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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日 (完結編)

2013-06-29 01:53:11 | ポエムのようなもの
        
          同じ木だが前回は3月、今回は4月に撮したもの

(承前) 
 さてこうした銀座と柳の関係なのだが、私のような田舎者でも銀座へは何度かいったことはある(ここ10年間はない)。で、そこで柳を見たかどうかといわれると見たような見ないようなと実に曖昧なのだ。
 ようするに、銀座通りに柳並木があったようななかったようなという感じなのだ。
 その理由はいろいろ調べてみて判明した。

 それによると銀座の柳はさまざまな事情により実に紆余曲折の歴史を辿っているのだ。
 1874(明治7)年、日本最初の街路樹として銀座通りに松、桜、楓が植えられたが、地下水位が高いため育たず、1877(明治10)年、柳に一本化されたという(第一次)。しかしそれらは、1923(大正12)年、関東大震災で焼失し、その後、イチョウが植えられたが1932(昭和7)年、復活の声が高くなり再び柳になった(第二次)。しかしながらそれらもまた、1945(昭和20)年、東京大空襲で焼失してしまい、三年後の48(昭和23)年に復活した(第三次)
 ただしそれらも、長くは続かず、20年後の1968(昭和43)年にはすべて撤去された。
 
 なんというめまぐるしい変遷であろう。
 そしてここに、私が柳を見たような見ないようなという理由がある。
 つまり1950年代の終わりに初めて銀座へいった折には柳の並木を見ているのだ。そして、サラリーマン時代(1962~70年代のはじめ)、ほぼ月一回の東京出張の際も、68年までは見ているのだ。しかしながら、サラリーマン生活の晩年と、それをを辞めて以降、銀座を訪れた際には、もうそれらを見ていないのだ。
 だから見たような見ないようなという私の感想は当たっているのである。

 なお、1968(昭和43)年の柳撤去の理由は、水道、ガス、電気などの一括の地下収納に伴い、柳の根っこがじゃまになったのと、雨降りなどの折、通行人の頭や衣服を汚し、散った葉っぱなどが美観を損ねるといった理由だったらしい。

 しかし、銀座近辺の柳がすっかりなくなったわけではない。銀座通りに交わる文字通り柳通りという通りには、いまなお120本の柳並木がある。そして私にはその柳通りにまつわるある記憶がある。
 今から半世紀近い30代の初め、この柳通りにあるクラブへ接待か何かでいったことがある。その折、あるホステスさんが私の顔をまじまじと見つめていたかと思うと、「〇〇ちゃんのお兄さんでは?」と問いかけてきた。
 驚いた。〇〇ちゃんはまさに私の妹で、聞けば彼女は私のうちへもよく遊びに来ていたという。
 まさか東京の銀座で岐阜の娘と会おうとは思いもしなかった。あとで妹に訊いたら、たしかに同級生で、「お兄ちゃんに気があったみたいだよ」とからかわれた。
 その後は、出張の折に一度いったっきりで何を話したかも覚えてはいない。銀座のクラブなどサラリーマンがおいそれと行けるわけがない。

 またまた逸れてしまった。始まりはツバメからの連想で、『夢淡き東京』という歌を思い出すという話だった。
 まず、この歌のタイトルがいい。敗戦2年後なのだが、夢は「濃厚」でも「大きく」でもなく「淡い」のである。
 あの悲惨だった現実から立ち直りつつある折しも、濃厚でどぎつい物語、大東亜共栄圏や八紘一宇などはもう要らないのだ。たとえ退行に見えようが庶民のささやかな夢こそが実現さるべきなのだ(もっとも別のベクトルからも濃厚な夢や大きな物語が語られつつあり、後年私もその影響下に組み込まれれたのだが)。
 さて、ここで『夢淡き東京』の全歌詞(サトウ・ハチロー)をあらためて紹介しよう。

  柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日
  誰を待つ心 可愛(かわい)いガラス窓
  かすむは 春の青空か あの屋根は
  かがやく 聖路加(せいろか)か
  はるかに 朝の虹も出た
  誰を待つ心 淡き夢の町 東京

  橋にもたれつつ 二人は何を語る
  川の流れにも 嘆きをすてたまえ
  なつかし岸に 聞こえ来るあの音は
  むかしの 三味(しゃみ)の音(ね)か
  遠くに踊る 影ひとつ
  川の流れさえ 淡き夢の町 東京

  君は浅草か あの娘(こ)は神田の育ち
  風に通わすか 願うは同じ夢
  ほのかに胸に 浮かぶのはあの姿
  夕日に 染めた顔
  茜の雲を 見つめてた
  風に通わすか 淡き夢の街 東京

  悩み忘れんと 貧しき人は唄い
  せまい露路裏(ろじうら)に 夜風はすすり泣く
  小雨が道にそぼ降れば あの灯(あか)り
  うるみて なやましく
  あわれはいつか 雨にとけ
  せまい露路裏も 淡き夢の町 東京


 なお、この最後の「悩み忘れんと」で始まる一節に触れて、故・小沢昭一氏は思わずむせび泣いたという。私はその気持がよくわかる。
 私もいっときは、過大な夢や大きな物語の虜になったことがある。しかし、そうした夢が庶民の淡き夢を抑圧し、踏みにじってきた歴史も体験している。というか、私自身がその加害者であったとも思っている。
 いま、痛恨の思いを込めてそれを振り返ることができるようになった。

