六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

今年最後の川柳もどき いいお年を!

2008-12-31 04:53:35 | 川柳日記
 今日はおせち造りで忙しいのです。
 そこで今年最後の書き込みは手抜きで、秋以降の川柳もどきです。
 みなさんいいお年を!
 来年もよろしくねっ!


 
 



<流す>
 温もりは流してきたよ 重いから
 聞き流すことが出来れば円い月


    
    



<芸>
 古稀迎う 切られ突かれが芸となる
 芸なのであろう別れに浮かぶ笑み


 
 



<林檎>
 控えめな林檎の種の物語
 林檎磨く 世界の汚点消すように


 
 



<誓い>
 やんわりと誓いの言葉ひらがなで
 匿名の誓いに包囲されている


 
 



 馬鹿騒ぎ晴れのち曇り失語症
 自画像をつつけば赤い不発弾
 生まれるというならここへパスワード
 思い出せない名だ とても重いはず
 不都合な星は墜として生き延びる





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「田舎暮らし」が売れる時代に・・。

2008-12-30 04:09:02 | 想い出を掘り起こす
  写真は私の散歩道からです。

 私の住まいが県都の郊外で、高度成長期に急速に開発の触手を伸ばしたもののバブルの崩壊によってその開発がスローダウンした結果、都市化と旧来の田園風景がまだら模様に残っている地域だということは前にも書きました。

    
          私を監視している塔 でしょうか?
 
 ここに住み始めたのは、もう40年以上前です。
 ここにした理由は、亡父が稼業の木材商のためここの土地を手に入れ材木置き場にしたのですが、何しろ回りに全く人家がなく、夜中にトラックを乗り入れて材木を持ってゆかれても分からない、ついてはここに住んでくれたら土地や家屋をいい条件で譲渡ないしは分割払いにするとのことだったからです。
 実際、ここに住み始めた頃には、前後左右、100メートル以内には全く建造物はなく、田圃に囲まれていました。
 すぐ近くの空き地で、キジの親子を見たこともあります。

 
       柿の木のある家 柿たちはこのまま年を越すのか
 
 ところがです、あっという間に開発の波が押し寄せました。
 最初は街中の繊維産業の発展が要請する住宅事情に呼応するように、小さなアパートや借家が進出しました。
 それを追うように郊外型の商店が現れたのですが、最初に現れた地元資本のそれは、より大きいものが近くに進出することによって駆逐され、さらにそれが大きなチェーンに敗北するなど、まるで小さな魚が順々に大きな魚に食べられてゆく食物連鎖のような様相を示しました。

 
        あでやかな南天の大木 実も葉も美しい
   

 それにつれ、農家の人たちも、田圃一反を潰して駐車場付きのマンションや大型アパートを建てるようになり、私の家もそれらに包囲され飲み込まれることは必至という事態に至りました。
 そんな折にバブルが弾けました。私の家を取り巻く包囲網は未完のままに終わり、そして冒頭に述べたようにまだらな環境が残ったのです。
 
 
         門構えのある農家 昔の地主さんだろうか

 この間、自然は壊滅的な打撃を受けました。
 すぐ近くにあった農業用水を兼ねた小川には、鮒や泥鰌、めだかが溢れていました。シラハエすらのぼってきたものです。
 ザリガニや在来種のタニシもいっぱいいました。

 田圃にはイナゴがいて、それを捕って佃煮にしました。
 トノサマガエルもウシガエルも夜には一大コンサートを催し、どんなに涼しい夜でも窓をあけては眠れないほど喧しかったものです。
 隣が田圃のせいで、うちにもトノサマガエルが遊びに来て、玄関先でピョコピョコしていました。
 それらを狙うかのように、蛇も結構いました。
 ゴキブリ捕りの粘着マットに蛇の子供がかかっていたこともあります。
   
 
           すすきは冬のそれも美しい

 小川に話を戻しましょう。その小川がコンクリートのU字溝になり、しかも、稲作の時期に合わせてのみ井戸から汲み上げた水を放流するようになって以来(その他の期間は干上がったまま)、上に書いた小動物たちはすべて絶滅しました。
 それらの姿を見かけなくなってから久しいものがあります。
 もちろん、U字溝のせいばかりではなく、農薬の蓄積など複合的な要因によるものだろうとは思います。

