六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

遺伝子の悪戯と六の時事川柳 07.4.29

2007-04-29 16:06:08 | 川柳日記
 庭のつつじが咲きそろいました。
 真っ白なつつじです。

 
 
 しかし、赤いものがちらりと。

 
 
 そうです。去年も書きましたが、ひと枝だけ、赤い花が咲くのです。
 ひと枝の、しかも三輪の花のみがそうなのです。

 
 「に交わればくなる」といいますが、これは、「白に交わっても赤いまま」という例です。

 
 
 この孤高の赤が好きです。


<今週の川柳もどき> 07.4.29

 恐る恐るファーストネーム呼んでみる
   (総理、会談後「ジョージ」だって)
 
 美しい国がエステも規制する
   (エステに認証制度導入?)

 コマーシャル不払い分で流してる
   (保険業界)

 国民が困れば商社大儲け
   (資源高で最高収益)
 
 メーデーという言葉だけ残ってる
   (羊の行進)

 渋滞のニュースふて寝に心地よい
   (ホラ見ろ!





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歌人・坂口 弘のこと

2007-04-28 17:40:53 | よしなしごと
 ネットでの知り合いが、その日記で、死刑囚として既に刑を執行されてしまった、島 秋人という人の残した歌集『遺愛集』の紹介をしていた。それに触発されて、「朝日歌壇」によく登場するアメリカのカルフォルニで終身刑で獄中にいる郷 隼人という人のことを書いたところ、別の方から、やはり「朝日歌壇」によく登場する坂口 弘という人について質問があった。

 知りうる範囲でそれに答えたのであったが、それを転載して、今日の日記とする。

 
 
 坂口 弘は、70年安保闘争以来先鋭化し武力闘争化した党派、いわゆる「連合赤軍」の幹部で、1972年の、「あさま山荘事件」で最後まで立てこもり、警官隊と銃撃戦を交えた後、逮捕されました。
 
 その後、1977年に、海外組の日本赤軍が、日航機をハイジャックし、獄中の政治犯との人質交換を迫った際(いわゆる「ダッカ事件」)、坂口はその対象にされながら、「もはや武力闘争の時期ではない」とそれを拒否しました。

 約20年間にわたる裁判の結果、1993年に最高裁で死刑が確定しています。

   
 森 恒夫(1973年元日に獄中にて自殺)、永田洋子(死刑確定するも、重い脳腫瘍で記憶も喪失したまま獄中にて闘病中)に次いで、連合赤軍ではNo.3の地位にいたものの、森や永田が仲間のリンチ殺人事件などで規律に厳しく冷淡だったのに対し、彼自身は幾分ソフトでその点を厳しく批判されており、そのせいで、次ぎにリンチされるのは自分だと思っていたとどこかに書いています。

 そんなある種の感受性が、後年、獄中での短歌作品となって結実したのかも知れません。

   
 
 私は、率直に言って彼や彼らを正当化する言葉を持ってはいません。
 しかし、彼らがその闘争に参加した最初の一歩は、この社会の矛盾や格差をなくしたい、戦争や侵略のない世界を作りたいということだったと思います。
 
 その志は諒とすべきでしょう。
 にもかかわらず、なぜそれが、その反対物としての殺戮や暴力に転じてしまったのでしょう。
 ここに私たちが(というより私自身が)思考すべき課題があるように思います。

 この問題は、かつてのソ連並びにその影響下にあった党に見られたいわゆるスターリニズムから、あるいは幾分カリカチュライズされているとはいえ、オウム真理教事件にも関わるものです(そういえば、坂口は、オウムの被告たちにその誤りを自ら正すべく書簡を送っています)。

   
 現在は、そうした事件の反動として、悪しき相対主義や、あるいは、正義だ、真理だなどと騒ぐこと自体が誤りであり、この生産と消費のシステムに乗っかってさえいればいいのだというある種のニヒリズムが全てを覆い尽くしているように思います。

 しかし、その生産と消費のシステムそのものが、今日大きな亀裂を内包しているのであり、そんな中にあってこそ、かつての歴史的経験を真摯に思考の対象として考え続けることがいっそう必要なように思います。
 私一身に関して言えば、その課題を担い続ける力量も思考能力もないのですが、少なくとも、それから視線を反らすことなく居続けたいとは思っています。