 だから、ツバメをみるたびに、この歌を思い出すのだろう。
 「柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日」の「淡き夢」を、私もまた、人びとと共有したいという思いに駆られるのである。


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やなぎ青める日 ツバメが銀座に飛ぶ日 (前編)

2013-06-28 02:13:23 | インポート
 部屋のすぐ下にある田んぼと休耕田に今日は多くの鳥たちがやってきた。カラス、スズメ、キジバトを始め、ムクドリ、セキレイ、ケリ、などなど。このへんにいっぱいいるヒヨドリはめったに平地に降りないので来ない。
 嬉しかったのは、昨年から姿を見せなかったツバメが、しかも複数羽、元気に旋回していたことである。ツバメが巣をかけやすい軒下がなくなったり、巣をかけても辺りが糞で汚れるからとたたき落としてしまうこともあるらしい。
 
 子供の頃住んでいた疎開先の母屋では、家の中にツバメが巣をかけていて、田舎のこととて昼間は入り口を開放してあるが、夕方や明け方にも出入りできるよう戸の上に十数センチの四角い穴が開けてあってツバメはそこを通って出入りしていた。ことほどさように、ツバメと人は共存していたのだ。
 ツバメを見ると思い出す歌がある。

  柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日
  
 で始まる、敗戦の2年後、1947(昭和22)年に、サトウ・ハチロー作詞/古関裕而作曲、歌手は藤山一郎で売りだされた『夢淡き東京』という歌である。
 私は当時、小学3年生のよい子だった(今でもよい子です)。

        
                 写真は3月の柳

 この歌の冒頭にあるように、銀座と柳は縁が深そうである。
 1929(昭和4)年の『東京行進曲』(作詞西條八十、作曲中山晋平、唄佐藤千夜子)も、歌い出しは「昔恋しい銀座の柳」である。
 まだ、大正モダンの面影を濃厚に持つこの歌の詞は以下のようである。

  昔恋しい 銀座の柳
  仇な年増を 誰が知ろ
  ジャズで踊って
  リキュルで更けて
  明けりゃダンサーの 涙雨

  恋の丸ビル あの窓あたり
  泣いて文書く 人もある
  ラッシュアワーに
  拾った薔薇を
  せめてあの娘の 思い出に

  ひろい東京 恋ゆえ狭い
  粋な浅草 忍び逢い
  あなた地下鉄
  わたしはバスよ
  恋のストップ ままならぬ

  シネマ見ましょか
  お茶のみましょか
  いっそ小田急で
  逃げましょうか
  かわる新宿
  あの武蔵野の
  月もデパートの 屋根に出る

 ついでながら、幼い頃にこの曲を聴いた折、「いっそ小田急で逃げましょうか」のくだりでいつも胸がときめいたものである。早熟だったのだろうか。

 ついで、そのものズバリの『銀座の柳』という歌があり(1937年)歌手が四家文子に変わっているのみで作詞作曲は同じである。この歌が、前者のアンサーソング的であるのは間奏部分に『東京行進曲』が用いられていることでも判る。
 こちらの歌詞は以下のようである。

  (一)植えてうれしい 銀座の柳
    江戸の名残りの うすみどり
    吹けよ春風 紅傘日傘
    今日もくるくる 人通り

  (二)巴里のマロニエ 銀座の柳
    西と東の 恋の宿
    誰を待つやら あの子の肩を
    撫でてやさしい 糸柳

    (東京行進曲の間奏)

  (三)恋はくれない 柳は緑
    染める都の 春模様
    銀座うれしや 柳が招く
    招く昭和の 人通り


 この歌は一見、『東京行進曲』の雰囲気を踏襲しているようだが、いささか違うように感じられる。
 わずか8年間で時代は変わり、日本が完全に戦時体制に突入した年であった。3月には、日本の傀儡国家満州帝国建国が宣言され、7月には盧溝橋事件を発端として中華民国と間に日中戦争が勃発し、そ戦線は中国各地に拡大していった。そしてその暮れには、いわゆる南京大虐殺が発生している。
 そのせいか、歌詞はもちろん、その曲の軽快さやリズム感でも『東京行進曲』からはかなり後退しているように聞こえる。

 いささか長くなった。次回は銀座と柳の歴史などにスポットを当てながら述べてみたい。

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ボルトの「オレ」とフェルペスの「僕」 言葉について

2013-06-26 02:30:38 | よしなしごと
 写真はわが家へ遊びに来たツマグロヒョウモンという蝶です。

 ある同人誌に言葉についての文章を書いたつながりというかフォローで、「応用言語学」という分野の入門書のようなものを読んでいるのですが、サラッとした入門書のようでなかなか興味深い事例が出てきて、目からウロコがポロポロリ状態なのです。
 
 そのひとつは、生まれたばかりの赤ちゃんは、母の言葉、つまり母語とそれ以外の言葉との差異を知るはずがない段階で、すでにして母語への近親感をもっているということです。言葉は後天的な文化や制度に根ざすものですから、遺伝子に書き込まれている情報ではありません。にもかかわらずそうした現象が起こるのはなぜでしょうか。
 その答は、いわれてみれば簡単で、赤ちゃんは母の胎内で、すでにその母が話す言葉を「音」として聴いていたということなのです。

