9月の声を聞いて、朝夕はやや涼しくなったものの、日中は相変わらずの猛暑が続く。そんななか、久々に美術館へ足を運んだ。
名古屋在住の友人(女性)、I さんが送ってくれた資料にあった岐阜県立美術館の「没後20年 堀江光洋展〈飛騨を撮る〉」を観るためだ。高山に生まれた堀江光洋という写真家(1920~2003)は、写真館を営む傍ら、往年の飛騨地方の山の民を巡る風俗、習慣、労働、建造物などなどを撮り歩いた。
ろくな交通手段もなく、僅かなバスの運行とあとは徒歩という時代、彼の撮影旅行は10日以上、ほとんど行方不明状態で続いたりして、その連れ合いをしてヤキモキさせたという。
その甲斐あって、彼の撮した対象は、いまとなっては他に例のない貴重なものとなっている。今回展示されているものは50年代はじめから60年代にかけてのものがほとんどで、したがってモノクロに限定される(晩年、円空仏を撮した2,3点を除く)が、もはや二度と見られない光景ばかりである。
冒頭に、白川村の合掌造り集落でのものが並ぶが、合掌造りというものが存在するということがうっすら知られていた程度で、観光の対象とされることもなく、ましてや世界遺産などは夢にも思いつかない頃の記録である。
ここでは、いまではどんな田舎へいっても、もはや過去の遺産として郷土博物館の展示物になっている農具や運搬具が通常のものとして使われ、子どもたちは農山村特有の作業を手伝い、薪を運び、女の子はねんねこを背負って子守をするのが当たり前であった。
これらが、日常の風景としてごく自然に活写されている。ここに登場する老若男女のてらいのない表情がいい。観光地慣れをした人のポーズなどは全くなく、カメラ目線の人たちの時折のハニカミの表情もいい。群衆の中の一人がたまたまカメラ目線で驚いた表情を見せているのも面白い。
これらの貴重な記録が、ただそれを伝えるにとどまらず、構図やアングル、明暗、コントラストなど考え抜かれた作品として、高い質のもとに撮られていることももちろんいい添えるべきだろう。
これらの写真を見ていてもうひとつ気づいたことは、モノクロの積極性というかモノクロのアグレッシヴな可能性についてである。
どういうことかというと、自然界にはモノクロは稀で、光あるところ色彩に満ちている。したがってモノクロはそれらの欠如と考えられやすい。しかし、これらの写真を見る限り、決してそうではない。むしろ、対象にある余分な要素を削ぎ落とし、その核心に迫る攻撃性すら感じられるのだ。ここに描かれた風物や人物は、モノクロのなかでこそその精気を放ち続けている。
いまTVなどでは、モノクロ時代の映像や動画をカラーを施したものにすることが流行っている。それはそれで技術の進歩を誇るものであり、否定するものではないが、しかし、こうした堀江光洋などの作品は、それにはなじまない。というより、それは作品の作品性を損なうものになるであろう。
ここでは、白黒の二元性、その差異とグラデーション、そしてそれらの輝きや明暗を差配する光の存在、それが全てなのだ。
まあしかし、こんなことは私がのろまだから今頃気づいたことで、土門拳などモノクロ時代の写真作家には共通している事実に過ぎない。
ついでだが、70年代から80年代、私は堀江光洋が対象とした飛騨地方へよくでかけた。しかし、60年代の高度成長期と、70年代の列島改造論のもと、堀江が記録した風俗習慣や人々のたたずまいが急速に失われてしまった時期であった。
もっともこちらの飛騨行きの動機も渓流釣りであったから、幾度も合掌造りの近辺を行き来しながら、さして気にもとめなかったのだから偉そうなことはいえないのだが
しかしその後、さらに飛騨は大きく変わった。平成の大合併は飛騨地方の町や村落を高山市や飛騨市に吸収させ、それら集落ごとのの間の差異を不明確にしてしまった。その結果、高山市などは今や全国で最も面積が広い(東京都全体とほぼ同じ)市になったが、私にいわせれば人の数よりは獣の数のほうが遥かに多いのではと思われる。
そうした合理化や効率化の波が押し寄せ、どの地方をも同一の色彩に染め上げてゆくなか、それから遡る2世代、3世代前のこの地方固有の人々の暮らしの記録は、戦前戦中の農村(母の実家)で疎開生活を送り、さらに戦後、まだ電気が来ていない父の実家、福井県の山村の暮らしを垣間見た私の胸を打つ懐かしいものがある。
この現代を生きる私を、相対化して観るための良い機会であった。
これは帰路の信号待ちで撮ったもの
*写真は当日撮った岐阜県立美術館と隣接する県図書館のもの。堀江光洋のものを紹介したかったがその展示は撮影禁止のためかなわない。パリのルーブルもオルセーも、ロンドンの大英博物館も、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館もどこも撮影フリーであったのに、日本の美術館は閉鎖的だ。