 
 坂口 弘の歌につき、手許で拾ったもののうちから何首かを掲載します。

  窓壊し散弾銃を突きいでし写真の吾はわれにてありたり

  わが房の軒に止まりて啼く蝉は吾に代りて泣きいる如し
 
  そこのみが時間の澱みあるごとし通路のはての格子戸のきわ
 
  叶ふなら絞首は否む広場での銃殺刑をむしろ願はむ

  点検の前に必ず手で壁を三たびうたねば不安な男

  退職の日に房に来て握手せし看守の面影忘れんものか

  雨の夜はわが身を外にさらし出し心ゆくまでうたれんと思う

  面会に臆さず君の唄いたるソプラノ低き「平城山」の歌

  打続く鼓動を指に聴きし人の命の重み思い知られて

  あと十年生きるは無理という母をわれの余命と比べ見詰めつ

  運あらば五十路を過ぎて逢うべしと下獄の友へありえぬ手紙

  爪を剥ぎ火傷をつくりてわが罪の痛みに耐うるは自虐なりしか

  リンチ死を敗北死なりと偽りて堕ちゆくを知る全身に知る



*なお、参考までに、冒頭で触れた郷 隼人の歌も掲載します。

  一瞬に人を殺めし罪の手と うた詠むペンをもつ手は同じ

  限りなく殺風景な独房に林檎一個の華やかな美

  夜が来て夜が明けてまた夜が来て囚徒ら黙す時雨の夜は

  あの山の向こうに太平洋がある夕日の彼方に日本がある

  七百万一斉に定年向かうとう我にはそれがなきもさみしき

 <郷 隼人さんのこと>この人についてはよく分からないのですが、名前(ペンネーム)からして鹿児島県出身の人で、殺人罪で終身刑の判決を受け、現在カルフォルニアの刑務所で服役中のようです。  
 どんな経緯で殺人に至ったかは全く分かりませんが、1984年以来、23年の獄中生活です。
 朝日歌壇への入選はしばしばで、氏の根強いファンもいるようです。
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早口言葉ではないのですが・・。

2007-04-25 14:49:52 | フォトエッセイ
 一昨日の日記は私にとってはとても有益であった
 休耕田にはレンゲが生えているにもかかわらず、現役の田圃にはレンゲが生えていないという私の発見と謎解きに、その道の専門的な知識を持った人が適切な補足をしてくれたのだ。
 やや長文であるが引用する。

 「レンゲを肥料としない理由にもう一つ<こしひかり>の普及があります。昔は5月にレンゲを鋤込み6月に田植えをする農林○号という品種が作られていました。今は食味を優先するということで沢山コシヒカリが作られていますが、この品種、もともと田圃にある分も含め田植え前に入れる窒素分肥料の量を正確に管理しなければいけない品種なんです。さもなくば収穫前に倒れてしまい品質の低下と大幅収量減となってしまう。。。レンゲによって春作られる窒素肥料分がその年どれだけあるか全くわからないので田植え前にどれだけ肥料を入れたら良いが分からないということで恐くてコシヒカリ作る田圃にレンゲなど蒔けないという訳です。また田植えの時期も4月中旬~5月初旬(中旬も可かな?)ということでレンゲを鋤込んでも肥料化する時間的余裕もなく水を入れて代掻きしなくてはいけなくなる。。。こうなるとレンゲも肥料どころか田植えにじゃまな単なる雑草に成り下がってしまう。
コシヒカリばかりを喜んで食べている我々もレンゲによる循環農業を衰退させていることの片棒を担いでいるとうことも言えると思います。」 (カラーによる強調は六による)

  おかげで、現在の米作りの一端がさらに明らかになった。
 「レンゲ畑から世界が見える」というタイトルもあながちオーバーではなかったという次第だ。

 
 
 花の話題が続いたのでさらに続ける。
 この花、どこの道ばたにでも咲いている雑草の一種だ。
 見慣れてはいるが名前は知らない(ご存知の方、例によって教えてちょうらいませませませ)。

