六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

都議会での野次についての友人のブログから思うこと

2014-06-29 16:18:31 | 社会評論
 私の学生時代からの友人で、卒業後、高校の教師を経験した人のブログに、都議会の野次問題についての以下の様な記述を見かけました。
 私自身が、その頃、彼女が指摘しているような価値観を黙認ないしは共有していたことを思い出し、ただ一方的に彼らを責めたり、犯人探しにのみ関心を持つのでは決定的に不十分であることを自覚させられました。

 以下彼女の記述です。

          

「(前略)都議会で行われた胸が悪くなるような、暴言とその幕引き劇を、見せられて、自分の若い頃の、教員時代の数々の差別的な扱いや、暴言を思い出してしまった。

教員の世界は、とても古臭い体質があって、女性教員は、みな苦労していた。
朝、職員室の全員のお茶を入れたり、職員旅行や飲食を伴う場所では、男性職員に、酒類をお酌することが、無言の圧力で、求められた。

父にも兄にも、そんなことをした経験のない私は、いつもボーっとしていたので、気の利かぬ奴、と疎んじられていた。新任の教員なのに、サービス精神皆無。そのうち早々と、結婚。卑猥な言葉を浴びせかけられた。

人権意識など無いに等しい人たちが、教壇に立つのだから、生徒たちにも、女性蔑視が、体の中に沁みこんでゆく。

差別だとは、思っていない男たちが、教師なのだから、弊害は限りなく大きい。
今回の、都議会の事件を見ていても、表面的には、男女共同参画だの、女性の力を活用して、だのと掲げながら、意識は半世紀前とちっとも変っていないみたい。
さっさと幕引きをしようとしている自民党に、限りない憎しみを感じる。(後略)」


 改行などに少し手を加えましたが、原文のままです。
 なお、そのブログのアドレスは以下です。

 http://blogs.yahoo.co.jp/chieko_39/archive/2014/6/26

 以下はそれに対して付けた私のコメントです。
 
 「おばママさんの教員時代の話、身につまされました。たしかにそういう時代でしたね。私自身も、当時会社員で、女性社員が男性より早く出社し、お茶を出す、 昼は昼でやはりお茶を出す、あるいは休憩時間にもといった習慣を黙認していたばかりか、『◯◯さん、そろそろお茶を・・・』と請求したこともあったかもしれません。慰安旅行などでも、女子社員からの酌を普通に受けていたように思います。その他、セクハラまがいの言動もあったかも知れません。
 その意味では、同じ価値観のようなものを共有していたのだと思います。
 
 今回、汚い野次を飛ばしたのは、そうした価値観をもっていた私のような世代が育てた次世代ということになります。その意味では、大きな顔をして彼らを責めるだけではダメなのだということを、おばママの上記の記事で改めて自覚し、反省させられました。
 ありがとうございました。」(一部加筆)

 若い人たちには信じられないかもしれませんが、当時はそれが「当たり前」だったのです。そして今、世の中の中枢で活動している人たちはそうした私たちの世代が育ててきた人たちなのです。
 当時とは職場の状況などは改善されているとは思いますが、そうした私たちの世代の価値観が、抜いても抜いても生えてくる雑草のように、しぶとく生き延びているのではと懸念しています。
 もちろん、私がすでにそうした地点から卒業したと強弁するつもりはありません。
 
 曖昧な幕引きを許さず、犯人を探し、しかるべく決着を着けることも必要でしょうが、同時に、そうした価値観そのものをきちんと捉え返し、それと向き合ってゆくことが世代を超えた課題であるように思った次第です。
 
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ドジだなっ! はからずもの「美術鑑賞」

2014-06-28 23:36:12 | アート
 写真は県美術館南門にある私ご贔屓の南京ハゼ

 今日の午後のことである。県立図書館を出たところで、隣の県立美術館は何をやっているのだろうかフトと見たら「県展」、ようするに岐阜県美術展が開催中とある。
 たしか若い知り合いが写真の部に応募していたはずだと思い、覗いてみることにした。

          
               ちょうど花盛りだった

 入ってすぐに子どもがやたら多いのに気づいた。今日は土曜日だし、子どもたちが美術に親しむのはいいことだろうぐらいに思って作品を観はじめた。
 どうみても子どもの絵だ。近づいてみると「小1 ◯◯**」とある。
 あっそうか、順序として子どもの作品から始まるのだと気づいて足早に観ていった。

