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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【私の絵日記】散歩道からいろいろと

2020-09-26 11:30:56 | 写真とおしゃべり

 この20、21の両日は外出をし、多少歩いたが、それ以前からの蟄居生活で運動不足は否めない。そこで、昨日、近くのクリニックへ薬を貰いに行った帰途、少し歩くことにした。

 春になると桜並木になる川沿いに歩を進める。若いお母さんまだ言葉もままならぬ幼子が、若いお母さんに川面を指差して何やら言っている。その方向を見ると、カルガモが二羽、泳いでいた。風貌から見るに、今年生まれたまだ若い鳥のように思った。

        

 そこから少し上流、何やら川面に波紋があって、黒っぽい影が。近づいてみると40cm超えのでかい鯉だ。この辺ではあまり見かけないから、もう少し下流の太い流れから遡上してきたのだろう。

        

 そのさらに先に、少し深くなってる淵状の箇所があり、そこは、ここを通りかかる折、私が必ず覗き込むスポットだ。
 そこには毎年、春先にはメダカに毛が生えたような小魚が、水中の黒煙のごとく群れをなし、それは日毎に大きくなり、数は減ってゆくのだが、この時期には10cm前後にまで成長し、なおある程度の群れをなしている。おそらく、モロコかモツゴのたぐいだろうと思うのだが、然とはわからない。
 写真ではわかりにくいので、動画を貼り付けておく。

 https://www.youtube.com/watch?v=ypCczANuwCg

 何年か前のこと、あんなにたくさんいたそれらが、まったく姿を消したことがあった。
 近くのおじさんに、「今年はいませんねぇ」と言ったら、「この前、川鵜がやってきて綺麗サッパリ食べていった」とのこと。こんな狭い淵で、川鵜にやられたらひとたまりもないだろうと思うと同時に、もう来年から群れている様子は見られないかも…と危惧したが、その翌年もわんさか群れていて、ほっと胸をなでおろしたことがある。

        
           

 同じ川べりで、曼珠沙華を見つけた。どこかでチラリとぐらいは見かけたかもしれないが、間近で見るのは今シーズン初だ。
 曼珠沙華で思い出す歌を貼り付けておく。後者は、1938年、私の産まれた年の歌だが、戦後もよく歌われていて、子供の頃、口ずさんだりした懐かしい歌だ。
 
https://www.youtube.com/watch?v=gN6l-CqtEjk

「曼珠沙華」唄・常森寿子/ピアノ・コルト・ガーベン ヴァイオリン・マリエッタ・クラッツ         作詞・北原白秋 作曲・山田耕筰 (1922=大正11年)

https://www.youtube.com/watch?v=ZK5FhCTxqHU
 「長崎物語」
  作曲:佐々木俊一  .作詞:梅木三郎 . 唄:渡辺はま子 .
 

           

 この地区の稲は、やっとこの程度。稲刈りは、10月の第一の土日か第二の土日だろう。
 エノコログサが涼し気だが、やがてもっと色づいて来るだろう。

             

 うちの手前で、側溝の穴に落っこちそうな小型のコガネムシの仲間を見つける。穴の縁まで来て上手に回り込んでいった。

                    

 https://www.youtube.com/watch?v=M1AlStFk_Rg

 世の中、菅内閣発足以来、海のものとも山のものとも解らぬ不気味に淀んだ気配が漂っている。そして、通奏低音のようなコロナ禍の継続。
 だから自然というわけでもないが。

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中部国際空港(セントレア)へ行く 眺望の良さ&悲哀

2020-09-23 12:06:41 | フォトエッセイ

 連休中の21日、名古屋鉄道(名鉄)の無料乗車券が手に入ったので、岐阜を拠点にできるだけ遠くへ行った方がと思い、中部国際空港(セントレア)へでかけた。
 一昨年、昨年とここから海外へ往復したのだが、今年はそれを果たせなかったのでせめて空港までというせこい考えもあった。それと、海外旅行が制限されているなか、空港がどうなっているのかも見ておきたかった。

        

        

        