 例え小動物とはいえ、それらの何種類かが回りから消えてゆく環境というものは、考えてみれば空恐ろしいものがあります。
 水生の動物ばかりではありません。先に述べた蛇ももういません。
 夏の風物詩だったヤモリもその姿を見せません。
 女郎蜘蛛も鬼蜘蛛もあんなにうっとしいほどに巣を掛けていたのにもう何年も姿を見ません。

 
    カラスウリの実 中には打ち出の小槌のような種が入っている

 家のひさしに巣を構えていたアシナガバチももういません。
 カマキリも全く姿を見せません。
 ちょっと砂糖などこぼすと、たちまち家の中に行列を作ったアリたちすらほとんどその姿を見せないのです。
 そればかりか、特別駆除をしたのではないのにネズミの気配も久しく感じません。
 そうそう、庭の土を盛り上げていたモグラももういません。

 回りからこうした小動物たちが消えてゆくのは不気味ではないでしょうか。人間は相対的に大きいから安全なのでしょうか?しかし、その安全性の許容の範囲は本当に身体の大きさということに帰してしまえるのでしょうか?

 とはいえ、まったき自然などというのがもはやお伽話であるとは思います。
 しかし、人間はこの環境の変化にどこまで対応できるのかを生き延びて見てみたい気もします。

 
       大根を干している おいしい沢庵になるのだろう

 とりあえずは、このまだらな環境が嫌いではありません。
 まだらであるがゆえに残されている風物もあるからです。
 
  テレビで、よく田舎暮らしを紹介するようになりました。
 功成り名を遂げてリタイアーした人たちが田舎で暮らす様を伝える番組です。それを望む人たちを批判しようとは思いませんが、しかしいうならば今日、田舎暮らしはトレンディな商品だと思うのです。
 そうしてみると、かつて田舎暮らしを嫌い、都会を夢見た若者たちの方が何か純情に見えてしまうのです。

 今日、田舎暮らしを志向する人は、商品社会からの逃避そのものがまさに商品として流通していることに気づいてはいません。
 しかし、かつての若者たちは、敢えて商品の社会へ自分を投企することによって可能性を見出そうとしていたのですから・・。



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高校生が作った「緑滴るうどん」

2008-12-29 00:58:24 | よしなしごと
 岐阜は知る人ぞ知る枝豆の産地である。
 実際にこの辺りの枝豆はうまい。それを食べ慣れているせいで、居酒屋あたりが突き出しで出す冷凍の(外国産が多いのだが)それは全く味も素っ気もない代物だと思う。
 緑色が鮮やかすぎて青に近いような枝豆、それが冷凍物のサインで、既に湯がかれていて、水に晒して解凍する仕組みになっている。
 豆の味、コクが「全くない」のが特徴である。

 あ、そうそう、枝豆談義ではなく、今日の主役はうどんであった。
 このうどんだが、名称は「緑滴る枝豆うどん」という。
 原材料は小麦粉と岐阜産の枝豆、それに色を補足するためにクチナシの色素からなっている。

 

 実はこのうどん、地元の商業高校の学生が考案したものである。
 説明に曰く、「地商・地産・地消」(造語)=「地域の商業高校が考案した商品を地域で生産し、その地域で消費する」とある。
 いささか長ったらしくて回りくどい向きもあるが、その心意気や諒とすべきであろう。

 ところで、なぜ「緑滴る」のであろうか。むろん、枝豆だからということであろうが、それにしてもいささかオーバーな表現ではなかろうか。
 しかし、この「緑滴る」は外せないのだ。
 というのは、この言葉の中に、これを開発考案した学校名が示唆されているからである。

    

 「緑滴る金華山
  水清冽の長良川
  ・・・・・・」


 これは、その学校の校歌の出だしである。
 学校名は県立岐阜商業高等学校。
 (今話題になっている市立岐阜商業とは異なる)
 この学校の生徒たちが考案したのである。

