https://www.youtube.com/watch?v=q0FdW5GQHjw
ここ一週間、はじめてのメダカ経験にかまけていた。喜怒哀楽が小さなさざなみのように湧き立ち、自分の人生なんて所詮はこれほどのものかいくぶん自嘲気味でもある。
ようするに怠惰であったということだ。ほとんどその他に関心を示さなかった。加齢による何ごとかへの意志・意欲の低下もあるのだろう。
決して暇でやることがなく、困っているわけではない。
家事のみでもかなりの仕事があり、例えば、溜まった新聞紙の整理をして、いつもの紙の業者に連絡をするという単純なことができていない。
廊下の隅に薄っすらと綿埃を見つけて慌てて箒を持ち出す始末だ。ここんところの雨で、さして広くない庭に雑草が伸び放題になっている。除草剤でも買ってきて一網打尽にしてやろうかとも思うが、ヴェトナム戦争の枯木剤の投下をつい連想してしまう。
そんな怠惰な私が、メダカの住処である火鉢からふと目を上げて気づいたことなどをアトランダムに。
ツツジの季節が終わった。落下した花々は死屍累々を思わせる。箒で一箇所に集め弔う。
だいぶ前から気づいていたのだが、庭の隅にいちごによく似た葉を付けた草が生え、黄色い小さな花を付けた。ハハ~ン、あれだなと思ったが、抜かずにおいたら赤い実を付けた。
ヘビイチゴだ。ここへ居を構えてから半世紀以上になるが、こんな身近に生えてきたのははじめてだ。
子どもの頃から、このヘビイチゴは土手や田んぼと道路の法面、畦道など至るところで見かけたものだ。
しかし、私の住まうこの一帯に関する限り、彼らの棲息環境は著しく破壊され、もはや稀有になりつつあるのだ。
というのは、その辺の田圃道がすべて自動車の通路に適合させるために、その法面をなくし、垂直に切り立ったコンクリートの壁にしてしまった結果、彼らの棲息の場はほとんど失われてしまったのだ。
むろん、ヘビイチゴのみではない。ツクシ、タンポポ、ノビル、ノアザミ、スカンポ、若い穂を食べるツバナなどなどが身辺から消えつつある。
だから、このヘビイチゴも、私のところへ避難してきたのだろう。
ところで、このヘビイチゴ、そう美味くはないにしろ食べられるのだが、不思議なことに、戦中戦後の食糧難の折でも口にしたことはない。私のみならず、私の周辺でも食べる風習はなかった。むしろ、これは食べられないということになっていた。その名前から、ヘビイチゴ→毒ヘビ→毒というイメージが植え付けられたのだろうか。
ほかに明るい話としては、いまより4世紀半も前に他界した亡父が、これはきれいだからもってきてやったと、自ら植えていったカタバミが、同じその場所できれいに咲きそろったことである。
その折、父に、何ていう名の花かを尋ねたところ、「確かサクラなんとかだ」と曖昧なことをいっていた。植物に暗く、同様に曖昧な私は、後年、それがカタバミだと知るまでの間、ズ~ッと「サクラなんとか」だと思っていた。
考えてみれば、そのすぐ横に、在来種の小さな黄色い花を付けるカタバミがいっぱい生えているのに、それを比較すらしなかった私がいて、私のあらゆる知がそうした曖昧さにうちにしかないのではないかと、自省を促すのである。
【番外編 この蛾ってなんだろう】
毎年、かなりの数が発生する。文様が美しく、近寄ってもあまり逃げない。場合によっては手を触れると、はっと驚いたように飛び立つが、さほど遠くへ逃げるわけではない。
ネットの蛾の図鑑で調べたが、ちょっと似ているものもいるが、どうもそれとは同定できない。
わかるひとがいらっしたら教えてほしい。
メダカが来てから一週間。メダカの天敵がいることは予想していた。小魚を捕食する水生昆虫などは近くにもいないし、火鉢の中へやってくることはないだろう。
とすると、あとは猫か鳥類だ。そこで、夜間には網戸のネットを利用したカバーを掛けることにした。われながらいいアイディアだと思った。
