建設の話が進行していたのだ。

 

 いま、かつての徳山村のすべての村落は巨大な水の下に埋もれている。闊葉樹も針葉樹もあったものではない。
 しかし、その徳山村はなんのために全村水没しなけれがならなかったのだろうか。徳山村を覆い尽くした巨大な水量はどこへ行くのだろうか?
 いま、なおそれが不明なのである。
 既に3,500億円を投じたこのダムの用途は全く分からないのである。
 どこもかしこも水は余っている。
 濃尾平野の南部では、長良川河口堰の水すらもて余している。

 だから徳山ダムは水は貯めたものの、それをどう使うのかは決まっていない。巨大な導水工事をして下流域へという案もある。しかし、そのためにはさらに1,900億円の支出が必要となる。
 要するに、用途もはっきりしないものへ既に3,500億が投じられ、さらにその必要性も定かでないものに1,900億が投じられようとしている。

 

 凄いなぁと思う。
 しかし、ちょっと待ってくれと言わねばならない。
 この合計5,400億円の支出はどこかの奇特なひとが出すのではない。私たちの税金から支出されるのだ。
 こんな巨額の税が使われるようなら、マダラでもいいからあの紅葉が残っていた方がいいと今にして思う。
 
 ここで言いたいことは徳山ダムについてのセンチメンタルな回想や繰り言ではない。
 愛知県で予定されていて、「地元了解」といわれる設楽ダムについてである。
 これは本当に要るのか?地元が了解したというのは、ダムそのものの必要性というより、ここしばらくの格差政治がもたらした地域産業の切り捨て政策のせいではないのか?

 

 三河湾にに注ぐこの川のダムが、徳山同様、不要であることは目に見えている。そして、その不要な巨大プロジェクトに群がり稼ぐ連中も目に見えている。しかし、地元は同意した。ここに悲劇はある。同意した地元を責めることも出来ない悲劇がある。地元は格差政治の中で泣いてるのだ。

 全く無駄なものが巨額な税で作られようとしている。それくらいなら、その巨額の税を使って、地域の住民が潤う施策を考えることは出来ないのだろうか。
 徳山ダムの離村を決めた住人たちはそこにとどまっていても未来はないと判断したからだろう。しかし、土建屋に払う5,400億円の金をダムではなく、他の用途に使っていたら,その人々は住み慣れた故郷を捨てることはなかったのではと今さらのごとく思うのである。

 設楽ダムは、おそらくその付帯工事も含めたら5,000億を遙かに突破し、それらは土建屋の懐に入り、政治資金としてそれを決めた政党の懐を潤すであろう。しかし、5,000億を別のかたちで投下したら、土建屋を潤すのではなく、地域の活性化にほんとうに役立つのではないだろうか。また、そのための施策を考えるべきではないか。

 
 長良川河口堰にしろ、徳山ダムにしろ、はたまた設楽ダムにしろ、明らかに不要なものに巨額な税がばらまかれようとしている。
 この不合理が日本の政治の実情なのである。
 



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続「月光仮面は誰でしょう?」

2009-02-23 02:55:11 | 社会評論
 私の前回の記事につき、別のところで、「そうはいっても鳩山氏や桝添氏はよくやっているではないか」という意見が寄せられました。以下はそれに対する私の返答です。

    ===============================

 桝添氏も鳩山氏も、あまりのひどさにビックリしてその収拾を図ろうとしていることは否定しませんし、そうした事態が彼ら「個人」の責任であるとも思いません。むしろ二人とも、主観的には「善意」で行動しているともいえます。

 しかし、彼ら自身がそもそもこうした事態を生み出してしまった組織のトップなのであり、あるいはまた、そうした官僚組織のいい加減さをチェックしてこなかった与党の一員なのですから、それを今さらのごとく「部下」に相当する人たちの責任にし、自分を「正義の味方」に位置づけることには違和感を覚えます。