 これがまた、わが家の片隅にいつの間にか侵入してきた。
 雑草である以上引っこ抜いて始末を付けるべきだろう。
 しかしである、こんなに可憐に咲かれてしまっては引っこ抜くには忍びないではないか。

 
 
 よくよく見ると、花の回りの薄紫が何とも言えない風情だ。
 だいたいが、雑草であるかそうでないかは、商品価値や希少性によって人間が恣意的に決めたものに過ぎない。
 だから、「雑草即抜く」と短絡するのはやめ、ひとまず、花の終わるまでは刑の執行を猶予することとした。

 
 
 早口言葉風にいえば、「可憐な花は、引き抜きにくい」だ。


                       
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レンゲ畑から世界が見える。

2007-04-23 17:38:52 | フォトエッセイ
 タイトルからして、「またまた六はオーバーな」と思うでしょう。
 そうかも知れません。しかし、レンゲ畑を見ていて、私たちがどんな世界に住まっているかがほの見えたような気がしたのです。
 まあ、読んでみてください。

 
 
 早かった春のせいでレンゲももう終わろうとしています。
 写真は、私の家の近くの田圃です。
 手前の方にはほぼ一面にレンゲが咲いていますね。
 ところが、向こうの方はほとんどレンゲがありません。

 これって、今年ばかりではなく毎年そうなんです。

 そこでない知恵を絞って考えました。なぜなんだろう。
 私の知っている限りの情報をフラッシュバックさせて、この二つの田圃の違いを考えてみました。
 そこで、ふと、この違いが分かったのです。

 
 
 この一方は毎年、稲作が行われていて、もう一方はずいぶん前から休耕田になっているのです。
 では、どちらが休耕田でしょうか?
 実は、手前のレンゲが咲いている方が休耕田なのです。

 なぜ春先になると田圃にレンゲが咲き誇るのか、あれは決して自生ではなくて、かつては、わざわざ種をまいてレンゲを咲かせたのでした。
 レンゲが終わる頃が田起こしの時期です。かくして根粒バクテリアを一杯含んだレンゲが田へと鋤込まれ、稲の肥料となったのでした。いわゆる循環式の有機農法ですね。

 しかし昨今、化学肥料の普及と共に、こんな面倒なことはする必要がなくなりました。
 だからレンゲを植える必要がないのです。

 一方、手前の休耕田は、ほとんど鋤込まないまま放置してあるために、何代にもわたって種子が継承され、しかも、農薬による除草からも免れて自生し続けているのではないかというのが私の推理です。

 
 
 もちろん、休耕田以外にもレンゲ畑はあります。観光目当てで、わざわざ種を撒くところもあると聞いています。
 とりわけ、岐阜の県花がレンゲであってみればなおさらそうです。
 にもかかわらず、レンゲを必要としない田圃がほとんどで、それらが虚しく広がっているのです。

 どうです、私たちの住んでいる世界との繋がりが見えるでしょう?
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「赤く咲く花・白い花」&六の時事川柳

2007-04-22 14:17:24 | 川柳日記
(このタイトル、島倉千代子のデビュー曲、「この世の花」の出だしであることが分かる人ってそんなにいないだろうな)
 
 昨日の土曜日は半日、県立図書館にこもりました。
 拳銃を持って立てこもったのではありません
 返済期限が来ているのに読み切れていなかったものを読むためと、他に幾分かの調べ事があったからです。

 長時間の読書や調べ事は、もともと容量の少ないハードディスクしか備えていない頭脳には負担です。
 すっかり疲れ切っていましたので、とりわけ酷使した眼を癒すべく、庭園を散歩しました。

 桜の後を追って咲き始めた花々が私を誘います。
 しかし、もともと曇り空だったのに加えて、迫り来る夕闇はあまり良い条件とは言えません。とりわけ、写真など撮ろうとする場合にはです。

 
 
 でも、強引に撮りました。
 白い花は、ハナミズキです。
 つい最近、その真っ赤な実を撮ったつもりでしたが、あれはもう昨秋のことだったのですね。

 庭園の隅で紅い花が私を招きます。
 近づくと、それは真っ赤なシャクナゲでした。
 出来るだけ自然光で撮りたかったのですが、夕闇は迫り、なおかつ光があまり射さない場所とあっては、フラッシュに頼らざるを得ません。