 年齢が上がるに連れて巧くなってゆく。中学生ぐらいになると驚くほどリアルなものから、大胆にデフォルメしたものもある。

 絵画が終わったら書道だった。これもほぼ感想は同じ。

 さあ、いよいよ成人の部だと思ったらもう会場は終わりだった。
 あ、間違えて少年の部のところへ入ってしまったのだと気づき、受付のお姉さんに、「成年の部はどこでやっているのでしょうか」と尋ねると、「それはもう終わりました」とのこと。

          
 
 「え?でもまだ4時でしょう」と尋ねる私に、「いいえ、成年の部の開催期間が今月の中頃でもう終わったということです」との答え。
 「あ、そうでしたか。それじゃ・・・」とその場を去ったのだが、しばらくすると、「お客様、お客様」とその彼女が追っかけてきた。
 なんだろうと思ったら、一枚のパンフを示して、「どうしてもご覧になりたいようでしたら、7月5日から多治見で、そして7月19日からは高山で展示されます」とのこと。
 「もう終わりました」ではそっけないと思ってわざわざ追いかけてきて説明してくれたのだ。これには大いに感謝するが、でも、正直いって、この時期、日本一暑いといわれる多治見にまで追っかけてゆくだけの興味と気力もない。でもそれをいっちゃあおしまいと、「わざわざご親切にありがとう」といってその場を辞した。

          
             よく見ると螺旋状になっている

 美術館を出る際、振り返って見たら「県展 少年の部」とちゃんと書いてあった。

 子どもたちの絵はあまり覚えていないが、画面からはみ出しそうに書かれていたワタリガニが美味しそうだった。単なる入選のようだったが、私が審査員ならあれが特選だ。

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私に植木の刈込みをする権利があるかどうかについて

2014-06-26 23:11:41 | 花便り&花をめぐって
 2、3日続いた微熱も治まり、鼻の調子もよくなったようなので、午前中は農協の野菜売り場をはじめ、3箇所の買い物をこなした。
 午後も体調はいいようだし、幸いあまり暑くもなさそうだったので、戸外での肉体労働をした。といっても大したことではない。
 バス通りの道沿いに若干の植物群があるのだが、それらがあまり伸びすぎると通行の邪魔になる。だから一年に一回ほど、大体はツツジの花が完全に終わった頃に刈込みをすることにしている。もうとっくにツツジは終わっているのだが、今年はなんやかんやと今日まで延びてしまったのだ。

 勢い良く伸びきった植物を伐ってしまうのは可愛そうだし好きではない。しかし、歩道のないバス通りとあって、あまり伸び放題にしておくと、歩行者、とくに自転車で通る人の邪魔になる。上の方の枝は、バスの窓や屋根をかすめるかもしれない。

             

 まだ、バス会社から苦情をいわれたことはないが、電話会社からはこっぴどく叱られたことがある。もう何十年も前、渓流釣りのついでに採ってきたアケビの苗を植えておいたところ、凄まじい勢いで繁殖し、それらが電話の引き込み線を経由して、気づいたら本線にまで幾重にも巻きつき、空中ジャングルの観を呈するに至ったのだ。
 
 さすがに心配になって電話会社に電話をして来てもらった。
 アケビの根元の部分は切断したのだが、はるか空中にまで巻き付いた部分はいかんともしがたい。それらの部分は電話会社がクレーン車を動員して除去してくれた。
 何がしかの経費の請求は覚悟していたのだが、それはなかった。その代わり、「こんなことが続くようでしたら電話が通じなくなっても知りませんからね」と叱られたわけだ。これは明らかに私が悪い。ゴメンチャイ。

 それでアケビが絶滅したわけではなかった。いまでもその残党が思わぬところから這い上がってきて植木に素知らぬ顔で巻き付いたりしている。もちろんこちらは懲りているから、見つけ次第処分することにしている。

      

 さて、今日の作業だが、写真で赤い花をつけているのは5月1日のものである。それに比べれば30cm以上バッサリと刈り込んだ。
 写真ではわかりにくいが、上の方から出ていた他の樹の枝も、脚立を使って刈り込んだ。