 厚労省の醜態は、いずれにしてもその監督機能を持った歴任大臣の怠慢であったり、福祉行政の軽視であったりします。

 また、「かんぽの宿」問題はそもそもが郵政民営化のもたらした帰結であり、国民の財産を二束三文でたたき売ることは織り込み済みなのだと思います。そのあまりの偏りに鳩山氏はビックリしたのでしょうが、それにより、多少は高値が付くとはいえ、国民の財産が不当に低い価格で一部の資金をもつ連中にたたき売られることは間違いありません。

 

 今回の「かんぽ」もそうですが、それ以前の公社時代の資産売却での不明朗さも、なん度もマスコミで指摘されてきました。それらに対しては総務省も歴代の大臣もノーチェックです。鳩山氏もさかのぼって問題にする姿勢を今のところ示していません。
 鳩山氏が気づいていないのは、あるいは気づかないふりをしているのは、これらが郵政民営化の必然的な帰結であり、自分もまたそれに賛成し推進してきたという事実です。


 ですから、鳩山氏を「悪玉」とはいいませんが、西川社長=悪玉 VS 鳩山大臣=正義の味方という図式は成り立たないのです。その西川社長自身が実質的に総務省の任命のようなものですから。
 
 鳩山氏は、まず、自分も推進してきた郵政民営化がこうした国民の財産を叩き売ることになった経緯を国民に率直に詫びると共に、せめてもの罪滅ぼしに、その「合理的」な使命の推進に励むべきだと思います。

 いずれにしてもこれらの事態は、フリードマン理論やアメリカのネオコンに誘導された小泉=竹中ラインの新自由主義政策の帰結であるわけですから、チマチマとしたところでイチャモンを付けるより、小泉時代の政策をすべてご破算にした上で国民に信を問うならば、麻生氏の支持率も多少はアップすると思うのですが、まあ、無理でしょうね、。

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鳩山総務大臣は「月光仮面」か?

2009-02-21 01:20:04 | 社会評論
 「かんぽの宿」の一括売却が脚光を浴びています。
 確かに無茶な話だと思います。郵貯にしろ簡易保険にしろ、国民が蟻が持ち寄るようにして貯めた資金で作られた施設が、特定の企業に二束三文でたたき売られようとしているのですから。
 そればかりではないのです。既に郵政公社時代に売り払われた資産が、土地転がし同様に転売され、ひどいものでは公社売却金額の百倍、千倍の価格で取引されているのです。この差額はまさに国民の資産が収奪された額なのです。

 それらが実際に無茶な話であることを前提にしての話なのですが、この過程の中で、鳩山総務大臣がそれに待ったをかける「正義の味方」であるかのように登場し、麻生政権が地に墜ちている中でそれに批判的なひとや、つい先日まで悪口を言っていたひとからも絶賛されています。
 「友だちの友だちはアルカイダ」などと発言し、麻生内閣のアキレス腱ではないかといわれていたのが嘘のようです。

 
     「友だちの友だちはアルカイダ」だがオレは正義の味方だッ!
 
 昨20日の衆議院予算委員会では、社民党の保坂展人氏の追求に対しても、鳩山総務大臣は待ってましたとばかりに質問者(つまり保坂氏)と同じ目線で、郵政会社の西川社長を追求する側に回っていました。
 つまり、「悪玉」=郵政会社 vs 「正義の味方」=鳩山大臣という図式がすっかり出来上がってしまっているのです。そして、社民党の保坂氏すらその図式に乗せられて、もっぱら鳩山・保坂連合軍 vs 西川社長の路線で質問し、その矛先は監督者である鳩山大臣に向かうことはありませんでした。

 考えてみればこれは奇妙という他はありません。確かに日本郵政株式会社は民営化されてはいるのですが、その株式のすべては政府所有であり、初代社長である西川氏も政府によって任命され、その監督官庁が総務省なのです。
 従って、「かんぽの宿」の売却やそれ以前の諸施設の叩き売りを総務省が知らないはずはないのです。もし、本当に知らなかったとしたら、それは総務省自体の怠慢に他ならないのです。
 従って、「西川社長 vs 鳩山大臣」という図式は全くのでたらめで、「西川&鳩山 vs 資産を収奪される国民」というのが正当な図式なのです。
 繰り返しますが、鳩山大臣は「正義の味方」であるどころか、まさに責任を追及さるべき当事者なのです。ここしばらくの事態の推移の中で、どうやら本人も「月光仮面」であるかのように錯覚しているのは全くもって困ったものです。

         
          いいか、保坂!オレを援護しろよっ!

