自作弁当の久々の公表。おかずは上から、白カブあっさり煮、ついで削った皮を上にしたためわかりにくいがカボチャ煮付け、赤ウィンナー、鶏もも肉ソティ、卵焼き。ご飯は、岐阜県産米ハツシモ。自己採点、81.6点。ちょっと甘いか?
前のものが壊れそうになったからだ。プラスチックは太陽光のもとでは劣化して壊れやすい。というのは前のものも、私が百均のプラスチックの箱を細工して作ったものだった。5,6年はもったろうか。実は今回のもので三代目に当たる。
今回のものも百均でA4用紙用のプラスチックトレイ二枚と幅広の黒の粘着テープの都合300円で作った。色が黒しかなかったので、写真では見にくいであろう。
大きさは、高さ32cm、幅26cm、奥行き、つまりものを出し入れする間口の幅は8cmである。
この左上に、レターパックが入るような幅18cmぐらいの普通郵便受けがあるのだが、それ以上の大きさ、ないしは厚みのあるもの用なのだ。
郵便局はこれをきちんと守ってくれる。チラシ入れなどは、これを守ってくれるのとくれないのがいる。後者については、それが何であるかを問わず目を通すことなくゴミにすることとしてる。
こちらが書いているものを読みもしないで自分の方のものを読ませようというのは太い了見だからだ。
さあ、これは何年もつかな?
これが壊れるのが早いか、私が逝くのが早いか、競争だなぁ。
ワルシャワ蜂起の痕跡を見ること・・・・これが今回のワルシャワ訪問のひとつの目的であった。この事件は、国際的にはともかく、ワルシャワ市民にとっては忘れ難いもので、今も八月一日の同時刻にはサイレンや鐘が鳴り、市民は黙祷に伏すという。
ワルシャワ蜂起記念碑会館 右側の大きな塑像は残念ながら修理中
1944年7月31日、敗走するドイツ軍を追ってきたソ連軍は、ワルシャワ中心地区のすぐ東を流れるヴィスワ東岸に到達してた。そして、そのソ連軍とワルシャワ市内のレジスタンスの間で、翌8月1日を期してソ連軍はワルシャワ市内に進行し、それに合わせて、ワルシャワのレジスタンスがドイツ軍に対しいっせいに蜂起するという約定が交わされた。
左側の塑像にて 残念ながら写っている女性は私とは関係のない人
手前兵士は地下へ潜るようなポーズ アンジェ・ワイダの『地下水道』を思わせる
それに従い、ワルシャワ市内で訳5万人の市民が蜂起した。とはいえ、武器を持つものは数人に一人であり、ドイツ軍の兵庫を急襲するなどして武装率を高めていった。こうしてレジスタンスはその急襲により優位に立つかに見えた。
ワルシャワ蜂起の説明ボードなど
しかしである、わずか数百mのヴィスワ川東岸のソ連軍は約定に反し、補給の不十分などを理由に全く動かなかったのだ。これをみたドイツ軍は、レジスタンス撃滅作戦に専念することができた。
ソ連軍の動きがないまま、レジスタンスは果敢に戦った。それでも2ヶ月後の10月はじめには、ドイツ正規軍には歯が立たないまま、降伏を余儀なくされた。
記念碑館前の庭園にて
この間、ワルシャワ市民の死者は18~25万人、街から追放された市民約70万人に達した。前回述べた旧市街が跡形もなく破壊されたのもこの時期であった。
なお、ソ連軍がヴィスワ川を渡り、ワルシャワを「解放」したのは翌45年の1月であった。
王宮裏の庭園 向こうの赤い橋がヴィスワ川にかかるもの
『灰とダイアモンド』の映画監督・アンジェ・ワイダのもう一本の映画『地下水道』は、ソ連軍の援助のないなか、地下水道を拠点に戦い続けるワルシャワ・レジスタンスを描いたもので、私は日本公開当時(1958年)に観ている。
その映画のシーンにも、地下水道のヴィスワ川に面した鉄格子越しに、対岸に来ているはずのソ連軍を待望する映像があったような気がする。
この向こう側にいながら蜂起軍を見捨てたソ連軍
今回のワルシャワ旅行ではその記念碑を訪れたほか、「ソ連軍はここまで来ていながらなぜ蜂起軍に呼応しなかったのか」というヴィスワ川を確認した。前回書いた、徹底して破壊された旧市街からはほんの何百mの距離であり、ワルシャワ市民の無念さが改めて理解できる気がした。
さらに南方で撮したヴィスワ川に掛かる橋
ポーランド=ワルシャワは、かねてより、西はドイツ、東はロシアという強国に挟まれてその運命を左右されてきた。しかし、それにもめげず、またそれに全面的に屈することなく、したたかに自己主張をしてきた。
それがあの誇り高き44年の蜂起であり、その折の全面破壊を完全に復興した「新」旧市街の実現であるように思った。