しかし、いつも掛けておくわけではなく、餌をやる時間は全開し、昼間は半分、ないしそれ以上は開けておくことにしている。だって、メダカたちにも、ホテイアオイにも、充分陽の恵みを与えてやりたいではないか。
彼らがやってきて以降、それでうまくやってきた。だから16日も、朝、餌をやってから半分以上を開放状態にしておいた。
昼、覗きに行って、ア、と思った。なんと、ホテイアオイの葉の上に、アマガエルが一匹乗っているではないか。これは想定外だった。
慌てて追いかけ回し、捕らえて火鉢の外へ追放した。
メダカたちは何ごともなかったように元気に泳ぎ回っている。
そこでハッと気づいた大問題は、アマガエルはメダカを食うかどうかだ。さっそくネットで検索した。
ところがどうだ。その回答はほぼまっ二つ。
「アマガエルは陸上で昆虫などを捕食し、水中のものは食べません、うちでは、メダカとアマガエルが共存しています」というものがある一方、「アマガエルは陸上だろうが水中であろうが、小さな動くものに反応し捕食します、うちのメダカが減ったのはそのせいだろうと思います」というのもあって、10近くの回答のうち、その可否はほぼ半々。
ならば自分の目で確かめてみようと火鉢のヘリで目視の観察。ホテイアオイも引き上げて数えてみる。
わが家へ来たときの構成はこうだった。緋メダカ5、スタンダード3、シルバーまたはホワイト3(この中には脊椎が曲がったノートルもいた)、そして真っ黒が1、で計12尾。
懸命に数える。緋色の5尾はすぐ確認できる。スタンダードは地味で数えにくいから後回し。続いて白ないしはシルバー、ん?2尾は確認、残るはノートル・・・・、目を凝らすが見当たらない。
後で確認するとしてほかを探す。黒いのは底の方にいた。そしてスタンダード。よくわからないが、2尾は確認できた。
もう一度最初から数えてみる。ノートルがいないのは確実だ。スタンダードの残り一尾も怪しい。結局、12尾中確認できたのは10尾。
では、アマガエルが食べたのであろうか?それはあまり信じたくはない。うちにはアマガエルはいっぱいいる。しかも彼らは、メダカたちがくる前はこの家のアイドルだったのだ。
近づいてもあまり逃げようともせず、夜、彼らの居そうな繁みに向かって、「ケケケケケケ」とやや高い声で呼びかけると、時として「ケケケケケケ」と鳴き返してくれる愛嬌もの。
そんな彼らが、メダカの天敵だとは思いたくないではないか。
たまたまアマガエルが火鉢の中のホテイアオイの上にいた。そしてメダカの数が減った。これは並行して起こったことだが、この間を因果関係で結びつけるのはやめようと思う。
ただし、網戸用のネットを利用した防御措置は一応強化しよう
それから、もうひとつ、メダカたちを個別に識別し、それに名付けることもやめようと思う。なまじっか名付けたりするから、それの「死」を意識しなければならない。単にメダカたちとのみ心に留めておけば、「数が減った」で済むではないか。
ナチスだって、ユダヤ人を名前で記憶せず番号で呼んでいた。だから、「殺す」という意識を抜きに、「移送」し「最終処分」できたのだ。
さらにいうなら、日本軍の731部隊も、生体解剖の対象を「丸太」とし、一本、二本と数えることで「殺す」のではなく「実験対象」とし得たのではなかったか。
とはいえ、唯一名付けた「ノートル」は、やはり「減った」のでなく「死んだ」のだ。しかも名付けたことによって、その死は悼ましい。
生き物を飼うということはこういうことなのだ。
*写真の白いメダカはすべて在りし日のノートル
マルクスの書はいろいろ読んで、それぞれ学ぶところは<wbr />多かったが、初期のものでいちばん鮮烈だったのはこれだ<wbr />。
マルクス若干26歳、青年ヘーゲル派といわれていた頃<wbr />のこの小論は、まだ、ヘーゲルの掌中にあり、これを卒業<wbr />して彼はマルクスになったのだと言われたりもしたが、た<wbr />しかに彼は、「即自」や「対自」など、ヘーゲルの概念を<wbr />用いてその論理を進め、いわゆる疎外論の範疇にあるとい<wbr />える。