 ですから、その売却手順などを巡っていざこざがあるとしたら、それは鳩山大臣の怠慢に発する総務省内部の内輪もめに過ぎないのです。質問に答える西川社長が終始憮然としていたのは、そこで問題にされている事実はすべて総務省に報告済みであり、了承を得ているのになぜ自分が矢面に立たなければならないかという気持ちの現れだろうと思います。それをうかうかと見逃し、鳩山大臣とお手々繋いでいる保坂氏もどうかなぁと思いました。

 これにはもうひとつ陰謀があります。それはこの「かんぽの宿」問題を敢えて表沙汰にすることにより、小泉氏の影響力、政治遺産を無化しようとする動きです。
 先般の小泉氏の怒りも、それを察したからでしょう。

    
           西川!その「かんぽの宿」を放せッ!
 
 私は小泉氏の政策には当初から疑問を持っていましたから、それはそれでいいのですが、この手法の姑息さには我慢が出来ません。
 過去の小泉時代の政策が誤りであったのなら、こうしたなし崩し的な陰謀によって事態をうやむやにするのではなく、明確な自己批判の上で政治路線の変更を行うべきなのです。そのためには、小泉劇場の喧噪によって獲得した現在の議席を返上し、今一度民意を問う必要があることはいうまでもありません。

 ただし、それも出来ないでしょうね。与党は小泉劇場の成果の上に乗っかりながらそれを覆すだけの総括能力も新たな路線への展望も持ち合わせてはいないからです。
 せいぜい出来ることは、不評ふんぷんたる総理の首をすげ替えることでしょうが、それとて選挙なしで4人の総理というのは許されるものではありません。

 与党の発想は、「あの総理では選挙を戦えない」ということでしょうが、そこで抜け落ちているのは「あの総理では国民がたまらない」という事実なのです。
 ああ、この目線の落差!







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酔っぱらって何が悪い?え?バーロッ!

2009-02-18 15:05:33 | ポエムのようなもの
 バ、バッキャヤロー! 酔っぱらって何が悪いッ!
 しらふでこんなことやってられかよぉ。

 いいか?あのAが馬鹿こいて、2兆円配れば何とかなるって言ってるんだぜ。
 その口の裏で「消費税上げるぞっ」てノーテンキにほざきやがって誰がこのつじつまををあわせるんだぃ。こっちだろうが。
 
 あちこちで何万何十万が首になり、巷で食えない奴が出てるのに、Aの馬鹿曰く、「日本経済はわりかしし健全」だと?その上、今さら「郵政に反対だった」のなんのと訳の分からないことほざきやがって。その尻ぬぐいもこっちだろうが。

 何が盟友だ。てめぇなんぞは迷友ってんだよ。
 俺だって漢字がよく読めねぇが、てめぇの方がもっとひでぇじゃないか。

 

 おまけに引退するなんていってる幽霊のような元首相のKなんてのが出て来やがって、「笑っちゃう」なんてぬかしやがる。笑っちゃうのはこっちだってんだよ。アメリカ流の新自由主義の尻馬に乗って、やれ自由化だ、やれ民営化だといって、派遣法などで使い捨て労働者を大量発生させたのはてめぇじゃないかよ。
 この事態を生み出した責任は棚上げしやがって、都合のいいときだけのうのうと出てきてご意見番面しやがって、何様だと思ってやがんだ。
 引退だなんていいながら、もういっぺん総理をやりたいんじゃないのか?
 