そういえばなんだか周りの風景も予想とは異なる。そこでやっとわかった。南下し続けていると思ったのは間違いで、私はひたすら東へ向かっていたのだ。
しかし、 間違えたとはいえまったくの無駄足ではなかった。というのはこちらもまた私の訪問リストに入っている箇所だったからだ。ポツダム広場を目指していた私はいわゆるベーベル広場へと向けってたわけだが、ここには貫禄充分なフリードリヒ大王の騎馬像があり、その周辺に貫禄ある歴史的建造物がひしめいていいる。
なおこの大王の晩年、彼は表敬訪問したバッハに一つの主題を与えそれによる曲を求めた。それに応じたバッハの曲が『音楽の捧げ物』(BWV 1079)で、この音楽はバッハのものではもっとも繊細な響きをもつもので、私の好きな曲である。
https://www.youtube.com/watch?v=lNsaR9ui6IU
おっと、先回りしすぎた。バッハはライプチヒで出会うはずなのだ。
ベーベル広場で記憶すべくは、ナチスの支配時代、彼らが不適切と断じたあらゆる書物がここで焼かれたということである。1933年、ナチスが権力をとるや、そのお先棒を担いだ学生たちにより、反ドイツ=反ナチス書物の焼却が図られ、国民啓蒙・宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスの演説のあと、ユダヤ人著者やユダヤ系の書物、ナチズム批判の書物、性的に不可とされたものなど、いわゆる退廃文化書物、合わせて25,000冊がここで焼かれたという。
そんな忌まわしい箇所ではあるが、私が 識別して撮影してきた建造物等を紹介しよう。まずは、貫禄豊かなフンボルト大学である。この大学について、 詳細に上ったつついたらキリがないからそれは各自の検索に任せるが、いかにも伝統を思わせるいでたちであることは間違いない。
ついでその反対側にある ベルリン国立会議場歌劇場の存在である。現在何を上演しているのかを確認することはできなかったが、その威容を映像にとらえることができた。
そのすぐ隣にある建造物も何やら歴史的な趣があるし、何かその前にステージを作りパフォーマンス会場を作るかのような感じがあったので 写真に撮ってきたが、これは公の建物ではなくホテル・デ・ローマと言う老舗のホテルであった。
いまひとつ、何かはよくわからなかったが、おそらく伝統的な建造物だろうと思ってカメラに収めたらそれは ドイツ歴史博物館であった。
この辺でウロウロしていたら、なんだか 一天にわかにかき乱れ、今にも降り出しそうな怪しげな天気になってきた。どうしよう。ここから見えるのだが、ベルリンテレビ塔というのがある。 要するにスカイツリーや、テレビ塔に類する建物である。そこへ行こうと思ったが、空模様がだんだん怪しくなってくる。そこで地下鉄へ飛び込んでテレビ塔最寄りの駅へ行くことにする。
到着して地上へ出てみると、激しい嵐のような雨降りである。 傘をさしても歩行が困難なほどである。そこで駅の構内に留まりしばらく様子を見ることにする。ヨーロッパの天候は変わりやすいのだろうか。あんなに激しかった雨がすーっと嘘のように上がって しまった。私のプランは、このタワーの展望台へと昇って、ベルリン全体の市街を見渡すことであった。
そこでタワーの入り口近くにいた管理人にどのようにしたら入場できるのかを尋ねる。すると彼は、もちろん入場は可能だが、今日は遠足による予約がたくさん入っているので、 それを優先するため、一般の入場者はかなりの時間待つ必要があるとのことであった。たしかに、遠足と思われる子どもたちで入口周辺は溢れている。
のんびり待っている時間的余裕はない。諦めて別の箇所へ向かった。
この間の経緯は何度も書いたので、またかと思われるかもしれない。しかし、その変貌はここ2、3年、本当に早いのだ。新しく建つ家屋も、機能本位の無国籍風が多く、その間を縫って歩く気も起こらない。最近、この近辺をうろつく機会もめっきり減ってしまった。
しかし、これでは足腰の衰えに対抗できないと、数日前、昔からあった集落の中を歩いてみた。結論をいうなら、ここでもがっかりさせれれることが多かった。
昔の農家の常として、槇の生け垣などに囲まれた屋敷内に、住居のほか、そこそこの畑をもっていて、そこでは自家消費用の様々な作物が小分けされた面積で栽培されていて、それを覗き込むのが楽しみだったのだが、いつの間には生け垣はなくなり、かつての畑にはコンクリートが敷き詰められ、貸駐車場になっていたりする。
また、どっしりした伝統的な日本家屋風の母屋が取り壊され、コンクリートの四角い塊りの家屋に化けていたりする。