 考えて見れば勝手なもので、私たち人類は植物や動物よりも遅れてやってきたのに、彼らを勝手に統御してきた。彼ら自身のあずかり知らぬ交配を行ってそれらの種を支配し、いまやその遺伝子的な分野にまで干渉しようとしている。自然との共存などという美しい言葉はもはや胡散臭くさえある。
 食用であれ、その他の材料や観賞用であれ、私たちは彼らの固有の仕組みの中にまでズカズカと分け入り、それらを資源として徹底的にしゃぶり尽くそうとしているのだ。

             
      どこかの車のホイルキャップがはずれてうちへ飛び込んできた

 一方で私たち自身はというと、無政府的に進化する科学技術が生み出した物や情報の無際限な堆積の奔流に押し流されて、自分たち自身がどこへゆこうとしているのかもわからないまま、進歩とか前進という無内容な言葉に翻弄されてさまよい続けている始末なのだ。

 オット、単なる植木の刈込み作業から話が飛躍しすぎたようだ。
 ひとまずは、刈りこんでしまった箇所に、来年もちゃんと花がびっしりつきますようにと祈っておこう。
 
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身辺の木々の便り マサキ・ムクゲ・枇杷

2014-06-21 15:11:22 | 花便り&花をめぐって
 地方によっては豪雨に見舞われて被害が出ているようですが、私の地方ではカラ梅雨というのでしょうか、ちょっと曇っては来るのですが降りそうで降らないような日々が続いています。
 そうなると悩むのは、若干ある木々や鉢植えに水をやろうかやるまいかです。



 かつて中国の山村で、歯を磨き口をすすいだ水も捨てることなくためて畑にやるという風習を目の当たりにしただけに、むやみに水を撒きたくはないのです。
 かといって、もちろん植物を枯らしたくはありません。
 そんなわけで、今日は周辺の木々の話題を。

          

 マサキの花が満開になりました。一つひとつの花は直径1cmにも満たないのですが、びっしりと付いた花はそこそこ見ものです。一部はもう散り始めていて、地表に黄緑色の点々が散りばめられています。
 一見地味っぽい花ですが、小動物には結構人気があって、蜂や蝶、アゲハなども訪れるのです。
 先日は、いかにも優雅に夜会服をまとったかのようなカラスアゲハがやってきたので、これは携帯では無理だ、カメラ、カメラと騒いでいるうちに何処かへと雲隠れされてしまったのでした。



 私の二階のデスクの至近距離にあるのはムクゲの木です。一番芽吹きが遅かったのですが、いまはもうたくましい緑をまとい、嬉しことには、私の方角へとかなり多くの蕾を付けた枝を伸ばしているのです。
 やがて、底紅のたおやかな花で私を慰めてくれることでしょう。

          

 木といえば、枇杷の収穫を行いました。
 去年はまったくの不作でしたが、今年はまあまあです。ただし、かつての鈴なりだった頃に比べると幾分寂しいものがあります。樹齢のせいか、あるいは私のこの土地が細かい岩石混じりの埋立地だからかもしれません。

 写真のざるにもう二杯ほど採りました。まだ、この数倍は採れるのですが、残りはほとんど木の上の方で、登るなどして命がけで採らねばなりません。落下してそのまま寝たっきりというのも考えものです。



 欲はいいません。娘が学童保育へ持って行って、2、3回分のおやつになればいいのですから。
 さっきちょっと怪しげな風が吹いてきたので、ひょっとっして夕立でも来てくれるのではと思ったのですが、またカラッと晴れてきました。

 さて、身辺の報告をさせていただいたところで、また勉強に戻りましょう。
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編集会議・映画『罪の手ざわり』・飲酒・うどん

2014-06-20 03:43:26 | 日記
 ちょっと体が復調したからといって調子に乗るのは良くないですね。
今日は同人誌の編集会議のあと、ジャン・ジャクー監督の『罪の手ざわり』」を観た。

          
 