 この校歌、既に100年近く前、当時の在校生が作詞したものだというから昔のガキ(あ、失礼、大先輩!)は言葉を、しかも漢語混じりのそれをよく知っていたといえる(「どこかの総理大臣とは違って」と敢えて入れるべきだろうか)。

 何を隠そう、私自身がこの高校の卒業生で、この校歌も入学早々実に丹念に教えられた。何か軍歌の教練のようで今ひとつのれなかったのだが、在校中に何度も聴いたり歌ったりしたため、卒業以来半世紀以上経過した今でも、3番まできっちり歌える。

 「商海の浪 荒くとも
  百折不撓(ふとう)のわが健児
  ・・・・・・・・・」


 上が3番の出だしである。商業高校らしい文言である。
 「健児」とあるのは発足時は男子校だったからだが、今では女子の方が多いくらいである。
 五年制だった頃の名残「五星霜」は「三星霜」に改められたが、この「健児」の部分は適当な語句がなかったのと、「児」は男女を問わないということで、今では女の子が堂々と「わ~が~健児」と歌っている。

 
        黄昏ゆく晩秋の金華山と長良川 先月撮影

 ということで「緑滴る枝豆うどん」の由来を述べた次第である。
 お前食べたか? その味は? という質問がおそらくあろう。

 もちろん食した。「可愛い後輩たちが作ったものだから美味いに決まっている」では多分、評価や返事にはならないだろう。
 具体的にいうと、適当にこしがあって、枝豆の風味もあり、それに見た目が薄いグリーンで美しかった。かけうどんにする場合には、この色合いを生かすために薄口醤油か白醤油など色のあまり濃くないつゆがふさわしいだろう。
 
 感傷下手なのだが、話の行きがかり上やはり、幼くも健気に顔を上げて前を見つめていた紅顔の美少年時代(え?「厚顔の愚少年」? うるさいっ!)が今さらのごとく甦ってきたようだ。 
 「緑滴る・・」か。


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赤い実と青い実、そして白も・・。

2008-12-28 00:15:59 | 写真とおしゃべり
 我が家に赤い実と青い実が揃いました。
 どちらも小粒で5ミリ前後しかありません。

 赤い方は私の部屋(二階)の窓の下にあるマサキ(柾)の実です。
 常緑樹の葉の間に点々と赤く散りばめられた実は視覚的にも楽しいのですが、もうひとつおまけがあります。

 

 この実をついばみに小鳥たちが訪れるのです。
 その頻度ではヒヨドリが多いのですが、地味で決して美しいとはいえないこの鳥も、よく見ると行動も鳴き声も多彩で、観察するには楽しいものがあります。

 
 
 運がよければメジロが現れるのですが、機会は少ないようです。
 モズもやってきすが、てっぺんが好きなこの鳥はもっと高いテレビのアンテナの辺りでさえずっていて、ここまでは降りてきません。
 あ、それからツグミも現れます。彼らの褐色の羽は綺麗です。
 キジバトも来ますが、これは半分、うちに居着いているようで、いつもつがいで現れます。

 青い実が出番を待っています。
 これは水盤の中に入れておいた吸水性のある岩に、私が植え付けた植物の実です。
 綺麗なブルーの実でしょう。

 
 
 セッコウジャノヒゲ(セッコウ蛇の鬚)という植物の実なのです。
 「蛇の髭」というのはこの植物の葉っぱの形状から来たのでしょう。もっとも蛇に髭があるというのはあまり聞いたことはありませんが、もしあったらこんな風に味も素っ気も乏しいものだろうと思うのです。
 実際のところ、これが花を付け実を結ぶとは思えないような、ただつんつんとした葉っぱなのです。

 念のため、ネットで図鑑を確認すると、別名、セッコウリュウノヒゲ(セッコウ龍の髭)ともいうそうです。それなら納得ですね。ついでにこの綺麗な球状の実、色こそ違え龍がもっているあの玉を連想させます。

 

 地上にはこの青い実、そしてその頭上にはマサキの赤い実、なんだか少し楽しい感じがします。年の割に幼いですね。
 え?歳をとると童心に帰るもんだ? アッ、ソウ。
 童心といえばこんな童謡がありましたね。