そして、こうした昔からの集落の中や周辺に、廃屋化した建物が交じるのだ。
ここに載せるのは、二軒ほどだが、荒れ放題の生け垣の中で写真に撮れなかったところなどを含めると、この日、一つの集落の中のみで、数件のそれが確認された。
集落のはずれの、つい先ごろまで田んぼであったところに林立する住宅の新市街とは対象的な光景である。
次に載せているのは、私の家の二階から数十年にわたってウオッチングしてきた二反の田んぼの耕し手の屋敷内で、彼は数年前に急逝したため、今はもう使われなくなった農機具などがアトランダムに置かれている。
ここは私の家から離れてはいるが、ここから彼はそれらの農機具を運転したり、トラックに乗せて運んだりして私の家のすぐ近くの田へやってきていたのだった。
そしてその田は、今や埋め立てられて、コンビニとコインランドリーが華やかに営業していることは以前書いた。
彼の屋敷内に散在している農機具は、こうしてみてもいかにも古臭い。それは彼の死後、もう何年も経っているからではない。彼が生前使用していた折に、それはすでに古びていて、知り合いの農機具メーカーの人も、もうこんな機械使っている人は日本中探してもめったにいないと太鼓判を押していたほどなのだ。
そうしたエピソードも含めて、ひとり黙々と作業を進めてきた彼の人柄のようなものが偲ばれる光景である。
最後に、彼が健在で自分の田で作業をし、それを私が2階からウオッチングしていた頃の写真を載せておく。
1枚は夏の終わり、風になびく田のまさに穂波の様子。あとの2枚は刈り入れの様子。いずれも2010年代なかばのもの。
いまは24時間営業で終日灯りが絶えないコンビニやコインランドリーの箇所に、ほんの何年か前までこうしたのどかな田んぼが広がっていたことを知る人は少ない。
私のようにそれを知ってる者でも、かつての田園風景は記憶の底に押しやられがちで、それ自体が夢幻のように思えてしまうのだ。
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今日、葬儀に行ってきたのは高校(県立岐阜商業)の演劇部一年後輩の女性。 この写真は 当時の公演後のもので、着物にエプロン姿がその彼女。着物姿で髭をつけているのが私で、夫婦役であった。
学生服姿のものは後ろ左が彼女、前列左から二番目が私。
70年前のセピア色の青春。嗚呼!
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そして今年、その人の命日がこの8日だった。五月晴れの快適な日、思い立って、その菩提寺に参拝しようと思った。
というのは、同じ岐阜市でもほとんど南の外れに近いところに住んでいる私に対し、その寺院は、逆に岐阜市の北端にあり、濃尾平野の突き当りのような、もう山地に差し掛かるようなところにある風光明媚な古刹なのである。
岩井山延算寺がその古刹であるが、別にその近くに住んでいた訳ではなく、入る墓がなかったので、その広大な寺院の一隅にある永代供養納骨霊廟(納骨堂)をあらかじめ買っておいたようなのだ。
車を走らすこと約40分、その納骨堂の知覚に到着。大きな観音様の石像を中心に、納骨者たちの墓標が林立している。私の目指すものがどれか探しにかかったがとても埒が明かない。そこで控えてあった寺の電話番号を回し、出てきた女性に俗名を述べ、だいたいの位置を教えてほしいと乞う。すると女性は、今そちらへ行きますから少々お待ちくださいという。
礼を述べてその墓標の前にぬかづき参拝をする。持参した花は、共同の献花場所に納める。静かな山中の参拝はまた格別である。不幸な一面も背負った人だったが、その明るかった面のみが心に浮かぶ。それがいい。
改めて周辺を見回す。山の斜面に周囲の緑を活かして設えられたなかなかの風情である。桜の季節はとうに去ったが、周りの山地には品のいい薄紫の花を付けたヤマツツジが三々五々、咲き誇っている。
さほど広くはないが、よく手入れをされている。透明な池には色とりどりの鯉が遊泳し、その池と続く湿地には、あざやかで明るいカキツバタの紫が目を射る。その横の艶のある厚手の葉陰から覗いている黄色い花はコウボネだ。
もみじの花の赤もまた艶やかである。
この庭の一隅には、大正三美人(この言い方は今どきはルッキズムとして批判されるだろ)の一人といわれる柳原白蓮の歌碑がある。