 これを少し拡大解釈すると、胎教の可能性が立証されることになります。
 これについては別のところでエッセイを書くつもりですから、いまは示唆するに止めておきます。

        

 もう一つは翻訳の問題です。
 小説などの翻訳においてもそうでしょうが、身近なところでは、TVなどで外国人が話している言葉の字幕というかテロップでの表現があります。
 データとして出されているのは過ぐる北京オリンピックの折の著名選手のインタビューなどの翻訳で、陸上のボルト選手と水泳のフェルペス選手のそれの対比です。
 
 そのデータによれば、ボルト選手の自称には「オレ」がかなりの頻度で使われ、フェルペス選手のそれには「僕」が当てられていたというのです。ボルト選手が何語で話していたのかは知りませんが、英語でいえばともに「I=アイ」であったはずです。ところが一方は、「オレ」で一方は「僕」であるとしたら、その差異づけは「野性的vs理性的」ないしは「黒人vs白人」が生み出したものだといえます。

 これについては本当に目からウロコでした。ひょっとしたら、私もその折のインタビューを聞いたかもしれません。しかしその差異には気づかなかったでしょう。ということは、素直に字幕にしたがって、「なるほど、ボルト選手はそういう話し方をし、フェルペス選手はそういうふうに話すのだ」と思ってしまっていたということです。

 だとするとこの翻訳は二重に問題をはらんでいるといえます。それは、この翻訳自体が、黒人のスポーツ選手はそのように話すものだという先入観に依拠していると同時に、そうした先入観を拡散し、固定観念としてしまうということです。かくして、私のような素直な聞き手は、「なるほど、黒人のスポーツ選手は・・・・」と、与えられた固定観念をさらに強固にしてしまうのです。

        

 まだこの書の半分ぐらいしか読んではいないのですが、他にも面白い指摘があります。
 日本人は、これからのビジネスの社会では英語が必須だということで、それを学ぼうとする機会は増大しつつあるのですが、一方では単一民族の単一言語としての日本語(実際には、今や消滅危惧とされるアイヌ語をもっているのですが)への幻想を引きずっています。だから、日本ではバイリンガルは稀有なことで、基本的にはモノリンガルなのです。

 しかし、しかしですよ、これも目からウロコですが、世界の人口のうち70%はバイリンガル、ないしはマルチリンガルなのです。日本のような島国はともかく、世界各地の民は、歴史的な状況の変動の中で、モノリンガルでは生きてこられなかったのです。かつての植民地では、宗主国の言葉と現地の言葉は必須でしたし、また、国境がその折々の情勢で変わる地方でもそれらは必須でした。

 有名なところでは、アルフォンス・ドーデの短編小説集『月曜物語』に出てくる『最後の授業』の話もそうした一例としてよく引用されます。しかしこの話、ドイツの進出によってフランス語が奪われるという筋立てになってはいますが、実はこの地区は変動著しいものの、基本的にはドイツ語圏でその時代でも日常語はドイツ語であり、したがってドーデのようなフランス人からすれば悲劇的でも、この地区の住民にとってはほとんど痛痒はなかったといっていいのです。
 その証拠は、呑兵衛の私がいうのだから間違いありませんが、アルザスの白ワインはブドウ品種もリースリングやミュスカが主で完全にドイツワインなのです。
 
        

 あ、どんどん話が逸れてゆきますね。
 ようするに、言葉というものはまるで空気のように意識しない場合は自然に私たちをとりまいているのですが、ひとたび意識し始めると、そこには予め刷り込まれたもの、あるいはそれらの強度を補完するものなどがひしめいていて、なかなか一筋縄ではゆかないということです。
 それにしても、ボルトの「オレ」とフェルペスの「僕」の差異が与えた問題は私にとっては強烈でした。

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音楽と身体と今池の街

2013-06-24 02:45:15 | 音楽を聴く
  写真はそれぞれ同日、今池にて。

 五月に一段落したことがあり、六月は三回のコンサートを予定に入れ、23日がその最終日であった。
 聴いたのは Schaffen Trio(シャッフェン・トリオ)というピアノトリオで、メンバーはピアノ:天野浩子、ヴァイオリン:冨沢由美、チェロ:西山健一という顔ぶれ。
 このトリオ、結成10周年を迎え、今回はそのアニヴァーサリー・コンサートということで、名古屋と東京での公演である(東京は7月7日)。

 名古屋での会場は千種駅近くの5/R Hall&Gallery。この会場はもともと室内楽用で、舞台と客席はフラットでその間に仕切りもなく、18世紀や19世紀の貴族やブルジョワが室内楽を楽しんだような空間に近いと思われる。私はここは三回目になる。

        

 私の席は前から2番目だったが、その三メートルほど先にヴァイオリニストがそしてそのすぐ後ろがピアニスト、すぐ横がチェリストといった具合であった。
 この距離からだと、チェロのピチカートの折にその弦が震えるのが見えるし、ヴァイオリンの弓の毛が一本切れて演奏につれて白く流れる線となって漂うのもよく見える。そして、ピアノの譜面のオタマジャクシの配置などもある程度判る。