 折からの好天に恵まれ、空港そのものが海の中の人工島とあって吹く風も爽やかで、航空機の発着が見渡せるスカイデッキも、日差しが強い割に快適だった。湿気が少なかったことも幸いしたのだろう。
 さて、そのスカイデッキからの眺望であるが、以前来たときと違い、発着便が実に少ないのだ。前は、これでは過密ではないかと思うくらい多かったのに、おそらく三分の一以下に減少しているようだ。

        

        

        

 スカイデッキの先端には、いつも発着を撮影しようとするカメラマンがひしめいているのに、それらしいひとはいたことはいたが、大砲のようなレンズを持て余して退屈そうだった。
 若い人たちが、スマホをかざしているほうが遥かに多かった。
 しかし、それらも含め、スカイデッキそのものへの人影は少なかった。

        

        

        

 空港内の人影も、空の旅のための人たちはチラホラで、近郷から遊びに来たという人たちが圧倒的に多かった。もともとこの空港は、ロケーションが良く、新しい施設とあって、空港利用者に比べ、ここへ遊びに来る人たちの比率が高いことで知られた空港ではある。
 しかし、それにしては乗降客の割合は少なかったように思う。
 それも含め、人の数そのものが少なかった。

        

        

 その影響が顕著に出ているのが、物品販売や飲食関係である。
 シャッターを下ろした店は異常に多く、貼り紙を見ると、「当分の間・・・・」というものから、中には、「大変長らくお世話になりましたが・・・・」というのもあり、苦渋の決断を偲ばせ、哀れを催す。
 あるフードコートなどは、八店中、稼働は二店のみという惨状であった。元飲食店経営者としては、胸にズシンと重い衝撃が走る。

           

           

        

 空港ピアノがあったので、しばらく見ていた。子どもたちが童謡や練習曲風のものを弾いていたが、最後に、女性がショパンを弾いた。惜しむらくは途中でちょっとつっかえた箇所があったことだが、それもご愛嬌だ。こういう開かれた場で聴く演奏は、コンサート会場とはまた違って、楽しいものがある。

           
 
 それでも、あちこち見て歩いたら結構楽しかった。
 帰りは名鉄ご自慢のミュースカイ2200系で岐阜まで。
 岐阜へ着いたら湿度も高く暑かった。
 改めてあの空港のロケーションの良さを思った。

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長良川鉄道(越美南線)の旅と転車台のある終着駅

2020-09-14 16:15:10 | 旅行

 久しぶりにスッキリと晴れた土曜日、地域のサークルの人たちと長良川鉄道に乗る小旅行にでかけた。
 まずは車で関駅に集合し、その駐車場に車を置いて、一日乗り放題のフリー切符(2,700円)を買う。これで、美濃太田から北濃まで、72.2キロの間、どこまで行っても、何度乗り降りしても自由。

   

 まずは一挙に北上して北農まで行き、途中下車しながら散策する予定だったが、時刻表の都合上、すぐ近くの美濃市行きに乗り、その駅の周辺で時間を潰し、次の美濃白鳥行きを待つことに。
 美濃市駅は、美濃市の中心街、あの卯建のある街並みからもけっこう離れた寂しいところにある。


  チャギントン・ラッピング車両 車内もきれいだが乗らなかったので写真はなし

 少し待って、美濃白鳥行きに乗る。土地の人でないと、これを「しらとり」と読んでしまうが、正解は「しろとり」である。
 ついでに長良川鉄道の38の駅名で、ほかに難読に属するものは二つあり、それが並んでいる。「母野=はんの」、「木尾=こんの」がそれだ。

 

                    左は長良川水系もっとも上流の酒蔵「元文」 美濃白鳥にて

 白鳥では、街なかを少し歩き、奥美濃大橋を渡って長良河畔の西側へ至る。ここで国道158号線沿いにある道の駅「清流の里しろとり」内の「そば工房 源助さん」でやや早い昼食。
 ザル蕎麦と鮎ご飯のセットメニュー(1,100円)をいただく。蕎麦も鮎ご飯も美味しかった。がっついていたので、写真を撮るのを忘れた。