「赤い鳥小鳥」
 北原白秋作詞・成田為三作曲

 赤い鳥 小鳥 なぜなぜ赤い 赤い実を食べた

 白い鳥 小鳥 なぜなぜ白い 白い実を食べた

 青い鳥 小鳥 なぜなぜ青い 青い実を食べた

    

 我が家にはじつは白い実もあるのです。白南天の実です。
 これで赤・白・青と揃うのですが残念ながら白南天は既に実が落ちていました。
 実が落ちた後でも凜とした穂先は格好いいですよね。

 


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自由! されどペットのように・・。

2008-12-26 03:47:30 | よしなしごと
 私は犬や猫の写真はあまり載せたことがありません。
 ひとつにはそれらを飼ってはいないということもありますが、仰々しくそれらを載せたりするのは孫自慢と同様、何か気恥ずかしくはないかと思ってしまうのです。

 もっとも、私の親しい人には、飼っている猫の名前で日記を書いている人(都合のいいときは自分が出てきます)や、年賀状の差出人は飼っている犬(柴犬3匹)で自分は同居人という人がいます。
 
 まあ、これらは「吾輩は猫である」のパロディとして笑って付き合えるのですが、つい最近のペットの恨みで厚労省幹部を殺傷するまでになると恐いものがあります。もっとも彼の場合は、ペットへの弔い合戦といわれている動機の中にもっと複雑な、例えば精神病理的なものが潜んでいるのだろうとは思うのですが。

 
            おっさん、ニャにか用かい?

 いずれにしても、ペットへの過剰な偏愛はある種の原理主義に似て不気味なものもあります。例えば、現実の世界で疎外されている分をほとんど自分の支配下にあるペットに寄託して解消しようとするのは一般的ですが、それが嵩じるとそれが他者への攻撃の拠点になったりもするようです。

 このように書いたからといって、犬や猫が嫌いなわけではありません。
 ただし、人の管理や寵愛から離れて、自然体でいる彼らが好きです。
 というわけで、犬は絶望的です。
 なぜなら彼らは社会と飼い主に徹底的に管理され、その辺で自然体でいることがもはや許されていないからです。

 
       あっちへ行って欲しいニャァ、隠れん坊してるんだから

 私の子供の頃は犬は自由でした。野良犬はもちろん、飼い犬さえもその辺をほっつき歩いていました。私が小学生の頃(ああ、60年も前だ)、夕食時になると必ず我が家へ現れる犬がいました。私の家より遙かに裕福な家に飼われていたチャメという名の犬でしたが、それを亡父がとても気に入って、食糧事情厳しい中、何かと餌になりそうなものを与えるものですから、母がたしなめしばしば喧嘩になることさえありました。

 しかし現在、犬は完全に幽閉され、繋がれるという動物としての自由な振る舞いを禁じられることによってかろうじて生存を許されているのです。

 
        ゴミあさってるんじゃニャァ ここ陽当たりがいいの    

 最近の犬は遠吠えをしないと書いたことがあります。
 私が受験勉強をしていた頃、けっこう街中に住んでいたのですが、夜更けになるとあちこちで犬の遠吠えが聞こえました。するとそれに呼応するようにすぐ隣の犬が、「わおおおおおおおおおおおおおお~ん」と声を上げるのでした。

 もはや犬の遠吠えは文化遺産ものです。もう何年も聞いたことがありません。
 犬の遠吠えがなくなる歴史は、人がまた管理される歴史に比例しているという仮説を密かに抱いているのですが、立証する手だてをもちません。しかし、犬の自由の剥奪は人間のそれと比例しているのだろうとは思っています。

 そんなことで、犬の写真は撮りません。
 しかし、猫の写真はしばしば撮ります。
 ということは、猫たちもそのほとんどが幽閉されているのですが、犬に比べると自由の度合いは高く、外出の機会もあり、また野良の生存もまだあり得るからです。