 とりわけその音が、隔たった空間を感じさせないダイレクトな響きでもって迫ってくる。例えばチェロの低音部では、こちらの身体もそれにつれて共鳴するようだし、ピアノのフォルテシモの強打では、こちらの身体も飛び上がらんばかりに感じる。至近距離のヴァイオリンの高音は、私の肉体を貫いてさらに後ろへと広がってゆく。
 音楽の快楽は決して耳や頭脳での受容ではなく、肉体それ自身を包む共鳴の全体であると思う瞬間である。

        

 曲目は以下の二曲。

 1)ベートヴェン:ピアノ三重奏曲第五番 ニ長調 op70-1 《幽霊》
   
 三楽章からなるこの曲では第二楽章の冒頭とその終わりに幽霊が出る。
 もちろんその命名はベートヴェンによるものではなく、その響きがそれらしく聞こえるところから事後的に付けられたものである。こうした音の感じからすると、洋の東西を問わず、幽霊に託すメージはわりと近いのかもしれない。
 聴いていて、この第二楽章を映画音楽に使うと面白そうだと思ったのだが、それを使った例はあるのだろうか。別に幽霊が出るシーンのことをいっているわけではない。もっと普遍性がある場面で使える音楽だと思う。
 この曲は何度も聴いているし、確か以前、ライブで聴いたこともある。
 しかし次の曲はライブでは初めてだった。

 2)チャイコフスキー:ピアノ三重奏曲第五番 イ短調 op50
     《ある偉大な芸術家の思い出のために》
 
 この「偉大な芸術家」というのはチャイコフスキーの先輩格で彼のよき理解者であったニコライ・ルビンシテイン(ピアニスト/指揮者/音楽教育家 1835~81)のことで、彼の死を悼み、その一周忌に演奏されたものという。
 演奏時間が50分という室内楽としては長いこの曲は、2つの楽章からなり、その第二楽章は11の変奏曲からなる。全曲を通じて葬送行進曲風な雰囲気を含みながらも、その終章へ向けて盛り上がりは圧倒的で、ピアノの楽譜は2ページあまりにわたって、遠目には富士山がいくつも描かれているようであった。つまり低音から上り詰めた音がまた低音へと還ってゆく激しい上昇と下降のリフレインで満たされていて、それらの音とともに私もまた激しく揺さぶられ続けるのだった。
 
        

 かくして、50分はあっという間に過ぎた。
 チャイコフスキーという人は、ロマン派以降、「内面」のようなものを強調する向きがあるなかで、どちらかというとサービス精神がとても旺盛な人で、これでもか、これでもかと聴かせどころを繰り出してくる。それゆえに、いくぶん通俗的であると評する向きもあるが、しかし、内面といったところで主観が摂取した外面にしか過ぎず、いずれにしてもそれらを対象化するのが芸術だとすれば、その間にさしたる区別などはない。
 ようするに、精神といった抽象化された次元ではなく、もっと肉体的、かつ直接的にそれらを受容してもいいのではないかと思う。

 これは私の持論というのではなく、まさにすぐ身近で音の渦巻きに巻き込まれて音楽を聴いたという経験による感想である(ロックなどはまさにそれであろう)。
 また、それを感じさせるような熱演でもあった。

        

 高揚した火照りを抱いたまま、今池の街を散策した。
 30年間ここで働いてきた街、あとから分かったのだが、私自身が実はここで生まれた街、昔日の面影は次第に薄くなってゆくが、なんとなく街の匂いのようなものがあって、その波長は私に合っているのかもしれない。それとも、長年吸い込んだこの街の空気の澱のようなものが私の体の中に沈殿していて、それがいまなお呼応しているのかもしれない。
 旧知の人たち数人に出会った。

 家に帰って、都議会選挙の結果を見たら、予想を絵に描いたような形だった。民主党が共産党にまで抜かれたのは彼らが政権交代の機会を何ら生かさなかったばかりか、政権を交代することの意義すら国民から奪い取ったことの報いという他はない。
   

 

 

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初夏の夕餉はやはりさっぱりしたものがいい。

2013-06-22 14:16:45 | よしなしごと
 あまり料理の話をしたことはないのですが、外食ではなく、ある日の我が家の夕餉を紹介しましょう。

        

 久々に鮎の踊り串をうちました。
 やはり腕が衰えたようですね。
 手前のはまあまあですが、向こう側のはもう少し背が丸く、尻尾が跳ね上がったようにうたなければいけません。
 アジなどは普通、裏側の目から差し始め、そのほうが頭が上がり形が整いやすいのですが、鮎の場合それをするとそこから油が滴り、それに火がつくとぼっと燃えてその煤が汚れとなってしまうので、ご覧のように口から刺します。
 あ、それから、アジなどは裏側で一度串を体の外に出して刺すので身体のそりをうたせやすいのですが、鮎の場合は口から出口まで、一度も魚体の外に串を出しません。それだけに余計難しいのです。
 理由はやはり油の落ちとそれによる燃えを防ぐためです。

 なお、この鮎は養殖物です。この時期、天然物はまだこんなに大きくはありませんし、普通、スーパーなどには出ません。

        

 焼きあがったところです。
 家庭用のグリルは便利ですが返しがききません。
 業務用の火で焼いていたときは、俗にいう表四分・裏六分で焼いていました。
 そのほうが見た目にもよく、火がしっかり通るからです。

        