                        白鳥付近にて 秋の陽光に長良川の川面がキラキラ輝いてた

 その後、川沿いの道を北上し、川の風情やそこに溶け込むように鮎釣りをする人たちを眺めながら、今度は上流の白鳥橋で東岸に戻り、白鳥駅に戻る。
 そこからいよいよ終点の北濃を目指す。

                              単線のため待ち合わせ 向こう側は全国初の乗客と宅急便の混載車両

 ここは実は、終点であって終点ではない。というのは、この長良川鉄道、かつては国鉄の越美南線といって、高山線の美濃太田を起点としこの北濃に至っていたが、それが最終的な終点ではなく、ここを経由して福井県側へ至り、福井市の越前花堂駅を起点として南下し九頭竜湖駅に至っている越美北線と連結し、全線で越美線として、岐阜県側と福井県側を結ぶ大動脈となる予定だったのだ。

                                   

 それが、戦争の激化などと重なり、1934年、未通区間20キロほどを残して中断され、戦後、落ち着いて工事再開が可能な頃には、モータリゼーションの到来で鉄道需要は減退し、工事中止が決定されたという次第。
 その後、越美南線として美濃太田‐北濃間で運用されていたが、国鉄の路線合理化の過程で廃線候補になるなか、1986年、三セクの長良川鉄道に移管が決定し、現在に至っている。


 社内風景 左は鯉のぼりは吉田川を利用した郡上本染をシートにデザインしたもの

 なお、このローカルな路線、国鉄の蒸気機関車が走っていた時代に、何度も利用したことがあるだけに懐かしい。というのは、父の故郷が、美濃白鳥からは油坂峠、北農からは桧峠を越えて福井県側へ行った山あいの集落にあり、そこへ行くためだった。

 最初に行ったのは小学校3年の夏で、やっとシベリアから復員した父の帰郷のためだった。1947年当時、この旅は長く過酷なものだった。その経路はこうだ。
 まず当時住んでいた大垣の郊外から、美濃赤坂線で荒尾駅から大垣駅へ、そこで東海道線に乗り換え岐阜へ、岐阜から高山線で美濃太田へ、そこで越美南線に乗り換え美濃白鳥へ、そこからは国鉄バスで油坂峠経由で今の九頭竜湖駅近くの朝日へ、そこから父の集落へは石徹白川沿いに数キロ行かねばならないが、公の交通機関はなかったので歩きはじめる。幸い、トラックが通りかかったので、家族一同、その荷台へ乗せてもらう。当時この辺りの、公共交通機関がない道路では、トラックなどは歩行者の要請に応じて乗せてやることが不文律だったようだ。

 
      北濃駅前の長良川 水量が少なくなってきてる

 そして、ようやく父の生家に着いたのはさしもの長い夏の日が、とっぷり暮れる頃だった。大垣を発ったのが早朝だったから、12時間以上を要したことになる。今なら、車で2時間ほどで行けるのにである。
 電話をして迎えに来てもらえばいいじゃないかと考えるのは現代人。当時は、携帯はおろか電話がない家庭もいっぱいあり、自家用車などはよほどのお金持ちしか持ってはいなかった。
 父の生家のある集落には、まだ電気も来ておらず、ランプによる生活だった。

 話が大きくそれた。
 そんなわけで、北濃は正真正銘終着駅である。車止めがあり、それから先へ鉄路は見えるものの、もはや自然に任せるままになっている。
 見ものは、転車台が残っていることで、蒸気機関車の場合、これで機関車の方向を180度変えたのだ。
 私どもの他にも、何人かの鉄ちゃんたちが、それぞれカメラを構えていた。

    

 北農からUターンで南下し、途中郡上八幡で下車し、自由行動だったので私は好きな河畔を散策し、長良川と吉田川の合流点付近まで歩いた。
 よく歩いたので、足が痙攣する。これでは帰途の車の運転に差し支えるので、早めに駅まで引き返し、ひたすら足のマッサージ。
 衰えたものだ。

