相変わらずの雨です。
8月になったら、伊吹山のお花畑の写真でも撮りに行きませんかという案内のはがきを出しに行きました。
雨の外出はおっくうですが、昨日も書いたように運動不足気味なのですこし歩くつもりで出かけました。
とはいえ、郵便ポストはそれほど遠くはありません。ですから往復したところであまり体を動かしたことにはなりません。
そこで、さほど強い降りではないのを幸い、雨中の散歩としゃれ込んだのです。
同じ雨の中を歩いていても、用事で渋々歩くのと自ら選んで歩くのとでは景色も違って見えます。重力に逆らった無謀な行為に過ぎない山登りが、登山の楽しみを知る人にとっては無上の楽しみであるのと同じことです。
蓮根畑で見つけた新しい花
いっそう青みを増し、逞しく育った稲田の傍らを行くと、ひと頃に比べるとかなり減ったとはいえ、あの毒々しいピンク色をしたジャンボ・タニシの卵が稲株にしがみついています。関西方面で食用にするために輸入され、その後放置されたというこの外来種のタニシは、いまや広範囲に生息圏を広め、在来種のタニシが絶滅したこの辺りにも幅をきかせています。しかし、それもまた、すこし触れたように2、3年前のピーク時に比べればかなり減少しているのです。
ここで私たちは二重の気味悪さに遭遇します。それは、この外来種の繁殖そのものにまつわるものと、それをも駆逐する強力な薬が使われたのではないかという疑いとです。在来種のタニシが絶滅したように、あるいはイナゴが絶滅したように、はたまた、アメリカザリガニすら姿を見せなくなったように、蛙が減少し、とりわけ殿様蛙などまったく見かけなくなったように・・・。
小動物を絶滅させる力は今のところ私たちには「無害」であるとしても、その力の蓄積は何らかの形で人類そのものを襲うのではないでしょうか。
ハスの葉に可愛い水溜まりが
そこには、自然を人間に役立つ原材料としてのみ見て、それを力によってねじ伏せようとするある種の暴力があるように思います。その暴力は同時に、私たちの共同体を生産性向上のシステムとしてのみ捉え、その成員をないがしろにするものと共通していると思われるのです。例えばそれに、「近代合理主義」という名を冠することができるかも知れません。
しかし、厄介なことに、それらは私たち人間の営みと離れたところからやって来たものではありません。むしろ、人間の(と一般化しないで私たちのというべきでしょう)あくなき欲望の拡大こそがその根底にあるのではないでしょうか。
「食う寝るところ住むところ」という生物一般の「欲求」を越えて、「よりよく食い、よりよく着たり住んだりしたい」という人間の「欲望」こそがこの不気味さを生みだしてしまったのです。
この「欲望」はつまり「生産力」として機能し、その拡大こそが至上なものとして、私たちの存在意義すら規定しています。
小さな祠だが屋根が立派、一度、由来など調べなければ
前世紀の「社会主義」の実験も、この「欲望=生産力」としての人類のありようを制御することはできませんでした。
それは同時に、自分たちの未来を自分たちが制するという実験の失敗でもありました。
雨の散歩はともすれば絶望的な響きをもたらします。
しかし、と私は思うのです。
この社会主義の実験も含め、私たちは私たちの未来を完全に制御することなどできないかも知れない、いやできないだろう、しかし、その成否をも含め公共の広場(ポリス)での開かれた人間の「活動」を通じて決して行く、それが人間的な営為ではないか、そう言い残したハンナ・アレントの言葉が耳に残るのです。
底紅ではない白い木槿(ムクゲ)の花
彼女は決して単なるオポチュニストではありませんでした。むしろ、ハイデガーなどとの交流を通じ、西欧哲学全般の帰結としての深いニヒリズムを自ら体得しつつ、さらにはその帰結としてのユダヤ人排除の危険に自ら身を晒しながら思索した結果としての人間の公共的あり方のイメージ、私はその思想を慈しむように想起します。
それは安易なオポチュニズムやペシミズムではなく、人間が自分の未来を自ら決して行く理想的なありようを静かに指し示しているのみです。
あ、私の雨中の散歩はとんでもなく飛躍したようですね。
でも私は思うのです。
人間が悧巧であれば未来は明るいというオポチュニズムや、何はどうあれ未来は暗いというペシミズムの安直な結論を縫って、そこでこそ思索しなければならないのだと・・・。
それを教えてくれたのが私のお姉さん、ハンナ・アレントでした。
雨はどこか懐かしい思いへと私を導くのです。