 中国映画の中でも、都市派的感覚のこの監督の描く物語は鋭くせつない。若干鋭角的に描かれてはいるが、現代の中国の断面を確実に切り取っている。
この映画は、三年前私が訪れた山西省でもいくぶん南の一八湾村から始まる。
 同じ山西省でも、黄土高原とは幾分雰囲気が違うが共通した感じもある。
映画はオムニバス形式で中国各地のそれぞれの人びとを映し出すが、かれらの罪や自死は誰のものなのだろうか。そこに踏みとどまらないとやはり表層的な犯罪物語になってしまうだろう。
 第一話の炭鉱の所有者と地方ボスの癒着は、まさにその様相を山西省で見てきただけにぐっとくるものがあった。

          

 映画が終わって久々に飲酒。繁盛店でなかなか入れないところへ開店早々で入店することが出来た。
 写真一枚目は、各「酒」飲み比べセット。
 左から「九平次」(愛知県)、鍋島(佐賀)、「蛍」(福井)。
 この中では、サラッとした感じの「蛍」が気に入った。もちろん他の酒も吟醸香が馥郁として美味しかった。

 岐阜の人間として、これは見逃せないとして、「長良ワイン」の赤も飲んだが、これはとびっきりとはゆかなくとも、和食の味を損なわないスッキリしたライトなワインだった。

          

 しめは、大将が目の前で打ってくれるうどん、うどんそのものの味や腰、それに出汁がわかりやすいかけうどんに。
美味しかった。

 うどんや太門@名古屋市千種区今池の大将、ごちそうさまでした。

 写真二枚目は私の目の前でうどんを打つ大将。
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「福祉国家」はどこへゆくのか 社会学の本を読む

2014-06-17 17:13:26 | 書評
 いわゆる社会学の本格的な学術書に関するものは読んだことはなくとも、知らぬ間に社会学者が書いたものを読まされている場合が多い。
 古くは清水幾太郎から見田宗介、吉見俊哉、上野千鶴子、今福龍太、大澤真幸、橋爪大三郎、宮台真司などなどで、私のような専門も何もない普通の読書人のほとんどは、彼らが「社会学者」であるかどうかも知らず、オウム事件や秋葉原事件、震災や原発について書いたものを、たいていは新書などで読んでいる。
 
 マスメディアや出版業界にとっても、小器用にアップ・ツー・デートな問題にジャーナリスティックに対応してくれる社会学者は便利な存在なのだろう。
 しかし、それらのなかには、専門の領域はいざしらず、ただただ勢いのみで、週刊誌に書かれているような見識(?)を専門用語のオブラートで包んだだけのようなものも散見できる。

             

 今回はそうしたジャーナリスティックな副業ではない、社会学*の専門書ともいえるものを読んだ。
 『福祉国家変革の理路 労働・福祉・自由』(ミネルヴァ書房)という書で、著者は新川敏光という人である。
 実はこの著者、SNSで知り合った方で、リアルには一度しかお目にかかっていないが、そのご専門の領域でいろいろご教示いただいたことのある人である。
 
 こうしたSNSやブログなどでは、私はおしゃべりで、あることないことしゃべり散らすのだが、この新川氏は普段は学者の矜持で寡黙ともいえる。しかし、ときおり、その著書などとの対照でいえば幾分感傷的ともいえるような文章を載せたりされることがある。
 これは悪口ではない。第一に、書かれた内容が実際にそれに相当しているし、第二に、そうした記述にその人の実存のようなものが垣間見えて、かえって信用できる面もあると思うからだ。
 SNSでのそのハンドルネームは敢えていわない。
 
 で、その書の内容であるが、ここでは詳しくは述べない。
 ようするに専門書なので、割合丁重に、PCでノートを取りながら読んだら、A4で12ポイントの文字にして18ページにもなってしまった。
 それでも雑な読み方で、別に社会学者になるつもりもないので、自分の関心の赴くままに、悪くいえば乱暴ないいとこ取り、よくいえばプラグマティックな対応で、誰それの学説がどうというディティールは省略させてもらった。

          
               私が取ったノートの一端

 ようするに、若き日以来の私のこだわりのような人びとの共存のありようなものを整理するために利用させてもらったわけで、「福祉国家」という20世紀の特殊な国民国家像が、グローバリズムと新自由主義によって崩壊しつつある今、どのようなアルタナティヴな道が考えられるかという問題を整理してゆく上でとても参考になった。

 ついでながら、その副産物として、著者がそうは名指していないものの、いわゆるアベノミクスが、福祉支出の削減と企業減税、そして社会的弱者の自己責任論など、福祉国家から新自由主義的競争社会への移行を絵に描いたように実践していることが眺望できる。