 私が撮る猫の写真は、野外の自然の中でのそれに限られます。
 家の中では見せない野生の姿をした猫が好きです。

 
上記は、ペットを飼っている人たちへの非難ではありません。
 あくまでもペットたちが生きてゆく上での一般的な条件に関する考察です。







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別に廃屋マニアではないのですが・・。

2008-12-24 18:05:39 | 写真とおしゃべり
 暖かい冬の陽射しに誘われて、2、3箇所の所用に自転車を用いました。
 物好きの道草好きなので、あちこちで自転車を止めて写真を撮ったりして、なかなか所用が片付きません。
 その中で、印象に残った光景を載せてみましょう。

 

 廃屋の風景です。
 実はこの風景、前に日記で使ったのですが、それがたまたま私の誕生日で、古稀を迎えた日でした。
 ふらふらと行くうちに、そこをまた通りかかったのです。

 
       ほぼ同じアングルで3ヶ月ほど前に撮したもの
 
 わずか3ヶ月ほどの経過ですが、様相は一変しています。
 あれほど旺盛だった植物たちの活動は影をひそめ、廃屋のほとんどがむき出しになっています。
 前にはあまり目立たなかった柿の木が、まだ残っている果実共々、この廃屋にまさにフィットしている感があります。

    

 幾多の植物に付きまとわれてうんざりしているような前の風情より、今回の方がこころなしかカラッとしていて明るいように思います。
 さて、もう少し経って雪でも積もったらどんな表情を見せてくれるのでしょうか。
 物好きな私は、ひょっとしたら出かけるかも知れません。

 

 実は、私の近くにはもう一軒、廃屋があります。
 こちらの方も一度日記に取り上げました。
 <「故郷の廃家」と硫黄島>というタイトルでした。

 
          これは別の廃屋で3月に撮したもの

 別にこうした廃屋から何か教訓めいたことを引き出そうとは思いません。
 「盛者必滅」や「諸行無常」と引っかけたのではあまりにもデフォで面白くも何ともありません。

 にもかかわらず、こうした廃屋にどこか惹かれるのはなぜでしょう。
 答は簡単です。私自身が廃屋に限りなく近いからです。
 でも風雪に耐えてまだ崩壊はしていません。

<以前の日記>
 
コキッ・こきっ・気がつけば古稀。
http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20081026
「故郷の廃家」と硫黄島
http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20080313





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生ビールと竹べらの青春スケルツォ!

2008-12-22 04:41:41 | 想い出を掘り起こす
 若い人たちとの勉強会にかつての名古屋地裁・高裁(今は名古屋市市政資料館となっている)に出かけた。
 この建物自体にも想い出があるのだが、それはまた改めて触れよう。
 そこへの途中、名古屋城の外堀にかかる清水橋を通りかかった。
 ここにさしかかった途端、半世紀も前のたわいもない想い出がどっと溢れるように湧いてきた。

 
      夏の雑草がなくなった石垣は石そのものが露呈していて美しい
 
 名古屋城内にあった学生会館に、館生でもないのによくお世話になった(というより無断逗留状態)のだが、この会館には風呂がなかったため、この清水橋を渡り、明和高校と名古屋拘置所の辺りで北へ入る道路に入り、柳原通りの柳原温泉(という名の銭湯)へとよく通った。
 学生会館からは結構距離があり、冬などは帰りに湯冷めするほどであったが、周辺が官庁街のため最寄りの銭湯がここだったのだ(アッ、そうだ、大津橋にも銭湯があったが、何となくこの柳原温泉の方が性に合っていたんだ)。

 風呂帰りの楽しみもあった。
 同じ柳原通りに、確か「パン十」(?)という食堂があって、そこが夏には生ビールを商うのだ。といって、まともな生ビールが飲める身分でもなかった。
 そこで、風呂へ行く前にその店の女将に一声かけておくのだ。
 「おばちゃん、頼むよ」
 「よっしゃ」
 これで万事通じた。

 
       石垣の石ってこんなに色とりどりだったのかと驚く

 風呂から上がった帰途、先ほどのパン十に寄ると女将は生ビールを出してくれるのだが、これが水割り同様氷がプカプカ浮いていて、しかも泡が全くない代物であった。
 どうしてそんな仕儀になるかというと、以下のような仕掛けがあったのだ。