 左の煮物ですが、クズみょうがのようなものをどっさり買ったので、薬味などでは使い切れないと思い、かまぼこと一緒にあっさりと煮てみました。
 これがお互いに味のじゃまをすることなくとても相性がいいのです。
 相手にかまぼこを選んだのが良かったのでしょう。これがハンペンや竹輪ではあっさりしたバランスが崩れるように思います。
 見た目はあまり良くありませんがヒット作です。
 右の十六ささげはまさに旬の味ですね。

        

 焼きナスはグリルの指示を無視して強火で焼き上げました。
 やはり、焼き目がつかないと見た目にも、そして味にも締まりが出ないからです。

 きゅうりのぬか漬けは写真に撮るのを忘れました。

 以上のメニューをまとめると以下のようです。

 十六ささげ おひたし おろし生姜添え  カツオ出汁味醂醤油
 みょうがとかまぼこのあっさり煮
 焼きなす おろし生姜添え
 鮎 塩焼き 沖縄産ポン酢添え*
 きゅうりのぬか漬け(自家製)

 こんな料理ですから、合わせるのはやはり日本酒でしょうね。
 大阪の人からもらったまさに極上のお酒**もあるのですが、ここは前に買った越乃寒梅の吟醸酒を冷でいただくことにしました。

 日本料理はやはり旬を味わうのが一番ですね。
 上のメニューで、かまぼこ以外はいずれも今の時期のものです。

 いじましくなりますが、一人あたりの原価は350円前後です。
 野菜類が農協での購入のため特に安いのです。


鮎の塩焼きというと普通、蓼酢(「蓼食う虫も好き好き」のあの蓼です)を使いますが、今回は沖縄の方からいただいた柑橘類の芳香がするあまり酸っぱくないポン酢を使いました。これがまた良く合うのです。

**大阪の方からいただいた「奇跡の酒」のことですが、まだ開栓せず冷暗所に保存中です。開けた際は必ずレポートします。
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信用金庫への道と「南の花嫁さん」

2013-06-21 00:25:15 | 写真とおしゃべり
 所要があって近くの信用金庫へ出掛けた。
 「地獄への道は薔薇の花によって敷き詰められている」のだそうだが、私のうちから信用金庫への道は田畑と人家がまだらになっている都市郊外の風情によって占められている。

            

 まずはカンナの花であるが、一般的には赤が多いようだ。この花を見ると高峰三枝子さんが歌った「南の花嫁さん」という歌を思い出す。

  ネムの並木を 小馬のせなに ゆらゆらゆらと
  花なら赤い かんなの花か
  散りそで散らぬ 花びら風情
  隣の村に お嫁入り
  おみやげはなあに 籠の鸚鵡
  言葉も たったひとつ いついつまでも


 http://www.youtube.com/watch?v=PhafGWOyRHA
 
 藤浦洸:作詞の一見のどやかで微笑ましい歌だが、レコード化されたのが1942(昭和17)年とあって、まだ日本が東南アジアを支配している時期であり、この歌の「南」も明らかにそちらを指していた。
 しかし、歌詞全体にそうした戦時色はなかったため、敗戦後も引き続き歌われ続けた。

 この歌を調べているうちに、もうひとつの謎に突き当たった。
 それは作曲者の任光という人だが、中国人で、日中戦争が始まるや、第二次国共合作でできた抗日統一戦線の「新四軍」に加わり、1941年、つまり上の歌が出る前年に戦死しているのだ。

 ということは、その曲だけが何らかのかたちで残り、それに藤浦洸が詩を付けたのだろうか。それにしても抗日戦線に参加したひとの曲がどうして日本の歌謡曲に使われたのだろうか。
 全く謎である。
 どなたか、事情をご存じの方がいらっしゃったらご教示いただきたい。

         

 冒頭が長くなってしまった。以下端折ることにする。
 これは、何にでも巻きつくので嫌われ者のヤブガラシの花である。なかなか可憐だと思うがどうであろう。
 この蔓の先端部分が食用になるというので、湯がいておひたしにしたことがある。ちょっとヌルッとした感じで、さほど美味いものではないので一度試したっきりである。今度、食糧難になった時のために記憶はしておこう。

  

 ついでトウモロコシの花。下で受精してもう実ができている。

   

 ナンキンハゼの新芽とまだ若い花。何故かこの木は好きだ。

  

 続いて、昆虫二態。シシウドのような花にとまるアシナガバチの仲間ともう一つはアカスジカメムシ。後者には手を触れない方がいい。別名、◯コキムシといわれてもいる。



 この前通りかかったときは白かったネギ坊主が褐色になっている。あとの接写で見える黒い点はネギの種である。

         

 作業小屋のようなところを通りかかったら、金属の棒のようなものが立てかけてある。美しい。

 かくて、私の信用金庫への道ははかどらない。
 「信用金庫への道は老人性徘徊のネタに満ちている」のだ。
 

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水無月中旬日常茶飯事的身辺雑記

2013-06-18 01:21:12 | インポート
        

日曜日、名古屋へ出て中部フィルのコンサート。昨日、中山道の宿場町などを歩いて疲れているので、居眠りしないかが心配。とくに今回のプログラムはフラン スものが主体だから(演目は参考のために後述)、そんなに激しくはないだろう。指揮は、今年三月に大阪フィルの岐阜定期演奏会で聴いた秋山和慶氏。

        

考えてみれば今月になって初めての名古屋だ。ここ連日の暑さで若い娘さんたちはみなショートパンツかミニスカ。白い太ももが眩しい。老いたりといえども、自分が肉食系であることを改めて自覚。