 最初に、専門的学術書と書いたが、著者にはやはりこれを著す志向性のようなものが歴然とあり、それを帯に書かれた《「理想の力」が切り拓く政治の可能性とは》が如実に表している。

          

 そのひとつの可能性としてベーシック・インカムが詳細に検討されているが、それ自身がある意味で革命的であり、なおかつその実現のためには革命的な変動を要するように思う。
 
 とりあえず、私にとってはその根底にある近代的労働観の批判、それと著者もちょっと触れているようにハンナ・アーレントの労働観との相関、さらには、幾分飛躍するが、ジャン=リュック・ナンシーの「無為の共同体」などとの関連を考えてみることが宿題として残った。
 
 最後に、新自由主義的競争社会の徹底は、さしたる抵抗勢力もない現在、ケインズ以前の、ある意味でプリミティヴな裸の資本主義として出現する可能性すらあることをいっておきたい。
 さらには、もはや諸個人にはいかんともしがたいこの膨大に堆積されてしまった科学技術が生み出した物量と情報の大海、それらのなかで私たちは盲目のままの疾走を余儀なくされるのだろうかという文明史的課題もまたオーバーラップしてあるように思う。

 取ったノートを読み返し、反芻しながら、さらに考えてみたい。


私の早とちりで、新川敏光氏を社会学者として紹介してしまいましたが、確認をしましたところ、ご専門は、「政治過程論、比較福祉国家研究」でした。
 文意が崩れますので、文中では訂正しませんでしたが、ここにお詫び方々、訂正させていただきます。
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JR関西線の思い出  海、公害、修学旅行

2014-06-16 01:53:59 | 想い出を掘り起こす
 久しぶりにJRの関西線に乗った。
 四日市での20年近く前の友人たちとのいわゆるオフ会に出席するために、名古屋から利用したのだ。
 どのくらい久しぶりかというと、なんと64年ぶりということになる。

 平行して近鉄線が走っていて、そちらのほうがはるかに便利そうなのだが、あえてJRにしたのは時間に余裕があったのと、この路線についての思い出のようなものを実際に乗って追体験してみたかったからである。
 64年ぶりと書いたが、それ以前はよく乗っていたのかというとそうではない。
 多分、私の記憶では、それまでに二回乗車したのみだと思う。


          
          特急ひだ、快速みえ 揃い踏み 名古屋駅にて

 その第一回目は、いまを去ること66、7年前で小学校の2、3年生の頃であった。この折、私は初めて海というものを見たのだった。
 大垣の郊外に住んでいた私は、美濃赤坂線の荒尾という駅から大垣へ出て、そこから東海道線で名古屋へ至り、関西線に乗り換えて富田浜へ海水浴に連れて行ってもらった。まだ電化されていない頃で、全て蒸気機関車による列車だった。

 富田浜はそのまま駅名だが、その名の通り、駅のすぐ前がもう浜辺で、白砂青松の景勝地だった。そこへと着いた私が、いの一番にしたことは波打ち際へいって海水を舐めてみることだった。本当に辛かった。

 で、今回、その富田浜ではとくに注意を払って海岸があったと思しき方角を車窓から見たのだが、四日市コンビナートの一角に属するこの地区ははるか先まで埋め立てられ、往時の面影を残すものとしては、線路とは少し離れ、平行して残された松並木のみであった。かつてはその先がもう砂浜だったのだ。

 なお、約半世紀前にサラリーマンであった頃、この地区の国道1号線を仕事でよく走ったが、もう、桑名あたりから亜硫酸ガスを含む悪臭が漂い始め、この富田浜あたりでは車の窓を開けていられない状態であった。
 当時は、高級車以外はエアコンの設備はなく、夏など閉めきった車内は灼熱地獄であったが、襲い来る悪臭よりもはという思いがあった。
 また、この辺りで獲れる魚類は、モロに石油の臭いがして、とても食用にはならないどころか、口元へもってゆくのみで吐き気がする有り様だった。