 
 
 おかげで、ご覧のようなみじめな写真となりました。
 とりわけ、これ程真っ赤なものは、真っ白な犬や、真っ黒な猫を撮るのと同様、とても難しいのです。

 というようなわけで、癒しの散歩のつもりが、一生懸命努力している自分を演じる結果となってしまったのです。
 なかなか、余裕を持って生きることが出来ない私なのでした。

 

<今週の川柳もどき> 07.4.22

 銃声が太平洋にコダマする
  (東西で発射事件相次ぐ)
 
 美しい国への道は力ずく
  (相次ぐ強行採決)
 
 この電気にも隠蔽が混じってる
  (発電所の不正相次ぐ)

 高野連火中の栗をわしづかみ
  (特待生本当になくせるの)

 無念だが紳士撤退やむを得ず
  (「紳士録」個人情報保護で発刊不能に)

 花筒は昔ながらのにする
  (墓地でステン製99本盗難)
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「本の虫」見参!

2007-04-19 23:05:12 | フォトエッセイ
 標題の「本の虫」は私のことではありません。
 私もしばしば本にとりついたりしますが、私の場合、せいぜい「本のダニ」または「本のウジ」(「ほんのうじ」と入力して変換したら「本能寺」と出た。ナルホド)ぐらいのところでしょうか。

 
       まるで1文字ずつ読むように
 
 ここに登場する「本の虫」君は、私が本を読んでいた折に遊びに来た虫君なのです。
 体長3ミリぐらいのこの虫君、私の本の上に突然現れました。最初は文字列に添って歩いていましたので、まるで一文字ずづ確かめて読んでいるようでした。

 
     ア、それじゃぁ逆。意味わかんないでしょう。     
 
 やがて、その動きがアトランダムになり、でたらめになってきました。が、本の上が気に入ったのか、ページの上を行ったり来たりで一向その場を去ろうとしません。
 よく観察すると、この虫君、テントウムシのミニチュアのようで、一丁前に羽を出して2~3センチ飛ぶのです。いつまでも遊んでいるわけには行きませんし、かといって殺生は嫌いなので、こんなんが一匹ぐらいいたってどうって事はないだろうと、ふ~っと息を吹きかけて追い払いました。

 
     私の落書きの上で。線は普通のボールペン

 かくして、虫君は、私の机の上に雑然と置かれたものの間へと消えていったのでした。
 これでまた、落ち着いて読書に専念できようというものです。

 ところがです、この虫君、よほど本のことが気に入ったのか、またまた、ページの上に帰ってきたのです。
 もう少し遊んでやることにしました。
 カメラを持ちだして撮影してやりました。
 虫君の進路に栞などを差し出し、その上にのっけてやりました。
 栞の上は狭くて嫌いなのかすぐ降りてしまいます。

 
        栞の上も面白いんじゃぁないかい
 

 ページとページの谷間へ降りて行ったときには慌てました。 
 下手に扱ったら虫君を潰してしまうからです
 大きくページを開いて、やはり息を吹きかけてそこから排除しました。

 そして今一度、栞の上に乗せ、そ~っと窓辺に運び、静かに外へと出してやりました。
 虫君のために開けた窓から、春の夜気がス~ッと室内へ流れ込んできました。

 こんなことが地球の片隅で起こっていることなどだあれも知らないんだろうなと思うと、何かシンシンとしたものが全身に沁みるのでした
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つつじ・木蓮・謎の花

2007-04-17 14:39:00 | よしなしごと
 またまた花の話題だが、この時期はそれが目立つからしょうがない。
 まあ、虫などを誘ってその生殖に奉仕させようという機能からして、やはり花は目立たなくては困るのだろうし、私のように何かに向かってまっしぐらに歩かない人間にとっては、格好の目の付け所になるのだ。

 出かける。岐阜駅南口の低く刈り込まれた小ぶりの花を付けるつつじの生け垣が、これでもかといった様子で真っ赤に咲き誇っている。

 
 
 その間隙から、若葉が健気に首を伸ばしているのだが、やがて花が終わった段階で、つつじ共々刈り込まれてしまうのだろうと思うと、少し可哀相な気がする。

 名古屋地下鉄高丘駅。
 地表にでると、木蓮の並木(あまり長くはない)が出迎えてくれる。ちょうど見頃である。

    