   

上左は吉田川鉄橋を渡る長良川鉄道 右は長良川(奥から)と吉田川(右から)の出会い
       下はその出会いの下手の長良川の風貌

 

 


 

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ホンネを歌った詩人 大塚楠緒子のことなど

2020-09-10 11:33:14 | 歴史を考える

 全く別の勉強をしていて、大塚楠緒子の詩に突き当たった。
 名前は聞いたことがある程度の知識しかない。それもゴシップめいた話で、夏目漱石が密かに恋していた女性(かもしれない)ということであった。

          

 その詩に出会ったことで少し検索してみたら、彼女は1875~1910年と、わずか35年でその生涯を閉じたという。
 しかし、この間に10編以上の小説と二冊の短編集を上梓し、ゴーリキーの翻訳をしたり、文学活動の他には絵画やピアノ演奏にもその才能を発揮している。

 その死の報に接して、漱石の詠んだ句は以下である。
  
      あるほどの菊投げ入れよ棺の中

           

 で、私の出会った彼女の詩であるが、それは以下のようなものである。

  お百度詣で
 
  ひとあし踏みて夫(つま)思ひ ふたあし国を思へども
  三足ふたたび夫思う 女心に咎ありや
 
  朝日に匂ふ日の本の 国は世界に只一つ
  妻と呼ばれて契りてし 人は此の世に只ひとり
 
  かくて御国と我夫と いづれ重しととはれなば
  ただ答へずに泣かんのみ お百度詣ああ咎あり

 

 読んでわかるのは、国家への忠誠を要求するナショナリズムと、夫への愛の板挟みとなった女性の詩だということで、ここでは建前と本音が隠蔽されることなく素直に並列され、詠われている。

 作られたのは1905年の日露戦争の終盤で、その前年には、与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」も作られている。
 明治も終わりにさしかかったこの時期、帝国憲法はもちろん機能していたが、その運用はまだまだ緩やかであったといってよい。

 条文では、天皇は神格化されていたが、その解釈では美濃部達吉の「天皇機関説」が公式に認められ、立憲君主風の雰囲気が残る余地があった。
 しかし、大正期をすぎて、美濃部の学説が不敬であるとされ、憲法解釈がオカルティックになり天皇神格化の度合いが増るにつれ、状況は一変する。
 治安維持法の厳密な適応、特高警察や憲兵の闊歩の中で、帝国憲法下で許された僅かな自由もすべて埋め立てられ、軍事一色に染め上げられてゆく。

                        主義者と目された者たちの検挙

 おそらく、与謝野晶子や大塚楠緒子の詩が、もう30年あとに作られていたら、彼女たちは非国民として大炎上し、袋叩きになったことだろう。
 大塚楠緒子の時代はまだ、建前と本音との両面を詠うことができた。しかし、昭和10年代以降は、建前以外を口にすることはできなかったのだ。

        

 出征兵士に、「無事で帰れ」とは決して言えず、「死んでこい=逝ってこい」といい、戦死者を悼み悲しむことはできず、立派に戦ったと寿ぐことが要求された。
 建前の怒号のみが行き交うなか、戦争への傾斜はもはや留まることをしらず、悲惨と凄惨の縁へとまっしぐらに転落してゆくのであった。
 
 そんな時代に私は産まれた。


 

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多彩なエピソード 黒川創『暗い林を抜けて』(新潮社)を読む

2020-09-06 14:01:02 | 書評

 面白い構成の小説である。
 まるで論文のように、第Ⅰ章、第Ⅱ章、第Ⅲ章、第Ⅳ章と区分され、それぞれにタイトルが付けれられている。もちろん内容は紛れもなく小説であるし、その表現も論文調のものではけっしてない。

 そのそれぞれの章が、独立した短編小説として読めるようになっているが、かといってまったく別の話ではない。いずれも、有馬章という新聞記者が主人公で、時系列は若干行ったり来たりするが、おおむね彼と、そして時に、彼の周辺の人物の物語である。

            