 果たせるかな、幾ばくもしないうちにそれによる喘息の被害や、海水汚染などなどの複合的な四日市公害が問題視されるようになった。
 今日、それへの司法、立法、行政の各措置がなされ、問題はすべて解決したように思われがちだが、決してそうでないことを描いた東海TVによる優れたドキュメンタリー映画がある。それへの感想は以下の私のブログにかつて書いた。


http://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/e/1e515058583122ba25ccda062fe497d5

          
 JR四日市から近鉄四日市間の中央通り 通称70メートル道路またはくすのきロード

 関西線の思い出に戻ろう。二回目に、すなわち64年前に乗ったのは小学校の修学旅行の折だった。この時はもう岐阜に住んでいたが、岐阜から修学旅行用の特別列車で、名古屋経由の関西線を利用し奈良へいったのだった。帰りはたしか京都経由の東海道線だったように思う(京都は停車はしたが降りることはなかった)。あるいはその逆だったかもしれない。共に蒸気機関車の列車だった。

 当時のスピードの遅い列車での日帰り旅行はかなりの強行軍で、朝、暗いうちに岐阜を出て、帰りは真夜中ということで、共に保護者の送迎を必要とした。
 これは1950年の11月のことで、多分その月の中頃だったと思う。
 なぜそんなことが記憶にあるかというと、その旅行から帰って一週間もしない間に、京都駅が全焼したからである。それを新聞で見て、「エッ、この間通った京都駅が」と驚いた記憶がある。いまその火事について調べてみると、11月18日の出来事とある。
 なお、燃えたのは今の京都駅の、前の、前の駅舎であった。

 以上が関西線にまつわる私の思い出であるが、これと平行して走る近鉄にその利便性の面でやはり後れを取っている。単線のための運行の制約もあるが、インフラの面でもかなり遅れている。
 桑名や四日市のような都市の駅でも、バリアフリーの設備は全くなく、跨線橋を自分の足で登り降りしなければならない。
 帰りは、近鉄を利用したので彼我の差が歴然としているのを実感できた。
 


 
 
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「私の愛は増すばかり」の花言葉をもつ花は?

2014-06-12 14:20:08 | 花便り&花をめぐって
 南天の花が咲いた。
ここに住まいして半世紀近くになるが、わが家の南天の歴史は割合新しい。とはいえ、二十数年は経過している。

             

 わが家に南天が渡来したのはほぼ同時、二つのルートからである。そのひとつは、亡父の家が部分的に改修を行った際、坪庭にあった、もうすっかり大きくなった南天をごっそり移植したものである。

 もう一つの系列は、もう30年も前になるが、当時の飼い犬がお気に入りにしていたわが家のとある建物の隙間の、まさにその犬がいつも寝そべっていたあたりに自生してきたものである。
 当時は片田舎のこと、半分放し飼いのような状態であったので、彼がどっかでくっつけてきた実が芽吹いたのだろうというのが私の推理である。

 これが亡父から譲り受けたそれとは明らかに異なるのは、父からのものが赤い実なのに対し、犬がもたらしたそれはなんと白南天なのである。ついでながら、亡父からのものは、葉の形状が柳のように細長く、幾分よじれたような観があるので、料理などに添えたりは出来ない。

          

 かくしてわが家には、「おやじの南天」と「寿限無(当時の飼い犬の名前)の南天」があるのだが、これがまた結構繁殖力が旺盛で、「来る者は拒まず」という私のずさんで怠慢な方針もあって、両者が繁殖した結果、猫の額のおような狭い庭に今や7本というか7箇所の南天の群落をみるに至った。

 この年の早春、伸びすぎてその集落が周辺の水仙などを圧迫するのを見かねて、ついにそれらを伐採することにした。私の親指ほどの幹が数本固まって2mほどの高さに達しているのを根本から伐るのは忍びなかったが、ごめんよと詫びつつ実行した。

 しかし、やはり南天の生命力は強い。幾ばくもしないうちにその切り株から新しい芽がわんさか伸びてきた。それもまた、「ごめんよ」といって刈り取った。

             

 南天は毒消しになる。昔は、お重で赤飯などやりとりする際には必ずといってほど上に乗せたものだ。私もその真似をして、おせち料理を作った際には各お重に南天の葉を乗せることにしている。
 毒消しどころか漢方の素材にもなるようで、とくに白は珍重されると聞く。うちでいえば、「寿限無の南天」のほうがそれだ。