 紫の花は結構多いが、木蓮のそれは何か異質であるように思う。紫の色そのものが赤みがかった独自のものであるし、それが、花びらのもとの方から先へ向かってグラデュエイトして行く様は「紫の花」と一括し得ない風情を帯びる。
 やや逆光気味で、それが美しく撮れなかった。

 その日行われるある集まりへ向かう途中、ひときわ目立つ花に遭遇した。
 ピンクのチリ払いを思わせるその花は、さほど大きくはない灌木に、群がるように咲いていた

    

 花オンチの私にも、その形状からして、なんの花の仲間かはだいたい分かったが、むろん正確な名前は分からない。

 少し接近してみよう。

 
 
 さらに接近してみるとこんな具合だ。

 
 花の正確な名前は、あっけなく簡単に分かってしまった。
 その筈である。その花の根本付近に名前を書いたプレートがしっかり付いていたからだ。
 私が当初、推測した、「あの花の仲間だ」というのはその通りだった。

 で、いったい何の花かということだが、意地悪な私は敢えてそれを書かない
 いろいろ推測して頂きたい。花好きの方には簡単かも知れないし、そうでないひとにとっても、私が推測したように、「ああ、その仲間か」という事はお分かりになるのではないだろうか。

 答えは、後ほど、コメントの中で

 会を終えて、近くの寺を通りかかったら、直径5センチもありそうな大きな花を付けた桜が大半散り果て、ほとんど終わった状態で立っていた。
 写真をと思ったが、既に夕闇が忍び寄っていたのと、花自体も老残を像として留めたくはないだろうと考えてやめにした。

 灯りが次第に色濃くなる街中ではあったが、鼻孔一杯に大気を吸うと、さまざまな花のカクテルを思わせる春の夕べの香が沁みわたるのだった。

 春宵一刻値千金
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ど根性芝桜とカタバミと六の時事川柳

2007-04-15 11:32:41 | 川柳日記
 私がかわいがっている水盤の中の岩に、どこからか得体の知れぬ植物が寄生して、可憐な花を咲かせるのだが、その正体が不明で、みなさんに問い合わせたところ、芝桜だと判明したのは昨年のことであった。

       
       (さらにいろいろな植物が芽生えるはず)

 この界隈に芝桜などなく、どこからやってきたのかはサッパリ分からず、私はそれに「ど根性芝桜」と命名した。
 今年も可憐な花を付けたのでみなさんに報告させて頂く。

 
      (こんな咲き方だから、まさか芝桜とは)
 
 もうひとつ、この黄色い花はカタバミであるが、よくご覧頂くと1センチ足らずの小さな花の中に、さらに小さな蜂がいるのがお分かりになると思う。私と蜂は相性がよくて、花の写真を撮っているとよく蜂がより添ってくる。
 六と八、永六輔と故中村八代のコンビのようだ。

        
      (真ん中の花に小さな蜂が・・)

 ところでお立ち会い、カタバミを調べていたら、漢字の表記で「片食み」というのに出くわした。
 これが分からない。「片食む」のか、それとも「片食ま」れるのか、そしてその場合の「片」とはなんなんなのかとんと分からない。
 ご存知の方、六の冥土のみやげに是非ともご教示を!


<今週の川柳もどき> 07.4.15

 憲法をマルバツの座へ引き据える
  (国民投票案)

 薄氷がまだ覆ってる日本海
  (温首相氷を溶かすと来日)

 要りそうだ不払いに備えた保険
  (生保各社で不払い)

 水のみでなく安全な牛肉を
  (対米交渉窓口はあの松岡大臣

 ホテルぶら下げて飛ぶには重すぎる
  (全日空ホテルを売却)

 園遊会よりオフ会が楽しそう
  (いずれにしても招待されない)

 日本人だけがプレイの大リーグ
  (それしか報道しない)
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北上の春?と高校野球