 それをまたあのAが「叱咤激励」だなんてきれいごとぬかしてるんだから呆れるよ。
 あれは日本語では「喧嘩」っていうんだよ、喧嘩。いっそのことどっちか決着が付くまでやりゃぁいいじゃぁないか。

    

 え?ここはイタリアでG7だって?
 何が先進7ヶ国だ。てめぇらが世界市場支配のために欲の皮つっぱらかしてグローバリゼーションだとか何とかいってこの悲惨を世界中に広げたんじゃぁないか。今さらあわてふためいて火消しをしようたってそうないかのオツンツンだ。
 だいたい、たった7ヶ国で世界の命運を決めようってぇのが不遜だってんだよ。

 アメリカだってそうだろうが?オバマかオバケか知らないが、首をすげ替えたら無罪でまたまた支配権をとろうなんて厚かましいんじゃないのかい?
 元をただせば、てめぇんとこのサブプライム・ローンの破綻が引き金だろうが。まずは「どうもすみませんでした」って土下座をして謝るのが先決じゃぁねぇか。
 それ以前に、フリードマンだかシカゴ派だかは知らないが、ネオコン一派がしゃしゃり出て、弱い者いじめでセーフティネットを外した体制を世界中に武力をも辞せず押しつけて歩いた歴史的責任はどうするんだよ。それが今回の事態を世界中に広げたんじゃぁないのか?え?

 それをみ~んな棚上げにして、またぞろ7ヶ国だけでごそごそ話合おうってぇのが図々しいってんだよ。本来なら、7ヶ国揃って打ち首だろうが。

 
 
 酔っぱらったさ、それが何が悪い! 
 こんなの真面目にやってられるかってんだよ。
 エスプレッソがある? なにぬかしゃぁがる!
 あんな苦いもん飲めねぇってんだ!
 酒だよ、酒!
 何?キャンティ・クラシコでいいですかだって?
 何でもいいんだよ、もう味なんて分かりゃしないんだから。
 ただし、いいな。こりゃぁ風邪薬だからな。
 お~い、早く風邪薬もってこいってんだ?

 記者会見の時間ですって?
 よ~し、出てやろうじゃないか。
 矢でも鉄砲でも持ってこいってんだ!!
 バッキャヤロー!!!

 

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色彩のイメージと「パブロフの犬」

2009-02-15 03:33:25 | よしなしごと
 色と観念的なものとの繋がりのようなものをネットで調べていたら、以下の表のようなデータがありました。
 それぞれ別の所からのものを抜粋したものですが、<資料1>はその色から「連想されるイメージ」、<資料2>はその色が示す「感情的なもの」だとのことです。
 他にも、どの色が好きかで性格判断が出来るという資料もありましたが、血液型の性格判断よりは多少マシだとしても、さほど信憑性はないと判断しました。むかし、「紫が好きだ」というひとに、「あなたは盗癖がある」と指摘して殴られそうになったお利口さんがいたのを記憶しています。
 それに比べると下のデータはかなり一般的で妥当なようにみえます。

 
 
<資料1> 色から連想される抽象的イメージ

赤  情熱、興奮、歓喜、危険、活動、刺激、行動
橙  健康、元気、活発、喜び、陽気、暖かい心、はしゃぎ、暖かい
黄  明朗、陽気、元気、楽しい、上機嫌、注意
緑   新鮮、平和、平静、若々しい、安全、有望、安らぎ
青  忠実、理想、清澄、沈着、寂しさ、涼しい、冷淡、さわやか
紫  高貴、神秘、優雅、心配、哀れ、女性的
白  清潔、純白、神聖、無邪気、公明
灰  陰うつ、不安、落ち着き、平凡、あいまい、憂鬱、哀れな、薄暗い
黒  厳粛、恐怖、悲哀、死滅、不安、中立、鈍い、陰うつ、大人っぽい