            

さて、そのコンサートであるがとても良かった。お気に入りはラヴェルの狂詩曲『ツィガーヌ』。ヴァイオリンの長い独奏から始まりチャルダッシュ風のロマのスタイルがときに激 しく、ときに優雅に流れる。ソリストの島田真千子さんはヴァイオリンの豊かな音色を自在に引き出していた。秋山さんもまた、中部フィルの力量をあますところなく引き出して いたように思う。

         

ところでコンサートで珍しい人に出会った。いまから半世紀ほど前、私がサラリーマンだった折に同僚だった人だ。聞けば、中部フィルの支援会員で、私がチケットを買ったYさんともお住まいが近くで懇意だという。
 まさに縁は異なもので、終演後、一献傾ける場を持った。

 最初に出会ったのは半世紀前、お互い20台前半だが、私がサラリーマン社会から脱落して居酒屋をしている折にも利用してくれていたから、十数年ぶりということになる。これを機にまた再会することを約した。

            

息子たち夫妻が父の日にワインを送ってくれた。ニュージーランドVilla Maria ピノ・ノワール2011。いつか私が、赤の中でもピノ・ノワールが好きだといったのを覚えていてくれたものだと思う(と書いたら、嫁さんから正直に偶然だとのメッセ。たぶん、ワインの神様のお引き合わせだろう)。いずれにしても 感謝、感謝だ。昨日は外食だったので、今晩呑むことにしよう。

         

というわけで、いつもはフルボトルを3回ぐらいに分けて呑むのだが、今宵は半分を空けてしまって、かなり酩酊している。
 そのせいで、これを書きながら、読んでくれている人たちはみんないい人なのだと何の根拠もなく思ってしまっている。
 え?ほんとにい人たちなの?これはまた失礼しました。


 中部フィルハーモニー交響楽団
  第6回名古屋定期演奏会 ~フランス音楽への扉~
 
 ラヴェル:バレエ音楽『マ・メール・ロア』
  ただし、バレエ組曲『マ・メール・ロア』に変更 曲順などが微妙に違う

 ラヴェル:狂詩曲『ツィガーヌ』
      Vn 島田真千子

 ショーソン:詩曲 Op.25
       Vn 島田真千子

 ビゼー:交響曲ハ短調 ビゼー17歳の折の作品。いささか単調だが後の才能を思わせる。

  <アンコール> ビゼー:『アルルの女』第二組曲から「ファランドール」



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キッチュ化されない宿場跡・大平(おおだいら)宿跡

2013-06-17 03:07:29 | よしなしごと
 地域のサークルの人達と一緒に、旧中仙道の宿場町、妻籠と馬籠へとゆく機会があった。
 島崎藤村が、「木曽路は山の中にある」といったまさに木曽路の西の起点にあたる宿場町である。
 観光地としては全国区で、大型バスが駐車場に入り、日本各地からはむろん、中国語や韓国語も飛び交う。

 

 こうした観光地へ行った時、公式のガイドさんたちの話も参考になるのだが、一方、実際にその街で暮らす人達と話してみると意外と普通ではわからないことが聞き出せたりする。
 今回私は、妻籠宿の町外れの青果商(&雑貨屋さん)のおじさんと話をする機会があった。

 

 「なかなか賑やかですね」
 「まあ、今日は週末だからね。普通の日はひどいよ。そのへんで、さも宿場時代から商売をしているような店でも、実際にはほとんど通いだから、今日は暇だなと思ったら三時、四時でも店を閉めて帰ってしまう。まあ、サラリーマンと一緒だからしょうがないよな。だからここがよけい寂しくなるんだ」
 「じゃあ、おじさんは?」
 「わしはここで生まれ、ここにちゃんと住んでいるから、帰らないで店も開けているよ」

 

 この話を聞いて、一〇年ほど前に訪れたハンガリーの中世の趣を残している村落を思い出した。そこでも話を聞いてみると、大半はそこで暮らしているのではなく、新市街で近代的生活を送りながら、そこへ「出勤」してくるのだといっていた。
 そのせいか、民族衣装を着て踊るハンガリー娘は全員、私とほぼ同年代の、かなり年季が入った「娘」さんたちだった。

 

 私は、洋の東西を問わず、こうした古びた観光地がそうしたシステムによって成り立っていることを責めようとしているのではない。そのハンガリーの集落の人や、日本の宿場町の人が、中世や江戸時代の居住環境のなかで日常を送ることは現実的にいって不可能なのだ。
 だから彼らは、職業として中世や江戸を装い続けなければならない。そしてまた、そのことによって残されるものも多いのだから、端から文句をいう筋合いはない。
 まあ、しかし、それらが実はキッチュな模像にすぎないことぐらいは知っておいてもいいだろう。

 

 それはそれとして、今回訪れたうちでもっとも印象深かったのは、妻籠と馬籠ののようにいまなお昔日の面影、ないしはそのイメージを保全している宿場町ではなく、中山道と三州街道(伊那街道)を結ぶ大平街道のほぼ中間地点、標高1150mの大平高原と呼ばれる山中のかつての宿場町・大平(おおだいら)宿の様子であった。
 ここはかつて、大平村と称し、小学校はむろん、郵便局や電話の交換所もあった独立した村落であったが、急速な過疎化の進行の中で、1970(昭和45)年、住民の総意による集団移住により、それ以降廃村になったところである。