2007-04-13 17:15:02 | 社会評論
 いや~、驚いた。
 朝刊の記事である。
 
 専大北上高校が野球部の複数の選手を特待生扱いにしていたのに対し、高野連が学生野球憲章違反として除名相当の処分にするというのだ。
 
 残念ながら、そうした事実があったことに、或いは、そんな事はあっていいはずはないということで驚くほど私は純情ではない。
 その逆である。何を今さら、ということである。
 専大北上に限らず、全国津々浦々の甲子園常連私学で、とりわけ近年名を挙げてきた高校で同様のことが行われてきたことは世間一般の常識ではないか。

 有名監督を採る。その監督のかつての弟子筋が全国で少年野球の監督をしていたりして、彼らがスカウト的な役割を果たし、野球の上手い子をその高校へ送り込む。その子や両親に対しては、学校側からそれ相当の見返りが保証される
 そんなシステムが、リトルリーグから既に厳然として出来上がっているのは国民の常識である。

     
 
 高校野球は今や完全にビジネスの分野である。
 私が若い頃のように、「あのセカンドを守っているのは、三丁目の八百屋の子だ」という時代ではないのだ。

 私の郷土、岐阜の日大大垣が選抜で準優勝を果たした。
 しかし、私は自分の日記などでも全く触れなかった。
 それは、あそこでも同様なことが行われたに違いないからだ。
 愛知の東邦高校で名監督といわれた坂口監督を採る。それにつれて坂口門下の少年野球の指導者などが反応し、日大大垣へと選手を送り込む。
 
 その図式が透けて見えるのだ
 それが証拠に、主力で岐阜県出身以外の選手が目立つ。
 (もっともこれまで、岐阜の野球少年が愛知の有名私学にかっさらわれてきた歴史を考えれば,それを取り戻したとも言えるのだが)

 甲子園出場校のうちで、公立高校の比率が年々低下しつつあるのは誰しも認めることであろう。
 そのうちになくなるかもしれない。
 私の友人に、岐阜県の高野連の関係者が居る。
 ある時、飲み屋での与太話に私がこんな提案をした。
 「甲子園大会を、私学と公立に分ける。そしてその優勝校同士で決勝戦を行うというのはどうだ」
 驚いたことに、それを聞いた彼は極めて真面目に耳を傾け、
 「それもひとつの方法だな」
 といったのだ。
 事態は既に、ここまで来ているのだ

  
 
 そして、ここからが肝心なところであるが、この事態を招いたのは、専大北上が除名処分に相当するなどとほざいている他ならぬ、高野連そのものなのだ。
 私が上に書いたようなことは誰しも感じ、いわば国民的常識なのだが、それを今日に至るまで放置したのが高野連ではないか。
 今回の事態は、プロ側からの不正な働きかけとの関連で明るみに出たのだが、高野連がそれを知らなかったり、陰に陽に特待生扱いが幾つかの学校で行われている事に気付いていなかったはずはないのだ

 もし、高野連が専大北上を除名処分にするならば、そしてそれを他校にも厳格に適用するとしたら、どれほどの有名校が生き残ることができるのか、そして高野連はそこまで腹をくくって追求するつもりがあるのか
 専大北上のみをスケープ・ゴートにして事態を収拾する事は許されない。
 それでは専大北上の選手たちがいかにも可哀相ではないか。

 高野連の仕事は、自分たちの怠慢が招いた事態を、選手たちへの処罰として糊塗するのではなく、高校野球というスポーツをビジネスの世界からなにがしか(完全には無理としても)取り戻すことである。
 そして、高野連自身がそうしたビジネスのマネージメントとしてしか機能してこなかったことを自覚し、解体的な出直しをはかることである。

 そうでなければ、私たちの眼には、グラウンドでプレイする選手たちの姿と、札束が投げたり打ったりする姿とがオーバーラップして、本当に野球を楽しむことが出来ないのだ。

 
 
 以上の記述は、実際にグラウンドで汗を流している選手に対する非難や名誉毀損を一切含むものではない。  
 また、少子化の中で私学が宣伝部門としてスポーツを用いざるをえないという事情を、全く理解しないわけでもない。
 しかし、スポーツの前提としての公正の原則が著しく犯されることがないような限度は明確にすべきだと思う。

 これらを全くかえりみず放置してきた高野連が、「はからずも」明るみに出た事態を、一部選手などの尻尾切りによって切り抜けようとする姑息さに終始するならば、まさに罰せらるべきは高野連そのものというべきである。