<資料2> 色と感情の相関関係

赤   激情・怒り・歓喜・活力的・興奮
橙   喜び・はしゃぎ・活発さ・元気
黄   快活・明朗・愉快・活動的・元気
緑   安らぎ・くつろぎ・平静・若々しさ
紫   厳粛・優えん(婉)・神秘・不安・やさしさ
青緑  安息・涼しさ・憂鬱
青   落ち着き・淋しさ・悲哀・深遠・沈静
青紫  神秘・崇高・孤独
白   純粋・清々しさ
灰   落ち着き・抑鬱
黒   陰鬱・不安・いかめしい
朱   熱烈・激しさ・情熱
ピンク 愛らしさ・やさしさ
茶   落ち着き


 

 これらはおそらく、実験心理学などの応用として書かれているのでしょうが、暖色系が能動、寒色系が受動という傾向がある以外、ひとつひとつのそれは結構曖昧で揺らぎのうちにあるように思えます。
 
 例えば、<資料1>の緑の「有望」というのはある種の価値基準を前提にしない限りよく分かりません。「平和」にしてもやはり状況との関連によるとしか言いようがないのではないでしょうか。
 青はまた、「忠実」、「理想」であると共に「冷淡」であると書かれています。原理主義的な「理想」に「忠実」であることによって、リアルな現状に対して「冷淡」になると言うことでしょうか。まあ、これは私の深読みでしょうね。
 紫の「心配、哀れ、女性的」というのも今ひとつよく分かりません。
 白の「純白」については、そりゃあそうでしょうという他はないのですが、黒の「中立、鈍い」も私にとってはよく分からないところです。

 

 <資料2>でも、例えば紫の「優しさ」は、<資料1>で見た「女性的」に関連しているのでしょうがどうなのでしょう。
 青緑の「安息」と「憂鬱」の同居も今ひとつ分からず、むしろ矛盾しているのではと思えてしまいます。
 同様のことは灰色にもあって、ここでは「落ち着き」と「抑鬱」が同居しています。

 こうしてみてくると、一般的な傾向としてはそうなのかなとは思うものの、現実としてそう言い切れるのかどうかは大いに疑問とするところです。
 ではどうしてそうした疑問に晒されるのかというと、上のデータは、「誰が、いつ、どこで、どんな状況下で色と対峙しているのか」が捨象された一般論、あるいは大まかな傾向を示すに過ぎないからだと思われます。

 

 私たちの刺激に対する反応は、「パブロフの犬」*のように、刺激 即 対応といったストレートなものではないと思われます。もっといろんな仲立ちがあって、私たちはその刺激を受け止めます。従ってそのその受け止め方もまちまちで、必ずしも上のまとめの中には入りきることなく、様々にはみ出します。
 「パブロフの犬」だって実際にはそんなにすんなり刺激に反応しているわけではないのです。

 ですから、「赤い激情」、「青い哀しみ」、「白い純潔」、「灰色の不安」などという言葉を用いる文学者や詩人がいたら、それは凡庸であるといえるかも知れません。具体性を欠いた一般論を語っているからです。

 私としては、「青い熱情」、「赤い純潔」、「緑の不安」、「黒い快活」などの表現に惹かれるのですが、これとて濫用されれば、それ自身がステレオタイプ化された言葉に堕しそうですね。
 以上は「無色透明な憂鬱」に囚われた、私の「黄色い戯れ言」でした。

    


「パブロフの犬」について(ネットから)… 3)が秀逸
 
 1)イワン・ペトロビッチ・パブロフ Ivan Petrovich Pavlov による条件反射の研究を指す。1902年にパブロフは犬の唾液腺の研究中に、飼育係の足音で犬が唾液を出すことを見つけ、条件反射についての研究をはじめる。その研究の過程で、ベルを用いての唾液分泌という実験方法を用いる。この条件反射で唾液を出す犬をパブロフの犬と称するようになる。

 2)もし「君はパブロフの犬のような人だ」と他人に言われたら、その人は間違いなく君を侮蔑しています。つまり条件反射的な仕事はできるが創造的な仕事はできまない、というレッテルを貼られたことです。

 3)条件反射の立証のため、犬がえさを食べるときにベルを鳴らすようにしていたパブロフ博士だが、続けるうちにパブロフ博士自身が犬を見るとベルを鳴らすようになった

写真は、青と緑のラプソディです。最後のもは青空と昼の月です。
 やはり青は悲哀でしょうか?