8月になったら、伊吹山のお花畑の写真でも撮りに行きませんかという案内のはがきを出しに行きました。
雨の外出はおっくうですが、昨日も書いたように運動不足気味なのですこし歩くつもりで出かけました。
とはいえ、郵便ポストはそれほど遠くはありません。ですから往復したところであまり体を動かしたことにはなりません。
そこで、さほど強い降りではないのを幸い、雨中の散歩としゃれ込んだのです。
同じ雨の中を歩いていても、用事で渋々歩くのと自ら選んで歩くのとでは景色も違って見えます。重力に逆らった無謀な行為に過ぎない山登りが、登山の楽しみを知る人にとっては無上の楽しみであるのと同じことです。
蓮根畑で見つけた新しい花
いっそう青みを増し、逞しく育った稲田の傍らを行くと、ひと頃に比べるとかなり減ったとはいえ、あの毒々しいピンク色をしたジャンボ・タニシの卵が稲株にしがみついています。関西方面で食用にするために輸入され、その後放置されたというこの外来種のタニシは、いまや広範囲に生息圏を広め、在来種のタニシが絶滅したこの辺りにも幅をきかせています。しかし、それもまた、すこし触れたように2、3年前のピーク時に比べればかなり減少しているのです。
ここで私たちは二重の気味悪さに遭遇します。それは、この外来種の繁殖そのものにまつわるものと、それをも駆逐する強力な薬が使われたのではないかという疑いとです。在来種のタニシが絶滅したように、あるいはイナゴが絶滅したように、はたまた、アメリカザリガニすら姿を見せなくなったように、蛙が減少し、とりわけ殿様蛙などまったく見かけなくなったように・・・。
小動物を絶滅させる力は今のところ私たちには「無害」であるとしても、その力の蓄積は何らかの形で人類そのものを襲うのではないでしょうか。
ハスの葉に可愛い水溜まりが
そこには、自然を人間に役立つ原材料としてのみ見て、それを力によってねじ伏せようとするある種の暴力があるように思います。その暴力は同時に、私たちの共同体を生産性向上のシステムとしてのみ捉え、その成員をないがしろにするものと共通していると思われるのです。例えばそれに、「近代合理主義」という名を冠することができるかも知れません。
しかし、厄介なことに、それらは私たち人間の営みと離れたところからやって来たものではありません。むしろ、人間の(と一般化しないで私たちのというべきでしょう)あくなき欲望の拡大こそがその根底にあるのではないでしょうか。
「食う寝るところ住むところ」という生物一般の「欲求」を越えて、「よりよく食い、よりよく着たり住んだりしたい」という人間の「欲望」こそがこの不気味さを生みだしてしまったのです。
この「欲望」はつまり「生産力」として機能し、その拡大こそが至上なものとして、私たちの存在意義すら規定しています。
小さな祠だが屋根が立派、一度、由来など調べなければ
前世紀の「社会主義」の実験も、この「欲望=生産力」としての人類のありようを制御することはできませんでした。
それは同時に、自分たちの未来を自分たちが制するという実験の失敗でもありました。
雨の散歩はともすれば絶望的な響きをもたらします。
しかし、と私は思うのです。
この社会主義の実験も含め、私たちは私たちの未来を完全に制御することなどできないかも知れない、いやできないだろう、しかし、その成否をも含め公共の広場(ポリス)での開かれた人間の「活動」を通じて決して行く、それが人間的な営為ではないか、そう言い残したハンナ・アレントの言葉が耳に残るのです。
底紅ではない白い木槿(ムクゲ)の花
彼女は決して単なるオポチュニストではありませんでした。むしろ、ハイデガーなどとの交流を通じ、西欧哲学全般の帰結としての深いニヒリズムを自ら体得しつつ、さらにはその帰結としてのユダヤ人排除の危険に自ら身を晒しながら思索した結果としての人間の公共的あり方のイメージ、私はその思想を慈しむように想起します。
それは安易なオポチュニズムやペシミズムではなく、人間が自分の未来を自ら決して行く理想的なありようを静かに指し示しているのみです。
あ、私の雨中の散歩はとんでもなく飛躍したようですね。
でも私は思うのです。
人間が悧巧であれば未来は明るいというオポチュニズムや、何はどうあれ未来は暗いというペシミズムの安直な結論を縫って、そこでこそ思索しなければならないのだと・・・。
それを教えてくれたのが私のお姉さん、ハンナ・アレントでした。
雨はどこか懐かしい思いへと私を導くのです。