

5日の夜、名鉄岐阜の前での女性の街頭ライブ。珍しく演歌。曲目は坂本直美のヒット曲「夜桜お七」。
この歌は歌詞が面白い。作詞者は林あまりさん。濃艶でエロチックな歌で知られている。
濡れ場を詠ったものでは、公にはとても紹介しかねるすごいものが何首もある。
林さんにしてはとてもおとなしいなと思う歌でも以下のようなものだ。
舌でなぞる形も味もあなたは知らない
わたしにはこんなになつかしいのに
うしろからじりじり入ってくる物の
正体不明の感覚たのしむ
右脚をしずかにひらかせ首にかけ
ピアニストの指芯に届きぬ
文脈は無視して犬のように仕える
振るべき尻尾などないままに
まず性器に手を伸ばされて
悲しみがひときわ濃くなる秋の夕暮れ
林あまり『ベッドサイド』(新潮社)
街頭ライブに戻ろう。それを聴いてからJR岐阜駅まで歩く。バスターミナルに囲まれた小公園の桜がライトアップされていた。改めて「夜桜お七」を思い起こした。
知ってる人は今さらと思うだろうが、「夜桜お七」を載っけておく。林あまりさんの歌詞を改めて聴いていてほしい。
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■31日、NHK総合午後10:00からの「映像の世紀 東ドイツの41年」、とても重い番組だが興味が尽きなかった。
■昨夏、ドイツを旅し、ベルリンでもどちらかというと東側を見て、また畏友K氏が住むライプチヒでは、東独崩壊の最後のひと押しになった大衆的デモの発祥地、聖ニコラウス教会(バッハのいた聖トーマス教会とは徒歩数分)のすぐ前のホテルに二泊したからである。
■ここで何十人かで始まった集会やデモが、やがて何十万人になり、東独各地に広がり、ついには東独41年の歴史にピリオドを打つこととなった。
■しかし、問題は現在にこそある。そうして西側に編入された東独だが、労働者の賃金は旧西側より20%ほど低い。しかも最近は流入する外国人労働者との職の奪い合いの中でしか生きて行けない。
■そんなことから、いま、旧東独地域では、排外主義的急進右翼政党が大幅に支持を広げ、旧東独地域に関していえば第一党ともいえる。
■彼らが、旧東独よりもと選んだ体制は、ネオリベ支配下で弱者は去れという冷酷な体制に堕していたのだ。
■これは、ウクライナ・ロシア戦争へのヨーロッパの立場にも共通する「ヨーロッパ中心主義」の問題かも知れない。
■東独では、西へ走ったことへの反省すら出ているという。
■世界はまた、20世紀末とは違う次元を迎えようとしてる。
*なお、私のライプチヒ二つの教会の記事はこちら。
https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20240805
自作弁当の久々の公表。おかずは上から、白カブあっさり煮、ついで削った皮を上にしたためわかりにくいがカボチャ煮付け、赤ウィンナー、鶏もも肉ソティ、卵焼き。ご飯は、岐阜県産米ハツシモ。自己採点、81.6点。ちょっと甘いか?
ワルシャワ蜂起の痕跡を見ること・・・・これが今回のワルシャワ訪問のひとつの目的であった。この事件は、国際的にはともかく、ワルシャワ市民にとっては忘れ難いもので、今も八月一日の同時刻にはサイレンや鐘が鳴り、市民は黙祷に伏すという。
ワルシャワ蜂起記念碑会館 右側の大きな塑像は残念ながら修理中
1944年7月31日、敗走するドイツ軍を追ってきたソ連軍は、ワルシャワ中心地区のすぐ東を流れるヴィスワ東岸に到達してた。そして、そのソ連軍とワルシャワ市内のレジスタンスの間で、翌8月1日を期してソ連軍はワルシャワ市内に進行し、それに合わせて、ワルシャワのレジスタンスがドイツ軍に対しいっせいに蜂起するという約定が交わされた。
左側の塑像にて 残念ながら写っている女性は私とは関係のない人
手前兵士は地下へ潜るようなポーズ アンジェ・ワイダの『地下水道』を思わせる
それに従い、ワルシャワ市内で訳5万人の市民が蜂起した。とはいえ、武器を持つものは数人に一人であり、ドイツ軍の兵庫を急襲するなどして武装率を高めていった。こうしてレジスタンスはその急襲により優位に立つかに見えた。
ワルシャワ蜂起の説明ボードなど
しかしである、わずか数百mのヴィスワ川東岸のソ連軍は約定に反し、補給の不十分などを理由に全く動かなかったのだ。これをみたドイツ軍は、レジスタンス撃滅作戦に専念することができた。
ソ連軍の動きがないまま、レジスタンスは果敢に戦った。それでも2ヶ月後の10月はじめには、ドイツ正規軍には歯が立たないまま、降伏を余儀なくされた。
記念碑館前の庭園にて
この間、ワルシャワ市民の死者は18~25万人、街から追放された市民約70万人に達した。前回述べた旧市街が跡形もなく破壊されたのもこの時期であった。
なお、ソ連軍がヴィスワ川を渡り、ワルシャワを「解放」したのは翌45年の1月であった。
王宮裏の庭園 向こうの赤い橋がヴィスワ川にかかるもの
『灰とダイアモンド』の映画監督・アンジェ・ワイダのもう一本の映画『地下水道』は、ソ連軍の援助のないなか、地下水道を拠点に戦い続けるワルシャワ・レジスタンスを描いたもので、私は日本公開当時(1958年)に観ている。
その映画のシーンにも、地下水道のヴィスワ川に面した鉄格子越しに、対岸に来ているはずのソ連軍を待望する映像があったような気がする。
この向こう側にいながら蜂起軍を見捨てたソ連軍
今回のワルシャワ旅行ではその記念碑を訪れたほか、「ソ連軍はここまで来ていながらなぜ蜂起軍に呼応しなかったのか」というヴィスワ川を確認した。前回書いた、徹底して破壊された旧市街からはほんの何百mの距離であり、ワルシャワ市民の無念さが改めて理解できる気がした。
さらに南方で撮したヴィスワ川に掛かる橋
ポーランド=ワルシャワは、かねてより、西はドイツ、東はロシアという強国に挟まれてその運命を左右されてきた。しかし、それにもめげず、またそれに全面的に屈することなく、したたかに自己主張をしてきた。
それがあの誇り高き44年の蜂起であり、その折の全面破壊を完全に復興した「新」旧市街の実現であるように思った。