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続・春を待つ人々 病院の窓辺から

2009-02-14 02:20:04 | インポート
 過日、ここに「春待つ人々」というタイトルで、病院の窓の写真を掲載したところ(http://pub.ne.jp/rokumon/?entry_id=1939051)、あるひとから、別のものを加えて三枚組にしたらというアドヴァイスをいただきました。

 そこで本日、母が入院している病院へ行ったところ、スタッフが作ったのでしょうか、同じ窓辺に手製のお雛様が飾られているのを見かけました。
 あ、これを入れたら三枚組になるかなと思いました。
 まさに、「ブタもおだてりゃ木に登る」、「六もおだてりゃ写真家気取り」です。

 そこで、前のものと重複することを恐れず、今一度「続・春を待つ人々 病院の窓辺から」を掲載いたします。
 二番目と三番目は同じ窓で、一番目はその反対側にある窓です。



 
 
         病室に置ききれないお見舞いの蘭だろうか


 
  
          語らう二人 春には退院できればと思う


 
 
       出来合いでないのがいい 窓の外へ誘うシンボル


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春なのに・・・Save ラ・プティット・バンド!

2009-02-12 18:04:40 | 音楽を聴く
 突然ですが、音楽ファンの皆様にお願いです。 
 ご存知かも知れませんがが、クイケン率いるベルギーの楽団、ラ・プティット・バンドに対して、公の助成金の打ち切りという方針が伝えられたようです。それにに対し、その方針の撤回を当局に求めるネットでの署名運動が行われています。


  http://www.savelapetitebande.com/index.php?l=en

    

 打ち切りの理由ははっきりしませんが、昨今の世界的不況の影響だと思われます。こうした一過性の不況の犠牲として、長年積み上げられてきた古楽器によるバロック音楽演奏の実績を持つ楽団が存続の危機にさらされています。
 確かに、飢えや失業が広まる中での優先順位といわれればそれまでですが、音楽もまた、人間にとって必要不可欠なものです。
 私たちの国でもそうであるように、芸術以外に削減できる、また、削減しなければならない支出がいっぱいあるはずです。
 
 この楽団の存続にご賛同いただけるようでしたら、上のページの署名欄にご記入の上、送信して下さい。署名は、名前とメールアドレスと国名などを記入するだけの簡単なものです(既に署名されたものを見ると、日本のひとが結構たくさん署名しています)。

    

 署名のお礼に、私の家に咲く水仙と紅梅の香りをお届けします。
 なお、この記述は、このブログへよくコメントをいただく「 N響大好き。」さんからいただいたメールをもとに書いたものです。

 この楽団についての詳細は以下をご参照下さい。

http://209.85.175.132/search?q=cache:GYXQzcCxMRcJ:www.kanagawa-arts.or.jp/detail/10032001.html+%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89&hl=ja&ct=clnk&cd=3&gl=jp&lr=lang_ja&client=firefox-a

http://209.85.175.132/search?q=cache:ZPQqzypJ31EJ:ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89+%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp&lr=lang_ja&client=firefox-a





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私とバタフライと世界の蜜月

2009-02-11 13:24:00 | 社会評論
 前回の日記に変なことを書いたばかりに、配慮あるコメントをいただいたりメールをいただいたりで、恐縮しています。

 しかし、実際にそれが気になりはじめ、自分の中で次第にうじうじと膨らんできそうで、これはヤバイという気がしたのです。そこで、思い切ってブログで公表しました。
 どうやらその逆療法は成果があったようで、それを書くということの中である程度問題を整理できましたし、何とか自分のポジションを取り戻せたようです。
 あの日記を書いて以来、スポーツカーは現れません。また、現れても現実的に対処できると思います。