 

 その後、別荘地としての開発なども計画されたがそれもうまくゆかず、現在では飯田市に併合され、自然環境保全地区に指定されるとともに、体験学習などの一環として、かつての宿場へ宿泊泊できるなどの措置がとられている。もちろん、食糧などは持ち込みの自炊である。

 

 こうして、廃村になったになったにもかからず、かつての宿場を支えた家々は、半ば廃墟でありながら、かろうじて全滅を免れている。
 この宿場の廃墟は、妻籠や馬籠のように昔ながらのように装われたものではない。
 狭い街道の小さなせせらぎ沿いの家々はすでに倒壊してしまったもの、半壊のものなどもあって歯抜け状態で熊笹が生い茂っている箇所もあるが、そしてまた、40年前までは人が住んでいたということで、障子の代わりにガラス窓などになっているところもあるが、その建物自体は、江戸中期、末期、明治初期などのものが多くある。

 

 全くの廃墟ではないのでそんなことをいっては失礼だが、私のような廃墟フェチにとってはたまらない風情が漂っていて魅力十分である。
 訪れたのがたまたま土曜日だったので、古民家体験宿泊の人が数名いて、言葉を交わしたが、その人たちが今宵泊まる場所はすぐ分かった。旧街道沿いの小さは流れには、酒やビール、胡瓜やトマトなどが冷やされていて、その下流には岩魚の稚魚が泳いでいた。
 「アルコールは欠かせません」と笑うそのメンバーの一人は、実はここの出身だという。そして、ここには何々がありあそこには何々があったと懇切に説明してくれるのだが、それらのほとんどは自然の侵食にあってその形態を止めてはいない。

 

 彼との別れ際、自分自身が今やビジターであるにもかかわらず、私たちにまた来て下さいといっていたのが印象的だった。
 今や倒壊すべきものは倒壊し、熊笹や白樺に覆われたこの山中のちょっとした広がりにあった宿場ではあるが、険しい山道を登り、ここへと至り、さらに峠越えをひかえた旅人たちが、ここで旅装を解き草鞋を脱いだありさまが、それらしく整備された宿場町のレプリカよりも、一層身に沁むような宿場跡であった。
 






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なにもなにもちひさきものはみなうつくし

2013-06-14 15:38:40 | 写真とおしゃべり
 清少納言の『枕草子』に触れたのは今から五十数年前、高校時代の教科書の中でのことだ。受験勉強のまっただ中であったが、その歯切れの良さなどに興味を覚えて、現代語訳を付した抄本のようなものを読んだことがある。その本の題名も、そこに書かれていた内容も、今となっては忘却の彼方だが、この随筆には、清少納言にとっての「マイ・フェイバリット・シングス」、つまり、「私ってこういうのが好きよ」という叙述が多かったことは覚えている。

        
             柿の赤ちゃん 専門用語ではガキ

 冒頭の「春はあけぼの」からしてそうなのだが、そうした彼女自身の趣向に加えて、彼女が仕えていた中宮定子周辺の宮廷社会の事情やエピソードが綴られているというのがその全貌であろう。

        
                石榴の花とその赤ちゃん
 
 もちろん、好きなものばかりが述べられているわけではなく、その反面の「私ってこういうのは嫌いなの」という箇所もかなりあって、例えば第二五段の「すさまじきもの」などではそれのオンパレードである。

        
                これは琵琶の赤ちゃん
 
 それらは、彼女自身の優れた感覚にもよるのだろうが、一方では平安貴族の美意識のようなものをも表しているのではないだろうか。
 カントの『判断力批判』ではないが、趣味判断のようなものは、何らかの公理や定理から演繹されるものではない。判断者の複数性を背景とした共通感覚のようなものとして成立する場合が多い。
 だとすると、この『枕草子』が同時代の『源氏物語』と並んで当時の古典として不動の位置を獲得しているのは、彼女自身の美意識のようなものを通じて、平安時代の上流階級の普遍的なコモンセンスのようなものが凝縮して表現されているからではないだろうか。

        
                Homo sapiensの幼生体
 
 以下に、その『枕草子』、百五十一段「うつくしきもの」の後半、「小さきもの」に関する記述を転載する。

 ===============================

 ひひなの調度。 はちすの浮き葉のいと小さきを 池より取り上げたる。 葵のいと小さき。 何も何も、小さきものはみなうつくし。 いみじう白く肥えたる児の、 二つばかりなるが、 二藍の薄物など、衣長にてたすき結ひたるが、 はひ出でたるも、 また、短きが袖がちなる着てありくも、 みなうつくし。 八つ、九つ、十ばかりなどの男児の、 声は幼げにて文読みたる、 いとうつくし。  鶏のひなの、足高に、白うをかしげに、 衣短なるさまして、 ひよひよとかしがましう鳴きて、 人のしりさきに立ちてありくもをかし。 また、親の、共に連れて立ちて走るも、みなうつくし。 かりのこ。瑠璃の壺。

        

<現代語訳>
 雛人形の道具もかわいらしい。蓮の浮いている葉でとても小さいのを池から取り上げたもの。葵の葉のとても小さいもの。何もかも,小さいものはみなかわいらしい。とても色白で太っている子供で,二歳ぐらいの子供が、二藍の薄物などを,着物が長くてたすきを掛けているのが、這って出てくるのも、また、着物の丈が短い物で、袖ばかり目立っている物を着て歩き回っているのもとてもかわいらしい。八歳・九歳・十歳ぐらいの男の子が,声はまだ幼い感じで、漢籍を読んでいるのも,本当にかわいらしい。鶏のひなが、足長で、白くかわいらしい感じで、短い着物を着ているようで,ぴよぴよとやかましく鳴いて、人の歩く前後に立って歩き回るのもかわいらしい。また、親鶏が、ひなといっしょに連れ立って走るのも、すべてかわいらしい。雁・鴨などの卵。ガラスの壺もかわいらしい。

 
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オノマトペの増殖は表現を豊かにするのだろうか?