しかし彼は、それらヘーゲルの観念論的概念装置を換骨<wbr />奪胎し、資本主義体制の中での人間の労働とは何であるか<wbr />、それらは自己実現というより、その反対物を築き上げる<wbr />のではないかという指摘と警鐘は今なおリアリティを失っ<wbr />てはいない。
疎外論はもう古いといわれて久しいし、それに一理ある<wbr />ことは知っている。しかし、マルクス的な意味での疎外論<wbr />を知らずしてその後を語ることも出来ないのではないかと<wbr />思う。
本来なら今日は長良川中流域の鮎の解禁日であり、それに合わせ、長良鵜飼、小瀬鵜飼が開始される日でもある。
しかし今のところ、このコロナ騒ぎで開始の目処は立たず、延期されることとなっている。無観客で、つまり、遊覧船での観覧をなくして、ただ鵜飼漁のみをという案もあるようだ。
鵜飼といえば岐阜の観光の目玉、この痛手は大きい。とりわけ今年は、その期待値が大きかったこともあって、いっそう落胆の度合いも大きいようだ。
というのは、NHKの大河ドラマ『麒麟が来る』の特にその前半は岐阜が舞台で、それだけに従前から手ぐすね引いて今年の観光収入を当て込んでいたからだ。
もちろんこれは鵜飼のみならず、美濃から飛騨を含めた岐阜県全体の期待を担ったものだった。
それがこの騒ぎ。観光収入は増収どころか例年の実績を大きく下回るであろうことはすでに明らかだろう。
それだけではない。これまでに使った自治体や地域全体の宣伝経費はすべて空振りに終わるし、一部の観光施設は、人員の増加や設備の整備、増設でさまざまな投資をしているところも多い。
そのために借り入れをしたりしていれば、負債のみが残ることとなる。
大河ドラマや朝ドラに依拠して地域の振興を夢見るというのは、次第に大きくなる地域格差の中で、地方が試みる藁にもすがるような試みだ。それを無残に打ちひしがれた口惜しさは大きいだろう。
しかし、それを愚痴ることもなく岐阜県人は感染の防衛に歯を食いしばっている。
今年の後半、もしこの騒ぎが落ち着いたなら、岐阜へ足を運んでほしい。ここでの私の知人なら、一部の案内をかってでても良い。
奥美濃に発した清流長良川が、山あいを縫うようにして流れ、岐阜市の北部で濃尾平野へとデビューする、どこか懐かしさを誘う土地だと思っている。
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https://www.youtube.com/watch?v=3xhYFA6rvS8
これからの宵、長良河畔の散策は気持ちがいい。伊吹山から養老山脈にかけて日が落ち、川面を夕闇が満たす頃、上流から篝火を焚いた六艘の鵜舟が順に下ってくる。それが近づくに連れ、トントントンと船べりを叩き、ホウ、ホウ、ホウと鵜を励ます掛け声が涼風に乗って聞こえはじめる。
篝火の火の粉が川面に散り、流れを赤く染める中、鵜匠が操る12羽の鵜が、代る代る潜り、鮎を捕らえる。それらを注意深く見守っている鵜匠が、これという鵜を船べりに引き上げ、鮎を吐かせて取り込む。
やがて、漁の終着。六艘の船が横一列に並び、鵜を操る。クライマックスの総がらみだ。鵜を引き上げ、鵜籠に戻す頃、篝火も痩せ、やがて深い闇と静寂が支配する時間が訪れる。
「ぎふの庄ながら川のうがひとて、よにことごとしう云ひのゝしる。まことや其興の人のかたり伝ふるにたがはず、浅智短才の筆にもことばにも尽くすべきにあらず。心しれらん人に見せばやなど云ひて、やみぢにかへる、此の身の名ごりおしさをいかにせむ。
おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉 芭蕉 (真蹟懐紙・夏・貞享五)」
待ちかねていたわが家の同居人(といっても離れ=屋外の火鉢の中だが)がやっと到着した。赤、黒、白、シルバーなど取り混ぜて12尾のメダカたち。