 

 しかし、この問題を考えていたら、意外に別の問題と突き当たりました。
 ようするに、世界で進行している全事態と、他ならぬ私がどう関わっているのか、あるいはどのような関わりのうちに捉えられているのかです。
 どんな人間も、世界と無関係に存在することは出来ませんから、様々な事態と現実的に、あるいは観念的にそれなりの関係を取り結びます。その場合ひとは、どんな基準でその関係を成立させるのでしょうか。
 
 もっとも現実的なものは、実用的な効用を基準としての関係のみをリアルとするものです。多かれ少なかれ、私たちはそれらを基準としています。しかし、同時に他の関係にもある程度の配慮をはかります。
 しかし、現代はこの効用一本槍が恐ろしい形でむき出しになっている時代です。各種犯罪や企業ぐるみの偽装、政官財の巧妙な収賄・贈賄の仕組みなどなど、彼らはこの「効用」のためにその他の基準(例えば倫理的なそれ)を総てスルーします。
 先般見たNHKの特集番組では、オレオレ詐欺の参加者が実にあっけらかんとそのビジネスとしての側面のみを語っていました。彼らの世界との繋がりは効用=銭、そしてその消費としての快楽(悪銭身につかずとはよく言ったもので、巻き上げた金は実にくだらない浪費へと費やされているようです)でしかありません。

 

 一方、幾分過剰な世界との関わりもあります。それらは、イデオロギー的であったり、宗教的であったり、歴史や伝統に依拠したものであったりしますが、いずれも「観念的な部分」を含んでいます。
 本来関連のないものに自己を結びつけ、かつまた、他人にもそうすべきだと強要する手合いがいます。それらの過剰な強要は私の領域を著しく侵犯します。その先鋭化はある種の原理主義であったり、さらにはオカルティズムにも通じるものです。
 だから人々はそうした「観念的」領域からは身を隔て、身の丈に合わせた効用を重んじながら、それを社会的規範を超えない範囲に留めようとします。

 

 しかしです、私たちは本当にそのようにしか世界と繋がっていないのでしょうか。
 エドワード・ローレンツが提唱した「バタフライ効果」(=ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こす)ほどではないにしても、私たちは気づかないところでもっと深く世界と結ばれているのではないでしょうか。
 例えば今日、私が満腹したことと、地球上のどこかで飢えで死んだひととは無関係でしょうか?
 あるいは、平和を謳歌している私たちと、地球上の三分の一が顕在的、潜在的戦場であり、今日も複数の人たちが生命を失っていることとは関係がないのでしょうか?

 

 「勝ち組」と「負け組」を峻別する自己責任論がありますが、この論理の矛盾はみんなが努力をすればみんなが勝ち組になることは決してないという構造上の問題を不問に付しています。しかもその構造が、「改革」や「規制緩和」という美名のもとで、あるいは世界的に言えば「新自由主義」という名のもとに行われたきわめて人為的なものであることをも見ようとはしません。私たちが何組に属するかはともかく、私たちはそうした世界へと常に既に組み込まれてしまっているのです。

 確かに、偏狭なイデオロギーやオカルティズムが渦巻く中で、世界との関わりを最小限にとどめよとする志向は理解できます。しかし、ここで引くわけには行かないのです。私が身をこごめていても、世界は私の領域に、あるいは私の内面にまでズカズカと踏み込んできます。
 そしてそれは、危機の時代には広範な人々を巻き込んで行きます。歴史や世界とは無縁だと思い、私的な領域で生きていた人たちが今、危機の前面へと引き出され、処刑されています。

 

 私が感じた「スポーツカーへの恐怖」は確かに病的な過剰反応でしょう。しかし、現実に私たちは自分が勝手に引いた線分を越えて、世界へと晒されているのです。
 私が反応した「スポーツカー」は、そうした不可視ではあるが私たちを確実に捉えて放さない世界の化身だったのではないかと思うのです。
 私は、私の疲労が生み出した幻覚に、改めて恐怖しています。