この白蓮、2014年の朝ドラ『花子とアン』の主人公である村岡花子(「赤毛のアン」などの翻訳者)をモデルとした主人公花子(演じたのは今の大河ドラマで紫式部を演じている吉高由里子)の年上の友人蓮子(演じたのは仲間由紀恵)のモデルとなった人で、朝ドラの中にあった、炭鉱王の妻でありながら年下の文学青年と駆け落ちするというのもほぼ事実のようだ。
この白蓮さん、この岩井山がお気に入りで三度ほど訪れ逗留もしているが、この歌碑にある歌は、かなり後年の1952年の折、詠まれた歌で、そのせいもあって、現代仮名遣いで詠まれている。
「やまかげの清水にとえばいにしえの女のおもいかたりいずらく」
これは文字通り、山の清水に訊けば昔の女性の秘めた思いを語ってくれることだろうという意味だが、この歌にはさらに下敷きがあって、この「昔の女」というのが小野小町のことなのである。
なぜここに小野小町が登場するかというと、小野小町は疱瘡にかかった折、この岩井山延算寺に逗留し、境内の清水で患部を洗ったところ、それが治癒したという言い伝えが残っているからである。今も「小町滝」と名付けられた箇所がある。
なお、この歌が評価されるとしたら、皮膚病を治したいという望みにとどまらず、小野小町という女性の全実存そのものが伝わってくるようだということではなかろうか。それに重ねた自分自身の境遇も・・・・。
庭園に長居しすぎた。本堂や鐘楼の方へ行ってみる。やはり古刹ならではの風格がある。それが周りの山林を借景として、程よく収まっている。本堂には重文などの仏像があり、一般公開はしてるものの撮影は禁止で写真はない。
しばらく境内のアウラを味わった後、今度は正門から出て駐車場への山道を歩く。樹間から山里の風景が郷愁をそそる。
駐車場横の立派な孟宗の竹林中から、野鳥の囀る声がするので目を凝らすが何も見えない。私のほか誰もいない山中の空き地、急に寂寞感が襲ってくる。小野小町、白蓮さん、そしてこの地を自分の青山として選んだあの人のことなどがごっちゃになって山の霊気を生み出しているという幻想がよぎる。
しかし、次の瞬間、安全運転を心がける私の車は、つづら折れの山道を静かに下ってゆくのだった。
【おまけ】帰途、長良川付近で車中から撮した金華山麓のツブラジイの群落。その花の艶やかさから「金華山」と命名されたというのもむべなるかなだ。
この時期、新茶を贈ってくれるのは、三年前の今頃亡くなった姉の毎年の好意だったが、それを姪が引き継でいてくれているのだ。
この亡くなった姉と私の関係は特殊であった。私たちの実母は、私が生まれて一週間ほど後、いわゆる産後の肥立ちが良くなくて亡くなってしまった(その意味では私は母殺しの鬼子だ)。実父は女姉妹ばかりの家へ婿養子で入っていたのだが、「家を守る」という昔風の流儀で、実母の妹と再婚することになった。しかしその折、その妹は女学校を出たばかりの19歳、乳飲み子の私やその2歳上の姉をとても面倒見きれないとうことで、姉と私は親戚中をたらい回しにされた結果、別々のところへ里子に出されてしまったのだ。
以後、私が40歳を過ぎるまで、再会することはまったくなかった。ようするに、お互い80年以上を生きたのだが、その半分は消息すら知らないままだったのだ。
私は、そうした生き別れの姉がいることは知っていたが、良くしてくれた養父や養母に悪いと思い、私の旧家や姉のことを所詮は縁のなかった仲だと諦めて、探そうとはしなかった。しかし、姉の方は、いろいろな伝手を辿って私を探し当ててくれた。
それ以後の付き合いであるから、子供の頃も、それ以後も喧嘩などはしたこともなく、再開後も、旧家が「家」をリセットするためにお互い締め出された境遇ということもあって仲良くしてきた。多少の遠慮を含みながらの仲ということでそれも特殊であったかもしれない。
その姉が、住まいが静岡県ということで毎年、この時期に贈ってくれたのが八十八夜の新茶であった。それを今、姪が継承してくれているわけである。姉との繋がりが今も続いているという思いがして嬉しい限りである。
その喜びを率直に書いたお礼の手紙を書いた。
子供の頃、童謡の「花かげ」を聴くと、なぜか生き別れの姉のことを想い、胸キュンになったことを、いま懐かしく思い出している。
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■一面下段、書籍広告もそれらしいものを並べた。
■一面、トップ記事。
■これは途中の全面広告で、上が閣僚数、ついで最高裁官、そして上場企業の役員の比率。イラストではいずれも女性が多く意表を突くが、これの真逆が実態という皮肉な広告。
■その他、「天声人語」など、他の記事もそれを意識したものが多い。