2013-06-12 02:12:39 | 社会評論
              
 
 6月11日午後7時半のNHKの「クローズアップ現代」は、「増殖するオノマトペの魅力に迫る」であった。オノマトペとは、「どんどん」とか「すいすい」とか「ぽっかり」とかいった擬音語、あるいは擬声語、擬態語のことである。
 番組冒頭の紹介では、いつを起点にしたのかは聞き漏らしたが、日本語でのオノマトペの使用は4倍に増えていて、それが表現を豊かにしているという趣旨だった。

 結論っぽいことを先に述べてしまうと、日本語においてのオノマトペがその表現を豊かにしていることには異論はないが、最近のその使用の増加がいっそう日本語を豊かにしているかどうかは全く別の問題で、むしろそうではないのではないかと思われる。

 オノマトペを駆使する度合いが一番多いのは幼児語においてである。成人が使うオノマトペが、どちらかというと形容詞や形容動詞的なのに対し、幼児のそれは名詞を始めあらゆる語彙に用いられる。
 犬は「ワンワン」であり、猫は「ニャンニャン」である。これらはまさに擬音語を足がかりとした言語表現への入門といえる。ようするに、語彙(ボキャブラリー)の少なさを補う言語表現といえる。

 番組の中では、オノマトペを「非常に有効に使った」人として長嶋茂雄氏が紹介されていて、彼の指導は「ダッと来たらバッとかまえてバーンと打つ」(このへんの表現は正確ではない)がわかり易かったといわれていたが、これって、まさにボキャブラリーの不足をオノマトペで補っているだけではないかと思ってしまう。好意的に解釈しても、彼特有の「動物的勘」のようなものがあって、それはオノマトペでしか表現できないということであり、言語化からの退行であることは否めないと思う。

 実は、キャスターの国谷裕子さんも、こうした現象は言語表現の退行現象ではということをチラッといっていたが、番組はそちらの方へは行かず、サラッと流された感があった。

 私は、最近のオノマトペの使用頻度の増加は、言語表現の豊かさの増進より、むしろその退行であると思う。それは、オノマトペは先に述べた幼児語にみられるように言語表現においては相対的にプリミティヴ(原始的)なものだと思うからである。いってみれば、ボキャブラリー(語彙)が少なく、リテラシー(読解力)が低下した結果ではないかと思うのだ。

 ネット上の書き込みなどではオノマトペは確かに増殖しており、2chなどでは時としてそれだけのやり取りすらある。これをもって、日本語の表現が豊かになったとはとてもいえないのである。

 言語のもっとも大きな功績は、そしてまたそれが動物相互のコミュニケーションとの違いであるのだが、「不在の現前」にあるといえる。平たくいえばそれは、今ここにないものがあたかもあるかのようにイメージさせる力である。「ライオン」という言葉は、今ここにそれがいなくとも私たちにそれを想起させる。

 オノマトペももちろんそうした力をもっているが、それはより直裁的であり、したがってそのイメージは漠然としていて細分化されていない。ようするにオノマトペは、先にみた「不在の現前」のやや手前にあるのかもしれない。
 例えば、この記載に、「ドキドキ」というコメントが付いたとする。もちろんその漠然とした意味は分からないではない。しかし、それが意味するところを表す日本語は実に多様でそれぞれの意味内容をもっている。
 それらは例えば、不安、恐怖、驚き、高揚、期待感、そして肉体上の動悸などである。これらの多岐にわたる意味内容を漠然と「ドキドキ」で表現してしまうことは、やはり、ボキャブラリー(語彙)の不足でしかないのではないだろうか。

 単に状況を伝達するのみならばいささか大雑把でも「ドキドキ」でいいのかもしれない。しかし、それがこと表現の世界で、単にある情報にとどまらない私の世界を表現しようとする時、私たちはその「ドキドキ」の内容をより適切な語彙の選択によって表さねばならない。
 オノマトペはたしかに表現の世界を豊かにするが、反面、オノマトペのみで済ます表現は漠然としていて貧しい。

 ただし、オノマトペが言語と非言語をつなぐ輪として重要な地位を占めていること、そして、新しいオノマトペが新しい言葉を生み出す可能性をもつことを否定するものではない。

NHKも番宣に必死で、この番組でも、朝ドラに頻出する東北地方(久慈市?)の方言、「じぇ、じぇ、じぇ!」をオノマトペの一例として取り上げているが、たしかにそうした一面はあるとしても、素直に捉えるなら、「エエ~ッ!」という意味内容と同じく、感嘆詞ではないかと思う。
 

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