 当時の生ビールのサーバーはまだまだ原始的で、今のようにロスが少なく注ぐことがとても難しかった。そこでどうするかというと、ブクブク出過ぎた泡を竹べらで削ぎ、そこへ適量になるだけ注ぎ足すのだが、機械の調子が悪いとこれを何度も繰り返してやっと一杯の生ビールが出来上がるといった具合であった。

 ところで、竹べらで削がれた方の泡であるが、泡とはいえ元はれっきとしたビールである。それらは、ビールの注ぎ口の下に置かれたトレイに元の液体に戻って溜まることとなる。本来ならもはや売り物にならず完全なロスになる筈なのだが、それにもちゃんとした需要があったのである。
 そのロスをロスたらしめないのが、今でいうところの地球に優しい(?)私たちであった。

    
     清水橋の下のお堀跡 かつては瀬戸へ行く電車が走っていた

 女将は私たちが風呂から出てくると、そのトレイに溜まって生ぬるくなったものに氷を入れて、「あいよ」といって渡してくれるのだった。
 その一滴々々が風呂上がりの喉元にしみこんで実にうまかった。一滴々々と書いたが決して誇張ではない。ビールをゴクリゴクリと飲み干すなんて大それたことはとても出来る筈もなく、まさに、一滴々々というほどチビリチビリと氷が溶けるまで楽しむのだった。
 
 もちろんタダではないが、格安であった。憶えてはいないが、おそらく定価の1、2割といったところではなかっただろうか。氷を入れてくれるのだし、それに足りないときは普通のビールを注ぎ足してもくれた。
 冬などに、バイトで金が入ったときなどは大いばりで、「おばちゃん、今日は熱燗だぞ」とふんぞり返った。
 アルミの燗つけ器から、コップに山なりに注いでくれたそれを、一滴もこぼすまいと口の方から出迎えに行くのだが、時折、テーブルにこぼれたりすると、それに口を付けて啜った。

 
     この辺りは東行きと西行きの道路の車線がやや離れている
 
 しかし、贅沢に慣れていなかったせいで、ふんぞり返った割には肴はおでんの出来るだけ安そうな具を二品も注文するのがせいぜいであった。
 酔いが足りないときには学生会館まで走って帰った。そうすると血行がよくなって、全身に酔いが回るのだ(と信じていた)。

 
    道路に挟まれた島のような緑地に寒椿が今を盛んと咲き誇っていた

 清水橋を取り巻く風景は随分変ったが、橋そのものや、その近くの石垣には往時の風情が残っている。
 それらが、「あん時のガキが、いいジジイになりやがって」と笑っているようだった。
 「ああ、ジジイになったさ。生ビールだって今はゴクリゴクリ飲めるんだぞ。そりゃぁ、あの頃の味にはとてもかなわないけどな」
 清水橋の上にしばし佇んでいると、こころなしか師走の風も暖かく感じられるのであった。




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病院の窓辺 その向こうとこちら

2008-12-19 16:50:20 | 写真とおしゃべり
 病院の窓辺にはいろんな物が置いてある。
 病室内のそれはお見舞いであったり、患者さんがつれづれに作ったり飾ったりするもので、いわば私物であるが、廊下の窓辺に置かれていたりするのはそうではなく、公に目に付くようになっている。

 
     これらの花は大きすぎて病室の枕元には置けないのかも知れない
 
 これらも、もともとはお見舞いであったり患者さんの作品であったりしたのだろう。
 それぞれの願いや祈りなどの思いがこもっているともいえる。
 それらが今、廊下の突き当たりなどの窓辺に置かれている。

 
           可愛いぬいぐるみと精巧な折り紙

 どんな経緯なのだろう。
 その持ち主だった患者さんが無事治癒して退院したのだろうか。
 だとすればそれは、今なお入院している人たちへの励ましの遺留品といえる。

    
           病室から岐阜の中心地方面を

 しかし、そうでなくて所有者がいなくなったとしたら・・。
 それを病院はやはり窓辺に飾るのだろうか?
 いろいろ考えてしまう。

    
      これはスタッフの作か 各病室の入り口に飾られている

 冬にしては好天で暖かな陽射しに映える町並みが窓の外に広がっている。
 この窓を挟んでの内外の世界は、随分違うようだ。
 


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「津軽海峡」ではない「冬景色」

2008-12-17 17:39:56 | 写真とおしゃべり
 12月も半ばだというのに暖かい日が続いている。
 おかげで、陽のある間は自転車を駆ってあちこちへ行くことが出来る。
 前にも述べたが、車とは目線が違うので、風景が堪能できる。
 おまけに、好きなところで止めて写真など撮れる。