空き家の頃 掃除をして底に小石を敷き詰めた
二重の袋詰めにされ、発泡スチロールの箱に入れられ、暗いままにわけのわからないところを揺れて揺られて、さぞかし不安だったろうと思う。さあ、不安はおしまい。今日からここが君たちの住まいだよ。そして私が大家さんにして君たちのサーヴァント。よろしくね。
入居させる前にしっかり数えておかなかったので、何色が何尾かわからない。ひとたび放つと、ちょこまかちょこまか、おまけにホテイアオイの株の下に潜り込んだりで、とても数えられない。
次回、水替えの折になど、ゆっくり数えて確認しよう。今日のところはひとまず旅装を解いてくつろぎ、この新居に慣れてもらうこととしよう。
さっそく、餌をやった。はじめてのことで分量がわからない。あまりやりすぎないようにと控えたつもりなのだが、なにせあのコンマイ体、やはり多すぎたかな。
そのうちに、餌を待ちかねて、私の手から食べてくれるぐらいに懐くと嬉しいな。
よく見ると一尾、背筋が曲がったのがいて、泳ぎ方もぎこちない。でも心配することはないよ。ここなら他のに互して、のんびり暮らせるよ。
ホラ、その体の特徴で一番最初に私の目に止まったじゃないか。
名前を付けてやろうか。「ノートルダム」なんてやはりその肢体の連想に行きつくから嫌かなぁ。でも、直接「カジモド」と名付けるよりいいだろう。別に差別意識なんてないんだぜ。ユーゴーだってカジモドのことはこころ美しい男(ウ~ン、君は女性かもしれないね)として描いているし。
それに、私がそこへ行ってから半年後に焼け落ちてしまったあのパリの大聖堂の思い出もあるしさ・・・・。
え?なに?疲れてるんだからごちゃごちゃいってないで早くゆっくりさせろって? ア、ゴメンゴメン。
じゃぁ今日はもう母屋へ行くね。ノートルダムも他の連中もゆっくり休みなよ。雨が降ってきたから、ちょっとカバーをしておくね。イヤイヤ、もう真っ暗にはしないから大丈夫。早くここの生活に慣れてね。
じゃぁ、また。
FaceBookでの標題の催しへの参加の続きです。
「7日間ブックカバーチャレンジ」第三夜はニーチェの『この人を見よ』です。たぶん、この岩波文庫で読んだのが最初だと思います。なお、ニーチェのこの書ということではなく、これを皮切りに読んだニーチェの一連の書が対象です。
人間とは自分がこうだと思っているようなものではない<wbr />こと、常に、すでに外部にさらされて、自分の中に他者を抱えながら生きていることを強烈に教<wbr />えてくれました。
【またしても】先週の三〇日(休日の翌日)に続き、連休中の今日四日、岐阜南部「朝日新聞」にはチラシが一枚も入っていなかった。入っている日もその枚数は激減している。
新聞配達というシステムは日本独自らしい。そしてその収入は、紙代のうちの幾ばくかと、チラシの手数料で成立していると聞く。それがいま、危機に直面している。
ということは、ただでさへ部数を減らしている新聞そのものの存続にもかかわる。
新聞なんてもう古いといわれる。しかし、新聞には「一覧性」があって、情報がその新聞社の恣意によるとはいえ、その軽重や重要度、ジャンル分けなどによってその紙面に提示され、世界で生起していることがら全体のなかで、その情報を位置づけ受容できる機能がある。
それは、自分に都合のいい情報のみを吸収するタコツボ型のそれとは対極的で、すべてのそれらを相対化した上での改めての選択を可能にしてくれる。
だから、世の趨勢とはいえ、私は新聞という媒体がなくなって良いとは思わない。
このことは、メディア全体が抱えるその知性や質への批判とはまた別次元の、その土俵そのものをなくしていいかどうかの問題である。
だから、それを支えてきた一角である新聞店の危機は看過できないと思うのだ。
チラシ以外にも、最盛期には四〇ページに近かった本紙そのものが、今日は二〇ページしかなかった。
いろいろヤキモキすることが多い。