 第Ⅰ章冒頭での、主人公の学生時代のガールフレンドが、彼女の視点で語るエピソードが、第Ⅳ章の末尾近くの主人公の側からの回想シーンとしてリフレインされるという円環構造もみてとれるのだが、それは同時にこの小説全体を貫く(と私が思っているだけだが)家族の問題(それはしばしばもっとも近い他者の問題として語られる)、そして、はじめは自分とは距離をもっていたのだが、次第に自分のものとして自覚される死の問題を描く行程でもある。

 こんなふうにいうと、なんか重っ苦しい小説のようだが決してそうではない。ストーリーそのものの展開が面白いし、全体を読み通すと、ああ、そうだったのかと主人公のあゆみとそれを取り巻く関係性のようなものがしだいに明らかになってくる過程も謎解き的な意味で面白い。

 もうひとつ、この小説を面白くし、その厚みを増しているのは、そこに挿入された多方面にわたる豊富なエピソードの数々である。
 最初の言語聴覚士の話は、後に出てくるのALS(筋萎縮性即索硬化症)やホーキング博士の話に繋がるし、香月泰男を思わせるシベリア帰りの画家(時代的にやや違うかも)の話も面白い。

 世界大戦の話にも意表を突かれた。第一次世界大戦があって、第二次があったのではなく、逆に、第二次があって、はじめて、あれは第一次だったといわれるようになったというのだが、リアルな歴史の世界はいつもそうなのだろう。フランス革命に参加した人はフランス革命をしようとしたわけではないように。

 湯川秀樹と京大物理学研究室の原爆開発研究の過程も面白いが、その湯川が、研究の合間にクラシックの演奏会にでかけ、リストの曲をエタ・ハーリヒ=シュナイダーという女性の演奏で聴くという話がある。その彼女の話もめっぽう面白い。
 彼女は、一応ドイツ政府の使節団の一行として1941年に来日するのだが、実際には反ナチを心情とする亡命同然の来日で、そのままドイツへは帰らなかった。

            

 彼女の専門はチェンバロと音楽理論で著作もあるが、日本では、当時はまだあまり知られていなかったチェンバロの普及に努め、各地で、チェンバロやピアノの演奏会を行った。湯川が聴いたのもそのひとつだった。以下は、記録に残るエタの演奏。

https://www.youtube.com/watch?v=kpA_5sZi90Y
https://www.youtube.com/channel/UCIAvrGaHC63uGld64pkMLxw

 彼女はまた、かのゾルゲ事件のリヒャルト・ゾルゲとも親交を結ぶこととなり、どうやらその関係は友人の域を越えていたようだ。

 最後のエピソードは、滋賀県は朽木村(現・高島市)の高厳山興聖寺を巡る話である。
 平安中期、藤原道長の娘、威子と後一条天皇の間にできた第三子の王子が、何らかの事情、おそらく本人の何らかの欠陥により、この地に流され、そこで生涯を終えたという話である。
 それだけなら、遠い昔の言い伝えということになろうが、この地を、平成天皇の第二王子・礼宮(現・秋篠宮)が訪れ、住職にある質問をしたというのだ。18歳の折のことだという。何を質問したのかはあえていうまい。

         

 これら多彩なエピソードを提供し、小説は終わる。その多様さは、作家・黒川創の知的関心の在り処とその豊かさを示して余りあるものがある。
 それを読むだけでもこの小説は面白いが、それを貫く、家族・死をみつめる彼の視線が通奏低音のように絶え間ないところに、この小説が多くの内容を含みながら、散漫になることなく、ある重力をもって迫ってくる所以があるように思う。

 なお、余談だが、もう10年以上前、黒川氏が私が参加するある会(もくの会)にゲストとしてやってきて、二次会まで付き合ってくれ、大いに飲みかつ歓談したことがある。
 彼は、その日のうちに京都へ帰るということで新幹線に乗ったのだが(その折、私は名古屋駅まで同行)、列車の揺れにつれ爆睡し、気づいたら、無情にも列車は京都を過ぎて進行しつつあったという。

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