    

 冬は灰色に比喩されたりするが、決してそうではない。
 冬には冬の色彩があり、しかもそれは、春の華やぎや夏の強烈さ、秋の少し取り澄ましたものとも違った、どこか懐かしくも優しい色彩なのだ。
 それは多分、陽射しが傾いていてそれ自身からくる柔らかさのゆえだろう。いってみれば、冬の陽射しそのものが既にしてある種のフィルターの作用をし、その中に様々な風景を浮かび上がらせるのだ。
 その意味では風景はそこにある「もの」ではない。
 そのものを包み込む幾多のファクターの集合としてそれらは私たちに受容される。

    
 
 加えて、受容するこちら側のまなざしが作用する。
 そのものとの関わりの歴史、そこから得られる連想や追憶の諸断片、それらが一体となって私の中に特定の風景を醸し出す。
 いわば、私の中にもフィルターがあって、しかもそのフィルターはまことにもって気ままで、どんなに大きく光り輝いていてもそれを撥ねつけてしまったり、あるいはどんなにささやかで目だとなくとも鮮明な像を結ぶこともある。

 

 私たち一人一人に、風景がそのようなものとして与えられているいるとしたら、少しへそ曲がりないい方をするならば、あなたと私は同じ場所で同じアングルに向かい合っていても、同じ風景を見ることは出来ない。
 むろん、相互にその受容したものを表現し合い、受け止め合うことによって想像上での接近は可能である。しかしそれは「接近」の範囲に止まる。どこまで接近が可能かは、表現する側と受容する側との相互の関係によって決められるのだろう。

    

 いくぶん飛躍するが、世界もまたそのようなものとして私たちに与えられていて、しかもその世界は私たちに直接間接に作用するのだから、風景以上にそれを巡る対話や摺り合わせが必要なのだろう。
 これについて書こうとしたが、既にして充分脱線しているのでひとまずここらで打ち切る。

  本当はこれに続けて、倍ぐらいのものを書いたのだが・・。
  これを書き始めたのは昨日だったが、今日は雨もぱらつき寒かった。


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【続報】翌日の大石内蔵助@泉岳寺

2008-12-15 15:44:19 | 歴史を考える
 あ、もしもし。こちらは大石です。
 只今、高輪の泉岳寺に落ち着いています。
 昨夜はお騒がせして申しわけありませんでした。
 ええ、負傷者は若干いますが深手はないようです。

  
            四十七士の墓 泉岳寺

 は?なんですか?
 深夜に人の屋敷に卑怯にも夜襲をかけて老人を殺害するなんてけしからんということですか?
 それはですね、幕府の片手落ちなお裁きがあってですね・・。
 
 は?それなら世論を喚起するとか他に方法があっただろうっておっしゃるんですか?
 でもですね、わがご主君の無念を思うと・・。

 え?それは単なる私恨だろう、主君ったって、短慮な馬鹿殿が公式の場で武器を持って暴れたのだから処分は当然だとおっしゃるのですか?
 そんなことおっしゃったら、私たちの立場はどうなるのですか?

         
        地元では名君と讃えられる吉良上野介像

 は?馬鹿殿に殉じるというつまらない感傷に浸った暴力集団に過ぎないとおっしゃるのですか?
 その上、あわよくば罪を許されて、やれ義士だ、忠臣だということで他藩のお召し抱えを狙ったのではないかですって?
 それはあんまりですよ。

 え?じゃあ、理不尽に殺された吉良上野介や家臣たちはどうなるかですか?
 それはその・・。
 彼らがまた敵討ちをしたら無限のスパイラルだとおっしゃるのですか?
 それはそうなんですが・・。

 は?テロルの応酬ですって?私には難しいことは分かりませんのです。




 

 
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