    写真はすべて私の家の近所の建造物です。







コメント
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う~ん、少し危ないかも・・・

2009-02-09 15:03:00 | 写真とおしゃべり
 ちょっと危ないのです。
 変な気分にとりつかれています。
 誰か(複数)が私を監視しているのではないかという想念です。
 たぶんというかもちろん妄想でしょう。

    
      節分は過ぎたがまだ鬼の像が 高さは10メートルほどか

 でも偶然にしてはおかしいのです。
 私が車で出かけると、その前後に必ずスポーツタイプの車が現れるのです。
 灰色ないしは黒いもので、一台とは特定出来ません。
 車の形はほぼ同じなのですが微妙に違ったりもします。
 車に趣味のない私は、自分の車の車種すら明瞭ではないのですから、それらの車種を特定することはできません。

 
        冬の陽光にきらめく小川 時折銀色に光る小魚たちも

 私が出かけようとすると、どこからかそれらが現れます。
 ふとバックミラーを見ると私の二台ぐらい後にそれがいます。
 またあるときは私のすぐ前にそれがいます。
 最初は偶然だと思いました。それにしても最近はスポーツカーをよく見るなぁぐらいに思っていました。

 
                樹間を行く名鉄電車

 しかし、それが数日間、毎日のように続くと本当に偶然だろうかと思ってしまうのです。
 そこで、ナンバーなり運転者なりを特定してやろうと考えました。
 ナンバーを見たことは見たのですが、不思議なことに記憶の網をするりと抜けてしまいます。
 先日も後ろに付かれたので、スピードを緩めてその顔を見てやろうとしたら、急に車線を変更し猛スピードで私の傍らを駆け抜けて行きました。

 母の病院の駐車場でも見かけました。
 そのときもナンバーを凝視したのですがわずかに最後の2文字が「68」であったことしか覚えていません。
 私が着いたとき、もうそれは止まっていて、帰るときもまだ止まっていました。誰が乗っているのかみてやろうと少しの間待ったのですが誰も出てきません。
 諦めてそこを離れ、しばらくしてからもう一度来てみるともういませんでした。

 
             紅梅というよりやや薄い色の梅

 自分でも危ないと思います。
 かつてある人が、車のウィンカーが点滅するのを見て、「あれは私を包囲している連中が互いに連絡し合っているのだ」と恐怖を交えて語ったことがあります。私は、「車というものは進路を変える度にウインカーを出し合図をするものだが、そこには君に関する情報は含まれてはいないのだ」と説得したのですが納得しません。
 ついには、私もその連中の仲間ではないかと疑われるに至りました。
 専門医に連絡をし、治療を受けていたようですが、若くして病死しました。

    
           紅梅越しに四阿で憩うひとを

 その人危うさに通じるものがありますね。その自覚はあります。
 最近、随所に設けられている監視装置について書いたことがあります。
 それらの装置に見られているという意識が内面化されることにより、社会的規範が自ずから刷り込まれることについても書きました。Googleの「サービス」が監視の面を持ち始め、浮気がばれたとかいうエピソードもあるようです。
 それらの影響かも知れません。
 あるいは「誰かに注目されていたい」という邪な欲望の裏返しかも知れません。
 実際のところ私は、あまり自分のことは詮索されたくないくせに、反面、誰かに承認されたいという欲望は旺盛なようです。こういうのが危ない要因なのでしょう。

    
     岐阜駅南口 この近くに自転車を置いてぐるりと一周してきた

 天気がよく、暖かかったので久しぶりに自転車で出かけました。
 上の写真も車では撮れなかったでしょう。自転車を降りて歩き回った結果です。
 そして何よりもよかったのは、あの忌々しいスポーツカーに出会わなかったことです。
 



コメント (2)
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