 ほかには、「難を転じる」ということから縁起担ぎにされることが多いが、うちのように無政府的にあちこちにあるようでは、難を「転じる」のではなく、かえって「呼び寄せている」のではあるまいかと思っている。

 ちなみに、その花言葉は、「私の愛は増すばかり」だそうである。

          
          

おまけに、葉の形状が好きなヒイラギナンテンを載せた。これは県立図書館の中庭でのもの。

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田植えの済んだ田んぼとアリストテレス

2014-06-09 00:50:59 | 写真とおしゃべり
 この周辺での田植えのピークはこの土日だった。まだ植えられていない田も散見できるが、ほとんどの田では終了したようだ。
 土日に集中するということは、このあたりの農家の大半が兼業であることを示している。

          

 私がが子供の頃、というのはもう70年ほど前だが、田植えと稲刈りとというのは農家にとっては一大イべントで、子どもも含めて、文字通り一家総出の大仕事であった。
 学校もまたこの時期には農繁期の休日を設けていた。

 私は小学生だった数年間、疎開先の母屋の田植えを手伝ったことがある(もちろん稲刈りも)。低学年の頃は苗を運ぶなどの単純作業だったが、高学年になるに従って、実際に苗を植える作業もした。
 機械化などまったくされていない時代であるから、手で植えつけるのである。
 下手に植えると、根が浮いてきてしまうので、親指と人差し指、中指を添え、それを鳶口のようにしててしっかりと植えつけねばならない。



 作業の合間に、あぜ道で一家揃って食べるおやつや弁当は実に楽しかった。そんな集団が、あちらの田でも、こちらの田でも盛り上がっていた。いまのように少子化ではなく、産めよ増やせよの時代の後だから、どの集団も大きく、華やいだ声が田の水面を往来した。
 それはおそらく、今のようなビジネスとしての田植えを超えた何ものかであったといえる。米作りというのは終始、地を這いまわるような作業の連続ではあったが、やはり、田植えと稲刈りは特別の日、いわばハレの日といってよかった。

 さて、今の時代の田んぼに戻ろう。
 先日、田植えを済ませたばかりの田で、巧く植えられなかった箇所の補修をしているのであろうか、田のなかを往来して、所々で稲をいじっている人がいた。
 昔なら、この後しばらくすると、次々に生えてくる雑草との闘いが炎天下のもとで続いたものだが、いまはそれも薬で処理しているようだ。


                  むむ?怪しげな影が・・・・

 はがきを出しに行ったついでに、改めて田を眺めてみた。
 まだ頼りなげな稲の赤ちゃんたちが、田んぼに散りばめられたまま、いくぶん戸惑ったように風にそよいでいる。
 これが、秋には下の写真のようにたわわに実をつけるとは信じがたいほどだ。

 こうした物事の変化を、アリストテレスは「潜勢態」から「現勢態」という言葉で説明している。
 ようするに予め潜んでいる力が現実となって現れるということだが、その過程は予定調和的にいつもうまくゆくわけではない。
 稲の場合にしたって、自然の、あるいは人為による環境の変化で必ずしも実りが保証されているわけではない。また、実ったところで、豊作、不作の差異は免れがたい。


 
 この「潜勢態」から「現勢態」へという捉え方は、「必然性」と「偶然性」、あるいは「存在者と存在の存在論的差異」などという問題とも関連してきて面白いのだが、ここまで来るとご隠居さんの衒学趣味といわれそうだから、このへんでやめておこう。

 何はともあれ、このひ弱で危なっつかしい苗たちが立派に育って、秋には一面の黄金の波となって「現勢」することを祈っている。

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淫靡な男の雪駄チャラチャラお出かけ日記

2014-06-04 01:26:26 | 日記
 男には熱中症の危険を犯してでもやり遂げねばならないこともある。
 え?女にもあるって?そうでしょうね。失礼しました。
 まあ、いってみればそれぐらい意気込んで出かけたということで・・・。
 
 ようするに出かけた。浅葱色のシャツに紺の綿パン、オット帽子を忘れてはいけない。足回りは素足に雪駄だ。暑い時はこれが一番だ。

 田んぼに挟まれた田舎道を進む。先週末頃から水を引き始めたばかりで、まだ田植えを済ませた田は数えるほどしかない。しかし、水が張られただけでなんとなく華やいだ感じになる。
 きっと水が、空や雲などを映し出すキャンバスの役割をして、平面が多彩になったからだろう。
 ときおり、白い腹を見せて反転しながら飛翔するつば九郎たちもその華やぎに色を添える。