この件に関しては、「朝日」や「毎日」は全面批判は展開しないだろう。甲子園大会の関連で、高野連とつるんでいるからだ
 他のマスコミが頑張って欲しいものだ。

*写真はイメージによるもので、本文とは関係ありません。
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花筏と「美しさへの義務」

2007-04-11 17:50:17 | よしなしごと
 散った桜が水辺に群をなして漂うのを花筏と言う。なかなか乙な言葉である。
 桜前線は東北まで北上したそうだが、既に通過して久しいところでは、この現象が始まっている。
 前に紹介した、私の家の近くにあるほとんど名もない「My桜並木」でも、写真のようにというか、絨毯というか、びっしりの花たちが水面を覆い、最後の美を演出している。

  
 
 私は、この花筏という言葉の初出のようなものは寡聞にして知らないが、これを最初に使った人は素晴らしいと思う。あの現象からの筏の連想、花という言葉との連結、それによってそれぞれの言葉が当初持っていた以上の意味の余剰のようなものが創出される。
 日本語というラングが、またひとつ豊かに、美しくなった瞬間である。

  
 
 美しいといえば、この国を「美しい国」にしようとする人たちのことを、敬意を持って想起せざるをえない。 
 水道光熱費を年間500万円(数年で2,000万円以上)使用し、美しい水を摂取しようとするその美的センスたるやまさに「美しい国」ならではの風情である。
 そして、一部の不心得者がそれを非難するに際して、総理になる際の論功行賞を忘れることなく、一貫してそれをかばい続ける安倍総理の悲愴ともいえる友情は、まさに美しさの極致として驚嘆に値する。

 この美しい行為に全く無理解な国民がいることは嘆かわしいことである。
 おかげで、政府や与党は、事務所経費に関し、50,000円以上の経費に限って領収書の添付を義務づけるという案を提出するという。
 
 これらは、折角、私どもに公開された美しい行為に、まさに「水を差す」ものである。
 50,000円以下は不問にするということは、その範囲内ではグレイゾーンを残すことであり、賢くて、美しさに敏感であられる議員さんたちが、それをお見逃しになるはずがない。実際にはその範囲を越えた経費を、細かく分散することによって、それ以内のものとし、もって折角の美しい行為が曖昧にされることは火を見るより明らかだからだ。
 
 むしろ、これらの提案は、そのようなあたらしい分割の手口の指南書にも読めるし、それは、水道代2,000万円というあの並はずれた美しさを私たち国民の美的鑑賞眼から覆い隠してしまうものでしかない。

 
 
 それらの美しさは、謙虚に押し隠すのではなく、むしろどんどん普及させ国民全般の美しさとして共有すべきではないだろうか。
 さしあたり、与党案を認めた上で、その美しさを、国会議員の方々のみのご負担にすることなく、私ども国民全体の義務として引き受けようというのが私の提案である。

 まず、税務申告においては、50,000円以下の経費の全てにわたって、領収書など添付することなく、したがってより大きな経費であろうが、50,000円以下としてそれを分散し、申告しない「義務」を私たちも負うべきであろう。

 ついでにそれらを所得税全般に適用しなければならない。一度の収入が50,000円以下の場合には非課税にするのだ。
 要するに給与所得者は、給与を分割し、50,000円以下にして何度も受け取ることとする。そうすればそれらに関する所得税を払わないという「美しい義務」を果たすことが出来る。

 かくして「美しい国」の公平な論理は、私たち国民の神聖な義務として隅々まで浸透し、国会議員の先生方にのみ、美しさの義務を課するという不公平は是正される。
 
 また、訳の分からない詩的な台詞を「もごもご」と口籠もるあの大臣の美しい言動を、私たちもまた共有することができ、もって「美しい国」のいっそうの美しさに磨きを掛けることが出来るのではあるまいか。
 

ATTENTION!> 浄水器の過剰使用、とりわけ2,000万円以上を使った浄水を飲用したりした場合においては、副作用として「腹が黒くなる」ことがありますので注意しましょう。
 この場合は、「水道水」の摂取によって中和されることがありますので、医師の指示に従い、適切な水分摂取をされるようおすすめします。
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