          

 こんな中を雪駄チャラチャラで進む。時折の風が涼を運ぶ。
 その風に乗って何やら青くさ~い匂いが漂ってくる。
 「ん?」これはと立ち止まったが、その正体をすぐ思い出した。
 あたりを見回してもその臭いを放つものの正体は見当たらない。
 それくらい香りが強いのだ。
 風が運ぶその香の強さは、おそらく金木犀のそれと双璧だろう。

 「よしよし、あとで見に行ってやるからな」とひとりごちて歩を進める。
 まずは銀行。カード決済やネットでの現金の移動が多くなっているのだが、どうしても一定量の貨幣を手元に確保しておく必要もある。

 銀行はATMの他に窓口での用件もあったが、意外と早く済んだ。
 続いて少し離れた郵便局へ。
 うちを出たのが1時半ぐらいだから、日差しはますます強くなる。
 無理をしないでゆっくり歩く。
 郵便局からの帰りは私の好きな川沿いの道だ。

          

 水量が多い時期はチロチロと動き回る小魚たちの姿を見かけるのだが、この時期、彼らは所々にある深みに集まっているようだ。
 そうした深みの近くで立ち止まって目を凝らすと、何かの拍子に明るい色の石の上をよぎる魚影を確認することができる。
 あるいは水中で反転する折の瞬時の銀色のきらめきが見えたりする。
 そんなのを目撃すると、少し幸せな気分になる。

 うちを出てから三角形におおよそ1キロ余を歩いたことになる。所定の用件はすべて済ませたのだが、まだ体力はありそうなので、ちょっと遠回りをして、先ほど風に乗せてメッセージをよこした奴に逢いに行ってやることにした。

          

 この辺に半世紀近くも住んでいると、その正体は無論だがその在処もわかってしまっているのだ。
 おお、今年も立派に咲き誇っている。
 栗の花である。
 栗にも色々種類があるが、この木は大栗が実るだけあって、その花も豪華だ。
 そしてまた、臭いも強烈だ。

 ひと通り携帯で撮ってから帰ろうとすると、「私も撮ってよ」とばかりにハグマノキ(白熊の木・スモークツリー)が行く手を遮る。

          

 うちの近くに差し掛かると、田に水を送るための溝を清らかな水が勢い良く流れている。しばらく覗きこんでいたが、水生動物の姿は皆無だ。
 そりゃあ、そうだろう。つい数日前まではカラカラに干上がっていたコンクリート製のU字溝に、ポンプで組み上げた水を送っているだけだから。
 水草のように水流になびいているのは、コンクリートの隙間から生えていた本来は陸上の草たちだ。なかには、春紫菀の姿もある。彼らもきっと驚いていることだろう。

 ところで、栗の花や金木犀など、あまりにもその香が強いものは見る段にはともかく、その香自体についてはいくぶん淫靡な印象をもってしまう。
 それはその香が彼らの生殖作用に関連していることを知っているからだろうが、同時に、それにしても過剰ではないかと思ってしまうのだ。
 まあしかし、それも粛々たる自然の営みであり、そんなことを思い浮かべてしまう私の想念の方にそれを淫靡とする要因があるのであろう。
 早い話が、私自らの淫靡を自然への投影したものともいえる。

 帰宅してから、ミッシェル・フーコーの『ユートピア的身体/ヘテロトピア』を読了。
 自分と一緒にしてはいけないが、フーコーもまた、おのれの淫靡さを開示しつつ、それがはらむセクシュアリティの問題、そしてそれに内在する権力の痕跡を徹底的に洗い出そうとした人だ。
 
 同書に収められた、ジュディス・バトラーの「フーコーと身体的書き込みのパラドックス」の一文が、フーコーの論に寄り添いながら自身のジェンダー論を研ぎ澄ませてきたこのひとならではの指摘で、少し興奮しながら読んだ。
 やがて死ぬゆく身だが、こうした興奮がある以上、読書は素晴らしい。
 そのためにも、健康でいたい。
コメント (7)
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